「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスの若手エース、宮川三郎太の心は、いまだ深い霧の中にあった。
先日の団体対抗戦。大将戦という重責を担いながら、彼はジェニー・葛葉に必殺のノーザンライトスープレックスを破られてのピンフォール負けを喫した。自分を信じてバトンを繋いでくれた仲間たち、そして何より太平プロレスの看板に泥を塗ってしまったのではないかという自責の念が、鋭い棘となって彼の胸を刺し続けている。
「……僕に、若手のエースと呼ばれるに足る資格なんて本当にあったのか?」
敗北の瞬間から数日が経った今も、三郎太の耳には観客のどよめきがこびりつき、身体の奥にはあの衝撃が生々しく残っていた。練習中も熱が入らず、ぼんやりとただメニューをこなすだけ、スパーでベスが蹴り倒してもまだ火がつかない。そんなどん底の失意に沈む三郎太を見かねた団体経営陣が下した指示は、友好団体「オトギプロレスリング」のお祭り興行への出向だった。
「精神休養と毒抜き」――それが名目上の理由だが、今の三郎太にとっては、リングという戦場から一時的に逃されるような、そんな情けなさを伴う通達に感じられていた。それでも、命じられた以上は従うしかない。かすかに残るプロレスラーとしての矜持と、胸の奥に沈殿した敗北感。何より、あの無邪気なジェニーの言う「遊び」に自分の全力が及ばなかったという事実が、彼の中で虚無感となってせめぎあい、団体の指示に反発するための「不満の灯」すらともらない。雫ですら声をかけられないほどに、そして普段なら真っ先に茶化しに来る御子柴でさえ一切揶揄うことなく、ただ黙って出立を見送ったほどに――三郎太は傍目にも危ういほど沈み込んでいた。
オトギプロレスリングの興行会場となる施設内。その一室に呼び出された三郎太を待っていたのは、ダサいあずき色のジャージに身を包んだ姿でも隠しきれない威圧感を放つ女傑、エディ・ダンテスだった。
「揃ったな。今日の試合の主旨は渡した書面の通りだが……」
この団体の社長であり、現役のベルトホルダーでもある彼女は、三郎太の顔を見るなり、机の上に置いてあった「何か」を放り投げた。
「あ、そうそう。これがお前の被るマスクだ」
受け止めた三郎太は、思わず眉を寄せた。それは、どこか既視感のある桃のマークの入った鉢巻きの意匠をあしらったプロレスマスク──モモマスクのように見えるが、本物の「ザ・モモタロウ」が被っているそれと比べるとどこか安っぽい素材の、デザインだけを似せたマスクだった。とはいえ、最低限の耐久性は確保されており、実際の試合にも耐えうる作りではある。
「モモマスクにしては……なんかチープですが……」
「わざとだよ」
エディは不敵に笑い、三郎太の疑念をあっさりと肯定した。
「今回の試合でお前が名乗るモモタロウFの『F』はフェイク(偽物)とフレッシュ(新鮮)のダブルミーニングになってる。はっきりニセモノだと明示しているし、観客も承知の上だ。まぁ、それで本物が怒って乗り込んでくるなら喜んで私が受けて立つから安心しろ」
「そんなこと言って社長、モモタロウさんと結局直接試合できなかったの悔しいんでしょ?」
部屋に呼び出されていたもう一人の人物からのんびりとした、しかし核心を突く声がエディにかかる。茶色のふわふわとした髪を揺らし、おっとりとした笑みを浮かべる少女――安倍川ぼたん、リングネーム「赤ずきん」だった。
「やかましい! ほっとけ!」
図星を突かれたのか、エディが子供のように声を荒らげる。彼女は咳払いを一つすると、改めて赤ずきんを紹介した。
「ああ、紹介が遅れたな。こいつがうちの若手では一番マシな赤ずきんだ。今日はお前の相手をする」
「マシはひどいです……。あ、三郎太さんはじめまして。お噂はかねがね、今日はよろしくお願いします!」
赤ずきんは、軽やかな足取りで歩み寄り、三郎太に丁寧に頭を下げた。彼女の纏う空気には、殺伐とした太平プロレスのリングとは違う、どこか温和で家庭的な雰囲気すら漂っている。その柔らかさは、初対面の相手に対しても自然に距離を縮める力を持っていた。
「いえ、とんでもない。こっちこそよろしくお願いします」
三郎太は戸惑いながらも、礼を返した。友好団体とは聞いていたが、自分のようなよそ者が、これほど温かく迎えられるとは思っていなかった。
「勝敗はどっちでもいい」
エディが再び口を開き、本日の興行の「台本(ブック)」を告げる。
「モモタロウFが勝てば、リング上で泣く赤ずきんの声を聞いて駆け付けた鉄砲かついだ猟師さんが現れる。そしたら、お前は逃げるようにリングを降りて退場しろ。逆に赤ずきんが勝った場合は、入場してきた猟師さんがモモタロウFの両手両足を棒に括って吊るから、それを赤ずきんと猟師さんでかついでお持ち帰りで退場になる。これだけ覚えておけ」
三郎太は呆気にとられた。それは太平プロレスでの興行経験ばかりの彼にとってあまりに奇抜に思える試合内容だ。いや、これを試合内容と言っていいのか?
「なるほど……演劇とかヒーローショーみたいな感じですか」
「ショウを舐めるなよ、三郎太」
エディの眼光が、一瞬だけ鋭くなった。
「プロレスラーたるもの、ただ強ければいいというものではない。お前の兄貴分のモモタロウだって、試合中ギャグばっかかましてただろ?」
「そうですね、わかります。そうだ、モモタロウさんみたいに……」
現在行方不明になっている、三郎太にとっては師のような存在であり、兄貴分。あの男は、どんなに苦しい局面でも観客を笑わせ、熱狂させ、最後には勝利をもぎ取っていた。三郎太の胸に、かつて追いかけた背中の記憶が蘇る。その記憶は、今の自分には遠く感じられるが、同時に確かな指標でもあった。
「別にお前らにあいつみたいなギャグを披露しろとは言わん。だが、客だってちゃんと試合を──選手を見ている、そこに熱意があれば必ず伝わるよ。彼らもプロレスを楽しむ実力を高めようとし、楽しもうとする興業の参加者なのだと思え」
エディの言葉は、三郎太の強張った肩の力を、少しだけ抜いてくれた。三郎太と赤ずきんは、顔を見合わせ、神妙に頷き合った。
「まぁ、マスクもしているし公式記録に勝敗がつくわけでもない。気楽に楽しんでやってくれ」
「はーい」
「わかりました」
二人の短い返事が、控室に響いた。
――そして、興行の幕が上がる。
会場を埋め尽くした観客の前に響き渡ったのは、やけに堂々とした、しかし内容が伴わない実況の声だった。
『ご来場の諸君、次なる試合はオトギの森のおはなし。あるところにオトギの森に迷い込んだモモタロウがおりました』
スピーカーから流れるその声の主が誰であるか、観客は即座に察した。
「いやちょっと待てや!?」「雑ぅ!?」「ってか実況ダンテスじゃねーか!? チャンプ何やってんの!?」「スタッフ足りないから社長みずから……涙が出ますね」
客席からのツッコミを、実況席のエディは鼻で笑い飛ばす。
『お前ら黙って聞け!! コホン……オトギの森の迷子モモタロウは、そこになぜかあった特設リング上で可愛い赤ずきんに出会います。しかし、赤ずきんは突然現れたモモタロウを悪い狼さんだと勘違い。さぁ一体どうなってしまうのでしょうか。というわけでこれより、「モモタロウFVS赤ずきん」による30分一本勝負を開始するぞ! いいな、みんな!?』
エディの強引な進行に、会場は失笑と困惑、そしてどこか温かい野次に包まれる。
「よくないが!?」「黙って聞いても雑ぅ!?」「社長はさぁ……」「だれかファンから脚本担当とか募集してクレメンス」「モモタロウかわいそう……」「ゲストっぽいし、これがいつものノリだなんて分かんないだろうしな……」
そんな喧騒を突き抜けて、入場テーマが鳴り響く。赤いフード付きマントを翻し、愛らしい笑顔を振りまきながら花道を歩く赤ずきん。その登場だけで、会場の空気が一段明るくなる。そして、その後に続いて姿を現したのは、青を基調とした和風のモンペに身を包み、どことなく安っぽいマスクを被った「モモタロウF」こと、宮川三郎太だった。
マスクの下で、三郎太は深く息を吐く。観客は笑っている。その笑いの中には嘲笑の色など一切なく、誰かもわからないはずの新顔のマスクマンを歓迎する心の余裕があることに、三郎太は気づき始めていた。おそらく彼らがこの試合に期待しているのは「強さ」ではなく「楽しさ」だろう。だが、そんな空気の中、彼の中に眠るレスラーとしての本能が、静かに熱を帯び始めていた。
(……偽物でも、ショーみたいな試合でも、やるからには全力だ。ある意味ではモモタロウさんの代理とも言えるんだし……言えるのか? あれ? ま、まぁとにかく全力で挑まない姿勢は失礼なのは確かだ)
リングの感触を確かめるように足踏みをした三郎太は、対角線上に立つ赤ずきんを見据える。彼女は先ほどまでの穏やかな表情とは一変し、どこか芝居がかった、しかし獲物を狙うような瞳でこちらを見つめている。その変化は、彼女が「オトギのリングの住人」であることを雄弁に物語っていた。
そして運命のゴングが、今、鳴らされた。
カーン!
乾いた音と同時に、三郎太扮するモモタロウFは爆発的な踏み込みを見せた。余計なことを考えるまいと振り払うかのようなその跳躍は、その場跳びとは思えないほどの高度に達する。
「まずは挨拶がわりだっ!」
マスクの下で叫びながら、三郎太の知るモモタロウのあの高さを──と、そうイメージして放たれた高高度ドロップキックは、赤ずきんが咄嗟に上げたガードごと、彼女の頭部付近を猛烈な勢いで撃ち抜いた。
「やーんっ!」
物語のヒロインであるかのような大げさな悲鳴を上げながら、赤ずきんの身体がマットの上をごろごろと転がっていく。三郎太はすぐさま追撃に移ろうと距離を詰めるが、赤ずきんの反応は驚くほど速かった。倒れ込みながらも視線を切らさなかった彼女は、立ち上がる所へ突っ込んでくるモモタロウFの頭を両手で強引に引き寄せたのだ。
「悪い狼さん、つかまえた! おなか、ドスドス♪」
おっとりした声とは裏腹に、迷いのない鋭い打撃で赤ずきんの膝がモモタロウFの腹部へ突き刺さる。キッチンシンクで一度、二度、三度。膝が入るたび、三郎太の身体がくの字に折れ、肺から空気が強制的に押し出される。
「ごっ!? ぐふっ!? おふっ!?」
衝撃に身を悶えさせるモモタロウFに対し、赤ずきんの攻勢は止まらない。彼女は呻く彼の身体を軽々と抱え上げると、その細身な四肢からは想像もできない力強さで、一気にマットへ叩きつけた。
「そんなに震えて、どうしたの? 狼さん♪」
強烈なボディスラムの衝撃で背骨が軋む音を聞きながら、三郎太は目の前の少女が纏う「非情な童話の世界」を肌で感じていた。
赤ずきんはダウンしたモモタロウFをフォールには行かず、観客席に向かって愛らしくポーズを決めた。
「みんなー! 応援、ありがとーっ!!」
ファンの歓声に応えるその足元では、しかし残酷な踏みつけが繰り返されている。その笑顔とアイドルじみたアピールと裏腹に、赤ずきんの蹴りは足腰の鍛錬を感じさせる一人前のレスラーのストンピングであった。
「悪い狼さんは許しません、お腹を割いて石をつめちゃうぞ!」
お腹狙いの連続ストンピングで硬いリングシューズの底が、モモタロウFの腹部に何度もめり込む。踏みつけのたびに、腹の奥に衝撃がしみこみ、身体がマットに打ち付けられて軽く跳ねる。そのたび、観客席のあちこちから「うっ」と小さく息を呑む声が漏れ、痛みが伝播するような空気が広がった。
「赤ずきん、やっちまえー!」「相変わらず容赦の欠片もない」「モモタロウ! そこ代われ! 代わってください、ぶひー!」「死ぬ気か!?」
観客の野次と歓声が入り混じる中、三郎太は意識が遠のきそうになるのを必死に堪えていた。
(……苦しい。胃が、ひっくり返りそうだ……。けどこのままやられるわけには……いかない!)
赤ずきんがさらに勢いよく右足を振り上げた、その一瞬の隙を三郎太は見逃さなかった。
「……今だっ!」
放たれたストンピングを紙一重でかわすと同時に、軸足となっている赤ずきんの左足へ、自らの両脚を複雑に絡みつかせる。鮮やかなカニばさみが決まり、勢いよく赤ずきんの身体がマットに捩じり転がされた。
「えっ……!?」
虚を突かれ、体勢を崩した赤ずきんの背後を三郎太は瞬時に奪う。不慣れな偽物のマスク、不慣れなキャラクターとしての振る舞い。だが、ここで出す技に迷いはない。三郎太は赤ずきんの腕を強引に引き込み、その首筋に腕を回した。チキンウイング・フェイスロック。本来の自分の得意技ではないため、そのフォームは決して完璧とは言えない。しかし、懸命に再現しようという一心からくる必死さが、その絞め上げに重い圧力を加えていた。
(うわ、柔らかい……いや、集中しろ僕!)
密着した赤ずきんの身体の感触に一瞬だけ動揺が走るが、すぐさまそれを振り払い、腕に力を込める。
「……っ、ああぁっ……!」
三郎太の腕の中で、赤ずきんの苦悶の声が響いた。
三郎太がマスクの下で必死の形相を浮かべて絞め上げるチキンウイング・フェイスロック。しかし、赤ずきんはその苦悶の表情の裏で、冷静に脱出の機会を窺っていた。彼女は拘束された腕のわずかな隙間を利用し、鋭いバックエルボーを繰り出す。その狙いは、先ほど自身が徹底的に痛めつけたモモタロウFの腹部であった。
「ぐっ……!」
ダメージ箇所へのピンポイントな一撃に、三郎太の腕の力が一瞬緩む。赤ずきんはその隙を見逃さず、絡みつく腕を強引に振りほどいて自由を勝ち取った。攻守が入れ替わる。赤ずきんはモモタロウFの両肩をがっしりと掴むと、至近距離から自らの額を叩きつけた。
「赤ずきんヘッドバットぉ!」
鈍い衝撃音がリングに響き渡る。三郎太の視界が火花を散らし、強烈な眩暈が彼を襲った。足元がふらつく三郎太の背後へ、赤ずきんが素早く回り込む。彼女はモモタロウFの腕を絡め取り、その腹部を支点にして彼の身体を弓なりに反らせた。コブラツイストだ。腹筋を引き裂かんばかりの強烈な絞りに加え、赤ずきんは空いている片手で、その腹部へ無慈悲な連続パンチを叩き込んでいく。
「ふぅ…ふぅ…! そらそら、おなかを引き裂いちゃうぞっ!」
「ぐぁぁ……ごっ!? おぅっ!? がふっ!?」
三郎太は絶叫した。肺の中の空気が、一撃ごとに吐き出される。朦朧とする意識の中で、彼は自分を情けなく感じていた。赤ずきんの腹部への集中的な攻めはたしかにギミックの赤ずきんとしてのそれなのかもしれない。だが、その中に置いて彼女はボディというなかなかダメージが抜けない場所に蓄積させた威をもって最後に勝利を掴もうとしているのは明白だった。決して演出用の見せ技などではない苛烈さがはっきりと伝わってくる。
(お祭りイベントで勝敗気にしないって言うけど、この子はしっかり強い……! そうか、若手のエースだなんて言われて僕は調子にのっていたのかもしれない。この子も、あのジェニーもそれぞれの団体の若手エースなんだ。負けてショックを受けるなんて考えてもみれば傲慢な話じゃないか……)
必死に手を伸ばすが、ロープは遥か遠くに見える。
(ロープが、遠い。負けるのか……また? ああ、でも勝ち負けは気にしなくてもいいんだっけ……)
弱気が心を支配しかける。腹の奥に溜まった鈍い痛みに新たな殴打の痛みが積み重なって脈打ち、じわじわと全身から力を奪っていく。呼吸のたびに腹筋が悲鳴を上げ、腕を伸ばすだけでも体力が削られていくのが分かる。 スタミナの消費で抗うパワーにも限界が少しずつ近づいてきている。だが、そんな中、三郎太の脳裏には太平プロレスの仲間たちの顔が、そして兄貴分の本物のモモタロウの背中がよぎった。
(……いや、何を言ってるんだ僕は! 負けてもいいからって……勝ちたくないわけじゃない! 負けるにしても全力を出し切ってからの話だ!)
三郎太の目に、再び闘志の火が灯る。自分自身を蝕んでいた虚無がなくなったわけではない。だが、尊敬するモモタロウのためなら話は別だ。彼は必死に伸ばした手と指先に全神経を集中させた。指を突き立てるようにして、ついに命綱であるロープを掴み取る。ロープブレイクだ。
赤ずきんは不満げな表情を浮かべながらも、ルールに従って技を解いた。彼女は倒れ伏す三郎太を引き起こし、さらなる追撃を加えようとする。しかし、立ち上がった三郎太の気迫は、それまでとは一線を画していた。呼吸は依然として苦しく、腹部には焼け付くような痛みが走っている。それでも、足元だけは不思議と揺らがなかった。痛みよりも、前へ出る意志のほうが勝っていた。だが、彼は自らに言い聞かせた。今、ニセモノだとしてもモモタロウとして放つこの技だけは、本家の名に恥じるような真似はしたくない。三郎太は右肘にすべての「気」を込めた。その肘は、僅かではなく淡く確かに、輝きを放ち始める。
「ニセモノだけど、全力全開の……いくぞ真・ファイナルエルボーぉぉ! うおおおおぉぉぉ!」
渾身のファイナルエルボーが放たれた。至近距離から赤ずきんの胸元を、そして跳ね上がるような軌道でその顎先を、二段階に分けて弾き抜く。
「がっ!?」
赤ずきんの華奢な身体が、衝撃で大きくカチあげられた。その凄まじい気迫と技の威力に、実況席のエディ・ダンテスが思わず身を乗り出して叫ぶ。
『……ッ!? モモタロウには及ばんが、あの気の纏いよう、あれは本物級のファイナルエルボーの威力があるぞ!?』
そのあまりにも「ガチ」すぎる実況に、会場のボルテージは別の意味で最高潮に達した。
「社長! 素が出てる! 素が!」「自分から本物じゃないと断言していくのか……カッコ困惑」「まじかよそんな威力だとしたらオレの赤ずきんちゃんの危険が危ない!」「危険はともかくお前のではない」
観客の野次は、この奇妙な演劇興行を心から楽しんでいる証だった。リングの上、意識を飛ばしかけた赤ずきんと、荒い呼吸を繰り返すモモタロウF。試合は予想外の熱を帯び、佳境へと向かっていく。
会場がどよめきに包まれる中、三郎太の放った「ファイナルエルボー」の衝撃は、赤ずきんの意識を白く飛ばしかけていた。だが、赤ずきんは倒れていない。なんて体幹とタフネスだと三郎太は正直舌を巻く。自分が今の一撃を受けていたら確実にマットに背を打ち付けてダウンしていただろう。内心で称賛しつつ、顎を跳ね上げられ、その場に棒立ちとなった彼女の背後へ、三郎太は回り込む。
(……今なら通る!)
三郎太は赤ずきんの腰をがっしりと抱え上げた。そのまま後方へと反り投げる、豪快なジャーマンスープレックスだ。
「せやぁっ!」
弧を描いて赤ずきんの体がマットに叩きつけられる。衝撃がリング全体に響き、観客が一斉に息を呑み、声援が一瞬止まる。しかし、三郎太は攻撃の手を緩めない。前戦での敗北からくる焦燥感は、いつの間にか「全力で目の前の相手とぶつかり合う」というレスラーとしての純粋な闘志へと昇華されていた。
三郎太はダウンした赤ずきんを強引に引き起こすと、その脇下に頭を差し込み、腰をロックして一気に抱え上げた。超滞空ブレーンバスター。赤ずきんの体が真っ逆さまに垂直に掲げられる。三郎太はその状態で静止し、バランスを保ちながら四方の観客へとアピールを送った。今の自分はニセモノでもモモタロウだ。彼ならやる。長く見続けた兄貴分の動きを脳内でなぞりながら、真似ることに気恥ずかしさと、どこかくすぐったい楽しさを覚えていた。
「……はっ!? や、やああ!? たかいってこれ!?」
朦朧とした状態から復帰したらしい赤ずきんが逆さまの視界にパニックを起こして、バタバタと足を動かして抗議の声を上げる。その滑稽な様子に観客から笑いが漏れるが、三郎太の腕は微塵も揺るがない。
「じゃ、おろしてあげよう、とりゃー!」
咄嗟だが、モモタロウが言いそうな軽いセリフがうまく口をついて出た。
「やーん!?」
重力に従い、赤ずきんの背中が爆音とともにマットを叩いた。
(よし、次はあれだ……!)
三郎太は迷わずコーナーへと向かった。トップロープの上に立ち、大きく胸を張って呼吸を整える。見上げる観客たちの視線が自分に集まっているのを肌で感じた。
「練習では成功率7割……いや、きっといける! モモ・スペシャルその1! ダイビングピーチボンバーだ!」
叫びとともに三郎太は宙を舞った。空中で体を反転させ、自身の臀部を弾丸のように赤ずきんの腹部へと叩きつける回転ヒップアタック。
「がふっ……!?」
全体重を乗せた一撃が、仰向けで荒い息をついていた赤ずきんの腹部を捉えた。衝撃で赤ずきんの上体が跳ね、その肺から空気を強制的に絞り出す。悶絶する赤ずきんの脚を、三郎太は瞬時に自らの脚で絡め取った。そのままブリッジするように体を反らせ、ジャパニーズレッグロールクラッチへと移行する。
「ワン! ツー!」
レフェリーのカウントが響く。決着かと思われたその瞬間、赤ずきんが必死の形相で肩を跳ね上げた。
「……2.5! キックアウト!」
リングアナの声が会場に響き渡る。
「……や、やってくれましたね。狼さん……!」
赤ずきんはふらつきながらも、膝に手をついて立ち上がった。その瞳には、今までの「お遊び」とは違う、本物の勝負師の光が宿っている。
(……とんでもないタフさだ。やはりこの娘……強い。でも、僕だって!)
三郎太が組み合いに行こうとした瞬間、赤ずきんの手が彼の胸元を突き放し、勢いよくロープへと押し飛ばした。
「こうなったら赤ずきんの必殺技、受けてもらいます!」
ロープのリバウンドを利用して戻ってくる三郎太を待ち構え、赤ずきんの体が斜めの独楽のように鋭く回転した。
「赤く……染まれぇっ!」
鮮やかな赤の残像を引き、放たれたのはクリムゾンニールキック。超高速の回転から繰り出された踵が、三郎太の首筋から胸板にかけてを完璧に撃ち抜いた。
「ぐっあぁぁぁっ!?」
三郎太の体は文字通り吹き飛ばされ、マットへと沈んだ。
クリムゾンニールキックの衝撃は凄まじかった。首筋から胸板にかけてを鋭利な刃物で薙ぎ払われたかのような痛みが走り、視界は明滅を繰り返している。マットに沈んだ身体は鉛のように重く、指先一つ動かすのさえ億劫に感じられた。しかし、赤ずきんはそんな「獲物」に対して慈悲を見せるようなタマではない。
「はぁっ……はぁっ……! まだです、起きてっ!」
見た目以上に疲弊しているのだろう、彼女自身も肩で息をしながら、ダウンして呻くモモタロウFの腕を掴み、無理やり引き起こしにかかった。抵抗できない彼の身体をコーナーへと運び、トップロープの金具付近へ強引に座らせる。赤ずきんはセカンドロープに足をかけると、モモタロウFの胴体に組み付いた。その体勢を見て、観客席から悲鳴に近いどよめきが上がる。
「こうして狼さんはあかずきんに討伐されてしまいました、めでたしめでたし♪ ……これで、おしまい!」
勝利を確信した台詞と共に、赤ずきんは全身のバネを使って、コーナー上の三郎太を雪崩式で抱え上げた。
「…………ッ!?」
三郎太の声にならない叫びと共に、二人の身体が雪崩式ブレーンバスターで宙を舞う。高所からの落差に加え、赤ずきんの体重も乗った一撃が、リングマットへ突き刺さった。リングそのものが波打ったのではないかと見紛うほどの轟音が響き渡り、三郎太の身体がマットの上で弾んだ。
「えげつねえ……」「赤ずきんちゃんの満面の笑顔でエグい技くりだすとこ、好きよ」「大丈夫か、モモタロウ……の偽物?」「あー、あれは死に申したわ」
観客が思わず顔をしかめるほどの破壊力。実況のエディ・ダンテスが、興奮と戦慄の入り混じった声で叫ぶ。
『ああーっと! オトギの森に悲劇の雨が降る! 可愛い顔して情け容赦ない赤ずきんの必殺フルコースだ! モモタロウF、もはやピクリとも動かない! 赤ずきん、ここでフォールに行くぅ。これでおしまいなのか、めでたしめでたしになってしまうのかー!?』
リング中央、大の字に伸びた三郎太の上に、赤ずきんが覆いかぶさるようにしてフォールの体勢に入る。レフェリーが身を屈めてマットを叩き始める。
「ワン! ツー!」
誰もが3カウントを聞く準備をした、その時だった。
「……まだだっ!」
三郎太の目がカッと見開かれた。彼はフォールで覆いかぶさる赤ずきんの腕を下から捕らえると、自身の脚を跳ね上げ、彼女の脚へと絡みつかせた。
「え……っ!? なに、これ……いだだっ!?」
赤ずきんが困惑の声を上げ、フォールの体勢が崩れる。三郎太は彼女の腕を引き寄せながら、上体を起こして自らの脚を彼女の脚と複雑に交差させ、あたかもあぐらをかかせるような形で極めながら、全身を使って彼女に絡みつき、上半身の動きを封じていく。
「はぁ……はぁ……! モモ・スペシャルその2、アグラツイストだぁっ!」
モモタロウFのオリジナル・ホールド。インディアンデスロックと変形アブドミナルストレッチの複合技「アグラツイスト」。関節の可動域を無視するかのような強烈な絞り上げに、赤ずきんの表情が苦痛に歪む。
「……っ! 狼さん、ちょ、痛ッ、いだだだ、これ外し方わかんな……っ!? ……放して、放してぇっ!」
演技としての悲鳴ではない。ガチの悲鳴だ。想定外の角度で関節を極められ、赤ずきんはパニックに陥りながらじたばたともがくが、動けば動くほど技が深く食い込んでいく。赤ずきんの呼吸が乱れ、視線が泳ぐ。観客のざわめきが一瞬止まり、リング上に緊張が張り詰めた。三郎太の腕にも脚にも、相手の震えが生々しく伝わってくる。
「ダーメ! キミがギブアップしないと放しません!」
モモタロウの言いそうな言葉を口にしつつ、三郎太はさらに力を込めた。勝敗は気にしないと言われた試合だが、やるからには最後までやり遂げる。モモタロウなら、この程度のピンチはチャンスに変えるはずだ。三郎太の中の兄貴分への憧憬は強い。だからこそ、そこに妥協など許せるはずが無かった。自分の胸板に押されて赤ずきんの豊満なやわらかさが変形していることなど意識しない。しないったらしない。
「あだだだだ!? ダメダメ、参った! ギブ! ギブ~ゥ!!」
赤ずきんは涙目で限界を認めた。かろうじて動く手でモモタロウの背中をばんばんと叩いて降参の意図を示しながら絶叫してしまう。それを見たレフェリーは頷いてゴングを要請した。
カーン! カーン! カーン!
試合終了を告げるゴングが打ち鳴らされた。レフェリーがモモタロウFの手を掲げ、勝利を宣言する。三郎太は荒い息を吐きながら技を解き、マットに膝をついた。全身に残る痛みと痺れと熱が、ついさっきまでの攻防の激しさを物語っている。勝利の余韻に浸る間もなく、リング上では即座に「試合後の物語」が幕を開ける。
「あぁ……あわれ、赤ずきんちゃんは狼さんの餌食となったのでした…え~ん、え~ん! たべられちゃう~!」
まだ痛みが抜けないのだろう。地味に脚と腰をさすりながら、赤ずきんは大げさな仕草で泣き真似を始めた。敗北直後でも仕事はきっちりとこなす赤ずきんのプロ精神に三郎太はたじろぎつつも慌てて自分も役割を果たそうと反応しはじめる。
「いいっ!? た、食べたりしないよっ!?」
狼狽するモモタロウF。そこへ、実況席から緊迫したアナウンスが入る。
『オトギの森の特設リングでモモタロウが赤ずきんに勝利したのもつかのま、赤ずきんの泣き声を聞きつけて猟師さんがやってきたぞ!』
花道から姿を現したのは、褐色の肌にエキゾチックな衣装を纏ったオトギプロ所属の女性レスラー、アサル・ザ・ジニーだった。しかし、彼女の手にはなぜか無骨な黒い銃器が握られている。
「ややー、これは赤ずきんの鳴き声ー! さては狼が出たのかー! 悪い狼はこのてっぽうでやっつけてやるー!」
抑揚のない、見事なまでの棒読みである。観客席が一瞬の静寂の後、爆笑とツッコミの渦に包まれた。
「ゲェーッ、可愛い褐色肌の猟師さん!?」「いや猟師はアサルトライフルもってこねーだろ!」「草生えた」「鳴き声て……。ってか、猟師さん役アサルじゃねーか!?」「なるほどアサルだけにアサルトライフル……」「草枯れた」「審議中」「審議拒否」
アサルは真顔でアサルトライフルを構え、リングへと行進してくる。そのシュールな光景に、実況のエディがのんびりと補足を入れる。
『ご覧のアサルトライフルはモデルガンですので観客の皆さまご安心ください! さぁ、猟師さんがリングに迫ってくるぞ、どうするモモタロウ!?』
三郎太は瞬時に状況を理解した。事前の説明を思い出しながら、これは「逃げる」シーンだと結論付ける。彼は観客席にもよく見えるよう、オーバーリアクションで驚いて見せた。肩をすくめて大げさに身を震わせ、視線を泳がせる動きも重ね、観客の笑いをさらに誘う。
「日本一のモモタロウが蜂の巣になるわけにはいかないやっ! ここは戦術的転進っ!」
彼はロープをくぐり抜け、一目散にリングから飛び降りた。
「モモタロウが逃げたぞー!」「可愛い女の子を毒牙にかける狼さんは死あるのみ、では?」「本物じゃないだろーけど、中身誰だよ、結構強かったぞ」「逃げるな卑怯者!! 逃げるなァ!!!」
観客からの温かい野次を背に受けて花道を駆けるモモタロウF。リング上では、アサルが棒立ちのまま、去っていく背中を見送っていた。
「まーてー」
やる気の一切感じられない追跡宣言。
「ばいならー!」
三郎太は昭和のギャグ漫画のような捨て台詞を残し、バックステージへと姿を消した。
『かくして狼さんに間違われたモモタロウはほうほうのていで森から逃げ出しましたとさ、とっぴんぱらりのぷう』
エディが絵本を閉じるように実況を締めくくると、会場からは大きな拍手と笑い声が湧き上がった。
「ぷう助かる」「アサル最初から最後まで棒読みで草」「仕方ない、デビューからこっちずっとアサル応援してるけど、一度たりともリングネームの『ランプの魔人』っぽいロール見たことねえから、本当に仕方ない」「アサルちゃん、演技がんばれ、超がんばれ……」
リング上には、寸劇が終わったあとの独特の空気が残る。笑いと拍手の余韻がゆっくりと引いていき、観客たちは次の展開を期待するようにざわめきを戻し始めていた。
舞台裏。控室に続く薄暗い廊下で、三郎太は荒くなった呼吸を整えていた。オトギプロの練習生が駆け寄り、タオルを手渡してくれる。
「お疲れ様でした! いい試合でしたよ!」
「あ、ありがとう……」
三郎太はタオルを受け取り、汗で濡れた首筋を乱暴に拭った。全身が軋むように痛い。特に赤ずきんのストンピングと雪崩式ブレーンバスターのダメージは深刻だ。だが、不思議と不快感はなかった。
「……なんだかムチャクチャなイベントだったな」
独り言のように呟く。しかし、その口元からは自然と笑みがこぼれていた。
「でも……ははっ、楽しかっ……た……!?」
自分の口から出た言葉に、三郎太自身が驚いた。先日までの彼は、勝敗や責任、若手エースという重圧ばかりを意識していた。プロレスをすることが責務のように感じていた日々。それが、どうだ。今日の試合は、ただひたすらに相手とぶつかり合い、観客を沸かせ、そして物語の一部として全力を尽くした。
「そうか……プロレスの試合は……楽しいんだ……」
胸の奥で燻っていた火種が、再び大きく燃え上がるのを感じた。
「……僕はいつの間にかこんなことまで……」
タオルを握りしめる手に力が入る。脳裏に浮かんだのは、まだ何者でもなかった頃の自分。太平プロレスの門を叩き、入門した日の高揚感。そして何より、兄貴分であり師と仰ぐ「ザ・モモタロウ」の姿だった。あの人は、どんな時でもリングの上で輝いていた。強くて、面白くて、誰よりもプロレスを楽しんでいた。そんな彼に憧れて、自分はあの背中を見続けていたのではなかったか。勝たなければならない、期待に応えなければならない。そんな義務感の中で、一番大切な「初心」を忘れていたのかもしれない。
三郎太は、自分が被っているマスクに手をやった。安っぽい素材で作られた、イベント用の偽物のモモ・マスク。だが今の彼にとって、それはどんなチャンピオンベルトよりも誇らしく、愛おしいものに感じられた。
「……よし」
短く呟き、三郎太はマスクのズレを直すように優しく撫でた。その仕草には、迷いを振り払った者だけが持つ静かな決意が宿っていた。その足取りは、控室へと向かう暗い廊下の中でも、確かな力強さを取り戻していた。
これが、一人の若きレスラーが、再生の狼煙を上げた瞬間だった。