「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第14試合(太平プロ通常興行):シングルマッチ「ライジング雫vsブライアン・ブルナイト」

『さぁ、本日のセミファイナルは、新人ブライアン・ブルナイトが先輩であるライジング雫に挑戦する格差マッチ! とは言えライジング雫は本日既にラスカル石井との試合を、激闘の末の辛勝と言う形で繰り広げた後……まさかの2戦目ですよ!? 解説の林吾さん、これは実質的なハンデと言うことなのでしょうか?』

 会場を揺らす実況の声が、今の雫にとってはどこか遠く、水底から響くように歪んで聞こえていた。太平プロレスのリング、その中央。スポットライトを浴びて立つ久我雫の体は、すでに限界を叫んでいる。黒髪のショートボブは汗で額に張り付き、紫色の瞳は疲労でわずかに混濁していた。

『そう見られるのも無理はないと思うが、今日の2戦を希望したのは雫クンの方でね。三郎太クンの不在の分、自分が頑張りたい、と』

 放送席で苦笑混じりに語る松平林吾社長の言葉は、偽らざる事実だった。若手のエース格の宮川三郎太が他団体への出向で不在の間、「自分がこの団体を支えなければ」という責務感が、雫の胸に重くのしかかっていた。その気負いと、彼への秘めた恋慕から来る「彼の居場所を守りたい」という執念が、彼女に過酷なダブルヘッダーを強行させていた。

『なんと! 先日の団体対抗戦で傷ついた宮川三郎太の代わりに、自ら奮闘しようとはなんという熱い後輩魂でしょうか!? しかし、疲労とダメージを押しての2戦目、これはブライアン・ブルナイトにも勝ち目が見えてきました! この試合、注目して見守っていきたいと思います!』

 実況の熱量とは裏腹に、リング上の雫は深く息を吐き、肩を上下させていた。前の試合から一応の休憩はしたものの、まだ体の奥に残る痛みが、じわりと主張してくる。

『ウム、どちらのファンの方も応援してあげて欲しい』

 林吾の穏やかな声が響くと、観客席のあちこちでざわめきが起こる。雫の名前を呼ぶ声が多いが、ブライアンの名を叫ぶ者はほとんどいない。

『……観客席からヒールのブライアンを応援する奴いるのか、などと心無い声が聞こえますが』

 その言葉に、ブライアンの肩がわずかに動いた。悪役志望とはいえ、完全な無視は胸に刺さるのだろう。

『ヒールも大変なんだよ? 頑張ってるんだよ、彼も!?』

 実況席の軽口が飛び交う中、ブライアンはゆっくりと歩みを進める。対角線上から迫る巨体は、リングライトを反射して存在感を増していた。身長195センチ、金髪をなびかせたマッスルボディの新人、ブライアン・ブルナイト。悪役志望を公言しているが、その表情には隠しきれない困惑が浮かんでいた。

「……雫センパイ、ラスカルの旦那とやって。次オレって、今日2試合目じゃないスか。大丈夫ッスか? 顔色、真っ白っスよ。上に無茶ぶりとかされてんじゃ……」

 小声で囁かれる後輩の気遣いは、今の雫にとっては自尊心を逆なでするだけの毒でしかなかった。

「黙りなさい、ブライアン。……私は、先輩よ。アンタに心配される筋合いはないわ」

 突き放すような冷たい声。だが、その声は細く、震えていた。白と青を基調としたフリル付きのリングコスチュームが、荒い吐息に合わせて上下する。雫は自分の弱さを悟られまいと、必死に背筋を伸ばした。

「……ああ、そうっすか。なら、手加減なしで行かせてもらいますよ。オレが勝っちまっても文句言わないでくださいね!」

 ブライアンがバンダナを締め直し、悪役らしい歪んだ笑みを作った。その瞬間、試合開始のゴングが館内に鳴り響く。

 

 雫は先手を取るべく鋭く踏み込んだ。彼女の得意とするキックの連打──ミドルキックのコンビネーションがブライアンの脇腹を襲う。しかし、いつもの「パァン!」という乾いた破裂音は聞こえない。疲労で膝が十分に上がらず、威力も精度も欠いた蹴りは、ベチャリとした湿った音を立てるに留まった。

「なんだァ、いつものキレがねえじゃんか、センパイ!?」

 ブライアンは強気な声を上げると、3発目の蹴りを放とうとした雫の軸足が、疲労による震えでブレた瞬間を見逃さなかった。彼は大きな掌で雫の足先を強引に掴み取ると、圧倒的な体格差を利して彼女を自分の方へ引き寄せた。雫の体がわずかに浮き、バランスが完全に崩れる。

「っ、離しなさい……!」

「悪いっスけど、試合なんでね! ッラァ!」

 ブライアンが雫の腰を抱え上げ、自身の立て膝の上へと叩きつける。アトミックドロップだ。尾てい骨を突き上げるような衝撃に、雫の顔が苦悶に歪んだ。

「きゃんっ……!?」

 悲鳴と共にマットに転がった雫に対し、ブライアンは容赦なく追撃の体勢に入る。立ち上がろうと四つん這いになった彼女の横腹へ、100キロを超える肉体の塊が弾丸のように突き刺さった。体格差があるとは言え、力任せなだけの未熟なレスラーの放つショルダータックル。本来なら捌けるはずの単純な突進だったが、今の雫には回避する反射神経も、踏ん張る筋力も残っていない。華奢な体は木の葉のように舞い、マットの上を2転、3転と無残に転がっていく。

「どうしたぁ! センパイの意地を見せてくれよぉ!」

 煽るようなブライアンの声に、観客席からは悲鳴に近い声援が飛ぶ。雫の耳には、その声が遠く、くぐもって届いた。鼓動の音がうるさく、世界が揺れている。雫の危機に観客席のざわめきが一段と大きくなるが、雫の耳には届いていても意識されてはいなかった。視界が回る中で、どうにかマットに手を突いた。だが、そこへ影が差す。

「あ……うぅ……っ」

 髪を乱し、酸素を求めて喘ぐ彼女の腰を、ブライアンが両腕でガッチリと抱え上げた。そのまま高く掲げられ、リング中央の最も硬い場所へと叩きつけられる。重く、深いボディスラム。背中から伝わる衝撃が内臓を揺らし、雫の口から空気が漏れ出した。

「看板娘が、そんな無様なザマじゃダメだろォ!」

 勝ち誇るブライアン。その足元で、雫は虫の息になりながらも、震える指先でマットを掴んだ。

「かはっ!? ……先輩の居ない今は……私が……」

 途切れ途切れの言葉には、意地を通り越した呪いのような執念が宿っていた。三郎太が戻ってくるその日まで、留守は私が守るんだ。その一念だけが、すでに限界を超えた彼女の肉体を辛うじて繋ぎ止めていた。

 マットに沈み、苦悶の表情を浮かべる雫の頭上から、ブライアンが冷ややかな、それでいてどこか諭すような小声を落とした。それは観客席の喧騒には決して届かない、リング上だけの密やかな会話だった。ロープの揺れや観客のざわめきが遠くに引いていき、二人だけが切り離されたような空気が漂う。

「……雫センパイは三郎太センパイ大好きっスねぇ? けどよ、一度負けたからってショックで潰れるようなら、そらその程度だったってことだぜ? それに……今は試合中っスよ。対戦相手以外のこと考えるの良くねえって、俺に教えたのその三郎太センパイなんスけどね」

 その言葉は、疲弊しきった雫の心に鋭い棘となって刺さった。憧れの人の名を、未熟な後輩の口から、あたかも彼を否定するかのような文脈で語られる屈辱。しかし、同時に彼の指摘は正鵠を射ていた。今の自分は、目の前の敵ではなく、不在の背中ばかりを追いかけて、足元が疎かになっている。

(そうだ……先輩は必ず立ち直る。ならなおさら今は……今だけは私が頑張らなきゃ……!)

 自分を鼓舞する。だが、その決意を嘲笑うかのように、ブライアンは一転して彼なりの悪役らしさを意識したらしい野太い声を張り上げた。

「オラ、今あんたを組み敷いてるのは、このオレだぜ!」

 ブライアンが勝ち誇り、無防備に覆いかぶさってきた瞬間だった。雫の紫色の瞳に、一筋の鋭い光が宿る。彼女は残った力を振り絞り、仰向けの状態からしなやかに腰を浮かせた。ブライアンが上から圧力をかけようとした刹那、雫の細く白い両脚が、蛇のように彼の太い首筋に絡みついた。首と片腕を自身の両脚の間に閉じ込める、電光石火の三角絞めだ。

「おお、良い脚……って、ぐええええ!?」

 不意を突かれたブライアンが、喉を鳴らして呻く。雫は自身の右足首を左の膝裏に深く掛け、さらにブライアンの頭部を引き寄せて頚動脈を圧迫しようと試みた。極まれば一気に意識を奪える必勝の形。しかし、直後に雫を襲ったのは、戦慄にも似た焦燥感だった。

(……っ! いつもの精度が出ない、なんで!?)

 締め上げる脚の筋力が、思うように出力されない。普段なら鋼鉄の枷となるはずの彼女の脚が、疲労の蓄積によって痙攣し、わずかに震えている。隙間が生じ、ブライアンの太い首を完全に遮断しきれない。

「う、うおお! 我慢しろオレ、こんなのまるごと持ち上げてやらァ!」

 ブライアンが顔を真っ赤にしながら叫んだ。彼は技術で外すことを諦め、持ち前の馬鹿力にすべてを賭けた。首に雫をぶら下げたまま、その巨躯を強引に垂直に立ち上がらせる。

「ッラァアア!」

 空中で無様に揺れる雫の体を、ブライアンは脚ごと力任せに抱え込み、前方へと叩きつけた。ただの叩きつけではない。自身の全体重を預けるようにして、重力と質量を雫の腹部へ一極集中させる、極めて荒っぽいパワースラムだ。

「がはっ……ぁ……っ」

 肺の中の空気が、衝撃と共にすべて強制的に吐き出された。マットの硬い感触が背中を打ち、ブライアンの重みが内臓を圧迫する。雫の視界が白く明滅し、意識が遠のきかける。だが、ブライアンはフォールには行かなかった。

「……ぐへへ……この感触、最高じゃん。いいカラダっすよ雫センパイ?」

 ブライアンはぐったりとした雫を、その大きな両腕で抱きかかえるようにして引きずり起こした。丸太のような豪腕が、雫の華奢な腰と、柔らかい腹部を容赦なく締め上げる。鯖折り──ベアハッグ。逃げ場のない密着状態での圧迫に、雫の小さな体は弓なりに反り返った。

「あ……っ、や……っ……あぐ……」

「聞こえねえなあ! もっとエロい声で鳴けよ、お嬢ちゃんよォ!なんならギブアップでもいいぜぇ!?」

 ブライアンは下品な笑みを浮かべ、さらに力を込める。彼に下卑た本音はない。ただ、教わった通りの「嫌な悪役」を演じることに必死なだけだった。しかし、疲労とダメージで頬を紅潮させ、身悶える雫の姿は、会場を埋める観客たちに、図らずも背徳的な色香を振りまいてしまっていた。

『ああーっと!ブライアン、これはあまりにも下劣! 放送倫理の限界に挑むかのような、新人らしからぬ……いや、新人ゆえの配慮のなさが光るベアハッグだぁーっ!』

 実況の悲鳴に近い絶叫が響く。放送席の松平林吾は、額を押さえて溜息を隠せない。

『……いや、彼は彼なりに「ヒールとはこういうものだ」と勉強した結果なんだろうがね。方向性がだいぶ、その、アレだな……』

 林吾が困惑の表情を浮かべる間も、リング上での雫の危機に観客席から心配と興奮の入り混じった混沌とした声援が沸いては消える。熱狂的なファンなどは泣き声交じりの声すら響いていた。

『なるほど、たしかに漫画やゲームの悪役にはこういったグヘヘとヒロインに悪さする悪党は定番ではありますね。序盤でやられる三下ですが』

『……あとで、コンプライアンス資料とプロレスの悪役について語られた昔のTV番組の映像で補習でも組むとしよう』

 林吾が真剣に教育方針を嘆く一方で、雫は肺を押し潰さんばかりの重圧に耐えながら、反撃の隙を伺って震える拳を握りしめていた。

『まさにヒールとしても新人ということでしたか』

 困り顔で語る実況をよそにリング上では、ブライアンが「これこそがヒールの見せ場だ」とでも言うかのように、雫を絞め上げながら盛んに上がる観客のブーイングを浴びて悦に浸っている。

『というか、彼は悪い子というわけではないが、その……バカなので……』

 目を反らしながら林吾が言うが、それではフォローになっていない。実況のジト目が冷ややかに林吾の横顔に突き刺さる。

『歯に衣は着せましょう、林吾さん』

 実況席の困惑をよそに、リング上の惨状は続いていた。雫の肋骨が軋む音が聞こえてきそうなほどの重圧。意識が混濁する中、彼女は無意識に腕を動かした。

「う……っ、ぁ……!」

 自由な両腕をブライアンの側頭部へ振るう。しかし、腰を完全に固定された状態では体重を乗せることができない。腕だけの力で放たれた肘鉄は有効打足りえず、力なく弾かれる。

「ぐうう、痛くねえったら痛くねえ! オラオラ、どうだ、ギブアップしろぉ!」

 何度も、何度も、雫は弱々しく肘を叩きつける。だが、それも次第に間隔が空き、やがて彼女の腕はブライアンの肩に力なく置かれた。脱力。限界を迎えた雫の頭がガクリと前に落ちる。

「ぅ……ぁ……の。ノォー……ッ!」

 それでも、消え入りそうな声で、彼女は降参を拒んだ。潤んだ瞳に執念の火を灯したまま、観客席と天井照明の間を彼女の視線がさまよっていた。

「……ッ、チッ! しぶてえな」

 ブライアンが忌々しげに舌打ちをし、拘束を解いた。突然解放された雫の体は、支えを失った人形のようにマットへ崩れ落ちそうになる。だが、ブライアンはそれを許さなかった。彼は雫の手首を掴み、強引に引き寄せると、その巨体の肩口へと彼女を軽々と担ぎ上げたのだ。

視界が反転し、天井の照明がぐるりと回る。雫の三半規管はすでに悲鳴を上げているが、ブライアンはお構いなしだ。

「さすが雫センパイ。大した根性っスね……。だが、コイツで仕上げだ!」

 ブライアンはその場で足を踏ん張り、雫を担いだまま回転を始めた。遠心力が加わり、雫の体にかかる負荷が増大する。会場の空気が、大技の予感にどよめき立つ。

「格上喰いで星を稼げば、オレだって三郎太センパイみてえに若手エースって呼ばれるようになっちまうかもなぁっ!」

 その言葉が、遠のきかけていた雫の意識を鋭く刺した。三郎太の不在、その座を狙うという不遜な言葉。それが冗談めかしたものであろうと、今の彼女には許しがたい冒涜に聞こえた。

「いっけえええええ!」

 ブライアンが回転の勢いをそのまま叩きつけのエネルギーに変換した。旋回式シットダウン・パワーボムである彼の必殺技、ブルナイトパワーボムだ。2メートル近い高さの位置エネルギーと遠心力、そしてブライアン自身の体重が乗った、破壊的な一撃。雫の背中がマットに叩きつけられ、衝撃波のように着弾音がリング上に響き渡った。

「がはっ……!!」

 肺の中の空気が強制的に絞り出され、雫の体が一瞬跳ね上がる。そのままブライアンは雫の両脚を抱え込み、エビ固めに覆いかぶさった。レフェリーがマットを叩く。

「ワン!」

 観客席からは悲鳴と、決着を確信したような溜息が漏れる。誰もがブライアンの勝利を疑わなかった。いかにライジング雫と言えど2試合目でこれだけのダメージを受けて、なお返せるはずがない。

「ツー!!」

 そして、レフェリーの手が三度目のマットを叩こうと振り下ろされる。ブライアンの顔には、勝利を確信した笑みが浮かんでいた。しかし──。

「せん……ぱい……ッ!」

 その言葉は、祈りか、それとも呪詛か。雫の右肩が、本当にわずか、数センチだけマットから浮き上がった。レフェリーの手がマットの寸前で止まる。

「ツー・ポイント・ナイン!!」

 会場が爆発的な歓声に包まれた。信じられないキックアウト。ブライアンの目が見開かれ、その表情が驚愕に凍りつく。

「……ハァ!? なんでだよ! 死んでろよ!」

 ブライアンは困惑と焦りを露わにし、雫の髪と首筋を乱暴に掴んで無理やり引き起こした。その手つきには、もはやプロレスの技としての配慮はなく、理解不能な存在に対する恐怖すら滲んでいた。今の雫は、誰の目にも限界を超えていた。瞳の焦点は定まらず、口元からは血の混じった唾液が垂れている。それでも、彼女の瞳の奥底で燃える紫色の炎だけは、決して消えていなかった。そして、ブライアンは気づいていない。雫を引き起こしたその瞬間、彼自身が「無防備」になっていたことに。そして、雫が立ち上がる力も残っていなかったのではなく、「攻撃するため」に力を温存していたことに。

「調子にのって……先輩をバカにしたわね……ッ!」

 幽鬼のような掠れ声と共に、雫の体が最後のバネを弾けさせた。至近距離からの延髄斬り。跳躍と共に放たれた雫の左足が、ブライアンの太い首筋に深々と突き刺さる。不意を突かれた巨漢が、たたらを踏んで大きくよろめいた。

「グハッ……!?」

 ブライアンの視界が揺らぐ。その隙を、雫は見逃さなかった。彼女はよろめくブライアンの背後へと回り込むと、まるで獲物に食らいつく豹のようにその背中へ飛びついたのだ。

「……終わりよ……っ!」

 雫の腕がブライアンの喉元へ巻き付き、同時に両脚が彼の折り曲げた膝をフックする。そのまま自身の体重を利用して、ブライアンを前方のマットへと引きずり倒した。うつ伏せに倒れたブライアンの背中に乗り、雫は彼の首を反り上げていく。雫のオリジナル・フェイバリットホールド、変形STF。ティアドロップボディロックとも呼ばれるこの技は、相手の頭部をロックしてねじまげて気道を妨げて呼吸を奪い、膝関節を極め、さらに腰椎を圧迫する複合拷問技だ。普段の雫なら新人相手を気遣って手加減する領域だが、今の彼女に慈悲はなかった。

「が、ああああああっ!? 痛ぇ! 待って、雫センパイ、折れる!? 本当に背骨折れるからッ!」

 ブライアンがマットを叩きながら絶叫する。演技ではない、本能からの悲鳴だった。雫の細い腕と脚が、鋼鉄のワイヤーのように食い込み、ブライアンの巨大な筋肉を悲鳴ごときしませていく。雫の表情は、もはや勝負師のそれですらなかった。ただひたすらに、目の前の障害を排除し、守るべき場所を死守しようとする、鬼気迫る執念の仮面だった。

「……ッ」

 言葉にならない呼気と共に、雫がさらに締め上げの角度を鋭くする。汗で滑った腕が、意図せず顎下から首へ深く食い込み、チョーク気味の圧迫が加わる。

「ぐぇ……ッ!? ちょ、ま……ギブ! ギブアップだああああっ!!」

 ブライアンの右手が、狂ったようにマットを連打した。レフェリーが即座に試合終了のゴングを要請し、二人の体に割って入る。

 

 カンカンカンカンカン!!

 

 ゴングの音が鳴り響いても、雫は数秒間、技を解こうとしなかった。レフェリーに肩を叩かれ、ようやく我に返ったように力を緩めると、その場に糸が切れたように崩れ落ちた。

『決まったァ! ライジング雫の必殺技、ティアドロップボディロックの前にブライアン・ブルナイトの暴虐も砕け散る! ここでたまらずギブアップ宣言です!』

 実況アナウンサーの興奮した声が響く中、雫は荒い息をつきながら、うつろな目で天井を見上げていた。勝った。守った。その事実だけを、朦朧とする意識の中で反芻していた。

解説席の松平林吾は、その壮絶な光景を前に、小さく唸り声を漏らしていた。

『……ううむ、参ったな』

 林吾の表情は渋い。彼の狙いは、格下の新人相手に不覚を取らせることで、雫の過剰な責任感と気負いを冷まし、適度な休養を与えることだった。いわば「負けることで救う」荒療治だ。しかし、雫はそのシナリオを執念だけでねじ伏せてしまった。これでは、彼女の「私がやらなければ」という強迫観念を、逆に補強することになりかねない。彼女は、自らの心身を削り取ることでしか得られない勝利の味を、さらに深く覚えてしまったのではないか。

『格下の新人相手に一時はどうなることかと危ぶまれましたが、ここは地力の差が出たか!? ライジング雫、本日2戦目という逆境をはねのけて逆転勝利だぁ! っと、解説の林吾さん、なにか懸念ごとでも?』

 実況に水を向けられ、林吾は慌てて表情を取り繕った。

『あ、いえいえ。雫クンの底力は大したものだと唸らされていたんだよ』

 リング上では、レフェリーに片腕を掲げられた雫が、立っているのもやっとという状態で勝ち名乗りを受けていた。その顔色は蒼白で、勝利の喜びよりも、ただ務めを果たしたという安堵と疲労が色濃く滲んでいる。足取りはおぼつかず、ロープを掴まなければリングを降りることすらままならない様子だ。

『なにやら気になる反応ですが、まぁいいでしょう。ライジング雫、今よろめきながらリングを降ります! ……林吾さん、彼女大丈夫ですか? だいぶキツそうに見えるんですが?』

 心配そうに首を傾げる実況の横で、林吾は無言でモニターを見つめていた。画面の中、セコンドの肩を借りて花道を退場していく雫の背中は、勝者とは言い難いほどに小さく、そして何かに取り憑かれたように強張っている。

『まぁ、無理をしたのは間違いない。しかし、今回興行も本日までだ、ゆっくり身を休めてもらうのがいいだろう』

 林吾は絞り出すようにそう答えたが、その視線は雫が去った後の無人のリングに固定されたままだ。林吾はそう言いながらも、心中では頭を抱えていた。これで雫は休むだろうか? いや、むしろ「もっと強くならなければ」「もっと完璧に守らなければ」と、さらに自分を追い込むのではないか。三郎太への想いが、彼女を修羅の道へと駆り立てているように見えてならなかった。

『そうでした、若手エースの宮川三郎太を休養で欠く今回の太平プロレスの興行も残すところあと1試合! 最終戦メインイベントの対戦カードは、シロオニ・ベスVSガータ御子柴! どちらもあの宮川三郎太相手に激戦を繰り広げた猛者同士、この直接対決、一体どんな戦いになるのでしょうか!?』

 

 会場の熱気は、雫の激闘の余韻を残しつつも、次なるメインイベントへの期待へとシフトし始めていた。太平プロレスに居候中の米国からの刺客シロオニ・ベスと、アンチェインな鎖使いの悪役レスラー、ガータ御子柴。三郎太に執着しているという共通項を持つ二人の激突。次戦の煽りPVが会場の大型モニターに流れ出し、観客席の熱が嫌が応にも高まっていく。その熱狂の渦を余所に、放送席の林吾だけは、手元の進行表を憂鬱そうに指でなぞっていた。

『ウム……なにやら猛烈に嫌な予感がしてきおったのう』

 林吾の口から、ふと本音が漏れた。今日の興行全体に漂う、波乱の気配。雫の異常な執念が呼び寄せた不穏な空気が、メインイベントにも伝染するような、そんな予感。林吾の眉間には、本人も気づかぬほど深い皺が刻まれていた。

『ちょっと林吾さん!? どっかの男塾みたいな不吉なフラグたてはおやめください!?』

 実況のツッコミが響く中、雫はセコンドの肩を借り、足を引きずりながら花道へと消えていった。その背中は、勝利者というよりは、侵入者を狩って徘徊する地下迷宮の死霊の騎士のそれだった。勝利の余韻に包まれる会場の中で、ただ一人、雫だけが別の世界を歩いているかのようだ。

 

 彼女に徐々に決定的な破綻の日が迫っている事に、まだ観客たちも彼女自身すらも気付いて居なかった。

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