「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
「今日はシングル……。いつぞやのタッグの時のようにはいきませんよ」
太平プロレスのリング中央。アッシュブロンドのショートボブを揺らし、シロオニ・ベスは気高く言い放った。黒と赤を基調としたビスチェ、そして金色の編み上げロングブーツ。その姿は女子レスラーというよりも、戦場に降り立った貴婦人のような端正な美しさを湛えている。だが、そのグレイッシュブルーの瞳には、静かな、しかし確かな傲慢さが宿っていた。
「一人なら負けないってか? いいぜ、せいぜい吠え面かかせてやるニャ」
対峙するガータ御子柴が、赤い瞳を細めて低く笑う。ネコミミをあしらったヘッドパーツに、露出度の高い網目付きのワンピース。悪役レスラーとしての不敵な笑みを浮かべてはいるが、その内心にはベスに対する強烈な苛立ちが渦巻いていた。
『さあ、ついに興行を締めくくるメインイベントが始まろうとしています、シロオニ・ベス対ガータ御子柴! ゴング前から不敵な笑みで睨みあう二人の対決は、かつてのタッグ戦での因縁を強く想起させられます! そしてこの試合の解説には、本日試合を組んでもらえなかったグレート・イカサマさんをお呼びしております!』
放送席では、心無い紹介の言葉を平然と隣に振る実況アナと、それを受けてなお泰然自若とした態度を崩さない解説ゲストの悪役レスラー、グレート・イカサマが、座っていた。角刈りにカイゼル髭、おまけに道化じみたフェイスペイントというあまりに奇妙な風貌は試合が無かった今日も変わらない。
『世知辛い紹介を有難う。貴方の心の優しい嘘、グレート・イカサマです。よろしく』
照明の反射でフェイスペイントの白塗りがきらりと光り、胡散臭い道化た笑顔が目に厳しい。観客席からは謎の「嘘だ……ッ!」「騙したな! ボクの気持ちを裏切ったんだ!」「まただよ」とエールだかコールだか、はたまたブーイングなのか判別のつかないざわめきが起こり、イカサマが「まだ騙してないが!?」と小気味良く返す。そんないつもの軽いやりとりを笑顔で見やりながら、実況アナは選手についてとりあげた。
『共に三郎太に敗れつつも互角以上に戦った実力で、その優劣がファンの間でもたびたび議論される両者ですが、イカサマさんはこの試合、どうご覧になりますか?』
振られたイカサマは、仰々しくカイゼル髭を指先で整えつつ隣の実況アナを見やる。その視線は僅かに憂いを帯びているようにも見えるが、ことこの男においては参考にしていいものか正直判断に困るところだ。
『……ふむ。実況君は先ほどから「因縁」だの「対決」だのと言うが、私に見えるのはもっと冷ややかなものだ。……いや、そう見せてその裏にかなり熱いマグマがうごめいているのかもしれん』
イカサマがリングを指差す。その仕草はどこか舞台役者のような大げささと妙にこなれた視線誘導の技術を感じさせ、現につられたのだろう、実況は身を乗り出し、その言葉の断片を拾い上げる。リング中央の二人に大きな動きは無いが、空気だけは険悪さが傍目に明らかなほどに張り詰めている。観客の方向性のそろわない混沌としたざわめきも、それをどう受け止めるべきか測りかねているからであろうか。
『マグマですか! なるほど、どうやらスマートな清々しい試合にはならなさそうで戦々恐々ですね』
言われてリング上の二人の瞳に浮かぶ感情の言葉にできない温度差を感じ取ったか、実況が身を震わせる。
『……見た目だけなら頬ずりしたいような美少女なんだけどなぁ』
『さらっと危ないセリフやめていただけますか!?』
感想のレベルの落差にずっこけた実況が放送上の節度を気にしてツッコミを入れるがイカサマはどこ吹く風だ。むしろその反応すら楽しんでいるようで、口元のカイゼル髭がわずかに揺れた。
そして、けたたましく試合開始のゴングが鳴り響いた。
その瞬間、ベスが弾かれたように踏み込む。力強くマットを蹴って鋭く突進、御子柴が反応するよりも早く、ベスの右拳が深々とその腹部に突き刺さった。渾身のボディーブローだ。
「ぐっ、……あ、あはぁ♡」
衝撃で御子柴の体が「く」の字に折れ曲がる。肺の空気を強制的に吐き出させられた彼女は、数歩後退しながらも、その顔に歪んだ悦楽の色を浮かべた。サディストでありながら、強烈な痛みに陶酔するマゾヒストとしての本性が、その赤い瞳に熱を灯す。
「いいねぇ、重いじゃん……!」
御子柴は即座に体勢を立て直すと、野獣のような咆哮と共に右腕を大きく振り抜いた。お返しだとばかりに放たれたラリアットがベスの喉元を捉える。乾いた衝撃音が響き、文字通りベスの体は宙を舞い、マットへと叩きつけられた。
「……ッ! こんなものですか?」
しかし、ベスもまた、すぐさま喉元を擦りながら立ち上がる。乱れたアッシュブロンドの隙間から覗く表情は、依然として余裕を崩さない。
「三郎太さんの同期にしては……フッ、ヌルいわね」
その挑発的な言葉は、御子柴の神経を逆撫でするには十分だ。言い放つと同時にベスはその場でバネのように跳躍し、しなやかな両足が御子柴の胸板を正確に捉えるドロップキックを放った。肉を打つ鈍い音と共に、御子柴の体が再び後退する。
わずかにベスが押している流れに見える。しかし、ベスの目的は単なる勝利ではなかった。団体対抗戦で最大の必殺技をいけ好かない男に、返し技を用意されて破られた苦い経験から、彼女は決定的な「新技」の必要性を痛感していたのだ。ベスはたじろぐ御子柴を力任せに引き起こすと、その頭を無理やり下げさせて抱え込む。
「……ちがう、こっちに」
独り言を漏らしながら、ベスは御子柴の腕を持ち替え、クラッチの感触を反芻する。その手つきには、対戦相手を「競い合う相手」として扱う気配が微塵もない。それは単なる「練習台」として扱う傲慢な振る舞いだった。
「ブツブツ何を……。……ッ!」
自分が実験動物のように扱われている。その事実に気づいた瞬間、御子柴の瞳から悦楽の色が消え、純粋な殺意に近い激昂が燃え上がった。御子柴はベスの拘束を強引に振りほどくと、独楽のように鋭く回転した。狙い澄ました裏拳――バックブローが、無防備に逡巡していたベスの側頭部を捉える。不快な衝撃音が会場に響き渡る。
「何だ、その手つき……新技の実戦テストでもしようってか? ……ナメんのも大概にしろよ、このアマぁ!!」
怒声と共に放たれた一撃に、ベスの視界が大きく歪む。
「……ぐっ!?」
膝を突き、マットに手をついたベスの頭上で、御子柴の黒髪が揺らぎ、逆立っているかのように見えた。練習台にされたプライド、そして何より、自分が密かに慕う三郎太を巡る「お花畑な思考」を持つ目の前の女に対し、御子柴の怒りは沸点に達していた。
側頭部を撃ち抜かれた衝撃で、ベスはマットに膝を突き、乱れたアッシュブロンドの隙間から御子柴を睨みつける。だが、御子柴の怒りは、ベスの想像を遥かに超える温度で燃え上がっていた 。
「逃がさねえよ。その沸いた頭、オレが絞め落としてリセットしてやる!」
吠えると同時に、御子柴がベスの背後へ電光石火の速さで回り込む。その細く、しかしレスラーとして鍛え上げられた前腕が、ベスの白磁のような首に容赦なく巻き付いた。スリーパーホールドだ 。
「が、はっ……!」
チョーク気味に頸動脈を圧迫され、ベスの顔が苦悶に歪む。御子柴はさらに全体重をかけ、ベスの背中にしがみつくようにして締め上げを強めていく。逃げ場のない密着状態の中で、御子柴の熱い吐息と、呪詛のような地声がベスの耳元に直接叩きつけられた 。
「三郎太は言ってたぜ。お前に四六時中つきまとわれて迷惑してるってな?」
その言葉に、ベスの身体がびくりと震える。喉を潰されそうな苦しみの中で、彼女は必死に否定の言葉を絞り出した。
「……く、くっ……どうせ嘘でしょう……。三郎太さんは、その程度の度量では……」
だが、御子柴は嘲笑を浴びせることで、その反論を無慈悲に踏みにじる。
「度量だぁ? 笑わせんな。アイツがお前を相手してんのは、単なる同情だよ。ちょいと撫でくった仔犬が懐いてきちまったから、追い払えずに困ってるだけ」
御子柴の指先が、ベスの肌に食い込む。その圧力は、技のためというより、怒りそのものを刻みつけるかのようだった。
「同期のオレが言うんだ、間違いない。三郎太がお前を見る目は、女を見る目じゃねえ。……可哀想な『モノ』を見る目だ」
頸動脈への圧迫により、ベスの視界の端がチカチカと明滅し始める。酸欠による意識の混濁よりも恐ろしいのは、御子柴の言葉が、自分の心の最も脆い部分を的確に抉っているという事実だった。
「お前のそれは恋愛じゃない。ただの『小学生レベルの恋』……恋に恋する自分に浮かれてるだけ。三郎太の嫌なとこも見ないで、その隣に立とうなんて、身の程を知れよ、鬼気取りのお嬢ちゃん!」
御子柴の腕の力は、語気が強まるごとに増していく。ベスは必死に御子柴の腕を剥がそうとするが、力が入らない。
「違う……! 私は、三郎太さんを、お慕いして……っ! 時に非情なあの顔だって……!」
「そういう所なんだよ! お前は自分のプライドを守るために『好き』って言葉を盾にして、三郎太の見たい所だけ見てるだけ! アイツだって憎しみや下劣な感情を抱くこともあるし、一人でオナったりもする『ただの人間の男』なんだよ!」
「何を……ッ!?」
あまりにも生々しい現実に引きずり下ろされ、ベスの脳裏に、かつて自分に敗北を刻み、同時にその強さで自分を魅了した三郎太の姿が浮かぶ。しかし、その残像は今、御子柴の言葉によって醜く歪められようとしていた。
「中身は空っぽ、ちょいと秀でた力に縋って、格下のオレで練習しなきゃ技も編めない……。それがお前の正体だろ!」
――小学生レベルの恋? 浮かれている……だけ? ――三郎太さんは、私を……憐れんでいる……?
脳裏に浮かんだその疑念は、一度入り込めば毒のようにベスの全身に回っていく。
自分は、高潔な戦士として彼の隣に立つ資格があると思っていた。だが現実はどうだ。試合中に新技のテストなどという、傲慢で甘えた実験を繰り返し、挙句の果てにこうして御子柴に心理的にも肉体的にも圧倒されている 。
その時だった。ベスの全身に、電撃のような震えが走った。それは悲しみでも、絶望でもない。僅かに御子柴の言葉を肯定しかけた、そんな情けない自分自身に対する、魂の底からの拒絶反応だった。アッシュブロンドの髪が、逆立つような殺気を帯びる。ベスは死に物狂いでマットを蹴り、立ち上がった。背中には、依然として執拗に首を絞め続ける御子柴が張り付いている 。ベスはそのまま、爆発的な脚力を持って後方へと躍り出た。凄まじい速度でのバックステップ。それは回避でも脱出でもなく、背負った「重荷」ごと、すべてを粉砕するための特攻だった 。
「……ふ、ふざけるな……。この、下衆がぁッ!!」
ベスの叫びと共に、彼女の背中――そしてそこに張り付いていた御子柴の背中が、コーナーポストへと猛然と叩きつけられた。
「!?」
凄まじい衝撃音が、太平プロレスの会場に重く響き渡る。コーナーに背骨を強打され、御子柴の顔面が苦悶に歪んだ。
「勝手に決めつけて……ッ!!」
「ぐあぁっ!?」
ベスの激情に押されるようにして、御子柴の拘束がようやく弾け飛んだ。首を解放されたベスは、荒い呼吸をしながらも、すぐにその鋭い瞳に冷徹な怒りを宿し、倒れ込む御子柴へと向き直った。首を押さえ、必死に酸素を求めて喘ぐベスの胸中には、かつてないほどの激憤が渦巻いている。気高く、美しくあろうとする彼女の自尊心は、御子柴の「地声」による罵倒によって、修復不可能なまでに切り刻まれていた。呼吸が整うのを待つ必要などない。ベスは反転すると、乱れたアッシュブロンドを振り乱し、獲物を狩る鬼の形相で御子柴へと肉薄した。
「私の……三郎太さんへの想い、貴女のようなひねくれ者に腐される筋合いはないッ!」
叫びと共に、ベスは御子柴の胸倉を掴み上げ、今度は逆にコーナーへと叩きつける。胸の奥で渦巻く怒りと羞恥と悔しさが、脳裏に掠めた迷いを力づくで束ねて押しつぶし、一本の鋭い衝動へと収束していた。衝撃で御子柴の脳が揺れた瞬間、ベスは膝蹴りを放つ。
「死にさらしなさいッ!!」
鋭く突き出された膝が、御子柴の腹部を貫かんばかりの勢いでめり込む。串刺し式のニーリフトだ。
「あ……がはっ……!」
胃の腑を突き上げるような衝撃に、御子柴の瞳孔が大きく開く。その口端からこぼれる彼女の苦鳴など、ベスにとっては溜飲をさげる心地よい音でしかない。しかし、御子柴は苦痛に顔を歪めながらも、その赤い瞳から嘲笑の光を消してはいない。
「……情けない声……出すじゃんか、ベスお嬢ちゃん……!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、御子柴の右手が素早く動いた。背の黒いコスチュームとあしらわれた飾りとの隙間から滑り出たのは、鈍い銀光を放つ金属の鎖。
「やさしいオレがその無様な声……聞かれねえようにしてやるニャ!」
御子柴が手首を返した刹那、ジャラリという嫌な音を立ててチェーンが蛇のように伸び、ベスの白い首筋に幾重にも巻き付いた。
「……ッ!?」
ベスの細い首を、硬質な冷たさが締め上げる。御子柴はチェーンの両端を交差させて掴むと、力任せにそれを引き絞った。
『ああっと、ここでガータ御子柴、お得意のチェーンを取り出した! 首を絞めながら身体ごと振り回しております! まさに悪逆非道! 邪悪な黒猫の面目躍如です!』
放送席では実況が興奮気味に叫び、隣のイカサマは腕を組んで深く頷いている。
『……ふむ。聞いたことがある』
『何ィ、なにか知っているのですか、イカサマさん!?』
イカサマの言葉に、実況は絶望的な乱闘の中に見出された一筋の「専門家的知見」を期待し、縋り付くように隣を見やった
『アステカの古文書「ミクトランの書」によれば、鉄の鎖は魂を繋ぎ止める概念。御子柴嬢は、ベス嬢を正しく現世の三郎太君へ引き戻そうとしている……あるいはこれはひねくれた彼女の歪んだ慈愛の形なのかもしれん』
滔々と語られる蘊蓄、そして「慈愛」というあまりに意外な解釈。実況はそのギャップを埋めようとモニターを凝視するが、そこに映るのは、邪悪な面相で鎖を引き絞る御子柴の姿だ。脳内で補正するにはあまりにもそのギャップはでかすぎた。
『じ、慈愛!? あの凶悪な顔でですか!? 私には憎しみと嗜虐の発露にしか見えません!』
埋まらない溝をさらなる補足説明で越えられないか凝視してくる実況アナにイカサマは重々しく頷く。
『うむ、嘘だからな。単に苦しむ顔が見たいだけだろう』
『イカサマさん!?』
グレート・イカサマはやっぱりグレート・イカサマだった。悪びれもせずに暴露するそのいつもの態度に観客の一部から笑いが起き、実況アナが非難めいた声をあげる。殺伐としたリング上とは裏腹に、放送席の軽口が場内の空気をわずかに緩ませ、観客の緊張をほどよく散らしていた。
そんな実況席の茶番の一方でリング上では、御子柴の暴挙が続いていた。彼女はチェーンを支点にしてベスを振り回し、その体力を奪っていく。首を絞められ、遠心力で翻弄されるベスの足取りは目に見えて覚束なくなっていった。
「地獄に落ちて三郎太を永遠に待ってろ!」
御子柴の顔から「ガータ」としての仮面が剥がれ落ち、生々しい憎悪が剥き出しになる。彼女はふらつくベスの襟首とチェーンを掴んだまま、強引にコーナー最上段へと這い上がらせた。その光景に、観客席から悲鳴に近い叫びが上がる。トップロープの上、不安定な足場で、御子柴はベスを抱え込み、雪崩式の変形スパインバスター――アビスキャットドライバーの体勢に入ろうとした。まるでそのまま奈落へと道連れにしようとでもしているかのような、殺意の籠もった構えだ。
「地獄にお似合いなのは貴女の方よ、クソ猫……ッ!」
しかし、ベスは死んでいなかった。酸欠と怒りで限界を超えた彼女の意識は、文字通り「鬼」のそれへと変貌していた。ベスは鎖が喉に食い込むのも無視して御子柴の髪を掴み、狂ったように暴れ始める。
「なっ、この……ッ!」
トップロープ上での揉み合い。力技でねじ伏せようとする御子柴だったが、なりふり構わぬベスの抵抗に重心を崩した。二人の体が大きく傾く。御子柴が叫ぶ間もなく、もつれ合った黒と白の影は、高さのあるリングから場外の硬い床へと、一気に転落していった。
ドサリ、という重い音がコンクリートの上で反響した。リング最上段からの転落。防護マットの敷かれていない床に叩きつけられた衝撃は、二人の肉体から一時的にすべての思考を奪い去った。もつれ合ったまま落下したベスと御子柴は、どちらが上ともつかぬ無様な姿で床に転がり、肺に残ったわずかな空気を吐き出しながら、ただただ身悶えを繰り返す。
「……は……っ、あ……」
先に意識の混濁から抜け出したのは、ベスだった。首に巻き付いたままの鎖がジャラリと音を立てる。彼女は震える腕でコンクリートを押し、膝を突きながら無理やり身体を引き起こした。視界は赤く染まり、耳の奥では強烈な耳鳴りが鳴り止まない。だが、目の前でうめき声を上げる「卑劣な黒猫」への殺意だけが、彼女を動かしていた。
「……っ、ああぁっ!!」
ベスは朦朧とする意識の中、まだ地を這っている御子柴の頭部を強引に抱え込んだ。全身のバネを使い、残った力を振り絞って後方へ倒れ込み、DDTでリング下の硬く薄いマットへと、御子柴の脳天を容赦なく叩きつける。
「ぐぅっ……!?」
御子柴の身体が跳ね、力なくコンクリートに沈む。だが、ベスもまた、技を放った反動で膝から崩れ落ちた。勝利への執念。それだけがこの泥沼の戦いを継続させている。
「……ハ、……ハハッ、ざまぁ……ねえな……」
不気味な笑い声。御子柴は這いずりながら、ベスの足首を泥臭く掴んだ。その指先が食い込み、ベスのバランスを奪う。
「お返しだ……コラァッ!」
御子柴は強引に立ち上がると、呻き声を漏らすベスの髪を掴み、そのまま会場のリングサイドと観客席を区切る無機質な鉄柵へと投げ飛ばした。ガシャン!! という暴力的な金属音が会場を震わせる。背中から鉄柵に叩きつけられたベスが、苦悶に顔を歪めて前のめりに倒れかけた。だが、御子柴の攻撃は止まらない。彼女の赤い瞳には、もはやエンターテインメントとしての悪役の余裕など微塵もなかった。
「……ッ、ガァッ!」
御子柴はたじろぐベスの後頭部を両手で掴むと、剥き出しになったコーナーの鉄柱へとその顔面を叩きつけ始めた。一度、二度、三度。硬質な衝撃がベスの脳を揺さぶる。
「……あ、……ぁ」
ベスの額、その生え際から鮮血が伝い落ちる。アッシュブロンドの髪が赤く汚れ、白磁のような肌をどろりと濡らしていく。意識が遠のき、世界が真っ暗な闇に飲み込まれそうになる中、ベスの脳裏に再び御子柴の言葉がリフレインした。
『中身は空っぽ……それがお前の正体だろ!』
(……ふざけるな……。私は……白鬼……ベスよ……!)
その本能的な矜持が、ベスの肉体に最後の一滴の力を呼び戻した。
「ハァッ、ハァッ……。夢の中のテメェの理想の三郎太のところへ……帰してやる!」
罵声を吐きながらとどめを刺そうと、髪を掴んでさらに引きずり回そうとした御子柴の手を、ベスが下から撥ね除ける。
「調子に……乗るなァ!」
ベスは目の前の御子柴を抱え込んだ。しかし、意識が朦朧とする中での咄嗟のクラッチはあまりにも甘い。腹側を介して片腕をロックしているものの、もう一方の手は御子柴の尻を辛うじて支えているに過ぎない。しかし、彼女は叫びと共に御子柴を持ち上げた。叩きつける瞬間、ロックの甘さが災いし、御子柴の身体が横に流れる。完璧な垂直落下ではない。衝撃は分散し、コンクリート上への不完全なパワーボムに終わった。それでも、場外の硬い床への衝撃は凄まじかった。御子柴はピクピクと身体を震わせ、沈黙する。
レフェリーの声が遠くで聞こえる。
「……10!……11!……12!」
ベスは膝を突き、肩で息をしながら、目の前の転がる御子柴を見下ろした。視界は赤く霞んでいる。だが、彼女の脳内では、今の不完全な技の手応えが「決定打」として処理されていた。
(……はぁっ、はぁ……。仕留めた、わ……)
朦朧とする意識の中で、彼女は勝利を確信した。場外ならこれで十分。場外カウントが進んでいる。リングに戻らねば。ベスは這うようにしてリングエプロンへと手をかけ、身体を引き上げようとする。観客の歓声が、遠く潮騒のように聞こえる。
だが。
「……行かせねえ、って……言っただろ……ッ!」
ベスの足首を、執念の塊のような冷たい手が掴んだ。リングエプロンのキャンバス生地。そのざらついた感触が、ベスの指先から遠ざかっていく。
御子柴の濁った声が、足元から響く。彼女はベスの足首だけでは飽き足らず、その手をさらに上へと這わせた。鍛え上げられた指が、ベスの太腿を覆う黒いレギンスと、その上のビスチェの境目に食い込む。御子柴は自重をすべて利用し、ベスのコスチュームを掴んで強引に引き下げにかかったのだ。
「……っ!?」
予期せぬ方向への負荷。下半身の衣服がずり下がりそうになる羞恥と、物理的な重み。ベスは咄嗟に御子柴の手首を掴み、結果としてその身はズルズルと場外へ滑り落ちていく。
『ああーっと! ガータ御子柴、まだ沈んでいない! リングへ戻ろうとするシロオニ・ベスを捕まえ、まるで奈落へ引きずり込む地獄猫のようだ! 先ほどの場外パワーボムにすら耐えるとはガータ御子柴のタフさはかなりのものですね、イカサマさん? ……イカサマさん?』
放送席では、実況アナウンサーが興奮気味にまくしたてていた。だが、いつものように軽妙な嘘で返すはずの解説席からの反応がない。不審に思った実況が隣を見ると──
『…………』
グレート・イカサマは解説席のテーブルに身を乗り出し、瞬き一つせず、食い入るようにモニターの一点を凝視していた。その表情は、かつてないほど真剣そのものだ。
『解説を放棄して見入るんじゃない! 何か、何かこう、いつもの嘘でもいいから言ってくださいよ!』
実況の悲痛な叫びに対し、イカサマは視線をモニターから一瞬たりとも逸らさぬまま、低く、重々しい口調で制した。
『……黙りたまえ、実況君。……お尻が! 半ケツが一瞬でも見えるかもしれん瀬戸際なのだぞ!』
放たれたのは、ただの剥き出しの欲望だった。実況のツッコミが放送席に空しく響き渡る。
『これまで見た事もない真剣な表情で言う事か……ッ!?』
放送席の茶番など、当事者たちには届くはずもない。ベスにとっては、これは尊厳をかけた死闘であり、御子柴にとっては、積年の呪詛を吐き出す儀式だった。
「なっ……放しなさい! どこ掴んで……ッ!? 放せ! 放すのよ、この……!」
ベスの体が完全にリング下へと落下した。だが、御子柴の手は離れない。なおもコスチュームを掴み、ベスを地面に縫い付けようとする。埃にまみれ、美しかったアッシュブロンドは汗と血で濡れそぼっている。気高さの欠片もない、泥沼の取っ組み合い。ベスは身をよじると、目の前に迫る御子柴の顔面に向けて、五本の指を大きく広げて突き出した。狙いなど定めていない。ただ、目前にあるその不快な笑みを浮かべる顔を、粉砕したいという一心だった。ベスの掌が、御子柴の顔面を鷲掴みにする。親指がこめかみに食い込み、残りの指が頬骨を締め上げる。万力のようなアイアンクローが、御子柴の頭蓋をきしませた。御子柴が苦悶の声を漏らす。それでも黒猫は、食らいついた獲物を離そうとはしない。その赤い瞳は、アイアンクローで歪められながらも、ベスを射殺さんばかりに睨みつけていた。
「三郎太はな……困ってんだよ……。テメェみたいな……自己満足女……ッ!」
潰れた声で、御子柴が毒を吐く。その言葉は、物理的な痛み以上にベスの心臓をえぐり取った。
「貴女に何が分かるというの!? そっちこそ、デビュー時の同期だかなんだか知りませんが、訳知り顔で偉そうに!」
握りしめた御子柴の顔面から伝わる脂汗の感触、相手の吐息の熱さ、そして自分自身の乱れた呼吸。すべてが生々しく、醜く、そしてどうしようもなく熱かった。
「羨ましいってか? 無神経なだけの小娘のわりに繊細だニャ!?」
御子柴が嘲笑う。ベスの心の奥底にある、三郎太と対等な時間を過ごしてきた「同期」という立場への嫉妬。それを的確に見透かされた屈辱に、ベスの顔が朱に染まった。
「無神経はそっちだろうがぁぁ……ッ!?」
ベスは絶叫した。アイアンクローの手首に力を込め、御子柴をコンクリートの床へと押し付ける。御子柴もまた、ベスの髪を掴み返し、頭を揺さぶる。レフェリーの声など、もう聞こえていなかった。リング下で、二人の女がもつれ合う。女子レスラーとしての華やかさも、プロとしての見栄えも、勝敗の行方さえも、今の二人にはどうでもよかった。ただ、目の前の相手を否定したい。自分の想いの正しさを、相手の肉体に刻み込みたい。その一心だけで、二人は泥にまみれ、衣服を乱し、髪を振り乱して罵り合った。
「クソ猫が……ッ!」
「……お嬢ちゃんが!!」
互いの顔が密着するほどの至近距離で、二人は憎悪の火花を散らす。ベスの爪が御子柴の肌を裂き、御子柴の拳がベスの脇腹を打つ。それは試合と呼ぶにはあまりに凄惨で、喧嘩と呼ぶにはあまりに切実な、魂の衝突だった。
そして。
「……19!……20!」
カン、カン、カン、カン、カン――!!!!
けたたましいゴングの音が、熱狂と罵倒の渦を断ち切るように鳴り響いた。
「カウント20! 試合終了! 両者リングアウト、引き分け!」
その宣告が、二人の動きを凍り付かせた。掴み合っていた手が、力を失う。互いに肩で息をしながら、二人はゆっくりと視線を交錯させた。
「……あっ……」
二人の口から、同時に間の抜けた声が漏れた。あまりの事態に実況が無音となり、観客たちもどう受け止めていいか声援の声もその方向性が揃わないカオスぶり。
勝者も、敗者もいない。そこに残されたのは、冷たいコンクリートの上で泥だらけになり、互いを憎々しげに、しかしどこか奇妙な連帯感を含んだ瞳で睨み合う、二人の女だけだった。
放送席で絶句する実況のとなりでグレート・イカサマが、ヘッドセットを外して一人溜息をつきながら、静かに天を仰いで言った。
「……処置無し、だな」