「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

19 / 57
第18試合(太平プロ、招待選手特別興行):シングルマッチ「シロオニ・ベスVSアカオニ・トム」

『さあ、今宵は太平プロレス特別興行、皆さまお待ちかねのメインイベントがまもなく始まろうとしております! 古くからの太平プロのファンの方は衝撃のマッチ、なんと対戦カードは、シロオニ・ベスVSアカオニ・トム! 数年前、太平プロのマットでモモタロウと幾度も戦ったあのアカオニ・トムがまさかの再来日! 実の妹であるシロオニ・ベスと、ここ日本のリングで対決するというから驚きです!』

 実況アナウンサーの興奮気味な声が、超満員の会場に響き渡る。照明が落とされ、激しい重低音の入場曲が鳴り響くと、観客のボルテージは最高潮に達した。花道から姿を現したのは、筋骨隆々とした巨体に「TOM」の文字が躍る赤のシングレットを纏った男。かつて日本マット界で大暴れしたオニガシマ・ブラザーズの一角、アカオニ・トムだ。

『プロフィールで我々もその血縁関係は目にしていましたが、それがどうして兄妹対決ということになったのでしょうか。解説の松平美樹さん?』

 カメラが解説席の松平美樹を映し出す。太平プロレスの社長令嬢であり、自身もレスラーとして活動する彼女は、どこか複雑そうな、それでいて少し呆れたような笑みを浮かべてマイクを握った。

『ええ、まぁ……三郎太クンの事でちょっと』

言葉を濁す美樹の様子を見てなにやら察したか、実況も言葉を選んで話し始める。

『あー……つまり、妹が日本で男を追い回している件に関して、兄として問い質しに来た……ということでしょうか?』

 実況の直球すぎる問いかけに、美樹はあえて隠すこともせず、潔く頷いて見せる。

『ありていに言えば、はい。ベスちゃんの『覚悟』を問うということで。トムさん、渡航費と滞在費のみのほぼノーギャラでリングに上がってくれるんですから、代表としては是非ここでお客さんにも楽しんでいただこうと思いまして』

 どこか遠くを見つめるような彼女の視線は、既に計算高い興行主のそれだ。そんな彼女の隣で、実況は思わず苦笑を漏らしながらも、再び大音量のマイクパフォーマンスで観客を煽り立てた。

『心強い程に商魂たくましい美樹さんでした! それでは我々も、この世紀の兄妹喧嘩マッチをしかと見届けさせてもらいましょう!』

 

 リング上、青コーナーに立つシロオニ・ベスは、いつになく厳しい表情を崩さない。アッシュブロンドのショートボブを揺らし、グレイッシュブルーの瞳で対角線上の巨漢を射抜く。黒と赤を基調とした、豪華なアラベスク模様のレギンスが、スポットライトを反射して美しく、そして鋭く輝いていた。対する赤コーナー、トムは少し突き出た腹を叩き、二本の角がついたバイザーの奥で不敵な笑みを浮かべている。レフェリーが中央に両者を呼び寄せ、ルール説明を行う中、兄妹の視線が激しく火花を散らした。

「ベスよ……おれはな。お前がモモタロウを追っかける過程で、いい社会勉強になるだろうと思って黙って見送ったんだ」

 トムが地響きのような低い声で切り出した。その声には、兄としての温情よりも、失望に近い冷たさが混じっている。

「上兄様(うえにいさま)……」

 ベスは短く応えた。幼い頃から仰ぎ見てきた、米国マット界五指に入る強豪。その威圧感は、いかに日本で場数を踏んできた今のベスにとっても無視できないほど重い。

「それがなんだ? モモタロウの腰巾着だった小僧に唾つけて追い回してるたぁどういうことだ!?」

 トムの怒鳴り声がスピーカーを通さずとも会場の隅々まで届く。それに対し、ベスはアッシュブロンドの髪を揺らし、凛とした声を張り上げた。

「三郎太さんの何を知っているでもない上兄様に、言われる筋合いはありません! 過去に上兄様が彼を見た時にどうだったかなど、今の私には関係のないこと。今は……三郎太さんは、私が目をつけるに値する男になっている。それだけのことです!」

 ベスの断固とした宣言に、トムはモヒカン風の髪を揺らして鼻で笑った。

「吠えたな。いいぜ、そこまで言うなら、今日はその妹の目が曇ってねえか、ちっとお兄ちゃんが確かめてやる」

 トムが大きく一歩を踏み出し、分厚い胸板を突き出した。対するベスもまた、獲物を狙う鬼の瞳で応じる。

「……上等」

 両者がそれぞれのコーナーへ下がる。会場全体が固唾を呑んで見守る中、試合開始を告げる乾いたゴングの音が鳴り響いた。直後。

「おらよっ!」

 巨体に似合わぬ瞬発力で踏み込んだトムの右腕が、豪快な弧を描いてベスの頬を捉えた。乾いた破裂音がリングにこだまする。

ビンタではない。容赦のない、文字通りの「張り手」だ。ベスの華奢な体は、まるで木の葉のように宙を舞い、そのまま後方のロープ際まで吹き飛ばされた。

「ぐ……ッ!」

 ロープにしがみつき、かろうじてダウンを免れるベス。視界が火花を散らし、耳の奥でキーンという耳鳴りが止まない。これが、かつて伝説のレスラーたちと鎬を削った男の、挨拶代わりの一撃。手加減など微塵も感じられない、プロの洗礼だった。だが、ベスは笑う。それはそれだけの価値が自分にあることの証明だからだ。

 トムは追撃せず、どっしりと中央に構えてバイザーを直し、待ち受けている。その余裕に、ベスのプライドが激しく燃え上がった。

ベスはマットを蹴って、一気に走り出した。重心を低く保ち、踏み込みと同時に跳躍。右足の裏を真正面に向け、渾身のビッグブーツを繰り出した。

「お返しです!」

 ドムッ、という鈍い音が響き、ベスのブーツがトムの分厚い胸板を激しく捉えた。体重を乗せた、渾身のフロントキックである。しかし、結果はベスの予想を裏切るものだった。

「うん」

 トムはわずかに二歩、後退しただけだった。痛がる素振りも見せず、まるで飛んできた羽虫でも払ったかのような、悠然とした立ち姿。

「……なっ!?」

 ベスは着地し、驚愕に目を見開いた。今の自分の一撃は、並のレスラーなら先ほどのベスのようにロープ際まで蹴り飛ばせる威力があったはずだ。だが、目の前の巨壁は、びくともしていない。ベスの瞳に動揺が走る。かつて米国で兄たちとスパーリングを重ねていた頃、彼女は確かに手応えを感じていたはずだった。三人の兄を次々と「踏み台」にし、自分こそが鬼の血を最も濃く継ぐ最強の存在だと信じて日本へ渡ってきたのだ。だが今、目の前に立つ長兄トムの肉体は、記憶の中にあるどの「壁」よりも分厚く、禍々しい圧迫感をもって彼女を圧倒している。

 思わず一歩、ベスが後退りしたその瞬間。

「甘ぇんだよ!」

 トムの太い腕が、獲物を狙う蛇のように伸びた。無意識に逃げようとするベスの頭部を、無骨な五指がむんずと掴み取る。トムはベスの体を強引に引き寄せ、自身の腰を鋭く沈めた。次の瞬間、ベスの視界に強烈な「膝」が迫る。重い肉撃音がリングに響き渡った。トムの突き出した膝が、ベスの腹筋を容赦なくえぐり抜く。キッチンシンク、巨漢レスラーが放つその一撃は、まるで大型トラックの追突を受けたような衝撃を彼女の臓腑に叩き込んだ。

「かはっ!?」

 肺から空気がすべて絞り出され、ベスはその場に膝をついた。胃の腑を直接かき回されたような激痛に、グレイッシュブルーの瞳が苦悶に歪む。腹を押さえ、必死に酸素を求めて喘ぎながら、彼女は信じがたい現実に声を絞り出した。

「……そんな、兄様、達より……私の方が、強い、はず……ッ!?」

 かつて自分が凌駕していたはずの兄。その実力が、なぜ今これほどまでに隔絶しているのか。その困惑を見透かしたように、トムは鼻に下げたバイザーの奥で、どこか呆れたような、しかし憐れむような視線を妹に向けた。

「あのなー……」

 トムは腰に手を当て、リングの中央で吐き捨てるように言葉を継いだ。

「マイクの奴は弱ぇからともかく……おれやジョニーはな、スパーの時はずっと手加減してたんだよ。当たり前だろ? 本気で可愛い妹をボテくりまわして病院送りにする兄貴なんざ、格好悪くてありえねーからな」

「そんな……ことが……ッ!?」

 ベスの顔が屈辱で赤く染まる。今まで積み上げてきた自信の土台が、ガラガラと音を立てて崩れていく。自分の実力は、兄たちの優しさに守られた温室の産物だったというのか。そう言われてみれば、確かにスパーの後でもトムやジョニーはマイクと違いすぐに起き上がってビールを飲みに行っていた。自分はそれを不審にも思わず思い上がっていたのか。

「お、心当たりがありそうなツラだな」

 トムがニヤリと笑う。だが、そのショックを打ち消すように、ベスは日本での過酷な戦いの日々を思い返してもいた。宮川三郎太に敗れ、御子柴の暴挙に立ち向かい、バッカス木桜との死闘を制してきた。あの痛み、あの熱さ。それだけは、決して嘘ではないはずだ。

「昔のお前なら、プライドばかり高くてそんな事実、認めようともしなかっただろうに。どうやらちったあ、日本のマットで揉まれて勉強にはなったってことか。だがな、ベス」

 トムの言葉から愛嬌が消え、冷徹な勝負師の響きが混じり始める。

「つーわけでお前の目なんてそんな大したもんじゃねーの。どうせ三郎太ってのもモモタロウの残照でちょいと眩しく見えたってだけの大した事ないレスラーに決まってら」

 トムはわざとらしく鼻を鳴らし、ベスの胸元を指差して嘲笑った。

「あ?」

 ベスの喉から、低く鋭い声が漏れた。自分の誇りを傷つけられた時よりも、さらに深い場所にある「逆鱗」に触れられた感覚。自分を打ち負かし、そして自分がリベンジを誓った唯一無二の男。その価値を否定されることは、今のベスにとって何よりも耐え難い侮辱だった。立ち上がったベスの足取りから、迷いが消える。

「……上兄様」

 ベスは一歩、また一歩とトムに歩み寄る。その瞳には、先ほどまでの恐怖や戸惑いではなく、冷たく澄んだ、しかし激しい怒りの炎が宿っていた。

「私のリベンジリストのトップに置いた……私の『敵』をバカにしないでっ!!」

 渾身の力を込めた平手打ちが、トムの髭面に炸裂した。女子レスラーとは思えぬその一撃に、140キロの巨躯を誇るトムの首が横にのけぞる。

「フン……ようやくいい『鬼の目』になったじゃねーか」

 頬を赤く腫らしたトムが、満足げに口の端を歪める。だが、ベスの猛攻は止まらない。怒涛の勢いでロープへ飛ぶと、その反動を利用して一気に加速。跳躍し、空中でしなやかに体を捻りながら、両足の裏をトムの顎先へと突き出した。完璧なタイミングで放たれたドロップキック。顎を跳ね上げられたトムの大きな体が、初めて大きく揺らいだ。

「……ぬうっ!?」

 ズシン、とマットを揺らしてトムが片膝をつく。巨漢が膝をついた瞬間、会場にどよめきが走った。チャンスだと直感したベスは、すぐさまセカンドロープへと駆け登る。通常ならコーナーの最上段まで登るべき場面だが、今は高さより速度が必要だった。セカンドロープを蹴り、矢のような速さで宙を舞う。

「これでも……喰らえっ!!」

 フライングボディアタック。ベスの全身がトムの分厚い胸板に衝突し、その重みに耐えかねたトムは、仰向けにマットへ沈んだ。完璧な流れ。会場のベスファンから割れんばかりの声援が飛ぶ。ベスは荒い息を吐きながら、ダウンしているトムの側頭部の髪をむんずと掴んだ。さらに追撃の手を緩めず、引き起こして自分の得意とする投げ技に繋げようと言うのだ。

 

 だが。

 

「……甘ぇっつってんだろ!!」

 地獄の底から響くような咆哮と共に、トムの巨体が爆発的な力で跳ね起きた。引き起こそうとしていたベスの体は、逆にトムの勢いに跳ね上げられる。トムは助走も、ロープの反動も、予備動作すら必要としなかった。ただ立ち上がるその瞬発力と、丸太のような腕の振りのみで、ベスの首元へその右腕を叩き込んだ。

「そろそろギアあげんぞ! トムさんラリアットぉ!!」

 爆発かと耳を疑うような音と、衝撃波のようなものがリング全体を震わせる。ベスが浮き上がり、彼女の体は文字通り、首を軸にして宙を一回転した。

「ごはっ……!?」

 重力さえも無視したような激しい一回転を経て、ベスはマットに叩きつけられた。意識が真っ白に染まり、視界がぐるぐると回り続ける。自分の首がまだ胴体についているのかさえ、定かではないほどの凄まじい衝撃だった。これが、長年の間、世界を舞台に戦ってきたベテラン強豪の「本気」の片鱗。ベスは、死の淵を覗き込むような暗闇の中で、遠のいていく意識を必死に繋ぎ止めようとしていた。

 

『一回転ーっ! なんという威力だ! 助走もロープ反動もなし、ただ立ち上がりざまの一撃で、ベスの体が首を軸に宙を舞いました! これがアメリカで五指に入る強豪と名高い、アカオニ・トムの超威力! 久々に目にしましたね、美樹さん!?』

 実況アナウンサーの絶叫が、震えるリングをさらに煽る。マットに叩きつけられたシロオニ・ベスの体は、衝撃でピクリとも動かない。アッシュブロンドの髪が汗とマットの摩擦で乱れ、その下でグレイッシュブルーの瞳は焦点を失いかけていた。

『うわ……あの技で昔、おとーさんは首に一カ月カラーを巻く羽目になったのを思い出しました。モモタロウでさえ一発で意識を飛ばしかけるんです。レスラーになった今見ると……背筋に鳥肌が立つ思いです』

 解説席で身を乗り出した松平美樹が、戦慄を隠しきれずにマイクを握る。

『松平林吾からベルトを一時的に奪って、返してほしければモモタロウが来いと挑発したあの試合ですね! いやはや懐かしい。あの頃とまったく遜色ない凄まじい威力であります! しかし、ご覧ください! 並のレスラーなら一撃KOもやむなしの一撃を受けて、まだシロオニ・ベスは立ち上がろうとしている』

 実況の言う通り、指先がマットを強く掴み、ベスは動き出していた。血の混じった唾液をマットに吐き捨て、震える腕で己の体を押し上げる。だが、その不屈の意志さえも飲み込むような巨大な影が、彼女を覆った。

『……彼女の強さも、本物ですね。でも……』

 美樹の言葉が途切れる。リング上、トムは倒れ込むベスの腰を強引に掴み、そのまま軽々と抱え上げた。

「どうした、もうおしまいか? 三郎太が強いんじゃなくて、お前が弱いだけか、あぁん?」

 トムはベスを逆さまの状態で高々と掲げた。滞空式ブレーンバスター。重力に逆らうようにして、ベスの体が空中で静止する。トムの強靭な背筋と腕力が、その巨体を微動だにさせない。ベスの脳に血が上り、顔面が赤く染まっていく。数秒、あるいは永遠にも感じられる静止の後、トムの広背筋が爆発した。リングが軋むほどの音を立てて、ベスの背中がマットに叩きつけられた。呼吸が止まり、内臓がせり上がってくるような苦悶。ベスは反射的に体を丸めたが、そこへトムが巨大な足を踏み鳴らして迫る。

(……一撃が重すぎて、反撃に出る余裕が作れない……っ!)

 本能的な危機感が、ベスの体を動かした。彼女はなりふり構わずマットを転がり、ロープの間をすり抜けて場外へと逃れた。床に手をつき、荒い息を吐きながら膝をつく。

「くっ……屈辱……っ!」

 ベスが生まれて初めてとった、まるで格下のレスラーが取るようなエスケープ。しかし、今の彼女にはこうして間を置かなければ、反撃の為の呼吸を整えることさえ難しかった。だが、アカオニ・トムは「鬼」だった。妹が息を整える時間など、一秒たりとも与えるつもりはない。

「にがさねーよっ!」

 アカオニ・トムの巨体が、ロープを掴んで跳躍した。弾丸のような勢いで場外へ飛び出す、必殺のプランチャーだ。

「きゃっ!?」

 逃げ場のないベスの背中に、空飛ぶ肉塊が衝突した。コンクリートの上に敷かれた薄いマットの上で、二人の体が激しく転がる。ベスは床の硬い感触に悲鳴を上げ、トムの重みに押し潰された。

 トムはすぐに立ち上がると、呻くベスの首根っこを掴んで強引に引き起こした。

「ほら、さっさと上がれ。テメーの『覚悟』ってのは、外で寝転がるためのもんか?」

 抵抗する力も残っていないベスを、トムはリングの中へ乱暴に押し戻した。自らもエプロンを蹴ってリングに滑り込む。観客席からは、容赦のない兄の攻勢に悲鳴に近い声が上がっていた。

 ベスはリング上でマットに四つん這いになり、必死に酸素を求めて肺を動かしていた。意識は朦朧とし、視界の端が黒く欠け始めている。

「お寝んねしたいなら、コイツで永遠に寝かしつけてやるっ!」

 トムが咆哮し、その巨体を高く舞わせた。倒れ伏す獲物へ、全体重を預けて背中から落下するセントーン。直撃すれば、今度こそベスの意識は粉砕され、試合は終わるだろう。だが、その瞬間。ベスの瞳に、鋭い光が戻った。

(今……よ……ッ!)

 死に体に見えた彼女の体が、バネのように弾けた。トムの巨大な尻がマットを叩く寸前、ベスは横へと鋭くローリングした。標的を失ったトムのセントーンが、無人のマットを激しく叩いた。自重と落下の衝撃がすべて自分自身の脊椎へと跳ね返り、トムの顔が苦痛に歪む。

「あ痛ぁっ!?」

 尻餅をついた状態で硬直するトム。その背後、ベスは執念で立ち上がっていた。膝が笑い、視界が揺れている。だが、怒りと、三郎太を侮辱されたことへの反発心が、彼女の筋肉に無理矢理な力を供給していた。

「ああああああっ!」

 叫び声を上げながら、ベスはトムに組み付きその腰を抱え込んだ。通常なら、140キロもの巨漢を投げ飛ばすなど不可能に近い。だが今の彼女には、自分を支える理性を焼き切った「鬼」の力が宿っていた。ベスは奥歯が砕けんばかりに食いしばり、トムの巨体をマットから引き剥がした。

「ぬおっ!?」

 トムの驚愕の声を、ベスの咆哮が塗り替える。彼女は自身の体を後方へ投げ出すようにして、トムの巨体をぶっこ抜いた。空中を舞うアカオニ。ベスは腰の捻りを最大限に利用し、対角線上のマットへと彼を叩きつけた。 鮮やかなエクスプロイダー。巨漢がマットに沈み、ベスもまた、投げきった反動でその場に倒れ込んだ。

 

 エクスプロイダーの衝撃が、リングのキャンバスを通して会場全体に伝播した。巨漢トムがマットを背に悶絶する光景に、観客は総立ちとなって歓声を送る。しかし、投げた側のベスもまた、体力の限界に近い。肩で激しく息をしながらも、彼女は止まらなかった。

「正直、見直したわ上兄様ッ!!」

 ベスは自らの足に鞭を打ち、膝をついて身を起こそうとしたトムのもとへ駆け込んだ。シャイニング・ウィザード、トムの立て膝を足蹴に、その頭部へしなやかな膝を叩き込む。

「ぐっ!?」

 再びトムの首が大きくのけぞる。追い打ちをかけるべく、ベスは反対側のロープへと走り出した。加速し、その反動を利用してさらなる打撃を浴びせようと、弾丸のごとくトムへ向かって突進する。

 だが、オニガシマ・ブラザーズの長兄は、倒れたまま終わる器ではなかった。

「甘ぇんだよ、おれはまだ見直してねーぞっ!」

 起き上がりざま、突進してくるベスのスピードをトムは真っ向から利用した。ベスの胴体を懐に抱き込むようにキャッチすると、そのまま自身の体重を乗せて後方へ倒れ込むマウンテンボムが炸裂。ベスの背中は、トムの巨体に押し潰される形でマットに圧殺された。

「ぐはっ……!?」

 まるで背骨が砕け、肺からすべての空気が奪われたような衝撃。ベスは魚のように口をパクパクとさせ、マットの上で悶える。トムは重い体を引きずりながら立ち上がり、右腕の肘サポーターを「パンッ」と小気味よい音を立てて叩いた。それが、彼の「終わりの合図」であることを、会場の誰もが理解していた。トムは大きく両腕を広げ、観客を煽る。凄まじいプレッシャーがリングを支配した。立ち上がろうと、意識の混濁の中で這いずるベスをトムが冷徹に見据える。

「いくぜぇ、怒涛のトムさんラリアットぉ!!」

 トムが巨体を唸らせ、突っ込んできた。それは先ほどの「トムさんラリアット」とは比較にならない、風を切る音が聞こえるほどの猛威を纏った必殺の一撃。ベスは、迫りくる「死」に近い衝撃に直感的に反応した。回避が間に合わないと判断した刹那、彼女は咄嗟に真後ろへ体を倒し、マットへ背を預ける。

 トムの太い右腕が、ベスの鼻先をわずか数センチで素通りしていった。勢いの死なないトムの腕は、そのまま背後のコーナーにある鉄柱の上端に激突した。耳をつんざくようなキツい金属音が響き渡り、観客席から悲鳴が上がる。なんと、トムの腕が叩きつけられた鉄柱の先端が、外側へ向かって不自然な角度にナナメに曲がっていた。

「んー……外れちまったかぁ」

 トムは平然と腕を引き戻し、肩を回す。ベスはその光景に戦慄し、冷や汗が背中を伝うのを禁じ得なかった。

「……これが、上兄様の本気の『怒涛のトムさんラリアット』の威力!? あんなもの、まともに喰らったら……」

 鉄柱をひしゃげさせる破壊力。もし回避がコンマ一秒遅れていれば、自分の首は今頃文字通りへし折られていただろう。トムは不敵に笑いながら、再びベスとの距離を詰め始めた。

「病院送りになったらごめんなぁ、ベス。だがここで加減するとお前のためにならねー。……怖いなら、今すぐここでギブアップしていいぜ?」

 その言葉は、兄としての慈悲か、それとも試練か。ベスは震える手で膝を叩き、自分を奮い立たせる。

「あれを受けて病院で済めば、御の字ですね……! けど、ここで逃げたら……三郎太さんのことを認めさせられませんし……」

「ほぉ……?」

 トムが微かに目を細める。ベスは乱れた髪を振り払い、折れそうな心を繋ぎ止めるように叫んだ。

「なにより、外ならぬ上兄様の妹、このシロオニ・ベスとして! 自分自身と、兄様たちに二度と誇れないわ! ……来い!!」

 ベスはグレイッシュブルーの瞳をカッと見開き、受けて立つ構えを見せた。その気迫に、トムは一瞬だけ満足げに口角を上げた。

「フン……」

 トムが再び踏み込んだ。巨大な丸太のような足が、ベスの顔面を狙って重厚な前蹴り——ビッグブーツを放つ。重戦車のような圧力。しかし、ベスはその威力に気圧されることなく、鋭い身のこなしで最小限の動きで回避した。トムの足が空を切る。その瞬間、ベスは弾かれたようにトムの背後へと回り込んだ。

「負けたからじゃなく、あの男だからこそ……私は欲しいのよ! 邪魔をするなぁぁぁぁ!!」

 ベスはトムの巨体をアルゼンチン・バックブリーカーの形で強引に肩へ担ぎ上げた。140キロの加重が彼女の華奢な肩に食い込み、脚がミシミシと悲鳴を上げる。首の激痛に視界がチカチカと明滅するように思える。だが、彼女の執念が、その重力を制した。

「白鬼……金棒落としっ!!」

 担ぎ上げたまま、ベスはトムの頭を自身の膝元へ向けてシットダウン式に振り落とした。バーニングハンマーに近いその落とし技は、トムの脳天を無慈悲にマットへ突き刺した。

「おごっ!?」

 マットが激しく波打ち、轟音と共にマットへ突き刺さったトムの巨体。ベスはそのまま、崩れ落ちるようにして兄の胸板に被さった。レフェリーがマットを叩き、会場全体がカウントを合唱する。

 

「ワン! ツー!」

 

 スリー――その直前、トムの剛腕がベスの体を文字通り弾き飛ばした。

 

「……仕留めきれない!?」

 マットを転がり、膝をつきながらベスが絶句する。これまでの死闘をことごとく終わらせてきた最大級の得意技、白鬼金棒落とし。脳天から垂直に叩き落とす衝撃を、トムは首の筋肉だけで耐えきり、あろうことか自力で跳ね除けたのだ。

「足りねーな、この程度できんのは分かってんだよ、ベス!」

 トムがゆらりと立ち上がる。その顔面には、脳天を打った衝撃による赤黒い鬱血が滲んでいたが、視線は一切濁っていない。

『返したぁぁーっ!! なんとアカオニ・トム、正真正銘、完璧な角度で突き刺さった『白鬼金棒落とし』を跳ね除けた! カウントは2! これでも決まらないのか!?』

 実況の声に悲鳴が混じる。解説の美樹も、信じられないものを見るような声を上げた。

『あの技は雫ちゃんやバッカスさんも仕留めた技なのに……ギリギリ2.9でとかじゃなく、力任せに返すなんて! あの頃と同じ……いえ、もっと強くなってる?』

『さしものシロオニ・ベスの表情も強張っております! 最大の必殺技でも決められない絶望! 翻るにアカオニ・トムの必殺技「怒涛のトムさんラリアット」を受けてしまえば、あの無残にひしゃげた鉄柱のごとく首がへし折られるのは必定! シロオニ・ベス、これは絶体絶命かーッ!?』

 ベスの肩が激しく上下する。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。最強の矛を折られ、目の前には再び鋼鉄の壁が立ちはだかっている。だが、彼女の瞳は死んでいなかった。

『……確かにショックは受けてそうですけど……彼女の目はまだ諦めてません! なにか狙いがあるの……?』

 美樹が指摘した通り、ベスは恐怖の先にある、ある「賭け」へと意識を研ぎ澄ませていた。

「全身全霊出しきって来いやっ、怒涛のトムさんラリアットぉ!!」

 トムが再び咆哮し、突進する。先ほど鉄柱をひしゃげさせた、あの必殺の一撃。今度は逃げ場のないリング中央だ。死神の鎌が迫るような威圧感。しかし、ベスはあえて足を止めなかった。

「逃げ……ない! 前へっ!」

 彼女は退くのではなく、弾丸のようにトムの懐へ飛び込んだ。空を裂く風切り音が、ベスの頭上を通り抜ける。トムの腕を潜り抜けて回り込み、その巨大な背中が目の前に現れた瞬間、ベスはマットを強く蹴り上げた。

「おおおおっ!」

 身体をひねり、宙を舞う。渾身の延髄斬りが、ラリアットの勢いで前のめりになったトムの無防備な首筋を捉えた。

「ぐおぅ……ッ!?」

 衝撃に、140キロの巨体がガクンと膝をつく。ベスはこの瞬間を逃さなかった。着地と同時に、膝をついたトムの後方から正面に回り込む。トムの頭を自身の腹の下に抱え込み、その両腕を交差させてガッチリとロックした。

(イチかバチか、やるしかない……! 練習は十分した。実戦では初めてだけど……!)

「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)!!」

 ベスの全身の筋肉が猛り狂う。腕をクロスさせた状態でトムを逆さまに抱え上げ、自身の跳躍力と体重のすべてを注ぎ込む。トムが脱出しようと足掻くが、交差された腕のロック――「十字墓標」のクラッチがそれを許さない。

「ぬおっ、クラッチが……抜けんッ!? がはぁっ!?」

 会場全体を揺るがす轟音。シットダウン式クロスアームパワーボム。トムの巨体は完全にベスのコントロール下でマットへ垂直に突き刺された。ベスはそのまま、着弾の姿勢を崩さずトムの両腕の上に自身の脚をかけてがっちりとホールドする。逃がさない。体力的にも……もう、これで決めるしかない。

 

 下になったトムの顔。ベスからはその表情を見ることはできない。だが、必死の形相で抑え込む妹の重みを受けながら、トムの険しかった顔の筋が、ふっと緩んだ。

「……フッ」

 フォールされながら、アカオニ・トムは不敵に、そしてどこか満足げに笑った。レフェリーがキャンバスに身を投げ出し、激しく右手を振り下ろす。

「ワン!」

 観客が息を呑む。激闘の結末を見届けようと、会場中が静まり返った。

「ツー!」

 リングサイドのファンたちが、祈るように声を合わせる。

 

 そして――。

 

「スリー!!」

 

 カーン、カーン、カーン、カーン!!

 

 試合終了を告げるゴングが、嵐のような大歓声にかき消されながら太平プロレスの会場に鳴り響いた。

『決まったぁぁーーっ!』

 実況アナウンサーが、興奮で裏返りそうになる声でマイクに向かって絶叫する。

『腕を十字に固めての……何でしょうか、これは! 彼女が初めて披露する、恐るべき変形クロスアーム・パワーボムです!』

 解説席の松平美樹も、身を乗り出してリングを見つめていた。その顔には、一人のプロレスラーとしての純粋な驚きと称賛が浮かんでいる。

『……確信をもって放ったフォームでした! 窮地で咄嗟に出た偶然なんかじゃないわ」

『ではこれは、彼女の新必殺技ということですね!? シロオニ・ベス、渾身の新技で見事、あの偉大なる兄、アカオニ・トムからスリーカウントを奪いました!!』

 湧き上がる万雷の拍手。紙テープの代わりに無数の歓声がリングへ降り注ぐ中、美樹がマイクから少し口を離し、感慨深げに呟く。

『……認めてもらえたのかな、ベスちゃん……?』

 

 リング上。全身のエネルギーを使い果たしたベスは、ホールドを解くと同時に、そのまま横へと崩れ落ちた。肩で荒い息を繰り返し、天井の眩しいスポットライトをぼんやりと見つめる。勝った。巨大な壁を、ついに自分の力で打ち破ったのだ。手加減ではない、本気のアカオニ・トムの猛攻を耐え抜き、実力でねじ伏せた。だが、勝利の余韻に浸る間もなく、ベスの隣で信じられない光景が起こる。

 ズンッ、とマットが重く揺れた。

「……ッ!?」

 ベスが弾かれたように身を起こすと、つい数秒前までフォールを返せず押さえ込まれていたはずのトムが、何事もなかったかのようにむっくりと上半身を起こしていたのだ。新必殺技の威力をもってしてもなお、兄を完全にKOすることなどできていなかった。底知れぬオニのタフネスを目の当たりにし、ベスの顔に驚愕が走る。

 しかし、立ち上がったトムから放たれる気配に、先ほどまでの刺すような殺気は微塵もなかった。彼は首をゴキゴキと鳴らしながら頭を掻いて、目の前で呆然としている妹を横目で見やる。

「……ま、いーだろ」

 トムはニヤリと笑い、バイザー越しに鋭く、しかし温かな視線を向けてベスを指さす。

「認めねえと言ったのは撤回してやる。お前はもう、おれの知らない場所で、立派に『鬼』になったらしーな」

 その言葉は最大級の賛辞だった。かつて手加減をしてくれていた兄が、全力をぶつけ合った末に自分を一人のプロレスラーとして、そして鬼の血を継ぐ者として認めてくれたのだ。ベスの目頭が熱くなる。激闘の痛みも忘れ、彼女はリングの中央で正座するように姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「……ありがとうございます、上兄様」

 兄妹の美しい絆の結末。会場中が温かな拍手に包まれる中、トムがふと表情を引き締めた。

「だがな、ベス」

 去り際の足を止め、トムが肩越しに重みのある声を投げかけた。その響きに、先ほどまでの晴れやかな充足感は一瞬で霧散し、ベスは弾かれたように顔を上げた。

 

「お前はともかく……あの三郎太ってのがお前に相応しい男かどうか、おれはまだ認めてねえ」

 勝利の後の多幸感に浸っていたベスの思考が、予期せぬ言葉に停止する。

「え……?」

 聞き返す彼女を余所に、トムはバイザー越しに楽しげな、しかし底の知れない悪戯っぽさを湛えた瞳を向けた。

「だから、ちょいとウチの弟子に、品定めさせに行かせてる」

 その言葉を聞いた瞬間、ベスの全身から血の気が引いた。トムの弟子。その単語から連想される人物は、彼女の記憶に強烈な嫌悪感と共に刻まれている。

「弟子……って、まさかディーディーのことですか!?」

 ベスの悲鳴に近い問いかけを意に介さず、トムは「よっこいしょ」と立ち上がった。四方八方から降り注ぐ観客の拍手に対し、気さくに手を振り返しながら、巨体を揺らしてロープの間をくぐり抜ける。リングの下へ降りるその背中は、すでに試合を終えた後のリラックスした空気を纏っていた。

「おれは帰るわ。まぁ何にせよ、後悔だけはしないようにな。目当ての敵が失踪なんぞしちまうと、本当につまらねえからな……」

 かつて日本のマットから忽然と姿を消した宿敵・モモタロウへの皮肉とも本音とも取れる言葉を残し、トムは花道へと足を向ける。

「ちょ、待って上兄様!?」

 ベスは慌てて立ち上がり、ロープに飛びついて去り行く巨漢の背中に呼びかけた。

「ディーディーは一緒に来たわけではないのですか!? アイツ、絶対に悪ふざけするに決まって……! 一体どこに!?」

 必死の形相で叫ぶ妹を背に、トムは振り返ることもなく、ただ右手だけをヒラヒラと高く掲げた。

「おつかれー、ばいならー」

「上兄様っ!?」

 底抜けに軽い別れの挨拶を残し、観客に愛嬌を振りまきながら、アカオニ・トムは歓声の渦巻く花道の奥へと姿を消していった。リングに取り残されたベスは、勝利の喜びもどこへやら、頭を抱えてリングのロープに突っ伏した。花道で年老いたファンに手を握られてさめざめ泣いて喜ばれ、ふりほどけずに困っている根っこのところで人の好い兄を茶化している実況や、それをなだめる美樹の声など欠片も耳に入ってこない。

 

 強敵である兄に認められたという達成感など霞んでしまった。彼女の心の中には、三郎太に迫る底抜けに明るい邪悪な影への特大の不安だけが残されていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告