「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
喧騒と熱気が渦巻く太平プロレス主催興行の試合会場。リングを照らす照明が、青いキャンバスにまぶしい光だまりを作っている。その光の中に立つ一人の青年、宮川三郎太は、どこか居心地の悪さを感じながら対角線のコーナーを見つめていた。
実況の絶叫がスピーカーを震わせる。
『さぁ、本日の太平プロレス興行メインイベントは先輩後輩対決! ライジング雫は練習生時代、宮川三郎太の付き人として指導され面倒を見られていたそうです。そのライジング雫は本日でデビューしてちょうど1年、先輩に成長した実力を見せられるか!?』
その言葉通り、青コーナーには白と青を基調としたフリル付きのリングコスチュームに身を包んだ、小柄ながらも引き締まった肉体の少女、ライジング雫が立っていた。黒髪のショートボブが微かに揺れ、その紫色の瞳は、いつもの冷静な優等生のそれではなく、どこか切迫した熱を帯びて三郎太を射抜いている。
『しかし、解説の松平美樹さん、さすがに若手エースの宮川三郎太に挑むのはいささか無謀なのでは?』
実況が水を向けると、解説席に座る団体社長令嬢、松平美樹がマイクを引き寄せた。
『そうですね。実力で言えばまだまだ三郎太クンには届かないと思います。ですが今回の試合は彼女が望んだもの。皆さんには彼女がその熱意でどこまで食らいついていけるか。そこを温かく見てあげてほしいですね』
美樹の言葉は穏やかだが、その表情には複雑な色が混じっている。彼女は行方不明のモモタロウのマスクを保管し、その帰りを待ちながら団体を支えている立場だ。三郎太が今、奇妙な人間関係の渦中にいることを、彼女は誰よりも懸念し、密かに責任を感じてもいた。
『成程。しかし、タレコミによると先日の襲来を宮川三郎太が退けて以来、シロオニ・ベスは宮川三郎太を『旦那様候補』と呼び、その周囲につきまとっているとか。……ひょっとして嫉妬が理由の対戦カードだったりなんかは……?』
『そ、そんなことはありません』
美樹は必死にマイクを握りしめ、あからさまに視線を泳がせながら言葉を濁した。
『とはいえ、多少はその……根性を叩き直す的なニュアンスも、無くはないかもしれませんが……?』
その様子を、実況は面白がるように逃さず畳みかける。
『おっと、美樹さん、目が泳いでいますよ! 確かに宮川三郎太は昨日の試合でも苦戦を強いられていました。調子の波があるなら、案外良い勝負になるのかもしれませんね! 期待しつつ、我々は二人の試合を生暖かく見守りましょう!』
『そうですね、生暖か……えっ!?』
ゴングが打ち鳴らされた。
『さぁ、ここで試合開始のゴングが鳴ったぁ!』
三郎太は一つ息を吐くと、意を決してリング中央へと歩み出た。
(やるしかない。雫ちゃんだって、もうデビューした立派なプロレスラーだ。これは試合だ)
自分に言い聞かせ、両手を広げてロックアップの構えを取る。真正面から組み合い、力比べで圧倒してやるつもりだった。雫もまた、真っ直ぐに三郎太を見据えて歩み寄ってくる。距離が縮まり、互いの腕が触れ合いそうになった、その瞬間だった。
「っ!?」
雫の体がブレたかと思うと、その姿がかき消えた。いや、沈み込んだのだ。ロックアップに応じると見せかけ、三郎太の意識が「組み合う」ことに固定された一瞬の隙をつき、雫の白いリングシューズが閃いた。 鋭いハイキックが、無防備な三郎太の側頭部を捉える。 バチンッ! という乾いた破裂音がリングサイドに響き渡った。
「ぐっ……!」
三郎太はよろめき、驚愕の表情で後輩を見下ろした。衝撃もさることながら、その遠慮のない一撃に思考が追いつかない。雫は足を振り抜いた姿勢のまま、紫色の瞳を潤ませ、しかし怒気を孕んだ声で叫んだ。
「あの試合からこっち、先輩はあの娘にデレデレしすぎです!」
「なっ!?」
図星をつかれたわけではないが、あまりの剣幕に三郎太は狼狽した。デレデレなどしているつもりはない。ただ、あの強力な外国人選手、シロオニ・ベスにつきまとわれ、困惑しているだけなのだ。だが、雫の目にはそうは映っていないらしい。三郎太の胸中に、焦りと苛立ちが混ざり合う。
(違う、誤解だ! ……いや、今は試合中だ!)
三郎太は反射的に右肘を振り上げた。彼の身体から発せられる気が、右肘に集束し僅かに輝きを帯びる。今や三郎太の得意技の一つとなったファイナル・エルボーだ。
「……!」
だが、振り下ろそうとした瞬間、三郎太の脳裏に雫の笑顔がよぎった。かつて自分が手取り足取り教えた、真面目で純情な後輩。その顔面に、男の全体重を乗せたエルボーを叩き込んでいいのか?その一瞬の躊躇が、命取りとなった。迷いが生じた打撃など、今の雫には止まって見えるも同然だった。
「甘いです!」
雫は叫びと共に、鋭く身を低くしてエルボーを回避する。三郎太の腕が空を切り、体が前のめりに泳いだ。すかさず雫はその懐深くへと飛び込む。密着した瞬間、彼女の細い腕が三郎太の首をガッチリと捉えた。
「せぇ、のっ!」
掛け声とともに、雫は自身の体を回転させる。てこの原理と遠心力を利用した、基本に忠実かつ流麗な首投げ。174センチの三郎太の身体が宙を舞い、背中からマットに叩きつけられる。受け身をとったものの、三郎太は尻もちをついた状態になる。雫はすぐさま背後に回り込むと、三郎太の首にその細くしなやかな腕を巻き付け、スリーパーホールドに捕える。
「ぐ、ぅぅ……!」
頸動脈を的確に圧迫され、三郎太の呼吸が詰まる。雫は三郎太の背中に自身の体重を預け、逃げ場を塞ぐようにして締め上げにかかった。
『ライジング雫、三郎太のファイナル・エルボーをかわして華麗な首投げからのスリーパーホールド! ここは教科書通りの攻めでダメージを積み重ねていく!』
実況の声が遠く聞こえる中、耳元で雫の囁くような、しかし強い意志の籠もった声がした。
「そう、教科書通りの攻めです。先輩が教えてくれた通り……。……どうですか、先輩!?」
「くっ……!?」
三郎太は歯を食いしばる。雫の腕からは、彼女の必死さが伝わってくる。シャンプーの香りと共に、激しい運動による汗の匂い、そして彼女の熱が背中越しに伝播してくる。
(……そうだ、これは僕が教えた……でも、今のこの力強さは……!)
その攻防を、控室のモニター越しに見つめる影があった。 いつかの試合の時の黒と赤を基調とした、豪奢なリングコスチューム衣装ではない。野暮ったい太平プロレスのジャージ姿に身を包んだアッシュブロンドの美女、シロオニ・ベスである。彼女は腕を組み、冷ややかな視線を画面の中の三郎太に向けていた。
「……三郎太さん、また悪い癖が出ていますね。男とか女とか先輩とか後輩とか……気にしていては足元をすくわれるわよ?」
彼女の言葉は手厳しいが、その瞳の奥には、自分が認めた「旦那様候補」への期待と、現状の不甲斐なさへの苛立ちが見え隠れしていた。
リング上では、三郎太が脱出のために藻掻いていた。
「ぬ、おおおおっ!」
三郎太は全身の筋肉を膨張させ、強引に立ち上がりにかかる。チョーク気味に首に食い込む雫の腕を引き剥がして振りほどき 力任せに体を捻ると、三郎太は雫の束縛から脱出した。ゼェゼェと荒い息を吐きながらも、すぐに体勢を立て直す。雫もまた、弾き飛ばされながらもすぐに着地し、再び三郎太に向かってくる。今度は正面からの力比べ、手四つの体勢だ。 ガシリ、と互いの指が絡み合う。
「くぅ……っ!」
雫が顔を歪める。やはり筋力差は歴然だ。体格差がある以上、正面からのパワー勝負なら三郎太に分がある。三郎太は徐々に雫を押し込んでいく。
「…やられっぱなしじゃないぞ!」
三郎太は雫の手首をとって振り回し、泳いだ上体を捕まえる。そしてそのまま、一気にその身体を持ち上げた。高い打点から、ボディスラムで雫の背中をマットへと叩きつける。強烈な衝撃音が響くが、雫はすぐにマットを叩いて跳ね起きた。痛みに顔をしかめながらも、その闘志は衰えるどころか燃え上がっている。三郎太が追撃のために一歩踏み出した瞬間、雫はその場跳躍で宙に舞った。まるで重力を無視したかのような軽やかさで、三郎太の懐へ飛び込む。
「はあっ!」
雫の両足が、三郎太の喉元へと突き刺さった。不意を突かれた三郎太は、ドロップキックの喉への衝撃に咳き込みながら仰向けにダウンする。
「私は先輩の優しさに甘えたりしない。だから、先輩も私に本気で来て!」
雫は叫びながら、倒れた三郎太にのしかかった。うつ伏せになった三郎太の首を小脇に抱え込み、体重を乗せてグラウンド・ヘッドロックで締め上げる。単なる首締めではない。雫の硬い腕の骨が三郎太のこめかみや顎を擦り上げ、さらに全身を使って三郎太の動きを封じ込める、執念の固め技だ。
「ぐ、ぐぐ……っ!」
三郎太はマットに顔を押し付けられ、苦悶の声を漏らす。雫の汗が、三郎太の頬に滴り落ちた。
「私相手じゃ本気は出せないんですか? ……なら私、勝っちゃいますよ? うらぁ!」
雫がさらに力を込める。ギリギリと首が軋む音が聞こえるようだ。普段は冷静でストイックな雫が、なりふり構わず感情を爆発させている。その事実に、三郎太の心は激しく揺さぶられた。
(強い……! いや、僕が弱くなっているのか? モモタロウさんの居ない太平プロレス、僕が頑張らなくちゃいけないのに……後輩に押されているなんて……!?)
三郎太の視界が歪む。マットの感触、汗の匂い、そして後輩からの強烈なプレッシャー。 実質的な師であり兄貴分であるモモタロウは今や失踪し、自分は若手エースとして団体を背負わなければならない立場だ。それなのに、自分は今、迷いの中にいる。ベスが現れてからというもの、自分のペースを乱されっぱなしだ。
(僕は……何をやっているんだ……)
弱気が頭をもたげる。首を締め上げる雫の腕は、まるで鋼鉄のように硬く、そして熱かった。これは、彼女がデビュー以来、この一年の間に積み上げてきた努力の結晶だ。きっと自分に追いつきたい、そういう一心で鍛え上げられた力なのだ。それを「守るべき対象」として甘く見ていた自分は、なんと傲慢だったのだろう。呼吸が苦しい。意識が遠のきかける。だが、心の奥底で小さな火種がくすぶっていた。このまま負けていいのか? 後輩に不甲斐ない姿を見せたまま終わっていいのか?
(いや……だめだ……!)
三郎太の瞳に、再び光が戻り始める。雫の細くもしなやかな腕が、三郎太の首を万力のように締め上げ、彼女の全体重が三郎太の上半身にのしかかり、肺を圧迫して呼吸を奪っていく。マットに顔を押し付けられ、視界の端でロープが見えたが、それは遥か遠くに感じられた。
「……ぐ、ぅぅ……!」
三郎太の口から苦悶の声が漏れる。額から滴り落ちる汗がキャンバスに染みを作っていく。雫の息遣いが耳元で荒く響く。彼女もまた、必死なのだ。
(強い……これが、雫ちゃんの今の力……)
意識が朦朧とする中で、三郎太は彼女の成長を肌で感じていた。かつて練習生だった頃、受け身一つ取るのにも苦労していた少女はもういない。ここにあるのは、一人のプロレスラーとしての強固な意志と、鍛え上げられた技術だ。
「先輩……ギブアップ、してください……! 私が、先輩の目を覚まさせてあげるんですから……!」
雫の声が震えている。それは疲労からか、それとも感情の昂ぶりからか。三郎太は歯を食いしばり、薄れゆく意識をつなぎ止めた。ここでギブアップすれば楽になれる。だが、それは彼女の想いに応えることにはならない。彼女は今、全力でぶつかってきている。ならば、受けて立つのが先輩としての、かつての指導担当としての……いや、男としての責任だ。
(まだだ……終わってたまるか……!)
三郎太の背中の筋肉が大きく波打った。彼は残された力を振り絞り、雫を背負ったまま四つん這いの体勢へと移行する。
「なっ……!?」
雫が驚きに声を上げるが、締め上げる腕の力は緩めない。むしろ、逃がすまいとさらに強く食い込んでくる。三郎太は咆哮した。
「ぬ、おおおおおおっ!」
大地を踏みしめるようにリングシューズでマットを蹴り、強引に立ち上がる。雫の腰に腕を巻き付け、その体ごと持ち上げ、重力に逆らって背筋を伸ばす。三郎太は一気に上体を反らせた。雫の体が宙を舞い、美しい放物線を描いて後方のマットへと叩きつけられる。バックドロップによる凄まじい衝撃音が会場を揺らした。
「きゃあぁっ!」
雫の悲鳴と共に、二人の体が離れる。三郎太もまた、技の反動とここまで耐え忍んだ疲労で膝をついた。会場がどよめきと歓声に包まれる。実況が何かを叫んでいるが、耳鳴りがしてよく聞き取れない。三郎太は荒い呼吸を繰り返しながら、ふらりと立ち上がった。視界が明滅する。ダメージは深刻だ。だが、勝負はこれからだ。倒れている雫に目を向ける。彼女は背中を強打し、苦悶の表情を浮かべていた。しかし、その瞳から闘志の光は消えていない。彼女は痛みに顔をしかめながらも、驚異的な根性で上体を起こそうとしている。
三郎太は決着をつけるべく、雫の腕を掴んで引き起こそうとした。その瞬間だった。
「っ……!」
雫が鋭く身を回転させ、三郎太の軸足である左太腿にローキックを叩き込んだ。予期せぬ一撃に、三郎太の膝がガクリと折れる。
「まだ……です!」
雫は畳み掛ける。体勢を崩した三郎太の足に、さらに二発、三発と強烈な蹴りを撃ち込む。重く鋭い衝撃が筋肉を貫き、三郎太はたまらず片膝をついた。好機と見た雫は、一瞬の躊躇もなく動いた。膝をついた三郎太の背後に素早く回り込むと、流れるような動作でその体に飛びつく。雫は三郎太の左足を自身の両足でフックし、同時に彼の顔面を腕でロックしてのけぞらせた。変形STF、彼女がこの一年の間に磨き上げたオリジナルの必殺技、「ティアドロップ・ボディロック」だ。
「ぐ、あああああっ!!」
三郎太の絶叫が響き渡る。足首と膝が極限まで捻じ曲げられ、同時に首と背骨が弓なりに反らされる。逃げ場のない複合関節技。全身の関節という関節が悲鳴を上げ、激痛が脳天を突き抜ける。さらに雫は、自身の体重を巧みに利用して三郎太をマットに釘付けにし、呼吸すらも困難にさせていく。
「これは先輩の根性を叩き直すための……愛のムチです! ……さぁ、ギブ!?」
雫の声が、熱のこもった吐息と共に耳元で囁かれる。彼女の体温、髪の匂い、背中にすりつけるように押し付けられる彼女の胸の感触、そして容赦のない締め付け。愛憎入り混じったその技は、三郎太の肉体だけでなく精神までも蝕んでいくようだった。
「ぐぁ……! ま、まだ……!」
雫の腕がさらに深く食い込む。三郎太が必死に限界と戦っているその時。リング外では、シリアスな空気をぶち壊す不謹慎な野次が飛んでいた。
「ケッ、見ろよサチ。あいつ、ま~たやってるぜ」
リングサイドのフェンスに寄りかかり、ワンカップを煽っているのは太平プロレスに所属する中堅レスラー、バッカス木桜だ。前座の試合を終え、胸元に『心・技・体』をモチーフにした歪な三つの図形と、妙に縦長のフォントで『TAIHEI』とプリントされた、ダサい公式トレーナーを不格好に羽織っている。
「先週はあの白鬼(ベス)に懐かれたかと思えば、今度は可愛い後輩に抱きつかれてやがる。……『両手に華』を通り越して、もはや嫌がらせだろ。あいつのあの顔、俺には『次は誰に惚れられちゃうのかな〜?』っていう自慢顔にしか見えねえ!」
「あはは! おじさんてば、ひがみすぎー。独身貴族の僻みはみっともないですよぉ?」
隣で同じくダサいトレーナーの袖を捲り上げ、リングを指差して笑うのは若手レスラーの一人であり、雫の同期でもあるデンジャー・サチだ。
「でも確かに、三郎太せんぱいのあの『ウブなフリ』、実は一番タチが悪いですよね。ざーこ♡ ざーこ♡ 鼻の下伸ばしてないで、さっさと投げればいいのに!」
放送席にはリングサイドの低俗な会話が筒抜けになっていた。実況アナウンサーが、額を押さえながらマイクを握り直す。
『……えー、リングサイドでは太平プロの所属選手たちが、メインイベントを肴に極めて不謹慎な酒盛りと野次を開始しております。……もはやこの団体の興行名物とはいえ、実況としてはツッコミを入れるべきか非常に悩みどころです』
『……後で道場のトイレ掃除一ヶ月分、追加しておきます。バッカスさんもサチもまとめて』
解説席の美樹が、凍りつくような声で資料に何かを書き込んだ。だが、客席のファンたちはこの「いつもの茶番」を待っていたと言わんばかりに、バッカスの僻みに笑い声を上げている。
そんな外野の喧騒など届かぬリングの上で、三郎太は呻く。視界が涙で滲む。痛い。苦しい。だが、その痛みの中で、三郎太の思考は奇妙なほど澄み渡り始めていた。
(愛のムチ、か……。手厳しいな、雫ちゃんは)
彼女の必死さが、痛いほど伝わってくる。彼女は本気だ。本気で自分を倒し、何かを変えようとしている。では、自分はどうだ? ベスに振り回され、モモタロウの不在に焦り、自分を見失っていたのではないか? 三郎太は腕を伸ばした。指先がマットを掻く。1センチ、また1センチ。激痛に耐え、彼は這う。ロープはまだ遠い。だが、止まるわけにはいかない。
(まったく僕は何をやってんだ……! シロオニ・ベス戦の時に学んだはずじゃないか。リングで相対した以上、彼女は気にかけるべき後輩ではなく、倒すべき一人のレスラーなんだ……!)
そうだ。 リングの上では男も女も、先輩も後輩もない。あるのは、闘う魂を持った二人のレスラーだけ。彼女の想いに応える唯一の方法は、優しさを見せることではない。手加減することでもない。「宮川三郎太」というプロレスラーの全力を以て、彼女を叩き潰すことだ。
「う、おおおおおおっ!」
三郎太は渾身の力で体を捻り、さらに前へと這い進む。雫も必死に絞め上げるが、三郎太の覚悟が決まった動きは止められない。ついに、三郎太の中指がロープに触れた。そのままガシリとロープを掴む。
「ブレイク! ロープブレイク!」
レフェリーの声が響く。雫は悔しげに顔を歪めながらも、技を解いて離れた。三郎太はロープを掴んだまま、ゆっくりと立ち上がった。 足が震えている。首も痛む。全身ボロボロだ。だが、その瞳には先ほどまでの迷いは微塵もなかった。あるのは、獲物を狙う猛禽のような鋭い光だけ。
雫が再び距離を詰め、組み付こうと迫ってくる。
「まだ、終わらせません!」
彼女の手が伸びてくる。 三郎太はそれを迎え撃つように、右腕を大きく振りかぶった。肘に気を集中させる。僅かに白く輝くようなオーラが、彼の右腕を包み込む。今度は迷わない。躊躇もしない。
「はぁぁぁぁっ!!」
気合いと共に、三郎太の右肘が閃いた。 鈍い音がして、ファイナル・エルボーが迫りくる雫の頬を正確に捉え、弾き飛ばす。
「……ッ!!」
雫の体が独楽のように回転し、たたらを踏む。 強烈な一撃。脳が揺れるほどの衝撃。 しかし、吹き飛ばされながら、雫の心には不思議な歓喜が湧き上がっていた。
(これが先輩のガチのファイナル・エルボー……! 嬉しい……私今本気で戦って貰えてるんだ……!)
痛みよりも先に、自分が一人前のレスラーとして認められたという喜びが、彼女の胸を満たした。雫はダウンせず、ふらつきながらも踏みとどまった。その瞳はまだ死んでいない。だが、三郎太の攻撃の手は緩まない。 覚悟を決めた彼は、もはや止まらない。三郎太は一歩踏み込み、無防備になった雫のみぞおちに、鋭い膝蹴りを突き刺した。
「か、はっ……!」
雫の口から空気が強制的に排出される。彼女の体がくの字に折れ曲がり、動きが完全に止まった。間髪入れず、三郎太は雫の体を抱え上げる。 逆さまになった視界の中で、雫は三郎太の燃えるような目を見た。三郎太は垂直に担ぎ上げた雫を、垂直落下式ブレーンバスターで脳天からマットへと突き刺した。凄まじい衝撃が走り、雫の体がバウンドする。
レフェリーがマットを叩く。
「ワン! ツー!」
(立て……立つんだ、雫……!)
雫は遠のく意識の中で叫んだ。まだ、まだ私は戦える。先輩に、私の全てを見せるんだ。
「……ツー・ポイント・ナイン!!」
雫の肩が、反射的に上がった。キックアウト。
『カウント2.9! 返したぁ! ライジング雫、驚異の粘りだ! 解説の美樹さん、これはもはや執念ですね!?』
実況の絶叫に、美樹も震える声で応じる。
『ええ。三郎太クンの垂直落下式を受けて、なお立ち上がろうとするなんて……彼女、この試合に全てを懸けてる……!』
期待を込めた実況の声が、リング上の二人の熱をさらに煽り立てる。
「……決まらない!?」
三郎太が驚愕の声を上げる。今の技は完璧に入ったはずだ。それでも彼女は返した。雫は焦点の合わない目で天井を見上げながら、うわ言のように呟く。
「ま、まだ……まだ終わってない……」
三郎太は震える手で拳を握りしめた。恐怖すら感じるほどの執念。彼女は本当に強くなった。だからこそ、これ以上長引かせるわけにはいかない。最高の敬意を持って、最強の技で終わらせる。三郎太はふらつく雫の正面に立った。彼女の左脇に自身の頭を差し込んで両腕で彼女の腰をがっちりとクラッチする。雫の体温が、鼓動が、直に伝わってくる。これが最後だ。
「強くなったね雫ちゃん……だから、全力で応える!」
三郎太は叫び、全身のバネを使って後方へと反り投げた。ノーザンライトスープレックス・ホールドの美しいブリッジが描かれる。雫の体は完璧な弧を描いてマットに叩きつけられ、そのまま三郎太のブリッジによってホールドされた。逃げ場はない。逃げる力も残っていない。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
カンカンカンカン!
ゴングの音が、熱狂の渦巻く会場に響き渡った。
「決まったぁーっ! 凄まじいブリッジ! 若手エース宮川三郎太、後輩の猛追を振り切り、執念の勝利です!」
三郎太はブリッジを解き、大の字になって荒い息を吐いた。隣では雫もまた、虚脱したように天井を見つめている。戦いは終わった。しばらくして、三郎太がゆっくりと体を起こす。雫もよろめきながら立ち上がろうとするが、足に力が入らないようだ。三郎太は手を貸そうとしたが、思いとどまり、ただ真っ直ぐに彼女を見つめた。雫は自分の力で立ち上がり、悔しげに、しかしどこか晴れやかな表情で三郎太に向き直った。
「……なんだ、やっぱり弱くなんてなってないですね」
雫が口元を緩め、寂しげに笑う。 三郎太は首を振った。
「ありがとう」
「え……?」
雫が目を丸くする。三郎太は真っ直ぐな視線で彼女を射抜いた。
「……僕だって腑抜けていたつもりはない。けど、いつもと違うって事を考えすぎていたかもしれない。たとえ状況が変わっても、僕は僕のままだ。それに気が付けた」
迷いの晴れた、力強い言葉だった。モモタロウがいなくても、ベスが現れても、宮川三郎太は宮川三郎太として戦い続けるしかない。その単純で大切な事実を、雫との闘いが思い出させてくれたのだ。
「先輩……」
雫の瞳が潤む。
「雫ちゃんやみんなに心配かけてしまっていた。ごめん。おかげで目が覚めたよ」
三郎太が頭を下げると、雫はボロボロ涙をこぼし始めた。
「うぅ……私、先輩に勝って、ちゃんと認めてもらいたかったんです……。……負けて悔しいです。でも嬉しい……♡」
涙声でそう言うと、彼女の頬が朱に染まる。闘いの鬼から、恋する乙女へと戻った瞬間だった。
「し、雫ちゃん……?」
急な態度の変化に、三郎太はまたしてもドギマギしてしまう。どうやら、こちらの修行はまだまだ足りないらしい。
その様子を、控室のモニターごしに見つめていたシロオニ・ベスは、腕を組んで画面の中の二人を冷ややかに、しかし興味深そうに見つめていた。彼女はゆっくりと立ち上がると、フッと小さな笑みを漏らす。
「どうやら三郎太さんはひとつ手強くなったようね。あの娘……一応、今は感謝しておいて差し上げる、ということにしておきましょうか」
ベスはモニターに背を向け、控室を後にした。その足取りは軽い。彼女にとっても、獲物が骨のある男であることは喜ばしいことなのだ。
リング上では、観客の温かい拍手が二人を包み込んでいた。三郎太は雫の肩を抱き、健闘を称え合う。だが、彼の日常は既に波乱が運命づけられている。ベスという嵐、行方不明の兄貴分、そして成長著しい後輩からの突き上げ。かつてのどこか退屈で平穏な日々は最早戻る事はない。それでも三郎太は、確かな足取りで明日へと歩み出していくのだろう。新たなる覚悟を胸に抱いて……。