「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
地下鉄の駅構内は、昼間であっても足早に行き交う人々の波で溢れかえっていた。無数の案内板、複雑に入り組んだ乗り換え通路、そして天井に反響して絶え間なく鳴り響くアナウンス。太平プロレスの友好団体である「オトギプロレスリング」に出向し、特別興行を終えた宮川三郎太は、その喧騒の中を軽い足取りで歩いていた。黒髪の短髪を揺らし、少しだけ日に焼けたような健康的な顔つきには、以前のような陰りは見当たらない。肩にかけたスポーツバッグの重みさえ、今の彼には心地よい充実感として伝わっていた。
彼の心は今、久しぶりの晴れやかな風に満ちていた。過日、「ノワール・ゲート」との団体対抗戦で大将戦という重圧に押し潰され、ジェニー・葛葉の前に己の得意技であるノーザンライトスープレックスを破られ、無惨なピンフォール負けを喫した。尊敬する兄貴分、モモタロウが失踪して以来、太平プロレスの若手エースとして団体を背負わなければならないというプレッシャーが、いつしか彼のプロレスから「楽しさ」を奪っていたのだ。その重苦しさは、勝敗の記憶として胸の奥に沈殿し続け、気づけば日常の表情にまで影を落としていた。
しかし、オトギプロのお祭り興行に参加し、自ら『偽モモタロウ』を演じて戦う中で、三郎太は忘れていた熱い気持ちを取り戻すことに成功していた。観客の笑い声、その演劇めいた試合によってリング上で交わした兄貴分に似せた軽口、そして久々に心から放った──しかし不慣れな技たちの手応え。それらが、胸の奥にこびりついていた澱を少しずつ洗い流していった。たとえ偽物の看板を背負っていても、リングで爆発させた闘志だけは紛れもない本物だったのだ。
リングの上で汗を流し、観客を沸かせ、そして何より自分自身が全身全霊で戦うことの喜び。迷いは吹っ切れた。今の彼には、どんな強敵が相手でも真っ向からぶつかっていけるという確かな自信が漲っていた。
そんな前向きな思索に耽りながらホームへと降り立った三郎太の視界に、周囲の風景から完全に浮き上がっている一人の人影が飛び込んできた。
「Oh……コーチに、東京は迷路だって言われたけど、本当ね……」
ひどく不安げな、泣き出しそうな声だった。テキサス訛りの強い英語に、拙い日本語が混じっている(※ストレスなくお読みいただけるようセリフ文面は調整されています)。声の主は、長身の外国人女性だった。金髪のスパイキーショートヘアが駅の照明を弾いてキラキラと輝き、深く被った星の飾りがついたテンガロンハットの下からは、海の底のように透き通った青い瞳が周囲をあてどなく彷徨っている。季節外れの長い丈のコートを羽織り、その下には茶色のホルターネックやデニムのショートパンツといった、ウエスタンな出立ちが僅かに覗いていた。彼女の足元には、炎の模様があしらわれた立派なカウボーイブーツ。その全身から滲み出る「場違いさ」が、雑踏の中でもひときわ目を引いた。
見知らぬ異国の巨大な地下迷宮で完全に方向感覚を失い、途方に暮れているその姿はさながら「迷子の仔鹿」のようだった。その心細げな背中を見た瞬間、三郎太の持ち前のお人好しな性格が頭をもたげた。困っている人を放ってはおけない。ましてや、異国の地で孤独に震えている女性となれば尚更だ。三郎太は警戒させることのないよう、努めて穏やかな笑顔を作りながら彼女に歩み寄った。
「あの、お困りですか? よかったら、案内しましょうか?」
背後からの急な声掛けに、女性はビクッと肩を震わせて振り返った。そして、三郎太の優しげな顔つきと、Tシャツの上からでもわかる均整の取れた細マッチョな肉体を確認すると、パァッと花が咲いたような明るい表情を浮かべた。
「Oh, 神様! 貴方に会えて良かったわ、助かります♪」
彼女は歓喜の声を上げると、躊躇うことなく三郎太に歩み寄り、その引き締まった太い腕にガシッと両手でしがみついてきた。ただでさえ長身でスタイルの良い彼女が身を寄せてきたことで、コートの前がはだけ、ホルターネックで強調されたダイナマイトな胸元が、三郎太の腕にムニュッと柔らかく、そして暴力的なまでの質量を持って押し付けられた。
「わ、わわっ!?」
あまりにも無防備で直接的なスキンシップに、純情でウブな三郎太の顔は一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。慌てて腕を引き抜こうとするが、彼女の腕力は意外なほど強く、まるで万力のようにガッチリとホールドされている。柔らかな感触と、微かに漂う甘い香水と汗の匂いに、三郎太は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で堪えた。先ほどまでの浮かれた気分はどこへやら、今の彼はただの予期せぬトラブルに必死なただの青年に成り下がっていた。
「ど、どういたしまして……。そ、それで、どちらに行かれるんですか? 迷ってしまったんでしょう?」
なんとか平常心を装い、顔を逸らしながら尋ねる三郎太。女性は三郎太の腕に抱きついたまま、もう片方の手でポケットからくしゃくしゃになったメモ用紙を取り出し、嬉しそうにヒラヒラと振った。
「これ、行先のメモ。乗り換えがよくわからなくて……電車、いっぱいありすぎて難しいわ」
三郎太は赤い顔のまま、そっとそのメモを覗き込んだ。そこには、見慣れた駅名と、駅からの道順らしきものが判読に難儀しそうな程度にのたくったアルファベットで記されていた。しかし、それを見た瞬間、三郎太は驚きに目を丸くする。
「ああ、なんだ。僕が行く駅とまったく同じじゃないか。それなら話は早いです、ついてきてください。一緒にいきましょう」
「Really? That was lucky, thank you! っとと、アリガトウ♪」
彼女は満面の笑みを浮かべ、さらに強く三郎太の腕に胸を押し当ててきた。三郎太は心の中で悲鳴を上げながらも、無下に振り払うこともできず、ぎこちないロボットのような歩みで彼女を先導することになった。関節の油が切れたようなぎこちない挙動で、三郎太は雑踏の中を突き進んでいく。
電車に揺られ、地上へ出てからも、二人の道中は続いた。彼女は純朴な田舎娘のように、目につく日本の風景すべてに新鮮な驚きの声を上げ、その度に三郎太の腕を引っ張る。
「アタシの故郷はテキサスの田舎でね。コーチがいつも言ってたの、親切なボーイを信じなさいって」
「あはは、コーチの言うことは正しいかもしれないけど、でも東京には悪い人もたくさんいるかもしれないし、いくら親切そうに見えても、こんな簡単に知らない男についていったら駄目ですよ。日本は安全だとはいえ、気をつけないと」
思わず兄貴分のような、少しお小言めいた言葉を口にする三郎太。彼の生真面目さが全面に出た発言だった。そんな三郎太の言葉に、彼女はクスクスと可愛らしく笑い声を立て、ますますその腕への力を強めた。その笑い方には、どこか「わざとらしい無邪気さ」が混じっているようにも見えたが、三郎太が気づくはずもない。三郎太も次第に彼女のペースに慣れ、片言の英語と日本語を交えながら、和やかな雰囲気で目的地へと歩を進めていた。やがて、見慣れた古びたビルが二人の前に姿を現した。入り口に掲げられた『太平プロレスリング』の看板。三郎太にとってのホームであり、道場兼事務所である。
「さあ、着きましたよ。ここが目的地です」
三郎太が立ち止まってそう告げると、彼女は感嘆の溜息を漏らしながらビルを見上げた。
「駅どころか、行先まで僕と完全に一緒じゃないか。君は誰かの関係者なのかな? それとも、プロレスのファン?」
三郎太が不思議そうに尋ねると、彼女は無邪気な笑顔で首を傾げた。
「サンクス! 貴方みたいに優しい人がいて、本当に助かったわ♪ ところで、親切なボーイ。貴方の名前は?」
屈託のない笑顔で小首を傾げられ、三郎太は照れ隠しに後頭部を掻いた。そして、自らの名を口にする。
「あ、そういえば名乗りもせずごめん。僕は宮川です。君は太平プロの誰かの関係者? 何だったら誰か中に取り次ぎますよ」
三郎太が自分の苗字を名乗った瞬間だった。彼女の瞳から、それまでの夏の太陽のような光がスッと消え失せた。代わりに現れたのは、獲物を品定めするような、冷酷で、それでいてひどく熱を帯びた捕食者の輝き。腕にしがみついていた指先が、まるで肉に食い込む鉤爪のように強まる。
「……ミヤガワ・サブロウタ?」
低く、響くような声。先ほどまでとはまるで違う、ドスの効いた発音。三郎太は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「え……ええ、そうです。あれ、僕、下の名前まで言いましたっけ……?」
困惑し、思わず半歩身を引こうとした三郎太だったが、それより早く彼女が動いた。
「Thank God!」
弾かれたように正面を塞がれる。彼女は被っていたカウボーイハットの鍔を指先でスッと持ち上げ、伏し目がちだった視線で真っ直ぐに三郎太を射抜いた。その瞬間、彼女の全身から放たれる空気が一変した。道に迷って怯えていた異邦人の面影はどこにもない。そこに立っていたのは、数多の巨大なリングで数万の観客を熱狂させ、支配してきた、圧倒的な自信と破壊的な色気に満ち溢れたアメリカンプロレスのディーバの姿であった。
「今夜の貴方の試合の相手、アタシよ」
艶めかしく赤い唇が三日月のようにつり上がる。彼女はゆっくりと手を伸ばし、三郎太の厚い胸板を指先で「D」をふたつ作るようになぞった。Tシャツ越しでも伝わる、彼女の指先の不自然なほどの熱さに、三郎太の体が硬直する。
「DDって呼んで。たっぷりサービスしてあげるから、楽しみにしていてね♪」
ディーディーは、逃げ場を失った三郎太の耳元へ顔を寄せた。耳朶をかすめる吐息は熱く、甘く、そして悍ましい。心臓の鼓動を狂わせるような至近距離で、彼女は低く、蜜のような声で囁いた。
「じっくり、品定めしてあげるわ」
背筋が粟立つような、蠱惑的でありながら圧倒的なプレッシャーを伴う囁き。三郎太が言葉を失って立ち尽くしている間に、彼女はウィンクを一つ残し、長いコートの裾を翻して太平プロレスのビルの中へと消えていった。
「え、ちょっと君……!? な、なんだ今の感じ……ッ!?」
消えゆく香水の残り香と、熱を帯びた囁きの残響。白昼の駅構内から続く白昼夢のような時間は、彼女の退場とともに唐突な終焉を迎えた。残された三郎太は、ただ混乱の極致に立ち尽くしていた。Tシャツの胸元には、先ほど彼女の指先がなぞった感触が、まるで火傷の痕のように熱く刻みつけられている。耳の奥で反響し続ける妖艶な声は、単なる誘惑ではない。それは、先ほどまでの「迷子の仔鹿」が見せていたウブな反応を嘲笑うかのような、強烈な威圧感を含んでいる。相手がただの異邦人ではないこと。そして自分に向けられたあの捕食者の視線が、紛れもなくリングという戦場で自分を獲物として狙う「対戦相手」のそれであったことを、彼のレスラーとしての本能が、警鐘とともに激しく告げていた。
「三郎太クン……」
呆然と立ち尽くす三郎太の背後から、呆れ果てたような声が降ってきた。振り返ると、そこには太平プロレスの社長令嬢、松平美樹が腕を組んで立っていた。時に自身もレスラーとしてリングに立つ彼女の鋭い視線は、三郎太の赤らんだ顔と、ビルの中へと消えていった女性の背中を交互に、そして深く射抜くように追っていた。
「え、美樹ちゃん!? あの、今の彼女は一体……!?」
救いを求めるような三郎太の問いに、美樹は深いため息をつき、首を左右に振る。
「おかえりなさい。……今の人は、ディーディー・ロジャースさん。アカオニ・トムの弟子で、彼女の言う通り、今晩の興行の三郎太クンの対戦相手よ」
美樹の口から出た「アカオニ・トム」という名前に、三郎太の脳天に雷が落ちたような衝撃が走った。アカオニ・トム。それは、今は行方不明の身である兄貴分モモタロウと深い因縁を持つ、恐るべき実力者の名だ。その刺客が、あの女性。
「アカオニ・トムの……!? 彼女が……ッ!?」
驚愕のあまり言葉を失う三郎太。そのあまりにも分かりやすい動揺を横目で見ながら、美樹は天を仰いだ。試合のゴングが鳴る前から、すでに厄介なトラブルの連鎖を予感させるフラグをこれでもかと立ててしまう三郎太。そのお人好しゆえの「業の深さ」に、彼女は内心で深い嘆息を漏らさざるを得なかった。
太平プロレス御用達のいつものイベント会場、その中央に設けられた特設リングは、熱狂的なファンの熱気と、照明の放つ眩い光に包まれていた。暫し休養で欠場となっていた太平プロレスの若手エースと呼び声の高い宮川三郎太の復帰戦。その対戦相手としてリングに立つのは、昼間に駅で出会った「迷子の仔鹿」とは似ても似つかぬ姿となった、ディーディー・ロジャースであった。
『皆さんこんばんは。本日の太平プロレス特別興行は先日に続き二人目の招待選手の登場! そう、アカオニ・トムの残した刺客が本日復帰試合となる宮川三郎太に挑むこの一番、果たして宮川三郎太は復調しているのか!?』
リング上では、スポットライトを浴びたDDが不敵な笑みを浮かべ、三郎太の動揺を見透かすようにその視線を絡めていた。会場を埋め尽くしたファンの熱気と、照明の熱。実況アナウンサーのボルテージは、メインイベントのゴングを待たずして最高潮に達している。その興奮を冷笑するように、隣に座ったガータ御子柴が、気だるげに耳をほじりながらモニターを眺めていた。まるでこの熱狂の中心にいること自体が面倒だと言わんばかりだ。
『此度の解説には昨今の太平プロマットを騒がすメヒコからの帰還者、ガータ御子柴さんにおいで頂きました!』
『どうもだニャ。めんどくせーけど美樹ちゃんの手前、つきあってやるニャ』
御子柴は、リングサイドで鋭い視線を送る松平美樹を意識してか、投げやりながらも解説の席に着いていた。その態度は不真面目極まりないが、モニターを凝視する双眸には、一筋縄ではいかない実力者特有の狡猾な光が宿っている。
『さて、御子柴さん、宮川三郎太は過日の「ノワール・ゲート」との対抗戦の大将戦でジェニー・葛葉に惨敗して休養に入って以来、久々の復帰となりますが……御子柴さんから見て今の彼はいかがでしょうか?』
御子柴の瞳の奥に、同期ゆえの、そしてそれ以上の執着が混じった昏い色が宿る。
『……まぁ、悪くないツラしてるようには見えるニャ。実際どうかは試合を見ればわかるだろ。つーか、鬼のお嬢ちゃんが余計なトラブル引っ張り込んでくるからこんな試合やる羽目になったニャ。そうでなけりゃオレが復帰戦の相手をたっぷりねっとり務めてやってもよかったんだけどニャア?』
彼女にしてみれば、三郎太を「たっぷりねっとり」叩き直す権利は自分にあるはずだ、という不満が隠しきれていない。
『お手柔らかにお願いします。ほら、観客席の方からシロオニ・ベスさんが睨んでるじゃないですか。いやマジで自重してくださいね? 放送席付近で乱闘とか困りますからね?』
御子柴の毒づくような言葉に、実況は慌ててフォローを入れるが、御子柴はどこ吹く風だ。実況の視線の先――リングから数メートル離れた客席の最前列には、凍てつくような殺気を放つ「白鬼」ベスの姿があった。御子柴の軽薄な発言の一つ一つが、彼女の神経を逆なでしているのは明白だ。当のベスは微動だにせず、ただその視線だけで放送席を、いや、御子柴そのものを叩き潰さんばかりの威圧を放っている。
『あっれぇ? 居たのかニャ? それは気が付かなくてごめんニャア?』
御子柴の挑発的な薄笑いと、ベスの射殺しかねない凝視。
『わざとやってますよね? 煽ってますよね? ホント勘弁してくださいね!?』
実況席を挟んだ女たちの火花によって、会場にはリング上の戦いとはまた別の、胃の焼けるような緊張感が充満していく。
『さぁ、ここでゴングだニャ。三郎太がどんだけ仕上がってるか見せて貰おうぜ』
『セリフ盗らないで、御子柴さん!?』
強引な合図とともに、試合開始の鐘が鳴り響く。三郎太の「正念場」は、あまりにも騒がしく、そして危険な幕開けとなった。
リングの中央で対峙した三郎太は、改めて目の前の対戦相手に困惑を隠せない。昼間の不安げな表情は消え去り、金髪のスパイキーショートヘアの下で青い瞳が挑戦的に輝いている。コートを脱ぎ捨てた彼女の肢体は、鍛え抜かれた筋肉と豊かな曲線が見事に調和し、茶色のホルターネックがその誇示されるように張られた胸を強調していた。何より、その全身から溢れ出す「捕食者の色気」が、ウブな三郎太の感覚を狂わせようとする。しかし、三郎太は首を振って雑念を振り払った。既に学んだ事ではないか。誰が対戦相手であろうとも気後れや遠慮などただの無礼でしかない。たとえ相手がどのような戦術で戦うレスラーだとしても、その仕掛けを受けてなお、自分にできる全力で……1人のレスラーとして真っ向から挑んでいく。どうせ自分にとれる手段はそれしかないのだから。
「いくぞ、ディーディーさんっ!」
三郎太は気合とともに地を蹴った。先制の一撃は、彼の代名詞とも言える跳躍力を活かしたドロップキックだ。全身を翻し、鋭く放たれた両足がディーディーの胸元を的確に捉える。正面から衝撃を受けたディーディーは、その勢いのまま後方のロープまで吹き飛ばされた。だが、彼女は倒れなかった。踏みとどまって吹き飛ばされた勢いを殺すのではなく、あえてマットを蹴ってロープまで到達。そのまま背中で受けたロープを大きくしならせ、その反動を利用して弾丸のような速さで跳ね返ってきたのだ。
「いい蹴りね、ボーイ! でも、テキサスの風はもっと熱いわよ!」
ディーディーは、驚愕に目を見開く三郎太へ向かって、鍛え上げられた肩を真っ直ぐにぶつけた。重戦車のような低姿勢からぶちかまされるショルダータックルが着地から身を起こそうとしていた三郎太の胸板を叩き、強靭な肉体を誇る彼を無残にマットへと叩きつける。衝撃で肺の空気が漏れ、三郎太は一瞬、息が止まった。間髪入れず、ディーディーは倒れた三郎太を無理やり引き起こした。そして、あろうことか彼の頭を自身の豊かな胸元へと強引に引き寄せ、その重厚な肉の間に顔を埋めさせるようにしてヘッドロックを極めたのだ。
「アーハーン! 苦しい? それともいい気分かしら?」
耳元で囁かれる艶めかしい声。視界は彼女の白い肌と茶色のホルターネックで覆われ、鼻腔には濃厚な香水と、戦う女性特有の熱い汗の匂いが混じり合って流れ込んでくる。三郎太の顔は、一瞬にして茹で上がったように真っ赤になった。窒息しそうなほどの圧迫感と、腕の中で躍動する彼女の心音。これは、肉体的な苦痛以上に、精神的な平穏を奪い去る「セクシーディーバ流」とも言うべき、アメプロ文化の洗礼であった。
「わ、わわっ! ……これがアメリカの人気レスラーの戦い方なのか!? せ、攻め方もなんていうか……規格外だ……!?」
三郎太は動揺し、思考が真っ白になりかける。だが、彼はこの挑発さえも、彼女がアメリカンプロレスで培ってきた「ショーマンシップ」なのだと自分に言い聞かせた。彼女は遊びでやっているのではない。観客を沸かせ、相手を翻弄し、勝利を掴むための戦術としてこれを行っているのだ。ならば、自分もまた、技術でこれに応えなければならない。三郎太は赤面したまま、必死に腕の隙間を探った。ディーディーの腕力は凄まじいが、三郎太の技術もまた、一朝一夕ではない確かなものだ。彼は自身の腕を巧みにディーディーの腕に絡め、テコの原理を利用して支点をズラした。その瞬間、締め付けていた圧迫がわずかに緩み、三郎太の身体に「抜け道」が生まれる。
「ここだっ!」
自身の体を軸にして鋭く回転し、同時にディーディーの足首を刈り取るように足を引っ掛けるアームドレッグスルーにより、流れるような動作で捕縛を解き、逆にディーディーの体をマットへと転がした。観客席からどよめきが上がり、実況席のマイクが震えるほどの歓声が響く。
「ouch! な、なかなかやるわね!?」
不意を突かれたディーディーは、マットを転がりながらも、その瞳にはさらに深い歓喜と興味の光が宿っていた。三郎太は立ち上がり、荒い息を整えながら再び構えを取った。強い、復帰戦の相手として不足はない。三郎太の心には、恐怖や困惑を超えた、純粋な戦いの高揚感が芽生え始めていた。
鮮やかに投げ飛ばされたディーディー・ロジャースだったが、その身のこなしは驚くほど軽やかだった。マットに背を打った衝撃を瞬時にいなし、猫のようなしなやかさで跳ね起きる。三郎太が追撃のために距離を詰めようとした、その刹那だった。
「……でも、アタシのターンよ!」
ディーディーの瞳に鋭い光が宿る。彼女は立ち上がりざまの勢いを殺さず、右腕を大きく振り抜いた。テキサスの荒野を吹き抜ける熱風のごとき、猛烈な「スティアーラリアット」だ。
「うっ……!?」
三郎太は辛うじて腕を上げての防御を試みるが間に合わない。鋼のように硬い前腕が三郎太の首筋を深々と捉え、凄まじい衝撃が脳を揺らし、三郎太の身体は木の葉のように空中で半回転して、無残にマットへと叩きつけられた。
「あぐっ……がはっ……!」
喉を潰され、咳き込みながら悶絶する三郎太。そんな彼を冷徹に見下ろしながら、ディーディーは追撃の手をあえて休めた。彼女はゆったりとした足取りでリング中央へと歩み寄ると、おもむろにその場に立ち止まる。そして、信じられない光景が繰り広げられた。
ディーディーは長い指先で自身の金髪をかき上げると、片膝をわずかに曲げ、ダイナマイトな胸元をこれでもかと強調するポーズを取ったのだ。汗に濡れた白い肌が照明を浴びて艶かしく輝き、ホルターネックから溢れんばかりの膨らみが観客の視線を釘付けにする。彼女は挑戦的な笑みを浮かべ、さらに腰を妖しくくねらせて見せた。これぞアメリカンプロレスが誇る、究極のセクシー・アピール。倒れ伏す三郎太を「背景」の一部として従え、彼女は満面の笑みで四方の客席にその豊満な魅力を振りまいていく。
「……ッ!? なんだあの女、不謹慎だぞ!」「いいぞー! ディーディー! もっとやってくれ!」
健全な太平プロレスのファンの一部からは戸惑いの声が上がったが、それを上回る圧倒的な熱狂が会場を支配した。好色なファン層からは、指笛や野太い歓声が飛び交う。リング上は格闘の場から、一瞬にして彼女が支配する華やかなステージへと変貌を遂げていた。それは、対戦相手である三郎太の尊厳すらも、彼女の色香という巨大な渦に飲み込んでしまうかのような、強烈な蹂躙であった。