「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第19話 (太平プロ、招待選手特別興行)「宮川三郎太 VS ディーディー・ロジャース」 後編

 三郎太は喉元を打たれた激痛と乱れる呼吸の中で、その異常な光景を視界に捉えていた。

(……なんて人だ。試合中に、こんな……)

 しかし、三郎太は歯を食いしばって立ち上がる。彼女のこれは、ただの誘惑ではない。観客を味方につけ、相手のペースを乱すための、洗練された「技術」なのだ。そしてラリアットの威力もまた驚くには値しない。なぜなら彼女の師はあのアカオニ・トムなのだ。かつてアカオニ・トムの「怒涛のトムさんラリアット」は一発で危うくモモタロウの意識を飛ばしかけ、松平林吾を一カ月ほど首にカラーを巻く負傷に追い込んでいる。むしろこの程度の威力なら優しい部類と考えるべきだろう。三郎太が再びファイティングポーズを取るのを確認し、ディーディーは満足げに唇を舐めた。

「ふふ、照れてる顔もキュートね。でも、試合はここからが本番よ!」

 ディーディーが爆発的な踏み込みを見せる。空気を切り裂くような鋭い音が響き、放たれたスーパーキックで彼女の長い右脚が三郎太の顔面を目がけて突き出された。

「なんのっ!」

 だが、三郎太の集中力は極限まで高まっていた。彼は紙一重で首を捻って直撃を避けると、空を切った彼女の右脚を、脇に抱え込むようにしてガッチリと捕らえた。その瞬間、ディーディーの体勢が崩れ、リング上の空気が一気に張り詰める。

「捕まえた……!」

「Oh!?」

 ディーディーの顔に驚きが走る。予測だにしなかった獲物の「反撃の爪」を前に、テキサスの風がわずかに揺らいだ。三郎太はそのチャンスを逃さなかった。彼は彼女の軸足を払ってマットに引き倒すと、捕らえた脚を逃がさぬよう、自身の肉体を絡みつかせる。

「これなら……どうだっ、アグラツイスト!」

 三郎太が繰り出したのは、兄貴分であるモモタロウの得意技「モモ・スペシャルその2=アグラツイスト」だ。相手にあぐらをかかせるような独特の脚の形に、インディアンデスロック式で相手の下半身をロックし、同時に背後からコブラツイストのように上半身を締め上げる。かけられた者は脚と腰への激痛に襲われ、絶叫して即座にタップしてもおかしくない苛烈な関節技である。しかし、ディーディーの反応はここでも三郎太の予想を超えていた。

「アッハァ~ン♡ つ、強い……、これじゃ感じすぎちゃって……ダメェ……ッ♡」

 三郎太の耳に飛び込んできたのは、あまりにも艶めかしく、あられもない「喘ぎ声」だった。ディーディーは苦痛に顔を歪めるどころか、潤んだ瞳で三郎太を見上げ、その豊かな胸を激しく上下させている。まるで、絞め技の圧迫を悦楽として享受しているかのような、背徳的な反応。

「いいっ!? そ、そ、そんな声を出されたら……!?」

 純情な三郎太の思考回路がショートした。目の前で悶える、アメリカンディーバのセクシーな肉体。耳をつんざく、扇情的な吐息。

(こ、これは彼女の戦術だ、いわば惑わすための演出だ……!)

 自分に言い聞かせようとするが、腕の中に伝わる彼女の体温と柔らかさが、三郎太の戦士としての集中力を容赦なく削り取っていく。動揺のあまり、ガッチリと固めていたはずのロックが、ほんのわずかに緩んだ。だが、それこそがディーディーの狙いだった。激痛を演技で塗りつぶし、獲物が隙を見せるその瞬間を、彼女は冷徹に待ち構えていたのだ。

「優しいサブロウタ……そういうとこ可愛くて好きだよ♡」

 さっきまでの艶めかしい声が、一転して冷酷な勝負師のものへと変わる。ディーディーは緩んだ隙間に自身の右手を割り込ませると、五本の指を鋼の鉤爪のごとく開き、三郎太の顔面を正面から鷲掴みにした。

「なっ、アイアン……クロー……ッ!?」

 凄まじい握力で三郎太の頭蓋を締め上げる。頭皮が引きつり、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打つ。視界が揺れ、リングの照明がにじんだ。彼女はそのままの勢いで、アグラツイストを振りほどくと、三郎太の身体をつきとばすように力任せにマットへと叩きつけた。

「ぐはっ!?」

 後頭部を強打し、三郎太の身体が大きく跳ねる。技を解かれたディーディーは、優雅に立ち上がり、乱れた髪を整えながら、不敵な笑みを浮かべて再び観客を煽った。実況席では、アナウンサーが絶叫に近い声を上げていた。

『ああ~っと、あのモモタロウが使っていたモモ・スペシャルその2「アグラツイスト」を繰り出した宮川三郎太でしたが、あられもないディーディー・ロジャースの声に怯んだか、脱出を許してしまった~!?』

 解説席のガータ御子柴が、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで机を叩き、身を乗り出した。

『あのバカ、何を照れてんだニャ!』

 ヘッドセットがずれ落ちるのも構わず、その瞳には憤怒と、そして隠しきれない独占欲に近い苛立ちが燃え盛っている。

『あんなの演技に決まってんだろ、この童貞!! 喘いでるならそのままイカせちまうくらいの根性みせるニャ!』

 実況が顔面蒼白になり、必死に御子柴の肩を掴んでなだめようとする。

『御子柴さん!? ちょ、待って! 放送コードがあるから!! 小さいお子様も見てるんですよ、言葉選んでください!?』

 しかし、一度火がついた雌猫の牙は、三郎太を惑わすアメリカン・ディーバへと容赦なく向けられた。

『うっせぇ! それを言うならあのテキサス娘がそもそも目の毒だろニャ! さっきから明らかに色目使いやがって……アイツあのムーブ、絶対ビッチに決まってんニャ!』

『御子柴さん!? それ以上いけない!』

 叫ぶ御子柴。その肩の震えは、単なる怒りだけではない。リングの上で「女」を武器に三郎太を翻弄するディーディーへの、レスラーとしての、そして一人の女としての激しい嫌悪と焦燥。その感情は、彼女自身がリングで戦ってきた年月の重みと、三郎太への複雑な想いが絡み合って生まれたものだ。そして、その御子柴すら「生ぬるい」と感じさせるほどの絶対的な殺気が、最前列で動かぬ「白鬼」から、リング上のディーディーへ向けて静かに放たれていた。そっと隣の席の観客たちがパイプ椅子をずらしてベスから距離を取る。

 

 リング上の熱気はさらにその温度を上げていた。アイアンクローでマットへ叩きつけられた宮川三郎太だったが、その瞳に宿る光は少しも衰えていない。むしろ、ディーディー・ロジャースというレスラーが繰り出す、アメプロ仕込みの変幻自在な攻防に、三郎太のレスラーとしての闘争本能が激しく煽られていた。しかし、三郎太が苦悶しながらも膝を突こうとするのに先んじてディーディーが動いた。彼女は自らロープへと飛び、その反動を利用して跳躍する。空中で身体を反転させ、三郎太の首筋に飛びつこうとする「ジャンピング・カラバサス」だ。後頭部をマットに叩きつけ、一気に試合を決めようとする鮮やかな飛びつき技。しかし、三郎太もただやられるままではない。飛び込んでくるディーディーの軌道を見切り、紙一重を狙って踏ん張る。

「真っ向迎撃だぁ、ファイナルエルボー!」

 三郎太は引くのではなく、あえて前へと踏み込んだ。腰の回転を乗せ、渾身の力を込めた鋭い肘を、空中から襲いかかるディーディーの喉元へ向けて突き出したのだ。逃げ場のない空中で、ディーディーの白い喉元──鎖骨の間のやや下あたりを、三郎太の鍛え抜かれた硬い肘が的確に、そして無慈悲に射抜く。

「がはっ……!?」

 衝撃に、ディーディーの声が潰れた。着地と同時に崩れ落ち、胸を押さえて激しく咳き込むディーディー。三郎太は好機を逃さず、すぐさま彼女の背後に回り込み、その豊かな腰をガッチリとクラッチした。観客席からは悲鳴と期待が入り混じった歓声がどよめく。

「うおぉぉーっ!!」

 魂の咆哮とともに、三郎太はディーディーの体を軽々とぶっこ抜いた。完璧なブリッジ、完璧な弧を描く三郎太の得意技、バックドロップだ。ディーディーの長い脚が宙を舞い、凄まじい音を立ててその身がキャンバスに叩きつけられた。会場に衝撃が走る。三郎太はそのままフォールには行かず、ダメージの深いディーディーをさらに追い詰めようと手を伸ばす。しかし、そこに罠が待っていた。仰向けに倒れていたはずのディーディーが、三郎太の接近に合わせ、蛇のようなしなやかさでその脚を絡め取ったのだ。

「ハァ……ハァ……。信じられない、予想以上にパワフルね。けど、これでっ!」

 ディーディーは驚く三郎太の巨体を、テコの原理と自身の体重を活かして鮮やかに転がした。うつ伏せになった三郎太の両脚を器用にクロスさせ、自身の太腿を支点に、ありったけの力を込めて腰を落とす。伝説のレスラーたちが得意とした、必殺のシャープシューター(サソリ固め)だ。

「ぐうぅぅぅ!?」

 三郎太の背骨が限界まで反り、腰と膝に激痛が走る。ディーディーは乱れた髪を振り乱し、歯を食いしばりながら三郎太の肉体を搾り上げる。先ほどのセクシーな余裕は消え、そこには勝利への執念を燃やす一人のレスラーとしての顔があった。滴る汗がマットに染みを作り、軋む関節の音が三郎太の脳内に直接響く。観客席の喧騒が遠のき、ただ自身の肉体が悲鳴を上げる音だけが鋭く研ぎ澄まされていく。

「ヘイ、サブロウタ! ギブアップ!?」

 三郎太の視界が痛みでチカチカと明滅する。身体をよじって逃げようとするが、ディーディーの重心は微塵も揺るがない。だが、彼は諦めなかった。マットを叩こうとする手を必死に堪え、脂汗を滴らせながら、一寸ずつ、一寸ずつ指先を伸ばしていく。その表情は苦痛に歪みつつも、どこか楽し気だった。強敵と真正面からぶつかり合う、その瞬間を味わっているかのように。心理戦術抜きでもディーディーは強い。だが、自分もまだ負けていない。観客の「三郎太コール」が波のように押し寄せ、ついにその指が、命綱である最下段のロープへと届いた。

「……まだだ。まだ、終わらない。僕はまだ全力を出し切ってない……!」

 レフェリーがブレイクを命じる。ディーディーは舌打ちをしてロックを解くが、立ち上がろうとして足を引きずる三郎太の表情が全くへこたれていないのを見やり、不敵に口笛を吹いてみせた。

「~♪」

 追い込んでなお不屈の闘志を見せる三郎太に対して、焦るのではなく口笛を吹く。その余裕こそがディーディー・ロジャースの強さの証だった。彼女はよろめく三郎太を蹴り転がすと、コーナーポストへと向かって軽やかに駆け上がる。

「テキサスの星空を、その目に焼き付けなさい! ローンスター・ボディプレス!」

 コーナーの頂点に立った彼女は、会場の照明を背負い、まるで後光が差しているかのような神々しさを放った。次の瞬間、彼女は大きく羽ばたくように宙へと舞う。空中で美しく四肢を広げ、そのまま三郎太の胸板へと、全体重を乗せたボディプレスを敢行した。ズシンッ、という鈍い衝撃がリングを揺らす。そのまま覆い被さるようにフォールへ入るディーディー。だが、彼女はただ抑え込むだけではなかった。三郎太の胸の上で、勝利を確信したように色っぽく腰をくねらせ、観客へ向けて投げキッスのポーズを送る。三郎太の顔面と彼女の豊かな胸元が、この上ない密着度で重なり合った。肺の空気をすべて搾り出されるような衝撃と、鼻腔をくすぐるディーディーの甘く濃厚な香水の香りが、三郎太の思考を混濁させる。

「ワン! ツー!」

 レフェリーの手が三度目のマットを叩こうとした、その瞬間だった。

「ま、まだだっ!」

 三郎太は顔を真っ赤にしながらも、その意地を見せた。覆い被さるディーディーの、柔らかくも重厚な胸元の感触を必死に押し退け、渾身の力でその身体を跳ね除けたのだ。

「No way! 私のプレスを返すなんて……。ふふ、アナタって本当にタフね。本気になっちゃいそう!」

 カウント2.9。まさに紙一重のキックアウト。マットに背中をつけたまま荒い息をつく三郎太と、その上で驚きと歓喜を混ぜ合わせたような瞳で彼を見つめるディーディー。至近距離で、二人の熱い呼気が混ざり合う。単なる試合というだけではない、むき出しの魂のぶつけ合いとなっている事を二人は感じていた。

 

『返したァァ! カウント2.9! ディーディー・ロジャースの必殺「ローンスター・ボディプレス」を受けてなお、宮川三郎太はいまだ折れていない!』

 実況の絶叫がこだまする中、解説席の御子柴が大きく鼻を鳴らし、苛立ちを隠そうともせずに髪をかき上げた。その仕草には、リング上の二人の距離が近すぎることへの、言葉にできないざらついた感情が滲んでいる。

『三郎太の目、もう大丈夫そうだニャ……。しかし、あのアメプロ女……三郎太の上でクネクネしやがって、セクシーアピールってか? ムカつくニャ……!』

 御子柴は、テーブルの端を掴む指に白くなるほど力を込め、低く唸りながら乱れた髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。その横顔は、苛立ちと焦りと嫉妬が入り混じったように歪んでいる。

『たしかに日本のマットではほとんど見かけないアピールですね。おかげで観客の一部が口笛を吹いて大喜び、ある種異様な盛り上がりです』

 実況が興奮気味に返すと、御子柴はふと視線を落とし、独り言のようにつぶやいた。

『……オレも今度三郎太にやろうかな』

『御子柴さん!?』

 一瞬の静寂の後に実況が叫ぶ。実況席の空気が一瞬だけ凍りつき、観客のざわめきが背中に刺さる。その言葉は、解説者としての分析でも、単なる皮肉でもなかった。溢れ出した本音が、意図せずマイクに乗ってしまったのだ。

『冗談ニャ』

 御子柴はそっぽを向いたが、その瞳はリング上の二人を、猛烈な嫉妬と闘争心を孕んだ鋭い光で射抜いていた。

『目が本気に見えましたが!?』

 響き渡る実況の空しい叫びに会場の観客たちが苦笑する。まぁ、いつもの事ではある。

 カウント2.9の衝撃が、リング上の空気を一変させていた。マットに背中をつけたまま、荒い息を吐き出す宮川三郎太。その胸の奥には、さきほどまであった迷いの影が完全に消え、研ぎ澄まされた集中だけが残っていた。その瞳には、もはや困惑の残滓すら残ってはいない。一筋の勝機を狙い続ける修羅のように鋭い闘志と、危機をすら楽しむ戦士の業に燃えていた。痛みすらも、彼にとっては戦いのリズムを刻む合図に変わっている。一方、必殺のボディプレスを跳ね返されたディーディー・ロジャースの表情には、驚愕と、それを上回る強烈な好奇心が浮かんでいた。演技ではない笑みが彼女を魅力的に彩る。

「ふふ、面白いわ、ボーイ。とことん遊んであげる!」

 ディーディーは、まだ膝立ち状態で完全に立ち上がれていない三郎太の隙を見逃さなかった。彼女は助走をつけると、三郎太の顔面を狙って、サッカーボールを蹴るかのような非情なキックを放った。

「……っ!」

 だが、そんな体勢からでも三郎太は反応してみせる。視界が揺れていようと、身体が覚えた危機察知が勝手に動く。迫りくるブーツの底を、マット上を転がるようにして紙一重で回避、空を切ったディーディーの蹴り足が勢い余って宙を泳いだその瞬間、三郎太は低い体勢から彼女の軸足である左足を両腕でしっかりと捕獲した。

「捕らえた……!」

 そのまま自身の体を回転させ、ディーディーのバランスを崩してマットに転倒させる。仰向けになったディーディーの右足を、彼女自身の左足の上に交差させ、さらに自分の左足を絡めて強固な「4の字」を作り上げる。その刹那、三郎太の脳裏に、行方不明の兄貴分・モモタロウとのスパーリングの記憶がフラッシュバックした。薄暗い道場、汗と血の匂い。

『三郎太、ボクの技を練習するのは止めやしない。けど使うなら気をつけて、この技はただの関節技じゃない。自らも回転し、その遠心力全てを相手の膝一点に集中させる。生半可な覚悟で使えば、相手の選手生命を奪いかねない危険な技なんだ』

「……モモタロウさん、僕は今、その覚悟を持ちます。相手を壊したいわけじゃない。けど、威力への恐怖を乗り越え、勝利のために、プロレスラーとして!」

 三郎太は躊躇いを振り切り、絡めた足のロックを限界まで締め上げた。そして、自らの体を軸にして、マット上で猛烈な勢いで回転を始めた。

「うおぉぉぉぉぉっ!! これで……決める! ディーディーさん、下手に我慢すると折れるぞっ!?」

「Oh My God……! な、何を……っ!?」

 最初は状況が飲み込めず、スリルを楽しむような表情を見せていたディーディーだったが、回転速度が上がるにつれて、その余裕は瞬時に消え失せた。ゴロン、ゴロン、と二人の体が一体となってリング上を転げ回るたびに、強烈な遠心力が彼女の膝関節に破壊的な負荷をかけていく。

「……壊されちゃう。ゾクゾクする……ッ! くっ、でも、この痛み、アタシの魂が震えるわ!」

 ディーディーは歯を食いしばり、アメリカンプロレスラーとしてのプライドと、未知の体験への興奮で耐えようとした。しかし、三郎太の回転は止まらない。さらに速度を上げ、人間の関節が曲がってはならない方向へと、残酷なまでに力を加え続ける。膝の靭帯が悲鳴を上げ、物理的な限界点を超えた激痛が彼女の脳髄を直接殴打した。

「……ッ!! アアアアア!! だ、ダメェッ! こ、これ以上は……ギブ! アイクイット!!」

 ついにプライドが砕け散った。ディーディーは悲鳴を上げ、マットを狂ったように叩いた。誇り高き「テキサスの嵐」が、絶叫とともにキャンバスに沈んだ瞬間だった。

 

カンカンカンカン!

 

 試合終了を告げるゴングが乱打される。三郎太は回転を止め、荒い息をつきながらゆっくりとロックを解いた。リング上には、解放された膝を押さえて悶絶するディーディーと、立ち尽くす三郎太の姿があった。回転の余韻がまだリングに残っているかのように、ロープがわずかに震えている。観客席は一瞬の静寂のあと、爆発するような歓声へと転じた。

『決まったぁぁーっ! ここでディーディー・ロジャース、たまらずギブアップ宣言! 壮絶なフィニッシュでした! 御子柴さん、今の技はもしかして!?』

 実況アナウンサーが興奮で声を裏返らせる。解説席のガータ御子柴は、信じられないものを見るような目でリングを見つめていた。その表情には驚愕だけでなく、どこか悔しさの色も滲んでいる。

『ロータリーデスロックだ……! モモタロウのモモ・スペシャルその4! あいつ、あんな技まで……ッ!?』

 御子柴は三郎太の同期デビュー組だ。当然、当時から三郎太が兄貴分として慕っていたモモタロウの事もよく知っている。その話題性も、モモ・スペシャルなる必殺技群も。そして、その技の難易度も……。

『やはりそうでしたか! 宮川三郎太、アグラツイストに続き、かつてモモタロウが見せた伝説の技をまた一つ、今この現代に蘇らせました! 古参ファン感涙モノの光景であります!』

 割れんばかりの拍手と歓声が三郎太に降り注ぐ。リングの中央で肩で息をする三郎太は、その熱気を全身で浴びながらも、まだ現実感が追いついていないような表情をしている。御子柴は自身の親指の爪をギリギリと噛みながら、悔しそうに呟いた。

『……チッ。オレもうかうかしてらんないニャ。あんなの見せられちゃ、な』

 悔しさと、それ以上に掻き立てられた闘争心。御子柴の瞳には、三郎太というライバルを再び飲み込もうとする野獣のような光が宿っていた。

『宮川三郎太、復帰戦を見事な勝利で飾りました! 強敵ディーディー・ロジャースを下し、若手エースの完全復活を高らかに宣言です! おかえりなさい、宮川三郎太!』

 レフェリーに右手を掲げられた三郎太は、万雷の拍手の中でマイクを受け取った。滴る汗を拭い、晴れやかな表情で彼は、膝を引きずりながら立ち上がろうとするディーディーに向き直ると、混じり気のない敬意を込めて深々と頭を下げた。その所作には、勝者の傲りも誇示もなく、ただ純粋に相手を称える若きレスラーの誠実さだけがあった。

「戸惑いもしたけど……これが貴女のアメリカンプロレスの流儀、そして勝利への熱意なんだね。その魂、たしかに受け取ったよ! ありがとう、ディーディーさん!」

 三郎太の真っ直ぐすぎる言葉は、この混沌とした一戦を、彼の中では「純粋なスポーツの交流」へと強制的に美化してしまっていた。観客席のざわめきが一瞬だけ和らぎ、彼の無垢な言葉に戸惑いと感嘆が入り混じった空気が流れる。そのあまりの天然ぶりに、ディーディーは痛みをこらえながらも、獲物を逃さない魔女のような妖艶な笑みを浮かべる。自らの狡猾な揺さぶりすら「熱意」と受け取るその純潔さに、彼女の征服欲は激しく掻き立てられていた。彼女はよろめく足取りで三郎太へと歩み寄り、再びその熱い胸板へと指先を滑らせた。

「フフ……負けたわ、タフなボーイ。貴方のその熱い魂、そして危険なテクニック……アタシ、すっかりゾッコンになっちゃったかも。よかったら、この続きはベッドでじっくり……ね♡」

 耳元で囁かれた、リングの品位を根底から覆す大胆不敵な誘惑。会場の熱狂は一瞬で「野次」と「口笛」の混ざった下世話な爆発へと変質し、三郎太は顔面を沸騰させたように赤くして立ち往生する。だが、その甘い誘惑が空間を支配したのも、一瞬の事だった。

「ディーディー! そこに直りなさい! 最早看過できるものか……ッ!」

 リングサイドのフェンスをなぎ倒し、乱入してきたのは正真正銘「鬼」の形相となったシロオニ・ベスの姿があった。彼女の背後には、暴走する「白鬼」を食い止めようと最後まで奮闘し、そして無残に蹴散らされた若手練習生たちが、力尽きた屍のように累々と横たわっている。

 

「ちょっ!? ベ、ベス……!?」

 ベスは迷いのない足取りでエプロンに駆け上がると、トップロープを掴んでリング内へ侵入した。そのもう一方の手には、鈍い銀光を放つパイプ椅子が、凶器というよりはもはや「処刑道具」のような重圧を伴って握りしめられている。場内は騒然となり、実況席が乱入を叫ぶ。三郎太が慌てて割って入ろうとするが、ベスの視線は彼を通り越し、射るような鋭さでディーディーを捉えて離さない。

「ハハーン? お久しぶり、エリザベス♪ けど、個人の自由でしょ? 止められる筋合いなんかないわ!」

 対するディーディーは、いまだに引かない膝の激痛に顔をしかめながらも、挑発的な笑みを消すことはなかった。

「相変わらずか、この火遊び女が……ッ!」

 激昂するベスと、満身創痍ながらも不敵に鼻で笑うディーディー。二人の間に流れる、部外者の介入を許さない旧知の因縁。三郎太はその異様なプレッシャーに板挟みとなり、止めるべきか、あるいは逃げるべきか、名案の浮かばぬまま立ち往生するしかない。二人の間に踏み込めば、どちらに殴られてもおかしくない――そんな本能的な危険信号が、背筋を冷たく撫でていく。そして、巻き込まれまいと風のようにすばやくロープの下をスライディングで抜けてリング下へ脱出する、場慣れした太平プロレスのメインレフェリー、マーサ茨木。

 

 せっかくの感動的なフィナーレが、一瞬にして修羅場へと変わる。復帰戦の勝利の余韻に浸る間もなく、三郎太は新たな、そしてより厄介なトラブルの予感に頭を抱えるのであった。

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