「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第20試合(vsノワール・ゲート対抗戦先鋒戦):シングルマッチ「ブライアン・ブルナイトVS羽衣玲」

 薄暗い社長室の中に、卓上端末の電子音だけが静かに響いていた。窓の外には煌びやかな都会の夜景が広がっているが、新興プロレス団体「ノワール・ゲート」の代表、門脇はその景色に目もくれず、耳元のスマートフォンから聞こえる声に全神経を集中させていた。

「はい、オーナー。報告書の通り、太平プロレスとの第二次対抗戦の予定が正式に決まりました。ええ、ファンの反応は上々です。前回の引き分けという結末が、かえって飢餓感を煽った形になりました……。はい! はい。……承知いたしました。ご期待には、必ず!」

 通話を終えた後、門脇の厳格な面持ちが、まるでプレゼントを貰った子供のように、見たこともないほど柔らかな笑みに綻んだ。普段、門脇の報告を受けても淡々と確認の言葉を返すだけの事が多いあのオーナーが、「楽しみに配信を見るよ。また連絡する」という言葉を添えたのだ。その事実が、彼の中にこれ以上ないほどの充足感を与えていた。

「ふふ……オーナーに喜んでいただけるとは、望外だ」

 門脇は革張りの椅子に深く腰掛け、指先を組んだ。彼の脳裏には、太平プロレスという「古き良き伝統」を掲げる老舗団体を、いかにして利用し、この「ノワール・ゲート」という商材の価値を高めていくかという青写真が描かれている。前回の痛み分けという結果も、最上とまではいかずとも、成功と呼ぶに十分な結果と言えた。そして今回……。

 卓上端末のモニターにはAIがピックアップした各種プロレス系ニュースサイトの反応が一覧にまとめられ、電子音と共に更新されている。反応は様々だが、その合同興行に期待と注目が集まっていることだけは確かであり、サポートAIの分析もそれを追認していた。それらをざっと目線でなぞり、門脇はマウスを手に取って神宮寺がまとめた現在の「ノワール・ゲート」と「太平プロレス」の現役選手たちのコンディションと戦力評価値のステータスを呼び出す。それらはまるでゲームのキャラ比較のようでいささか滑稽にも思えるが、本来経済畑の人間であり、プロレスに疎い門脇にはかえって把握しやすい数字群だ。無機質なグラフには個々の選手の情動は見えて来ず、そこに人間性は感じられない。だが、経営者たる門脇にとっては、そうしたノイズは無いに越したことがない。

「狙うは勝ち越し。全5試合中、4勝取れれば理想的だが、まぁそこまで甘くは無かろう。……古臭い太平プロレスという看板も、我が団体の雄飛のためのカタパルトとしては価値がある」

 冷徹なビジネスマンの目に、確かな野心の炎が灯っていた。

 

 一方、その頃。歴史だけは長いが、一時期の総合格闘技ブームでファンと構成員を大きく減らし、今や往年の栄光とは程遠い「太平プロレス」の道場ビルの一室では、対照的な重苦しい空気が漂っていた。デスクの前で頭を抱え、まるで魂が抜けたような溜息をついているのは、団体社長の松平林吾だ。半引退状態とは言え一応現役のレスラーでもある彼は、最近とみに気になり始めた慢性的な腰痛を庇いながら、デスク脇のモニターに映し出された格闘技ニュース配信を横目で睨みつけた。

「……してやられたな。全く、門脇の奴め」

 林吾の絞り出すような声には、怒りと落胆が混じっていた。モニターの中では、口調の独特な女性実況配信者が、まだ太平プロ側が正式に発表していない「第二次対抗戦」の詳細について、さも確定事項のように喋り散らしている。

「確かに、オフレコという明確な約束はしていなかったさ。だが、打診の打ち合わせをしたその日の晩に、実況配信者に『打診してきたらしい。開催時期は太平プロが決めるよ』なんてリークさせるか、普通? 翌朝になって、のうのうと『ごめんね、オフレコの約束じゃなかったから許してね』なんてメールを寄こしてきやがって……! 腹立たしいにも程がある!」

 林吾は机を拳で叩いたが、すぐに腰に響いたのか顔をしかめた。

「あんな配信を先に流されてしまえば、こっちは『聞いてない』とも『時期尚早だ』とも言えん。今さら断ったり、開催を先送りにしたりしてみろ。ファンからは『太平プロはノワール・ゲートから逃げた』と後ろ指を指される。完全に外堀を埋められたんだ」

 そんな父の姿を、呆れ半分、心配半分で見つめていたのは、娘の美樹だった。彼女は現在、女子大生としてフロント業務を手伝いながら、レスラーとしてもデビュー済みであり、時にリングにあがることもある身だ。失踪したモモタロウから預かったマスクを今も大切に保管している彼女は、この団体の危うさを誰よりも肌で感じていた。

「それだけじゃないわよ、おとーさん。あの『相互1勝枠』の話だって、どう考えても罠じゃない」

 美樹は資料を指で弾いた。

「うちに今年度デビューした新人なんて、ブライアン君しかいないのよ? それを分かってて『互いに新人を出し合いましょう』なんて提案してくるなんて、実質的なブライアン君への指名じゃない」

 要は「結城をボコらせてやるから、ブライアンをボコらせろ」と言うのだ。どちらかが全勝するような一方的な展開は団体メンツ的にも興行内容的にも互いに避けたいだろうという理屈は分かるが、デビューしたての新人を生贄に捧げるような話はまだフロント経験の浅い美樹にとってはいささか生臭さが鼻につく。いっそ自分が出てしまうのはどうか、とも一瞬脳裏をかすめるが……美樹はデビューから一応3年目になるため条件に噛み合わない。

「……向こうの結城君がデビュー1年未満だからな。条件としては公平に見える。飲まざるを得なかった。それに、前回の対抗戦でうちの御子柴がやりすぎたのもある」

 林吾の言葉に、美樹は眉をひそめた。思い出されるのは前回の次鋒戦、御子柴が制止するレフェリーを突き飛ばして反則負け裁定を受けたあの試合だ。

「あー……そっか。紅子ちゃんが結城クンをさんざ嬲り倒した挙句、泡を吹いて気絶させちゃったのは、確かに試合の演出範疇を超えてたわよね。あれのせいで、向こうに正当な『報復』の口実を与えちゃったわけか……」

 美樹は腕を組み、窓の外を見つめた。しかし、静かな夜の街とわずかに輝く星くらいしか見えるものはない。

「でも、それはそれとして! 雫ちゃんのことは納得してないわよ! 彼女、前回の対抗戦からずっと殺気立ってるじゃない。今回はサチちゃんを出して、雫ちゃんは少し休ませるべきだって私、何度も言ったでしょ!」

 林吾は再び深い溜息をつき、今度はデスクの上の書類ではなく、娘の目を真っ直ぐに見つめた。

「お前だって、雫のあの顔は見ただろう? あいつは俺に、こう言い切った。『自分を出さないのは、勝って実績を出しているわたしへの不当な扱いだ』とな」

 その視線は、説得を試みる親のものではなく、逃げ場のない現実を突きつける興行主のそれだった。

「雫ちゃん……」

 林吾が示唆した発言内容は普段の彼女からは考えにくいほどに刺々しいものだった。調子を崩した三郎太を懸念して、つい先日まで友好団体であるオトギプロへ出向させていたが、その不在に責任感という燃料を炉にくべて焦燥という炎を燃え上がらせた結果、静かに暴走を始めた雫もまたその陰で心身の調子を崩していたのだろう。

「三郎太が戻ってきてくれたことで、少しは落ち着くかと思っていたが……甘かったな。彼女の中の何かが、もう限界まで張り詰めてしまっている。意固地というレベルじゃない、あれはもう、誰にも止めることはできんぞ」

 美樹は言葉を失った。気付いてしまったのだ。ライジング雫の現状を知った上で、門脇は今このタイミングで仕掛けてきたのではないか? だとしたら狙われているのはブライアンではなく雫の方なのかもしれない、と。美樹が視線だけで父に問いかけるが、林吾は黙って首を振る。証拠はない、根拠としても乏しい。それはただの邪推の域を出ないのだ。

 雫の勝利への異様なまでの執着。ノワール・ゲートの冷徹な知略と、太平プロレス内部に潜む危うい熱量。それらが複雑に絡み合ったまま、第二の戦いの幕が上がろうとしていた。

 

────────────────────

 

 会場を埋め尽くした観衆の熱気が、照明の熱と混ざり合って重く淀んでいる。実況席では、独特のイントネーションで語る影山アナが、マイクを握りしめて興奮気味に声を張り上げていた。

『さぁ、ジェニー・葛葉によってあの宮川三郎太が撃墜されるという衝撃的なラストで、「ノワール・ゲート」が土壇場で2対2の痛み分けに持ち込むという結果に終わった「太平プロレス」と「ノワール・ゲート」の団体対抗戦! その第二幕ともいうべき興行がついに始まりますワ! 前回は交流戦という体裁で4名同士の対決でしたが、今回は1人増えて5対5のバトル! 前回のように痛み分けでは終わらない、必ずどちらかが勝利を得る対抗戦にファンの期待も大いに高まりますわネ! そして、前回に引き続き、両団体の推薦で此度も解説には「オトギ・プロレスリング」の団体社長兼現役ベルトホルダーであるエディ・ダンテスさんにお越し頂いてます! どうぞよろしく!』

 解説席に座るエディは、どこか楽しげに、それでいて鋭い視線をリングへと向けた。

『どうも。中立の解説が欲しい、連続性も大事にしたいと言われれば断るのも野暮なのでな。またホイホイ出てこさせてもらったよ。エディだ』

 名乗る声は実に落ち着いたものだ。下手な新人レスラーなら呑まれてしまいそうな会場の熱狂も、彼女にとっては慣れ親しんだ空気に過ぎない。

『心強いお言葉、有難うございます。さて、まずは第二次対抗戦の先鋒戦のカードからということになるんですケド、「ノワール・ゲート」側からは前回次鋒を務めた羽衣玲が、そして「太平プロレス」からはなんと新人のブライアン・ブルナイトが先鋒として投入されましたネ。 解説のエディさん、この選抜……正直、意外かと思いますケド?』

エディは腕を組み、太平プロレス側のコーナーに立つ金髪の巨漢を見つめた。その視線は、初々しい緊張にいささか硬さが見て取れる大柄な新人の筋肉を冷徹に品定めしている。

『ああ、驚いたね。林吾のおっさんも思い切ったことをする。前回の対抗戦では雫が執念で羽衣を食い止めたが……今回のブライアンはキャリア半年だ。羽衣にしてみれば先鋒に回され、新人相手とあって腹立たしい所なんじゃないかな?』

『え? でも羽衣玲はいつもの通り、笑顔でファンにアピールしてるみたいですケド……アイドルレスラーだからそういうの気にしてないのかしら?』

 影山の言葉通り、ピンクのフリルをなびかせた羽衣は、カメラに向かって愛嬌を振りまいている。 しかし、エディの目は欺かれない。アイドルの仮面の下に潜む、静かな怒りと苛立ちの火種を見抜いていた。

『……本気で言ってるのか? いやお前、あの笑顔は……まぁ、うん。いや、やめておこう』

 前回、うかつに「アイドル」の営業スマイルに言及して、 マネージャーからクレームを受けた事を思い出したエディは発言を呑み込んだ。「プロレス」に長けたベテラン女子レスラーであっても「アイドル」に関しては素人に近い。触らぬ神に祟りなし。

『なにやら気になる反応ですが、いよいよゴングの時間ですワ!』

 影山が強引に進行を切り替えると同時に、場内の緊張感はピークへと達した。実況席のモニターには、麗しいアイドルレスラー羽衣玲の繕った笑みと、悪役志望のマッチョマン、ブライアンの緊張した面持ちが大写しになっている。

 

 乾いたゴングの音が響き渡り、試合の幕が上がった。試合開始直後、中央に歩み寄った二人。身長195センチのブライアンに対し、169センチの羽衣の体格はあまりに華奢に見える。睨み合いもそこそこに、ブライアンが重戦車のような加速を見せた。「オラァ!」という雄叫びと共に、ブライアンの巨躯がショルダータックルとなって羽衣に激突した。まともに食らった羽衣は木の葉のように舞い、背中からマットへ激しく叩きつけられる。

「きゃあ……ッ!」

悲鳴を上げながらマットを転がる羽衣を見下ろし、ブライアンは鼻で笑った。太平プロレス期待の大型新人としての自負、そして何より格上の「女子レスラー」にあふれるパワーで先制したというシチュエーションが、彼の浅薄な優越感を刺激する。なお、体格がでかいだけで、皮肉や冗談以外で誰も大型新人などと呼んでいないのは言うまでもない。

「おいおい、そんなもんか? 踊って見せろよ、ノワール・ゲートのアイドルちゃん!」

 悪役レスラーの道を志望するブライアンは、早くも勝利を確信したかのように傲慢な態度を滲ませ、悪ぶったセリフを口にする。しかし、倒れた羽衣の瞳には、観客には見えない冷徹な光が宿っていた。 彼女はすぐさま、顔を歪めながらも「健気に立ち上がるアイドル」を演出しつつ身を起こす。ブライアンが追撃に歩み寄った瞬間、羽衣が弾かれたように踏み込んだ。

「えぇ~い!」

 気合の声と共に放たれたエルボーバットが、無防備なブライアンの顎を正確に射抜いた。鈍い衝撃音が響き、ブライアンの巨体がわずかに揺らぐ。可愛らしい女子式のエルボーと見せながら、衝撃を一点に集中させた硬質な打撃が、脳を揺らした。

「ぐっ!? ……ふん、思ったほどには効かねえな」

 ブライアンは数歩後退し頭を振る。虚勢を張って顎をさすりながら悪党らしい笑みを浮かべたが、その瞳には苛立ちが混じっていた。発言とは逆に思ったより効いた事に戸惑っているのだ。だが、それを勢いで誤魔化すように彼はそのまま、羽衣の細い肢体を強引に捕らえる。

「オラァ、今度はこっちの番だ!」

 力任せに持ち上げた羽衣を、脳天から落とさんばかりの勢いでボディスラムに捉える。逃げ場の無い空中へ投げだされ、羽衣は短い悲鳴を漏らした。

「きゃんっ!?」

 マットに叩きつけられた衝撃に羽衣が背中を庇ってキャンバスで身悶える。ブライアンは畳み掛けるようにコーナーポストへと向かった。

「おいおい、キャリア2年以上ったってアイドルレスラーならこんなもんか! デビュー半年の俺でもやれそうじゃねえか!」

 観衆を煽りながらトップロープに登るブライアン。彼はとどめの一撃としてダイビング・エルボードロップを狙い、その巨体を宙へと投げ出した。だが、落下するその一瞬、瀕死に見えた羽衣が素早く横へ転がる。

「……バカが」

 羽衣が観客から見えない角度で軽蔑の色を表情に乗せて低く呟くと同時に、ブライアンの右肘が何もないマットへと激突。自重を乗せた衝撃が、自分自身に返ってくる。鈍い音と共に、未熟な悪役レスラーの顔が苦悶に歪んだ。

「……ぐおあ!? 痛たたた!?」

 自爆のダメージに悶絶し、肘を押さえてのたうち回るブライアン。その無様な姿を背後に感じながら、羽衣玲は乱れた髪を払い、静かに立ち上がった。

 しかし、ブライアンはその痛みを怒りに変換して立ち上がり、引き起こしに寄ってきた羽衣を無理やり掴み上げた。体格差のせいで羽衣はいともたやすく持ち上がってしまう。

「くっそ、やりやがったな!」

 ブライアンは羽衣を肩に担ぐと、そのまま自らの立て膝へと、彼女の尾てい骨を叩きつけるアトミックドロップを敢行した。硬い膝の衝撃が羽衣を縦に突き抜ける。

「あ、あぁっ!?」

 羽衣の顔が苦痛に歪むが、ブライアンは攻撃の手を緩めない。逃れようとする羽衣の胴を、丸太のような両腕で力任せに締め上げた。ベアハッグだ。

「オラオラ、捕まえちまえばこっちのもんよぉ! 雫センパイに比べりゃ怖くねえぜ!」

 ギリギリと締め上げられる肋骨の軋む音が、羽衣の耳元で聞こえる。ブライアンの筋肉が生み出すパワーに完全に行動を封じられ、羽衣は必死に息を繋ごうともがいた。

「あぁっ……あぅっ……!? ……チッ」

 アイドルとしての仮面の裏側で、羽衣の舌打ちが密かに響いた。先ほどのブライアンの発言で雫と比較されたのが彼女の逆鱗に触れたのだ。実を言えば羽衣はこの第二次対抗戦でライジング雫にリベンジしたかった。だが、キャリア1年の格下に不覚をとった羽衣の希望は通らず、こうして先鋒に格下げされて新人を蹴散らす役目を強いられている。その上、その蹴散らすべき新人に当の雫と比較して怖くない等と言われて頭に来ないわけがなかったのである。

 丸太のようなブライアンの両腕が、羽衣の華奢な胴体をギリギリと締め上げる。ミシミシと肋骨が悲鳴を上げ、圧迫が呼吸を妨げる。観客席からは、太平プロレスの新鋭が見せる圧倒的なパワーに歓声が上がり、逆に羽衣の窮地に悲鳴のような声が混じった。苦悶に顔を歪ませ、なす術もなくうつむいてブライアンの首筋に顔を埋めているように見えた羽衣。だが、彼女の瞳には、凍てつくような怒りと断罪の決意が浮かんでいる。彼女は、自身の顔がブライアンの身体で客席やカメラから隠れ、死角になっているのを確認しつつ呟いた。

「……盛り上げは、もう十分ね」

 観客には届かない小声。その言葉と同時に、羽衣は拘束された腕をわずかに動かし、ブライアンの上腕の内側──筋肉の隙間にあるツボ、痛点へと親指を深々とねじ込んだ。

「――っ!? ぎ、ぎゃああああ!?」

 突然走った、焼け付くような激痛。ブライアンは思わず羽衣を解放し、自らの腕を押さえて飛び退いた。神経を直接焼かれたような尋常ではない痛みに顔を戦慄かせるブライアン。その隙を、羽衣は逃さない。着地すると同時に、羽衣の全身から「アイドル」としての甘い空気が霧散した。彼女はしなやかな動作で一歩踏み込むと、腰の回転を乗せた鋭いトラースキックを放つ。

「て、テメェ……何しやが……ぶはっ!?」

 乾いた衝撃音が響き、ブライアンの顎が跳ね上がった。視界がぐらつき、足元がおぼつかなくなる。

「黙れバカ」

 怯んだブライアンの抗議を、羽衣は冷酷な一言で切り捨てた。貼り付けたような笑顔こそこれまで通りだが、その瞳は、もはやファンに見せる可愛いアイドルのものではない。対抗戦という戦場において、無能な敵を排除しようとする冷徹な格闘家のものだ。

 羽衣は止まらない。流れるような動きでロープへと走り出し、トップロープに足をかける。

「よーし、いくぞっ♪」

営業用の明るい声を張り上げると、スワンダイブ式ミサイルキックを敢行した。空中で鮮やかな弧を描き、その両足がブライアンの分厚い胸板を正面から捉える。重苦しい音が響き、巨漢が背中からマットへなぎ倒された。会場はこの日一番の盛り上がりを見せるが、ダウンしたブライアンは屈辱に顔を真っ赤に染めていた。

「な、なんだ急に強くなったような……!? いやそんなわけねえ、考え過ぎだ、くそっ……! 調子に乗りやがって!」

 ブライアンはいまだ落ち着かない視界にも構わず、執念で立ち上がると、髪を掴んで自分を引き起こそうと近づいてきた羽衣に対し、なりふり構わず頭を突き出した。ゴツッ、と鈍い音が響く。

「ぐっ!?」

 羽衣の額を、ブライアンの硬い額が捉える。不意の頭突きに羽衣の動きが止まり、顔を顰めて後退する。「アイドル」の顔面に躊躇なく叩き込まれた野蛮な一撃に、客席からはどよめきが上がった。

「おらぁ! いつまでも好き勝手させてたまるかよ!」

 ブライアンは好機と見て、よろめく羽衣の胴を強引に抱え上げた。元々脳筋寄りであり、ましてキャリア半年の彼に、緻密なレスリングの攻防はできない。ならば、残された手段はただ一つ、この圧倒的な体格差を利用したパワーの蹂躙のみ。

「こうなりゃ必殺技で決めてやる!」

 内心の違和感を振り払うように叫び、ブライアンは羽衣を逆さまに担ぎ上げる。必殺の「ブルナイト・パワーボム」の体勢だ。これを完璧に決めれば、どんな技術も関係なく叩き潰せるはずだった。だが、担ぎ上げられるその瞬間、羽衣の動きはブライアンの予想を遥かに超えていた。羽衣は空中で姿勢を制御し、力任せに振り上げようとするブライアンの頭部を自らの両脚で絡めとる。続いて、ブライアンの視界が反転した。

「捕まえた、勝てる……そう思った?」

 羽衣はブライアンの勢いと、その巨体の自重をすべて利用するように、体を丸めて反動をつける。羽衣の冷ややかな囁きが耳元を掠めた直後、ブライアンの体は鮮やかな弧を描く。

「むぐっ!? こ、こんな細っこい女にこの俺が!? ぐあああっ!?」

 完璧なタイミングで放たれた「フランケンシュタイナー」によって、彼はマットに叩きつけられていた。後頭部と背中を激しく打ち付け、ブライアンの意識が白濁する。二人分の体重と、パワーボムの勢いがそのまま逆流したかのような衝撃は、新人の肉体にはあまりに過酷だった。かろうじて受け身を取りに行っていた点にだけ、太平プロレスによる指導の跡が覗く。

 

 実況席の影山が、放送席から身を乗り出さんばかりに叫んだ。

『返したぁ~! 返しましたワ、羽衣玲! ブライアン・ブルナイトの必殺パワーボムを綺麗にフランケンシュタイナーで切り返しました! 二人分の体重を後頭部に受けて、ブライアン・ブルナイト朦朧としています! これは効いてますわネ!』

 その隣で、解説のエディ・ダンテスは深く感心したように頷いていた。

『うん、今の切り返しは見事だ。十分な練習と基礎に裏打ちされた綺麗なフォームだった。名ばかりのアイドルレスラーじゃない、しっかりした技術を感じるな。……まぁ、ちょっと笑顔はアレだが』

 影山は苦笑しながらマイクを握り直す。

『またそうやってエディさんは変なダメ出しを。たまに見せるあの冷たい笑みも、ファンには堪らない人気のポイントなんだそうですヨ? そんなこと言ってるとファンに怒られますワ』

 エディは少しだけ複雑そうな表情を浮かべ、リング上で再び獲物を狙う目になった羽衣を見つめた。

『そうか……なかなかアイドルというのも難しいものだな……』

 プロの技術と、興行としての華、そして時折漏れ出る剥き出しの殺意。その境界線で戦う羽衣玲の姿に、実力者であるエディもまた、一筋縄ではいかないアイドルレスラーというジャンルの奥深さを感じ取っていた。

 後頭部からマットに突き刺さった衝撃で、ブライアンの視界は激しく明滅していた。己の巨体が、あんな華奢な女の放った返し技によって軽々と投げ飛ばされたという事実が、朦朧とする頭ではどうしても処理しきれない。背中から首にかけて走る鈍痛に顔を歪めながら、ブライアンは本能のままに四つん這いになり、うわ言のように唸りながらゆっくりと身を起こそうとした。だが、このリング上において、勝機を逃すような甘い敵は存在していなかった。羽衣玲の追撃は、冷徹なまでに迅速で無駄がなかった。ダウンのダメージから逃れようともがくブライアンを尻目に、彼女はすでにコーナーポストのトップロープへと、猫のような身軽さで駆け上がっていたのだ。リングを見下ろす高い位置で、彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、カメラと観客の波に向けてアイドルとしての満面の笑みを作った。

「いっちゃうぞーっ!」

 高く澄んだ甘い声が会場に響き渡り、ファンから割れんばかりの歓声が上がる。しかし、空中に踏み切るその直前、彼女の顔からはすべての感情がすっぽりと抜け落ちた。そして、薄っぺらいアイドルの歓声を嘲笑うかのような、あるいは標的を定めた暗殺者のような低い吐息が、口元から細く漏れた。

「……フン」

 しなやかな身体が宙を舞う。両手両足を空中で大きく広げ、落下地点を正確に見据えたフライングボディアタック。ダメージからようやく顔を上げたブライアンの視界を、ひらひらと舞うピンク色のコスチュームが完全に覆い尽くした。

「ぬわーっ!?」

 迎撃の暇すらなく、空から降ってきた羽衣の身体がブライアンの胸板へと正面から激突する。高い打点から体重を乗せたその一撃は、立ち上がりかけたブライアンの重心を完全に粉砕し、彼を再びマットへと乱暴に叩き返した。重く嫌な音がリングに響き、ブライアンは大の字になったまま完全に動きを止めた。もはや指先一つ動かす気力も、立ち上がるための力も残っていない。呼吸をすることすら苦痛を伴い、顔を歪める愚かな新人レスラーを、苛立たしいと感情の無い氷のような目で見下ろすと、羽衣はゆっくりと立ち上がった。そして今度は、対角線上にあるコーナーへと、一切の油断なく歩を進めた。

 会場の空気が、ピンと張り詰める。誰もが、これから放たれるであろう「決まり手」を予感し、息を呑んでリング上の攻防を見つめていた。トップロープの上に立ち、リングへと背を向ける羽衣。その佇まいには、一切の迷いも、眼下の相手への慈悲も存在しない。あるのはただ、与えられた「勝利」という任務を淡々とこなすだけの、研ぎ澄まされた無機質さだけだった。

「……終わりよ」

 誰に聞かせるでもない、凍りつくような呟きとともに、羽衣は後方へと大きく飛躍した。宙で身体を大きく反らせながら、捻りを加える。縦の回転と横の回転が複雑に絡み合う、人間離れした三次元軌道。まさに不死鳥が羽ばたくかのような、美しくも残酷な必殺技、フェニックス・スプラッシュ。空中で正確に標的を見定めた彼女の身体は、大の字になって動けないブライアンの腹部へと、恐るべき重力と回転のエネルギーを伴って落下した。

「が……ッ!?」

 ブライアンの口から、声にならない悲鳴が漏れる。肺の中の空気をすべて吐き出し、完全に白目を剥いて意識を刈り取られてしまっている。羽衣は落下した勢いのままブライアンの太腿をしっかりと抱え込み、完璧なエビ固めの体勢で押さえ込んだ。

 慌てて滑り込んできたレフェリーの右手が、激しくマットを叩く。

 

「ワン! ツー! ……スリー!!」

 

 カンカンカンカン! と、試合終了を告げるゴングがけたたましく会場に鳴り響いた。

圧倒的な体格差を技術で覆しての、鮮やかなピンフォール勝ち。歓声と拍手が爆発し、羽衣のポップなテーマ曲が大音量で流れる中、レフェリーが彼女の右手を高く掲げて勝ち名乗りを上げる。しかし、羽衣は勝ち名乗りを受けるのもそこそこに、自らレフェリーの手を振り解いた。そして、ピクリとも動かないブライアンには一瞥もくれず、まるであの巨漢が最初からそこに存在していなかったかのように、さっさと背を向けてリングを降りた。アイドルらしいファンサービスも、勝利の喜びを爆発させる笑顔もない。ただ額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭いながら、淡々と花道を戻っていく。

「……こんなのが相手とは、私も舐められたものね」

 控室へと繋がる花道の暗がりの中、羽衣の口から漏れたのは、勝利の喜びではなく、不満と苛立ちに満ちた毒気の強い言葉だった。スポットライトの届かない場所で、その瞳は昏い熱を帯びて細められる。彼女の目には、こんな実力不足の新人ではなく、前回の対抗戦で自分を追い詰めたあの充実したグラウンド技術に狂気じみた光を隠す憎き女、ライジング雫の影が映っていたのだ。

 

 熱狂冷めやらぬ会場の空気を切り裂くように、実況席から影山の甲高い声が飛んだ。

『ピンフォール! フェニックス・スプラッシュで見事に羽衣玲が勝利を決めました! これでまずは「ノワール・ゲート」側が一勝を先取した形になりますわネ!』

 興奮気味に捲し立てる影山の隣で、エディ・ダンテスは落ち着いたトーンでマイクに向かった。

『順当な結果だったね。太平プロも新人を出した以上は……まぁ、覚悟の初戦ではあるだろう。ブライアンのパワーもなかなかのものではあったが、やはりキャリアと技術の差がモロに出た形だ。今後どう転ぶかはまだ分からないぞ』

 リングから去っていく背中をモニター越しに追いながら、影山が少し不満げに首を傾げる。

『アラ、羽衣玲は勝ち名乗りもそこそこに、もうリングを降りてしまいますネ。見事な勝利を飾ったんですから、もっとファンに笑顔を振りまいてくれてもいいんですケド……。それでも視聴者コメントでは好評のようです。「俺の羽衣様、マジ天女様!」「羽衣だけにか、巧い事言ったようだが、まずお前のではない」「たまに見せる刃物みてーな視線いいよね……」「いい……」「新人とは言え、ブライアンのあのガタイでこんな一方的にやられるのか、やっぱ羽衣に勝ったライジング雫は強いんだなぁ」などなど、さすがファンの皆さんは訓練されてますわネ』

 端末に流れるコメントの奔流から拾うべきものをピックしながら、影山はプロレス特有の熱狂をその身に受けて高揚していた。彼女の言葉に、エディは小さく息を吐く。リング上の残酷な攻防と、彼女が最後に見せたあの無機質な去り際。そこから察せられるプロレスラーとしての矜持と執念を、エディは正確に読み取っていた。

『あー、……まぁ、鍛えられた筋金入りのファンの皆さんはさておき、この試合については彼女なりに思う所がないわけでもないのだろ。雫との再戦も叶わなかったわけだしな。勝って当たり前の試合で喜ぶほど、彼女は安いプライドでリングに上がっていないということだ』

『なるほど……。なんだかすっきりしないかんじの先鋒戦でしたネ。ですが、戦いはまだ始まったばかり! 次の次鋒戦に期待いたしましょう!』

 影山の明るい締めくくりとともに、カメラは誰もいなくなった花道から、熱気を帯びたままのリングへと切り替わった。モニターには、いまだ力なくキャンバスに横たわったままでドクターの処置を受けているブライアンと、彼を運び出すための担架を用意する練習生たちの姿が、勝者のいなくなったリングで寂寥感を漂わせている。

 

 こうして、第2次団体対抗戦、先鋒戦は「ノワール・ゲート」の羽衣玲が、「太平プロレス」の巨漢を圧倒的な実力差で葬り去り、まずは一勝を刻んだのであった。

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