「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第21試合(vsノワール・ゲート対抗戦次鋒戦):シングルマッチ「ライジング雫VS結城蓮」

 スポットライトが照らし出すキャンバスの上、ライジング雫は重い足取りでリング中央へと歩を進めた。白と青を基調としたフリル付きのリングコスチュームは、彼女の透き通るような肌を際立たせているが、その表情には隠しきれない色濃い疲労が滲んでいる。黒髪のショートボブが微かに揺れるたび、額に浮かんだ汗が照明を反射してきらりと光った。

(……先鋒戦で1敗がついた今、私が星を取り返さないと。大丈夫、負けるような相手じゃない……!)

 自分に言い聞かせるように奥歯を噛みしめる。対抗戦という重圧、そして日頃のオーバーワークや連日の出場による肉体の酷使。今の彼女は、精神的にも肉体的にも、出口のない迷路の入り口に立っているような危うさがあった。対峙する結城蓮は、赤いバンダナをきつく締め直し、まだ筋肉の薄い華奢な体を震わせながらも、射抜くような視線を雫に向けている。

「よろしくお願いします! 全力ぶつけさせてもらいます!」

 少年の面影を残す直球の宣言。それが、今の雫にはひどく耳障りだった。余裕のなさが、彼女の本来の冷静さを削り取っていく。

「……生意気ね」

 吐き捨てた言葉は、冷たい拒絶の色を帯びていた。観客席からは「雫コール」が巻き起こるが、今の彼女にはそれすらも心地よく受け入れられない。ただ、自分は善玉レスラーだという自覚が、かすかな苛立ちを胸の奥に押し込んでぎごちない笑顔で手を挙げて応えさせた。

 放送席では、女性実況・影山が、配信画面の向こう側の視聴者を煽るように軽妙な響きで声を張り上げていた。

『さぁ、まずはノワール・ゲートが1勝を先取しての第二次対抗戦、続いて次鋒戦のお時間ですワ! 対戦カードは「ライジング雫 VS 結城蓮」! 先の対抗戦ではあの羽衣玲を破る金星を挙げた雫に挑むのは、デビュー半年足らずの新人・結城蓮!先ほどの先鋒戦とは、若手と新人の立場を入れ替えたようなマッチメークですわネ?』

 隣に座るオトギプロレスリング社長、エディ・ダンテスは、腕を組みながら鋭い視線でリング上の雫を凝視していた。

『……好意的に解釈するなら、前回対抗戦で勝ち星を得た結城を次鋒に格上げした、ということになるが』

 低く、警戒を含んだエディの呟きに、影山がわざとらしく瞳を輝かせて身を乗り出す。

『アラ、その言い方ですとエディさんは別の見方がおありということですの?』

 エディは苦い表情のまま、一つ溜息をついた。

『うん、正直もう少し穿った見方をしていたんだが……雫の顔を見て、ちょっとわからなくなってきた所だ』

 エディの言葉の意図を測りかねたか、影山はわずかに首を傾げてみせる。彼女の視線が、リング上でコーナーに控える雫へと向けられた。

『ライジング雫ですか? 白い肌に影のある表情、汗に濡れたしなやかな肢体……正直、大変色っぽいお姿だと思いますケド?』

 影山はうっとりと頬に手を当て、リング上の雫をなめるように凝視している。

『お前な……試合開始前からあれだけ汗ばんで、目の下に隈があるとか、どう見ても体調を崩しているだろ、あれは! もしノワール・ゲート側が彼女の不調をあらかじめ知っていたなら、リスクを踏んででも全勝を狙っている可能性も……いや、さすがに考え過ぎか?』

 エディの懸念を余所に、影山はマイペースに端末を覗き込み、流れるコメントを指先でドラッグし、拾い上げる。

『それはまた挑戦的ですネ。私はてっきり、全敗しないために両陣営で1勝ずつ分け合う算段でもしたのかと思ってましたワ』

エディは思わず絶句し、茶の間で世間話でもするかのようにあっけらかんと、とんでもないセリフを放ってみせた隣の影山を二度見した。

『いや、お前……それは思っても言ったらダメな奴だろ!? 怒られても知らないぞ!?』

 冷や汗を流すエディを余所に、影山は可愛らしく舌を出し、リアルタイムで流れるコメント欄を読み上げ始めた。

『ゴメンなさい! 私、普段は実況配信者で業界の機微とか分からないものですから。許して視聴者の皆さん! ……まぁ! 「ウインク助かる」「テヘペロあざといぞ影山、許すわ」「そんな魂胆ならぶちまけてしまっても構わないのでは? ボブは訝しんだ」「エディの方が焦ってて草」だなんて、優しい! みんなありがとう!』

 画面上の歓喜に満ちた文字列と、目の前で無邪気に微笑む女性。エディは背筋に薄寒いものを感じ、思わず身を引いた。

『お前……結構怖い奴だな……ッ!?』

 エディが戦慄する中、無情にも試合開始のゴングが会場に鳴り響いた。

 

 試合開始早々、雫は鋭い踏み込みからローキックを放った。挨拶代わりの牽制の打撃が結城の脚に染みるように衝撃を走らせる。しかし、その蹴りにはいつものようなキレがない。

「くっ……このくらい!」

 結城は顔を歪めながらも、体勢を揺るがす事はなく、一歩も引かずに反撃に出る。その気圧されない姿勢に、雫の眉が微かに動いた。

「っ、これならどうだ!」

 その場跳びのドロップキック、キャリアの浅い新人らしい、真っ向勝負。雫はそれを冷静にサイドステップでかわすつもりだった。だが、彼女の脳が下した指令に、肉体が追いつかない。コンマ数秒、自身の影を踏んでしまったかのような微細なラグ。結城の足裏が、雫の胸元を捉えた。

「っ……あぐっ!?」

 後ろに数歩よろめき、雫の紫色の瞳に驚愕が走る。

(避けるつもりだったのに……反応が間に合わなかった? そんなスピードがあるわけでもないのに。嘘でしょ……)

 信じられないという思いが焦りに変わる。結城は追撃の手を休めず、すぐさま雫の腰へ腕を回して組み付いてきた。格下相手に不覚を取ったという事実が、雫のストイックなプライドを激しく逆なでする。

「……ッ、離しなさい!」

 雫は力任せに結城の腕を振りほどくと、その勢いのまま首を抱え込み、鮮やかな払い腰を見舞った。

「ぼ、僕だっていつまでも新人のままじゃいられない!」

 マットに叩きつけられた結城が吠える。その言葉が、まるで今の停滞している自分をなじられているかのように聞こえた。

「甘いわ!」

 倒れたままの結城。その背中に向かって、雫は容赦のないサッカーボールキックを叩き込んだ。

「あぐっ!?」

 背中を痛打する鈍い音が響く。それでも結城は必死に顔を上げ、立ち上がろうともがく。その泥臭い執念、泥にまみれても勝利を欲する剥き出しの闘争心が、雫の胸にざらりとした違和感を残した。

「はぁっ、はぁっ……! 喚かないで、鬱陶しい!」

 乱れる息を整えようとするが、酸素がうまく肺に入ってこない。大して動いたわけでもないしダメージがあるわけでもないのに。胸の鼓動だけが、早鐘のようにうるさく鳴り響いている。這い上がってきた結城が、吠えながら反撃のエルボーを放ってきた。

「くっ……経験じゃ負けてても、気概で遅れはとらないっ!」

 その一撃が雫の顎を掠める。肉体的な衝撃以上に、雫の心を揺さぶったのは、至近距離で見つめ合った結城の瞳だった。汚れのない、真っ直ぐな、熱を帯びた瞳。こんな目つきをどこかで見たような気がした。そう、それは……。

「きゃっ……ッ!?」

 雫の動きが止まった。その瞳の向こう側に、かつて自分に稽古をつけてくれた、あの人の姿が重なる。不器用で、泥臭くて、それでも誰よりも真っ直ぐにプロレスを愛していた、三郎太。デビュー前後の彼が、がむしゃらに対戦相手に向かっていったあの頃の情熱が、今、目の前の少年の姿を借りて雫の意識を侵食していく。

(先輩……? いえ……なんで、あの子を見て先輩を思い出すの……!? 集中しろ久我雫!)

 激しい動揺が、雫の指先を震わせた。格下の新人であるはずの結城蓮が、彼女にとって最大の脅威――自分自身の過去と弱さを突きつける鏡――へと変貌した瞬間だった。

 

 動揺は、一瞬の隙となって肉体に現れた。雫が三郎太の幻影に囚われ、視線を彷徨わせたその刹那を結城蓮は見逃さなかった。格上のレスラーが不自然に動きを止める――その違和感を、若き新人は「好機」として反射的に掴み取ったのだ。

「うおおっ!」

 結城が雫の懐に深く飛び込み、その腰をがっしりと抱え上げる。筋肉がまだ薄いとはいえ、日々の鍛錬に裏打ちされた若さゆえの爆発力が、雫の体を軽々と宙に浮かせた。持ち上げられる瞬間、雫は自分の身体が驚くほど重く、自由が効かないことに戦慄する。

「くっ……!?」

 抗う間もなく、雫の視界が反転した。背中がキャンバスに叩きつけられる鈍い音がリング上に響く。鮮やかなボディスラムだ。マットの衝撃が肺の空気を無理やり押し出し、雫の意識を強制的に現実へと引き戻す。痛みが思考の霧をわずかに晴らすが、代わって湧き上がってきたのは、自分自身への烈しい嫌悪感だった。

(何を……何をしているの、わたしは! こんな新人に、いいようにされるなんて……!)

 太平プロレスの威信を今この瞬間、自分が背負っているという自負、そして何より、三郎太に「強く、誇り高い自分」を認めさせたいという独善的な承認欲求。それらが今の彼女を、逃げ場のない焦燥へと追い込んでいく。結城が追撃のために雫を引き起こそうと手を伸ばした、その時だった。

「……つかまえた……!」

 雫の瞳に、冷徹なまでの光が宿る。彼女は結城の差し出した右腕を電光石火の速さで絡め取ると、自らの体を沈み込ませるようにしてグラウンドへ引きずり込んだ。

長い四肢が蛇のように結城の首と腕に絡みつく。首と肩、そして腕を同時に極める――三角絞めだ。

「悪いけど、速攻決める、決めてやる……!」

 自分に言い聞かせるように、あるいは自分の中の迷いを封じ込めるように、雫は呪文のように呟いた。足首を膝の裏に深くロックし、結城の頚動脈を容赦なく圧迫していく。締め上げる脚に力を込めれば込めるほど、雫の心は「支配している」という歪んだ充足感に満たされていった。

「ぐぅぅぅ……ああぁっ!!」

 結城の顔が苦痛に歪み、赤黒く充血していく。必死に逃れようと腕を引き抜こうとし、マットを蹴って身をよじらせるが、雫は一度捕らえた獲物を決して離さないという執念で締め上げていく。だが、雫の肉体は雫の脳裏に描くイメージを裏切り始める。極め続ける脚の力が、ふとした瞬間に揺らぐように抜ける。身体の奥底から込み上げる疲労が、筋肉をして悲鳴をあげさせていた。結城がなりふり構わず暴れ、そのもがきが激しさを増すと、完璧だったはずのクラッチがじわじわとズレ始めた。三角絞めが外れるのは時間の問題と見た雫は、瞬時に判断を切り替える。一度技を解くと同時に、結城の背後に滑り込むようにして複雑に手足を絡ませていく。グラウンド・コブラツイスト。うつ伏せになった結城の首と足を、逃げ場のない檻のように縛り上げた。極められた結城の背筋と関節が、ミシミシと軋む音が雫の鼓動に重なる。

「あっ……あぁぁっ……ッ!」

 背骨を不自然な角度で反らされた結城が、マットを叩こうとして、必死にその手を止める。雫の紫色の瞳が、苦悶に喘ぐ少年の色がまだ抜けきらない若者の顔を至近距離で見下ろした。

「どう……? ギブアップ?」

 荒い吐息、苦痛に歪む口元。その瑞々しくも必死な表情に、雫の脳裏で再び「三郎太」の記憶がフラッシュバックする。かつてリングで、自分の関節技に顔を歪めていたあの時の……自分の技術を、力強さを、その肉体で受け止めてくれていたあの顔が……。その記憶は、今の雫にとって「守るべき誇り」と「自分だけのものにしたい」という昏い独占欲の両方の源泉となっていた。

「ぎ……ぐぐ、ま、まだだぁ……ッ!」

 頭を振って耐える結城。

「なら……ッ!」

 雫はさらに腰を押し込み、力を込める。だが、その力の質は勝利への純粋な渇望から、対象を屈服させ、支配したいという昏い愛着へと変質しつつあった。

(……先輩をこんな風にこの手の中で喘がせられたら……ん、私何を……何を考えてるのっ!?)

 一瞬、自分の内に芽生えた卑俗で衝動的な妄想に戦慄し、全身に鳥肌が立つ。その精神的な忌避感と動揺は、技の「極め」に致命的な甘さを生じさせた。指先、膝、腰――本来なら鋼のように固められるはずのロックが、内側から瓦解していく。

 その様子を、放送席の二人は鋭く観察していた。影山が配信コメントの熱気そのままに、どこか煽るような実況を続ける。

『ライジング雫、もがいて三角絞めから逃れかけた結城蓮をすかさず、グラウンドコブラに極め直しました! アラアラ……結城蓮、身悶えしながら苦痛の声をあげてますワ! お姉さんにねちっこく責め立てられているイケメンとか……なかなか素敵な光景に一部の視聴者さんはそれはもう大興奮ですわネ』

 しかし、現場の空気感を肌で感じるエディ・ダンテスの目は、その異常な光景の裏にある「機能不全」を正確に射抜いていた。彼女の表情は険しい。

『……いや、妙だ。三角締めの時もそうだが、絞めの緩急がおかしい。力が入らないのか……集中が乱れてるのか?』

 エディの視線の先。雫のクラッチは、固く閉ざされたかと思えば、ふとした瞬間に吐息をつくような弛緩を見せる。

『ですから、ねちっこく甚振っているのでは?』

 その不規則な指先の震えを、影山は鼻で笑い飛ばした。

『そんなわけあるか!』

 即座に否定するエディ。しかし、リング上の雫のあまりにも不安定で「生々しい」様子に、プロレスラーとしての常識が揺らぎ始める。エディは冷や汗を流しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。

『…………。 ……そんなわけないよな?』

『自分で言って自分で不安になってどーする』

 エディが困惑の表情を浮かべて影山に鋭いツッコミを頂戴したその瞬間、リング上で事態が急変した。雫のクラッチが迷いによって緩んだ、そのわずかな隙間。結城蓮は、潰されかけていた肺に無理やり酸素を吸い込むと、全身のバネを爆発させた。

「ぐぅぅ……い、今だぁぁ!!」

 結城は無理やり四つん這いになった状態から、渾身の力でグラウンド・コブラツイストを振りほどく。雫が「しまった」と思い、身を起こそうとした時には、すでに結城の両腕が彼女の腰を背後からガッチリとロックしていた。これまでの苦痛を全て推進力に変えるような爆発力。膝立ちの状態から、己の体重を後方へ投げ出すデッドリフト式バックドロップだ。

「なっ……あうっ!?」

 雫の視界に天井のライトが映り込み、通過した。後頭部からマットに叩き落とされる鈍い衝撃。受身を取りきれなかった背中へ走る激痛が、彼女の誇りを物理的に打ち砕いていく。格下だと侮っていたはずの少年の、文字通り命を削るような反撃。マットに伏した雫の耳に、結城の荒い息遣いと、地鳴りのような観客の声が、遠く、酷く歪んで届いていた。誇りと執着の狭間で、彼女の心はさらに深く、迷宮へと迷い込んでいく。優等生のベビーフェイスの看板を掲げながら、その内側で腐敗し始めた昏い感情が、彼女自身をリングの底へと引きずり込もうとしていた。

 

 天井の無機質な照明が、仰向けに倒れた雫の視界でぼやけては揺れていた。デッドリフト式バックドロップによる衝撃は、彼女の背中から腰、そして脳髄へと抜け、一瞬の意識の空白をもたらした。肺から押し出された空気が戻らず、喉の奥でヒューヒューと掠れた音が鳴る。そこへ、一切の躊躇なく覆い被さってきた影があった。結城蓮だ。彼はマットに伏した雫の足元へ回り込むと、両脇に彼女の両脚をしっかりと抱え込んだ。そのまま己の体重を後方へとかけ、全身の力で彼女の身体を反り返らせる。

プロレスの基礎にして、最も残酷に腰を破壊する古典的関節技――逆エビ固め(ボストンクラブ)である。

「うおおお! ど、どうだっ! ギブか!?」

 会場の歓声を切り裂くように、結城の若く、必死な咆哮が響き渡った。細身ながらも全身のバネを使い、雫の腰骨をへし折らんばかりの角度で締め上げる。

「あぁ……ッ! ノォー! ギブアップなんてするかぁッ! こんな技……!」

 背骨が悲鳴を上げ、神経を直接焼かれるような激痛が走る。雫は顔を歪め、苦悶の声を漏らしながらも、叩きつけられたばかりのマットを両手で掻き毟った。痛みが肉体を支配していく中で、彼女の精神はさらなる混迷の泥沼へと沈み込んでいく。

(こんな……先輩みたいな技……ばかりっ……!!)

 逆エビ固め。泥臭く、不器用で、しかし絶対に相手を逃がさないという執念に満ちたその技のチョイス。結城の戦い方は、どうしても雫の脳裏に「三郎太」の姿を呼び起こしてしまう。逆エビ固め、それは三郎太がデビュー戦でバッカス木桜を破った決着技でもあり、練習生時代にそれを見ていた雫の記憶にも強く刻まれていた。結城の叫び声が、三郎太の幻聴となって雫の鼓膜を震わせる。

(わたしは、先輩の期待に応えなきゃいけない。鬼気取りの舶来娘や何を考えてるのか分からない外道猫など頼りにならない、私がやらなくちゃいけないのに…っ!)

 その強い使命感と同時に、昏い独占欲が雫の心を黒く塗り潰していく。先輩のプロレスは、わたしだけが知っていればいい。先輩の熱も、不器用さも、すべてわたしのものなのに。どうして、目の前の見ず知らずの新人が、あんなにも「先輩」を思わせるのか。

 なぜ、あの人の幻影が、わたしをこんなにも苦しめるのか。

「だめ……ギブアップなんて……絶対に……!」

 歯を食いしばり、血の味が口内に広がる。雫は、激痛で痙攣しそうになる腕を必死に前へと伸ばした。

指先がキャンバスを擦り、少しずつ、ミリ単位で身体をロープへと這わせていく。結城もそれを阻止しようとさらに腰を落とし、角度を急にしてくる。腰がミシミシと嫌な音を立てた。それでも雫の執念は、肉体の限界を凌駕した。

「あぁぁっ……!」

 長く伸びた指先が、ついにサードロープを掴み取る。レフェリーの鋭いコールが響き、ロープブレイクが成立した。結城は悔しそうに顔をしかめながら、しぶしぶ技を解いて後ずさる。解放された雫は、すぐには立ち上がれなかった。腰から下への感覚が麻痺したように重く、呼吸を整えるだけで精一杯だった。

 放送席では、その凄惨な攻防に息を呑む声が漏れていた。

『結城蓮、強烈な逆エビ固め! ライジング雫、なんとかロープに逃れましたが、これは相当なダメージが蓄積しているはずですワ! 立ち上がるのもやっとという状態に見えますネ……!』

 影山の実況に対し、エディは深刻な面持ちでマイクを握る。

『ああ、腰へのダメージはもちろんだが、雫の様子が明らかにおかしい。さっきから技を受ける時の反応、反撃のタイミング、すべてにおいてワンテンポ遅れている。コンディションのせいか、集中できてないのか……いずれにせよ苦しい状態だな』

 エディの言葉通り、ロープを支えにして立ち上がった雫の瞳には、かつての冷静で知的な光は失われていた。あるのは、焦燥。そして、自分自身を追い詰める強迫観念だけだ。

「……このっ!」

 よろめきながらも、雫は本能的に攻撃へと転じた。鋭い踏み込みから放たれる、彼女の得意技であるミドルキック。紫色の軌跡を描くかのようなその一撃は、結城の脇腹を的確に捉えた。鈍い音が響き、結城がたまらず上体をくの字に曲げる。構えが崩れた。

(ここだ……! ここで仕留める……!)

 追撃の好機。雫はそのまま軸足を回転させ、結城の頭部を刈り取る必殺のハイキックへと移行した。彼女の柔軟な股関節から放たれるハイキックは、本来なら芸術的なまでの美しさと破壊力を持っている。だが――。

「視界が……くっ!」

 蹴り足を振り抜いた瞬間、雫の視界がぐらりと歪んだ。極度の過労と、逆エビ固めで腰を攻められたことによる下半身の踏ん張りの欠如。そして何より、精神的な動揺が三半規管を狂わせたのだ。高く上がった足は結城の鼻先を掠めるだけで空しく通過し、空を切った。遠心力で身体が泳ぎ、雫は無防備な背中を結城に向けてしまう。

結城はその千載一遇の隙を逃さなかった。ミドルキックのダメージで顔をしかめながらも、彼は地を蹴った。

「今だ! 逃がしませんよ!」

 弾丸のようなタックル。無防備な雫の腰を狙い、真っ向から突進してくる。それはまさしく、格上が見せた致命的なミスを食い破る、新人の野心に満ちた牙だった。しかし、雫もまた太平プロレスの次代を担うレスラーである。背後からの気配に気づいた彼女は、崩れかけた体勢のまま、強引に身体を反転させた。

「逃げる気なんか……ッ!」

 タックルに飛び込んでくる結城の額めがけ、下から突き上げるような迎撃式ニーアタックを放つ。ドンッ! という重い衝突音。結城の顔面が雫の硬い膝小僧と激突し、彼の動きがピタリと止まった。

「がっ!?」

 結城は鼻血を散らしながら、一瞬意識を飛ばして膝から崩れ落ちそうになる。脳髄を揺らされた結城が無防備になった、まさにこの瞬間。雫は勝利への渇望と、自分を苛む幻影を振り払うかのように、最大のフィニッシュ・ホールドへと動いた。結城を背後から押しつぶし、膝を絡めてのしかかる、変形STFである「ティアドロップボディロック」。その完成に向けて、彼女の細い腕が結城の頭部に絡みつき、クラッチを組もうとする。

 

「これで……決めて……ッ!?」

 だが、彼女の指先は震えていた。焦り。連戦による疲労。そして、自身の精神の揺らぎ。それらすべてが、いつもなら無意識に行えるはずの「強固なロック」の完成をコンマ数秒、遅らせた。手と手を結び合わせるその瞬間に生じた、わずかな緩み。

「くっ……あああっ!」

意識を混濁させていた結城が我に返り、最後の力を振り絞って身をよじった。完成する直前の甘いロックを、汗にまみれた身体を滑らせるようにして強引に振りほどく。腕の隙間から抜け出された雫は、抱え上げるはずだった重力を失い、空を掴んだまま前のめりにバランスを崩した。

 必殺技の失敗。それは、彼女の誇りを支えていた最後の糸がプツリと切れた瞬間だった。虚空を見つめる雫の紫色の瞳に、絶望の色が滲む。己の全てを否定されたかのような喪失感の中、彼女は己を見失う迷路の、最も深い闇へと足を踏み入れていた。

 その致命的な隙を、結城蓮は逃さなかった。前のめりになった雫の背後に、結城が素早く回り込む。彼の細いが力強い腕が、再び雫の腰を深く捉え、背中合わせのまま彼女の身体を宙へと引き抜いた。そのままバックドロップで後方へと反り投げる。

「がはっ!?」

 後頭部と背中からキャンバスに突き刺さるような激しい衝撃が、雫の脳髄を乱暴に揺らした。逆エビ固めで悲鳴を上げていた腰に、さらなる破壊的な痛みが走る。視界に火花が散り、肺から空気が強制的に搾り出された。本来なら、ここでそのままブリッジしてホールドし、ピンフォールを奪うのがプロレスのセオリーである。しかし、若き新人はそのセオリーをあえて無視した。マットに叩きつけた雫の身体を、ホールドで固めず、休む間も与えぬよう、すかさず強引に引き起こしたのだ。

「まだだ……これじゃまだきっと決まらない、だから!」

 結城の口から飛び出したのは、格上を相手に一歩も引かない、勝利への執念に満ちた叫びだった。その真っ直ぐで泥臭い声が、雫の混濁した意識の中で、またしても過去の記憶と反響し始める。

 ダメージで自立することすらおぼつかない雫は、虚ろな紫色の瞳で結城の顔を見つめていた。そこにいるのは結城蓮という一人の若手レスラーのはずなのに、疲弊しきった雫の心は、彼を三郎太の幻影で完全に上書きしてしまう。先輩に無様な姿は見せられない。私は、強く気高い「ライジング雫」なのだから。太平プロレスの誇りを守らなければならないのだから。その強迫観念だけが、辛うじて彼女を立たせていた。引き起こされた雫に結城が組み付く。三郎太なら、ここで強烈な投げを放つ……例えばノーザンライトスープレックスのような……。

(来る……!)

 投げられる。もう一度、強烈な衝撃が背中と首を襲うだろう。極度の疲労とダメージの中で、雫の身体は無意識のうちに「次の投げ」に対する防御姿勢をとった。首に力を入れ、背中を丸め、迫りくるであろう激痛に備えて受け身がとれるよう意識する。しかし――

 

 予想していた後方への浮遊感は訪れなかった。代わりに結城は、雫の膝裏をすくい上げるようにして、前方へと勢いよく回転したのだ。スクールボーイ、プロレスの基本中の基本とも言える丸め込み技。だが、それは「強烈な投げ技が来る」と完全に思い込まされていた雫の虚を、この上なく鋭く突く一撃だった。背中からマットに転がされ、両脚を深く折りたたまれる。結城の体重がのしかかり、雫の両肩がキャンバスに完全に密着した。

 

「ワン!」

 

 レフェリーの手がマットを叩く音が、静寂に包まれたリングに響く。

(衝撃が来ない……違う、投げじゃない!?)

 

「ツー!」

 

 脳が危険信号を発した時には、すでにすべてが手遅れだった。ダメージに備えて硬直させていた筋肉を瞬時に緩め、相手を跳ね除けるための瞬発力へと変換することが、今の彼女にはできなかったのだ。連戦によるオーバーワークと蓄積した過労、焦燥、そして何より、三郎太の幻影に囚われ続けた精神の深い疲弊が、彼女の判断力と反射神経を致命的なまでに鈍らせていた。

 

(返さなきゃ……!)

 肩を上げようとするが、全身が鉛のように重い。結城の必死のホールドを跳ね除ける力が、ほんのわずかに足りない。

 

「……スリー!」

 

カンカンカンカンッ! 試合終了を告げる無情なゴングが、残酷な現実として会場に鳴り響いた。

 

 レフェリーが結城蓮の腕を高く掲げる。アリーナは、デビュー半年足らずの新人レスラーが、格上のライジング雫から大金星を挙げたという衝撃の結末に、割れんばかりの大歓声に包まれた。対照的に、マットの上に仰向けに転がったままの雫は、完全に茫然自失としていた。

(嘘……わたしが、負けた……?)

 実力差は圧倒的だったはずだ。キックも、関節技も、全てにおいて自分が勝っていたはず。なのに、終わってみれば、不完全燃焼のままスリーカウントを奪われている。屈辱と、信じられないという思いが交錯し、声すら出ない。頬を伝う汗さえ拭う気力もなく、ただ、天井の眩しいライトが、彼女の紫色の瞳に冷たく反射しているだけだった。

 

 放送席では、影山が興奮も露わに実況席から身を乗り出していた。

『スリー!? カウントスリー入りました! 信じられません、ライジング雫、まさかの一瞬の丸め込みで敗北! 視聴者コメントも「ええええええ!?」「雫嘘だろ!?」「レンレン、金星キタコレ!」「スクールボーイかよ! いや、こういうのがたまにあるのがプロレスなんだよなぁ」と、ものすごい勢いで流れておりますワ!』

 熱狂する影山の隣で、エディ・ダンテスは深くため息をつき、厳しい表情でリングを見つめていた。

『……普段の雫なら容易に跳ね返せた状況だった。やはり過労か』

 エディは吐き捨てるように呟いた。

『咄嗟の判断で丸め込み技に出た結城蓮と、咄嗟の判断ができずに返せなかったライジング雫の差が出てしまったんですネ』

 影山の声には、驚きも同情もなかった。ただ、目の前で起きた「数字」を記録するかのような、淡々とした響き。エディは彼女のその冷ややかさに、静かに頷くことで応じた。

『ああ、結城の根性も判断も評価すべきなのは間違いない。だが、雫の問題はコンディション管理だ。……雫、お前はリングの上で、誰を見て戦っていたんだ?』

 エディのその言葉は、まるで雫の落ちた迷路を予見しているかのようだった。太平プロレスの次代を担うべきホープが、目の前の対戦相手ではなく、自分自身の過去と妄執に囚われて自滅したことを、この歴戦の女傑はなんとなく察していたのだろう。

『茫然自失のライジング雫、対して大金星に吠える結城蓮! 太平プロレス、これで悪夢の二連敗。「ノワール・ゲート」が最速で王手をかけてしまいました! 「太平プロレス」はここから持ち直せるのでしょうか!?』

 リング上では、結城がコーナーに登り、歓喜の雄叫びを上げている。その光景は、敗者となった雫にとって、己の無力さを突きつける鋭い刃だった。

「雫さん、大丈夫ですか!?」

 慌ててリングに駆け込んできた太平プロレスの練習生たちが、力なく横たわる雫の背中や腕を支え、立ち上がらせる。彼らの温かい手が肩に触れても、雫の心は微塵も温まらなかった。練習生たちに肩を貸され、力ない足取りでリングを降りる。観客席からの哀れみの視線、あるいは失望のため息が、雫の全身に突き刺さる。花道を下っていく雫の瞳は、もはや焦点を結んでいない。足元に広がるのは、輝かしい栄光への道ではなく、どこまでも深く、出口の全く見えない奈落の闇だった。

 

 格下相手への敗北という重い現実が、彼女のアイデンティティを粉々に砕き、精神の奥底へと堕としていく。この暗闇から抜け出す術を、今の彼女はまだ、何も持ち合わせていなかった。

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