「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第22試合(vsノワール・ゲート対抗戦中堅戦):シングルマッチ「ガータ御子柴VSボーティス神宮寺」

 太平プロレスの事務所、その最も奥に位置する社長室は、淀んだ空気と重苦しい沈黙にすっぽりと包み込まれていた。壁に掛けられた歴代の興行ポスターが、どこか色褪せて見えるのは決して気のせいではないだろう。部屋のどんよりとした空気が、空間全体の色彩を奪っているかのようだった。部屋の主である松平林吾は、最近悩まされている腰痛を庇うようにして、古びた革張りの椅子に腰かけ、机の上の書面に目を落としていた。彼の顔には、隠しきれない疲労と苦悩の色が濃く刻まれている。

 第二次対抗戦のメンバー選出。その決定の悩ましさは、ただでさえ一時期の総合格闘技ブームの際に数を減らした所属レスラー、とりわけ若手層の薄さが如実に響いていた。誰をリングに上げるべきか。その問いは、林吾の頭を幾度も締め付けていた。

「……やはり、雫はメンバーから外すべきか。私が恨まれることになっても」

 苦渋に満ちた林吾の呟きが、静寂に支配された部屋にポツリと落ちた。その声には、団体を背負う経営者としての重い責任と、未来ある我が子も同然の所属選手を案じる不器用な親心のようなものが、複雑に入り混じって濁っていた。その重い空気を切り裂くように、窓際にもたれかかっていた影が不意に動いた。

「やらせてやればいいニャ、旦那」

 特徴的な黒髪のショートボブを揺らし、獲物を狙う夜の獣のような紅色の瞳で林吾を見据えたのは、悪役女子プロレスラー、ガータ御子柴。リングの上で常軌を逸した狂気じみた振る舞いを見せる彼女の姿とは裏腹に、今のその声色はひどく静かで、しかし決して譲ることのない確固たる意志を秘めていた。林吾は驚いたように顔を上げる。

「御子柴? 適当な事を言うな。今出したら確実に潰れるぞ、あいつは」

 林吾の言葉は、痛いほどの正論だった。今の雫の精神状態と疲労に蝕まれた実力では、ノワール・ゲートの冷酷で計算高い精鋭たちの前に出せば、決定的な破綻を迎え、今後のプロレスラーとしての活動すら危ぶまれる可能性すらある。大人の判断としては、彼女を守るためにここは下げるべきなのだ。しかし、御子柴は鼻で笑った。

「それで? ほどほどにって中途半端に周囲が労わった結果、空回りの末に気持ちの行き場もなくし、全部諦めてメキシコにでも行くことになる方がいいって?」

 その言葉には、ただの反論以上の、血を吐くような重みがあった。メキシコ。その単語が出た瞬間、林吾の息が微かに止まった。彼女の視線の先には、乾いた風が吹く異国の灼熱の太陽が見えているようだった。言葉の通じない異国、そして何より、自分を見失い、どうしようもなく歪んでしまった過去の記憶。

「御子柴……それは、お前の……!?」

 林吾は目を見開いた。彼女がかつて、純粋な善玉レスラーであった頃。同期である三郎太への密かな慕情を抱えながらも、その横に並び立とうと必死に努力し、無理をして空回りし、奈落の迷路に迷い込んだ末に海外修行という名の逃避行に出た過去。そして、サディストでありながら実はマゾヒストという複雑な性質を抱え込み、誰も手が付けられない無法者の悪役レスラーとして帰還した事実。彼女は今、自分自身の消えない後悔と絶望の記憶を、雫の不確かな未来に重ね合わせているのだ。今の彼女が纏っているのは、威圧的なヒールのオーラではない。言葉に宿る、隠しようのない過去の傷跡そのものだった。

「別に恨み言垂れてるわけじゃない」

 御子柴は窓の外へ視線を外し、自嘲気味に口の端を歪めた。

「男にはやらなきゃいけない時があるとか言うけどよ、女だって一緒さ。たとえ、ダメだとしても突っ張るべきとこで突っ張る機会を失くしちまうと、その後の人生、歪み切って二度とまっすぐに戻らなくなることもある」

 その言葉は、痛いほどの真実味を帯びて林吾の胸に深く突き刺さった。彼女自身が、その「歪み切って二度とまっすぐに戻れなくなった」何よりの体現者だからだ。三郎太への屈折した愛情は、今やリング上での嗜虐という異常な形でしか発露できなくなっている。彼女は、戦う機会を奪われることの残酷さを、誰よりも知っていた。

「……むぅ」

 林吾は言葉に詰まり、重い頭を抱えるようにして深く唸った。

「まぁ、心配すんな」

 御子柴は再び林吾に向き直り、いつもの人を食ったような、悪役としての不敵な笑みを浮かべた。

「最悪オレが興行ごとぶっこわして無茶苦茶にしてやるニャ。太平プロも災難でしたねってなるくらいにニャ。ケケケ」

 狂気を装って笑う御子柴。いざとなれば、自分がすべての泥を被って興行を完膚なきまでにぶち壊し、雫の敗北すら有耶無耶にしてやるという、彼女なりの歪みに歪んだ優しさと、強烈な覚悟だった。

「だが、それをすればお前は」

 林吾の懸念を遮るように、御子柴は言い放つ。

「オレは平気だニャ。とっくに歪み切ってるし、どんなに歪んで変わっても惑わされずに中身を見透かしてくる憎らしい奴も居るって分かったしニャ」

 彼女の脳裏に、かつての同期であり、今は憎悪と愛情の入り混じった執着の対象である三郎太の顔が浮かんでいた。自分がどれほど反則を犯し、卑劣な真似をしてイジメ抜いても、その奥にある本質を真っ直ぐに見据えてくる男。彼との再戦で完膚なきまでに叩き潰された記憶は、彼女の中に新たな愛憎の炎を激しく燃え上がらせていた。どんなに黒いペンキを上から塗りたくっても、その下にある本当の地色を暴き出そうとする、あの男の真っ直ぐな双眸。あの男がいる限り、自分がどれほど堕ちようとも構わない。

「……だが次の奴が平気な保障はないぜ、旦那?」

 だからこそ、後輩には自分と同じ轍を踏ませたくない。その真摯な瞳の奥にある痛切な願いを受け取り、林吾は長く重い沈黙の末、ついに決断を下した。

「……良いだろう、お前がそこまで言うのなら俺も覚悟を決めよう、紅子」

 本名で呼ばれた瞬間、それまで御子柴が纏っていた張り詰めた空気が一気に霧散した。その頬が、本人の意志とは無関係に朱に染まる。

「昔みたいな呼び方やめろ、いやマジで」

 御子柴は完全に素の口調で吐き捨て、心底嫌そうに顔を顰めたのだった。

 

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 時は流れ、現在。熱気と興奮に包まれるはずのプロレス会場は、どこか重苦しい、どんよりとした空気に完全に支配されていた。ノワール・ゲートとの第二次対抗戦。太平プロレスは、すでに先鋒次鋒と連敗を喫していた。リングサイドで見守るスタッフたちも、客席を埋めるファンたちも、皆一様に顔を曇らせ、まるでお通夜のような有様だ。前試合で無残な姿を晒した雫の敗北が、重い鉛のように会場にいる太平プロレス側の人間全員の心にのしかかっている。その沈鬱な空気の只中、煌々たる照明に照らされたリングの上に、一人の女が立っていた。

 ガータ御子柴。黒と赤を基調とした、露出度の高い網目付きのワンピースタイプ・リングコスチュームが、彼女の色白の肌を艶かしく際立たせている。頭にはあざといネコミミを着け、手には指ぬきグローブ、足元は黒いリングシューズで固めている。獲物を品定めするような、ゾクゾクとするほど冷たく、同時にサディスティックな熱情を孕んだ紅色の瞳が、ゆっくりと会場を見渡した。彼女は団体のメンツなどというものにはこれっぽっちも興味がなかった。後がない現状にプレッシャーを感じるような繊細な神経も持ち合わせていない。だが、この周囲のシケた空気と、前試合の雫の無様なザマを見た苛立ちは、彼女の胸の内でどす黒いストレスとなって激しく渦巻いていた。御子柴は心の中で舌打ちをし、自身の凶暴な衝動を宥めるように、しっぽ飾りに偽装して腰のあたりに隠し持っている、ある物の存在を確かめた。

 そこへ、対戦相手の入場曲が会場に鳴り響いた。花道に姿を現したのは、若手ながら団体「ノワール・ゲート」のブレイン的存在であり、技術派のレスラーであるボーティス神宮寺だ。長身に、無駄のない引き締まった細マッチョの肉体。癖っ毛の茶髪を揺らし、端正な顔立ちには自信に満ちた、いや、他者を見下すような傲慢な笑みを浮かべている。金模様の入った純白のプロレスパンツと白いリングシューズが、彼の放つエリート特有の鼻持ちならないオーラをさらに際立たせていた。彼は地方団体でデータ屋のインテリジェントレスラーとして能力を評価されながらも、度重なる女子レスラーへのセクハラや女性ファンとの問題行動で放逐されたという、輝かしい経歴(前科)と腐りきった性根を併せ持つ男だ。

 神宮寺はリングインするや否や、余裕たっぷりに髪をかき上げた。そして、その長い睫毛に縁取られた瞳で、流し目のように御子柴の全身を舐め回す。まるで彼女の肉体のサイズから、筋肉の収縮率、さらには恐怖や羞恥の閾値まで、すべてを頭脳という名のコンピューターで計算しているかのような、ネットリとした極めて不快な視線だった。だが、御子柴は紅い瞳を細め、鋭い犬歯を覗かせて不敵に笑った。

「チッ、どいつもこいつもシケたツラしてるニャ……お前はどうかニャ?」

 苛立ちを隠そうともしない、挑発的な言葉。語尾の「ニャ」という可愛らしい響きとは裏腹に、その声にはカミソリのような殺気が込められている。神宮寺は薄い唇を歪め、気味の悪い笑みを深めた。

「ガータ御子柴……。君には以前に僕の計算を汚してくれた礼をしてやらないといけないね……」

 かつて、彼の描いた完璧なシナリオを、彼女の予測不能な行動が狂わせたことがあった。そのプライドを傷つけられた恨みを、彼は冷たい炎のように瞳の奥で静かに燃やしている。御子柴は肩をすくめ、わざとらしく小首を傾げてみせた。

「何のことか知らんけど、どういたしまして? じゃあ、今日は計算どころかお前のプライドそのものを汚してやろうかニャ?」

 その挑発に対し、神宮寺は眉一つ動かさなかった。ただ、己のデータとテクニックがこの野蛮な牝猫を完全に制圧できると、絶対の自信を持っている男の顔だった。

彼は舌先で自身の唇をゆっくりと湿らせ、これから始まる凄惨なショーの開幕を告げるように、甘く、そして残酷な声で囁いた。

「……フッ、その余裕が可愛らしい悲鳴と喘ぎに変わるのが楽しみだよ」

 

 実況席では影山アナが独特の節回しで語り始める。

『さぁ、「太平プロレス」背水の陣での中堅戦を迎えます! 「ガータ御子柴 VS ボーティス神宮寺」の対決ですワ! ガータ御子柴と言えば前回の対抗戦では結城蓮を圧倒しながらも反則負けになってましたケド……』

『やめろよ? 人間(ひとま)さんは反則には厳しいんだって前思い知ったよな? 今回は反則やめろよ、御子柴!?』

 エディ・ダンテスが悲鳴に近い声を上げる。解説席の彼女にとって、自団体から派遣したレフェリー、人間がまたもや不名誉な決着を下すことは、胃に穴が開くほど避けたい事態だった。その視線は、必死にリング上のレフェリーの背中を追っている。

『どうどう、落ち着いてくださいエディさん。視聴者の皆さんも「落ち着けオトギ社長w」「御子柴はさぁ……」「あれ、今回どっちもセクハラ勢じゃね?」「どっちなの? どっちが攻めでどっちが受けなんだい!?」「ガータはネコだが?」「やかましい」などとフォローしてくれておりますワ』

『どこがフォローだっ!? また私の連れてきたレフェリーのせいで反則没収試合になったとか言われたくない! た、頼むぞ人間さん!?』

 エディの必死な叫びを余所に、リング上の二人はすでに対峙していた。当のレフェリーはエディに背を向けたまま黙して何も語らない。ただ、その沈黙こそが、厳格なる裁きを予感させる不気味な重圧となってリングを支配していた。

 

 会場の喧騒を切り裂くように、試合開始のゴングが鋭く打ち鳴らされる。神宮寺はすぐには動かなかった。御子柴を値踏みするように薄笑いを浮かべる。その視線には、研究対象を観察する学者のような冷徹さが宿っていた。

「さっき言ってた皆のシケた顔とやら、僕のせいかもしれないな? いやね、太平プロレスの2連敗とかいうみっともない惨状、実のところ僕の計算通りの結果でね」

 流し目でそう言い放つ神宮寺に対し、御子柴は「へぇ?」と短く応じた。雫に結城をぶつけた采配の出元を知り、紅い瞳の奥にどす黒い不快感が渦巻く。相手の尊大な態度は、彼女の嗜虐心を逆撫でするには十分すぎるほどの燃料だった。

「計算なんて、オレの爪でズタズタに引き裂いてやるニャ……!」

 御子柴が動く。ルチャリブレ仕込みの軽快なステップで距離を詰めると、流れるような動作から鋭いローキックを放った。しかし、神宮寺は微動だにせず、当たる直前に半歩だけ後ろへ引く。空を切った脚の感触が、御子柴の苛立ちを加速させる。

「おっと、読み通り。当たらないよ」

 神宮寺の声はどこまでも平坦だ。御子柴が攻撃を外して軸が揺らいだ、その一瞬の隙を見逃さなかった。

「鬼娘と違って君はルーダ、反則なしでも確かなルチャの動きで攻めて来る。僕に動きでの幻惑は通用しない」

 神宮寺はしなやかで長い脚を鞭のようにしならせ、水面蹴りを放った。御子柴の軸足が刈り取られ、彼女の身体は無様にリングへと叩きつけられる。

「くっ!?」

 衝撃に呻く御子柴。しかし、神宮寺の攻撃は止まらない。彼は倒れた獲物を冷淡に見下ろし、身を起こそうとする彼女の顔面めがけてミドルキックを突き出した。鈍い衝撃音が響き、御子柴の頭が後ろへ弾かれる。

「がふっ……!」

 彼女は顔を押さえてうつ伏せに崩れ落ちた。両手で顔を覆い、膝立ちで顔を伏せる。

「おやっと、立ち直るのがデータより僅かに早いか。失礼、女性の顔を蹴ってしまったね」

 神宮寺は謝罪の言葉を口にしながらも、その声には一片の誠実さもなかった。彼は動かない御子柴の様子を確認するように屈み込み、その黒髪を掴んで引き起こそうとする。だが、その瞬間を御子柴は待っていた。顔を覆っていた手が離れ、見開かれた紅い瞳が神宮寺を捉える。彼女の頬は異様な熱を帯び、口元は歪なほど吊り上がっていた。

 彼女の口から噴き出されたのは、言葉ではなかった。霧状に広がった謎の液体――毒霧が、至近距離から神宮寺の顔面を直撃したのだ。

「ぐあっ!?」

 神宮寺は思わず御子柴を突き飛ばし、自身の顔を両手で覆った。

「おやおや? 反則も計算通りなんじゃないのかニャ?」

 目に飛び込んだ液体が、眼球を灼くような激痛を与える。それだけではない。口の中に入り込んだその液体は、アルコールの焼けるような熱さと、脳を痺れさせるような得体の知れない甘ったるい味を撒き散らしていた。毒霧を放った張本人である御子柴も、自身の口内に残る成分によって呼吸が荒くなり、肌がうっすらとピンク色に染まっている。だが、彼女はそれを表情には一切反映させず、ただ狂気的な笑みを深めていた。吐き出した残滓をリングに振るい捨てる彼女の仕草から、彼女をして大量摂取を避けたいという意図を察せられた。

 神宮寺は必死に目をこすり、脳内が告げる異常に激しい動揺を露わにする。

「何を……これは酒か!? いや違う、何を仕込んだ!?」

 彼が積み上げてきた緻密な計算が、論理の通じない蛮行によって瓦解し始めていた。視界がピンクに染まり、思考がアルコールだけのせいとは思えない熱い霧に包まれていく。

「オレのとっときの一品だニャ。喜べ、ホントは三郎太に使うつもりで仕入れたんだから大サービスなんだぜ? すげえ即効性だろ?」

 御子柴はゆっくりと立ち上がり、乱れた息を整えながら、獲物が陥った混乱を愛おしむように見つめた。その紅い瞳には、これから始まる「計算外」の蹂躙への期待が、爛々と輝いていた。

 レフェリーは、鋭い視線を御子柴に注いでいる。プロレスにおける毒霧は、凶器の使用と同等の厳格な裁定が下される場合もあれば、レフェリーの視界を盗んだ「技術」として流されることもある。しかし、御子柴はすぐさま、獲物を狙う獣のような鋭さを霧散させ、どこか愛嬌のある、それでいて心底人を食ったような表情を作ってみせた。彼女は、顔をしかめるレフェリーに対し、ペロリと毒霧の残滓が残る唇を艶めかしく舐めると、両手をひらひらとさせて「もうしません」と無言のハンドサインを送る。そのあざとい媚びの裏で、彼女の紅い瞳は確実にターゲット――神宮寺の「異変」を捉えていた。

「ケケケ、どうしたぁ? 攻められるのが大好きなオレを差し置いて、お前の方が先に『準備』できちゃったかニャン?」

 神宮寺の身体には、彼自身の理性を根底から覆すような、予期せぬ反応が起きていた。

「あ、あう……っ、なんだ、身体が、熱い……っ!」

 あろうことか、純白のタイツの一部が変異し、試合中に起こるはずのない異常な反応をしてしまったのだ。御子柴が口に含んでいた特製の「液体」は、ただのアルコールではない。肌や粘膜を通じて吸収され、強制的に血流を突き動かす、彼女が三郎太を屈服させるために用意していた秘蔵の劇薬だった。御子柴は、エリートの皮が剥がれ、生理現象に支配された男の無様な姿を指差して、腹の底から笑い飛ばす。

 神宮寺は、冷徹なデータ屋としての仮面を完全に剥ぎ取られ、狼狽の極みにあった。必死に腰を引いてその異常の発現を隠そうとするが、その動きはあまりに滑稽で、まるでお化け屋敷で腰を抜かした臆病者のように不自然だった。客席からは、事態の異質さに気づいた観客たちの困惑と、あまりにも無様なエリートの姿に対する失笑が波のように広がっていく。

「ふ、ふざけるな……っ! こんな非常識な真似っ!」

 羞恥に顔を真っ赤に染めた神宮寺が、自暴自棄に近い勢いで御子柴に組み付いた。彼は自身の異常を隠すため、そして彼女に屈辱を返報するため、引けた腰のまま強引に彼女の背後へ回り込み、強引にその肉体を絡め取っていく。長い手足が御子柴の肉体を蛇のように締め上げ、コブラツイストが完成した。本来、この技は苦痛を与えるためのものだ。しかし、今の神宮寺にとっては、己の異常を引き起こされた部分を彼女の背中に押し付けるという、自傷に近い心理攻撃となっていた。

「なら、自分で引き起こしたモノを背に押し付けられて羞恥に苦しめ!」

 神宮寺の叫びは、もはや悲鳴に近かった。しかし、締め上げられた御子柴の反応は、彼の予想を遥かに超えるものだった。

「あッ……♡ あぁ……いい、いいよぉ……もっと、もっと強くしてニャン……♡」

 御子柴はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、その苦痛と羞恥の混ざった接触を、全身で受け入れていた。それどころか、わざと背中を神宮寺のある部分に押し当てるように身体をくねらせる。

「なっ……!? 何を……っ!」

「あはっ……♡ データの限界だなぁ、色男ぉ。オレを締めれば締めるほど、お前も『そっち』が元気になっちまうんじゃねーのかニャ?」

「黙れ……! 狂っているのか、君は……!」

 神宮寺の計算機は、すでにショートしていた。痛めつけているはずの自分が、逆に彼女を悦ばせ、自分自身の身体の制御すらままならない。恥辱を与えているはずの自分が最も辱められているではないか。この矛盾した状況こそが、神宮寺という男にとって最大の毒となっていた。動揺により、神宮寺の腕の力が僅かに緩む。その瞬間、御子柴の肘が鋭く跳ね上がった。強烈なエルボーが神宮寺の頬を打ち抜き、拘束を強制的に引き剥がす。

「がっ!?」

 衝撃に神宮寺がよろめく。御子柴は流れるような動作で距離を詰め、その紅い瞳を爛々と輝かせた。「計算」という名の安全圏に引きこもっていた男を引きずり出し、己と同じ泥沼へと沈めた確信。さぁ、深淵の泥濘デスマッチの始まりだ。

「さぁ……ここからが本当の『教育』の時間だニャ、データ屋」

 

 御子柴はルチャドールの本領を発揮するように跳躍した。相変わらず異常を気にして腰が引けている神宮寺の頭部を、自慢の両脚でがっちりと挟み込む。

「オレを他の連中と同列に考えてるならいますぐデータ捨てちまえ……!」

 そのまま自重を乗せて反転し、神宮寺の巨体をヘッドシザースホイップでマットへ叩きつけた。

「何ッ!? ぐっ!?」

 マットに顔面から落ちた神宮寺に対し反撃の暇も与えず、御子柴はその上に跨った。うつ伏せになった彼の背に乗るようにして、その腕を固定し、腰を落とす。キャメルクラッチである。しかし、彼女が狙うのは頸椎へのダメージだけではない。御子柴は自由な片手の指を、神宮寺の鼻の穴に深くひっかけ、鼻筋が折れんばかりに強引に引っ張り上げた。

「ん、んぐぅっ……!? はぁっ、が……っ!」

 指で鼻を強引に引っ張り上げられ、神宮寺の端正な顔が醜く歪む。生理的な涙が溢れ、鼻粘膜が引き裂かれるような苦痛に、彼は無様に喘いだ。

「ケケケ、せっかくのハンサムが台無しだニャア?」

 御子柴は勝ち誇り、神宮寺のプライドを物理的にも精神的にも踏みにじっていく。だが、真の絶望はここからだった。御子柴はふと片方の手を離すと、自身のコスチュームの腰部分――しっぽ飾りに偽装して隠してあった「ある物」に手をかけた。彼女が取り出したのは、プロレスの凶器としてはあまりにも異質な「震える棒」だった。

「これ、どうすると思う……?」

 スイッチが入れられたのか、電動の手持ち式マッサージ器具が微かな、しかし確かな駆動音を立てて振動を始める。ジジジ……という不気味な駆動音が絶句した観客たちの静寂の中、リング上に響き渡る。御子柴はそれを片手に持ち、うつ伏せで動けない神宮寺の背中から、腰、そして臀部へと、ゆっくりと這わせていった。

「きょ、凶器だと……また反則負けになりたいのか!? やめろ……ッ! レフェリー! 凶器だ!?」

 神宮寺の叫びは、もはや理性を失った男の、魂の悲鳴だった。データ、計算、合理性。彼がこれまで頼りにしてきた全ての武装は、目の前の「理解不能なバケモノ」の前に何の意味もなさない。背中を這う不気味な震動。そして、目の前の女が浮かべている、一切の容赦を排した「悪」の微笑み。

(まさか? いや、この女ならやりかねない。ここで、このまま……!)

 ソレをどこに、どうするつもりか。神宮寺の脳裏に、自身の社会的死と、徹底的な尊厳の破壊という最悪のデータが弾き出された。かつて他者を冷徹に観察し、計算で支配していた男は今、未知の恐怖と羞恥のパニックに、完全に飲み込まれている。彼の誇り高き白のタイツが、今や恐怖に震える哀れな生贄の印へと成り果てていた。

「おい、御子柴! それはなんだ! 渡さないと反則カウントを取るぞ!」

 レフェリーの毅然とした、しかしどこか困惑の混じった怒声がリングに響き渡った。厳格なレフェリングを信条とする彼は、それを凶器と呼んでいいのか逡巡しつつも、これを注意する決断を下したのだ。キャメルクラッチの体勢から神宮寺の背後で「震える棒」を弄んでいた御子柴に対し、レフェリーは引き渡すよう命じる。御子柴は、獲物をいたぶる楽しみを邪魔されたことへの不満を隠そうともせず、ちっと舌を鳴らした。だが、レフェリーのカウントが始まる前に、彼女は意外にも素直にその物体を差し出した。

「ただの健康器具。マッサージ機だニャ? 頭でっかちクンは肩こりが酷そうだからニャア?」

 指先でくるくると回しながら、「腰もダルそうだし?」と小馬鹿にしたような笑みで語る御子柴。レフェリーは顔を顰め、何とも言えない表情を浮かべたまま「震える棒」を受け取り、掌に伝わる振動に、彼は眉間に深い皺を刻む。これを凶器と認定してしまっていいのか、健康器具の販売メーカーに苦情を受けはしないか。レフェリーは苦悩の末に、とりあえず排除しただけでよしとしようと結論付ける。

 

 実況席では、影山アナが困惑を隠せない様子でマイクを握る。

『レフェリー人間、毅然と凶器を……凶器? ええと、とにかくナンダカフルエル棒をガータ御子柴から没収しました! さすがに渋い顔ですわネ』

 対照的に、エディ・ダンテスはこめかみに青筋を立てて椅子から身を乗り出していた。

『御子柴、お前本当にいい加減にしろよ!? なんで前回のアレがあったのに平然と凶器取り出してるんだよ!? 頭おかしいんじゃないのか!?』

 自団体のレフェリーに余計な苦労をかけさせる黒猫に、エディの怒りは沸点に達している。

『どうどう、落ち着いてください、エディさん。凶器と言ってもただの健康器具ですわ。レフェリーも凶器認定するかちょっと悩んでましたもの。あ、でも「狂気」ではありますネ』

 しかし、影山は涼しい顔で受け流して笑った。

『うまい事、言ったつもりか!?』

 噛み合わない二人のやり取りを余所に、リング上では死に体のエリートが、執念の「計算」を再開させようとしていた。鼻を裂けんばかりに吊り上げられ、羞恥と恐怖のパニックに陥っていた神宮寺だったが、凶器(?)没収による一瞬の空白が彼に正気を取り戻させた。

「ふざけるな……! 貴様のようなバケモノに、僕が……この僕が屈してたまるか!」

 神宮寺は、鼻を極めていた御子柴の指と、自身の腰を抑え込んでいた彼女の膝を、折らんばかりの力で掴み取った。プライドをかなぐり捨てたその形相は鬼気迫るものがある。彼は両手で御子柴の拘束をこじ開けるように広げると、背中で彼女の小柄な体を突き上げた。そのまま前方に放り出すようにして、地獄のようなキャメルクラッチから強引に脱出したのだ。

 マットに四つん這いになった御子柴。その背後に、神宮寺が這い寄る。彼の瞳は充血し、脂汗が白のタイツを濡らしていた。彼の理性が本能と計算の狭間で激しく火花を散らす。神宮寺は御子柴の首を背後から抱え込み、自身の腋に深く抱え込み、ドラゴンスリーパーに極める。しかし、それは通常の絞め技とは趣を異にしていた。密着した身体、そして片手で彼女の胸部を圧迫するように固定するその形は、はた目にはセクハラ・ドラゴンスリーパーとでも呼ぶべき、卑猥な密着を伴うものとなっていた。

「はぁ……はぁ……堕ちろ……! 眠らせてやる!」

 ところが、絞められているはずの御子柴の反応は、彼の期待を裏切るものだった。彼女は首を絞められる苦痛を、そして胸をまさぐられる屈辱を、まるで至高の贈り物であるかのように享受していたのだ。彼女の頬は朱に染まり、吐息が甘く漏れる。

「あぁ……ん♡ いい締めだニャン……。お前の心臓の音、背中にガンガン響いてくるぜ……興奮してんのか? なぁ?」

 御子柴の甘い吐息が、神宮寺の耳元をかすめる。彼女の背中越しに伝わる神宮寺の鼓動は、早鐘のように打ち鳴らされていた。それが怒りによるものか、あるいは制御できない彼自身の身体への羞恥によるものか、彼女には手に取るように分かった。御子柴は絞められながらも勝利を確信したような笑みを浮かべる。

「だ、黙れっ! ええい、薄気味の悪い……!」

御子柴の異常な反応に、神宮寺の神経は逆撫でされた。彼は苛立ちを爆発させるように拘束を解くと、御子柴の後頭部を掴み、強引にマット方向へと押し込んだ。その顔面を、下から突き上げるような硬い膝が捉える。顔面ニーリフトに鈍い衝撃音が響き、御子柴の頭が大きく後ろへ弾け飛ぶ。鼻腔から鮮血が散り、彼女の視界が火花を散らす。この瞬間を、神宮寺は逃さなかった。もはや彼の瞳に迷いはない。ふらつく御子柴の背後に素早く潜り込む。毒霧の霧散、心拍数の上昇、筋肉の疲労度――脳内の計算機が、ノイズを排して再び冷徹な数値を弾き出す。

 神宮寺はよろめく御子柴の背後に素早く回り込み、その両肩を掴む。そして、自らの両膝を彼女の背中に突き立てるようにして跳躍した。

「計算は……まだ補正可能範囲だ!」

 神宮寺は御子柴の両肩をがっしりと掴むと、自らの両膝を彼女の無防備な背中に突き立てるようにして背面からマットに着地する。自身の体と、重力、そしてこれまでの屈辱を全て乗せたバックスタブナーが決まった。

「がはっ……!?」

 リング中央で、御子柴の身体が弓なりに折れ曲がる。これまで余裕の笑みを絶やさなかった彼女の口から、本気の、そして悲鳴のような苦悶が漏れ出した。肺を突き抜ける衝撃が一時的に呼吸を妨げる。彼女の肉体は神宮寺の膝の上で跳ね、そのまま力なくマットへと崩れ落ちた。

 バックスタブナーの衝撃はすさまじく、マットに激突した御子柴の肉体は、そのダメージによってのたうち、動きを鈍らせる。空気を求めて浅い呼吸を繰り返し、その紅い瞳が虚空を彷徨っていた。神宮寺は、荒い呼吸を整える間も惜しむように、再び動き出す。

 彼はダウンした御子柴の四肢をロックし、自身があおむけになるよう転がって向かい合った状態で掲げ上げるように持ち上げる。リバース・ロメロスペシャルだ。神宮寺の両脚が御子柴の膝裏を押さえ、両腕が彼女の両肩を極限まで押し上げる。御子柴の肉体は、さながら神宮寺という祭壇に捧げられた、無力な生贄のようであった。

「捉えたぞ、完璧な角度だ!」

 神宮寺が、勝利を確信した叫びを上げる。下から見上げる彼の視界には、苦痛に歪む御子柴の顔が、そして激しく上下する彼女の胸元が、至近距離で映し出されていた。

「あ゛ぁぁ……ッ!?」

 御子柴の口から、軋み漏れるような苦痛の声が漏れた。動きを完全に封じられ、神宮寺の筋力と自らにかかる重力によって全身の関節が内側から破壊されるような激痛に襲われる。神宮寺は、自身が完璧に試合のコントロールを奪い返したという陶酔感に浸っていた。掲げ上げた御子柴の重み、そして彼女から伝わる生命の鼓動。それらを全身で感じながら、彼は歪んだ優越感を言葉に乗せる。

「どうだ! いかにお前がバケモノ染みた変態でも両手両足を封じられれば何もできまい……ッ!」

 神宮寺の両足にさらに力がこもり、吊り上げられた御子柴の身体がユサユサと揺すられる。網目のコスチュームが肉に食い込み、彼女の細い指先が虚空を掻くように痙攣した。

「おっ……おあおぅ……!?」

 御子柴の声は、もはや言葉としての機能を失い、ただの獣の喘ぎに近い。だが、神宮寺はその声を聞き、確信した。今、自分はついにこの狂った獣を、データの檻の中に完全に封じ込めたのだと。

「ふ……ふふ……どうした、ギブアップか? 黙って居れば可愛いじゃないか、なんなら試合後可愛がってあげても……」

 神宮寺の言葉に、これまでの恐怖への意趣返しとしての「加虐心」が混じる。勝利を目前にした慢心が、彼に甘い言葉を吐かせた。表情を確認するために無意識に神宮寺の両腕の押し手が緩み、御子柴の顔が神宮寺から逃れるように仰け反る。

 しかし、その刹那。御子柴の首がバネのように下方向――つまり、真下で自分を支える神宮寺の顔面へと向かって、力強く振り下ろされた。四肢を封じられながらも、彼女の紅い瞳には絶望など微塵もなく、ただ獲物を罠にハメた捕食者の愉悦が宿っていた。

「っと、つかまえた♡」

 御子柴の声は、密着した吐息と共に、神宮寺の鼓膜を直接震わせた。

「えっ」

 神宮寺が困惑の声を漏らした瞬間、視界の全てが御子柴の貌で塗りつぶされた。身動きが取れないはずの御子柴は、唯一自由な首の力だけで神宮寺の顔面を引き寄せ、その唇を強引に奪ったのだ。それは愛の交歓などではない。獲物の喉笛を食い破る獣の捕食そのものだった。神宮寺が驚愕で開いたその口内へ、御子柴は己の舌を深くねじ込んで彼の舌を絡めとって引き出し、そして――容赦なくその舌に噛みついた。

「んんんーっ!?!?!?」

 神宮寺の絶叫が、接吻に阻まれてくぐもった悲鳴となる。口内に広がる鉄錆の味。舌を引きちぎらんばかりの激痛。神宮寺の「完璧な計算」は、このあまりにも野蛮で、論理を超越した一撃によって完全に灰燼に帰した。彼はパニックに陥り、あれほど完璧に極めていたリバース・ロメロスペシャルを、自ら放り投げるように解いた。御子柴をつき飛ばし、無様にマットを転がりながら、脱兎のごとく距離を取った。口を押さえる指の間から、鮮紅色の血液がボタボタとマットを汚し、神宮寺の端正な顎を伝って白のタイツに赤い染みを作っていく。

「あはっ! 可愛げねえ雌猫でゴメンなぁ?」

 御子柴は痛みに眉根を寄せながら、よろよろと立ち上がった。彼女の口端からは血が滴り、剥き出しになった紅い舌は、返り血によってさらに禍々しく、不気味な光沢を放っている。彼女はそれをペロリと舐め、地獄の淵で微笑む悪魔のような笑顔を神宮寺に向けた。

 

 その光景に、会場は一瞬の静寂のあと、割れんばかりの悲鳴と、生理的な嫌悪に満ちた怒号に包まれた。

『キャー! 血ですワ! 噛みつきですわ!? 見まして、見まして!? 大流血戦ですワ!』

 影山アナが狂乱気味に叫ぶ。実況席から乗り出さんばかりの勢いだ。

『いや大流血戦は過言だろ……っていうか御子柴ァ!? お前放送止めたいのか!? いい加減に……』

 エディ・ダンテスは怒りと呆れが混ざり合い、今にもリングに駆け上がりそうな勢いで立ち上がった。

『落ち着いて! 落ち着いてくださいエディさん! 乱入は反則ですヨ!?』

 影山が必死にエディの腕にすがりつき、彼女を引き止める。

『むむむ』

 エディは不満げに鼻を鳴らし、握りしめた拳を戦慄かせながら渋々と席に座り直す。

『なにが「むむむ」だ』

 影山の冷ややかなツッコミが、異常な熱気に包まれた会場に、虚しく響いた。

 

 リング上では、警告のタイミングを逸して戸惑うレフェリーをよそに、神宮寺の荒い息遣いだけが響いていた。自身の血で染まった口元を歪め、後ずさる神宮寺。データと計算でリングを支配してきたエリートの姿はそこにはなく、未知の恐怖に怯える一人の男の姿だけがあった。御子柴はその恐怖を逃がさぬよう、音もなく距離を詰める。紅く染まった舌をチラつかせながら、獲物を追い詰める豹のようなしなやかさで神宮寺の背後へと回り込んだ。神宮寺の片脚を自身の脚で絡め取る。そのまま彼の腰を落とさせ、もう一方の脚も複雑にロックした。神宮寺の両脚は、まるであぐらをかかされたような奇妙な形で固定される。さらに御子柴は彼の背後から上半身に組み付き、自身の腕を深く差し込んで強引に締め上げた。

「な、なんだ、この絡み方は……関節が、あらぬ方向に……っ!?」

 神宮寺の口から、血の混じった悲鳴が漏れた。下半身はあぐらの状態で床に縫い付けられ、上半身は変形コブラツイストのような形で極限まで捻り上げられる。逃げ場のない二重のロックが、彼の肉体を悲鳴を上げるまで軋ませていた。

「なんだ、現役の技じゃないからデータにないのかニャ?」

 御子柴は、神宮寺の耳元で甘く、そして残酷に囁いた。

「モモタロウの技だよ、モモ・スペシャルその2……三郎太が使ってるの見ちゃってニャ。オレなりにアレンジしようかと思って」

 かつての同期であり、今は倒すべき宿敵であり、そして誰よりも執着する男、三郎太。彼が直近の試合で披露した「アグラツイスト」を、御子柴は自分自身の「愛の形」として歪に昇華させていた。三郎太の技で、この鼻持ちならないデータ屋を壊す。その背徳的な歓喜が、御子柴の腕の力をさらに強めた。

「があああ!?」

 骨が軋む音とともに、神宮寺の絶叫が会場にこだました。だが、御子柴の「アグラツイスト」はこれで終わりではなかった。彼女はこの技で神宮寺の肉体を完全に拘束したまま、空いている片手を彼の腹筋へと這わせた。汗と脂で濡れた肌を撫でるように滑り落ちたその手は、やがて純白のタイツの端へと到達する。その指先が、絶望に震える神宮寺の肌をなぞりながら、ゆっくりとタイツの境界線を越えて指の第一関節までが布地に隠れる。

 

 リング上の異変に、レフェリーが慌てて身を乗り出した。これはマナー違反ではあっても明確な反則ではない。しかし、今の御子柴の指先が向かっているのは、間違いなく「放送禁止領域」だった。止めるべきか、いや、御子柴の指はそこで止まった。ここで止まるならまだ一線を越えてはいないのではないか。厳格なレフェリーである彼でさえ、この前代未聞の状況に判断を下せず、ただ困惑して事態を見守ることしかできなかった。

「バカな……僕の方がセクハラを受けるだと……!? 君には恥じらいという物がないのか……!?」

 神宮寺は、屈辱と羞恥、そして迫り来る指先の感触に顔を真っ赤にして叫んだ。対戦相手の女子レスラーへの密着心理攻撃を己の趣味とさえ思っていた男が、大観衆の前で、女子レスラーによって公開処刑同然の心理的侵攻を受けている。その事実が、彼のエリートとしてのプライドを粉々に砕いていた。そんな神宮寺の必死の抗議に対し、御子柴は何も答えなかった。ただ、地獄の釜の底で咲き誇る妖華のような、満面の「えへ♪」という笑顔を向けるだけだった。

「あっ♡ や、やめろ……観客が見てるんだぞ!? 放送が……興行が差し止められてもいいのか……っ!?」

 タイツの布地に御子柴の指先が第二関節まで隠れる。何かが触れる感触、神宮寺の悲鳴に、不本意な声が混じる。自身の理屈が全く通じない狂気を前に、彼は「団体」や「興行」という自分たちの一存でどうにかしていいはずのないものを盾にしようとした。

 しかし、御子柴は鼻で笑う。

「仮にそうなったとして……オレになんか不都合ある?」

「…………ッ!?」

 神宮寺は絶句した。この女は、本気だ。本気でこの興行をぶち壊し、自身の立場を打ち砕いても構わないと思っているのだ。自身の勝利や名誉などより、今この瞬間、目の前の獲物を徹底的に壊す快楽を優先している。計算で全てを支配できると信じていた男は、己の尺度では絶対に測りきれない「真の狂気」を前に、完全に心をへし折られていた。

「せめてものお詫びにちゃんとスッキリさせてあげるから……許してニャ?」

 御子柴の指先が、さらに奥へと進もうとしたその瞬間。

「わかった……! 僕の負けだ! ギブ! ギブアップだぁ!!」

 神宮寺の、全てを投げ出したような絶叫がリングに響き渡った。肉体的な苦痛でもなく、技の脱出不可能でもない。ただ純粋な「これ以上は社会的に殺される」という恐怖による、完全な屈服だった。

 レフェリーが即座にゴングを要請する。

 

 カン、カン、カン!

 

 激しく鳴り響くゴングの音が、この異常な試合の終わりを告げた。勝者、ガータ御子柴。観客たちは熱狂していいのか、声援をおくるのは共犯行為になりはしないかと戸惑いから声が揃わない。だが、ごく一部の熱狂的な御子柴の女性ファンたちが快哉を叫んでいた。御子柴はゆっくりと拘束を解き、立ち上がった。リングサイドにはすでに担架が運び込まれ、精神崩壊寸前の神宮寺が、恥辱に顔を覆いながら腰の引けた姿勢のままうつ伏せで情けなく運ばれていく。御子柴は自身を覆う異常な熱気と興奮を鎮めるように、肩で息をしながらその無様な姿を横目で見下ろした。

「バーカ、データなんぞでオレを見透かせるもんかよ、太平プロレスの混沌を舐めんな!」

 勝利の雄叫びというよりも、それは自らの生き様を肯定するような、激しい咆哮だった。彼女の脳裏には、どこか遠い異国で自分を失いかけていた頃の記憶と、そして、そんな自分を真っ直ぐに見据えてくれた男の顔が浮かんでいた。

 

 太平プロレスが、ノワール・ゲートの精鋭からようやく奪い取った、貴重な一勝。御子柴は紅い瞳を細め、誰も知らない彼女だけの暗い炎を燃やしながら、リングを降りていった。

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