「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第23試合(vsノワール・ゲート対抗戦副将戦):シングルマッチ「シロオニ・ベスVS雨宮月」

 熱狂と動揺が入り混じる独特の熱気が、会場の天井付近にドロドロと滞留していた。リングサイドに設けられた実況席では、プロレス団体「ノワール・ゲート」が契約する格闘技配信サービスから派遣されてきた女性アナウンサー、影山が興奮冷めやらぬ様子でマイクを握りしめている。

『「ノワール・ゲート」と「太平プロレス」の第2次団体対抗戦、中堅戦は衝撃の結末を迎えました! 結果としてはボーティス神宮寺のギブアップにより、ガータ御子柴が勝利。「太平プロレス」が一勝を取り返して首の皮一枚つながった状態ですネ。とは言え、危うく放送事故や興行中止になるところでしたので、私はまだドキドキしたままですワ』

 影山の言葉に対し、隣に座る解説の女性は深いため息を吐き出した。「太平プロレス」の友好団体である「オトギプロレスリング」の社長兼レスラー、エディ・ダンテスである。彼女は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、疲労困憊といった表情で口を開いた。

『なんかもう御子柴についてはコメントしたくない……。どうかしてるよアイツ』

 前回の対抗戦でも解説を務め、両団体から乞われて再びこの席に座ったエディだったが、先ほどのあまりにも常軌を逸した試合展開にすっかり精神を削られていた。リング上では、マットに飛び散った血や毒霧の残滓で汚れたマットを、若手スタッフたちが必死の形相で拭い取っている。しかし、一度染み付いた「混沌」の余韻までは、そう簡単には拭い去れないようだった。影山はそんなエディの不調や現場の慌ただしさなど気にも留めず、むしろ目を爛々と輝かせている。

『エディさん、スネないで下さいな。これもお仕事ですヨ。私は担架で運ばれる時のボーティス神宮寺の涙目を見て、ちょっと新しい扉が開きそうになりましたネ』

『えっ』

 思わず素っ頓狂な声がエディの喉から漏れる。

『えっ』

 影山もなぜか鸚鵡返しに同じ言葉を発した。エディは信じられないものを見るような目で隣の女性アナウンサーを凝視し、数秒の沈黙の後、そっと視線を逸らすと、気を取り直すように無理やり話題を進行のレールへと戻した。

『…………。ええと、とにかく次は副将戦、対戦カードは「シロオニ・ベス VS 雨宮月」なわけだが、相変わらず太平プロは後がないままだ。ベスが勝って大将戦までバトンをつなげるかどうかだな』

 淡々と語るエディに対し、影山はあからさまに不満げな声を上げる。

『なんでそっぽ向いて私と目を合わせるのやめたんですの、エディさん? 悲しいワ。視聴者のみなさんだって温かく……「ドン引きである」「影山怖E……戸締りしとこ」「エディ社長に心から共感した」「新しい扉を開いた影山に涙目にされたい人生だった」「おまわりさん、こいつです」って、ちっとも温かくないコメントばかりじゃないの!? ひどいわネ!?』

 手元のモニターを忙しなくスクロールしながら叫ぶ影山に、エディは冷ややかな視線を向けたまま一刀両断する。

『ひどいのはお前だと思う』

 

 実況席での奇妙なやり取りをよそに、リング上では次なる死闘の準備が整いつつあった。まばゆいカクテル光線に照らされたリング上で、二人の選手が対峙している。「太平プロレス」の副将として現れたのは、シロオニ・ベス。身長174センチという恵まれた体格を誇る米国出身の女子プロレスラーである。アッシュブロンドのショートボブに、氷のように冷たく透き通るグレイッシュブルーの瞳。黒と赤を基調としたビスチェトップには豪奢な金色の縁取りが施され、黒のロングレギンスには全身に絡みつくようなアラベスク模様が描かれている。膝下までを覆う金色の編み上げロングブーツが、彼女の脚の長さをさらに際立たせていた。大人しそうな顔立ちとは裏腹に、その佇まいには絶対的な自信と静かな威圧感が漂っている。

 対するノワール・ゲートの副将は、雨宮月。深い紺色のショートヘアに可愛らしい三日月の髪飾りをつけ、金色の瞳を輝かせている小柄な存在だ。機能美と気品を兼ね備えた青と黒のバイカラー・コスチューム。タイトなベストからは引き締まった細い腹部が覗き、腰元で輝く三日月のバックルがリングの照明を冷たく反射している。指先をカットした白いグローブをはめ、膝上まで伸びた純白のニーハイブーツを穿いている。身長は155センチと鬼を自称するベスに立ち向かうにはいささか小柄で華奢に過ぎるのではないかと思われた。見下ろすベスと、見上げる月。約20センチの身長差は、そのまま絶対的な戦力差であるかのように観客の目には映っていた。

 ベスは余裕の笑みを浮かべ、丁寧な、それでいて棘のある口調で月に話しかける。

「あら、前回は見かけなかった方ね? あの神宮寺とかいう不愉快な男が中堅で貴女が副将ですか。……少しは楽しませてくれるのかしら?」

 冷ややかな見下しの視線を受けながらも、月は怯むことなく真っ直ぐにベスの瞳を見返した。大人し気な顔立ちの中に、確かな闘志の炎が揺らめいている。

「ボクの方が彼より強いので」

 静かだが、一片の迷いもない断言。その言葉に、ベスはわずかに眉を動かした。

「!……成程、その自信。期待させていただきましょう」

 鋭い眼光が交錯した直後、試合開始を告げるゴングが会場の空気を切り裂いた。カンッ!という高い音が鳴り響くと同時に、二人はゆっくりとリングの中央で円を描くように歩み寄る。まずはプロレスの基本にして純粋な力比べであるロックアップ。ベスは両腕を前に突き出し、組み合いを要求した。圧倒的な体格差とパワーを見せつけ、開始数秒で相手の心をへし折る腹積もりだった。月もまた、逃げることなくその懐へと飛び込んでいく。バチィッ!という肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響き、四つの腕が複雑に絡み合った。ベスは上から体重を被せ、一気に月をロープ際まで押し込もうと力を込める。小柄な女子選手など、彼女の筋力をもってすれば赤子を捻るよりも容易い。――そう、思っていた。

(……!? なに、この抵抗……足腰と体幹による……いえそれだけではない!?)

 ベスのグレイッシュブルーの瞳が、驚愕に見開かれた。押し込めない。微動だにしない。見下ろす先にある月の細い腕、華奢な肩。そこから伝わってくる反発力は、ベスの想像をはるかに絶するものだった。ただ重心を落として耐えているだけではない。大地の根から吸い上げたような強靭な足腰の力、そして何より、女子選手特有のしなやかさとは根本的に異なる、硬く、太く、骨の髄まで詰まったような「密度」を感じさせる筋力が、ベスの圧力を完全に受け止めているのだ。軋む腕。ギリギリと音を立てるような力比べの中、月はベスを鋭く睨み上げ、必死に踏ん張りながら叫んだ。

「小さいからって舐めないで下さいっ!」

 想定外の拮抗。いや、体勢によっては押し返されかねないという未知の恐怖が、ベスの背筋を駆け抜けた。どうなっている。この小娘の体には、一体どれほどの力が圧縮されているというのか。鬼たる自分が力比べで圧倒できないという事実が、自信家であるベスのプライドをひどく傷つけた。このまま膠着状態を続ければ、自分より一回りも二回りも小さな相手を押し切れない自らの非力を観客に晒すことになる。それは屈辱以外の何物でもなかった。

「ちっ……上等!」

 舌打ちと共に、ベスの表情から余裕が消え失せる。彼女は組み合った状態から強引に月の頭を引き寄せると、至近距離から自身の額を月の顔面へと躊躇なく叩きつけた。ゴツンッ! という骨のぶつかる生々しい音がリングに響き渡る。プロレスの力比べという文脈を乱暴に断ち切る、荒々しいヘッドバット。

「あうっ!?」

 予想外の痛撃に、月は短い悲鳴を上げて額を押さえながら後ずさった。ロックアップからの強引な離脱。それは月へのダメージを与えると同時に、ベス自身が力比べでの敗北の可能性から逃れるための、反射的な防衛行動でもあった。距離を取ったベスは、荒い呼吸を整えながら、目の前の不可解な対戦相手の底知れぬ異質さに、警戒のレベルを一段階引き上げていた。

 衝動的なヘッドバットで強引に距離を置いたベスだったが、その瞳に宿る傲慢な輝きは未だ衰えていなかった。むしろ、自分を驚かせた小柄な対戦相手に対し、捕食者が獲物を見定めた時のような、残酷で冷徹な好奇心が混じり始めている。しかし、仕掛けたのは月の方だった。額の痛みを堪え、深い紺色の髪を乱しながらも、月は間髪入れずに踏み込む。ボクシングのステップを思わせる軽やかな足運びから、月は自らの最大の武器である脚を解き放った。

「見た目で判断すると痛い目見るよ! ボクの蹴り、受けてみてっ!」

 鋭い叫びと共に、月の右脚が鞭のようにしなった。乾燥した肉の弾ける音がリング内に響き渡る。まずはベスの左の脛。間髪入れずに、反対側の太腿の外側。ベスがその猛攻を腕で防ごうとした瞬間、月の体躯がコマのように回転し、死角から脇腹へと容赦ないミドルキックがめり込んだ。

「くっ、あ……っ!」

 ベスの顔が苦痛に歪む。月のコンビネーションキックは、ただ速いだけではなかった。ひとつひとつの打撃が、まるで杭を打ち込むかのように重い。ベスは必死にガードを固めようとするが、月の連撃はその防御の上を行く速度で、今度はベスの右肩を鋭く打ち据えた。左右、上下、そして回転を加えた全方位からの蹴りの雨。その機動力に翻弄され、防戦一方となったベスは、ついにその長い脚を折るようにしてマットへと片膝をついてしまう。観客席の「ノワール・ゲート」のファンたちからなる月の応援団から割れんばかりの歓声が上がった。

 だが、そんな屈辱的な状況にあっても、不敵な笑みを浮かべたまま片膝をつくベスは、月を見上げる。

(……身長150そこそこの小娘のわりに、ひとつひとつの蹴りの威力が重い。……面白いわね)

 視線の先にあるのは、呼吸を乱しながらも、優位を確信したような月の表情だ。月は追撃の手を緩めない。膝をつき、髪を振り乱しているベスの後頭部へと手を伸ばした。アッシュブロンドの髪を掴み、そのまま無理やり引きずり起こして、次の有効打を叩き込もうという算段だった。だが、それはベスという「シロオニ」の恐ろしさを軽視した結果でもあった。髪を掴まれ、頭部が引き上げられた瞬間。ベスのグレイッシュブルーの瞳が、至近距離で月を捉えた。

「……あら、蹴りを止めて……もう息切れかしら? ならお返しよ……ッ!」

 起き上がりざま、ベスは全身のバネを腕へと凝縮させた。広げた右腕を振り抜く、強烈なエルボー。月の胸元に、砲弾のような衝撃が走る。ドンッ! という鈍い音と共に、月の小さな体は木の葉のように宙を舞い、リング端のロープまで一気に吹き飛ばされた。背中からロープにしなだれかかり、跳ね返る月。そのチャンスを、ベスが見逃すはずがない。ベスの長い脚がリングを蹴り、一気に距離を詰めようとしたその時だった。

「あまいっ!」

 ロープの反動を最大限に利用し、月がカウンターの挙動に出た。突き飛ばされた勢いをそのまま、爆発的な跳躍へと変換する。放たれたのは、弾丸のごときドロップキック。ベスの顔面を目指し、月の白いリングシューズの底が迫る。

「なっ……!? がッ!」

 回避は間に合わなかった。ベスの端正な顔面に、月の全体重が乗った蹴りがクリーンヒットする。もんどりうってダウンするベス。激しくマットを叩く音に、会場からはどよめきが沸き起こる。

 状況を立て直そうと、二人はほぼ同時に立ち上がった。今度は正面から、がっちりと組み合う。ベスは力技で押し切ることを決意していた。この小柄な相手を、その高く誇るパワーの象徴であるボディスラムで叩きつけ、鬼の力に正面から抗する事などできないと教え込んでやるのだ。ベスは月の腰を抱え、さらに投げの動作を確実なものにするため、月の股間へと右手を深く差し入れた。持ち上げるための「支点」を作る、ごく標準的なプロレスのムーブである。しかし、その瞬間。ベスの動きが、氷のように静止した。

(えっ……嘘、この感触……!?)

 差し入れた掌に伝わってきたのは、女性の骨格や肉付きとは明らかに異なる、不自然な異物感。そして、鍛え上げられた男性特有の逃れようのない実在感を持った「質量」の感触だった。ベスの顔から血の気が引き、驚愕と、そしてそれ以上の動揺がそのクールな表情を完全に崩壊させた。

「あ、あなた、女の子のフリをして、本当は『男』!?」

 驚愕のあまり、ベスの拘束がわずかに緩む。プロレスラーとして、いや一人の女性として、あまりにも予想外の事実に脳の処理が追いつかない。凛とした美貌が驚愕に歪み、持ち上げようとした腕から力が抜けていく。リング上の時間は、ベスにとってだけ永遠のように長く感じられた。

「隙ありっ! 驚いてる場合じゃないよ!」

 その隙を、月は見逃さなかった。自分を見つめて硬直したベスの腕を力任せに振りほどくと、月は電光石火の速さでベスの背後へと回り込む。その細い腕が、ベスのしなやかな腰を強固にクラッチした。次の瞬間、月は全身の筋力を爆発させた。華奢な外見に秘められていた、男子としての基礎体力が成せる業だ。長身のベスの体を、低く鋭いブリッジと共に後方へと投げ捨てる。弧を描いて飛んだベスの体は、鮮やかなジャーマンスープレックスでマットへと背中から叩きつけられた。

「きゃっ!?」

 ベスの悲鳴が響く。

 

 実況席では、影山がその光景を不可解そうに実況し始める。

『アラアラ、どうしたのでしょう。シロオニ・ベス。小柄な雨宮月を軽々とボディスラムで投げ捨てるかと思われましたが、急に動きをとめてしまいましたワ。おかげでバックを取られて綺麗に投げられてしまいました。……重くて持ち上がらなかったのかしら?』

 解説のエディも、怪訝な表情を隠せない。

『ベスに限ってそんなわけがあるか。視線から見て何かに気付いたようだったが……凶器でも持っているのか?』

 その言葉を聞いて、影山はクスクスと、どこか楽しげに笑い声を上げた。

『ま、エディさんたらはしたないですわネ。男性の下半身見て股間の凶器だなんてそんなエロ漫画みたいな言い回し、いけませんワ』

 隣で身を硬くしたエディは、最初こそ何を言われたのか理解できず、数秒の間を置いてからようやく隣の女が口にした言葉の卑猥な意図を汲み取った。

『だれもそんなこと言ってないだろ!? だいいち股間のって……えっ?』

 エディは思わず自分の耳を疑った。

『そりゃ雨宮月は男の娘ですもの、股間にモノはあるに決まってるじゃないですか』

『……なんて?』

 エディの思考が停止する。

『男の娘(オトコノコ)。雨宮月は男性ですヨ』

 影山が事も無げに、まるで今日の天気を教えるような平坦なトーンで言い放つ。

『嘘だろ、あれでか!?』

 エディは思わず身を乗り出し、リング上の月を凝視した。あの華奢な体と色白のしなやかな四肢、可愛らしい髪飾り、そして瑞々しいボブカット。女性としては小振りな胸板だとは思ったものの、どこをどう見ても、自分たちと同じ女子レスラーにしか見えない。

『こらこら、いけませんワ。ジェンダー問題は難しいんですのヨ。迂闊な事を言うと怒られてしまいますヨ?』

 影山がモニターの向こう側にいる視聴者にでも話しかけるような、芝居がかった口調で指を立てた。

『む……失言を認めよう。撤回する』

 エディは慌ててマイクに向かって言い直したが、影山はさらに追い打ちをかけるように淡々と事実を突きつけた。

『まぁ、雨宮月は普通に性自認男の男性で、見た目が可愛いだけなんですけどネ』

 外見、性別、そしてアイデンティティ。幾重にも折り重なった要素にエディは思考を放棄して叫びをあげる。

『あああああ、めんどくさいな!?』

 実況席での混乱など露知らず、リングの上では、正体を暴かれた「少年」が、なおも鬼気迫る表情でダウンしたベスへと這い寄っていた。

 

 スープレックスでマットに背中を打ち付けられたベスは、呻きと共に身悶えながらも、困惑の渦中にいた。目の前で戦闘態勢を解かないこの小柄な選手が、自分と同じ女性ではなく、あろうことか「男」であるという事実。その衝撃は、投げのダメージ以上にベスの心中を激しく揺さぶっていた。しかし、月は動揺するベスの隙を逃さず、獲物を狩る獣のような鋭さで追撃に転じた。ダウンして叩きつけられた衝撃で悶絶しているベスの、すらりと伸びた長い脚。その右足の足首を、蛇のように鋭く捕らえ、月は迷いなく両腕で抱え込んだ。ベスの最大の武器は、その長い脚から繰り出される機動力と、それを支点とした強烈な投げ技だ。ならば、その土台を破壊する。月は迷いなくベスの右足首を脇に抱え、自身の全体重を乗せて深くねじり上げた。ヒールホールド、足首の関節を極め、同時に靭帯を引き裂かんとする非情なサブミッションだ。

「あ、ぐっ……離せ、この……っ!」

 ベスが苦悶の声を上げ、マットを激しく叩く。しかし月は、ベスの苦悶を冷徹に見つめ、さらに深く腰を落として締め上げた。

「フリだなんて失礼な! 女だなんて名乗った覚えはないよ、ボクは男だ! 舐めないで!」

 月の叫びには、見た目だけで判断され続けてきた者特有の、硬い自負が混じっていた。華奢に見えたその細い腕に、男としての、そして一人のレスラーとしての筋力が凝縮される。ベスの長い脚が、ギチギチと嫌な音を立てて悲鳴を上げた。

「リングで相対したら、ただの敵……違う!?」

 ベスは仰向けのまま、天を仰いで絶叫した。

「あぁっ……ぎぃぃぃ……ッ!?」

 足首を走る鋭い激痛が、脳を白く染め上げる。このままでは足首が壊される。ベスは歯を食いしばり、自由な方の左脚を必死に動かした。極められた右足を助けるべく、月の胸元や腕を必死に何度も力任せに蹴りつける。ドスッ、ドスッという鈍い衝撃が月の体に走る。月の顔が苦痛に歪み、一瞬だけロックの力が緩んだ。その刹那、ベスはマットを転がるようにして強引に自らの脚を引き抜き、身をよじってエスケープに成功した。

「あぐっ……はぁっ! はぁっ! ……成程、これは失礼を」

 リングの中央付近で、ベスは荒い呼吸を繰り返しながら、痛む右足首を庇うようにして這いつくばった。虚勢を張って強気に謝罪してみせたがダメージは軽くない。月の執拗な攻撃。そして「男」であるという宣言。それらを受け止めた彼女の瞳から、先ほどまでの困惑が消え、代わりに底知れない闘志が宿る。

「くっ、こんなに簡単に……強いね、鬼を名乗るだけの事はある」

 月もまた、ベスの脱出の早さと蹴りの重さに舌を巻いていた。ベスは立ち上がろうとするが、右足首に重みがかかるたびに激痛が走り、わずかに膝が震える。だが、彼女は「シロオニ」だ。この程度の痛みで心折れるようなタマではない。痛みは快楽ではない。屈辱も糧ではない。彼女にとって勝利こそがすべて。そして、愛する三郎太を奪い取って己の物とする道へ続く唯一の証明なのだ。

「……ですが安心なさい! 手加減など最初からしていない……ッ!」

 ベスは気力で立ち上がると、向かってくる月を真正面から迎え撃った。再びの組み合い。月は足首のダメージを突こうと懐に潜り込もうとするが、ベスはそれを左腕で巧みにいなし、月の勢いを利用してその脇下に自らの首を差し込んだ。足の激痛を、奥歯が砕けんばかりの食いしばりでねじ伏せる。ベスは月の右腕を深くロックし、自らの背筋と腰の力だけで、その小柄な体を強引に宙へと引き揚げた。反撃のエクスプロイダー。月のウェイトの軽さを逆手に取り、ベスは投げの軌道に自身の体重を乗せて後方へと反り投げた。

「あああっ!?」

 月は放物線を描き、マットへと豪快に叩きつけられた。首筋から肩口にかけて受ける強烈な衝撃。月の視界が火花を散らし、意識が遠のきかける。マットに大の字になって悶える月。そして、投げた瞬間に右足首へかかった負荷に耐えかね、ベスもまたその場に崩れ落ち、呻き声を漏らした。レフェリーの両腕が交互に振られ、非情なダウンカウントが会場に響き渡り始める。

「ワン! ツー! スリー!」

 観客席からは悲鳴に近い声援が飛び交う。対抗戦の行方を左右する副将戦。両者共に一歩も譲らぬ死闘に、会場のボルテージは最高潮に達していた。

「フォー! ファイブ! シックス!」

 ベスが先に動きを見せた。マットを掴み、ロープを頼りに這い上がる。右足首の痛みは引くどころか、熱を持ってズキズキと脈打っている。それでも彼女は、カウント7でなんとか両足でリングに立った。

「セブン!」

 続いて、月がカウント8でふらつきながらも立ち上がる。胸元を大きく上下させ、苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳の輝きだけは死んでいない。

「エイト!」

 レフェリーがカウントを停止する。両者、限界に近い消耗を見せながらも、戦いの意志は露ほども衰えていなかった。

 先に仕掛けたのは、満身創痍のベスだった。足首の痛みを精神力で遮断し、もう一度、力で月を制圧しようと組み付きに踏み込む。大型のベスが突進してくる圧力は、正に鬼そのものだ。だが、月の動きはそれを上回った。ベスが踏み込んできたその出鼻、月は自らの体を独楽のように鋭く回転させた。

「ボクは……負けないっ!」

 浴びせ蹴りによって月の左脚が、遠心力を伴ってベスの側頭部を正確に打ち抜く。

「ぐぅぅっ!?」

 鈍い衝撃音が響き、ベスの巨体がグラリと揺れる。意識が朦朧とするベスの懐に、月は弾丸のように飛び込んだ。月はベスの腰に腕を回し、深く、深く重心を沈めた。

「これで……決めるっ!!」

 ベスの体格を考えれば、たやすくはないはずの投げ技。しかし、ベスの体が、ふわりと宙に浮く。月は自らの背中を弓のようにしならせ、美しいブリッジを描きながらベスを後方へと反り投げた。太平プロレスの若手エースであり、かつてベスを打ち破った宮川三郎太。彼のキレを彷彿とさせるノーザンライトスープレックス・ホールド。ベスの背中がマットに吸い込まれるように叩きつけられ、月はそのままがっちりとホールドして、フォールの体勢へと持ち込んだ。

「ワン! ツー!」

 レフェリーの掌がマットを叩く。会場中の視線がその一点に注がれ、「ノワール・ゲート」のファン達は勝利を確信して腰を浮かせた。しかし、三度目の音が響く直前。

「ああああっ!」

 ベスが裂帛の気合と共に、死に物狂いで肩を跳ね上げた。カウントは2.5。動揺とダメージで意識の混濁に追い込まれながらも、彼女の「鬼」としての本能が敗北を拒絶したのだ。ホールドを解かれた月が、信じられないといった表情でベスを見やる。

「……ハァ、ハァ、あの人ほどには練度が高くないようね……ッ!」

 ベスは肩で息をしながら、這いつくばった状態で月を睨み据えた。月の技に彼の影を見たからこそ、彼女のプライドは燃え上がった。まだ実戦で放った経験知が足りていない、その未熟さに救われたのだ。

「くっ……!?」

 月が再び攻撃を仕掛けようとした、その刹那だった。立ち上がりざま、ベスが残った力を全て右脚に集中させた。足首の激痛を、アドレナリンと闘争心で無理やりねじ伏せる。放たれたのは、容赦のないカウンターのビッグブーツ。

ベスの長い脚が、まさに大砲の弾丸のように月の顔面へと突き刺さった。

「ぐがっ!?」

 顔面を捉えられた月は、文字通り後方へと吹き飛んだ。脳を揺さぶる衝撃に、月の視界が激しく歪む。だが、その一撃を放ったベスの顔には、これまでの冷徹な見下しではなく、狂気じみた愉悦の笑みが浮かんでいた。

「フフ……熱くなってきました♪ 認めましょう、貴方は十分に私の敵足り得ると!」

 もはや相手が男か女かなど、彼女にはどうでもよくなっていた。目の前にいるのは、自分を追い込み、屈辱を与え、そして「鬼」としての本性を引き出した強敵の内の一人。ベスはフラフラと立ち上がる月に対し、さらなる追撃を宣言するように、その屈強な肉体を躍動させた。月の息は完全に上がっていた。ヒールホールド、エクスプロイダー、浴びせ蹴り、そして渾身のスープレックス。互いの、全力を尽くした技の応酬の末に限界を超えつつある体に、ベスの容赦ないパワーが襲い掛かる。ベスは逃げ場を失った月の腰を掴むと、強引にその体を自らの肩の上へと担ぎ上げた。アルゼンチンバックブリーカーの体勢。月の細い体が、ベスの広大な背中の上で無力にのけぞる。

「ハァ……ハァ……、これだけ疲労とダメージがあってその体格では、返し技とやらも出せないでしょう?」

 かつて神宮寺によって披露された白鬼金棒落としの返し技、その情報は対抗戦に登板する「ノワール・ゲート」の所属レスラーたちに共有されている可能性があった。だから、ベスは迂闊にこの札を切る事ができなかった。しかし、もうその配慮は要らない。返し技を放つにもそれなりに体力は必要だ。今の月には慣れない特殊技を的確に合わせる体力の余裕はないだろう。

「……食らえ、白鬼金棒落とし!」

 ベスはそのまま膝を折り、シットダウンの衝撃と共に、月の頭部をマットへ垂直に叩き落とした。思わず観客が耳を塞ぎたくなるような凄惨な衝撃音がリングを震わせる。月の体がマットに突き刺さり、そのまま力が抜けたように横たわる。ベスは返す刀で月の胸板にのしかかり、全体重をかけて押さえ込んだ。

「ワン! ツー!」

 レフェリーのカウントが、重く、確実に刻まれる。今度こそ終わりだ。会場を支配していた熱気が、一瞬の静寂に包まれる。だが。

「らぁああっ!!」

 カウント2.9。マットを叩くレフェリーの掌が三度目に到達する寸前、月は執念だけでベスの巨体を押し返した。死地からの生還。その金の瞳には、もはや気絶していてもおかしくないほどのダメージを受けながらも、決して消えない蒼い焔が灯っていた。

「この消耗で、私の白鬼金棒落としを受けて……信じられない……!?」

 ベスは驚愕に目を見開いた。女子選手どころか、並の男子選手であれば今の一撃で再起不能になっていてもおかしくない。いや、これだけダメージを重ねた後ならばあるいは三郎太すらも仕留め切れるかもしれないとベスは見ていた。それを、この華奢な「少年」は、精神の力だけで跳ね除けたのだ。驚愕に凍りついたベスを、月が最後の力を振り絞って見上げた。

「ヤバいな、本気で勝ちたいや……! ……ペッカーシュートォ……ッ!」

 月は残された全神経を軸足に集中させ、片脚立ちのまま、もう一方の脚を機関銃のように突き出した。一発、二発、三発――。軸足を変えることなく放たれる、高速の突き蹴りの連打。ベスの全身が、まるでキツツキに突かれる巨木のように、蹴打の衝撃で躍るように跳ね上がる。

「何この技……う、がぁぁぁ……!?」

 防御に回る暇さえ与えない。執拗なまでの連撃に、たまらずベスの体がマットへと崩れ落ちた。

 

 実況席の影山が、絶叫に近い声をマイクに叩きつける。

『完全に決まったかに見えた白鬼金棒落としをカウント2.9でキックアウトした雨宮月、ここで怒涛の蹴りを披露! 資料にない技ですワ? ペッカーシュートと言ってましたケド、確かにキツツキのような連続蹴りだワ! 片脚だけで姿勢を保持しているのにすごい体幹だと思いませんか、エディさん?』

 エディはモニターを食い入るように見つめたまま、言葉を失っていた。

『疲弊してこれか、大分場慣れしているな。経歴からして若手のはずだが大した……む、この蹴り技……どこかで見たことがあるような?』

 妙なひっかかりを覚えたエディが顎に手をやって首を捻る。自分が受けた記憶ではない、それならすぐに思い出せる。では一体?

『なにぃ、知っているんですの、エディさん?』

 影山の問いかけに、エディは気が散って、記憶の糸を手繰り寄せるのを一旦止め、ツッコミを入れる。

『そんな男塾みたいなフリをしても、雷電じゃないから解説できんぞ、どこだ? どこで私はアレを見た……?』

 エディは思い出すのを再開しようとするが、その答えに到達する前に実況の熱気が彼女の思考を強引に遮った。

『まぁ、張り合いがありませんのネ。エディさんが考え込んでしまいましたので私が解説を……あっと、ここでシロオニ・ベス、たまらずダウン! 雨宮月がフォールにいくようです! これは男の娘が鬼を討ち取って「太平プロレス」に引導を渡す、まさかの結末を迎えてしまうのでしょうか!?』

 

 ペッカーシュートの怒涛の連撃を放ち終えた月は、もはや自身の足で立っていることすら不可能なほどに体力を消耗しきっていた。激しい打撃音と共に弾かれたように崩れ落ちたベスの姿を確認したのも束の間、月の体もまた、力尽きて重力に従って前へと倒れ込んでいく。そのままベスの上へと覆い被さり、押さえ込みへと移行する。シーソーゲームの勝者は月なのか、実況席の影山の絶叫がこだまする中――。

「……か、勝つのは、私だぁぁっ!!」

 血を吐くような、いや、文字通り自らの魂を削り出すかのようなベスの咆哮がリングに響き渡った。勝利を掴み取ろうと倒れ込んできた月の体を、下から跳ね上がってきた無慈悲な一撃が大きく弾き飛ばした。ベスの右肘であった。ペッカーシュートの蹴打の嵐を浴び、意識を刈り取られたかに見えた「シロオニ」は、死に体となりながらも勝負を諦めてなどいなかった。彼女の内に潜む、誇り高き鬼の本能。それが、敗北の淵から彼女の右腕を強制的に動かしたのだ。

「ぐあっ……!? 嘘でしょ!?」

 肘による迎撃を喉元にまともに食らった月は、フォールの体勢を無惨に崩され、為す術もなくマットの上を転がる。渾身の勝負手を凌がれた絶望と、残された体力が完全にゼロになったという事実が、月の体を冷たく縛り付けていた。

 ベスは這うようにして身を起こした。右足首は悲鳴を上げ、全身の筋肉が断裂するかのような痛みを訴えている。息は上がり、アッシュブロンドの髪は汗と乱れで顔に張り付いていた。もはや、圧倒的な強者としての余裕など欠片もない。だが、そのグレイッシュブルーの瞳だけは、これまでのどんな時よりも酷薄に、そして純粋な闘志に燃え上がっていた。この小さな「少年」は、紛れもなく自分の全力を引き出すに足る強敵だった。だからこそ、敬意を込めて、自らの持つ最大の暴力をもって完全に粉砕しなければならない。ベスは力なくうつ伏せに倒れている月を引き起こし、その細い両腕を強引に掴み取った。そして、月の腹部――みぞおちの辺りで、その両腕を交差(クロス)させるようにして強固にロックする。腕を封じられ、身動きが取れなくなった月を、ベスは自身の圧倒的な背筋力と大腿部のバネを使って、一気に高々と抱え上げた。

「出し惜しみなど、できないようね……」

 ベスの頭上、最も高い位置で月が逆さ吊りにされる。両腕をクロス状に固められているため、月は落下時の受け身を取ることが物理的に不可能だった。それは即ち、自身の全体重とベスのパワー、そして重力による衝撃のすべてを、背中と首で直接受け止めなければならないという死の宣告に等しい。

「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)!!」

 ベスの戦慄の叫びと共に、月を抱え上げていた巨体が前傾姿勢から一気にマットへと沈み込んだ。迎撃の肘打ちからの一連の流れるような動作。そして、容赦のない角度でのクロスアーム式のパワーボムで叩きつけ。リングのマットが破れて穴が開くのではないかと思わせるほどの、凄絶な破裂音が会場を揺らした。

 月の両腕を交差状態で完璧にロックしたままマットへ突き刺す、シロオニ・ベスが新たに編み出した必殺技。受け身すら許されない圧倒的な破壊力の前に、月の体はビクンと一度跳ねた後、完全に沈黙した。ピクリとも動かない。意識は完全に刈り取られていた。

 ベスはロックを解くことなく、そのまま月の体の上に覆い被さるようにしてエビ固めの体勢でフォールに入る。レフェリーが滑り込み、マットを叩き始めた。

「ワン!」

 会場中が固唾を飲んで見守る。

「ツー!」

 月は動かない。返す力は、もう一滴も残されていなかった。

「スリー!!」

 

 カンカンカンカンカンッ!

 

 試合終了を告げるゴングが、嵐のような大歓声と共に鳴り響いた。ピンフォール。シロオニ・ベスの劇的な勝利である。

 

 実況席では、影山が興奮の絶頂に達し、マイクが割れんばかりの勢いでまくしたてていた。

『決まったァーッ! 3カウント! 勝者はシロオニ・ベス! 「太平プロレス」が崖っぷちで踏みとどまり大将戦へなんとか繋げました! しかしこっちも見た事ない技ですわネ! え~資料によるとW.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)だそうで、先日初披露されたばかりのシロオニ・ベスの新必殺技だそうです! 実に豪快ですワ!』

 影山のテンションとは対照的に、解説のエディはプロの目線で冷静に、しかし隠しきれない感嘆の念を込めてその技を分析した。

『両腕クロス式のダブルアームパワーボムだな。クラッチされてしまえば脱出も受け身も難しそうだ。良い技だな』

 リング上では、ベスがゆっくりと立ち上がり、天に向けて右腕を突き上げていた。疲労困憊でありながらも、その立ち姿は鬼神のごとき威厳に満ちている。一方の月も、セコンドに肩を貸されながら、なんとか意識を取り戻して上体を起こしていた。負けはしたものの、その戦いぶりは観客の胸に深く刻み込まれていた。

『両者ここで握手して互いの健闘を称え合います! 素晴らしいですワ! 鬼娘対男の娘という属性盛り盛りの試合でしたケド、実に内容の充実した清々しい一戦でしたわネ! 中堅戦とは違いますワ、中堅戦とは!』

 意気揚々と語る影山に対し、中堅戦の凄惨な(あるいは精神的に破壊的な)光景を思い出してしまったのか、エディは忌々しそうに口を閉ざす。

『ノーコメントだ』

 試合開始前に口にした御子柴についてコメントしたくないという言葉通り、ダルそうな表情で応じないエディに影山が苦笑する。

『まぁ、ノリの悪い。ともあれ、これで状況は二対二のタイ! 決着は大将戦に持ち越されました!』

 実況の声が会場の熱気と混ざり合う中、リングの中央では勝者と敗者が静かに言葉を交わしていた。月は頭を押さえ、痛む体を庇いながらも、どこかスッキリとした表情でベスを見上げた。

「あー、ダメだったぁ……悔しいけどボクの負けですね」

 清々しい敗北宣言。女子のフリをしているとからかわれた時の険しい表情はそこにはなく、全力を出し切った一人のレスラーとしての顔だった。ベスは激しい息の乱れを整えながら、先ほどまでの見下すような視線ではなく、一人の好敵手を見る目で月に微笑みかけた。

「フッ……リベンジマッチがお望みなら受け付けますよ?」

 高飛車な言葉遣いの中にも、確かな敬意が込められている。その言葉を聞いて、月はふっと笑みをこぼし、痛む右腕をゆっくりと前に差し出した。

「機会があれば、またよろしくお願いします」

 それは、次こそは必ず勝つという決意を込めた握手だった。ベスは迷うことなくその小さな、しかし力強い手を取って力強く握り返した。

「負けてはあげられませんけどね」

 

 リングの上で交わされた熱い握手に、観客から惜しみない拍手と歓声が降り注ぐ。

ノワール・ゲートと太平プロレス。両団体の威信をかけた対抗戦は、星を五分に戻し、いよいよ最後の大将戦へとその運命のバトンを繋いだのである。

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