「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第24試合(vsノワール・ゲート対抗戦大将戦):シングルマッチ「宮川三郎太VSジェニー・葛葉(第2戦)」前編

「また会えたね、三郎太! ボク、今日をずっと楽しみにしてたんだ!」

 会場の喧騒を突き抜けるような、明るく、しかし鋭い意志を秘めた声がリングに響いた。ノワール・ゲートの「光の申し子」、ジェニー・葛葉は、まるでダンスのステップを踏むかのような軽やかな足取りでコーナーから歩み出る。彼女が身に纏うのは、キャンバスの白に鮮やかに映えるピンクとスカイブルーの特注コスチュームだ。ライラック・アイを細め、いたずらっぽく笑うその表情は、これから心身を削り合う死闘に臨む者のそれとは思えないほどに無邪気で、さながら待ちに待った遊園地へやってきた子供のようだ。ブロンドのショートボブが、会場のスポットライトを反射して黄金の輪を描く。その華奢な肢体から放たれるのは、無意識に観客を魅了するアイドル性とカリスマという名の暴力的なまでのオーラだった。

 対する太平プロレスの若きエース、宮川三郎太は、その眩いばかりの輝きを真正面から受け止めていた。赤いプロレスパンツに包まれた太腿は、前回の敗北から今日までの過酷なトレーニングを物語るように、はち切れんばかりの筋肉を蓄えている。かつての彼は、この舞台に立つだけで押し潰されそうなプレッシャーを感じていた。兄貴分であるモモタロウの失踪後、図らずも背負ってきた団体の看板という重責、そしてジェニーという天賦の才への戸惑いと、試合を遊びと言って憚らない彼女の価値観への苛立ち。しかし、今の彼の瞳には、澱みのない澄んだ情熱だけが宿っている。虚無感を乗り越え、オトギのリングでの非日常に迷い込み、辿り着いたのは、「一人のレスラー」としてのプロレスそのものへの憧憬と初心だった。

「……ああ、僕もだよジェニー。この試合、僕も楽しみにしていた!」

 三郎太は自らの拳を固め、静かに、だが力強く応じた。その口元には、自然な笑みが浮かんでいる。前回対抗戦で彼女によってもたらされた敗北、そして「偽モモタロウ」としてリングに上がったあのお祭り興行。そこで思い出したプロレスへの想い、敬愛する兄貴分であるモモタロウの技の練習。それらの回り道をしたからこそ、彼は今、純粋に目の前の強敵とぶつかり合える喜びを噛み締めていた。沸き立つような闘志を心臓の鼓動に変え、三郎太は一歩、キャンバスを踏み締めた。

 

 会場のボルテージは、試合開始前から最高潮に達している。放送席では、実況の影山と解説のエディ・ダンテスが熱い言葉を交わしていた。

『さぁ、ついに第2次団体対抗戦、大将戦ですワ! ここまで『ノワール・ゲート』が先鋒次鋒の2勝、『太平プロレス』が中堅副将の2勝とタイ! 全体の勝ち越しはこの大将戦で決まるわけですネ!』

 影山の独特な節回しの実況が、配信を通じて全国のファンに届けられる。

『ああ、色々あったが……これ以上に盛り上がる大将戦はないだろう。すべてがここで決まる』

 エディが深く頷き、落ち着いた声で応じた。彼女の視線は鋭くリング上の二人を射抜いている。

『その大将戦ですが、対戦カードは前回対抗戦における大将戦とまったく同じの『宮川三郎太 VS ジェニー・葛葉』ですワ。前はジェニー・葛葉がノーザンライト破りからのスターダストスープレックスで圧倒的勝利を飾りましたケド、これは「太平プロレス」側が不利と見ていいんでしょうか?』

 影山は手元の資料に目を落としながら、隣に座る解説者へと問いを投げかけた。

『さぁ、それはどうかな? ひいきするわけではないが、あれから三郎太の方も色々あった。無策での再戦とはわけが違う。あの顔を見てみろ、この試合どう転ぶかわからんぞ?』

 エディの言葉に促されるように、カメラが三郎太の表情をアップで映し出す。

『たしかに前回のような硬い表情ではなく、今回の宮川三郎太は柔らかい笑みを浮かべているようにも見えますワ。悲痛なリベンジ……というわけではなさそうですネ』

 モニター越しに映る若きエースの横顔に、影山も身を乗り出して声を弾ませる。そんな実況の興奮をたしなめるように、エディが続けた。

『後は見てもらうしかないな。どちらも今の日本の若手ではトップクラスのレスラーだ。期待していい』

『ベルトホルダーの巌窟王エディ・ダンテスのお墨付きを頂きました! それでは「太平プロレス」と「ノワール・ゲート」が贈る世紀の対決、皆さん、ご覧ください!』

 影山の宣言とともに、会場の照明が一段と輝きを増し、アリーナ全体の熱気が爆発した。

 

 瞬間、レフェリーの手が振り下ろされ、乾いたゴングの音が会場に鳴り響いた。

 

 カーーンッ!

 

 その余韻が消えるよりも早く、ジェニーが爆発的な瞬発力でキャンバスを蹴った。

「あはは! 景気よく行こうよ!」

 ジェニーの身体が宙を舞う。それは「挨拶代わり」と呼ぶにはあまりに過酷な、閃光のようなドロップキックであった。三郎太がガードの体勢を整える暇もなく、彼女の両足は三郎太の硬い胸板に突き刺さる。肉体と肉体が激突する鈍い音が、リングサイドのカメラマイクを通じ、会場中に重低音となって響き渡った。三郎太の大きな体が、まるで大木がなぎ倒されるように後方へと吹き飛ぶ。ジェニーの身体能力は、前回の対戦時よりもさらに研ぎ澄まされているように思える。背中からマットに叩きつけられ、肺の中の空気が一気に吐き出された。

「……ッ!」

だが、三郎太の反応もまた、かつての彼とは一線を画していた。背中にかかる衝撃をロールして逃がすと、彼は反射的にマットを叩いて跳ね起きる。視線は一瞬たりともジェニーから逸らさない。三郎太は立ち上がると同時に、低く構えて突進した。ジェニーが着地し、次の攻撃へ移行しようとする刹那、三郎太はその巨体を砲弾のようにぶつける。ショルダータックルだ。三郎太の右肩が、ジェニーの細い腹部を容赦なくえぐった。

「スピードは負けても、パワーはこっちが上だ!」

 三郎太の咆哮と共に、今度はジェニーが空中で一回転するようにして吹き飛ばされる。体重差を活かした重い衝撃がジェニーを襲うが、彼女は空中で器用に身を翻し、受身の衝撃を逃がそうとする。しかし、今日の三郎太は追撃の手を緩めない。背中から落ちたジェニーが態勢を立て直すよりも早く、三郎太はその巨体を被せるようにして覆いかぶさった。

「あはっ、やるね三郎太……って、わわっ!?」

 ジェニーが状況を把握した時には、すでに三郎太の手が彼女の両足首をがっちりと掴んでいた。三郎太は迷うことなくジェニーの体を裏返し、自らの股の間に彼女の足を差し込む。

「……食らえっ!」

 三郎太は腰を低く落とし、全身のバネを使ってジェニーの腰を強引に反り返らせた。逆エビ固め。プロレスの基本でありながら、三郎太の強靭な背筋と脚力によって繰り出されるそれは、凶悪なまでの破壊力を秘めていた。三郎太の太い腕がジェニーの足をがっちりとロックし、彼の背筋が悲鳴を上げるほどにジェニーの脊椎を限界まで極めていく。

「う、うぐぅ……! いきなり、これ……?」

 ジェニーの余裕の笑みがひきつり、苦悶の表情がにじみ出る。白い歯がギリリと食いしばられる。三郎太の太い腕が彼女の足首をロックし、逃げ場を完全に塞いでいた。彼女のしなやかな背骨が軋む音が聞こえてきそうなほどの圧力。ジェニーは必死にマットを叩き、激痛に耐えようとするが、三郎太の執念がそれを許さない。

「最初から全力で行くって決めていた!」

 三郎太の顔は、極限の力を振り絞るために紅潮し、浮き出た血管が彼の決意を体現していた。かつての三郎太なら、ここで「相手の出方を見る」という消極的な選択をしたかもしれない。だが、今の彼は知っている。ジェニーという天才を相手にするならば、最初の一手からその魂を揺さぶるほどの全力で当たらねば、勝利の女神は微笑まないということを。

 三郎太の力強いホールドに、会場からはどよめきが沸き起こる。序盤からフルスロットルで展開される大将戦。その熱狂の渦の中で、三郎太の「逆エビ固め」がジェニーの腰を容赦なく攻め立てていた。

 リング中央で極められた逆エビ固めの圧力が、ジェニー・葛葉の全身を苛んでいた。宮川三郎太の太い腕が、彼女の足首を万力のように締め上げ、強靭な背筋が彼女の脊椎を弓なりに反らしていく。会場を包むのは、骨が軋む音さえ聞こえてきそうな緊迫した静寂と、それとは対照的な観客のどよめきだった。

「……うらぁっ! ボクだって、捕まりっぱなしじゃないよ!」

 ジェニーの口から、可憐な少女のそれとは異なる、戦士としての叫びが漏れた。彼女はマットを叩く右掌に全神経を集中させ、わずかな隙を突いて全身をバネのように弾ませた。汗だくになりながら、持ち前の柔軟性と瞬発力を爆発させ、三郎太の力強いサブミッションを強引に振りほどく。絡みついていた三郎太の腕が外れ、ジェニーは転がるようにして距離を取った。三郎太は、その脱出劇にわずかな驚きを見せつつも、すぐさま次の行動に移った。逃がさない。一度掴んだ流れを、この天才少女に渡してはならない。彼は膝を突き、立ち上がろうとするジェニーの懐へと再び飛び込んだ。ジェニーの脇の下に頭を差し込み、三郎太の両腕がジェニーの腰を淀みのない動きで捉える。それは、彼が何度も繰り返し、磨き上げてきた伝家の宝刀の予備動作だった。

「あれ? この仕掛け……?」

 ジェニーのライラック・アイに、デジャヴのような光が宿る。前回の対戦で、彼女が完璧に封じ込め、勝利を決定づけたあの技。三郎太が必殺技として用い、そして打ち砕かれた、ノーザンライトスープレックスの形だ。

「……!」

 三郎太は無言のまま、すべての力を脚に込めた。ブリッジの起点を作るため、重心を後ろへと傾ける。だが、ジェニーの反応は神速だった。三郎太によってジェニーの体が宙を舞う直前、ジェニーは自らの両足を三郎太の右脚に、蛇のように素早く、そして正確に絡みつかせた。三郎太の重心移動を根底から破壊する妨害。放り投げられるはずだったジェニーの重みが、三郎太の自由を奪う鎖へと変わる。

「はい、ざんね~ん!」

 ジェニーのいたずらっぽい声が耳元で響く。二人の肉体は美しいアーチを描くことなく、物理的な必然として、無様に崩れ落ちるようにマットへ転がった。ノーザンライトスープレックス返し。技術的な無効化。三郎太の「切り札」が、再びリングに虚しく散った瞬間だった。

「……ッ! やはり偶然とかじゃなく、この技は決めさせてもらえないのか!?」

 マットに背中を打ちつけた三郎太は、天井の照明を見上げながら歯噛みした。かつての彼なら、ここで「絶望」が心を支配していただろう。自分の錬磨した技が通じないという事実は、レスラーとしてのアイデンティティを否定されるに等しい。しかし、今の彼の心に去来したのは、驚くほど冷静な自己分析だった。

(いや、「この技を出せば試合を決められる」なんてもの、なくて当たり前だ。昔の僕の状況に戻っただけじゃないか……)

 モモタロウの背中を追いかけ、ただ無我夢中に強敵たちに食らいついていたあの頃。確実な勝利などどこにもなく、一撃で全てを引っくり返せるような都合のいい技など持っていなかった。三郎太はゆっくりと身を起こす。泥臭く、しかし力強いその瞳が、再びジェニーを射抜いた。

(なら、全力を燃やし尽くすまでに、勝利のための一筋の光を掴めるかどうかが勝負……出来る全てで挑むだけ、それだけだ!)

 三郎太の覚悟は、放送席にも伝わっていた。

『あ~っと、ここで宮川三郎太、早くもノーザンライトスープレックスを放ちましたが、ジェニー・葛葉は決めさせない! またもノーザン破られましたワ!』

 影山が実況席のテーブルをばんばん叩き、興奮した様子で声を上げる。

『完全に返し技でマークされているな。だが、三郎太もそれをわかっていて試した形だろう。切札が1枚死んだというのに、三郎太の目は死んでいない』

 気持ち影山から身を離すようにして呟かれたエディの言葉通り、三郎太は怯むことなく前へ出た。突進。自らの質量を武器にした猛攻。だが、ジェニーの本領は、ここからの「遊び」にあった。

「ボク、ワクワクしてきたよ! 三郎太、これ、受け止めてみて!」

 突進してくる三郎太の鼻先で、ジェニーの体がふわりと宙に浮いた。前方倒立回転とび――三郎太の目前でマットにハンドスプリングで前転、彼女の細くしなやかな両足が、三郎太の頭部を完璧な精度で挟み込んだ。ヘッドシザース・ホイップが三郎太の突進エネルギーをそのまま旋回運動へと変換し、ジェニーは空中で鮮やかに一回転する。三郎太の体が、まるで遠心分離機にかけられたかのようにリング中央へと投げ飛ばされた。

 鈍い衝突音と共に三郎太がマットに叩きつけられる。追撃を予感した三郎太は、すぐさま起き上がろうとした。しかし、ジェニーのスピードは彼の予想を遥かに超えていた。彼女は三郎太のダウンを確認する前から、小鳥のような軽やかさでコーナーポストへと駆け上がっていた。鉄柱を一段、二段と跳ね上がり、最上段に到達した時には、すでに彼女の体は天井照明を背負うように反転していた。

「あははっ、いくよーっ!」

 ジェニーの体が、重力を無視するようにして宙を舞う。空中で描かれる美しい放物線。その軌道は、まさに夜空を駆ける流星。シューティングスター・プレス。最高難度の空中殺法が、無防備な三郎太の腹部へと直撃した。

「ぐはっ……あ、が……っ!」

 三郎太の口から、肺を押し潰されたような呻き声が漏れる。衝撃は内臓にまで達し、意識が火花を散らすように点滅した。視界が白濁し、呼吸が止まる。三郎太は動けない。キャンバスに沈んだまま、ただ絶望的な打撃の余韻に耐えることしかできなかった。腹部に食い込んだ衝撃が波紋のように全身へ広がり、指先ひとつ動かす自由すら奪い去っていく。

 レフェリーがマットに手を突き、カウントを数えようとしたその時だ。勝利を確信したジェニーが、意外な行動に出た。彼女はフォールには行かず、横たわる三郎太の髪を乱暴に、しかしどこか慈しむように掴んだのだ。

「まだだよ。まだ終わらせない」

 ジェニーの顔には、先ほどまでと同じく無邪気な笑顔が浮かんでいる。しかしその瞳には純粋すぎて残酷な、底知れない執着の色があった。彼女は三郎太の髪を掴み、ぐいと力任せにその上体を無理やり引き起こした。

「もっともっと、君と遊んでいたいんだもん」

 囁くようなその言葉は、リングサイドの喧騒を消し去るほどに冷たく、そして熱く、三郎太の耳朶を打った。ジェニーにとって、この試合は勝利という結果を得るための手段ではなく、三郎太という特別な存在を独占し、刻みつけ、愛でるための「遊び場」であった。引き起こされた三郎太の視界には、自分を本気で追い詰め、楽しそうに見下ろす「光の申し子」の異様なまでの情熱が映っていた。

 だが、ジェニーのこの「傲慢」とも言える遊び心が、眠りの泥濘に沈みかけていた三郎太の闘争本能に火をつけた。三郎太の頭皮を震わせる彼女の手の熱が、逆説的に彼の理性を極限まで研ぎ澄ませていく。それは三郎太にとって、絶望の淵から差し伸べられた唯一の「救いの糸」でもあった。掴まれているということは、相手との距離が至近だということだ。

「遊ぶ……? 違う……これは、真剣勝負だっ!」

 三郎太は残された全神経をその右手に集中させた。自分を引き起こしたジェニーの細い手首を、蛇が獲物を捕らえるかのような速さで掴み取る。驚きに目を見開くジェニー。三郎太は自身と彼女の体重差を利用して彼女を自分の方へと引き込み、崩れ落ちるような動きの中で、自らの両脚をジェニーの脚部へと複雑に絡ませた。それは、オトギプロレスリングへの出向時の修練と、失踪したモモタロウの残像を追いかけ続けた日々の中で培った執念の結晶。モモ・スペシャルその4――「ロータリーデスロック」。

 三郎太はジェニーの脚を「4の字」の形にロックする。そのまま彼女の腰を抱きかかえるようにして固定すると、三郎太はキャンバスの上で自らの肉体を軸に、猛烈な勢いで転がり始めた。

「な、なにこれ!? 目が回……痛い痛い痛いッ!? 膝が……離して、離せッ!?」

 ジェニーの悲鳴がリングに響き渡った。これまでの余裕をかなぐり捨てた、本能的な苦痛の叫びだ。回転によって加わる遠心力が、足首から膝、そして股関節から膝へと容赦ない捻りを加えていく。焦点となった膝は明らかに曲げてはいけない方向への負荷を加速度的に強めている。三郎太の肉体は、ジェニーの細い身体を巻き込んでリング上を転がり回る。摩擦で焼けるキャンバスの臭いと、制御不能な旋回への恐怖がジェニーの脳裏を白く染めた。

「悪いけど離さない……ギブしないと膝が壊れるぞ!?」

 三郎太は歯を食いしばり、さらに回転を続ける。視界が激しく流動し、三半規管が悲鳴を上げる。だが、ここで緩めれば、この天才少女は再び手の届かない空へと羽ばたいてしまうだろう。地を這う者の意地が、極限の締め上げを維持させていた。しかし、神は非情だった。三郎太が技を仕掛けた位置が、わずかにリング中央からずれていたのだ。回転半径の関係で円周がロープ際をかすめる。

「がああああッ……ロ、ロープ……!」

 ロープ際を通過する一瞬の刹那、ジェニーの手ががっしりとロープをつかみ取り、回転が止まる。

「しまった、掛けた場所がリング中央からズレて……!?」

 レフェリーの「ブレイク!」の声が響き、三郎太は苦渋の表情でロックを解いた。

『ここでロープブレイク! 驚きましたワ。あのジェニー・葛葉のガチの悲鳴とか、私初めて聞きましたもの。視聴者の皆さんもコメントで「凄い痛そう」「ウッソだろ!? オレの無敵天然妖狐ジェニーちゃんから笑みが消えたぞ!?」「驚愕はわかるがジェニーちゃんはお前のではない」「俺はジェニーちゃんのモノだけどな」「油揚げがコメントする時代か……」「油揚げにもファンになる権利はあるんだぜ?」「殺生石くらいでかい一石を投じてきたな」と驚きを露わにしておりますワ!』

 影山はタブレット端末に次々と流れるコメントを、怒涛のように読み上げていく。声色や高音低音でコメントごとの差異を出すという無駄な技量が光っていた。

『大半どうでもいい駄弁りだったように聞こえるんだが……? それはそうとロータリーデスロック、モモタロウの得意技であるモモ・スペシャルのその4だったな。見事身に着けた……と言ってやりたい所だが、出す場所が悪かった。リング中央なら決まっていたかもしれんぞ』

 エディは呆れているのか感心しているのか怪しい視線を影山に向けつつも、すぐさまリング上に視線を戻し、技術的な観点からの指摘を口にする。

『ジェニー・葛葉、ヒザをかばって大変辛そうですネ。リング上の情勢は一進一退、まさに大将戦に相応しい攻防ですワ』

 立ち上がろうとする両者の足取りは、どちらもおぼつかない。三郎太は回転のダメージで三半規管をかき乱され、世界が歪んで見えている。一方のジェニーは、膝を襲った激痛に脂汗を浮かべ、表情にいつもの明るい色彩を欠いていた。だが、回復の早さはやはりジェニーが一段上手だった。

「……今のはヒヤッとした。お返しだよ! ほら、これでもっと大人しくしてよ!」

 フラつく足取りのまま、ジェニーが三郎太の首元に飛びつく。彼女は自身の膝の痛みをアドレナリンでねじ伏せ、三郎太の頭部を脇に抱え込んだ。そのまま勢いよく振り回すようにしながら後方へ倒れ込み、垂直に近い角度で三郎太の後頭部をマットへ突き刺す。スイングDDTによって首から背骨にかけて、火を噴くような衝撃が三郎太を突き抜けた。

「ぐっ」

 三郎太がキャンバスに伏したまま動けなくなる。そこへ、ジェニーは容赦なく覆いかぶさった。彼女が選んだのは、これまでの空中殺法や関節技とは一線を画す、無骨で逃げ場のない締め技だった。ジェニーはうつ伏せになった三郎太の腰の上にどっしりと跨り、その両手を三郎太の顎へと回した。そのまま、全体重を後ろに預け、三郎太の首を無理やり反り上げさせる。キャメルクラッチ――駱駝固め。

「三郎太、君の心臓の音、ここまで聞こえるよ。ドクドクいってて、すごくいい。もっと苦しんで、もっとボクを楽しませて?」

 ジェニーの囁きが、三郎太の後頭部越しに降ってくる。三郎太の顎を掴み上げるジェニーの指先に力がこもり、彼の腰椎はミシミシと不吉な音を立てる。背骨が逆方向に極められ、全身の筋肉が断裂せんばかりに引き伸ばされる。じわじわと体力を奪い、精神を削り取る拷問のような責め苦。

「ぐ……ま、だ……だ……!」

 三郎太はマットを掻きむしり、呻いた。顎を掴んで背を反り返らされて、言葉にならない叫びが喉の奥で潰れる。視界が真っ赤に染まり、激痛が脳を麻痺させようとする。だが、その地獄のような苦しみの中で、三郎太の心はまだ折れていなかった。ベスの、雫の、そして御子柴の戦いを、彼は控室のモニター越しに見てきた。みんな、ボロボロになりながら繋いでくれたバトンだ。ここで終わるわけにはいかない。なにより、ジェニーの膝に刻んだダメージの感触。そして、彼女が初めて見せたあの「悲鳴」。自分はまだ、戦える。

 キャメルクラッチの地獄のような責め苦が、三郎太の肉体を極限まで追い詰めていた。ジェニーの両腕が顎を力任せに引き絞り、彼の頸椎と脊椎を逆方向に強引に湾曲させる。視界は真っ赤に染まり、酸素を求める肺は虚しく喘いでいた。ジェニーから発せられる「もっとボクを楽しませて」という残酷なまでの無邪気さが、物理的な重圧以上に三郎太の精神を圧迫する。

「……う、おおおおおっ!」

 だが、三郎太の魂はまだ屈していなかった。彼は千切れんばかりの背筋の痛みに耐え、一寸ずつ、亀のような歩みでキャンバスを這った。指先が、汗で滑りそうなロープの感触を捉える。渾身の力を込めてその最下段を掴み取ると、会場からは割れんばかりの歓声が沸き起こった。

「ちぇー、逃がしちゃった」

 ジェニーが不満げに頬を膨らませ、ロックを解く。立ち上がる際、彼女の右膝がわずかに、しかし確実な違和感を伴ってガクリと揺れた。三郎太はロープに縋りつきながら、荒い呼吸を整えようと必死に酸素を求めた。首周りには真っ赤な指跡が残り、身体を動かすたびに激痛が走る。朦朧とする意識の中で、三郎太は自らの心臓が刻む鼓動を聞いていた。それはジェニーの言う「遊び」の音ではなく、勝利を渇望する一人のレスラーが鳴らす、血の底から響く反撃の前奏だった。

「やっぱり強いや、ジェニー……! だけど、僕だってこのままじゃ終われないんだ!」

 三郎太は震える膝を叩き、自分に活を入れるように叫んだ。その瞳には、敗北の恐怖ではなく、強敵と対峙する高揚感が宿っている。一方のジェニーも、膝のダメージを抱えながらも、瞳にライラック色の炎を燃え上がらせた。限界を超えた肉体が奏でる不協和音を、二人の闘志が強引に塗りつぶしていく。

「あはは! そうこなくっちゃ、三郎太!」

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