「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
両者が同時に動いた。三郎太は気力で全身のバネを駆動させ、最短距離でジェニーの懐へと踏み込む。狙うは一撃必倒、自らの魂を込めた肘の一閃だ。
「渾身の力……込めるんだ! ファイナルエルボーッ!」
三郎太の右肘が、微かな光を纏い、青白い軌跡を引いた流星のように見える鋭さで放たれた。ジェニーは咄嗟に両腕を交差させてガードするが、三郎太の執念が乗った衝撃は防壁を突き抜ける。鈍い衝撃音がリングに響き、ジェニーの身体が大きくよろめいた。ガード越しでも骨に響く重い打撃。彼女の顔から一瞬、余裕の色が剥がれ落ちる。
「きゃあっ!? そ、それ……相変わらずヤバいエルボーだね、三郎太ァ!」
呼吸を乱しながらもジェニーは笑うが、その身体は確実にダメージを蓄積させていた。三郎太はその隙を逃さない。よろめく彼女の背後へと回り込み、しなやかな腰をがっちりと抱え込んだ。そのまま、重心を低く落として爆発的な脚力で後方へと投じる。三郎太の重量を伴った豪快なバックドロップの一撃がジェニーをマットへ叩きつけ、休む間もなく彼は次の行動へと移行した。
「……受けてみろ! これがアグラツイストだぁ!」
三郎太はダウンしたジェニーの脚を、インディアンデスロックの形に絡め取った。それはモモタロウから受け継ぎ、自らの中へと昇華させた「モモ・スペシャルその2」。ジェニーの脚を、まるであぐらをかくような不自然な形に固定し、自らの身体を蛇のように巻き付けて締め上げる、赤ずきんからギブアップを奪った必殺の変形コブラツイストだ。
「うぎ、あ、あああああ……っ! なに、これ、脚が……解けない……っ!?」
ジェニーの絶叫が会場に木霊した。これまでに経験したことのない方向からの圧力、そして逃げ場のないロック。膝の痛みにさらに響くような激痛が、天才少女の思考を白く塗りつぶしていく。三郎太は顔を歪めながらも、全体重を乗せてさらに締め上げた。勝利への執念。だが、ジェニーもまたこの「遊び」を最大限に楽しむための天性の才覚を持っていた。
「あだだだ……もう、三郎太ってば、すごすぎるよ……っ!」
脚が動かないならば、残された武器を使うまで。ジェニーは苦悶の表情の中で、唯一自由に動く頭部を大きく後ろに反らせた。三郎太の鼻柱を目掛けて渾身の頭突きを叩き込む。ゴッ! という不快な衝突音が響き、三郎太の視界が火花を散らし、僅かに鼻血が頬を伝う。
「うぐっ!?」
衝撃でロックが緩んだ一瞬を突き、ジェニーは強引にアグラツイストを振りほどいた。鼻を押さえて怯む三郎太。ジェニーもまた、膝の激痛に脚を震わせていたが、彼女の闘争心はもはや臨界点を超えていた。彼女はふらつく脚を気合で踏ん張り、体格に勝る三郎太の体を気合で抱え上げる。
「今度はこっちの番だよ、えいっ!」
膝の震えを隠すように腰を回転させ、三郎太を抱えたまま旋回する。遠心力を利用した旋回式ボディスラムだ。だが、三郎太はキャンバスへ叩きつけられる衝撃の中でも、口元に笑みを湛えていた。この極限の状態、命を削り合うこの瞬間が、これ以上なく「プロレス」を感じさせていたからだ。
(つくづく強い……だけど……!)
三郎太が立ち上がるよりも早く、ジェニーは彼を力任せに引き起こし、今度は肩に担ぎ上げた。変形ファイヤーマンズキャリー。狐火キャリーの構えだ。膝の痛みと腰の違和感に、彼女の端正な顔は歪んでいたが、その瞳は狂おしいほどの悦びに満ちている。
「あは、あははは! 最高……最高だよ三郎太! ボク、こんなにワクワクしたの初めて!」
「ぐ……ッ!」
倒れ込むように三郎太をマットに叩き落しながら上げられたジェニーの叫びは、観客の歓声をかき消した。彼女にとって、これほどの逆境と痛みを与えてくれる三郎太こそが、最高の遊び相手であり、最高の供物だったのだ。荒い息をつく彼をジェニーは休ませず無理やり引き起こす。正面からリバースフルネルソンに捉えて動きを封じて狐娘は蠱惑的な笑みを浮かべる。
「でも……今回もボクが勝っちゃうんだなぁ。さぁ、トドメだよ三郎太! スターダスト・スープレックス!」
ジェニーの投げで三郎太が宙を舞う。漆黒の宇宙に星が降り注ぐような、あまりに美しく、あまりに凄惨な投げ技が始動する。ジェニーの身体が美しいブリッジを描いていく。三郎太の巨体が高く浮き上がり、一瞬の不自然な滞空の後に、真っ逆さまにマットへと加速していった。
「ぐああああっ!?」
爆音と共に三郎太の腰と背中がマットに激突した。衝撃波がリング全体を震わせ、三郎太がマットに沈む。三郎太の意識は、その衝撃の瞬間、白銀の光に包まれて消失したかに見えた。
レフェリーがマットに飛び込み、その掌を力強く叩きつける。
「ワン!……ツー!……」
会場中の誰もが、太平プロレスの若きエースの終焉を確信した。ノワール・ゲートのファンは勝利の歓声を上げようと身を乗り出し、太平プロレスのファンは祈るように拳を握りしめる。だが、カウントが3を刻もうとしたその刹那。
「……う、おおおぉっ!」
三郎太の右肩が、弾かれたようにマットを離れた。カウント2.9。まさに間一髪のキックアウトだった。
「え……っ!? 今ので、決まらなかったの?」
三郎太の上に覆いかぶさっていたジェニーが、驚愕に目を見開いた。彼女のライラック・アイに、初めて戸惑いの色が混じる。前回、三郎太の意識を完全に刈り取った、彼女の必殺技であるスターダスト・スープレックス、これをかけられるその時。そのまま受けてはダメだと思った瞬間、背筋がヒリつくような危機感が緊急事態として三郎太の脳内でひとつの記憶を呼び起こさせたのだ。
「あぁ? さっきのどうやったか教えろってお前・・・・・まだ試合中だろが」
三郎太扮する「モモタロウF」にエプロンサイドで詰め寄られて胡乱な表情を浮かべるオトギプロの悪役レスラー、キャプテンフック。今は3対3の変則タッグマッチの最中であり、リング内ではリーダーのマスクド・ダングラールがエディ・ダンテスと蹴り合っている所だ。この失った片手を奇天烈な義手で補う悪役レスラーは先ほどエディ・ダンテスの強烈なフロントスープレックスを受けたにも関わらずすぐに立ち直ってロケットパンチで逆襲してみせたのだ。その後、ダングラールとスイッチした矢先のセリフである。
「真面目に見えてお前も……まぁいいや。タイミングをずらしただけだよ。投げ技ってのはただ落とすだけでもぶつけるだけでも真価を発揮しねぇ。パワーと重力とマットにぶち当たるインパクト。それらが揃わなきゃ文字通り片手落ちってわけだ」
義手をキリキリと鳴らしながら「俺には落ちても戻ってくる片手があるけどな」と反応に困るギャグをぶちかましながらフックはニヤリと笑った。
スターダスト・スープレックスでジェニーが三郎太を投げるその瞬間、三郎太は自ら全力でマットを蹴って跳んでいたのである。結果、ジェニーの力と重力、そしてインパクトの調和は確かなズレを生じていた。場合によっては技の勢いを増すだけの自滅になりかねない暴挙ではあった。しかしその結果、三郎太を完全に葬り去るはずの「必殺技」が、ただの「大技」に成り下がったのである。だから、それでも三郎太は、息も絶え絶えの状態だった。肺は酸素を求めてひきつけを起こしたように喘ぎ、脳と全身を走る衝撃の余韻が視界を二重、三重に歪ませる。
(……かろうじて凌いだ。けど、もう体が限界だ。また……僕は負けるのか? いや、本当の最後の最後まで、全力燃え尽きるまで……諦めない)
「ハァッ……ハァッ……!」
喉を鳴らすような荒い呼吸。三郎太の瞳は焦点が定まりきっていない。だが、その心の奥底で燃える炎だけは、スターダストの衝撃を耐え抜き、以前よりも激しく、青白く澄み渡っていた。
『か、返したァァ! 宮川三郎太、必殺のスターダスト・スープレックスでもまだ沈まない!! 前回の対抗戦とはわけが違いますワ! 恐るべき、恐るべきタフネス!』
影山は驚愕に目を丸くしながら興奮する。一方、その隣でエディ・ダンテスは深く息を吐き、静かに、しかし確かな敬意を込めて呟く。
『見事な気力だ。……しかし、もはや立ち上がる力もなさそうだ。耐えたはいいが、ここからもう一撃繰り出せるかどうか。三郎太は今、本能だけでリングに繋ぎ止められている状態だぞ』
力なくマットに伏したまま荒い息をつくしかない三郎太を見つめながらエディは唸った。そして、リング上の絶望的な光景を、影山が焦燥に駆られた声で拾い上げる。
『あ~っと、ジェニー・葛葉がよろめきながら起き上がり、宮川三郎太を無理やり引き起こしていきます! もう一撃スターダストでトドメでしょうか!? 宮川三郎太、反撃もできずに捕まってしまった!』
ジェニーもまた、無傷ではない。ロータリーデスロックによる膝のダメージ、そしてアグラツイストで攻められた腰の違和感が、彼女の神速の動きを鈍らせている。しかし、彼女は自らの必殺技を返された驚きを、即座に彼女特有の狂気的な悦びへと変換していた。そして彼女の子供のような無邪気さは、ある意味で悪意よりも残酷な思いつきをもたらす。
「……そうだ、いい事思いついた! これなら……決まるよね!」
ジェニーはぐったりとした三郎太の正面に回り込み、その脇の下に自らの頭を突っ込むと、両手で腰をがっちりと抱え込んだ。それは、皮肉な光景だった。かつて三郎太が絶対の自信を持ち、そしてジェニーに破られたことでアイデンティティを喪失しかけた技――ノーザンライトスープレックスの構え。ジェニーは三郎太の誇りそのものであった技で、彼に引導を渡そうというのだ。
「……ぐっ!」
だが、ジェニーが三郎太の体を後方へ投げようと、ブリッジの体勢に入ろうとしたその瞬間。三郎太の身体が、これまでの脱力状態から一転して鋼のように硬直した。彼は技の仕掛けの体勢を逆に利用し、ジェニーを捕まえたのだ。
三郎太の左腕が、ジェニーの首を死神の鎌のように捉える。左脇で彼女の首を強固にロックし、同時に彼女の左肩を腕で巻き込んで極め上げる。フロントネックロックとショルダーロックの複合状態。
「えっ、あ――かふ……ッ!?」
予想外の事態にジェニーが息を詰まらせた。頚動脈を正確に圧迫し、逃げ場を塞ぐ冷徹な締め。不確かな視界の中で、三郎太の脳裏を走馬灯のように記憶が駆け巡る。それは、失踪した兄貴分、モモタロウの背中を追いかけた日々だった。
憧れのままに真似をしたデビュー直後の道場での練習、オトギプロレスのリングで「偽モモタロウ」を演じ、その真髄を掴もうと、夜を徹して打ち込んだモモ・スペシャルの数々。ダイビングピーチボンバー、アグラツイスト、ロータリーデスロック……それらは形になった。しかし、その先にあった「その3」クロスライダー・スープレックスや、伝説とされる「その5」は、当時の三郎太には到底手の届かない、絶壁の頂にある神域の技だった。
(あの時は……無理だと結論付けた。でも、あの試行錯誤は無駄じゃなかったんだ)
技そのものを再現することは叶わなかった。だが、その過程で、三郎太の肉体には「無理な角度から強引に投げ切るための足腰」と、「相手の重心を完全に制御する体幹」が、地層のように積み重なっていた。バラバラだった記憶の欠片。修練の記憶、敗北の痛み、そして今の自分だけが持つ筋肉の躍動。それらすべてが、三郎太の脳と神経と全身の筋肉をつなぐ経路で、稲妻のような激しいスパークを起こした。
新しい技の回路が、今、開通する。
三郎太は変形フロントネックロックで頸動脈を押さえ、片腕を極めたまま、さらにジェニーの身体を引き寄せ、自らの重心を爆発的に加速させた。それはネックチャンスリー・ドロップの形でありながら、後方へ投げる速度、角度、そして落下の衝撃が、既存のどの技とも異なっていた。
「……力尽きる前、ギリギリだけど…………一筋の光、掴んだぞ……ッ!」
三郎太の全身から、凄まじい熱量が放射される。電光石火の速度で、三郎太は自らの身体を後方へと反転させた。ジェニーは逃れる術も、受け身を取る余裕すら与えられないまま、三郎太の加速する質量とともにキャンバスへと引きずり込まれる。
「――――ッ!?」
声にならない悲鳴が、ジェニーの喉から漏れる。三郎太が自らの苦悩と兄貴分の残影、そして自らの個性を融合させて生み出した、完全オリジナルの必殺の一撃。それはノーザンライトスープレックスを切り札とした男によって編み出された「ノーザンライトスープレックス殺し」の必殺技だった。二人の肉体は、文字通りリングに突き刺さるような鋭い軌道を描き、轟音とともにマットを叩いた。
リングという堅牢な構造物が、かつてないほどの悲鳴を上げた。轟音。それは単なる肉体とキャンバスの激突音ではなく、宮川三郎太という一人のプロレスラーが、自身の限界という分厚い壁を打ち破った、魂の破裂音であった。正式な名称も定かでない新技──その未知なる軌道と、三郎太の全身全霊を乗せた無慈悲な加速は、あらゆる技を看破し凌駕してきた天才・ジェニー・葛葉の超人的な反射神経すらも完全に置き去りにしていた。
「……が……は……」
受け身をとるというプロレスラーとしての根源的な自己防衛本能すら作動させてもらえなかったジェニーは、腰と背中からキャンバスという絶望の海へと真っ逆さまに沈み込んだ。いつも弾むような声でリングを支配していた可憐な少女の唇から、生命維持のための微弱な呼気だけが漏れ出る。首を絞められたまま叩きつけられた事で酸素不足の脳をてきめんに揺らされた強烈な脳震盪。視界は一瞬で白濁し、彼女の意識は深い泥の底へと急速に沈んでいく。指先一つ、瞬き一つすら、もはや彼女の意志では動かすことができなかった。
対する三郎太もまた、完全な限界を超越しており、生命力の残滓だけで動いていた。技を振り抜いた直後、彼の肉体は千切れるような激痛に苛まれていた。直前に受けた必殺のスターダスト・スープレックスの深刻なダメージは、確実に彼の五感を奪い去ろうとしている。だが、三郎太は本能だけでジェニーの首と腕を抱え込んだまま、自らの身体を硬直させてホールドする。絶対に、離さない。意識が深い闇へと溶け出していく中で、三郎太の太い腕は、まるで石像のようにジェニーの身体を捕らえたまま固まった。それが、彼に残された最後の「力」のすべてだった。
レフェリーが、驚愕しつつも職務に従って身を躍らせる。
「ワン!」
乾いた掌の音が、水を打ったように静まり返った会場に響く。
「ツーッ!」
二つ目。観客たちは、呼吸をすることすら忘れていた。あの、無敵とも思えた光の申し子が、大の字になって横たわり、下敷きになっている。誰もがその光景に金縛りにあっていた。そして。
「……スリーッ!!」
三回目。その音は、世界を切り裂く合図だった。試合終了のゴングが、狂ったように打ち鳴らされる。次の瞬間、アリーナの天井を吹き飛ばさんばかりの大歓声が、爆発した。それは単なる歓喜ではない。驚愕、熱狂、そして極限の死闘を見届けた者たちの魂の叫びが混然一体となった、物理的な衝撃波であった。
『ア、アラ……カウント3!? き、決まった! 決まりましたァァッ! 宮川三郎太の起死回生の一発で、まさかまさかのジェニー・葛葉が撃沈!? 誰も予想できなかった大逆転劇! エディさん、あの技は……!?』
実況席の影山は、ヘッドホンを押さえながら立ち上がり、マイクが割れるほどの声量で絶叫した。その隣で、放送席のエディ・ダンテスは腕組みをしたまま、しかしその双眸には明らかな驚嘆と賞賛の光を宿してリングを見つめていた。
『変形フロントネックチャンスリー・ドロップ……いやスープレックスとでも言うべきか? これまでの三郎太の技の引き出しにはないものだな。咄嗟に出したか? ……いや、違う。腰はしっかり入っていたし、下半身から上半身への力の伝導も完璧だった。あれは、日々の地道な鍛錬と、幾度もの試行錯誤が肉体に染み付いていなければ絶対に放てない一撃だ。余裕こそ見せていたが、ジェニーの蓄積ダメージも軽くはなかった。受け身を取り損ねた無防備な状態であの威力をまともに食らったなら、決まってしまうのも必然と言えるだけの説得力があった』
一言一言を噛み締めるように分析するその声にはプロとしての深い感銘が混じっている。対照的に、影山は爆発するアリーナの光景に声を震わせた。
『なんということでしょう……。逆転勝利! 太平プロレス側が大将戦で貴重な3勝目を得て、見事、第二次団体対抗戦を制しました! 太平プロレスファンサイドの観客席の興奮は、まさに総立ちの大絶頂ですワ! 涙を流して抱き合うファンの姿も見えます! しかし、ノワール・ゲートファンサイドの観客席も、敗れたとはいえ、凄まじい激戦を繰り広げたジェニー・葛葉に惜しみないエールと拍手を送っております!』
勝者への喝采と敗者への敬意が入り混じる混沌とした感動。地鳴りのような拍手と歓声が、アリーナの空気を物理的に震わせ続けている。その光景を前にエディもただ頷く他ない。
『うん。どちらも、己の全てを出し切った良い闘いぶりだった』
リング上では、セコンドに抱え起こされた三郎太が、朦朧とした意識の中で自らの勝利を噛み締めていた。その一方で、ジェニーは「ノワール・ゲート」のスタッフたちによって、慌ただしく担架でバックステージへと運ばれていった。
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暫し後、熱狂と喧騒から遠く離れた、ノワール・ゲート側の控室。そこは、リング上の熱気とは無縁の、冷ややかな静寂に包まれていた。消毒液とコールドスプレーの匂いが微かに漂う室内で、簡易ベッドの上に一人の少女が横たわっていた。
「……」
焦点が定まらない視界の先には、無機質なコンクリートの天井があった。
「ドクターの診察では、どこも異常はないそうだ。良かったな」
低い声が室内に響く。ベッドの脇のパイプ椅子に浅く腰掛けていたのは、ジャージ姿に不釣り合いな黒いサングラスをかけた男、神宮寺だった。彼は、中堅戦で御子柴に味わわされた屈辱的な敗北――倫理コードギリギリの責め苦により尊厳を根本から砕かれた精神的ダメージから、視線を避けるためサングラスをつけていた。
「……あれ」
ジェニーは、自分の身体の感覚を確かめるように、ゆっくりと指先を動かした。首の裏には重い鉛のような鈍痛がこびりつき、全身の筋肉が軋むような悲鳴を上げている。彼女は瞬きを繰り返し、記憶の糸を手繰り寄せた。最後に見たのは、強烈な照明の光と、自分を抱え込んで絶対に離そうとしなかった三郎太の、泥臭くも美しい鬼気迫る顔。
「もしかして、ボク負けたの?」
あまりにも無邪気な問いかけだった。そこに、天才としてのプライドを傷つけられたことに対する憤りや、敗北の恐怖、絶望の色は微塵も含まれていない。神宮寺は、サングラスの奥でわずかに眉をひそめた。
「……ああ、残念だがお前のピンフォール負けだ。レフェリーがスリーカウントを叩いた。だが、その様子だと実質KO負けと言ってもいいかもしれんがな」
神宮寺は自嘲気味に肩をすくめた。
「……まぁ、気にするな。門脇取締役はお前の敗北に相当お冠で、控室のゴミ箱を蹴り飛ばしていたがね。だが、長期的に見れば興行としての熱狂は生み出した。これでも十分な……」
神宮寺が大人としての慰めの言葉を紡ぎ終わる前に、異変が起きた。
「……ジェニー?」
ベッドの上に横たわったままのジェニーの肩が、小刻みに震え始めたのだ。すすり泣きではない。それは、必死に押し殺そうとしても内側から溢れ出てしまう、純粋な歓喜の震えだった。
「そっかぁ……ふふふ、三郎太って、ボクに勝っちゃうんだ……!」
ジェニーは、両手で自分の顔を覆い、指の隙間から爛々と輝くライラックの瞳を覗かせた。敗北の屈辱。それは通常のレスラーであれば、心をへし折り、涙を流させるものだ。しかし、この規格外の天才少女にとっては違った。自分を完全に上回る力が存在すること、自分を本気で壊し、凌駕し、このリングという遊技場に真っ向から叩きつけてくれる存在がいること。その事実が、彼女の奥底に眠っていた異常なまでの独占欲と闘争心を、これまでになく激しく燃え上がらせていた。
神宮寺は、その底知れない狂気を孕んだ笑顔を見て、静かに、そして深く嘆息した。
「……はぁ。三郎太クンは好かんが、その境遇に同情は禁じ得ないな。お前のような底なしの化け物に、本気で執着されるとは。厄介なことだ」
神宮寺の呟きなど、もはやジェニーの耳には届いていなかった。彼女の脳内を占めているのは、激痛を与えてくれた三郎太の確かな熱量と、彼が放ったあの圧倒的な一撃の快感だけだ。
「あはは、楽しいなぁ。ほんっとうに楽しいなぁ!」
ジェニーはベッドから勢いよく身を起こした。少し上気した顔で、澄んだ薄紫色の瞳を熱っぽく潤わせ、虚空の向こうにいる誰かに語りかけるように囁く。
「また遊ぼうね、三郎太。ぜったい、ぜったいに次は、ボクが勝つからね……! ふふ、ふふふふふっ!」
誰もいない空間へ向けられたその言葉は、あまりに純粋で、それゆえにどこか湿度を帯びて、敗者の控室の静寂の中に甘く溶けていった。