「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第25試合(オトギプロレスリングお祭り興行):エキシビジョンタッグマッチ「エディ・ダンテス&ジェームス美樹VSガータ御子柴&赤ずきん」 後編

 荒い呼吸を繰り返す美樹に対し、赤ずきんの攻撃はなおも止まらない。

「許してください……倒れてくださいぃぃっ!」

 悲鳴のような叫びと共に、赤ずきんは倒れ伏す美樹の腹部めがけて、全体重を乗せたニードロップを落とす。

「あぐぅっ!!」

 内臓を直接押し潰されるような衝撃に、美樹の体が跳ね、再びマットに叩きつけられる。プロレスの「洗礼」を浴び続ける社長令嬢の姿に、観客席からは悲鳴に近いどよめきが上がった。赤ずきんは素早く自軍のコーナーへと戻り、待ち構えていたガータ御子柴とタッチを交わす。

「よくやったニャ、赤ずきん。あとはオレがたっぷり可愛がってやるぜ」

 ニヤリと口角を吊り上げた御子柴が、俊敏な豹のような足取りで美樹の元へ駆ける。彼女は朦朧とする美樹の髪を掴んで無理やり引き起こすと、そのままコーナーへと連行した。

「へっへ~、リング上じゃお初だな、美樹ちゃん。オレがメキシコ行ってる間にデビューしたんだって? せっかくだしプロレスの厳しさを教えてやるニャ……!」

「は、離して……!」

 必死に抗おうとする美樹だが、御子柴の拘束は解けない。御子柴は美樹の体をコーナー上に腰かけさせ、自らもコーナーを登ってロープに足をかけて立つ。

「そう言うなよ、今のオレの必殺技だニャ。しっかり味わってくれよ、そーら、アビスキャットドライバー!」

 御子柴が叫ぶ。高低差を利用した雪崩式の変形スパインバスターの体勢。美樹は背中から真っ逆さまにマットへ向かい、二人分の体重がかかった勢いで垂直に叩き落とされた。

「がっ……は……」

 マットを震わせる鈍い衝撃。美樹の意識は白濁し、体から力が完全に抜けた。KOされていないのが不思議なほどの惨状である。御子柴は勝ち誇ったように笑い、あえてフォールには行かず、死体同然の美樹を自軍コーナーから遠ざけるように放り出した。

 美樹は、本能だけで動いていた。視界が真っ赤に染まり、耳鳴りが響く中、彼女は泥を這うようにして自陣コーナーを目指す。指先がマットを掻き、ミリ単位で距離を縮める。そこには、ようやく毒霧の刺激から回復し、タオルで顔を拭い終えた銀髪の絶対王者が待ち構えていた。

「エ……ディ……さん……! あぁ……ッ……!」

 震える指先が、のばされたエディの手を掴む。それが、この試合で最も重い「タッチ」となった。エディは美樹の腕を力強く掴み、彼女をリング外へと逃がした。そのまま崩れ落ち、場外へずるずると滑り落ちて戦線離脱する美樹。その献身的な姿に、エディの瞳には冷たく鋭い怒りの炎が宿った。

「よく繋いだ、美樹! ……さて、随分と、楽しそうにやってくれたな?」

 エディが悠然とロープの間を跨ぎ、リング内へと歩み入る。その足音一つ一つが、体育館の熱気を押し黙らせるような重圧を放っていた。戦慄に顔を引きつらせる御子柴と赤ずきん。エディは、二人の連携攻撃によってボロボロにされたパートナーを思い、プロとして「盛り上げ方を心得ているな」と内心で評価はしていた。しかし、それはそれとして。

(――これを企図してやりおおせておいて、タダで済むとは思っていないだろうな?)

 怒りを滲ませながらも、不敵な笑みを湛えた王者の迫力に、場内は爆発的な歓声に包まれた。

 

 実況席のフック船長が、ここぞとばかりに義手を振り回して叫ぶ。

『あーっと! 太平プロの社長令嬢、ジェームス美樹が無残にボコられ、なんとかタッチするもそのまま場外転落! いや容赦ねえな二人とも!? 経営側への不満が露わになったか、はたまたボーナスが厳しい昨今への現場の嘆きか!?』

 会場のあちこちから、フックの実況に呼応する声が飛ぶ。

『さぁ、悠然とリングインしたエディ・ダンテス。だいぶ怒ってるようだが、孤立無援! ベルトホルダーたぁ言え、身長150のちんまい女1人に、血に飢えたハイエナ2匹だ! 数が上なら勝ち目はあるめぇ、やったか!? ピンチだ社長! 頑張れ社長、給料上げてやれ社長!』

「ハイエナじゃなくて地獄猫とレッドキャップなんだよなぁ……」「やったか!? でフラグたてんのやめろ船長!?」「フック、お前どっちの味方だよ!」「お前実は自分も給料あげてもらいたいだけだな!?」「ギャハハ! たまんねえなこの臨場感!」

 観客が熱狂する中、リング上では「現場組」が動いた。赤ずきんがレフェリーの咎めるような目をあえて無視して、不規則にリングイン。御子柴と視線を交わし、一気に勝負を決めにかかる。

「させるかニャ!」

「い、行きますよ!」

 二人は左右からエディを挟み込むように走り出した。前後から首筋を刈り取る、必殺のクロス・クローズライン。数的優位を活かした卑劣にして確実な連携。誰もがエディがさばききれずにどちらかの腕に首が刈られるシーンを想像した、その刹那。

「甘いッ!」

 エディの体が、独楽のように鋭く回転しながら跳躍した。それは単なる回避ではない。回転の勢いをそのまま破壊力へと転換し、左右から迫る二人を同時に迎撃する、エディの真骨頂。

 ――スノーストームキック! 銀色の旋風がリング上に吹き荒れた。怒りを乗せた超高速の回し蹴りが、御子柴の顎と、赤ずきんの側頭部をほぼ同時に捉える。

「ニ゛ャッ!?」

「キャッ!?」

 二人掛かりのツープラトンを、エディはたった一撃で、文字通り「蹴り散らした」。御子柴と赤ずきんは、まるで見えない壁に衝突したかのように、左右へと無様に吹き飛んでいった。

 エディ・ダンテスは着地と同時に、一応試合権当事者であるガータ御子柴へと狙いを定めた。エディは倒れ伏した御子柴の黒髪を乱暴に掴み上げると、力任せに引きずり起こそうとする。絶対王者の怒りを体現するかのような、容赦のない「首狩り」の予感。しかし、その背後から、よろめきながらも立ち上がった影が一つ。

「……はぁ、はぁ……うらぁッ!」

 赤ずきんだった。彼女は必死の形相で地を蹴る。放たれたのは、彼女の必殺技であるクリムゾンニールキック。直前でその気配を察知したエディが、御子柴の手を離して振り返る。しかし、赤ずきんの執念が、王者の反応をわずかに上回った。そこから迎撃に移る事を許さず、赤ずきんの鋭い踵がエディの肩口から胸元にかけてクリーンヒットした。肉を断つような鋭い衝撃音が響く。さしものエディも、その威力に数歩後退を余儀なくされた。

「ほう?」

 衝撃により、エディの小さな体が数歩後退する。観客席からは「おおおっ!」という期待混じりのどよめきが沸き起こった。ついに王者が揺らいだ。赤ずきんの必殺の一撃が、確かにその胸板を捉えたのだ。しかし、エディは倒れない。彼女は後退した位置でピタリと足を止めると、打たれて赤くなった胸元を手の平で無造作に払い、不敵な、そしてどこか楽しげな笑みを深めた。

「……いいね、効いたぞ!」

「ですよねー……決められませんよねー……」

 赤ずきんは、自分の最大火力を叩き込んでもなお平然と立っている王者の化け物じみた頑強さに、思わず涙目で毒づいた。それでも、赤ずきんの手は止まらなかった。ここで攻勢を緩めれば、次に来るのは死だと分かっていたからだ。彼女は、エディが体勢を完全に立て直すよりも早く、再び距離を詰めた。

「たあぁっ!」

 咄嗟に繰り出されたのは、エディの細い首元を狙った鋭い掌底。しかし、エディの放つ威圧感に気圧されたか、踏み込みがわずかに甘い。掌はエディの顎をわずかに跳ね上げるにとどまり、決定打には至らなかった。エディの右腕が、反撃のために大きくしなる。赤ずきんは本能的な恐怖でその腕を潜り抜けると、半ばパニックに近い状態で腕をがむしゃらに振り回した。

「これでもかっ、これでもかっ!?」

 繰り出されたのは、なりふり構わぬモンゴリアンチョップの連打。両手で挟み込むように、エディの首筋や肩口へ何度も何度もチョップを叩き込んでいく。プロレスラーとしての技術よりも、生き残ろうとする生物としての執念が勝った攻撃。そのがむしゃらな連打に、さしものエディもバランスを崩し、マットに片膝をついた。

「……ふん」

 心なしか笑みを浮かべているようにも見えるエディの鼻から、短く鋭い呼気が漏れた。その瞬間、赤ずきんの視界が、巨大な「影」に覆われた。

「未熟!」

 エディの右手が、電光石火の速さで赤ずきんの顔面を正面から鷲掴みにした。アイアンクローである。まるで万力。エディの小さな指の一本一本が、岩をも砕くような力で赤ずきんの頭蓋を締め上げる。

「ウギャー!? み、御子柴さーん!?」

 赤ずきんの絶叫が館内に響き渡る。エディは冷徹な眼差しを崩さぬまま、指先にさらに力を込めると、そのまま赤ずきんの体を軽々と持ち上げ、ゴミを捨てるかのように無慈悲にマットへ投げ捨てた。ドサリと崩れ落ち、マットを無様に転がる赤ずきん。彼女はそのまま勢い余ってエプロン際まで転がっていった。そこでレフェリーが「不規則なリングインは認めん!」と厳しく指差して注意を飛ばす。赤ずきんにはもう、反論する気力も体力も残っていなかった。彼女は顔を抑えて呻きながら、這うようにして場外へと転落し、戦線から脱落していった。

 一方、リング中央、膝をついたままのエディの背後。そこには、いつの間にか立ち上がっていたガータ御子柴が、獲物を狙う地獄猫の目で潜んでいた。

「……ニヤけてるんじゃないニャ、この化け物社長!」

 御子柴が吠える。彼女はエディの背中に飛びつくと、エディの四肢を複雑に絡め取っていく。繰り出されたのは、かつて太平プロレスの英雄、モモタロウが用いた得意技の一つにして、宮川三郎太も最近使い始めた拷問級複合間接技――アグラツイスト。

「ぐ……あぁぁっ……!!」

 ついに、エディ・ダンテスの口から、明らかな苦悶の悲鳴が漏れた。あぐらをかいたような形にロックされた両脚が悲鳴を上げるように、小柄な体をさらに無理な角度で絞め上げられ、王者の顔が苦悶に歪む。御子柴は必死だった。その腕に全神経を集中させ、エディの背骨がきしむほどに力を込める。

「こ、これで締め落としてやるニャ!さぁ、ギブ!? ギブアップしろぉ!」

 御子柴は全身の筋肉をきしませ、血管が浮き出るほどに全力を込める。彼女は知っていた。この技こそが、今の自分にできる最高の「レスリング」であることを。

「ああぁっ……!! くぅっ、モモタロウの技か……ッ!? ……ノ、ノー!」

 エディは苦痛に耐えながらも、その技のルーツに気づき、唇を噛み締めた。行方知れずとなったあの明るく愉快な覆面のトップレスラーの技。それを今、目の前の悪役が「誰かのために」使っている。その事実が、エディの闘志にさらなる火をつけた。御子柴は、エディの凄まじい抵抗を肌で感じながら、ふと、視界の端に映る観客席を見た。

 そこには、いまだ魂の抜けたような顔ながら、なにかを推しはかろうとするような目で自分たちの戦いを見つめている雫の姿がある。

(あーあ、多分これでも仕留めらんないんだろーなー。でも見てな、雫……)

 御子柴は心の中で自嘲気味に呟く。自分は悪役だ。ヒーローのように華麗に勝つことなんて、最初から望んじゃいない。

(……泥水をすすっても、決して魂までは汚れない、悪の生き様ってのがあるんだぜ)

 御子柴の瞳に、執念とプライドが混じり合った、鈍い、しかし決して消えない光が宿る。負けると分かっていても、最強の牙に噛み付く。それが、彼女が迷える後輩に贈る、言葉なきエールであった。

 

 ガータ御子柴が執念で絡みついた「アグラツイスト」が、エディ・ダンテスのしなやかな四肢と背筋をギリギリと締め上げ、責め立てる。かつての太平プロレスのレジェンド、モモタロウの編み出したその技は、本来であれば並のレスラーならあまりの激痛に即座にギブアップを奪えるほどの技だ。リング中央で、悪役(ヒール)としての矜持を懸けた御子柴の腕に力がこもる。しかし、絶対王者の壁は、その執念すらも嘲笑うかのように厚かった。

「良い技だ……が、仕掛ける君の練度が足りないぞっ! ぬ……っ、ぬおおおおぉぉぉっ!!」

 彼女は咆哮と共に、絡みついていた御子柴の腕を、強引に、力ずくで引き剥がし始めた。ミシミシと肉の擦れる音が響き、御子柴の表情が驚愕に染まる。

「ゲェー!? ……力づくの超人ッ!?」

 信じられない光景だった。技の構造を無視し、純粋な筋力と闘争心だけで極めを無効化していく。エディはそのまま御子柴の拘束をこじ開けると、逆に御子柴を抱えてキャンバスへ向かって力任せに投げ捨てた。

「……それなりに修練して身に着けてはいるようだが、甘いぞっ!技に本物の『魂』がこもっていなければ、私を沈めることはできない!」

 エディの言葉は、技術への評価であると同時に、戦う者としての厳しい断罪でもあった。投げ捨てられた御子柴が「あがっ!?」と短い悲鳴を上げてマットに転がる。エディが容赦のない追撃に移ろうとしたその瞬間、場外へ脱落したはずの赤ずきんが、再びリングへと滑り込んできた。

「ま、まだ終わってません……!」

 赤ずきんは捨て身のタックルを敢行した。低く鋭い踏み込みから、エディの腹部へ肩を叩き込む。御子柴を救いたい、その一心での特攻だった。しかし、エディは一歩も引かない。突進してきた赤ずきんを、まるで正面から受け止める大きな壁のように、その場に踏みとどまってがっしりと受け止めてみせた。

「……ッ!」

 赤ずきんの顔が引きつる。全力のタックルが、微動だにしない。それを見たレフェリーが、好き勝手なリングインを繰り返す赤ずきんに対し、毅然と反則を告げようと踏み出し、反則カウントのために手を振り上げようとした。だが、その動きを制したのは、エディの鋭い視線だった。

(構わん、続けさせろ)

 言葉はなくとも、王者の眼差しがそう語っていた。レフェリーはプロとしてリング上の空気を瞬時に察知し、注意の手を止めて静かに引き下がった。対戦相手であるエディが許容している以上、この戦いを、この熱を、ルールという枠だけで止めるべきではないと判断したのだ。

 エディは自分に抱きついたままの赤ずきんの腰に手を回すと、その小さな体を軽々と頭上高くへ掲げた。

「食らえ!」

 放たれたのは、完璧なフォームのブレーンバスター。エディは赤ずきんを逆さまに抱え上げたまま、あえて滞空時間を長く取った。赤ずきんの足が宙で虚しく泳ぎ、会場全体が息を呑む。そして、一気にマットへ叩き落とした。

「あ、が……はぁっ……」

 背中から肺の空気をすべて吐き出させられ、赤ずきんはリング中央で大の字にダウンする。エディの瞳に、勝利への冷徹な光が宿った。彼女は迷わずコーナーへと向かい、軽やかな足取りで最上段のポストへと登っていく。その華奢なシルエットが会場の照明に照らされ、後光を背負った女神のように輝いた。そのままコーナートップで両腕を広げ、観客に向けてアピールする。その瞬間、会場のボルテージは最高潮に達し、割れんばかりの声援が降り注いだ。

「さぁ、舞うぞーっ!」

 エディの体が宙を舞った。美しい弧を描き、重力を無視したかのような優雅な旋回。必殺のD式ムーンサルトプレスが、無防備な赤ずきんの腹部へと直撃する。

「げふぉっ……!!」

 全体重を乗せた圧殺。赤ずきんの体はくの字に折れ、その衝撃で意識が遠のいていく。もはや動く気力すら残っていない赤ずきんは、マットに沈んだまま「きゅぅ……」と力なく声を漏らした。

「……あ、赤ずきん……っ!」

 それを見た御子柴が、苦渋の表情で叫ぶ。パートナーが、自分の時間を稼ぐために身を挺して散っていった。エディはゆっくりと立ち上がり、ダウンしている赤ずきんを一瞥もせず、残された御子柴へと向き直った。その姿には、一切の隙がない。

「さあ、次は君だ。その真髄、見せてみろ」

 エディの挑発。それは、斃れゆく戦士に対する敬意であり、同時に、すべてを出し切れという最後通牒でもあった。御子柴は、震える手でマットを押し、ボロボロになった体を引きずるようにして立ち上がった。

(綺麗事じゃ勝てねえ。実力差があったら、もっと勝てねえ。……でもなぁ、雫。プライドを捨てた悪役には、まだやれることが残ってんだよ!)

 御子柴の瞳の奥で、暗く、それでいて激しいヒールの炎が再燃した。正々堂々とぶつかって勝てないのなら、泥を舐めてでも、毒を吐いてでも、この絶対王者の首を獲りにいく。絶望的な戦力差。孤立無援の状況。だが、ガータ御子柴の心は折れてはいなかった。いや、むしろ「正統派のプロレス」では絶対に勝てないという事実が、彼女の中に眠る生粋の悪役(ヒール)としての本能を極限まで研ぎ澄まさせていた。

 エディ・ダンテスが、最後の仕上げとばかりにゆっくりと距離を詰めてくる。その絶対的な王者の威圧感を前にして、御子柴は口元を歪め、コスチュームの飾りに紛れて隠されていた「切り札」へと指を滑らせた。

「届かない正攻法なんて、クソ食らえだニャァァァっ!!」

 血を吐くような絶叫と共に、御子柴の右腕が鋭く振り抜かれた。照明を反射し、銀色の凶光を放ちながら宙を舞ったのは、冷たい金属の塊。凶器――スチール製のチェーンである。

「ほう、まだそんな策を! だが……」

 エディは冷静だった。悪役が窮地に陥って凶器を持ち出すのは定石。その程度の足掻きで、この絶対王者が動揺するはずもない。エディは迫り来るチェーンを容易く躱そうと身を翻した。しかし。

「伸びろガータチェーン!」

「普通のチェーンが伸びるかっ!? って、遠投でこの技術は……ッ!? ぐ……っ!?」

 エディの表情に、初めて驚愕の色が浮かんだ。御子柴の放ったチェーンは、ただ投げつけられたわけではなかった。手首の絶妙なスナップと、「悪役」として磨き上げてきた凶器を扱う技術。放物線を描いた鎖の一端は、まるで意志を持つ大蛇のように空中で旋回し、回避しようとしたエディの細い首に、正確無比に巻き付いたのだ。金属が肌に食い込む鈍い音が響く。それを見たレフェリーが血相を変えて叫ぶ。

「反則は許さんと言ったぞ! ……1!」

 即座に、冷徹な反則カウント(ファイブカウント)が数えられ始める。反則負けになるまでの猶予は、わずか5秒。だが、御子柴にとってその5秒は、王者の首を刈り取り流れをつかむ為の貴重な猶予だった。彼女は首にチェーンが巻き付いて身動きが取れなくなったエディの背後へ、獣のような身のこなしで瞬時に回り込んだ。そのまま、エディの小さな背中の中心に、自らの鋭い膝を深々と突き立てる。そして、首に絡まったチェーンの両端を両手に巻き付け、己の全体重を真後ろへと一気に倒し込んだ。全体重と背筋力を総動員した、極悪非道のチェーン・チョークである。

「オーラオラァ!正義のヒーローの顔が歪むとこをお客様に見てもらうニャア!」

 御子柴の口から、ヒールとしての凄惨な笑い声が迸る。金属の鎖がエディの気管を情け容赦なく圧迫し、純白の肌に赤黒い血滲みを作る。

「か、はっ……、ぐぅぅ……っ!!」

 さしものエディも、この頸動脈と気管を同時に潰しにかかる凶悪な絞め技には、苦悶の声を漏らさざるを得なかった。酸素を断たれ、王者の顔が苦痛に歪む。その表情は、御子柴が観客席の雫に見せつけたかった「どんなに格好悪くても、泥をすすってでも最強に一矢報いる悪役の姿」そのものだった。

「……2!」

 レフェリーが、目の前で手を振り下ろしながらカウントを進める。

「うっせー、こっちゃ余裕の欠片もないニャ、カウントギリギリまでやったるニャ!!」

 御子柴が吠える。反則負けになろうが構わない。この最強の化け物社長に、一泡吹かせてやる。いや、あわよくばこのまま本当に絞め落としてやる。御子柴の腕の筋肉が限界まで悲鳴を上げ、鎖はさらに深くエディの首へと食い込んでいく。

「……3!」

 反則裁定まで、あと2秒。いまだ虫の息も同然ながらエプロンに這い上がった美樹がロープの間からカットのためにリングインしようとして抜けないダメージに果たせず崩れ落ちる。御子柴の目論見の成就が目前に迫ったかに見えた。しかし。

「……ふ、ふふ……。いい、いいぞ……、御子柴……。だが……っ!」

 鎖で首を絞め上げられ、顔を歪めながらも、エディ・ダンテスの唇には、戦慄の「笑み」が浮かんでいた。

「この私が、お前を反則負けになどさせてやらんから安心しろぉ……ッ!」

 カウント「4」が宣告されようとした、まさにその刹那だった。エディの両手が、自らの首を締め上げている金属の鎖を、外側からガシリと掴んだ。そして、常識では考えられない光景がリング上に展開される。

「ニャっ!?ま、マジか……!?」

 御子柴が驚愕に目を見開く。エディは、背中に御子柴の膝を突き立てられ、首をチェーンで絞め上げられているという絶対的な不利な体勢から、その鎖を「自ら前方へと力ずくで引っ張り込んだ」のだ。御子柴の全体重を乗せた拘束を、純粋な、底知れぬ圧倒的な腕力と背筋力のみで無効化する。鎖を引かれた御子柴の体は、背中へ膝をあてた体勢から強引にエディの頭上へと引きずり上げられ前傾してバランスを崩す。

「王者を、舐めるなぁぁぁっ!!」

 エディの怒号が館内を震わせる。彼女は、首に鎖が巻き付いたまま、自らを絞め殺そうとしていた御子柴の体を完璧な形で逆さまに抱え上げた。それは、エディ・ダンテスが誇る最強にして必殺のフィニッシュ・ホールドへの移行。もはや御子柴に逃げる術はない。空中で完全に固定された御子柴の体が、次の瞬間、凄まじい速度でキャンバスへと真っ逆さまに突き刺される。

「ぎゃうッ!?」

 

 ――D式パイルドライバー!!

 

 爆発のような衝撃音が体育館に響き渡る。リングのキャンバスが大きく波打ち、御子柴の脳天から頸椎にかけて、致命的な破壊力が突き抜けた。彼女の体は一度大きく跳ね上がり、そのままずるずると力なく崩れ落ちた。

 静寂。そして、地鳴りのような大歓声。エディは、さすがに激しい息を吐きながら立ち上がった。彼女は自らの首に食い込んでいたチェーンを荒々しくむしり取ると、それをリング外へと投げ捨てる。そして、ピクリとも動かなくなった御子柴の上に、完全に制圧する形で覆いかぶさった。体固めである。

「ワン! ツー! ……スリー!!」

 レフェリーの右手が、三度マットを強く叩き、甲高いゴングの音が会場に鳴り響いた。試合終了。エディ・ダンテスの、圧倒的かつ劇的なピンフォール勝ちである。勝者として「太平プロ&オトギ経営側タッグ」の名がコールされ、観客たちは王者の底知れぬ強さと、最後まで牙を剥き続けた悪役の意地に惜しみない拍手を送っていた。

 

 天井の眩しい照明が、チカチカと点滅しているように見える。キャンバスに大の字で倒れ伏したまま、御子柴の意識は急速に白濁の海へと沈んでいこうとしていた。全身の骨が軋み、指先一つ動かすことすらできない。

(……ふ、ふふ……。勝てるかこんなもん……)

 御子柴は、朦朧とする意識の中で、思わず自嘲の笑みをこぼした。圧倒的だ。本当に、手も足も出なかった。正々堂々と挑んでも、卑劣な罠を張っても、すべてを力と技と魂でねじ伏せてくる。これが、真のトップレスラー。自分のような三流のヒールが、どれだけ泥水を進っても届かない星の輝き。しかし、不思議と後悔はなかった。御子柴は、重たくなりゆくまぶたを必死に持ち上げ、視界の端で観客席をとらえる。

 

 そこに、いた。

立ち上がり、両手を握り締め、信じられないものを見たというように目を見開いてリングを見つめている、ライジング雫の姿が。

 

 御子柴の口角が、ほんのわずかに、しかし確かに釣り上がった。ニヤリと、ヒールとしての不敵な笑みを作って、後輩へ視線を投げる。

(見たかよ、雫。敗北はすべての終わりじゃねえ。……大事なのは、結果が負けでも、そこで何を残すかってこと……だと……お……)

 どんなに無様でもいい。どんなに格好悪くてもいい。逃げずに、最後まで自分の役割(プロレス)を全うすること。それが、絶望の中で立ち止まってしまった後輩に、彼女が伝えたかった唯一のメッセージだった。

 歪んで闇に沈んでいく視界の中で雫の目から、大粒の涙が溢れ出すのが見えた気がした。ガータ御子柴は、満足げに息を吐き出すと、ゆっくりとその瞳を閉じた。

 

 喧騒と熱狂に包まれたリングの中心で、悪役は静かに深い眠りへと落ちていった。

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