「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスの団体ビル。社長室の重厚な扉の向こうでは、幾重にも絡み合った思惑が紫煙のように漂っていた。往年の名レスラーとして世界に名を馳せ、今は団体を牽引する代表兼半引退レスラーの松平林吾は、デスク越しに旧知の男と向き合っている。フランスのとあるプロレス団体でマネージャーを務める初老の男だ。窓外に広がる見慣れた東京の街並みとは対照的に、室内にはどこか古めかしく、それでいて刺々しい欧州マット界の空気が持ち込まれていた。
「……骨を折ってくれて感謝する。そして、すまない松平。こうして君を頼るほかなかったのだ」
憔悴した面持ちで切り出したマネージャーは、応接ソファの隅に座る一人の女性へと横目で視線を送った。女子プロレスラー「マスクド・ダングラール」。かつて同郷のエディ・ダンテスを陥れた末に復讐され、今やそのエディに心酔して日本に居着いてしまった「フランスマット界の遺産」である。マネージャーは、トレードマークのドミノマスクを外し、素顔のまま不機嫌そうに腕を組む彼女の機嫌を損ねぬよう、慎重に言葉を紡いだ。
「無論、本来は彼女が所属するオトギプロレスリングを通すべき筋の話である事は承知している。打診も既に両手では足りないほど行ってきた。だが、我々とエディの間には深い溝がある。当時、私もあの連中に加担こそしなかったが、エディの窮地を救わなかった身だ。彼女にしてみれば『今更どの面下げて』というところだろう。それは仕方がない」
男は深く息を吐き出した。
「だが、デビューして数年の若手たちに、我々の過去のツケを負わせるのは本意ではないのだ。ダングラール君に我々の声を聞き入れてもらうためには、エディが信頼を置き、かつ我々とも縁の深い君という『架け橋』が必要だった」
切実な訴えに松平は低く唸り、手元の書類からダングラールへと視線を移した。松平の悩みも深い。フランスの強豪である彼女が、エディの立ち上げた新興団体「オトギプロレスリング」の自由奔放な空気に当てられ、母国への帰還を頑なに拒んでいることは、本国のマット界にとって致命的な痛手となっていたのだ。当時彼女らに手助けした以上、彼もまたそこに無関係とは言い切れない。
マネージャーが改めて居住まいを正した。
「……というわけだ。恥を忍んでお願いしたい。今のフランスマット界には、若手を導く『芯』が足りない。ダングラール、君の力が必要なのだよ」
まっすぐに頭を下げる彼に対し、しばしの沈黙の後、ダングラールが鼻を鳴らした。彼女にとって、フランスの団体などとうに捨てた過去だ。しかし、エディから掛けられた言葉が胸の奥で引っかかっていた。
『私と彼らの関係は終わっている。けど、君はそうじゃないだろ。縁を切るにしても、一度くらいは義理を通しておいてもいいんじゃないか?』
突き放すようでいて、親愛の籠もったその言葉。加えて、恩義ある松平にまで頭を下げられては、無下にするわけにもいかなかった。
「……勘違いするな。私はエディの隣にいたいだけだ」
ダングラールは低く吐き捨てるように言った。その鋭い視線は、懇願するマネージャーではなく、デスクの向こうで気まずそうに、しかし安堵の表情を隠しきれない松平へと向けられている。
「一度きりだ。それ以上は一切求めないという条件なら、期間限定の指導役として行ってやらんでもない。……筋を通す意味でな」
マネージャーの顔に複雑な色が浮かんだが、最悪の事態を免れたのは事実だった。松平もまた、ようやく見えた落としどころに、ほっと密かな溜息をつく。
こうして、フランス遠征に向けた具体的な調整が始まった。スケジュールの擦り合わせ、どの団体が恩恵を受け、どの有力者が割を食うのか――プロレス界の暗部を煮詰めたような泥臭い打ち合わせが、東京の片隅でひっそりと幕を開けたのである。
一方その頃。三日間の検査入院を終えたばかりの宮川三郎太は、「TAIHEI」とダサいロゴの書かれた団体トレーナーとジャージズボン姿で団体ビル内の道場ルームへと足を踏み入れ、ようやく自分の「居場所」へと帰ってきた実感を噛み締めていた。首を回すと、まだ微かな強張りが残っているような気がする。第二次団体対抗戦の大将戦――最強の敵、ジェニーが放った必殺のスターダストスープレックス。三郎太はあの「致命の一撃」を「大打撃」に軽減するため、被弾の瞬間に自らマットを蹴って跳び、衝撃のタイミングをずらすというあまりに危険な博打を打ったのだ。結果としてKOを免れ、薄氷の勝利をもぎ取ることには成功したが、その捨て身の防御による頭部へのダメージを危惧され、団体から精密検査を命じられてしまっていた。強いられた休息は肉体を癒やしたが、彼の胸の奥にはまだ、対抗戦の余熱と仲間への懸念が燻っている。
湿った熱気とゴムマットの匂いが鼻を突く。いつもの風景に安堵しながらも、三郎太はあるべきはずの「影」が一つ欠けていることに気づいた。対抗戦の次鋒戦で敗れ、ひどく打ちのめされていた後輩、雫の姿がない。
「あ、三郎太せんぱーい! 退院おめでとう。異常なしだって? 生きてて良かったねー、まじで」
練習用リングのエプロンに腰掛け、スマホをいじっていたサチが、茶髪のサイドテールを揺らしてニヤニヤと近づいてくる。指導役のバッカス木桜を「おっちゃん」呼ばわりする怖いもの知らずの後輩だが、その毒づいた言葉の裏には親しみが滲んでいた。
「サチちゃん……。ああ、なんとか戻ったよ。それより、雫ちゃんは? 今日はオフなのかい?」
三郎太が真っ先に尋ねたのは、おなじく三郎太の後輩であり、サチの同期でもある雫のことだ。彼女の負けず嫌いな性格を考えれば、敗戦の悔しさを晴らすために誰よりも早く道場に来て励んでいておかしくないのだが。
「あー、雫? あいつなら今ここにはいないよ。御子柴さんが『今のテメエのツラは見れたもんじゃないニャ』とか言って、無理やり連れ出しちゃった。今はオトギプロの興行に、混ざりに行ってるんじゃないかな」
「オトギプロに……?」
三郎太の脳裏に、あの破天荒で賑やかな団体の光景が浮かんだ。彼自身もかつてジェニーに敗れて全てを見失いかけた時、あのお祭り興行に助けられた過去がある。偽のモモタロウを演じ、観客の笑顔に触れる中で、プロレスの純粋な楽しさを思い出したのだ。
雫を追いかけて、すぐにでも連れ戻すべきだろうか。一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、三郎太は小さく首を振り、追いかける思考を断ち切った。自分で自分の負けを認め、自分の足で立ち上がらなければ、本当の復活はない。同じ地獄を見てきたレスラーとしての、それは深い信頼の証だった。
「そうか。……彼女なら、きっと大丈夫だよね」
「何その遠い目~。相変わらずお人よしっていうか、変なとこで熱いよね、せんぱいは」
サチが可笑しそうに笑う。三郎太は苦笑しながらリングのエプロンに手をかけた。まずは鈍った感覚を取り戻さなくては。
「──貴方が太平プロレスの若手エース、宮川三郎太ですね?」
その時、道場の入り口から、凛とした、しかし隠しきれない傲慢さを孕んだ声が響いた。振り返った三郎太は目を丸くした。そこには、日本の古びた道場の空気とはおよそ不釣り合いな、異質な存在感を放つ少女が立っていたのだ。プラチナブロンドのベリーショートに、軍旗を思わせる青い紋章が刻まれたバンダナ。銀色のワンピース水着のような流線型のコスチュームに身を包んだその姿は、洗練されていながらもひどく攻撃的だ。少女は三郎太を認めると、端正な顔立ちに不敵な笑みを浮かべ、リングサイドまで歩み寄ってくる。
「げっ、あいつマジで着替えてきやがった!?」
サチが小声で嫌そうにつぶやく中、少女の鋭い視線が三郎太の身体を舐めるように走った。まるで戦地で敵の戦力を測る将官のようだ。
「島国民族など碌なものではないに決まっていますが、あのマスクド・ダングラールやエディ・ダンテスが居着いているという日本のレベルがどんなものか、興味があります! そこの少女とやるつもりでしたが、若手エースとして名の知れる貴方がいるなら貴方の方がいい。私と勝負なさい!」
「ええっ? いや、手合わせは構いませんが、貴方はどこのどちら様なんですか!?」
唐突な宣戦布告に、三郎太は立ち尽くした。入院明けの穏やかな練習再開を想定していた彼にとって、この嵐のような少女の挑戦はあまりに想定外だった。困惑する彼に対し、少女はわざとらしく咳払いをし、大仰な仕草で胸を張る。
「おっと、これは失礼しました。私はフランスマット界の若手エース、ジャンヌ・ル・ブラン! マスクド・ダングラールのフランス遠征の調整の打ち合わせに参加するため罷り越しました!」
まくしたてるような説明セリフである。堂々たる名乗りに三郎太が圧倒されかけたその時、横から冷ややかな声が飛んだ。
「嘘だよ、せんぱい」
リングの縁で事の成り行きを見ていたサチが、呆れたように鼻を鳴らす。彼女はスマホをジャージのポケットにねじ込むと、ジャンヌを指差して三郎太に現実を突きつける。
「そいつ付き添いで物見遊山にきただけで、打ち合わせにきたマネージャーさんは今ダングラールさんと一緒に社長室だよ! ただの暇つぶしだってば」
鋭い指摘に、ジャンヌの完璧な美貌が微かに引きつった。陶器のような白い肌が、気まずさで一瞬にして赤らむ。しかし、彼女は怯むどころかさらに語気を強め、見事に開き直ってみせた。
「……誇張を認めましょう! とにかく付き添いで参りました! ですが、私がフランス期待の星であることに変わりはありません!」
「何だこの空気……」
三郎太は思わず頭を掻いた。どうやら目の前の少女は、とんでもなく自信家で強引、そして少々見栄っ張りな性格らしい。だが、彼女の瞳に宿るプロレスラーとしての闘志の光だけは、紛れもない本物だった。
「と、とにかくお客さんなんですね、わかりました。なんだかよくわからないけど、僕でよければお相手させてもらいます。練習試合ということなら歓迎しますよ」
「マジ? せんぱいお人よし過ぎない?」
大きなため息をつきながら、サチが呆れ顔でリングのマットをポンポンと叩く。
「いや……まぁ、団体同士の関係とかあるだろうし。フランスから来たお客さんを無下に追い返すわけにもいかないだろ? それに、別に無理を言われてるわけでもないし、なにより……」
三郎太はトレーナーを脱ぎ捨て、分厚い胸板を露わにしてジャンヌを真っ直ぐに見据えた。
「フランスのプロレスがどんなものか、僕も興味がないわけでもないしね。サチちゃん、レフェリー頼むよ」
「ふーん。安請け合いも団体同士の関係に影響するかもとは考えないんだ……。ま、いっか。サチが損するわけじゃないし、面白いモン見れそうだし。りょうかーい、後でジュース奢ってね!」
サチは練習生から手持ち式の簡易ゴングを受け取ると、軽やかな動作でリング中央に立った。ジャンヌは満足げに頷き、優雅な動きでロープを潜って対角線上のコーナーに陣取る。銀色のリングシューズがマットを踏みしめる音が、道場内に硬く響いた。
「逃げない胆力は評価しましょう! その勇気がいつまで持つか、見物ですね」
ジャンヌの不敵な物言いに、三郎太は苦笑しながら居住まいを正した。リング中央へと歩み寄り、いつものように誠実な、淀みのない礼儀を尽くす。
「……それじゃ、よろしく頼みます」
右手を差し出す。試合前に互いの健闘を誓い合う、プロレスラーとしての正々堂々とした握手の求めだった。だが、その瞬間。ジャンヌの瞳に冷徹な光が走った。彼女は差し出された手など存在しないかのように無視し、マットを蹴ってその身を浮かせる。
「神に愛された私が、極東の島国の若手に後れをとるはずがありません!」
鮮やかに、そして鋭く、彼女の身体が宙を舞う。三郎太が手を引っ込める暇もなかった。ムチのようにしなるジャンヌの右脚が、空を切り裂いて顔面へと迫る。開始早々の虚を突いた、高潔を気取る言葉とは裏腹の狡猾な奇襲。肉と肉がぶつかる鈍い音が響き渡った。反射的にガードを固めようとした三郎太の腕を弾き飛ばし、ジャンヌのハイアングルソバットが側頭部を捉える。衝撃で三郎太の視界に火花が散った。後ずさり、なんとか踏みとどまる彼の前で、ジャンヌは着地と同時にさらなる笑みを深めていた。
三郎太は、側頭部を焼く痛みを無理やり意識の外へ追いやった。不意打ち。しかし、その痛みこそが、入院生活で微睡んでいた彼の格闘本能にとっては覿面の気付けだ。
「くっ、奇襲か……!」
低く唸るような声と共に、三郎太の脚がマットを踏み割るように沈み込む。自身の鮮やかな一撃に酔いしれていたジャンヌの表情が、一瞬で驚愕に塗り替えられた。衝撃に怯むどころか、三郎太は弾丸のような踏み込みで、一気にその懐へと潜り込んできたのだ。
「だぁぁっ!」
三郎太の太い腕が、ジャンヌのしなやかな腰をがっしりと抱え上げる。力任せではない、理にかなった旋回。一切の無駄を省いた、教科書通りの、しかしずっしりと重みを乗せた威圧感を伴うボディスラム。
「うあっ!?」
背中からキャンバスに叩きつけられたジャンヌから思わず短い悲鳴が漏れる。だが、仮にもフランス若手のエースたる彼女のプライドは、基本技一つで折れるほど脆くはない。マットの反発力を利用し、瞬時に身を翻して跳ね起きる。優雅さと野獣の執念が混在した動きだった。
「やりますね! しかし、これくらいで……っ!」
三郎太が追撃に出ようとした瞬間、ジャンヌはその懐へ鋭く潜り込み、分厚い胴体を強引にクラッチした。スレンダーな肢体からは想像もつかない爆発的な瞬発力。彼女は自身の身体を後方へ大きく反らして、鋭い弧を描いたフロント・スープレックスで三郎太の巨体を背後へと投げ飛ばした。。
「むぅっ!」
背中を打つ鈍い衝撃。受け身の余韻を殺してローリングし、距離を取る三郎太。ジャンヌは呼吸を整える暇も与えず追撃の構えを見せるが、三郎太の眼光はすでに氷のように冷え切っていた。再び突っ込んでくるジャンヌの勢いを真っ向から受け止め、吸い込まれるようにその首を抱え込む。そして、天高く垂直に引き抜いた。
「いいね、でも投げ合いなら自信があるぞっ!」
咆哮が道場を揺らす。逆さ吊りになったジャンヌの視界が激しく揺れた。三郎太は彼女を頭上に掲げたまま、まるで重力など存在しないかのように、空中で完全に動きを止めてみせた。滞空式ブレーンバスター。静止した時間が、三郎太の鍛え上げられた背筋力と経験に裏打ちされた体幹を感じさせる。
「うっ!? こ、このパワーは……!? キャアッ!」
血の気が引くような「溜め」の後に放たれた衝撃は、先ほどの比ではなかった。ジャンヌの身体は無慈悲にマットへ沈み込み、肺から全ての空気を吐き出させられる。三郎太は静かに距離を取り、相手の出方を待った。ジャンヌは這いつくばり、一度は膝を突いたまま崩れそうになる。エリートとして歩んできた彼女にとって、これほどまで純粋な「質量と力」で圧倒される経験は無い、まして、追撃せずに様子を見られているなど屈辱以外の何物でもなかった。
「フランス若手のエースと呼ばれる私が……ッ!? いや、なにかの間違いです! くらえっ!」
怒りに顔を紅潮させたジャンヌが猛然とロープへ走った。反動で加速し、三郎太の胸元へ向かって文字通り飛翔する。両腕を交差させ、鋭いエッジを叩き込むフライングクロスチョップ。
「くっ!?」
敢えて避けずに受けた三郎太の分厚い胸板が激しく打たれ、身体が大きくのけぞる。ジャンヌはその一瞬の隙を見逃さなかった。重心の崩れた三郎太の体勢を強引に制し、息を荒げながらも、その体を肩へと担ぎ上げる。
「はぁ……はぁ……! 神はこの私に勝利を約束しているのです!」
ジャンヌは振るえる全ての力を込めて、三郎太を逆さまの体勢から頭からマットめがけて叩き落とした。練習試合とも思えぬ渾身のエメラルドフロウジョンの前に、使い古されたキャンバスが悲鳴を上げ、爆発音のような衝撃音が道場内に反響した。レフェリーを務めるサチが、目を見開きながら慌ててカウントを叩く。
「ワン! ツー!」
効いた。確かに今、三郎太の意識は一瞬遠のきかけた。だが、彼の内側で燃え盛る闘志は、この程度の衝撃で鎮火するものではなかった。カウントツーが叩かれた直後、彼の右肩は、重力に逆らうように力強くマットを跳ね除けた。
「まだだ!」
その声は、もはやお人よしな青年のものではなかった。戦場の最前線に立つ、一人のレスラーとしての叫び。
「なっ!? 嘘でしょう……あの角度で落として、すぐに動けるというのですか!?」
ジャンヌは信じたくない現実の前に震え、立ち尽くした。自身の最大火力の技。それを食らわせてもなお、目の前の男は折れない心と肉体を持ってそこに存在している。三郎太は四つん這いの状態から、一歩一歩、大地を踏みしめるように立ち上がっていく。深く、長く、肺の奥に溜まった熱を吐き出すような重い深呼吸。
「ふぅーっ……」
ゆっくりと仁王立ちになる三郎太の姿は、ジャンヌの目には立ちはだかる巨大な山脈のように映った。その立ち姿に、先ほどまでの「お人好しな青年」の面影は微塵もない。太平プロレスの若手エースという肩書きが単なる自称ではないことを、その身が放つ凄惨な闘気が証明していた。
「まぁ……こーなるよね……」
カウントを止め、身を起こしたサチが、呆れと畏怖の混じったため息をつく。
「モンスターのようなタフネス……これが宮川三郎太……ッ!?」
ジャンヌの膝が、初めて恐怖で微かに震えた。神に愛されたはずの自分が、今、抗いがたい力を持つ「怪物」と対峙していることを、彼女は本能で理解し始めていた。三郎太の全身から立ち上る汗の湯気が、道場の湿った空気と混じり合い、白く揺らめいている。致命傷になり得る大技を受けながらも、吸い込まれるような深呼吸一つでダメージを精神の奥底へと封じ込めた彼は、静かに、しかし絶対的な威圧感を持ってジャンヌの前に立ち塞がった。
「このくらいじゃ終わらないぞっ」
三郎太の短い宣言は、そのまま爆発的な推進力へと変わった。彼は最短距離を一直線に突き進み、その分厚い肩をジャンヌの細い体躯へと叩きつける。真正面からのショルダー・タックルに跳ね上げられ、ウェイトに劣るジャンヌはたまらずマットから浮き上がってしまう。
「きゃんっ!?」
無様に後方へと弾き飛ばされた彼女は、受け身を取って衝撃を逃がし、震える膝を必死に抑え込んで立ち上がろうとする。しかし、三郎太は一息つく暇さえ与えなかった。よろめくジャンヌの腕を強引に掴み取ると、自らの懐へと力強く引き寄せる。
「これが僕の得意技、ファイナルエルボーだぁっ!」
三郎太の右肘が、一瞬、纏った気によって微かに輝いた。溜めに溜めた渾身の旋回。引き寄せによって回避もままならないジャンヌは一瞬だけ三郎太の放った一撃の軌道に、そしてそれが纏った闘気の輝きに見惚れてしまう。
「美しい……はっ!? かはぁ……ッ!?」
重厚な一撃が、ジャンヌの顎を正確に撃ち抜いた。肉と骨が軋む音が道場に響き、ジャンヌの視界が万華鏡のように激しく砕け散る。脳を揺らされた彼女は、遅れてやってきた激痛によって現実に引き戻された。木の葉のように宙を舞って吹き飛ばされ、背中からロープに激突してそのままキャンバスに突っ伏す。立ち上がれず、必死に酸素を求めて喘ぐジャンヌ。プライドの高い彼女にとって、地に伏して見下ろされているにもかかわらず、自らの足が恐怖とダメージで震えているという事実は、敗北そのものよりも深い屈辱を刻み込んでいた。
「膝が震えて……!? くっ、まだです! あの技を出さずに終わっては、私の誇りが、納得が……!」
ジャンヌは焦燥と屈辱に苛まれ、震える両脚を叱咤してなんとか身を起こそうとする。その瞳にもはや当初の慢心はない。あるのは、一人のレスラーとして自分の全てをぶつけたいという、純粋で狂おしいほどの執念だけだった。
対峙する三郎太は、彼女の殺気にも似た気迫を真っ向から受け止める。ガードを固めることも回避のステップを踏むこともせず、ただ堂々と彼女が立ち上がるのを待ち構え、巨大な壁のように両腕を広げてみせた。
「いいよ、来いっ! 君の全力……僕が受け止めてやるっ!」
それは、相手の実力を認め、全ての技術を飲み込もうとするエースとしての器の証明だった。ジャンヌの瞳に、僅かな驚きと、それ以上の歓喜が宿る。
「……! 言いましたね!? ならば……!」
幾度か膝から崩れつつも、頭を振って脳震盪の影響を振り払い立ち上がるジャンヌ。視線が交錯する。彼はかすかに頷いたように見えた。ジャンヌは一気に加速した。ロープへと走り、跳躍してセカンドロープへと飛び乗る。スワンダイブ式に反動を受けて重力から解放された彼女の身体が、鮮やかに空中で旋回した。
「受けて見なさい、聖なる一撃を! ラ・ピュセル・ストライク!」
天空から降り注ぐようなダイビング・ニールキック。ジャンヌの右脚が、三郎太の首筋を狙って一直線に伸びる。三郎太はその直撃を避けることなく、あえて一歩を深く踏み込んだ。
(ジェニー戦の時と同じだ……インパクトの瞬間をずらす!)
ただ受けて耐えるのではない。大将戦の極限状態で掴んだ決死の耐久法の実践。
「むぅ……ッ!」
タイミングをずらしてなお、凄まじい衝撃が三郎太の首元を襲う。圧力に押され、曲げた膝で衝撃を吸収してなお靴裏がゴムマットを削りながら数歩分後方へと滑る。耳障りな摩擦音が響き渡るが、三郎太の仁王立ちは決して崩れなかった。それどころか彼は、空中で勢いを殺されたジャンヌの身体を、まるで手放してはならないものを抱きしめるかのように、がっしりと両腕の中に捕獲していたのだ。
「耐えた!? 私の最大の一撃を、そのまま受け止めるなど……っ」
腕の中で息を呑むジャンヌに対し、三郎太は静かに、しかし熱く燃える瞳を向けた。
「……効いたよ! だが今度は、こっちの番だ!」
三郎太は抱え込んだ身体を離さない。自らの重心をさらに深く沈め、ジャンヌの腰を完璧なクラッチで捕らえた。彼の分厚い背筋が弓のようにしなり、道場の空気が一瞬、その一点に凝縮される。
「今度は君が受ける番だ……うおおっ!」
三郎太の咆哮と共に、ジャンヌの身体が頭越しにエクスプロイダーで豪快に投げ捨てられた。重力、遠心力、そして三郎太の溜めこんだ腕力がインパクトの瞬間に収束し、ジャンヌをキャンバスへと叩きつける。文字通りマットに沈み込むような、脳を揺らす破壊的な衝撃。
「……ッ!?」
肺から全ての空気が絞り出され、フランスのエースの意識は、深い朦朧の闇へと真っ逆さまに沈んでいった。
――ズドォォンッ!
凄まじい着弾音が道場に響き渡る中、その光景を隅から一瞬たりとも目を逸らさずに見つめる者がいた。紫色の長い髪を後ろで束ねた、一人の女子練習生だ。まだあどけなさが残る彼女の顔立ちは、驚愕と、それ以上に深い憧憬に染まっていた。三郎太が放った、力強くも流麗なスープレックス。空中に描かれたその完璧な放物線が、彼女の網膜に焼き付いて離れない。彼女は、胸の前で強く握りしめた拳の震えを隠そうともしなかった。
(いつか私も……あんな風に誰かの全力を受け止めて、自分の全力を爆発させたい)
輝く瞳の中に宿った小さな火種。それは間違いなく、太平プロレスの次代を担う熱情の萌芽だった。
力なくマットに沈み込むジャンヌ。その銀色のコスチュームは激しい攻防で乱れ、プラチナブロンドの髪は汗で額に張り付いていた。ダウンしたジャンヌの傍らに、三郎太が素早く、しかしどこか慈しむような手つきでその身体を丸め込んだ。がっしりと固められたそのクラッチは、どれほど彼女が抗おうとも決して解かれることのない、絶対的な勝利の結び目だった。
「ワン! ツー! ……ん-? スリー!」
レフェリーを務めるサチの手が、ジャンヌが返す様子が無さそうなのを確認し、力強くマットを叩いた。
「そこまで! 勝者、宮川三郎太!」
サチの宣告と共に三郎太はクラッチを解き、深く溜まった熱を吐き出すように立ち上がった。対照的に、ジャンヌは意識を飛ばしてピクリとも動かない。
「ちょっとー、やりすぎ。どっちも練習試合だって欠片も思ってなかったでしょ? ったく、これだから脳筋はさー……」
サチは呆れたように毒づきながら、練習生に水を持ってくるよう合図した。慣れた手つきでジャンヌの上体を抱え起こし、首筋と後頭部を慎重に探る。受け身は取れている。
首に問題がないことを確認すると、サチはジャンヌの背に膝を当て、グイと上体を反らせて「活」を入れた。
「……っ、かはぁっ!」
停滞していた肺が強制的に動き出し、ジャンヌの喉から酸素を求める喘ぎが漏れた。
「おーい、生きてる?」
面倒くさそうに問うサチにジャンヌは答えない。意識を取り戻してなお、彼女はしばらくの間、虚空を見つめたまま動くことができなかった。フランスで神の寵愛を受け、若手エースとして称賛を浴びてきた自分。それが、東の果ての島国で、これほどまで完膚なきまでに叩きのめされるとは。
やがて、サチによって濡れタオルで顔をごしごしと強引に拭われ、ようやく現実に戻ったジャンヌは、震える手でマットを叩いて三郎太を睨みつけた。
「お、おのれ……なんたる屈辱! も、もう一度です! 今のなし! もう一度やりなさい!」
あきれ顔のサチを尻目に、立ち上がりざまふらつく足取りでみっともなく食い下がるジャンヌの姿に、道場の入り口付近から鋭い叱責の声が飛んだ。
「ジャンヌ、何をしているんだ! 我々の立場は説明してあるはずだぞ!?」
道場の入り口から、鼓膜を震わせるような叱責が飛んだ。社長室での打ち合わせを終えた初老のマネージャーが、顔を真っ赤にして立っていた。その後ろには、面白そうに目を細める松平社長と、不機嫌を隠そうともしないダングラールの姿がある。
「うっ……それは……」
マネージャーの正論に、ジャンヌは言葉を詰まらせた。だが、プライドが邪魔をして完敗を認められない彼女を救ったのは、三郎太の穏やかな声だった。
「いいんですよ。自分がどこまで通用するか試したくなるのは、レスラーの性ですから。僕もいい経験になりました」
三郎太は紫色の髪の練習生からタオルを受け取ると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「宮川クン……貴方がそう言ってくれるなら助かるが……。まったく、この跳ねっ返りが失礼をした」
恐縮するマネージャーを余所に、ジャンヌは三郎太の顔をまじまじと見つめた。自分を打倒した相手が向けてくる、憎しみでも侮蔑でもない「レスラーとしての共感」。その体温のような温かさが、彼女の頑固な心に小さな風穴を開けていく。
「……意外です、その気遣い。同じ島国でも英国とは違うのですね……! だが、勝負はまた別の話。次は私が勝ちますから!」
「ジャンヌ! いい加減にしろ!」
「うぐっ……」
再び叱られ、ジャンヌは慌てて口を噤んだ。しかしその瞳には、敗北の影を追い払うような闘志の火が灯っていた。三郎太は、負けてなお前を見据える彼女の姿に、ここにはいない後輩の姿を重ねる。
(……雫ちゃんも、きっと大丈夫だ)
このフランスから来た少女がそうであるように、雫もまた、自分だけの戦いの中で必ず答えを見つけ、この道場に戻ってくるはずだ。追いかける必要はない。信じて、待つべきなのだ。三郎太は確信し、静かに微笑んだ。
――そんな、美しくまとまりかけた道場の空気を、一発の「衝撃音」が粉砕した。
「なんだ、面白そうなことをやっているな? 私もうずうずしてきたぞ」
それは掌に拳を叩きつけた音だった。ダングラールは不敵な笑みを浮かべると、おもむろに着ていたスーツの上着をひったくるように脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を乱暴に捲り上げるとまっすぐにただ一人の男に視線を向けている。
「三郎太。そういえばお前には、こないだのサバイバルマッチで『オーバー・ザ・トップロープ』にされた借りがあったな。よし、一丁やるか!」
冗談ではない。その瞳は完全に「狩人」のそれだ。パンツスーツ姿のままリングに上がろうとする彼女の放つ威圧感は、先ほどのジャンヌとは比較にならないほど重く、鋭い。
「ちょ、ちょっと待ってください! こっちは病み上がりなんですよ!?」
三郎太が慌てて両手を振るが、一度スイッチの入ったフランスの女傑に止まる気配は全く見られない。そもそも病み上がりでジャンヌを返り討ちにしたばかりで説得力もない。鈍感なジャンヌは気付いていないが、それを聞いてマネージャーの口元は僅かにひきつった。
「知るか! ……つまらん話で鬱屈してたとこだ。丁度いいストレス発散だ、四角いジャングルでのデートにつきあえ!」
「八つ当たりじゃないですか!?」
三郎太の絶叫が虚しく道場に響き、ジャンヌが驚愕の声を上げる。
「こいつがあのマスクド・ダングラールから一本取ったと言うのですか!?」
伝説級の強豪であるダングラールを相手に、目の前の「お人よしな男」が対等以上に渡り合ったという事実は、彼女に更なる衝撃を与えた。一方、三郎太の顔からは一気に血の気が引いていた。3人がかりでようやくロープの上からリング外へ投げ出すのが精いっぱいだった怪物が、胸元をゆるめたパンツスーツ姿でやる気満々なのだ。
「そういうラフな格好は目に毒ですし、その……そうだ! 帰ったら顔を貸せとベスに言われていたんでした! というわけで僕はこれで失礼します!」
三郎太は脱兎のごとくリングを降り、出口へと駆け出した。
「あっ、こら! 逃げるな! 戦う前から敵に背を向けるとは何事だ!」
「巌窟王で執念深いのはあなたじゃなくてダンテスの方のはずでしょ!? なんでそんなに追いかけてくるんですか!」
必死に逃げる三郎太と、それを獲物を見つけた猛獣のように追い回すダングラール。そのドタバタ劇に、松平社長は腰をさすりながら笑い、ジャンヌたちは呆気に取られて立ち尽くす。
「おそろいってことだな、ヨシ!」
「ヨシじゃないが!?」
ダングラールが快活に笑い、悲鳴をあげる三郎太の肩を掴もうとしたその時。
「なにやら三郎太さんに呼ばれた気がして来ました! ……って、なに帰ってくるなり女に追われてるの!?」
絶妙なタイミングで道場に現れたのは、アッシュブロンドの髪をなびかせた女子レスラー、ベスだった。彼女は三郎太の無事を確認しようとした視線を、即座に「三郎太を追い回す女」へと転向させる。そこにあったのはパンツスーツごしでも全く隠しきれない、何処がとは言わないがやや平坦寄りのベスには眩しすぎるダイナマイトなバディだった
「……ほう?」
ベスの目が細められ、視線が氷点下の冷気を帯びる。
「いや、そうだけどそうじゃなくて!? 違う! ベス、助けてくれ!」
「介錯が欲しい、と」
「ちがうよ!?」
嫉妬に燃えるベスが割って入り、三郎太、ダングラール、そしてベスの三人が入り乱れ、技が飛び交う大混乱が幕を開けた。逃げ惑うエース、執念深く獲物を追うベテラン、そして愛の深さゆえに暴走する白き鬼の乙女。
先ほどまでの真剣勝負の余韻はどこへやら。太平プロレスの道場は、またいつも通りの、騒がしくも活気に満ちた日常へと戻っていく。サチが「あーあ、せんぱいってばダサ~い、モテる男は辛いね~」とスマホ片手に嘲笑う中、三郎太の魂の絶叫が、午後の道場にいつまでも響き渡っていた。