「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
オトギプロレスリングの道場に設えられたリングの上、むせ返るような熱気と、度重なる酷使によりキャンバスに染み付いた汗の匂いが重く滞留していた。激しい受け身の音が鳴り止んだ静寂の中、ただ荒々しい呼吸音だけが道場に響き渡っている。マットの中心に無様な姿で突っ伏しているのは、太平プロレスから出向してきた久我雫であった。彼女の全身を包んでいるのは、洗練された華やかなリングコスチュームなどではなく、お世辞にも似合っているとは言い難い、野暮ったいあずき色のダサいジャージである。今はその厚手の生地が、滝のように流れる汗を吸ってひどく重く、まとわりついていた。
「よし、今日の稽古はここまでとする」
目の前で腕を組み、そびえ立つ壁のように仁王立ちしているエディ・ダンテスが、低くよく通る声で告げた。彼女は太平プロレスの友好団体であるこのオトギプロレスリングを束ねる代表社長であり、同時に団体の頂点に君臨するベルトホルダーの女傑である。圧倒的なヒーロー気質と風格を漂わせるエディの威圧感に気圧されそうになりながらも、久我雫は限界を迎えて震える両腕に力を込め、ぜえぜえと絶え間なく荒い息をつきながら、這いつくばるようにして顔を上げた。
「あ、ありがとう……ございました……」
肺が焼け付くような苦しさの中で、どうにか絞り出した感謝の言葉は、かすれた音となってマットに吸い込まれていく。頭蓋骨の裏側で心臓が脈打っているかのような錯覚を覚えるほど、肉体は悲鳴を上げていた。
「おつかれさまで~す」
緊迫した道場の空気を緩めるような、間延びした呑気な声とともに、ふわりと心地よい風が雫の火照った顔を撫でた。傍らにしゃがみ込んでいるのは、雫と同じくあずき色のジャージを着た赤ずきんである。彼女はオトギプロレスリングの若手エース格であり、普段はこのようにのんびりのほほんとしているが、いざ試合となれば対戦相手を「狼さん」と呼び、童話の物語になぞらえて執拗に腹部を痛めつけるという残酷な一面を持つレスラーだ。赤ずきんは労うように清潔なタオルを雫に差し出し、もう片方の手でパタパタと団扇を扇いでくれている。雫が無言でタオルを受け取り、汗に塗れた黒髪のショートボブを乱暴に拭っていると、頭上からエディの鋭い視線が真っ直ぐに下りてきた。
「雫。お前のテクニックは一流に手が届くレベルに達している。ベテランともやりあえる程度にはな。色々足りん部分はあるが……私の見た所、お前の課題は二つある。……スタミナとメンタルだ」
その一切のオブラートを排した率直かつ的確な評価に、雫は紫色の瞳をわずかに見開き、そして静かに頷いた。
「……はい」
かつての自分――正しく勝つことを是とし、正統派のベビーフェイスとしてリングに立っていた『ライジング雫』であったなら、その言葉を単なる技術的な課題、乗り越えるべき壁として前向きに受け止めていたかもしれない。しかし、宮川三郎太への決して届かぬ想いと、絶対的な敗北による絶望を味わい、精神的などん底を這いずり回った今の彼女にとっては、その言葉の響きは全く異なっていた。御子柴の世話になり、出向先であるこのオトギプロのマットでエディの厳しい指導を受ける中で、彼女は自身の無力さと、内に秘められたまま腐りかけていた黒い感情と直面し続けてきたのだ。
「スタミナについては地道に鍛え、自分をイジメ抜いて底上げしていくしかない。だからまずお前のメンタルをどうにかする事を考えろ。曲げるな、折れるな、たとえ折られても折った奴を許さんという怒りや恨みでもいいから激情を燃やせ」
エディの言葉は、単なる精神論に留まらない、プロレスラーとしての闘争の本質を突くものだった。リングの上で肉体が限界を迎え、心が折れそうになった時、最後に己の体を突き動かすものは何なのか。理屈ではない、魂の底から湧き上がる熱こそが必要なのだと説いている。
「こ、根性論……?」
懸命に団扇を扇いでいた赤ずきんが、少し引いたような顔でポツリと漏らす。現代っ子らしいその反応を、しかしエディは即座に一蹴した。
「そうじゃない。最初から根性や気合でどうにかしろというのは愚か者だ。だが、万策尽くした最後の最後で諦めを砕いて立ち上がるために支えになるのは感情だという話だ」
「感情……」
雫は自分自身の内側、深淵を覗き込むように意識を向け、その単語を口の中で反芻した。今の彼女の心の中にあるのは、もはや清く正しい、観客を勇気づけるような眩い感情ではない。泥のように濁り、しかしマグマのように熱く煮えたぎる、昏く危険な何かだった。
「なんでもいい。愛でも友情でも希望でも勇気でも……そして野心や憤怒、恨みや嫉妬だって構わない。一時の感情によるブーストは長くはもたないが、裏を返せば短時間なら確かに増強になるんだ」
エディの言葉が、雫の心の奥底に厳重に封印されていた蓋をこじ開けていく。生来の素は真面目な優等生であり、誰よりも負けず嫌いで努力家だった彼女の美徳が、敗北のトラウマとかすかな自己陶酔の歪んだフィルターを通して、全く新たな恐ろしい形へと変質していく。相手の技に耐え、反撃し、正々堂々とスリーカウントを奪う。そんな綺麗なプロレスだけが全てじゃない。試合の中で相手の心を折り、物理的に体を締め上げ、苦痛に歪む顔を見下ろしながら完璧に屈服させること。その過程に魅入られている自分がいる。
「なんでも……それは愉悦や支配欲でもいいんですか?」
ふと、雫の口からこぼれ落ちたのは、かつての彼女からは想像もつかないような危険で甘美な響きを帯びた問いだった。相手を絶望の淵へと追い詰め、蹂躙し、もがき苦しむ姿に無上の喜びを見出そうとする彼女の隠された本音が、無意識のうちに声となって漏れ出たのだ。
「うぇっ!?」
あまりにも生々しく、邪悪な響きに満ちたその言葉に、隣にいた赤ずきんが思わず団扇の手を止め、露骨にドン引きしたような声を上げる。彼女の顔には、はっきりとした嫌悪と戸惑いが浮かんでいた。しかし、指導者であるエディの反応は全く違った。
「ほう?」
エディの唇の端が、面白がるように、そして待ち望んでいた獲物を見つけたかのように吊り上がる。
「無論、構わないよ。勝負強さというのは何でも利用する貪欲さから生まれる。私もヒールをやってた時期はある。その時はドス黒い復讐心を芯にして暴れていたもんだ。邪悪結構! とにかく諦めるな。諦めは神すら殺す。自分で自分を殺すな」
強きヒーロー気質の持ち主でありながらも、悪役の心理を知り尽くし、その有用性をも理解しているエディだからこそ言える、圧倒的な重みを持つ言葉だった。自らの中に芽生えた、決して他人に誇ることのできない黒い感情を肯定された雫の胸の内で、何かが決定的に音を立てて組み替わっていく。迷いが晴れ、漆黒の羽が内側から広がるような感覚。
「はい」
雫の返事は、先ほどまでの激しい疲労を感じさせないほど、芯の通った力強いものへと変化していた。彼女の紫色の瞳には、もう過去への未練も、自分を偽るための言い訳も存在しない。そこにあるのは、おとぎ話のモチーフ「黒鳥オディール」を体現するように、眼前の全てを闇に染め上げようとする深い漆黒の意志だけである。
「社長~、まるで邪神みたいですよ」
雫の放つ異様なオーラに恐れをなしたのか、赤ずきんがエディを見上げて引きつった笑いを浮かべた。
「赤ずきん……お前が三郎太に勝てないのはその辺にも理由があるんだぞ?」
「おっと、藪蛇!? 片付け手伝いにいってきまーす!」
エディの図星を突くような鋭い指摘に、赤ずきんは顔を引きつらせ、慌てて立ち上がると、逃げるようにリングを降りて練習生たちの元へと走り去っていった。その軽い足取りの背中をジト目で見送った後、エディは再び、生まれ変わろうとしている雫へと向き直る。
「全く。とにかく雫。お前は悪役、ヒールに転向する。だがお前の望む悪役は暴れて魅せて正義を光らせるヒールではないな? 強くて正義をねじ伏せるヒールだ。凶器や反則を恐れないが頼るわけでもない」
「……はい!」
観客のヘイトを買うためだけに反則を繰り返し、最終的にベビーフェイスの引き立て役として散る。そんな安直で安いヒールを、雫は望んでいない。自らの圧倒的な力と残酷な絞め技で相手を支配し、完膚なきまでに絶望させる存在。それが雫の望むヒールたる「オディール久我」の完全なる姿だった。
「基礎はできているからそこに悪役としての戦い方を叩き込む。その上でオトギのマットでお前にベビーフェイスとの試合、そしてヒールとの試合を組んでやる。試合の実戦で体に叩き込め。そしたらお前は太平プロレスに殴り込んで同期を闇に沈めて見せしめろ」
「同期……サチを」
脳裏に同期の姿が浮かぶ。彼女を無慈悲に血祭りに上げ、自分の変貌ぶりを太平プロレスの連中に見せつける。それは、彼女たちに対する宣戦布告であり、自身の完全なる決別の儀式となるだろう。想像するだけで、雫の胸の奥底で昏い悦びがチリチリと燃え上がる。
「その後はお前次第だが……最終目標は宮川三郎太、ならびにその周りにいる女どもだ。御子柴も例外ではない。私の認識に間違いはないか?」
その名前が出た瞬間、久我雫の周囲の空気が一気に冷たくなり、物理的な重さを持ったように感じられた。宮川三郎太。愛憎のすべてを向けるべき、たった一人の男。そして、彼の周りをハエのように飛び交う目障りな女たち。世話になっている御子柴でさえ、彼女の標的から外れることはない。すべてを壊し、すべてを自分の暗闇の底へと引きずり下ろす。
「……間違いありません。先輩をこの手で……この手に!」
雫は、キャンバスを掴んでいた両手を、爪が食い込むほどに強く握り込んだ。滝のように流れていた汗はいつしか冷え、ダサいあずき色のジャージがひどく不快な抜け殻のように感じられる。その震える手で彼を苦しめ、蹂躙し、己の存在を、決して消えることのない呪いのように深く刻み込むことだけが、今の彼女の全てだった。憎悪と執着、そして歪んだ愛情が入り混じった狂気的なまでの決意が、うつむいた彼女の背中から、濃密なオーラとなって溢れ出している。
「フッ、いい目だ。『休養』は体に叩き込んだものを馴染ませるための工程だ。余計な事をせずきっちり休むように」
エディは満足げに鼻で笑い、雫の修羅の如き覚悟を見届けると、静かにそう告げた。汗まみれでマットの上に座り込む久我であったが、その内面はすでに完全な黒鳥へと羽化を遂げようとしていた。彼女の紫色の瞳は、やがて訪れるヒールターンデビュー戦のリングを、そしてその先にある凄惨で甘美な未来の光景を、瞬きもせずに真っ直ぐに見据えていたのである。
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オトギプロレスリング、興行当日。地方都市に佇む公営体育館は、外気温を忘れさせるほどの熱気に包まれていた。2階のバルコニー席には鈴なりに観衆が詰めかけ、通路という通路は立ち見客で埋め尽くされている。誰もが、今宵このリングで何が起きるのかを、固唾を呑んで見守っていた。暗転した場内に、突如として静謐な、しかしどこか不穏さを孕んだ旋律が響き渡る。その音色は、いつものオトギプロ特有の明るいお祭り騒ぎとは明らかに一線を画していた。
『オトギの国へ続く道、どこかの誰かの絵本の話……』
スピーカーから流れるその声は、深みがあり、物語を読み聞かせる語り部のように会場を支配していく。
「お、今日はなんか感じが違うな」「雑じゃない! 雑じゃないぞコレ!」「この声……誰だ? わくわくするな」「シリアスの波動を感じる……!」
観客たちがざわめく中、実況の声はさらに熱を帯び、残酷な童話を紡ぎ出す。
『果たしていかなる心境か、女の子は泣いていました。涙に暮れて我が身を呪い、押しつぶされそうな女の子の涙が一滴、ある絵本へと零れ落ちます。その涙はやがて絵本の中へ、オトギの湖へと落ちていく。そして、落ちた先には一羽の黒鳥がおりました』
照明が鋭く切り替わり、花道の奥を一本のスポットライトが貫いた。そこに現れた影を認めた瞬間、会場は驚愕に揺れた。黒と深い紫を基調とし、端々に金色の縁取りを施したレオタード。両手首には漆黒の羽根を想起させるファーが揺れ、網タイツがかつての彼女にはなかった危うい色香と、「毒」を感じさせる。
「いやちょっとまって!? 入場してくるレスラー誰!?」「新人? ……いや違う見た事あるぞ!? あれ太平プロのライジング雫じゃないのか!?」「リンコス違うんですけど!? っていうか会場モニターの表示のリングネームもオディール久我って!?」「ライジング雫って確か本名『久我雫』だぞ!?」「おいおいおい!?」
かつての清純で正義感に溢れた「ライジング雫」の面影は、そこにはなかった。彼女は一歩一歩、自分を縛っていた過去をキャンバスに塗り潰すかのように、重々しくリングへと歩みを進める。その手には漆黒の羽根が握られており、彼女が歩くたびに、まるで闇の欠片を撒き散らすかのようにひらひらと舞い落ちた。
リングの中央に立ち、彼女はゆっくりとマイクを口元に寄せた。紫色の瞳は冷徹な光を湛え、観客の動揺をあざ笑うかのような静寂を纏っている。
「……ライジング雫は死にました。今の私は、あなたを絶望へ誘う黒い鳥……」
低く、突き放すような冷たい声。その響きに、あれほど騒がしかった客席が静まり返る。彼女は残った漆黒の羽根を天高く放り投げ、最後のアピールを終えた。
「黒鳥のはばたきで、あなたを闇に墜としましょう」
その宣言とともに、劇的な空気が一変する。
『はい、というわけでね! 今宵、オトギのリングに降り立つは新生降誕の黒鳥オディール! 「オディール久我」がただいまリングインです! 対するは何の脈絡もなく、皆さんご存知──ランプの魔人のロールプレイちっともしてくれない──「アサル・ザ・ジニー!」でお送りします! さぁ、オディール久我さんのヒールターンデビュー戦ですよ~、みんなどっちも応援してあげてね~!』
「ナレーション、赤ずきんだこれ!?」「ズコー!?」「いやおまえイイ感じにシリアスなボイスで盛り上がってたんだから最後まで頑張れよ!?」「ぼたんちゃんはさぁ……」
先ほどまでの重厚な雰囲気はどこへやら、赤ずきんこと安倍川ぼたんの呑気な実況に、客席からは一斉にツッコミが飛ぶ。しかし、彼女はどこ吹く風で話を続けた。
『お帰りの際の売店には「オディールちゃん応援Tシャツ」が新入荷しますのでぜひ帰りに寄ってね~! ついでに赤ずきんパーカーも買ってくれるとデザートが増えて私も幸せ! みんなよろしくね!」
「宣伝ばっかじゃねーか!?」「やっぱり今回もだめだったよ……」「シリアルの波動がする……」「いいえ、朝飯前。つまり、いつもの雑です。本当にありがとうございます」
そんな喧騒を余所に、対戦相手のアサル・ザ・ジニーが軽やかな足取りでリングに上がった。砂漠の戦士を彷彿とさせる衣装に身を包んだアサルは、オディールから放たれるどす黒いオーラを気にする様子もなく、いつものように律儀な礼を尽くす。
「照明でまぶしいくらいですが。……あ、お手合わせよろしくお願いします」
それは、プロレスラーとして、あるいは一人の人間として、あまりにも実直で隙だらけの挨拶だった。かつての雫であれば、困惑して反応に困るか、あるいは場の空気に流されて同じように深く頭を下げていただろう。だが、今の彼女――「オディール久我」にとっては、その無垢な誠実さこそが、踏みにじるべき絶好の獲物に見えていた。
「こちらこそ……よろしくっ!」
アサルが礼を終え、顔を上げようとした、その刹那だった。優雅に佇んでいたはずのオディールの右脚が、しなる鞭のような速度で振り抜かれた。
「うっ……!」
鈍く重い衝撃音がリング上に響く。華麗な黒鳥の衣装には到底似つかわしくない、荒々しく容赦のないケンカキックが、アサルの鳩尾へ深々と突き刺さった。ゴングが鳴る前の、完全に無警戒な瞬間。アサルは身体を折って腹を抱え、肺の中の空気をすべて搾り取られたかのように苦悶の表情を浮かべた。アサルを支持するファンから一斉に罵声とブーイングが浴びせられるが、オディールは微塵も動じない。それどころか、彼女は網タイツに包まれた脚をゆっくりと下ろすと、ブーイングを心地よい旋律でも聞くかのように、その唇に凄惨で歪な笑みを浮かべた。自分を否定する観客の声が、今の彼女には何よりの称賛に聞こえていた。
そして、その混沌とした空気の中で、後追いで慌てて打ち鳴らされた試合開始を告げる鋭いゴングの音が響いた。
ゴングの余韻が会場の喧騒に溶け込むよりも早く、オディール久我はさらなる追撃へと動いた。鳩尾への一撃で悶絶し、膝をついたまま喘ぐアサルを見下ろす彼女の瞳には、かつての清廉な光など微塵も残っていない。オディールは、倒れ込むアサルの後頭部、その長い髪を指先で絡めとった。一切の躊躇なく、力任せに鷲掴みにする。
「さぁ、悲劇を始めましょう……ッ!」
鋭い叫びと共に、オディールは腕を大きく振り抜いた。髪を掴まれたままのアサルは、抗う術もなく、その勢いのままマットの上へと無残に投げ飛ばされる。キャンバスを打つ鈍い衝撃音が、アサルの短い悲鳴をかき消した。プロレスラーとして、そして一人の女性として大切にしているであろう髪を、道具のように扱うその仕草。そこには対戦相手への敬意など欠片も存在せず、ただ「蹂躙する」という一点のみに特化した、歪んだ意志が宿っていた。レフェリーが慌てて割って入り、反則であることを厳しく警告しようと身を乗り出す。しかし、オディールは審判の手が自身に触れるより早く、潔くその手を離して数歩後退した。デビュー戦という舞台、そして即座に攻撃を止めたという狡猾な計算により、レフェリーは暴挙を口頭注意のみで留め、試合を続行させる。
実況席では、赤ずきんがその様子をどこか楽しげに、しかし煽るような口調で伝え始めた。
『あ~っと、オディールちゃん、いきなり乙女の命たる髪を掴んで振り回す~! 酷い、残酷! でも……その冷たい目、一部の観客のみなさんはゾクゾクしちゃいますか?』
観客席からは困惑と興奮が入り混じった声が次々と上がる。
「当然のように観客に話しかけてくるじゃん……」「ゴング前奇襲と言い、清々しいほどヒールだな」「ライジング雫と同一人物に見えないんですがそれは」「そんなに対抗戦で黒星ついたのショックだったのか……」「さすがにそれだけじゃないだろ」
投げ飛ばされた衝撃で視界を揺らしながらも、アサルの闘志は潰えていなかった。砂漠の過酷な環境を生き抜く戦士の如きタフネスを持つ彼女は、すぐに体勢を立て直し、マットを蹴って立ち上がる。
「……良い蹴りでした。ですが、ここからです!」
アサルは乱れた髪を払うこともせず、最短距離で踏み込んだ。渾身の力を込めたエルボーバットが、オディールの喉元を正確に射抜く。
「……ッ!」
予期せぬ一撃に、オディールは一瞬だけ呼吸を奪われ、喉の奥から詰まったような声を漏らす。しかし、彼女は倒れない。喉元を抑えながらも、その唇の端はさらに深く釣り上げられ、狂気さえ感じさせる不敵な笑みを浮かべていた。彼女はあえてアサルの目の前で、冷静に数歩、間合いを取る。その余裕は、かつての必死に勝ちを拾おうとしていた姿とは正反対の、強者の風格を帯びていた。
「逃がしません、はぁっ!」
その隙を見逃すアサルではない。距離を空けようとするオディールを追い、キャンバスを蹴って前へと駆ける。その勢いをすべて乗せた正面からのドロップキックが、オディールの胸元を捉えた。
「くっ……ッ!」
強烈な衝撃に、オディールの身体が大きく後方にのけぞる。膝をつき、必死に体勢を維持しようとするオディールに対し、アサルは一気に勝負をかけるべく、その華奢な身体を両腕で抱え上げた。
「まだまだいきますよ!」
美しいフォームでのボディスラム。オディールの背中がキャンバスの中央で跳ね、激しい衝撃が彼女の全身を駆け巡った。
「あぁ……ッ!?」
キャンバスに沈んだオディールは、まるで激痛に耐えかねたかのように、震える両手で自身の顔を覆う。客席からはアサルへの大声援が沸き起こり、場内は正義が逆転するカタルシスを期待して最高潮に達しようとしていた。しかし、彼女が顔を覆っていたのは、痛みに耐えるためだけではなかった。指の隙間から覗く紫色の瞳。それは、苦痛に歪みながらも、獲物を確実に仕留める機会を伺う猛禽のそれだった。彼女は顔から離した自身の指先を、恍惚とした表情でじっと見つめる。その細い指先が、これから何を引き起こすべきか。彼女の歪んだ意志が、冷徹な決定を下した。
「……大丈夫ですか、オディールさん」
アサルはあくまで正々堂々と、倒れた相手を引き起こして次の攻防へと繋げようと、無防備に手を差し伸べた。その優しさと誠実さ。かつての雫であれば救いとなったであろうその光こそが、今のオディールにとっては、踏みにじり、汚すべき絶好の「隙」となった。アサルがオディールの腕を掴み、引き上げようとした、その瞬間。オディールは引き上げられる勢いを利用して、弾かれたようにアサルの懐へと深く飛び込んだ。レフェリーの位置を確認し、二人の距離を詰めようとすることで生じるレフェリーの視界の死角を完璧に突く角度。彼女は鋭く尖らせた指先を、アサルの瞳へと迷いなく突き出した。
「あ、ああああっ!?」
かろうじて反射がまぶたをとじさせたものの、眼球への突然の衝撃による鋭利な痛みに、アサルが絶叫して顔を抑えた。プロレスという競技の枠を、そして倫理の壁を軽々と越えた卑劣なサミング。レフェリーからは、ただ密着して揉み合っているようにしか見えない絶妙な位置取り。卑劣な攻撃を察した観客たちから、これまでにないほど激しい、地鳴りのような罵声とブーイングが沸き起こった。しかし、オディールはその怒号の渦を、自分への最高の賛辞として全身で受け止めている。彼女は苦悶に身悶えるアサルの身体を無理やり引き寄せ、その耳元に顔を寄せた。彼女の吐息は、氷のように冷たく、そして深淵から響く死神の囁きのように甘美だった。
「……暗闇の入り口へようこそ」
その言葉が、アサルの震える脳髄に刻み込まれる。オディールの声には、一切の躊躇も、情けも、良心の呵責も存在しなかった。それは単なる反則攻撃の宣言ではない。これから始まる、果てなき絶望と支配の物語。その幕開けを、獲物に対して慈悲深く宣告するさながら死の接吻の如き甘い言葉であった。光を失ったアサルの視界に、ただ暗く、深い黒鳥の影だけが色濃く差しかかっていた。
暗闇の宣告とともに、オディール久我は非情な追撃を開始した。悶絶しながら顔を覆うアサル。その視界が遮られた無防備な頭上を、オディールの長くしなやかな右脚が、死神の鎌のような軌道で襲った。
「ハァ……ッ!!」
鋭い呼気とともに振り下ろされたかかと落とし。逃げ場のない脳天に、硬いかかとが深々と突き刺さる。
「がっ……!?」
アサルの身体がぐらりと揺れ、足元から崩れるようにしてキャンバスへと倒れ込み、会場には鈍い衝撃音が木霊した。しかし、オディールは倒れた相手をただ眺めるだけで満足するような甘さは持ち合わせていない。むしろ、地に伏した獲物をさらに深く、逃げ場のない絶望へと引きずり込むことこそが、今の彼女の望みであった。彼女はダウンしたアサルの首筋に、自身の両脚を冷酷に絡みつかせた。首四の字固め。それは肉体的な苦痛だけでなく、頸動脈を圧迫し、呼吸を奪い、精神を摩耗させる残酷な絞め技だ。オディールは自身の太腿に力を込め、アサルの細い首を執拗に締め上げていく。
「……そのまま意識を手放しなさい。心地よい眠りが待っているわ」
耳元で囁かれる甘美で冷徹な誘い。アサルの顔は苦悶に歪み、酸素を求める口が金魚のように虚空を求めてパクパクと動く。
「あぐっ……あぁ……ッ!?」
アサルの喉から漏れるのは、言葉にならない嗚咽のような呻きだった。レフェリーが顔を覗き込み、ギブアップの意思を確認する。だが、アサルの意識はまだ死んでいなかった。砂漠を生き抜く強靭な精神力が、薄れゆく意識の淵で彼女の右腕を動かした。アサルは苦悶しながらも、這いずるようにしてキャンバスを藻掻き、位置をずらしていく。そしてついに、その脚先が命綱である最下段のロープを掴んだ。
「……っ、ぐ……う……! ロ、ロープですっ!」
「ロープブレイク! オディール久我、放しなさい」
レフェリーがブレイクを命じる。オディールは不満げな、しかしどこか余裕を感じさせる仕草で鼻を鳴らし、ゆっくりと脚の拘束を解いた。
「フッ……」
解放されたアサルは、激しく咳き込みながら喉を抑え、ロープを頼りにふらふらと立ち上がる。その足取りは危うく、今にも膝から崩れ落ちそうだ。オディールはその無様な背中を眺め、再びその首を捕らえようと、傲慢に細い手を伸ばした。だが、その瞬間だった。アサルが突然、背を向けたまま独楽のように鋭く回転した。怪訝な表情を浮かべたオディールの視界に、反転の勢いを乗せた裏拳が飛び込んでくる。
「捕らえようとしても……砂漠の風は、止まりません……!」
アサルの必殺のバックスピンナックル「サンドストーム」が、オディールの白い頬を真っ向から捉えた。
「キャッ……!」
乾いた衝撃音とともに、オディールの顔が大きく弾け飛ぶ。不意を突かれた彼女はたじろぎ、足元をふらつかせた。アサルはその隙を逃さない。砂漠の風は、一度吹き荒れれば止まることはないのだ。アサルはよろめいたオディールの背後へ瞬時に回り込み、その腰をがっしりと抱え上げた。
「これで……どうですか!」
気合の叫びとともに、アサルは自身の身体を後方へ反らせた。投げっぱなしのバックドロップ。オディールの身体は宙で綺麗な放物線を描き、背中から無慈悲にマットへ叩きつけられた。
「あうっ!?」
激しい衝撃に、今度はオディールが呻き声を上げる。アサルは勝機を見出し、さらなる追撃のために距離を詰めようとした。
「……これで終わらせましょう」
しかし、マットに這いつくばっていたオディールは、その屈辱に顔を歪めながらも、驚異的な執念で反撃に転じた。彼女は膝立ちの状態から、鋭く身体を旋回させる。まるで先ほどのバックスピンナックルへの返礼だとでも言うかのように。
「調子にのらないでっ!」
放たれたのは、斜め回転のソバットだ。その鋭い足先が、突っ込んでくるアサルの腹部、ちょうど肝臓のあたりを正確に抉った。
「ごふっ!? っ……がぁぁ……!」
内臓を突き上げられるような衝撃に、アサルは呼吸を奪われ、もんどりうってダウンした。今度は彼女が腹を抑えてマットをのたうち回る番だった。
オディールは立ち上がり、今度こそ流れを自分に引き戻すべくアサルに組み付こうとする。
「立て……!」
だが、地を這うアサルの動きは止まっていなかった。アサルは苦痛に顔を歪めながらも、オディールの手脚が届く範囲に来た瞬間、そのすべてを絡め取るようにして自身の身体を丸め込んだ。
「させ、ません……!」
「!?」
アサルの必殺の丸め込み、デザートクラッチ。瞬時にしてオディールの自由は奪われ、背中をマットに押し付けられる。
「ワン! ツー!」
滑り込んでマットを叩くレフェリーのカウントが会場に響き渡る。その瞬間、オディールの脳裏を最悪の記憶がよぎった。太平プロレスでの対抗戦、結城との一戦。あの時も、スクールボーイという単純な丸め込みで、あっけなく敗北を喫したのだ。
(丸め込み……!? このタイミングで……!? また……またあんな負け方をするのは……ッ!)
焦燥が、オディールの全身を駆け巡った。彼女は反射神経を極限まで叱咤し、手足に必死の信号を送る。かつてと違い、しっかりと休養のとれているその四肢は健全に信号に応答を返した。いっそ過剰ともいえる勢いでマットを叩き、反動でアサルを吹き飛ばす。レフェリーの手が三つ目を数えるべくマットを叩く直前、カウント2.5。オディールは死に物狂いでアサルの腕を跳ね除け、その拘束を強引に脱出したのである。
「あぶな……っ、油断ならないわね……」
即座に立ち上がったオディールの口から、キャラ作りを忘れた素の驚きが漏れる。
(……いけない、私はもう黒鳥なんだ……!)
激しく波打つ心臓を抑えつけるように、彼女はふうっと長く冷たい息を吐き出した。乱れた髪を掻き上げ、ほんの一瞬で「久我雫の動揺」を精神の奥底へと沈め切る。
実況席のぼたんが、マイクを握りしめて叫んだ。
『あ~っと、ここでアサルちゃん執念の丸め込みデザートクラッチ! 1、2、……返したぁ! カウントはつーぽいんとふぁいぶ! なんか久我ちゃん、メチャクチャ焦ってましたね?』
客席からも、今の攻防に対するどよめきと野次が飛ぶ。
「赤ずきんは俺らに解説させる気なのか……困惑」「こないだ結城戦でスクールボーイ負けしたばっかだからトラウマなんじゃね?」「そりゃ焦る」「俺も丸め込まれたい」「しょうがないにゃあ、オレが丸め込んでやるよ……」「ッアーッ!?」
観客たちのふざけた野次さえも、今のオディールには心地よい刺激でしかなかった。あやうく悪夢に瀕しかけた恐怖が、彼女の脳内に最高級のアドレナリンを分泌させる。完全に「オディール」の仮面を被り直した彼女は、アサルのサンドストームによって腫れ上がった頬をさすりながら、ゆっくりと歩み寄り、組み付いて行く。先ほどまでの焦燥は微塵もなく、ただただ暗く、深い、凄惨な笑みが湛えられている。彼女は、まだダメージから回復しきれずふらつくアサルの首を、獲物を屠る獣のような手つきで捕らえた。
「終わりよ、貴女の勝利など砂漠の蜃気楼……見えた気がしても辿り着く事はない。ハァッ!」
非情な宣告とともに、オディールは自身の身体をキャンバスへと投げ出した。アサルの首を抱え込んだまま、その脳天を垂直にマットへ突き刺すDDT。
「がはっ!?」
マットを突き破るかのような衝撃がアサルの脳髄を揺らし、その肉体からすべての力が失われた。キャンバスに横たわるアサルの瞳が焦点を失い、その意識を深い霧の奥底へと突き落とす。キャンバスに沈み、ぴくりとも動かないその姿に、会場を埋め尽くした観衆は静まり返る。一階席から二階のバルコニー席、そして後方の立ち見客に至るまで、誰もが砂漠の戦士の完全沈黙を予感していた。しかし、アサルの肉体には、日々の過酷な鍛錬が刻み込んだ、持ち主の意識を超えた本能が宿っていた。朦朧とする意識の断片を繋ぎ合わせるように、アサルは膝を突き、幽霊のようにふらふらと上半身を揺らした。焦点の合わない瞳は何も捉えていない。だが、彼女の右腕は無意識のうちに振り上げられた。
「……まだ……あきらめ……」
力なく放たれたエルボーの打ち下ろしが、オディールの脚を叩く。だが、その一撃には魂が乗っておらず、有効打と呼ぶにはあまりに程遠い。打ち下ろした自身の肘の痛みすら、もはやアサルの脳には届いていなかった。それは戦士としての最期の、しかしあまりにも無力な抵抗であった。オディールはその鈍い衝撃を受け止めても、眉ひとつ動かさない。それどころか、自分を見上げながら力なく縋り付こうとするアサルの腕を、冷酷な手つきで掴み取った。かつての雫であれば、この必死な姿に心を打たれ、攻撃の手を緩めたかもしれない。だが、今の彼女は「黒鳥」なのだ。
「……往生際が悪いのよ。諦めず頑張る……でも、それだけじゃダメなんだわ」
突き放すような言葉。それは、正しさや努力だけでは超えられない壁があることを知った、彼女自身の血を吐くような独白でもあった。オディールは抵抗する力すら失いかけているアサルの背後へと、獲物の影に溶け込むかのように音もなく回り込む。アサルの両腕を背後からチキンウィングの形で捕らえ、逃げ場を完全に塞いだ。さらに、自身の脚でアサルの腿を複雑にロックし、脱出の芽を根こそぎ摘み取る。
「……かくて砂漠の戦士は闇に落ちる。私の暗闇の中で、お休みなさい」
死神の抱擁にも似た、新必殺技「ブラックアウト・フェザードロップ」。苛烈極まる特訓の中で、咄嗟に出した動きからエディに指摘・助言され、整理再編された合理の黒翼たる複合間接技。照明を背にしたオディールの身体が、深い影となってアサルを完全に飲み込んだ。オディールが自重をかけて背後から圧し掛かると、僅かな間、耐えていたアサルの膝が限界を迎え、崩れ落ちてしまう。ズンッ、と重い音を立てて顔面がマットに激しく押し付けられ、逃げ場のない状態で自重と絞め上げがアサルの肉体を、精神を、そして尊厳を蝕んでいく。
「が……ぁ……っ!? うぅ……!」
四肢を固められ、首と肩、そして顔面に全体重がかかる極限の激痛。アサルの喉から、これまで聞いたこともないような苦渋に満ちた呻きが漏れる。マットに押し付けられた顔が、窒息の苦しみと関節の軋みに歪んでいく。オディールは、自分に組み敷かれ、無様に苦鳴を上げる対戦相手を背後から見下ろし、その感触を全身の肌で、そして魂の芯で受け止めていた。その瞬間に沸き起こったのは、かつての自分なら決して抱くはずのなかった、昏く、甘美な悦びだった。相手を組み伏せ、破壊し、服従させることの快感。それが自身の内側に眠っていた本質であるかのように、彼女の神経を震わせる。
(やはり、これも私なんだわ……)
脳裏に、かつて憧れ、そして今は倒してこの手の中に奪い取るべき高い壁となった先輩の姿が浮かぶ。
(あぁ、認めるしかないのね。わたしはいつか先輩をこうして苦しめてあげたいと思っている……! この闇に、あの人をも引きずり込んで……!)
その自覚が、オディールの口元を邪悪な、しかしこの上なく美しい笑みへと変えた。漆黒の羽根が舞い散るリング上で、彼女は完全に「悪」としての自己を確立したのだ。
実況席のぼたんが、興奮で身を乗り出し、喉を枯らさんばかりに声を張り上げる。
『あ~っと、アサルちゃんの腕が、脚が……絡め取られていく! 逃げ場のない闇の抱擁……これが必殺、ブラックアウト・フェザードロップ! 完全に決まってます! ああっ、アサルちゃん立ってられない、崩れて……顔面からマットに押し付けられる形になっちゃいました!? これはキツい! 四肢全てが動かない! ……あれ、この技どうやって抜けたらいいんです?』
絶叫から突如困惑に移行したユルい実況の声に、観客たちもまた、目の前の光景に圧倒されながら言葉を交わす。
「いや、俺らに聞かれても……」「赤ずきんおまえプロのはずでは……?」「顔に体重かかってて身動きとれないから這えない、手でマットや相手の身体を叩いてタップできない、口でギブって言うしかないね……」「えっぐ……」「なんてこったぁ! 俺のアサルちゃんが……!?」「気持ちは分かるが、お前のではない」
会場全体が、オディール久我が作り出した「暗闇」の圧力に息を呑む。アサルは必死に脱出のために動かせる部位を探そうともがくが、オディールのロックは微塵も揺るがない。腕を逆手にねじり上げられ、関節が悲鳴を上げるたびに、アサルの誇りは削り取られていった。逃げたい、しかし動けない。呼吸さえも、オディールの重圧によって制御されている。もはや、極限の激痛に耐えるだけの段階は過ぎていた。
精神のダムが決壊し、アサルはついにその言葉を口にする。
「……っ、ギ、ギブアップ……! 参りました……!」
アサルの口から、絞り出すような敗北の宣言が漏れた。それは砂漠の戦士が、漆黒の鳥に膝を屈した瞬間であった。その瞬間、レフェリーがギブアップを確認し、本部席へ合図を送る。激しいゴングの音が、静寂の支配した会場に連打された。
「勝者、オディール久我!」
オディールはゆっくりと、力なく横たわるアサルの肉体から離れた。レフェリーがオディールの右腕を取り、勝ち名乗りを上げる。彼女はレフェリーに腕を掲げられながら、漆黒の羽を大きく広げるかのように、両腕を天高く突き上げる。全身を駆け巡る勝利の余韻。それはかつての「ライジング雫」としては決して味わうことのなかった、相手を完全に屈服させ、蹂躙した末に手にする、冷たくも熱い勝利の味だった。
「これが……わたしの選んだ道……!」
彼女の瞳は、これまでにないほど強く、昏い光を放っていた。その視線はもはや対戦相手ではなく、遥か高みにある太平プロレスのリング、そして彼女が心底求めるあの男を見ていた。客席からは、正義のヒーローが負けたことへの困惑や戸惑いの混じった、まばらな拍手と歓声が上がる。しかし、その中には明らかに、この邪悪で美しい「黒鳥」に魅了されたファンたちの、熱狂的な叫びが混ざり始めていた。中に混じる非難のブーイングさえも、今の彼女には心地よい音楽の調べとして響く。
オディール久我。
彼女がかつての自分を殺し、新たな自分として生まれ変わったその第一歩。砂漠の嵐は蜃気楼となって消え去り、後に残ったのは、ただ静寂を支配する漆黒の闇と、その中で翼を広げる一羽の黒鳥の姿だけであった。オトギの国の絵本から、今、底知れぬ闇を湛えた魔の黒鳥が舞い上がったのだ。