「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスの道場内は、今日も若手レスラーたちの熱気と汗の匂いが充満していた。リングマットが幾度となく激しく叩かれる受け身の音、サンドバッグをリズミカルに打ち据える鈍い衝撃音、そして限界まで己の筋肉を追い込む荒い息遣い。そんな泥臭くも神聖な鍛錬の場において、あきらかに場違いな、甘く刺激的な香水がふわりと漂っていた。部屋の片隅、リングサイドのベンチ付近で、一つの激しい「攻防」が繰り広げられていた。いや、それはプロレス技による肉体的な激突ではない。太平プロレスが誇る若きエース、宮川三郎太の太い右腕が、がっちりとホールドされていたのだ。彼を捕らえているのは、先日アメリカからやってきて三郎太と試合をしたばかりの刺客、ディーディー・ロジャースであった。金髪のスパイキーショートヘアが動くたびに室内の照明を反射して輝き、彼女の勝気で挑戦的な青い瞳が、上目遣いで三郎太の顔を至近距離からのぞき込んでいる。茶色のホルターネッククロップトップから溢れんばかりの豊満な胸が、三郎太の鍛え抜かれた上腕二頭筋にこれでもかと押し付けられていた。その圧倒的な柔らかさと、青いデニムショートパンツから伸びる引き締まった太腿から伝わる熱は、リング外でウブな三郎太の思考回路を惑わすのに、十分すぎる破壊力を持っていた。
「ねぇ、サブロウタ~」
甘ったるく、それでいてどこか挑発的なディーディーの声音。彼女は三郎太の腕にしがみついたまま、さらに自身の筋肉質でありながらも女性的な曲線を帯びた体を密着させてくる。全米マットで活躍し、色気の披露も惜しまぬショーマンシップに溢れる彼女にとって、男を翻弄するなど造作もないことだ。
「アタシの滞在してるホテルに遊びに来てよ。一度くらいなら……いいでしょう?」
三郎太の顔は、限界を超える激しいスパーリングを何セットもこなした後のように、耳の先まで朱に染まっていた。彼は太平プロレスを深く愛し、プロレスに対してどこまでも真面目でストイックな好青年である。彼の脳内は「プロレス」という言語と概念で大半が構成されており、目の前で繰り広げられる「大人の外人女性による誘惑」という高度な盤外戦術に対する防御力は、悲しいほどに欠けていた。
「ダメです。というか試合で僕を焦らす戦術ならともかく、今みたいなオフでそういうことする意味ないでしょう?」
必死に引きはがそうと試みるものの、相手もまた第一線で戦うプロの女子プロレスラーである。たやすく力任せに振り払わせはしない。試合でもないのに女性に暴力を振るうなど考えもしない、三郎太持ち前の無駄な優しさが邪魔をして、彼は完全に身動きが取れなくなっていた。あくまでこれもプロレスの延長線上の駆け引きに違いないと、無理やり自分に言い聞かせるように、三郎太は視線を泳がせながら反論しているがこれが彼の限界である。しかし、テキサスの新星として陽気にリングを舞うアメプロ娘は、そんな生真面目な少年の心の壁など、カウボーイブーツで軽快に蹴り破る気満々だった。
「別にそういうのじゃないってば。ゾッコンになったのはReallyよ? でも……ねぇ、ほんの遊びじゃない?」
彼女の言う「ほんの遊び」という言葉は、三郎太の倫理観の最もデリケートな部分を直撃した。男女の交際たるもの、真剣かつ誠実であるべきだという、昭和の人間のような古風な価値観を持つ彼にとって、その言葉はあまりにも重く、そして軽すぎた。
「なおさらダメですってば、そういうのは……なんて言うか将来の覚悟って言うか……」
しどろもどろになりながら、三郎太は「将来の覚悟」という、この密着した状況には不釣り合いなほど重々しい単語を口にしてしまう。その初々しすぎる反応に、ディーディーの青い瞳が面白そうに細められた。彼女は勝気な外人レスラー特有の、少し大げさなリアクションで肩をすくめてみせた。
「ハーン? サブロウタは可愛い事言うのね? そしてこんな皆の前で女に恥かかせるなんてひどい人……」
急に声のトーンを落とし、まるで深く自尊心を傷つけられたかのようにうつむくディーディー。そのあからさまな被害者アピールに、三郎太は慌てふためいた。周囲でトレーニングをしている他のレスラーたちが、ダンベルを上げ下げしながらチラチラとこちらを盗み見ているのを感じる。善良すぎる彼にとって「他人に、しかも女性に恥をかかせた」という罪悪感は、どんな強烈な関節技よりも深く心に食い込んだ。
「いや、そんなこと言われても……」
完全にペースを握られ、狼狽する三郎太。ここでディーディーは、獲物を確実に狩るための、計算し尽くされた最後の罠を仕掛けた。
「OK、アタシも無理を言い過ぎたわ。じゃあ、一度だけ観光案内についてきてよ、Dinnerくらいは奢るからさ」
「ホテルに誘う」という極端な要求から一転、「観光案内と夕食」という、一見すると健全でハードルの低い要求への見事なすり替え。先ほどまでの罪悪感と、彼女が譲歩してくれたという安堵感から、三郎太の心の警戒心は一気に緩んでしまった。
「う、うーん……まぁ、そうですね……そのくらいなら……」
歯切れ悪く、しかし明確に肯定の言葉を漏らしてしまう三郎太。強引な押し引きの前に、日本の若きエースはあっさりと陥落したのだった。
その一部始終を、少し離れたウェイトトレーニングのエリアから興味深そうに観察している二つの影があった。一人は、デビューしてまだ半年そこそこの新人、ブライアン・ブルナイト。派手なパワー技を好み、将来は極悪非道なヒールを目指しているが、いかんせん頭の作りが筋肉寄りで底抜けのバカである。彼は重いダンベルを片手にカールを続けながら、隣に立つ先輩レスラーへと顔を寄せ、内緒話をするように小声で囁いた。
「……なぁ、イカサマの旦那?」
「む、どうしたね、ブライアン君」
噴き出した汗を拭うためにタオルを首にかけたグレート・イカサマが、鷹揚に頷いた。彼は道化じみたフェイスペイントと、立派に蓄えられたカイゼル髭がトレードマークの、太平プロレスの中堅悪役レスラーである。リングの上では息を吐くように嘘をつき、観客を煙に巻く胡散臭い紳士だが、道場での彼は後輩の面倒見も悪くない。どこか飄々とした空気を漂わせていた。
「オレ、バカだから分かんねえんだけどよ……『じゃあ』って言うが、前後で言ってる事……実質同じじゃねえのか?」
ブライアンの素朴な疑問に、イカサマは肩を揺らして静かに笑った。
「ウム、譲歩したかに見せてちょっと言い方を変えただけというヤツだな。お人好しが相手に譲歩させたと勘違いして、必要もないのに罪悪感を刺激され、ひっかかるよくあるネタではあるが……。しかし、意外だね。ブライアン君はどちらかと言えば騙される側の人間かと思っていたよ」
人間の心理の隙を突く盤外戦術のプロフェッショナルであるイカサマからすれば、ディーディーの使った「ドア・イン・ザ・フェイス」の交渉術は古典的でありながらも、三郎太のような純粋すぎる人間には劇的に効く特効薬であると理解していた。そして、脳筋のブライアンがそのからくりに気がついたことに、わずかながら感心していたのだ。悪役としてのインサイドワークの素質が芽生え始めたかと期待した。しかし、続くブライアンの言葉は、そんな先輩のささやかな期待をあっさりと地に落とすものだった。
「いや、あんないい女に誘われたら、どっちの表現でもオレは二つ返事でついていきますよ?」
ニヤリと下世話な笑みを浮かべて鼻の下を伸ばすブライアンに対し、稀代の嘘つきレスラーは、これ以上ないほど正直な、そして冷めきった言葉を返すことしかできなかった。
「アッハイ」
イカサマが呆れたようにタオルで顔を覆った、まさにその瞬間だった。熱気と喧騒に包まれていた道場の空気が、一瞬にして凍りついた。まるでシベリアの寒気団が突如としてトレーニングルームに流れ込んできたかのような、強烈な殺気。誰もが手を止め、冷や汗を流してその震源地へと視線を向けた。
「……何をやってるんですか!」
冷たく、静かで、しかし確かな怒りと情念を孕んだ声が、道場内に響き渡った。声の主は、道場の入り口に立っていた。アッシュブロンドのショートボブの髪をかすかに揺らし、グレイッシュブルーの瞳に氷のような冷たい炎を宿した女子プロレスラー、シロオニ・ベスである。一見すると大人しそうな端正な顔立ちではある。だが、今の彼女の表情は普段のクールで丁寧な態度は見る影もない。彼女の中で明確に自覚し始めた三郎太への恋心と強烈な独占欲、そして、それを邪魔する者への激しい嫉妬が、まるで般若の面のように貼りついていた。彼女の視線の先には、ターゲットである三郎太に密着して離れない、テキサス出身の泥棒猫の姿がはっきりと映し出されている。旧知故にはっきりと見て取れるからかい半分の誘惑を目の当たりにしたことで、彼女の胸の内でくすぶっていた感情は、明確な闘志へと変換され、今まさに爆発しようとしていた。背筋が凍るようなその声と突き刺さるような視線に射抜かれ、三郎太はまるで蛇に睨まれたカエルのように喉を引き攣らせ、素っ頓狂な声を上げた。
「いいっ、ベス!?」
動揺する三郎太の腕に絡みついたまま、ディーディー・ロジャースは余裕の笑みを崩さない。むしろ、ベスの激昂を楽しむかのように、わざとらしく三郎太の肩に頭を預けてみせた。
「あら、エリザベス? ちょっと遊びにいこうって誘ってただけよ?」
その挑発的な態度は、火に油を注ぐどころか、ガソリンをぶちまけるに等しい行為だった。
「三郎太さん、騙されてはいけません。この女、火遊びしたいだけで別に貴方に惚れたわけではありませんよ!?」
ベスの声が震えている。それは恐怖ではなく、抑えきれない憤怒ゆえだ。彼女にとって三郎太は、いつか必ず超えなければならない「壁」であり、同時に誰にも譲りたくない特別な存在――「旦那様候補」なのだ。それを、海を渡ってきたばかりの、プロレスをエンターテインメントとして割り切っているような女に、文字通り「つまみ食い」されるなど、断じて容認できることではなかった。
「い、いや……別にそんな風には思ってないけど……確かに一人で外国は心細いだろうし、観光案内くらいならって……」
板挟みになった三郎太が、おずおずと弁解を口にする。彼の「プロレス脳」は、この状況をどう「技」で返すかについては一切の答えを持っていない。ただ、困っている人間を放っておけないという彼の善良さが、ディーディーの計算高い「寂しがり屋の外国人」というロールプレイに、まんまと引っかかっていた。
「そんな殊勝なタマなわけがないでしょう! 夕食を共にしたら酔ったふりしてホテルまで連れていかれるわよ!?」
ベスの指摘は、あながち間違いではなかった。ディーディーの唇の端が、獲物を追い詰めた肉食獣のように吊り上がる。
「ちょっとちょっと! せっかくうまく行きそうだったのにやめなさいよバカオニ!? アタシはちゃんとサブロウタを気に入って誘っているのよ!?」
「バカオニ」という蔑称を投げつけられ、ベスの瞳の奥に宿る青い炎が、より一層激しく燃え上がった。その様子を、安全圏から眺めている二人組がいた。
「……しかし、ベスの姉御はいっつもタイミングよく現れますね?」
ブライアン・ブルナイトが、感心したように首を傾げる。三郎太に危機が迫るたび、あるいは他の女性が近づくたびに、ベスはまるで見えないセンサーでもあるかのように正確に現場へと急行してくる。その神がかったタイミングの良さは、もはや偶然の一致では説明がつかないレベルに達していた。
「ふむ、そういえば聞いた事がある」
顎のカイゼル髭を指で弄りながら、グレート・イカサマが重々しく頷いた。
「なにぃ!? 知ってるんですかい、旦那!?」
単純なブライアンは、身を乗り出して食いつく。多分、ネタとしてのフリではなく、素の反応であろう。バカなので。
「鬼の中には妖術に長けた者もいるらしい。かつて我が太平プロの看板レスラーだったモモタロウが激闘を繰り広げた、かの鬼の大将『イワン・シュテンドルフ』などは酒を触媒として幻を見せたり、物理的な衝撃を伴う攻撃すらしてみせた実績もあるしな。あるいは、ベス君もそういった妖術の方面にいまだ眠る才覚があるのかもしれん……。三郎太クンの発する微細な危機信号を超感覚で感じ取っているのだとしたら、この神出鬼没ぶりも納得がいくというものだ」
「妖術っすか、スゲエな……!」
ブライアンの目は、少年のように輝いていた。鬼というのが異名だけの存在でなく、実在しているのか。そして、身体能力だけでなく神秘の力まで備えているのかと、純粋に驚愕したのだ。しかし、その輝きは数秒と持たなかった。
「まぁ、嘘なのだがね」
「嘘かよ!? 騙されたよ!?」
イカサマの平然とした告白に、ブライアンは見事なまでのリアクションでずっこけた。道場のマットに頭を打ちつけそうになりながら、彼は先輩のあまりにも堂々としたペテンに毒づく。
一方で、女同士の舌戦はさらに激化の一途をたどっていた。
「誰がバカオニですか!? 三郎太さんは私のリベンジリストのトップ、貴女に遊び半分で食い散らかされるなど許せるはずがないでしょう!?」
ベスが一歩前へ踏み出す。その足音が、道場の床を重く鳴らす。
「ハハーン? ちょっと噛みつかれたからっていつまでも食わずに眺めて満足しているエリザベスが悪いだけ、『Late-blooming virgin(解説したくないので翻訳いたしません)』の勝手な都合なんざ、アタシの知った事じゃないわ!」
ディーディーが放った容赦のない言葉のナイフが、ベスのプライドを真っ向から切り裂いた。アメリカ帰りの開放的な彼女にとって、ベスの抱える複雑な執着と奥手な感情の入り混じった態度は、じれったい以外の何物でもなかったのだ。
「あ?」
「お?」
二人の視線がぶつかり、火花が散る。そこにあるのは、もはや言葉による対話ではない。次に動くのはどちらか、どの角度から喉元に食らいつくかを探り合う、リング上の攻防そのものだった。
「いや、ちょっとまって、二人とも!? 殺気がガチじゃないか!? イカサマさん! さっきから露骨にコッチ見ながらひそひそ話してないで貴方も止めて下さい!?」
三郎太が悲鳴に近い声を上げる。今ここで、プロレス界の未来を担う二人が、道場での「痴話喧嘩」の延長で本気の殴り合いを始めてしまえば、団体としてのメンツは丸潰れだ。しかし、助けを求められたイカサマは、どこ吹く風で肩をすくめた。
「無茶を言ってくれるな三郎太クン。私にだって出来る事と出来ない事がある。いやむしろ出来ない事の方がぶっちゃけ多い自信があるぞ。それに……」
「それに?」
イカサマはそっとうつむいて首を振った。
「もう無理だ。美樹ちゃんに気付かれているからね……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、道場の入り口の扉が「バアン!」と、雷が落ちたような轟音を立てて開け放たれた。
「話は聞かせてもらったわ!」
仁王立ちで姿を現したのは、太平プロレスの社長令嬢、松平美樹だった。その瞳には経営側、フロントに携わり始めた者としての冷静さと、一人の女性としての決断力が同居している。彼女はこの騒動の最初から――あるいはイカサマが嘘をつき始めたあたりから、ドアの影で様子を伺っていたのだ。
「この勝負、私が預かります! 対決の舞台は三日後のウチの興行のリングでつけましょう!」
これぞプロレス界の「天の声」である。道場での私闘という最悪の結末を回避しつつ、それを興行としての利益に変換する。その逞しさは、太平プロレスの血筋ゆえか。
「……いいでしょう、私には勝てないと言う事を、久々にとことん思い知らせてあげるわ」
ベスが不敵に微笑む。かつてアメリカの地で彼女はディーディーを破っている。その事実が、彼女に余裕を生んでいた。
「ハァン? コーチの指導を受け始めたばかりの昔のアタシに勝ったからってナメんじゃないわよ、ヒンヒン泣かせてやるよ」
ディーディーも負けてはいない。今の彼女には、全米を転戦して培った新しい技術と自信がある。何より、三郎太という「賞品」が目の前にあるのだ。
「美樹ちゃん……」
美樹の強引な決定に、三郎太はただ呆然とするしかなかった。平和なトレーニングの時間が、なぜこれほどまでに殺伐とした興行への前振りに変わってしまったのか。
「逞しくなったものだ……。あの世で馬七っちゃんも呆れ……もとい、安心していることだろう」
イカサマが遠い目をしながら、昨年鬼籍に入った美樹の祖父である伝説のレスラーに思いを馳せる。残念だがその言葉が嘘か真か、誰も確かめる術はない。
「当日試合の解説は……あ、三郎太クン見っけ。宮川三郎太を解説担当とします!」
美樹の指が、ビシッと三郎太を指差した。
「……美樹ちゃん」
三郎太はガックリと項垂れた。自分のことが原因で争う二人の試合を、当事者として目の前で解説しなければならない。それは、どんなに過酷なトレーニングよりも、どんなに痛い必殺技を受けるよりも、精神を削り取る過酷な任務であった。その三郎太の背中に、ブライアンがそっと手を置いた。
「三郎太先輩……心中お察ししますぜ……」
その言葉は、今日この道場の中で交わされた言葉の中で、最も優しさに満ちた言葉として響いたのだった。
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道場での騒乱から三日。その因縁は、太平プロレス興行のメインカードの一戦として、熱狂する観衆の前に持ち込まれた。会場内は、この異色かつ感情的なマッチメイクを察知したファンたちの熱い期待感で膨れ上がっている。暗転した場内に、重低音のドラムロックが地鳴りのように響き渡った。青白い照明が花道を照らし、そこへ姿を現したのはシロオニ・ベスだ。彼女は純白の着物をマントのように肩に羽織り、その下には黒と赤を基調とした、金色の縁取りが眩しい戦闘服(ビスチェ)を纏っている。豪華なアラベスク模様が施されたレギンスが、彼女の引き締まった脚のラインを強調していた。エプロンサイドに辿り着くと、彼女は一切の迷いなく着物を投げ捨て、リングイン。その瞳には、対戦相手への敵意以上に、ある一点への強烈な執着が宿っていた。
続いて、陽気なカントリーミュージックが会場の空気を一変させる。ディーディー・ロジャースが、観客の声援に投げキッスで応えながら入場してきた。茶色のカウボーイハットを指で軽快に弾き、炎の模様が刻まれた自慢のカウボーイブーツをリングマットに叩きつける。彼女の豊満な肢体を包む茶色の衣装は、スポットライトを浴びて一層の輝きを放っていた。そして放送席では、額に薄っすらと汗を浮かべた宮川三郎太が、実況アナウンサーの隣で身を縮めていた。
『さあ、太平プロレス特別興行! 注目のシングルマッチが始まります。かの強豪アカオニ・トムの弟子であるアメリカからの刺客ディーディー・ロジャースと、太平プロレスに居候する愛の狩人、シロオニ・ベスの対決! 今回の解説にはその両者とも対戦経験のある太平プロレスの若手エース、宮川三郎太さんにお越し頂いております!』
場内に響き渡る実況アナウンサーの張りのある声が、かえって放送席の一角に座る男の緊張を際立たせていた。
『あ、はい! よろしくお願いします』
三郎太の声はどこか上ずっている。実況アナウンサーは、視聴者が最も気になっている「裏事情」へと容赦なく踏み込んだ。
『さて、このマッチ、いかなる経緯での戦いなのでしょうか? ディーディー・ロジャースはシロオニ・ベスからすれば兄の弟子にあたるとか。太平プロのリングでぶつかるというのは不思議にも思えますが?』
三郎太は視線を泳がせ、落ち着かない様子で放送席のモニターとリング上を交互に見やる。
『いや……なんというか。ベスとディーディーさんはアメリカでも旧知の間柄のようなんですが、どうもあまり仲がよろしくないようで……。道場内で一触即発の事態になっちゃいまして。それでどうせやるならと……』
三郎太はそこまで一気にまくしたてると、語って良い範囲を逸脱していないか反芻確認するように口を噤んだ。しかし、そんなうかつな隙を見逃すほど、プロの実況アナウンサーは甘くない。
『なるほど、ちなみにこれは私の邪推なんですが……もしかして喧嘩の理由に三郎太さんが関わって居たりとかしませんか?』
実況の鋭いツッコミに、三郎太は数秒間、完全にフリーズした。解説者としてあるまじき沈黙の後、絞り出すように答える。
『…………。……ノーコメントですね』
その言葉は、肯定よりも雄弁に事実を物語っていた。
『なるほど、なんとなくわかりました。ありがとうございます。それではこの降って沸いた一大対決をファンの皆さんと拝見してまいりたいと思います!』
確信を得た実況の声は、先ほどよりも一段と弾んでいた。この「因縁」こそが興行のスパイスになると確信した実況は、三郎太の困惑を置き去りにしてカメラへと向き直る。
――カーン!
試合開始を告げるゴングが鳴り響く。だが、ディーディーはベスに向き合うよりも先に、放送席で困惑する三郎太を真っ直ぐに指差した。彼女は観客を見回すと、わざとらしく胸の谷間を強調するようなセクシーポーズを決めて艶然と微笑む。
「ハーイ、みんな! それに……サブロウタ! アタシはもうすぐ帰っちゃうのよ? 今日はベスじゃなくて、アタシだけをしっかり見ててね♡」
会場から野太い歓声が上がる。しかし、その甘い言葉は、対角線上に立つベスの導火線に完全に火をつけた。
「……私の前で、よくもそんな口を!」
怒りで顔を真っ赤にしたベスが、弾丸のような速さで突進した。