「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
――カーン!
試合開始を告げるゴングが鳴り響く。だが、ディーディーはベスに向き合うよりも先に、放送席で困惑する三郎太を真っ直ぐに指差した。彼女は観客を見回すと、わざとらしく胸の谷間を強調するようなセクシーポーズを決めて艶然と微笑む。
「ハーイ、みんな! それに……サブロウタ! アタシはもうすぐ帰っちゃうのよ? 今日はベスじゃなくて、アタシだけをしっかり見ててね♡」
会場から野太い歓声が上がる。しかし、その甘い言葉は、対角線上に立つベスの導火線に完全に火をつけた。
「……私の前で、よくもそんな口を!」
怒りで顔を真っ赤にしたベスが、弾丸のような速さで突進した。ディーディーが構えをとる暇さえ与えず、その顔面へ強烈なビッグブーツを叩き込む。
「……アウッ!?」
鼻柱を捉える鈍い衝撃音と共に、ディーディーが後方のコーナーまで吹っ飛ぶ。ベスは追撃の手を緩めない。逃げ場を奪うようにコーナーへ追い詰めると、殺気立ったエルボー・バットを左右交互に、雨あられと叩き込んだ。
「この火遊び女が……! 媚びた色目であの人にッ!」
「グッ……!」
プロレスの技術云々以前に、むき出しの情念が拳に乗っている。ベスはさらにディーディーの自慢の金髪を鷲掴みにすると、そのまま叫び声を上げてリング中央へと力任せに投げ飛ばした。
「このっ……泥棒猫がぁっ!」
ヘアー・ホイップの勢いでディーディーの体がマットを転がる。荒い息をつきながら、ベスは倒れたディーディーを見下ろす。だが、対する奔放なテキサス娘も、やられっぱなしで終わるタマではない。立ち上がろうとするディーディーへベスが再び突撃した瞬間だった。
「……熱くなりすぎよ、純情娘が!」
ディーディーが低い姿勢から一気に踏み込み、右腕を大きく振り抜いた。スティアーラリアット――師であるアカオニ・トム譲りの、体重を乗せた不意打ちの一撃が、ベスの喉元を完璧に捉えた。ベスの体が首を支点に空中で半回転し、激しくマットに叩きつけられる。
『おーっと、これは強烈! 彼女の師であるアカオニ・トムの「トムさんラリアット」を彷彿とさせるすさまじいラリアット! シロオニ・ベスが半回転してふっとんだ!?』
実況の絶叫に、三郎太は自分の首を押さえるようにしてコメントを返した。
『あれ、キツいんですよね。脳が揺れて朦朧と来る上に喉がつぶれて呼吸が苦しくて……。ディーディーさんはああ見えて、相手の勢いを利用して威力を倍増させるのが本当に上手いんです』
かつてその腕をその身に受けた痛みを思い出すように、彼は顔をしかめて言葉を紡ぐ三郎太を興味深げに実況が横目で見やる。
『さすがに体感者である三郎太さんの言、実感がこもっていますね。それはそうと、開始直後のディーディー・ロジャースのアピール、あきらかに三郎太さんを意識していたようですが……?』
またもや実況が「そこ」を掘り返す。三郎太は観念したように、消え入りそうな声で白状し始める。
『ええと……その、初対面の時……試合より前のことなんですが、駅で迷ってる彼女を案内してから、なんだか気に入られているようで……』
『なんですかそのラブコメ漫画の第一話みたいな話?』
実況の素直すぎる感想に、三郎太は立ち上がらんばかりの勢いで抗弁した。
『ただの親切ですよね!?』
実況は苦笑いを返すが、観客は笑い半分、嫉妬の怒声半分と言ったところだ。
リング上では、ディーディー・ロジャースが主導権を握り続けていた。マットに沈んで僅かな間、朦朧とするシロオニ・ベスに対し、ディーディーは追撃の手を緩めない。彼女は倒れ伏したベスの首筋を見定めると、自慢の長い脚を高く振り上げた。
「昔もろくな敵がいないと始終イラついていたわね、エリザベス!」
滞空時間の長いレッグドロップが、ラリアットの衝撃が残るベスの喉元へと正確に投下された。全体重を乗せた太腿が気道を圧迫し、ベスは「あぐっ!?」と短い悲鳴を上げて身悶える。ディーディーの攻撃は、かつてアメリカで共に切磋琢磨し、そして格上と見上げてきたからこそ、容赦がなく執拗だ。ディーディーはそのままベスの腰を掴んで引き起こすと、その豊かな肢体のバネを最大に生かしてパワーを生み出す。
「さあ、テキサスの風を感じさせてあげるわ!」
流れるような動作でベスを抱え上げると、マットの中央へ向かって豪快なボディスラムを見舞う。背中から叩きつけられた衝撃でベスの肺から空気が押し出されるが、ディーディーはフォールには行かず、立ち上がって観客席、そして放送席に向かって華やかに投げキッスを振りまいた。その挑発的な振る舞いは、まさに全米マットを渡り歩いてきた千両役者のそれであった。しかし、そのアピールこそがベスにわずかな隙を突く好機を与えた。続いて髪を掴んで無理やり引き起こそうと手を伸ばすディーディーの腕を、ベスは蛇のような執念で絡めとったのだ。
「……そもそも、いつまで日本に居座るつもりよ!? 三郎太さんはあなたの遊び相手じゃありません!」
ベスは下からの力強い動きでディーディーの首を捉え、フロント・ネックロックで強引に締め上げた。細い腕からは信じられぬほどのパワーが白鬼たる所以の一つ。三郎太を「遊び相手」扱いされていることへの怒りが、彼女の筋力を限界まで引き出していた。絞め技の圧迫にディーディーの顔が歪む。だが、ディーディー・ロジャースもまた、今の自分に確固たる自信を持ったレスラーだ。彼女はベスの拘束を、鍛え上げられた背筋の力で強引に振り払うと、その場跳びとは思えないほどの打点で宙を舞った。
「コーチと違って自分の金で滞在してんだから……そんなの私の勝手でしょうが!」
放たれたドロップキックは、ベスの顎を正確に撃ち抜いた。脳を揺らされたベスが膝をつく。そこへディーディーが素早く背後へ回り込み、ベスを押し倒し、その両脚をクロスさせて引き絞っていく。セットされたのは、完璧な形のシャープシューター(サソリ固め)だった。
「くっ、三郎太さんの試合でも見たけど……あのディーディーが、これほどの精度で関節技を……ッ!? があああッ!?」
ベスの腰が、ディーディーの力強い引き上げによって弓なりに反らされる。普段、パワーと華やかさを武器にする一方でどこかガサツで繊細さに欠けていたディーディーが、これほどまでに執拗で正確な技術を披露することに、ベスは驚愕を隠せなかった。
「苦手よ! だからコーチはアタシにこれひとつだけ全力で仕上げろと指導した!」
ディーディーの言う「コーチ」とは、ベスの実兄の一人であり、全米屈指の実力者アカオニ・トムのことだ。彼はディーディーに言った。
「俺も得意とは言わねえが……お前の関節技はホンットーにダメダメだな。……だからこれ一つだけ覚えて練習しろや。他の関節技締め技は一切練習せんでいい」
たったひとつならば、とディーディーはシャープシューターだけを鍛え上げたのだ。
「う、上兄様が……ッ!?」
トムらしい雑でありつつも的確な指導発想にベスが唸る。これならバカでも苦手でも覚えられるだろというぼやきが聞こえてくるようだ。
「コーチは不真面目だし、アタシとは夜遊びしてくれないけど……指導は確かだわ! 成果とお礼にたっぷり絞ってあげる……!」
さらっと問題発言を口の端から零しながら、ディーディーは全体重を預け、ベスの脊椎に限界の負荷をかけていく。
「ああああっ!?」
プロレスラーとしての矜持、そして女としての意地が、マットを叩くことをベスに許さない。だが、肉体は悲鳴を上げていた。
「見た、サブロウタ? これが本物のアタシの力よ!」
ディーディーは苦悶するベス越しに、再び放送席の三郎太へ視線を送る。その余裕の笑みは、ベスにとって最大の屈辱だった。
(痛い……身体が、ふたつに割れてしまいそう……)
ベスの意識が遠のきかける。
実況席では、アナウンサーが興奮を隠しきれずに絶叫していた。
『決まったーー! 完璧なシャープシューターががっちり決まってしまったぁ! 地を這う蠍の如くベスの腰を真っ二つに折り曲げている!』
三郎太は、戦況を冷静に――あまりにも冷静に見つめながらマイクを握った。
『セットアップに迷いがありませんね。体に覚え込ませるためにかなり練習を積んでいる動きだと思います。脚のロックの深さも、腰を落とす位置も理想的です』
『的確な解説だとは思います。が……なんかディーディー・ロジャースは明らかに放送席の方を見てアピールしているようですが? 三郎太さん?』
またもいじろうとする実況の言葉。しかし。
『個人的には試合中は集中した方がいいと思うんですけど、彼女のアレは相手の心を折る為の戦術でもありそうなので何と言っていいか……』
ズレた分析で応える三郎太の言葉に、実況が呆れたようにツッコミを入れた。
『そんな他人事みたいに……。いいんですか? シロオニ・ベスの表情は大分苦しそうですよ? 彼女の危機に対して何かこう……応援とか心配とかそういうのがあってもいいんじゃないかな~、と』
その言葉を聞いた瞬間、三郎太は不思議そうに小首を傾げ、ごく当たり前のことのように言い切った。
『え? ああ、ベスがあのくらいで折れるわけないじゃないですか』
その言葉は、リング上のベスの耳に届いた。激痛、屈辱、混濁する意識。そのすべてを、三郎太の「信頼」という名の、あまりにも残酷で甘美な一言が塗り替えた。彼は自分を強き敵手として確かに認めている。
(ふ……ふふふ……さすがは三郎太さん、私を熱くさせる言葉を心得ていますね……!)
一瞬でも弱気になった自らを恥じ、ベスの瞳に再び青白い鬼火が宿る。こんな技さっさと抜けなければ。この「泥棒猫」を排除し、再びあの男と対等に……全力を尽くして死闘を繰り広げられるその日を迎えるために。ベスの指先が、力強くマットを掴んだ。
「エリザベス……力づくで這ってロープへ行こうっての……!?」
ディーディーが驚愕に目を見開く。腰を二つに折り曲げるシャープシューターの激痛。脊椎が軋み、目の前がチカチカと明滅する。普通ならギブアップしてもおかしくない状況だ。しかし、ベスは全身の筋肉を震わせ、指先をマットに食い込ませながら、一寸、また一寸と前進していた。その執念は、技をかけているディーディーに恐怖すら感じさせる。
ついにベスの指先が、リング最下段のロープに触れた。
「……ここで、タップなんて無様な真似……できるかァッ!!」
ベスが叫び、ロープを力一杯掴み取る。レフェリーがディーディーを制止し、技の解除を命じた。
「チッ……!」
ディーディーは舌打ちし、不承不承ながらも技を解いた。しかし、彼女の瞳にはまだ勝ち誇った色が残っている。ベスの脚と腰には、すぐには立ち上がれないダメージが刻まれている。ベスが痛みに顔を歪め、マットを這うようにして立ち上がろうとしているその緩慢な動きを見逃さず、既にテキサス娘は動いていた。ディーディーはコーナーへと駆け、そのまま躊躇なく最上段へと駆け登った。リングを見下ろす彼女の姿は、逆転を許さぬ死神のようでありながら、どこか優雅ですらあった。
「……トドメよエリザベス、そしてサブロウタもアタシが奪ってやるわ!」
ディーディーが大きく宙を舞う。必殺のローンスター・ボディプレスだ。美しい放物線を描き、全霊の重みを乗せた肉体が、いまだ上体を起こすのみでダウン状態から抜けられていないベスを再びマットに押し戻すように真っ向から衝突した。
「ごふっ!?」
肺の中の空気がすべて強制的に吐き出され、ベスの意識が白く染まる。ディーディーはそのまま覆いかぶさり、ベスの両肩をマットに押し付けた。滑り込んできたレフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー!」
「うわあああ!」
スリーが叩かれる前に、ベスは喉が裂けんばかりの絶叫と共に、その体幹から生み出した怪力でディーディーの体を軽々と跳ね除ける。
「……ッ!? 嘘でしょ、これを返すの!?」
肩を上げたベスを、ディーディーが信じられないといった表情で見下ろす。会場のボルテージは最高潮に達し、割れんばかりの声援がドームを揺らした。
『返したぁ~! カウントは2! ローンスター・ボディプレスの直撃でもシロオニ・ベスは沈められな~い!!』
実況席ではアナウンサーが絶叫している。その横で三郎太は頷く。
『効いてはいます。けど、仕留めに行く判断が早すぎた。まだベスは切札を一枚も切ってません。ディーディーさんにまだ決め札があるのかどうか……』
自分の対戦試合の時は彼女はこれ以上の大技を出しはしなかった。出せなかったというならそこに光明はある。しかし、もう奥の手がないようならすでに開示済みの手札でベスを追い詰める策が必要になるだろう。そんな風に考え込む三郎太の思考を実況の声が断ち切った。
『ところで三郎太さんを奪うとか言ってたように聞こえましたが?』
さすがにコメントに困った三郎太が視線を泳がせる。
『えーっと……』
マットを叩いて悔しさを露わにするディーディーと、ふらつきながらも立ち上がろうとするベス。二人はリング中央で、互いの胸ぐらを掴み合うようにして組み合った。肉体と肉体がぶつかり合い、汗が飛び散る。パワーでもそうは劣らぬはずのディーディーだったが、今のベスから放たれる気迫はそれを凌駕していた。
「やっと見つけた私だけの一番の『敵』なの……私の、想いを……甘く見るなァ!」
ベスはディーディーの腕を潜り抜けるようにして腰を抱え、後方へと一気に反り投げた。ベスの得意技の一つ、エクスプロイダーだ。投げられたディーディーは背中からマットに叩きつけられ、その衝撃で大きく弾んだ。
「これで……終わりにします!」
ベスは痛みを訴える足腰の叫びを無視し、倒れたディーディーの腕を掴んで無理やり引き起こした。そのまま肩に担ぎ上げ、アルゼンチンバックブリーカーの体勢へ。
「こ、この体勢は……ッ!?」
察したディーディーが声を上げて脱出せんと必死にもがくが、ベスの背中の筋肉が隆起してそれを許さない。そこからさらに体勢を入れ替え、垂直落下式の変形バーニングハンマー――「白鬼金棒落とし」へと移行した。ディーディーの脳天が、真っ逆さまにマットに突き刺さる。
叫びは、衝撃音に掻き消された。レフェリーが再びカウントに入る。
「ワン! ツー!」
だが、ディーディーの肩が上がる。
「……ツーー、ナイン!」
気合だけでカウントを止めた彼女の瞳は、充血し、涙が滲んでいる。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! その技を出しさえすれば終わってた昔のアタシじゃ……ない!」
ディーディーの目の光はまだ消えていなかった。
「……!?」
かつてならば間違いなく終わっていた。自らの必殺技を受けてなお沈まぬ成長を見せつけたディーディーにベスは驚愕し、絶句する。その隙を見逃さず、膝をついて立ち上がるディーディーが、最後の一滴を振り絞るようにして右手を振り抜いた。
乾いた打撃音が会場にこだまし、一瞬の静寂が落ちた。執念のビンタがベスの頬を捉えた。張られたベスの白い肌に、鮮やかな紅葉の跡が彩られる。ディーディー・ロジャースの執念の張り手。それは、かつてアメリカで「兄の弟子」というフィルター越しにしか自分を見ていなかったベスに対する、一人のプロレスラーとしての強烈な自己主張であった。
「む、昔より威力が増してる……わね……。すまし顔で強くて当然みたいなツラしやがって……ホントむかつくわ!」
その痛みが、ベスの脳を極限までクリアにした。かつてのディーディーであれば、白鬼金棒落としという大技を食らった時点で心も体も折れていたはずだ。だが、目の前で膝をつき、肩で荒い息をしながらも闘志の炎を絶やさないこの女は、間違いなく全米マットを生き抜いてきた一端のレスラーとなっていたのだ、と認めざるを得ない。
「……ナメてたのは事実、それは詫びてもいい」
ベスの口から、低く、しかしはっきりとした声が紡がれる。それはアメリカ時代からの因縁に対する、初めての純粋な敬意の表明だった。しかし、同時にベスは踏み込んだ。ディーディーが次の防衛動作に移るよりも早く、その懐へと深く潜り込む。ディーディーの頭を押し下げ、腰をがっちりとクラッチすると同時に、彼女の両腕を手繰り寄せ、腹部の前で交差させるようにして完全にロックした。
「けど、三郎太さんに関しては私も本気なの。いい加減に……Yankee, Go home!(とっとと国へ帰りなさい!)」
叫びと共に、ベスの全身の筋肉が爆発的なバネを生み出した。ディーディーの身体がいともたやすく宙へと持ち上げられる。交差された腕のロックは外れることなく、ディーディーは真っ逆さまの無防備な状態のまま、高々と空中へ掲げられた。頂点に達した瞬間、ベスは己の全体重を乗せ、シットダウン式で一気にマットへと叩きつけた。
鈍く、重い轟音がリングを揺らした。
「……がはッ」
「White Ogre X-Tomb Bomb」――通称「W.O.X.B」。かつて御子柴戦において、ベスがきっかけを掴み、ついには実の兄であるアカオニ・トムとの闘いで完成し、スリーカウントを奪い取った新必殺技である。腕を拘束されたまま後頭部から背中にかけて強烈な衝撃を浴びたディーディーは、完全に意識を断ち切られ、目を閉じてマットに大の字となった。ベスはロックを解かず、そのままの体勢でディーディーの身体を押さえ込む。
レフェリーがマットに滑り込み、大きく手を振り上げた。
「ワン! ツー! ……スリー!」
カンカンカンカンカンカンッ! 試合終了を告げるゴングが、熱狂のるつぼと化した会場に鳴り響いた。
『決着ぅーっ! シロオニ・ベス、執念のホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム! 師匠のアカオニ・トムから3カウントを奪った技の前に、弟子もまた屈してしまったぁ! テキサスの風を、鬼の剛腕が叩き伏せました!』
実況アナウンサーの絶叫が、スピーカーを通じて会場内に響き渡る。観客たちは総立ちとなり、2人の意地がぶつかり合った名勝負に惜しみない拍手と歓声を送っていた。その放送席で、宮川三郎太は身を乗り出し、食い入るようにリング上の光景を見つめていた。彼の目は、自分を巡って争っていた二人の女性のドラマなどすでに完全に抜け落ち、「プロレスラー」としての純粋な驚愕と探求心だけで染まっていた。
『これがW.O.X.B……!? 両腕をクロスで拘束してのハイアングルパワーボム……なんて技だ、あれじゃ受け身の取りようがない……!』
三郎太の口から、無意識のうちに戦慄の言葉が漏れる。その緻密で残酷なまでの合理性を前に、彼はどうすればあの技を破れるのか、そればかりを考えていた。
『三郎太さんをして戦慄せしめる威力! まさに鬼! そういえば、三郎太さんはこの技を間近でご覧になるのは初めてでしたか?』
実況の問いかけが届いているのかいないのか、モニター越しではない間近でベスの新必殺技を目に焼き付けた三郎太はマイクを握りしめ、熱っぽく頷いた。
『やっぱりベスは強い……! 僕もこのままじゃ居られない、強くならないと!』
三郎太から向けられたその熱い視線を、リング上で横たわるベスは確かに感じ取っていた。激闘を終え、全身の力が抜け落ちたベスは、力尽きたようにディーディーの身体から転げ落ちた。そのまま仰向けになり、眩しい照明が輝く会場の天井を見上げる。胸が激しく上下し、息をするのも苦しい。だが、彼女の心はかつてないほどの充足感に満たされていた。
波のように押し寄せる観衆の歓声を遠くに聞きながら、ベスの頬を一筋の滴が伝い落ちた。それは、死闘を乗り越えた証である勝利の汗だったのか。あるいは、強力な恋敵を退け、自分の居場所を守り抜いた安堵の涙だったのか。ベス自身にも、それは分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがあった。彼女の視線の先には、解説席に縛り付けられながらも、立ち上がって精一杯の拍手を送っている一人の男の姿があった。
三郎太のあの真っ直ぐな瞳。自分を「女性」としてではなく、いつか迎える再戦の日に打ち倒し組み伏せるべき「敵」として、あるいは高め合う「同志」として見つめる、不器用で熱を帯びた眼差し。それがどうしようもなく愛おしかった。
(三郎太さん……私は、あなたと再び戦うために、いいえ、あなたを超えるために……!)
ただ恋焦がれて後をついて回っているのではない。彼と戦い、彼と互角に渡り合い、彼をねじ伏せ、超え、そして最後には彼を自分のモノにする。それが「シロオニ・ベス」というプロレスラーが抱く、歪で、しかしどこまでも純粋な愛の形なのだ。燃え尽きたはずの身体の奥底で、次なる闘志が静かに、しかし確実に産声を上げていた。
美しい余韻に包まれた会場の中、ベスがゆっくりと身を起こそうとしたその時だった。
『……あー、三郎太さん。お気持ちは痛いほどわかりますが、マイクのすぐ近くで思いっきり拍手するの、やめてくれと音声担当から泣きの指示が入りました』
実況アナウンサーの、少し困惑したような声が会場のスピーカーからこぼれた。
『あ、すいません』
解説席から聞こえてきた三郎太の間の抜けた謝罪の声に、会場は一瞬の静寂の後、どっと温かい笑い声に包まれた。
リング上で顔を覆うベスの口元にも、呆れたような、しかし隠しきれない小さな笑みがこぼれていた。