「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第29試合(オトギプロレスリングお祭り興行):シングルマッチ「オディール久我VSキャプテン・フック」

 地方のそこそこの規模の公営体育館を借り切って行われるいつものプロレス団体「オトギプロレスリング」の主催するお祭り興行。しかしそれは、普段行われているスポーツ大会等とは全く異なる、ねっとりとした熱気と興奮に支配されていた。パイプ椅子が隙間なく並べられたフロアはもちろんのこと、2階席の端に至るまで観客がぎっしりとつめかけており、それでも入りきれなかったファンたちが会場の後方で何重もの立ち見の列を作っているほどの盛況ぶりである。熱狂の中、リングサイドに設置された放送席から、スピーカーを通して凛とした少女の声が会場全体に響き渡る。

『むかしむかしあるところに「オディール久我VSキャプテン・フック」の試合がありました。……じゃなくてオトギの……えーと、なんでしたっけ。とにかく試合です』

 オトギプロに所属するエジプト人の若手レスラーであり、本日は実況の大役を任されたアサル・ザ・ジニーの、絶妙に抑揚の欠落した、見事なまでの棒読みセリフである。ランプの魔人をモチーフにしたギミックを付与されているはずのエキゾチックな容姿に反して、あまりにもマイペースで拙いそのアナウンス能力に、すし詰めの観客たちから次々と愛のあるツッコミとヤジが飛ぶ。

「いやちょっとまてや!?」「棒読み猟師さんを過去に見ていた我々としてはある程度覚悟はできていたはずだった。遥かに予想以下だった!」「社長!? アサルに実況は無理だよ!?」「あの娘、日本語の成績は良いのになんでこう……」

 しかし、リングサイドのアサルは観客のどよめきに全く動じる様子を見せない。台本片手に、マイクに向かって真面目な顔つきのまま諭すように言葉を紡ぐ。

『お客様が大声でアナウンスさえぎっちゃダメです。ちゃんと静かに見てるお客様に配慮しなくてはいけません』

 そのド正論すぎる切り返しに、騒いでいた観客たちは一瞬にして言葉を詰まらせた。

「ぐぅ正論」「そう言われるとぐぅの音も出ない」「出るのか出ないのかどっちなんだい!?」「フヒヒ、サーセン!」「俺のアサルは今日も可愛いなぁ」「可愛いのは同感だが、アサルはお前のではない」

 呆れと親愛が入り混じった笑い声が会場を包み込み、プロレス興行特有の殺伐とした空気はすっかりアサルの独特のペースに飲み込まれていた。そんな和やかな空気の中、アサルはさらに台本を読み進める。

『まもなくゴングが鳴らされます。新たなヒールとベテランヒールの対決をとくとご覧ください。勝った方がハイヒールです』

「なんて?」「うんうん、ハイヒー……ハイヒール!?」「上位の悪役ってハイヒールでいいのか?」「オディールにハイヒールで踏まれたい人生だった」「船長がハイヒールで踏んでくれるってよ」「やめてください、しんでしまいます」

 アサルの放った天然の謎掛けに観客たちが再び沸き立つが、リング上に立つ二人のレスラーの間に流れる空気は、観客席の温かな温度とは対極にある、ひたすらに冷たく張り詰めたものだった。一方のコーナーに立つのは、黒と深い紫を基調とし、金色の縁取りを施した露出度の高いレオタードに身を包んだオディール久我。かつては太平プロレスに所属し、「ライジング雫」としてリングに立っていた彼女は、今や、おとぎ話の「黒鳥オディール」をモチーフギミックとしたオトギプロのヒールへと劇的な変貌を遂げていた。網タイツに包まれた脚と、両手首に巻かれた黒いファーが、彼女の纏う危うい色香と深い闇への堕落を象徴している。彼女の紫色の瞳には、ただ己の冷酷さを証明せんとする暗い炎が宿っていた。対するもう一方のコーナーには、オトギプロレスリングが誇るベテランヒール、キャプテン・フックが悠然と構えている。黒のノースリーブ・コンバットシャツに、青い錨のラインが入った濃紺のロングタイツ 。179センチの逞しい肉体と顔を覆う無骨な髭が、歴戦の猛者であることを雄弁に物語っていた。かつては国内エースに迫るトップレスラーの一人でありながら事故で片腕を喪失した彼は、右腕の肘から先に鈍い光を放つ可変式メカニック義手を装着している。

 両者がリング中央で睨み合ったその瞬間、カーン! と、高く澄んだゴングの音が、熱狂する会場の空気を鋭く切り裂いた。

 

 プロレスの試合は互いの力と技を確かめ合うように、リング中央でがっしりと組み合う立ち合いから始まる事も多い。しかし、悪役として新たな道を歩み始めた久我は、そのスポーツマンシップに則った展開を良しとしなかった。

「フフッ」

 冷ややかな笑みをこぼした直後、久我の身体が弾かれたように前方へと沈み込む。組み合うために腕を伸ばしかけていたフックの虚を突き、黒いリングシューズの靴底がマットを滑るようにして足元を刈り取り、奇襲のスライディングキックが炸裂した。

「ぬぅっ!?」

 先制打を想定していなかったフックは、膝下を的確に撃ち抜く衝撃にたまらず体勢を崩し、ドスンと片膝をマットに突かされる。会場がどよめく中、久我の攻撃は続く。膝をついて頭の位置が下がったフックの側頭部を標的に定め、しなやかな脚を鞭のようにしならせて強烈なミドルキックを放つ。風を裂く鋭い音が鳴り、必殺の蹴りがフックの脳を揺らすかに見えた。しかし、その直前で鈍い金属音がリングに響き渡った。

「うっ……硬い!?」

 久我が思わず顔をしかめ、苦痛の滲んだ声を漏らす。フックは片膝を突いた不安定な体勢でありながら、咄嗟に義手を顔の横へと掲げ、自身の顔面へ迫る蹴りをその硬質な甲の部分で真っ向から受け止めていたのだ。人間にはあり得ない金属の硬度を全力で蹴り飛ばした反動が、久我の脛に痺れるような痛みを伝播させる。

「ちょいと聞かん坊だが、俺の自慢の腕でねっ!」

 痛みに久我の動きが一瞬だけ停止した。歴戦のベテランがそのわずかな隙を見逃すはずがない。フックは蹴りを受け止めた姿勢から一気に腰を落とし、残された強靭な下半身のバネと分厚い肩の筋肉を猛然と隆起させ、立ち上がりざまに突進する 。鍛え抜かれた巨体から放たれる、かちあげショルダータックルだ。

「うぐっ!?」

 下から突き上げるような理不尽なまでの質量とパワーをまともに胴体に食らい、久我の身体がフワリと宙に浮く。そのまま抗う間もなく後方へと吹き飛ばされ、マットに激しく尻もちをつかされた。肺から空気が押し出される重い一撃に視界が大きく揺れる。荒い息を吐きながら倒れ込む久我を見下ろし、追撃に出るでもなく、フックは口角を吊り上げて鼻で笑い、悠然とした態度で言葉を投げかけた。

「どォした、黒鳥オディール? ……飛べねえなら俺の船に乗せてやろうか?」

 その圧倒的な余裕と侮蔑の色を帯びた挑発が、久我の胸の奥底で燻る焦燥と怒りの火に油を注いだ 。絶望へ誘う完璧な黒鳥の姿。それがこんな序盤であっさりと地に這わされている事実が許せなかった。

「バカにしないで……ッ!」

 屈辱に唇を噛み締め、弾かれたように起き上がった久我は、そのまま待ち構えるフックへ向かって一直線に踏み込み、自慢の脚を真っ直ぐ天高く振り上げた。網タイツに包まれた長い脚が美しい弧を描き、脳天をカチ割る鋭いかかと落としとなってフックへと迫る。しかし、その必殺の踵がフックの頭を捉えることはなかった。

「おっとあぶねえ」

 フックは後退して回避するのではなく、あえて久我の懐へと一歩深く前進していたのだ。距離を極端に詰められたことで踵落としの軌道は大きく狂い、フックは振り下ろされた久我の膝裏を、自身の分厚い肩でガッチリと受け止めていた。最大の威力を発揮する先端部分を殺され、久我の攻撃は完全に無力化されてしまう。

「まーだ、分かってねェみたいだな、しゃーない、荒っぽくいくぜェ!」

 膝裏を肩で担ぎ上げたフックは、空いた左手で久我の細い腰をガッチリと保持する。そのまま圧倒的な腕力と背筋力で、彼女の身体を高々と逆さまに持ち上げた。

「あぁ……ッ!?」

 天地がひっくり返り、完全に無防備な体勢で掲げ上げられた恐怖に、久我が悲鳴に似た声を上げる。リフトアップボディスラム。フックは頂点まで持ち上げた久我の身体を、自らの体重を乗せるようにして容赦なくマットへと叩きつけた。重低音が体育館に響き渡り、背中からマットに叩きつけられた久我の口から苦悶の息が漏れる。だが、フックの悪役としての責め苦はこれで終わりではない。ダウンして身悶えする久我の腕を素早く取ると、自らの右腕の義手を手首辺りを支点に前腕と回転交換させ、安全の為に先が丸くなった樹脂製の鉤型となったフックモードへと可変させる。その鉤を支点として彼女の腕を捻り上げる義手アームロックに捕らえたのだ。

「がああっ!? くっ!」

 テコの原理で無慈悲に極められた肩の関節がミシリと悲鳴を上げ、硬質な感触が肉に食い込む激痛に、久我は顔を歪めて呻き声を上げた。痛みに悶える久我の耳元で、フックが声を落として囁く。それは観客にアピールするためのものではなく、悪役の道を歩み始めたばかりの新人に向けた、歴戦のヒールからの確かな訓戒だった。

「……違うなァ……、今お前が対戦相手と観客に見せるべき顔は怒りと焦燥じゃねえ。不敵な笑みと余裕だ」

 その言葉は、痛みを堪え、ただ目の前の敵への怒りに身を任せようとしていた久我の心に、冷たい刃のように深く突き刺さった。

「……ッ、離れなさいっ!」

 久我は屈辱に震えながらも、その体にはかつて「ライジング雫」として培ってきた一線級のレスリング技術が染み付いている。義手の鉤を支点に絞り上げられる激痛の中、彼女は力任せに抗うのをやめた。自らの身体をフックの懐へと滑り込ませるように寄せ、関節の遊びを作ると同時に、自由な方の手でフックの義手の手首部分を的確に掴む。テコの原理を無効化するその流れるような円の動き。フックが「ほう」と感心したように力を緩めた一瞬の隙を突き、久我は前方へと転がるようにして脱出した。マットを転がり、すぐさま距離を取って立ち上がる。しかし、左肩には確かな鈍痛が残り、無意識のうちに右手でそこを庇ってしまう。

「ハァ、ハァ……ッ」

 肩の痛みと、先ほど言われた言葉を正しいとどこかで感じている彼女の思考が、かえって彼女の冷静さを削り取ろうとしていた。だが、フックは休ませてはくれない。

「逃がさねェぞ、黒鳥さんよォ!」

 巨体に似合わぬ俊敏さで、フックが追撃の突進を見せる。重戦車のような圧力が迫る中、久我の闘争本能が火を噴いた。突っ込んでくるフックの勢いを逆手に取り、彼女は軸足一本で鋭く跳躍する。

「シッ!」

 空中で身体を捻り、しなやかな右脚をフックの首元へと叩き込んだ。カウンターの延髄斬りだ。

「ぐおっ!?」

 まともに頸動脈付近を撃ち抜かれたフックが、その勢いのままマットに沈む。大きな地響きが鳴り、会場のボルテージが一気に跳ね上がった。

「今よ……!」

 チャンスを逃さず、久我は倒れたフックの腹部を見据えて跳躍した。高く、美しく、それでいて残酷なまでの殺意を込めたジャンピング・ダブルフットスタンプ。

「おごっ!?」

 空中で揃えられた両足の裏が、フックの分厚い腹筋を無慈悲に踏み抜く。肺から強制的に空気が押し出され、フックの顔が苦悶に歪んだ。久我は着地と同時に、止めの追撃に移る。狙うは、いまだマットに顔を伏せているフックの側頭部だ。

「これで……ッ!」

 サッカーボールを蹴り飛ばすような無慈悲な一蹴。しかし、そのつま先がフックの頭を捉える直前、大きな掌が鋼鉄の枷のように彼女の足首を掴み取った。

「おっとォ、ここまでだ!」

「なっ……!?」

 伏せていたはずのフックが、獲物を狙う獣のような鋭い眼光で久我を見上げていた。彼は掴んだ足首を力任せに引き寄せ、久我のバランスを崩してマットに引き倒す。

「技術は上等じゃねェか! 今度はこっちからいくぞォ!」

 転倒した久我のもう一方の脚も、フックの逞しい両腕が逃さず捉えた。そのまま彼女の腰を浮かせ、自らの両脇にその脚をがっちりと抱え込む。

「あ、あぁ……ッ! 回る……!?」

 フックがその場で力強く旋回を始めた。ジャイアントスイングにより、久我の視界が高速で回転し、遠心力によって血が頭に上る。1回転、2回転……フックの足取りは衰えるどころか、回転速度を増していく。

 実況席では、アサルがその光景を淡々と、しかしどこか独特の節回しで語り始めた。

『あーっと、ここでジャイアントスイング。フック船長の渦潮のような大回転に黒鳥オディールが飲み込まれたー。3回転、5回転……7回転目で放り捨てるー』

 アサルの内容自体は状況を正しく把握しておりながら、決定的な相変わらずの棒読みの実況に、観客たちは複雑な反応を見せる。

「アサルちゃん……もうすこしこう、抑揚というか、興奮っていうかこう……」「既にヒノモト昔話ナレーターモードに切り替えてイヤホンで聞いている俺に隙は無かった」「なんであのモード、ごく一部に熱狂的なファンがいるのかいまだにわからない」「お前ら応援とか心配とか少しはリング上に声援しろよ」「船長がんばえー」

 野次と笑い声が飛び交う中、7回転を数えたところでフックは久我の脚を解放した。放り投げられた久我の身体はマットの上を激しく転がり、コーナー付近でようやく止まる。

「う、ぅぐ……視界が……」

 猛烈な三半規管の混乱に、久我は立ち上がることすらままならない。フックもまた、自らの回転による目まいに耐えるように足元をふらつかせながら、しかし観客に向かって左の義手を高々と突き上げた。

「いくぜェ! ご来場のお子様待望のヤツ! ロケット……パァーンチ!」

 その叫びと共に、会場内の子供たちから割れんばかりの歓声が上がった。フックの左義手が重厚な機械音を立てて変形し、内部からシュルシュルと噴射炎と白煙が上がる。久我は何とか顔を上げ、迫りくる危機を感じ取った。

(くっ、めまいで避けれないなら……防御すれば!)

 彼女はフラつく意識の中で両腕を顔の前でクロスさせ、防御を固める。だが、射出された金属の拳は、彼女の予測を嘲笑うかのように空中で不自然な弧を描いた。

「軌道が変わった!? かふっ!?」

 防御の間をすり抜けるように潜り込んだ義手の拳が、久我の無防備な腹部にクリーンヒットした。衝撃で身体が「く」の字に折れ曲がり、久我はマットを転がって悶絶する。一方、放たれたパンチはどういう超技術によるものか、噴射煙をまき散らしながら自動でフックの元へと戻り、ガチンと小気味よい音を立てて再装着された。

「ゴホッ、ゲホッ! ……ゲーッホゲホゲホ……!?」

 噴射煙にむせて咳き込むフックの姿に、今度は大人たちの観客席からドッと笑いが起きる。殺伐としたヒール同士の戦いの中に混じる、オトギプロらしいコミカルな一幕。だが、リング上のフックの目は、依然として冷徹なプロのそれだった。フックは身悶える久我の元へ歩み寄ると、その鳩尾あたりに無造作にブーツのソールを乗せ、体重をかけるように踏みつけた。

「ぐっ……ぁ……」

 苦しげな声を漏らす久我を無視し、フックはレフェリーに向かってこれ見よがしに片手を挙げ、フォールを要求するアピールを行う。観客からはブーイングと声援が入り混じった怒号が飛ぶが、フックはその騒音を遮るように、足元で伏せている久我にだけ聞こえる低い声で告げた。

「……雫、お前は強い。だが、その顔はなんだ?」

 踏みつけられる屈辱に、久我は憎しみを込めてフックを睨みつける。しかし、フックは微塵も動じず、諭すような、しかし鋭い言葉を続けた。

「余裕のねえ悪役(ヒール)に、観客は絶望しねえ。笑え、黒鳥だろ? 邪悪に笑って立ち上がれよ、ピンチなんかじゃありませんってな」

 その瞬間、久我の脳裏に、エディの言葉が蘇る。

「……最終目標は宮川三郎太、ならびにその周りにいる女どもだ。御子柴も例外ではない。私の認識に間違いはないか?」

 そうだ、私は私だけの想いの為にあの人に食らいつく。そのために強いヒールになるのだ。久我は今の自分に必要なものを貪欲に食らおうと意識を切り替える。悪役としての矜持。敗北すらも自らの美学として飲み込む強さ。それを、目の前のベテランは文字通り「踏みつけ」ながら教えようとしている。

 フックの挑発を受け、久我の瞳から焦燥の色が消え去った。踏みつけられた痛みと、ベテランの言葉が混ざり合い、彼女の表情を歪な「悪役の笑み」へと変えていく。

「ワン! ツー!」

 レフェリーがマットを叩く。だが、久我は不敵な笑みを浮かべると、フックの脚を払って重心を崩させる。そして、隙を逃さずカウント2で跳ね起きて踏みつけから脱出すると、数歩下がって距離を取り、再び対峙する。フックは深追いせず、待っていた。それはまるで、獲物が自ら立ち上がり、再び牙を剥くのを愉しんでいるかのようだ。フックはニヤリと笑い、踏み込んで義手を振りかぶった。大振りのラリアットが久我の首元を薙ぎ払わんとする。しかし、久我はその懐へとスッと身を沈め、下をすり抜けるようにして回避した。

「遅いわよ、船長」

 がら空きになったフックへ、久我はすぐさま追撃の蹴りを見舞う。空振りの勢いでバランスを崩していたフックの足元を、久我の水面蹴りが正確に払った。

「ぬぉっ!?」

 支えを失ったフックの巨体が、マットへと崩れ落ちた。久我はすぐさまその背後に回り込み、獲物を絡め取る蜘蛛のように、複雑な関節技の迷宮へとフックを引きずり込んでいく。

「逃がしはしないわ……」

 ライジング雫であった時代に彼女が必殺技と位置付けていた変形STF、ティアドロップボディロック。フックの脚をロックし、さらにその上半身を強引に反らせて絞め上げる。逃げ場のない完全な捕獲体勢だ。フックの顔が苦悶に歪み、会場からは「決まるか!?」という期待の叫びが上がる。

 だが、フックは不敵に口角を上げた。

「ぐぅ……モード『ワイヤー』トランスフォーム! 照準よし……発射ァ!」

 ガチン、という機械音と共に、ロケットパンチを放った五指のついた先端が回転で前腕に引き込まれ、代わって鉤型の先端が出現する。そのフックの義手の先端がロープワイヤーを伸ばしながら射出された。それは空中で正確な軌道を描き、リング端のトップロープへと到達する。ワイヤーが自動で巻き取られ、ピンと張り、フックがロープにガッチリと引っかかる。

「そら、ロープブレイクだぜ」

 涼しい顔で言い放つフックに、レフェリーも戸惑いながら宣言する。

「……う、うむ。ブレイクだ、オディール久我、放せ」

「はぁ!? どこがロープブレイクなの!?」

 思わず久我が笑みを浮かべるのも忘れて抗議の叫びを上げる。フックの体ではなく、義手の一部がロープに触れているだけの強引なブレイクだ。

「あぁん? 義手は体の一部だ、俺の身体の一部がロープに触れてんだからロープブレイク、ルール通りじゃねェか、何がおかしい? そうだろ、レフェリー?」

「……義手義足は体の一部として慣習上認められており、我ら団体もそれを承認している。微妙に納得いかないものはなくもないが、こいつの義手が現行ルールの想定を超えてトンチキなだけで言ってる事自体は正しいと認めざるを得ない。ブレイクだ、オディール久我」

「くっ……!?」

 納得いかない表情で、久我は渋々その腕を解いた。フックは悠然と立ち上がり、久我に向かって嫌味な笑みを向ける。

「そうだぜ、全国の義肢ご利用の皆様がたを敵に回しちゃいけねえよ」

 立ち上がりながら嘯くフックに、レフェリーが力なく首を振って突っ込む。

「どっちかと言うとお前の方が全国の義肢ご利用の皆様を敵に回していると思うが……」

 レフェリーの小言を無視し、立ち上がったフックの瞳に宿る「悪」の輝きが増した。

「礼を言うぜ。お返しだ!」

 フックは射出していたワイヤーを巻き取ると見せかけて途中で止め、ワイヤーロープを久我の首筋へと回した。義手の鉤モードを活かした反則技、フックワイヤー・チョークだ。

「かふっ……!? か、身体の一部でもチョークは……っ!」

「そう、反則だなァ……だから5カウント以内にゃ解放してやる。だが――」

 反則カウントを数えるレフェリーの指が2、3と増えていく。フックはギリギリのタイミングでロープを解くと、息も絶え絶えの久我を強引に引きずり、コーナーへと連行した。トップロープの上に彼女を押し上げ、自身もセカンドロープへと足をかける。

「ただ、解放するだけじゃあヒールの名が廃るってもんよォ! 受けな、キールホール……スラァム!」

 船底に引きずり回す刑罰を冠した雪崩式のパワースラム。コーナー最上段から叩きつけられる衝撃に、久我は背骨が軋むほどの激痛を感じて視界が真っ白に染まる。

「ぐはっ……ッ!?」

 そのままフックは、久我の身体にのしかかるようにして体固めに入る。マットに倒れ込んだ久我の身体を、フックがその巨体で完全に押さえ込む。

「どぉーした、諦めるかァ?」

 レフェリーの手がマットを叩く。

「ワン! ツー!」

 会場に緊張が走る。久我の意識は混濁し、身体は鉛のように重い。しかし、フックの言葉が、そして「悪役」として自分を貫こうとする意志が、彼女の指先を動かした。カウント2.5。久我の右手が、執念で最下段のロープを掴んだ。

「……フフ、冗談!」

 久我は、僅かに血の混じった唾をマットに吐き捨てながら、唇の端を吊り上げて見せた。そこに焦燥はない。凄絶で不敵な「悪役」の笑みが確かに浮かんでいた。

「ほォ……?」

フックは、その笑みに満足げな吐息を漏らした。ここからが、真の黒鳥の舞の始まりであることを、彼は確信したのだ。

 

 久我は自らを抑え込んでいたフックの手首を、電光石火の速さで跳ね除けた。驚きに目を見開くフックの懐へ潜り込み、立ち上がってその背後を取る。彼女の瞳にあるのは、獲物を深淵へ引きずり込もうとする黒鳥の冷徹な戦意のみだ。

「暗闇の世界へ……力づくでご招待よっ!」

 久我はフックの後頭部を鷲掴みにすると、そのままリング四方に張られたトップロープへと彼の顔面を叩きつけた。

「目が……ッ!?」

 鋼のワイヤーが仕込まれたロープが、フックの両目を無慈悲に打つ。視界を奪われ、たじろぐベテランヒール。本来なら反則とされる、ロープを利用したフェイスバンプ。だが、これこそがフックが求めていた「悪役としての回答」だった。顔を押えた手の下でフックの口の端が歪む。

「終わりよ、船長」

 視界を封じられ、よろめきながら後退するフック。その隙を久我は見逃さない。彼女はフックの後を追い背後からとりつくと両腕を深く差し込み、チキンウイングの形でガッチリとロックした。それだけではない。彼女は自らの脚をフックの脚に絡ませて動きを封じると同時に、右手でフックの義手を強引に捻り上げた。

「ブラックアウト・フェザードロップ……!」

 それは、かつてのヒールターンしてのデビュー試合でアサルを仕留めた複合間接技だ。ただ、特筆すべきは、その義手の扱い……久我は義手の射出口が、ちょうどフック自身の脇腹を真横から狙い撃つような角度で固定されるよう、関節をねじり、ロックを微調整した。

「ぐぅぅぅぅ!?」

「……もう貴方は逃げられない。闇に沈む? それとも、腕を飛ばして自決する?」

 久我の囁きは、死神の宣告のようにフックの耳に届く。このまま締め落とされるか、あるいは無理にロケットパンチを射出して自らの脇腹を撃ち抜く自爆を選ぶか。文字通りの「チェックメイト」だった。

 フックは、極められたまま横目で久我の顔を見た。そこには、痛みを堪え忍ぶかつての雫の面影はない。凄絶な笑みを浮かべ、勝利を確信しながらも冷徹に獲物をいたぶる、一人の「悪役」が完成していた。

「……ケッ、やりゃ出来んじゃねェか……」

 フックの口角が、満足げに吊り上がる。実のところ、脱出は可能だった。彼の義手は変形回転途中で止める事もできる。久我の把握している射線は絶対の正解ではなかったのだ。だが、彼は自らの義手を操作するのをやめ、空いた方の掌で、マットを力強く三度叩くことを選んだ。

「いいだろう、レフェリー、ギブアップだ」

 ニヒルに笑って敗北を認める宣言を行うフック、しかし、久我はジト目でフックを見つめたまま笑みを浮かべてさらに絞り上げる。

「……いだだだ、ギブだっつってんだろ放せや!? レフェリー!?」

 そのやりとりに苦笑しながらレフェリーがゴングを要請し、解放しろと久我の肩をたたいた。

 

 カーン、カーン、カーン!

 

 乾燥したゴングの音が鳴り響き、体育館を揺らすような大歓声が沸き起こった。

『勝者、オディール久我ぁーっ!』

 実況のアサルが、相変わらずのトーンで勝利を告げる。久我はようやく技を解き、肩で息をしながら立ち上がった。その目は、座り込んで腕をさするフックをじっと見つめている。

「……今、まだ余裕がありましたよね? わたしのテストが目的だから譲ったの?」

 久我の問いに、フックはよろよろと立ち上がり、髭を揺らして不敵に笑った。

「なんだ、プライドでも傷ついたか? あのなぁ……テメェも悪役になるなら覚えとけ。ヒールってのはな『勝たなきゃいかん試合』か『敗北の中で魅せるべき試合』かってのをきちっと見極めなきゃならねぇ。善玉はただ勝つために全力尽くせばいいが、俺たち悪役は違う。大事なのは勝敗じゃねえ、誰に何を焼きつけたいか、だ」

 

 誰に、何を焼きつけたいか。

 

 久我の脳裏に、ある男の顔が浮かぶ。

「誰に何を焼きつけるか……そうか、わたしは……あの人に焼き付けたい……成程」

 納得したように頷く久我を見て、フックはフンと鼻を鳴らした。そして、何事もなかったかのように義手の腕をもう一方の手で支えて久我へ向ける。

「とか言って油断させといて食らえ! ロケット……パァーンチ!」

「なっ!? もう試合は終わって……!?」

 久我が驚愕の声を上げた瞬間、フックの義手が轟音と共に射出された。試合終了後のサービス精神か、あるいは単なる往生際の悪さか。観客席の子供たちが「おおーっ!」と目を輝かせて歓声を上げる。

 

 義手は真っ赤な噴射炎を上げ、一直線に久我の方向へと飛翔する――はずだった。

 

 しかし、空中でロケットパンチの軌道が不自然に歪んだ。AIに組み込まれた「一定確率で発射した自身へと向かえ」というプロレスの為に敢えて仕込まれたプログラムが「今がその時だ」と結論付けたのである。飛んでいったはずのパンチは、ブーメランのように急旋回し、全力でフックの元へと引き返してきたのだ。

「やーいやーい、負けっぱなしじゃないもんねー……ってまたかよこのバカAI!? ぶげっ!?」

 戻ってきた自らの拳を顔面にクリーンヒットさせ、フックは派手にマットにひっくり返った。そのあまりにも情けない幕切れに、会場は先ほどの興奮とはまた方向性の違う熱狂、爆笑の渦に包まれたのである。

 

 自らの放ったロケットパンチを顔面に食らい、リング中央で大の字にひっくり返ったフック。その情けない姿に会場が爆笑に包まれる中、レフェリーが慌てた様子で駆け寄ってきた。

「フック! 試合終了後の対戦相手への攻撃は反則だぞ!」

 レフェリーの厳しい叱責が飛ぶ。ゴングが鳴った後の攻撃は、プロレスにおける明確なルール違反だ。しかし、当のフックは鼻を押さえながら身を起こし、本気で不満げな声を上げた。

「いやできなかったろうがよ、攻撃!? オレの顔面に戻って来たクソAIの動き、お前も見てたろうが!?」

「結果的にそうなっただけだろう! 出場停止にされたいのか!?」

 「出場停止」という重い単語が出た瞬間、ベテランヒールの態度は見事なまでに豹変した。先ほどまでの不敵な笑みや凄みはどこへやら、フックはしずしずとリングの上に正座をし、深く頭を下げたのだ。

「この俺が悪ぅございました。出場停止は勘弁してつかぁーさい」

 巨体の男がリングのど真ん中で土下座に近い姿勢で懇願する様に、観客席からはさらに大きな笑い声と、「船長どんまい!」「AIが止まらない!」といった同情とからかいの入り混じった野次が飛ぶ。

「まったく……お前ときたら毎度毎度懲りもせず!」

 レフェリーが呆れ果てたように腰に手を当てる。

「ゆるして、ゆるして……」

 フックが情けない声で謝罪を続けるその傍らで、久我は呆気に取られていた。つい先ほどまで、自分に「悪役としての矜持」を語り、絶望と恐怖を体現していた男と同一人物とは思えない。しかし、このコミカルなやり取りもまた、彼が観客に「焼きつける」ために計算し尽くした「敗北の魅せ方」なのだろう。

 そんな久我の思考を遮るように、観客席から「シュポッ!」「シュパァッ!」という小気味よい音が次々と鳴り響いた。それと同時に、リングの上空に向かって、いくつもの小さな「拳」が飛翔し始めた。観客席の子供たちが、物販で手に入れた「デラックス・腕ハメ式フック船長の義手」のロケットパンチ機能の一斉射撃を開始したのだ。本家のロケットパンチが火薬による噴射炎を上げるのに対し、このお子様向け玩具は安全性を考慮し、圧縮した水を推進力として飛ぶ仕様になっている。そのため、空を飛ぶ無数の小さな拳の軌跡には、細かい霧のような水しぶきが撒き散らされていた。その細かな水滴が、会場の強い照明の光を浴びて乱反射する。リングの真上に、七色に輝く美しい虹の橋がいくつも架かった。

「……あ」

 久我は思わず、その幻想的な光景に見惚れた。降り注ぐ霧状の水滴が、彼女の漆黒のレオタードを濡らし、手首の黒いファーに水玉を作ってキラキラと宝石のように輝く。暗く沈んだ「黒鳥」の装いが、光と水のマジックによって、まるで光を纏ったかのように神秘的な美しさを放っていた。

 

 実況席からは、アサルの間延びした声が響き渡る。

『お客様、あー、お客様、こまります、こまりますお客様、あー、こまります。ロケットパンチをリングにむかって撃ったら「めっ」ですよー』

 全く困っているように聞こえない口調の注意。それがまた、会場の和やかな空気をさらに温かくする。観客席の大人たちからも、感嘆と羨望の声が上がっていた。

「やだ……キラキラ光って綺麗……」「やばい楽しそう、俺も玩具買えばよかった」「デラックス・腕ハメ式フック船長の義手、今日の分、売り切れてるじゃないですか、やだー!」「お子様は実況に叱られるだけで済むが大人がやると警備員さんに怒られるから諦めろ、お前ら」

 怒号と悲鳴が飛び交っていたはずのリングは、いつの間にか光と笑いに満ちた、おとぎ話のハッピーエンドのような空間へと変貌していた。

「……フフッ」

 眩しさに目を細め、目の上に手を掲げながら、久我の唇から自然と笑みがこぼれた。それは、先ほどフックに向けたような、計算された邪悪な笑みではない。激闘を終え、何かを掴み取った少女の、素直で晴れやかな笑顔だった。

 

 レフェリーに怒られながら小さくなっているフック船長。淡々と、しかしどこか嬉しそうにアナウンスを続けるアサル。そして、自分を悪役として受け入れ、温かく包み込んでくれる観客たち。

「誰に、何を焼きつけるか……」

 フックの言葉をもう一度心の中で反芻する。彼女が誰に何を焼きつけたいのか、その答えはすでに出ている。だが今は、この光り輝くリングの上で、降り注ぐ水滴と歓声のシャワーを浴びる心地よさに、もう少しだけ身を委ねていたかった。

 

 光と水が舞い踊るリングの中心で、黒鳥オディールは、まるで新たな誕生を祝福されるかのように、幻想的な輝きの中で静かに立ち尽くしていた。

 

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