「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第30試合(一夜の夢の中の出来事):シングルマッチ「宮川三郎太VS黒木麗羅」前編

 深い霧の向こうから聞こえる歓声は、どこか遠い海鳴りのように響いていた。周囲を見渡しても、乳白色のベールが幾重にも重なっているだけで、観客の姿は一人として見えない。それなのに、熱狂と期待の入り混じった無数の声だけが、うねりとなって鼓膜を震わせている。足裏には確かにキャンバス地の感触があり、ロープの張りも現実と寸分違わない。リングを照らし出す巨大な照明だけが、やけに鮮明で、現実よりも生々しい熱を帯びて三郎太の肌をジリジリと焼いていた。

 

 これは夢だ。

 

 宮川三郎太は、本能のどこか深くでそれを理解していた。最近の目まぐるしい激戦の数々、そして様々な強敵たちとの出会いが、彼の脳内に処理しきれない熱を生み出し、このような不可思議な空間を作り出しているのだろう。だが、目の前に立つ人物の存在感は、単なる夢の幻影と断じるにはあまりにも圧倒的で、そして恐ろしいほどに懐かしかった。濃紺のハイレグ型レスリングウェアが、彼女のしなやかで力強い肉体のラインを容赦なく強調している。両肩には和鎧の大袖を思わせる武骨な装飾が施されており、それが彼女の呼吸に合わせて威圧的に揺れていた。腕には黒のロンググローブ、脚にはニーパッドとヒール付きのロングブーツ。そして何より目を引くのは、逆立つようなクセのある金髪のロングヘアと、獲物を品定めするような余裕に満ちたサディスティックな青い瞳だ。

 黒木麗羅。かつて、所属する太平プロレスと、謎の団体「黒武術」との対抗戦において、3対3の変則タッグマッチにおいて三郎太の前に立ちはだかった女傑。三郎太にとって、女性レスラーとの本格的な試合はあれが初めてだった。ウブな彼は女性相手というだけで照れと戸惑いを隠せず、動きがひどくぎごちなくなってしまったのだ。彼女はそんな三郎太の隙を見逃すような甘いレスラーではなかった。容赦のないハイキックが顔面を捉え、ダウンしたところを変形三角締め「楔締め」で長時間にわたって執拗に責め立てられた。意識が遠のくほどの痛みと息苦しさ。そして何より、手も足も出ずに一方的に弄ばれたという圧倒的な「屈辱」。その強烈なトラウマは、三郎太の心と体に「女性レスラーとの戦いの恐ろしさ」として深く刻み込まれていた。その恐怖の象徴とも言える女傑が今、深い霧の中で不敵な笑みを浮かべ、対角線上に立っているのだ。三郎太は無意識のうちに拳を強く握り込み、全身の筋肉を硬直させた。

『さぁ、三郎太クンの夢の中特設リングでの文字通りドリームマッチが今まさに始まろうとしているだス!』

 突如として、どこからともなく聞き慣れた、しかしこのシリアスな場には全くそぐわない胡散臭い声が、会場全体に響き渡った。

『トラウマの化身か、はたまた若い三郎太クンの想うエロスの化身なのか、対戦相手は黒武術の女性闘士、黒木麗羅だス!』

 声の主が誰であるか、三郎太の脳が認識するより早く、巨大なスピーカーから奇妙な音が漏れた。眼鏡の端から外側へ、まるで漫画のようにおびただしい量の涙が勢いよく飛び散る音――「ぶわわっ」という擬音が、確かに空気を震わせた。

『実況はコーテツローのオヤジ、解説はこのオレ、牛バカ丸でお送りするモン!』

 今度は甲高く、語尾に独特の響きを持つ声が重なる。当然のようにリングサイドに出現した放送席の二人を見て三郎太はリング上でどどっと盛大にずっこける。キャンバスに顔から突っ込みそうになるのを両手でなんとか堪え、慌てて立ち上がると怒りに任せてコーナーへ駆け寄り、トップロープを両手で力強く掴んで、2人に向かって吠えた。

「なんで牛バカと鋼鉄郎サンが当たり前みたいに出て来るんですかッ!?」

 夢の中とはいえ、あまりにも唐突すぎるかつての常連ギャグキャラクターたちの乱入。ただでさえ過去のトラウマを乗り越えようと必死に精神を集中させていたのに、これでは台無しである。

『そんなの夢だからに決まっているだス! 知らんのだスか!? ワシらは出番のためなら魂すら悪魔に売り渡す男だス!』

 悪びれる様子など微塵もない鋼鉄郎の力強い声が木霊する。ゴージャス石材の創始者でありながら、どんな深刻な場面でも片っ端からギャグでぶち壊していく時空の超越者。その傍若無人ぶりは、三郎太の夢の無意識領域にまで容易く侵入を果たしていた。

『牛バカの居ない「THE MOMOTAROU」なんか「THE MOMOTAROU」じゃないと原作ファンだって言ってるモン! というかなんでオレの出番が夢限定なんだモン!? 納得がいかないモン!』

 牛若丸の子孫にして、異常な変身能力を持つギャグの権化、牛バカ丸もまた、マイクを通して盛大な不満をぶちまけている。三郎太は頭を抱えたくなった。

『現実のワシは本業のゴージャス石材の会長業ほったらかして、片手間に始めた格闘技雑誌の編集デスクの仕事で多忙。お前さんは太平プロの庭先の道場ひきはらってベンケーともども京都に戻ってる設定だから仕方ないと言えば仕方ないだスが……はっきり言ってこれは陰謀だス!』

 再び「ぶわわっ」という涙が勢いよく噴き出す音が鳴り響く。メタフィクションと現実の事情が複雑に入り交じった大人の愚痴を聞かされ、三郎太の疲労感は戦う前からピークに達しようとしていた。

『とにかく久々だモン、三郎太! 今回はオレらがばっちし試合を盛り上げてやるから安心して戦うモン!』

 牛バカが自信満々に宣言する。だが、その言葉を額面通りに受け取れるほど、三郎太は彼らとの付き合いが浅いわけではない。過去の数々の試合、数々のシリアスな場面が、彼らのどうしようもないギャグの応酬によってどれほど脱線させられてきたか。

 三郎太はジト目を向け、ロープを掴んだまま低い声で問い詰めた。

「とか言って試合の邪魔になるギャグをしこたまぶちかますつもりなんでしょ?」

 ただ、2人はそっと顔をそむけて視線をそらしていた。

『…………』

『…………』

 霧が立ち込めるリングに、奇妙で気まずい沈黙が降り下りる。遠くの海鳴りのような歓声だけが、虚しく間を埋めていた。数秒の沈黙の後、三郎太は我慢の限界を超えて再び叫んだ。

「なんとか言ったらどーなんだっ!」

 このままでは戦う前にペースを完全に乱されてしまう。抗議の声を上げた三郎太の言葉を遮るように、鋼鉄郎が唐突に進行を再開した。

『ハイ、ここでゴングの時間だスッ!』

『オレらに構ってないで対戦相手をちゃんと見るモン、三郎太!』

 あまりにも強引な話題転換と責任転嫁。三郎太は顔を真っ赤にしてロープから手を離し、両手で頭をわしゃわしゃと掻き毟った。

「あーもぉーっ!」

 怒りとも諦めともつかない叫び声を上げた直後だった。

 

 カァァァン……。

 

 重く、そしてどこか冷たい響きが、三郎太の全身を貫いた。それはまるで、深い水底で鳴らされた巨大な鐘の音のようだった。先程までのギャグの空気を一瞬にして凍らせ、この場所が逃げ場のない闘技場であることを残酷なまでに知らしめる合図。ゴングが鳴ったのだ。

 三郎太は振り返り、リングの中央へと視線を戻した。そこには、三郎太の茶番を冷ややかな、しかし獲物をいたぶる前のような蠱惑的な笑みを浮かべて見つめる黒木麗羅がいた。夢の中の幻影であっても、彼女の放つプレッシャーはあの日のままだ。いや、三郎太自身が成長したからこそ、彼女の真の恐ろしさがより克明に理解できるのかもしれない。空気が張り詰め、霧が二人の闘気を吸ってさらに濃くなる。

 三郎太と麗羅は、吸い寄せられるようにリング中央へと歩を進めた。かつての三郎太であれば、彼女の露わになったしなやかな肢体や、蠱惑的な笑みを前にして、どこに視線を向けていいか分からず目を泳がせていただろう。だが、今の彼は違う。数々の死闘を潜り抜け、女戦士たちの洗礼を浴び続けてきた彼は、一人のレスラーとして麗羅を真っ向から見据え、その屈強な両手で彼女の肩を掴んだ。ロックアップによって肉体のぶつかり合う音が響く。

「おや、お久しぶり。あの時のボウヤじゃないかい」

 麗羅が、耳元で甘く、しかし鋭い殺気を孕んだ声を囁く。組み合った身体を通して、彼女の肌の熱と、鍛え上げられた筋肉の弾力が伝わってくる。

「今回は真っ赤になって、目を泳がせて照れないのかい?」

 挑発的な問いかけに対し、三郎太は歯を食いしばり、渾身の力で押し返した。

「おかげさまで最近、試合経験に鍛えられましてっ……!」

 その言葉に嘘はなかった。ベスや雫、ジェニーといった強烈な個性と実力を持つ女性レスラーたちとの戦いは、彼から甘さを削ぎ落とし、闘士としての芯を作り上げていた。

「そりゃ残念……ッ! あの頃は可愛かったボウヤがね!」

 麗羅は鼻で笑うと、三郎太の押しを瞬時に受け流し、目にも止まらぬ速さで彼の首に腕を巻き付け、ヘッドロックに捕らえる。

「ぐっ……!」

 ギリギリと締め上げられる痛み。絞めのレイラの異名が伊達でないことを示す、たいした圧力だ。麗羅は体重を巧みに乗せ、三郎太のスタミナを削りにかかる。だが、三郎太の心は折れていない。彼は苦悶の表情を浮かべながらも、反撃に動く。ヘッドロックで首を固められたまま、三郎太は強引に麗羅の腰をクラッチする。

「揶揄わないでくださいッ!」

 腹の底から声を絞り出し、背筋のバネを爆発させる。三郎太は首を絞められた状態のまま麗羅の身体を宙に引き上げ、後方へと反り投げた。豪快なバックドロップが夢のリングに炸裂する 。

「なっ……!?」

 麗羅の驚愕の声が漏れる。キャンバスに叩きつけられた衝撃で、彼女の拘束が解けた。三郎太はすぐさま立ち上がろうとしたが、麗羅の回復もまた驚異的だった。彼女はマットに背中をつけた状態から、独楽のように身体を回転させる。

「シッ……!」

 鋭い呼気と共に放たれたのは、地を這うような水面蹴りだ。三郎太の足首を刈り取らんと迫る一撃。しかし、三郎太は冷静だった。彼は瞬時に腰を深く落として重心を安定させる。

「……読めてます!」

 足首に重い衝撃が走るが、三郎太は倒れない。逆に、蹴り抜こうとして体勢が低くなった麗羅の隙を逃さなかった。

「今度はこっちの番だ!」

 三郎太は麗羅の脚を強引に奪い取ると、彼女の身体をひっくり返してその背中に跨るように腰を下ろしていき、逆エビ固め――ボストンクラブをがっちりと極める。

「しまっ……」

 麗羅の腰が弓なりに反り、激痛が彼女の表情を歪ませる。三郎太はさらに深く腰を落とし、全体重をかけて彼女の脊髄を責め立てた。すると、麗羅の口から、プロレスの試合中とは思えないような艶めかしい声が漏れた。

「あ、あんっ……! いたぁ~いっ♡」

 だが、三郎太はたじろがない。身近に技をくらって喘ぎ散らす御子柴という悪しき前例が居る上に最近アメリカンプロレスの使い手、ディーディーの露骨な性的アピール交じりの戦術と戦ったばかりなのだ。この程度可愛いものと言えた。

「そんな声上げても動揺しませんよ……ッ!?」

「……フン、ボウヤの癖に生意気だね……! ぐぅぅっ……!」

 麗羅は挑発を続けながらも、三郎太の増したパワーに本気で苦悶の声を漏らし始める。

 

 だが、リングサイドから寒気のするようなパフォーマンスが割り込んできた。

『あ、あんっ……! いたぁ~いっ♡』

 両こぶしを口元にそろえて頭を振りながら実況席の鋼鉄郎が、麗羅の声を気味の悪い裏声で完璧に模倣し、羞恥心を煽るような動きを見せている。

『そんな声上げてもっと欲しがってるんだモン?』

 牛バカ丸が、どこから取り出したのか分からない鞭でぺしぺしと鋼鉄郎の背中を鞭でうちながら、悪ノリを加速させる。

『……フン、素人のくせに生意気だス……! 感じちゃう!』

 鋼鉄郎の眼鏡の端から、いつものようにぶわわっと大量の涙が噴き出した。この異様な光景に、三郎太の集中力は限界を迎える。

「だからそういうのやめてくださいって言ってるでしょ!」

 三郎太が思わずリングサイドに向かって怒鳴りつけた、その一瞬の隙を麗羅は見逃さなかった。

 

 麗羅は舌打ちを漏らしながらも、三郎太のクラッチが緩んだ隙に必死でマットを這い、ロープへと手を伸ばした。

「ロ、ロープ……ッ!」

 顔もはっきりしないあやふやな姿の夢の中ならではのレフェリーがブレイクを命じ、三郎太は不承不承ながらも技を解いた。麗羅は痛む腰を抑えながら立ち上がると、その瞳に冷たい炎を宿した。

「……やってくれるじゃないか!」

 双方立ち上がって身構えた瞬間、彼女は三郎太の腕のガードが疲労でわずかに下がっているのを察し、空気を切り裂くようなハイキックを放った 。

「ぐわっ!?」

 側頭部を捉えた衝撃。咄嗟にガードを上げたが不完全だ。衝撃で視界が白く弾け、かつて敗北した際の、あの絶望的な感覚が鮮明に蘇る。三郎太の膝がガクリと崩れ、キャンバスに手をついた。

「そぉーら、あの時みたいに可愛がってやるよ……!」

 麗羅は獲物を仕留める猛獣のような速さで、ダウンした三郎太に襲いかかった。彼女のしなやかな脚が三郎太の首筋に絡みつき、同時に腕が固められる。

「不味い……ッ!? この技は……!?」

 黒武術流・楔締め。かつて三郎太を長時間リング上で甚振った、忌まわしき必殺の絞め技だ。首を締め上げられ、必死にみじろぐ三郎太の耳に、場外から下世話な実況の声が飛び込んでくる。

『おーっと、三郎太クン! トラウマの技をついに食らっちまっただス! 黒木麗羅のふくらはぎが頸動脈を狙って首にグイグイ食い込んでいくだス』

 鋼鉄郎は眼鏡を輝かせながら、三郎太の危機をまるで娯楽のように冷徹に――そして大げさに――叫び立てる。その顔面からは相変わらずぶわわっと滝のような涙があふれている。

『ハイキックからの流れがあん時のまんま、再現だモン! まるで成長していないと言われても返す言葉がないモン! しっかりするモン、三郎太!』

 牛バカ丸は放送席のテーブルをばんばん叩いて叱咤していた。かつての敗北の際には牛バカも三郎太のタッグパートナーの一人だったのだ。他人事とは言い切れない立場が彼をして三郎太に声援を送らせていた。

『裏を返せば、それだけ黒木麗羅のセットアップが手馴れているという事だス! モタモタ仕掛けに手間取ってファンに揶揄されるどっかの大魔王とはワケが違うだス!』

 鋼鉄郎はあろうことか、偉大な先輩漫画の重鎮を比較対象に挙げ、その残酷なまでの手際の良さを称賛し始めた。

『同じ雑誌出身だからって虫も殺さぬサタン様をディスってはダメだモン! ありゃ相手が悪すぎただけだモン! ゲラゲラ!』

 二人のやり取りはもはや試合実況の域を遥かに超え、単なる楽屋裏の雑談と化していた。三郎太は薄れゆく意識の中で、「この二人、本当に何しに来たんだ」と、怒りを通り越した呆れを感じる。

 

 その時だった。

 

 ――ゲギョ、ゲギョゲギョッ!

 

 霧の彼方から、耳を劈くような奇妙な笑い声が響き渡った。直後、リングサイドの空気が一変する。突如として空間が歪み、漆黒の雷光が走った。空から飛来したのは、鈍い光を放つ巨大な「杭」だった。その先端は鋼鉄郎と牛バカの座る放送席を正確に射抜き、地響きと共に激突する。

『『ギャース!?』』

 二人同時に上げた悲鳴は、あまりに間の抜けたものだった。放送席は木端微塵に粉砕され、鋼鉄郎の眼鏡は砕け、黒焦げの牛バカがぴくぴくと痙攣している。突発的な「天罰」により、夢のリングサイドは一瞬にして静寂に包まれた。

 

 そんなリング外の茶番をよそにリング上では締め技の恐怖が続いていた。麗羅のふくらはぎが、逃げ場を塞ぐようにグイグイと首に食い込んでくる。

(くそ……牛バカの言う通りだ……!)

 三郎太の脳裏に、かつての惨めな自分の姿が浮かぶ。だが、今の彼はあの時とは違う。

「ぐ、ぐぅぅ……!」

 三郎太は苦悶しつつも、これまでの激戦で培った技術を総動員していた。彼はがむしゃらにもがくのではなく、首の筋肉を極限まで硬直させ、頸動脈への圧力をわずかにずらす「技術」を発動させていた。のらりくらりと致命的なダメージを回避し、僅かな呼吸の隙間を確保する。

「言ったはずだよ、もがけばどんどん食い込んでいく……」

 麗羅が勝ち誇ったように囁くが、次の瞬間、彼女の表情に驚愕が走った。

「……お前、首の筋力で締まる場所を少しずつずらしてんのかい……! くっ、この……そうはいかないよ!?」

 三郎太の首は、彼女の想像を超える強靭さと技術を身につけていた。締め上げれば締め上げるほど、三郎太は巧みにクリティカルポイントを逃し、執拗なまでの我慢でその猛攻を凌ぎ続けていたのだ。だが、そんな集中力と微細な調整がいつまでも続くはずもない。麗羅は脚に力を込めて三郎太の努力ごと絞め落とそうとする。

「フフ……いい加減……捌けなくなってきたみたいだね……そろそろオチるかなーっ?」

 麗羅の妖艶な声が、耳元で悪魔の囁きのように響く。先ほどまでの「姐さん」としての余裕は影を潜め、今や彼女の瞳には、獲物を確実に仕留めるという冷徹な殺気だけが宿っていた。

(まだだ……!)

 三郎太は奥歯を強く噛み締める。意識が微かに遠のこうとする中で、彼は自身の筋肉を総動員して麗羅の体重を支え、踏ん張った。三郎太は、頸動脈を圧迫する彼女の脚を両手で掴むと、そのまま強引に自らの頭上へと持ち上げた。

「うおおおおおおっ!」

 三郎太の全身の筋肉が悲鳴を上げる。

「うそっ!? あの時に続いて、またしてもアタシを持ち上げて……キャンッ!?」

 不意を突かれた麗羅が、思わず声を上げる。かつての再現のように自身の必殺技を切り返された屈辱と、宙に放り出される浮遊感が彼女の集中を乱した。三郎太は渾身の力で麗羅をパワーボム気味にキャンバスへと叩きつける。鈍い音を立てて彼女の背中がリングに沈みこんで跳ねた。さらに間髪入れずに麗羅のダウンした腹部へと倒れ込み、自らの体重を乗せた肘を突き立てる。エルボードロップだ。

「反撃は……ここからだ!」

「かふっ!?」

 強烈な衝撃に、麗羅が空気を吐き出す。しかし、三郎太は彼女が回復する猶予を一切与えない。彼はすぐさま麗羅の脚を掴み、伝説の男・モモタロウの技を彷彿とさせる動きへと移行する。

「畳みかける……ロータリーデスロックだぁ!」

 三郎太は麗羅の足を4の字に組ませ、強引に回転を始めた。ローリング・クレイドルのように、麗羅を中心にリングを転がり回る。遠心力が加わることで、彼女の膝関節に強烈な負荷が掛かっていく。

「きゃあああっ!? 回って……がぁぁぁっ!? ひ、膝が……!?」

 回転が速まるたびに、麗羅の苦悶の声が大きくなる。しかし、この技は密着度が異常に高い。回転のたびに、汗ばんだ麗羅の柔らかな身体が、間近で三郎太に押し付けられる。マットを転がる感触と共に、彼女の吐息が直に肌に触れる。

(集中しろ……! 重心を逃がすな! 痛みで相手の心を折るんだ!)

 三郎太は必死に自分に言い聞かせるが、その頬は抗いがたく紅潮していた。一人の男として、年上の美女とのこの至近距離での密着状況に心拍数が跳ね上がるのを止められない。だが、そのわずかな「邪念」が、完璧だったはずの回転軌道を僅かに歪ませた。円周がズレ、回転の力が弱まる。

「ロ、ロープ……! お離し……ッ!」

 麗羅は逃げ場を見逃さない。ロープ際をかすめた瞬間、彼女の細い指がロープをガッチリと掴み取った。ロープブレイクだ。

 

 再び訪れた静寂を破り、壊れたはずの放送席から、またしても聞き覚えのある声が上がった。

『黒木麗羅、三郎太クンのロータリーデスロックから命からがらロープエスケープ! なんとかギブアップを逃れただス!』

 破壊された放送席の代わりに裏返したりんごの木箱をテーブルがわりにして、鋼鉄郎が眼鏡の脇から涙を飛ばしながら絶叫する。

『三郎太がよけーな事考えて回転軌道がズレたせいだモン! リング中央でうまく回してりゃそのまま決まってたモン! このスケベ!』

 牛バカ丸が、三郎太の心中を嘲笑うかのように野次を飛ばす。

『しかしまー、あの三郎太クンがモモタロウのモモ・スペシャルその4を平然と繰り出す日が来るとは思わなかっただスな。感慨深さに思わず力こぶるだス!』

 鋼鉄郎はぶわわっと涙を吹き出しながら、歴史的な瞬間(?)に感極まっている様子だ。

『カップヌードルのシュワちゃんのCMとか今どきの若者が知ってるわけがないモン。オヤジのネタは古すぎるモン! ゲラゲラ!』

 牛バカ丸は腹を抱えて笑い転げる。その反応にムッとしたらしい鋼鉄郎は割れた眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、淡々と、しかし残酷な事実を口にする。

『ンなこと言ったらこの小説そのものがネタが古すぎるだス。ぶっちゃけ読者とか本当に居るだスか? 失礼ですが想像上の読者ではありませんか、と問われるべきだス!』

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる牛バカが、あえて追い打ちをかけるように腕を組んで笑う。

『おいやめろ、あくまで趣味、自分が読みやすいからアップしてるだけとか負け惜しみ言ってる作者があまりに哀れだモン。悲しーほど滑稽に見えるモン!』

 二人のメタ発言は、もはや夢の試合を完全にそっちのけにしたバカ騒ぎと化していた。三郎太はロープを掴んで荒い息をつく麗羅を横目に、自らも身を起こしながら、天を仰いで溜息をついた。

 

 その瞬間、彼らの頭上に、影が差した。

 

 ――ヒュゥゥゥッ!

 

 空から無数の矢が、雨のように放送席へと降り注いだ。

『『ギャース!?』』

 粉砕されたリンゴの木箱の破片の中で、矢ぶすまと化してドクドクと流血しながら無残にころがる2名。大魔王に続いて作者の怒りに触れたのであろうか。再びリングサイドに静寂がもたらされた。

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