「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
『「ノワール・ゲート」へようこそ……野心が闇を歩く場所です』
静寂に包まれたアリーナに、低く、そして重厚な声が響き渡った。湾岸地域にそびえ立つ巨大なイベント会場。そこは従来のプロレス興行が放つ、血と汗と怒号にまみれた熱狂の空間とは明らかに異質であった。客席を埋め尽くす観衆の大半は、歓声を上げる代わりに手元のスマートフォンやタブレットの液晶画面を静かに見つめている。彼らはリング上で展開される攻防をデータと合わせて咀嚼し、あるいは国際配信のコメント欄を通じて無言の熱狂を共有しているのだ。会場の空気を支配しているのは、静かなる狂熱。そして、その異様な光景を見下ろすように設置された巨大なオーロラビジョンには、試合前のプロモーションビデオが右下にワイプ表示されつつ、メイン画面に放送席の様子が大きく映し出されていた。
国際配信向けに招聘されたアメリカ人実況者、ジム・コマンドロスである。彼は仕立ての良いスーツに身を包み、誠実さとプロ意識を滲ませた表情でマイクに向かっている。
『そして、国際配信をご覧の皆さま、今晩は。此度の試合は――ジェニー・葛葉と、雨宮月、結城蓮のハンディキャップマッチです』
画面越しのデータ放送という形で会場全体に届けられるジムの声は、冷静でありながらもこれから始まる戦いへの期待を隠しきれていなかった。
『本日は特別に、華国の伝説的拳法家にして元プロレスラー、マスター盤古をゲスト解説にお迎えしています。老師、よろしくお願いします』
ジムの隣のワイプ画面に、禿頭で豊かな白髭をたくわえた老人の姿が映る。ビデオ通話越しに現れたその人物こそ、かつて裏社会の暗殺組織を単身で壊滅させたとまで噂される超人、マスター盤古であった。老人は画面越しに深く鋭い眼光を放ち、ゆっくりと頷いた。
『うむ。儂のような老いぼれを呼ぶとは、物好きな団体よ。じゃが、面白いものが見られそうじゃ』
『老師の視点から語られる「戦いの本質」に、私も興味があります』
二人の言葉が会場のスピーカーから静かに降り注ぐ中、リング上では戦いの準備が着々と進められていた。赤コーナーに立つのは、「ノワール・ゲート」が誇る若手のエース、ジェニー・葛葉である。ピンクとスカイブルーを基調とした、フリルがあしらわれたセパレートタイプのリングコスチューム。編み上げのロングブーツを履いた足取りは、これから死闘に臨む者とは思えないほどに軽やかだった。ブロンドのショートボブが揺れ、澄んだ薄紫色の瞳――ライラック・アイが、楽しげにリングを見渡している。彼女はトップロープを掴み、その張りを確かめるように体重をかけながら、ご機嫌な様子でふんふんと鼻歌を歌っていた。全身の筋肉をほぐすストレッチの動作すら、彼女にとっては遊園地のアトラクションを待つ時間のようである。圧倒的な実力者であるがゆえの余裕。彼女にとって、これから始まるハンディキャップマッチすらも、極上の「遊び」に過ぎないのだ。
一方、青コーナー。そこには、圧倒的なエースに挑む二人の若き挑戦者の姿があった。先発を買って出たのは、黒髪を後ろで束ね、赤いバンダナをきつく締めた結城蓮である。黒いタイツに身を包んだ彼の肉体は、デビューから半年程度の新人らしくまだ線が細く華奢ではあるものの、日々の猛特訓によって引き締まった筋肉が薄っすらと汗を浮かべていた。結城はリング内に立ち、エプロンサイドに控えるタッグパートナーへと真剣な眼差しを向けていた。
「僕が受け役になって、できるだけジェニー先輩の体力を消耗させます。雨宮先輩は……」
結城がそう語りかけた相手は、ロープ越しに佇む雨宮月である。深い青色のボブカットの髪には三日月の髪飾りが輝き、コルセット風の青いベストにショートパンツという出立ち。さらに膝上まで伸びる白いロングブーツが、その細くしなやかな脚のラインを強調している。どこからどう見ても可憐な美少女にしか見えないその容姿だが、れっきとした男性プロレスラーである。
「月(ルナ)でいいよ。ボクが移籍してきたの、キミの入団より後なんだから、そんな遠慮することない」
月は柔らかい声音でそう返すと、結城の緊張をほぐすようにふわりと微笑んだ。しかし、結城の表情は硬いまま、必死に作戦を口にし続ける。
「あ、はい。えーと……月さんの蹴りの威力が頼りです。僕が沈むのをうまく利用して、ジェニー先輩にダメージを与えてください」
結城の悲壮な決意を聞いた月は、ふと悪戯っぽい光をその瞳に宿した。トップロープを掴んだまま身を乗り出し、結城の耳元へと顔を近づける。ほんのりと漂う甘い香り。男の娘であると頭では分かっていても、至近距離に迫った月の美少女のごとき顔立ちと、吐息がかかるほどの距離感に、結城の心臓が大きく跳ねた。
「戦術としては分かるけど……それ、ボクが女の子みたいだから慮ってるとかじゃないよね?」
耳元で囁かれたその言葉に、結城は顔を真っ赤にして勢いよく飛び退いた。頬を火のように染め上げ、慌てて両手を振り回す。
「ち、ちがいますよ! キャリア差と、月さんの強さを知ってるからってだけです!」
必死に取り繕う結城の様子を見て、月はジト目で口をとがらせた。その仕草すらも計算されたかのように愛らしいのが、結城にとっては毒であった。
「本当にぃ? なんか照れてない?」
結城は月の視線から逃れるように顔を背け、リングの中央へと向き直った。
「き、気にしすぎですって! 緊張してるだけです! とにかく、僕の犠牲を無駄にしないでくださいね!」
恐ろしい怪物であるジェニーとの戦いを前にして、自陣のコーナーにも別の意味で恐ろしい誘惑が潜んでいる。結城は必死に自身の闘志を奮い立たせようと、固く拳を握りしめた。そんな彼の背中を見て、月は小さく肩をすくめる。
「カッコつけちゃって……しょうがないなぁ、わかったよ。できるだけのことはしよう。気を付けてね」
「は、はい!」
結城は大きく深呼吸をし、待ち構えるジェニーへと鋭い視線を向けた。
そのやり取りの全容は、会場に響く放送の言葉によって補完されていた。
『リング中央では、ジェニーが鼻歌まじりにストレッチを続けています。一方、コーナーでは……相談ですね。若い二人が、戦略をすり合わせています』
ジムの的確な状況描写に対し、画面越しのマスター盤古が、真っ白な髭を撫でながら微かに目を細めた。
『ふむ。あの坊主は緊張しすぎじゃな。嬢ちゃんの顔が近づいただけで、耳まで赤くなっておる』
『……あれでは、戦術会議というより精神的な試練に見えますね』
ジムの冷静なツッコミにも動じず、盤古は独自の見解を述べる。
『未熟よな。しかし、あの月(ルナ)という娘は、見た目が罪深い。若いなれば惑わされるのも道理じゃろう』
解説者としての鋭い観察眼が、リング上の若き挑戦者たちの微妙な心理状態を的確に突いている。しかし、その前提にある決定的な勘違いについて、ジムは実況としてのプロ意識を持って淡々と訂正を入れた。
『老師、雨宮は男性です』
数秒の沈黙。静まり返ったアリーナの観衆も、苦笑交じりにスマートフォンの画面から視線を上げ、オーロラビジョンを見やる。
『えっ』
盤古の間の抜けた声が、最先端の音響設備を通じてアリーナ中に行き渡る。
『男性です』
ジムは表情一つ変えずに、非情な事実を二度繰り返した。華国の裏社会を震え上がらせた伝説の拳法家は、ビデオ通話の画面越しに目を丸くし、やがて深く、深く息を吐き出した。
『……儂もまだ、未熟であったか』
その呟きが会場に奇妙な静けさをもたらした直後だった。
カーン!
緊張を切り裂くように、試合開始のゴングがアリーナの空気を震わせた。待ちに待った「遊び」の時間が、いよいよ幕を開ける。結城は低い姿勢を取り、獲物を狙う猟犬のようにマットを蹴って踏み出した。ジェニーは相変わらず薄紫色の瞳を輝かせ、無邪気な笑みを浮かべたままリングの中央に堂々と立っている。静かな狂熱に包まれたノワール・ゲートのリングで、若き挑戦者たちの過酷な試練が始まった。
リング中央、静寂を切り裂いてゴングが鳴り響いた瞬間、結城蓮が一直線にジェニー・葛葉へと飛び出した。
「はぁぁっ!」
若さゆえの直情的な闘志を拳に乗せ、鋭いエルボーがジェニーの胸元を襲う。一発、二発、三発。新人らしい必死の形相で放たれる連撃。結城の呼吸が荒くなる。対するジェニーは、その猛烈な連打を受けながらも表情一つ変えない。むしろ、自分へ向けられたその熱量そのものを愛でるように、妖艶な薄笑いを浮かべたまま一歩も退かずに耐えてみせた。
「んっ……くっ……!」
ジェニーの喉から洩れたのは、苦痛の呻きではない。まるで格上の余裕を誇示するかのような、甘美な吐息だった。結城はその余裕に苛立ちを覚え、肘打ちの乱打を中断するとそのまま後方へ跳ねてロープへと身を躍らせる。
「……! これならどうだッ!」
反動を最大限に利用し、高く跳躍した結城の身体が空中でしなる。渾身のドロップキックがジェニーの胸板に突き刺さり、その勢いに押され、ジェニーが背中からマットへと倒れ込んだ。だが、ダウンは一瞬に過ぎない。会場からどよめきが起こる中、ジェニーは倒れ込んだ勢いをそのまま回転のエネルギーへと変換し、即座に後転して立ち上がる。結城が着地の衝撃でわずかに重心を乱した、そのコンマ数秒の隙を彼女は見逃さなかった。一気に間合いを詰めると、流れるような動作で右足を鋭く振り抜く。
「あは! いい感じだよ、レンレン!」
正確に腹部を捉えたソバットの衝撃に、結城の視界が歪む。
「ぐはっ……!?」
呼吸を奪われた結城の髪を、ジェニーは容赦なく掴み取った。バンダナごと頭部を固定し、自らの周囲を旋回させるように力任せに振り回す。
「どうした後輩、ひるむなガンバれ♪」
「うわっ!?」
荒っぽいヘアーホイップに叩きつけられ、結城はマットを転がった。ジェニーは頭を押さえて悶える後輩を背に、ゆったりと視線を移す。エプロンサイドで戦況を見守る月、そして画面越しの視聴者たちへ向けて、彼女は頭の上に両掌を立てるキツネのポーズで不敵にアピールしてみせた。屈辱と痛みで顔を歪ませながらも、結城は震える腕でマットを叩いて立ち上がる。正面からジェニーの腰に腕を回し、その体を高く持ち上げる。
「言われなくても……僕はいつだって頑張ってます!」
渾身の力で高く持ち上げ、マットへ豪快に叩きつける。
「およっ!? きゃん!」
天真爛漫な狐娘の身体が宙を舞い、衝撃がリングに伝わる。ジェニーの驚きの声に呼応するように、結城はすぐさまコーナーへ走り、パートナーへと手を伸ばした。
「月さん!」
「上等、代わるよ蓮くん!」
月とタッチを交わし、結城がロープ外へ出る。入れ替わりにリングへ滑り込んだ月は、ダウンから立ち上がろうとするジェニーの脇腹目掛けて、強烈なミドルキックを叩き込んだ。
「さぁ……ボクの蹴り、受けてもらうよっ!」
ジェニーが脇腹を抑えて顔をしかめる。
「わわ、痛ッ!?」
月はその瞬間を「狩り」の好機と判断した。
「そらそらそらそらァ!」
脛、太腿、鳩尾、首筋。月が繰り出すコンビネーションキックが、怒涛の勢いでジェニーを追い込む。ジェニーは必死に腕を動かしてガードを固めるが、月の変幻自在な蹴りのラッシュに防戦一方となる。
「おっ、とっ、痛っ、ぐえっ!?」
さらに防御の隙間を縫うような的確な一撃が重なり、ついにはジェニーがその場に膝をついた。
『脛、太腿、鳩尾、首筋――連撃。 ジェニーのガードが追いつきません』
ジムの実況が、会場の静かな熱狂を代弁する。マスター盤古は、画面越しに細めた目でその動きを注視していた。
『ほう、あの月という娘……じゃなくて小僧、武術の心得があるな。連撃の中に一つ笑えん軌跡が混じったぞ』
『無自覚な暴力衝動、ですか。彼は自分の才能を、まだ正しく定義できていないのかもしれません』
ジムが冷静に分析する中、盤古がわずかに眉をひそめる。
『しかし、あの体捌きの癖はどこかで……おっと、未熟者め、焦ったな』
『なんと』
月は勝機と見たのか、踏み込んでの顔面狙いのスーパーキックをトドメにと放つ。
「食らえっ!」
しかし、盤古の言葉が予言した通り、一瞬の過信が命取りとなる。ジェニーの瞳が冷徹に光り、その軌道を滑るように掻い潜ったのだ。空を切った月の背後に、ジェニーが静かに踏み込んでいた。
「おっとぉ!」
ジェニーの薄紫色の瞳が、冷徹な捕食者のそれへと変貌し、リングの照明を妖しく反射した。
「つかまえたっ♪」
ジェニーは月の細い腕を、まるで折り畳むかのような手際でねじり上げる。空振りした月の蹴りの慣性の勢い、そしてジェニーがそこへ加えた、獲物の自重を逆手に取る遠心力。それらが完璧な調和をもって月の身体を宙に放り投げる。抵抗の術すら与えられず、月の身体はリングの中央へと激しく叩きつけられた。鈍い音が静寂の会場に響き、ダウンする月の背中がマットに食い込む。その顛末を見届けもせず、ジェニーは迷いなくコーナーへと駆け上がっていた。トップロープからダウンした月の腹部を狙い、エースの身体が重力を味方につけて急降下する。だが、そのニードロップの軌道めがけて一人の影が飛び込んできていた。
「させない……ッ!」
コーナー近くのエプロンサイドで呼吸を整えていた結城蓮が救出カットのために飛び込んでいたのだ。
「追い打ち食らえっ……って、レンレン!?」
救援はギリギリ間に合った。空中という、防御も回避も不可能な浮遊落下状態で、ジェニーの頬が驚きに引きつる。落下速度を殺せないまま、結城のショルダータックルで固く絞り上げられた肩が、エースの剥き出しの腹部へ真っ向から突き刺さった。
「おごっ……!?」
重力が交錯する中、ジェニーの身体がリングの端まで弾き飛ばされる。その衝撃は凄まじく、エースとして君臨する彼女の肺からも、短く鋭い吐息が洩れた。結城のタックルは決して洗練された技ではない。だが、その奇跡のタイミングの一撃には、自分の限界を超えてなおパートナーを守り抜くという、純粋かつ熾烈な「意志」が宿っていた。ジェニーはもんどりうって転がり、腹を押さえて呻きながらも称賛の声を上げる。
「ッ……やるじゃん!?」
月はその隙を逃さず、這うようにして自陣コーナーへ戻る。救出してくれた結城の震える背中を見つめ、月は叫んだ。
「サンキュ、助かった!」
「代わりましょう!」
タッチを完了させる二人。しかし、ジェニーは腹部の痛みを、まるで良質な劇薬であるかのように楽しげに笑い飛ばしながら立ち上がった。ジェニーは技術差を誇示するように組み合いを制し、結城の背後に滑り込むと結城を軽々と宙へ掲げる。
「ワクワクさせるじゃん! しつこい子は嫌いじゃないよ!」
轟音と共にマットへ打ち付けられたパワースラムに結城の視界が白く明滅する。先ほどのボディスラムに対する、エースからの強烈な「お返し」だ。
「ぐはっ……!?」
ジェニーは悶絶する結城を引き起こすと、その身体を変形ファイヤーマンズキャリーに担ぎ上げた。
「さあ、いくよ! 狐火キャリーだぁっ!」
そのまま、まるで自身のキツネの尻尾を誇示するかのように、跳躍から背面落としでマットへと叩きつける。二人分の体重の自由落下に受け身も満足に機能せず、結城の身体がマットに沈み込み、空気が肺から押し出される。意識が混濁し、もはや視界が定まらない。しかし、ジェニーは追撃の手を緩めない。畳みかけるように結城の脚を掴み、逆エビ固めへと捕らえた。腰が鋭角に折り曲げられ、背筋が限界を超えて悲鳴を上げる。
「どおだっ! 三郎太クンにやられてキツかったんでボクもちょっと試してみたかったんだ♪ ……ギブ?」
楽しくてしょうがない。そんな軽い口調とは裏腹に、激痛が重くのしかかる。結城はマットを叩き、頭を振って必死に叫んだ。
「あああぁぁぁ……ッ!? ま、まだ……があああ!?」
結城の苦悶の声がリング上に響き渡る。折れずにギブアップを拒否しているのは大した根性と言っていいだろう。
『ボストンクラブですね。リング中央、逃げ場がありません』
ジムの実況が、リングの緊迫した空気を国際配信へと載せていく。
『酷な嬢ちゃんじゃ。己が強さゆえに、相手にも同等の地獄を求めておるわ』
盤古の解説に対し、ジムは視点を一段深めた。
『これは勝利を求めているのではない。対話です。背筋をきしませ、後輩の魂に『お前の覚悟はどこにある』と問いかけています。しかし、詰問ではない、拷問です』
その言葉を聞いた盤古が、わずかに顔をしかめてジェニーの振る舞いに自らの過去を思い出し、声のトーンを落とす。
『うっ……昔の儂のしくじりを思い出して共感性羞恥が……!』
しかし、その感慨を理解できないジムは一刀両断してしまう。
『老師の赤面羞恥など、誰も得しませんが』
『辛辣!』
老武侠の軽妙なやり取りが、逆にリング上の張り詰めた緊張感を際立たせる。結城が意識の深淵へ落ちるか、はたまた心を折ってギブアップを口にするか、もはやこれまでと思われたその瞬間、コーナーから弾丸のように影が飛び出した。
「蓮くん、今助けるよっ!」
月の魂の叫びと共に、トラースキックがジェニーの背中を直撃する。
「キャンッ!?」
エースの身体がよろめき、結城を解放する。月はその隙を縫うように結城の腕を引き、自陣のコーナーへと引きずり戻す。
「限界だよね、よく耐えたよ! 後は任せて!」
二人の瞳が交差する。
「……すいません、頼みます」
そこには、絶対強者を前にした恐怖よりも、この過酷な試練を共に乗り越えようとする確かな絆が燃えていた。
リングへ舞い戻った月の鋭い踏み込みを、ジェニー・葛葉はまるでダンスのパートナーを迎え入れるかのような優雅さで待ち受けていた 。
「……月ちゃんさぁ、ホントはシングルでボクとやれるくらい強かったりしない?」
余裕の笑みと共に放たれたのは、回転ステップの遠心力を乗せた強烈なサイドチョップだ。空気を裂く鋭い風切り音がリングに響く。しかし月は、その一撃を正面から受け止めるような愚行は犯さない。あえてジェニーの懐深くへと身を投じるスライディングを選択したのだ。ジェニーの腕が頭上を通り過ぎる刹那、月は獲物を狙う猛獣のごとき眼光を光らせた。滑り込みの勢いを一切殺すことなく、ジェニーの軸足となっている右足首を両手でがっちりと捕獲する 。
「っと! 買い被らないでほしいな……ッ!」
そのままの勢いでジェニーを引き倒すと、月は彼女の足首を自身の肘の内側で深くフックした。そして、自らの体重をあますことなく乗せ、体ごと激しく捻り上げる。強固なヒールホールドが完成し、ジェニーの足首から悲鳴のような軋みが伝わる。たまらずジェニーの顔から余裕の笑みが消え、苦悶に表情が歪んだ。
「ついでに言えば、『ちゃん』付けで呼ぶのやめてよねっ!」
関節を極め上げながら月が吠える。しかし、絶対的なエースであるジェニーの心までは折れてはいなかった。
「あはっ! あ痛たた……! やるね、月ちゃん!」
激痛に顔をしかめながらも、ジェニーは不敵な笑みを浮かべ、即座に反撃の糸口を計算していた。
「むかっ!」
やめろと言ったちゃん付けを敢えて繰り返され、怒った月が足首をさらに強くねじる。
「いったい!?」
悲鳴をあげつつもジェニーは捕らえられた脚を軸に無理やり身体を回転させ、関節の極まりにわずかな隙間を作り出す。そして、自由になっているもう一方の脚を器用に跳ね上げ、自身を拘束している月の指先をピンポイントで強烈に蹴り上げた。
「痛いっての!」
予想外の反撃に月が指先の痛みに耐えかねて手を放す。
「くっ……!?」
拘束を強引に引き剥がしたジェニーは、ズキズキと痛む右足首をかばいながら、素早く後方へと距離を取った。しかし、ダメージは確実に彼女の機動力を削いでいた。立ち上がろうとしたものの、足首に走る鋭い痛みに顔をしかめ、その場にうずくまってしまう。ぺちぺちと患部を叩き、なんとか痛みを散らそうとするジェニー。そのほんの一瞬の綻びを、エプロンサイドの結城は見逃さなかった。
血の気を失い、荒い息を吐きながらうずくまっていた彼は限界に達している肉体に鞭を打ち、最後の力を振り絞って立ち上がった。ジェニーの足が止まった今この瞬間こそが、最初で最後の勝機。結城はふらつく足取りを気力だけで前へと進め、再びリングへと飛び込んだ。
「い、今だ……!」
かすれ、裏返りそうになる結城の悲痛な叫び。その声を聞いた月は、振り返ることすらしない。結城の足音と声だけでその意図を完璧に察知し、体勢を立て直そうとするジェニーの懐へと、再び決死の覚悟で組み付きにいった。
「……オーケイ」
月がジェニーの身体を正面右から捕らえ、そこへ結城が左から腕を回して加勢する。満身創痍の結城の側が若干崩れ気味ながら、二人がかりで、エースの身体をツープラトン・ブレーンバスターに高く空へと掲げ上げた。
「「せーのっ」」
滞空時間の長いその一撃は、観客に深い溜息と期待を抱かせた。マットへブチ当てられたジェニーの背中が、衝撃で激しくバウンドする。
「がはっ!?」
結城は合体技を完遂すると同時に力尽き、ゴロゴロと転がってリングの外、エプロンサイドへと逃げ込むのが精一杯だった。リング内には、月とジェニーの二人だけが残る。月は、この好機を逃すまいとジェニーの腰を背後からクラッチする。
「……シングルでは無理でも、二人がかりで負ける程度と思われるのは癪だからね……いっくぞぉ!」
自らの体を弓なりに反らせ、ジャーマンスープレックスを炸裂させる。
「……ッ!」
鮮やかなブリッジ。レフェリーがマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スッ!?」
だが、カウント2.5。ジェニーの右肩が力強く持ち上がり、フォールを弾き飛ばした。
「こ、コンティニューッ!」
ジェニーがゲームのような叫び声をあげて、荒い息をつく。
「くっ!?」
月は焦燥に駆られながらも、まだ立ち上がれないジェニーを無理やり引き起こす。必殺のノーザンライトスープレックスホールドへ繋ぐためだ。
「ホント怪物だよね……でも今度こそこれで……!」
月が抱え上げようとしたその瞬間、エプロンサイドの結城がロープにしがみつきながら悲鳴を上げた。
「だ、ダメだ月さん……その技は……!?」
結城の予感通り、ジェニーの口が三日月のような笑みを浮かべる。両足を月の右脚に強引に絡みつかせ、反り投げを妨害する。ノーザンスープレックス返しだ。
「……はい、ざんね~ん♪」
ジェニーの軽やかな声が響く。それは、追いつめられた獲物が見せる悲鳴ではなく、勝利を確信した達人ゲームプレイヤーのような余裕だった。
「ミスった!? そうか、三郎太さん対策の返し技……!?」
失策に気付いて悲鳴を上げる月だが、既に手遅れだ。投げ切れず、笑うジェニーと同体となって横倒しにマットへ転がり込むしかなかい。しかし、マットに転がった状態から、すぐさまジェニーはバネのように跳ね起きる。彼女の瞳には、先ほどまでとは全く異なる、戦いの高揚だけに支配された「トランス状態」のライラックの光が爛々と宿っていた。月の脳裏に戦慄が走る。彼らが必死に積み上げてきた連携は、エースという強固な岩盤の前で、すべて手のひらの中で転がされていたのではないか。そんな絶望的な予感が月の心臓を凍らせた。
「……あは、あはははは! 最高だよ、二人とも! 今度はボクのターンだねっ!」
その宣言と共に、ジェニー・葛葉が放った咆哮が会場を震わせる。トランス状態に突入した彼女の瞳は、理性を焼き切り、ただ「闘争」という極彩色の快楽だけを抽出する、本能の化身であるかのようだった。
実況席のジム・コマンドロスが、思わずマイクを握り直す。
『ジェニーが――跳ね起きた! ジェニー・葛葉のライラック・アイが輝いている……?』
その異様な光景に、解説のマスター盤古が、画面越しに目を細めた。
『……ほう! 面白い嬢ちゃんじゃな、ありゃ天性の武の才よ。小僧め、ここで仕留めそこなったのは致命になるぞ』
盤古の不吉な予言に、ジムが困惑気味に応じる。
『数では優位なはずですが……老師程の実力者がそう仰るなら……雨宮、結城組には受難の時となりそうですね』
『死に体二人で数の優位などないわ』
老武侠の冷徹な言葉に、会場の喧騒がふっと静まり返った。観客席のあちこちからは、プロレスの文脈を理解しようと戸惑う声が漏れ聞こえる。
「ノワール・ゲートの実況解説、難解でちょっとなぁ……」「会場で見るのは臨場感あるんだけど、一体感に欠けるって言うか……」「対抗戦の時の影山アナとエディちゃんの放送席、楽しかったな……」「こら、試合中だぞ、大人しく見ろ」「ウム……」
だが、そんな観客の雑音も、ジェニーが放つ異様なプレッシャーの前では無力だった。彼女は一瞬の隙も許さず、呆然とする月の懐へ強襲する。月の意識が反応するよりも早く、彼女の腕が月の胴を抱え込む。高速フロントスープレックス。
「うそ……信じられな……ぎゃう!?」
受身を取る猶予さえ与えられない。月は身体ごとマットの海へと叩きつけられ、衝撃で視界が真っ白に染まる。
「……ッ!」
その姿を見た結城が、エプロンから反射的にリングへ身を投じた。もはや自分の足の感覚すら怪しい。だが、結城蓮という男の魂が、パートナーが破壊されるのを許さなかった。
「……うわああ!」
渾身のラリアットを突き出し、ジェニーへと突進する。しかし、今のジェニーにとって、その直線的な軌道はあまりに予測が容易いものだった。結城が繰り出した腕を跳び越す勢いで、まるでダンスをするかのような軽やかな身のこなしのジェニーが飛び込み、そのまま結城の首を捉える。
「ナイスガッツ! でもダァメ♪」
遠心力を極大まで増幅させ、彼女はスリングブレイドで結城の身体を吹き飛ばした。その先には、今まさに起き上がろうとしていた月がいる。
「あぁ……ッ!?」
「ぐぅっ!?」
二つの肉体が交差し、リングの中央で重なり合う。結城はリング内でダウンし、そのまま動けなくなった。ジェニーは足首の痛みなど、遠い記憶の彼方であるかのように軽やかな足取りでコーナーへと向かう。迷いなき背中は、スカイブルーの衣装を纏い、まるで神へと近づく聖者のようでもあった。
「さあ、クライマックスだよ! 飛ぶぞーっ!」
コーナー最上段。重力から解き放たれたジェニーが、美しい放物線を描いて舞う。シューティングスタープレス。無防備な月の腹部へ、エースの全質量が直撃する。
「が……ふ……ッ!?」
月が口から空気を吐き出して悶絶し、意識が混濁する中、ジェニーは彼の髪を掴んで引きずり起こす。その手つきは優雅でありながらも、逃げ場を一切残さない冷酷さを孕んでいた。ジェニーは朦朧とする月をリバースフルネルソンに捉え、倒れている結城の方向へと引き寄せ、歓喜に満ちた叫びを上げた。
「ボクをここまで熱くさせたんだから、最後は特等席で終わりにしてあげる! ……スターダストスープレックスだぁぁぁぁ!」
彼女の全質量を乗せた必殺の一撃。月がジェニーの必殺の腕から解き放たれ、重力に従って落下する。その直下、無防備な結城の身体へ、月の質量がそのまま激突した。二つの肉体が重なり合い、衝撃の余波でさらに深くマットへと沈み込む。その衝撃がリングを軋ませた。
「……ッ!?」
「がふっ!?」
結城の掠れた苦悶と月の悲鳴が重なり、静まり返る会場に消えていく。ジムが、その無慈悲な結末を言葉にする。
『見事なスープレックス、しかし、ダウンした選手の上に落とすという行為が示すのは武威ではなくデモンストレーション。自分の存在を刻みつける意図でしょう』
解説の盤古が、画面越しに静かな視線を向ける。
『無粋な物言いじゃのう。じゃが、正しくもある。あの嬢ちゃんは今楽しんでおるように見えて……実のところ、まだ楽しめておらぬ』
盤古の声には、かつて修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、独特の哀愁が滲んでいた。彼はジェニーの背中に、彼女自身ですら気づいていない「果てなき空虚」を見出していたのだ。
『足りない、と老師はそう仰るか』
実況のジムが、盤古の問い掛けの真意を測りかねて沈黙する。二人のプロフェッショナルが交わす言葉は、単なる試合の実況を超え、ジェニーというレスラーの深淵へと迫っていく。
『乾いておるのじゃろ。儂も昔、そういう時期があったわ。……しかし、世の中上には上がいるもの。そう遠くない内に試練の時がくるぞ』
静寂に包まれたリングの上で、二つの肉体が物言わぬオブジェのように重なり合っていた。スターダスト・スープレックスという名の破壊的な芸術によって、月と結城の若き魂は完全に沈黙を余儀なくされていた。マットに倒れ伏した結城の身体の上に、月が力なく折り重なっている。その衝撃のすさまじさを物語るように、二人の呼吸は微弱であり、ピクリとも動く気配がない。レフェリーが慌てて駆け寄り、二人の状態を確認する。顔を覗き込み、肩を揺さぶるが、返ってくる反応は皆無であった。これ以上の試合続行は不可能であると判断したレフェリーは、大きく両手を交差させて試合終了の合図を本部に送り、ゴングを要請する。
カーン、カーン、カーン……!
無慈悲な決着を告げるゴングが、アリーナに鳴り響く。しかし、勝者であるジェニー・葛葉の顔に、過酷な死闘を制した者特有の歓喜や興奮は浮かんでいなかった。先ほどまで彼女の双眸に宿っていたトランス状態の狂気じみた光はすうっと影を潜め、いつもの澄んだ薄紫色のライラック・アイへと戻っている。彼女はゆっくりと膝をつき、折り重なって気絶している二人の若手レスラーの頭に、優しく手を伸ばした。
「よしよし、がんばったねー♪」
まるで、よくできた玩具を労うかのような、あるいは迷子の子供をあやすかのような、残酷なまでに無邪気で優しい手つきだった。ジェニーは月の青い髪を撫で、結城の汗ばんだ額を撫でる。その指先から伝わる彼らの熱と疲労は、確かに彼女を楽しませる要素のいくつかを提供してくれた。しかし、それだけだった。彼女の胸の奥底にぽっかりと空いた巨大な空洞を、彼らの決死の覚悟と連携をもってしても、満たすことはできなかったのだ。
ジェニーは微笑みを浮かべたまま、心の中でそっと呟いた。
(月ちゃんもこんなもんかぁ……。ボクが勝てなかったあの人……やっぱり三郎太くんは特別なんだね)
かつて、団体対抗戦という大舞台で彼女と相対し、この圧倒的なまでの彼女の「個」に真っ向からぶつかり合い、そして彼女に敗北という名の極上の快楽と屈辱を与えてくれた男。三郎太の姿が、ジェニーの脳裏に鮮明に蘇る。彼と戦った時に感じたあの魂が沸騰するような熱狂、細胞の隅々までが歓喜に震えたあの瞬間。それに比べれば、今日の試合はやはり、少しだけ物足りない。彼女が真に求めているのは、自分が挑戦するほどの強大な遊び相手なのだ。三郎太への執着と期待が、ジェニーの中でより一層、漆黒の炎のように燃え上がっていくのを感じていた。だが、観客たちにとってのジェニーは、依然として絶対的な強さを誇る無敵のエースである。ジェニーは立ち上がると、軽やかなステップでコーナーへと駆け寄り、セカンドロープにひらりと飛び乗った。
「あーあ、やっぱりこの遊び、プロレスは最高に楽しいや!」
ジェニーは観客席へ向かって大きく両手を振り、満面の笑みでアピールをする。その天真爛漫な姿に、それまでスマホやタブレットの画面越しに冷静な視線を送っていた「ノワール・ゲート」の観客たちも、ついに感情の堰を切ったように大熱狂の渦へと巻き込まれていく。圧倒的な暴力と破壊の後に見せる、この浮世離れした可憐な笑顔。そのギャップこそが、ジェニー・葛葉というレスラーが観衆を惹きつけてやまない魔力であった。会場には、彼女の名を呼ぶ歓声と、惜しみない拍手が割れんばかりに響き渡っていた。
一方、リングの中央では、熱狂の裏側で密やかな、しかし結城蓮にとっては死活問題となる事態が進行していた。遠くで響く歓声とゴングの残響に促されるように、結城の意識がゆっくりと覚醒を始める。全身の骨が軋むような激痛と、肺の奥が焼け焦げるような息苦しさ。だが、彼が目覚めて最初に直面したのは、スターダスト・スープレックスによるダメージ以上の「衝撃」であった。重い。自分の胸の上に、何かが乗っている。いや、誰かが乗っているのだ。薄く目を開けた結城の視界に飛び込んできたのは、至近距離にある青みがかったボブカットの髪と、白く透き通るようなうなじであった。彼の身体の上に、雨宮月が完全に折り重なるような形で倒れ伏しているのだ。月の柔らかくしなやかな身体の感触が、薄いリングコスチューム越しにダイレクトに伝わってくる。
「あ、あの……月さん。月さん?」
結城は激痛を堪えながら、必死に声を絞り出した。頭では分かっている。月はれっきとした男性であり、共にリングで戦うキャリアで結城を上回る先達レスラーだ。しかし、目の前にあるのは、どう見ても可憐な美少女の姿であった。しかも、激しい運動によって汗ばんだ肌からは、ほんのりと甘いような香りが漂い、結城の鼻腔をくすぐってくる。大学を出たばかりで、女性免疫の乏しい青年である結城にとって、この状況はジェニーの必殺技を食らうよりも心臓に悪い事態であった。みるみるうちに、結城の顔が耳まで真っ赤に染まっていく。
結城の震える声に反応し、月の身体がピクリと動いた。
「うぅ……あふぅ……あ、蓮くん。大丈夫?」
微かに目を開けた月が、寝ぼけたような、それでいてどこか艶っぽい声で問いかけてくる。至近距離で見つめてくるその瞳は潤んでおり、結城の理性を激しく揺さぶった。
「だ、大丈夫です……ですからその……どいてもらえると……」
結城は視線を彷徨わせながら、必死に月を退かそうとするが、ダメージで腕に力が入らない。月はそんな結城の様子をいぶかしげに見つめると、さらに顔を近づけてきた。
「……ホントに? すごい汗だし顔まっかだよ? 息も荒いままだし、ドクター呼んだ方が」
二人の鼻先が触れ合うほどの距離。結城の心臓が早鐘のように鳴り始める。
「いえ! 大丈夫ですのでは、はやくどいて!」
結城の悲痛な叫びに、ようやく状況を察したのか、月はよろよろと身をよじって結城の上から退き、隣のマットへと転がった。汗で額に張り付いた髪越しに、横目で結城を見つめてくる。その仕草すらも、計算されたかのように愛らしい。
「あ、ああ……ゴメン。ボク重かったよね……。それに肝心なとこでミスしちゃって……」
月は申し訳なさそうに眉を下げた。自分がノーザンライトスープレックスをチョイスするという致命のミスをしたことが、この凄惨な敗北の直接の引き金になったと責任を感じているのだ。
「いえ、咄嗟の事だからしょうがないですよ。それにジェニー先輩が怪物すぎました……」
結城は目を激しく泳がせながら、必死にフォローの言葉を返す。月の言葉の内容よりも、月の存在そのものに対する動揺を隠し切れないのだ。しかし、月はそんな結城の不自然な態度を、ダメージの深さゆえの苦痛だと勘違いしてしまう。
「……ホントに大丈夫? なんかしんどそうだしやっぱりドクターを」
月が心配そうに身を乗り出してくる。その瞬間、結城の視線は、激しい戦いと汗によって乱れた月の青いリングコスチュームの胸元へと、図らずも引き寄せられてしまった。男性であるはずの月に、胸の膨らみなどあるはずがない。しかし、その華奢でなだらかな鎖骨付近のラインと、のぞく白い肌の放つ破壊力は、純情な少年のキャパシティをとうに超えていた。
「大丈夫っすから! ホント平気なんで!」
結城は悲鳴のような声を上げ、月の胸元から必死に目を反らして天井を凝視した。全身を硬直させ、顔から火が出るほどの羞恥心に耐える結城。
「ホントにぃ……?」
月はジト目を向け、なおも心配そうに顔を覗き込んでくる。二人の間には、敗北の悲哀とは全く異質の、妙に甘酸っぱくもカオスな空気が流れていた。
その様子を、救護のために駆けつけていた医師と看護師が、リングのすぐ後ろで立ち尽くして見守っていた。担架を用意し、一刻も早く処置を行わなければならない状況かと思ったのだが、目の前で繰り広げられる若手レスラーたちのあまりに初々しく、そしていじらしい「どぎまぎ」を前に、彼らは声をかけるタイミングを完全に見失っていた。
「……もう少し、待った方がいいですかね?」
「……ええ。なんだか、お邪魔しちゃ悪いような気がします」
生暖かい、どこか保護者のような慈愛に満ちた視線を向ける医師と、いやに鼻息荒く2人のやりとりに見入っている看護師。
アリーナを包む大歓声の中、激闘の余韻は、若きレスラーたちの奇妙な青春の一コマとして、静かに幕を下ろそうとしていた。