「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
世界各都市から選ばれた会場で毎年開催され、「世界一強い男を決める」というシンプルにして至高のコンセプトを掲げるプロレスラーたちの夢の祭典、それがアース・クラッシュ・トーナメントである。かつてこの熱狂の渦が日本へ上陸し、伝説のレスラーであるモモタロウが劇的な優勝を飾ってから、早いものでもう数年の歳月が流れていた。しかし、栄華を極めたその世界的な祭典も、時代の荒波には抗えずにいた。一時期の総合格闘技の爆発的なブームに押される形で、アース・クラッシュ・トーナメントはその存在意義と開催形態に大きな影響を受け続けている。純粋なプロレスだけのイベントという枠組みから外れた異種格闘技的な要素が組み込まれたり、莫大なコストと興行収入のバランスから開催頻度そのものが激しい議論の的となったりと、大会の存続すら危ぶまれる混沌とした状況が続いていたのである。
そんな逆風の中、世界レベルで名の知られる日本の強豪にして天才技巧派レスラー、サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウは、アース・クラッシュ・トーナメントの開催と運営を担うECT協会の強い求めにより、大会のアドバイザーとして招聘されていた。彼は協会本部が置かれているアメリカの地へと渡り、リングの上ではなく、背広を着た大人たちがひしめく会議室で、多忙を極める調整協議に深く関わる日々を送っていたのである。
そして今日、キンタロウは久々の帰国を果たし、携えてきた「ひとつの重要な報せ」を手土産に、彼にとって馴染み深い太平プロレスの団体ビルを訪れていた。ビル内に設けられた、汗と熱気、そして湿布の匂いが染み付いた道場兼トレーニングルーム。いつもなら激しい打撃音やロープの軋む音が響き渡るその空間は、今は奇妙なほどの静寂と熱を帯びていた。所属レスラーや未来を夢見る練習生たちが、まるで強力な磁石に吸い寄せられるかのように、練習用リングの周囲へと集まっていたからだ。彼らの視線の先には、リングの真っ赤なエプロンサイドに背中をもたれかけ、余裕を含んだ笑みを浮かべて語る一人の男の姿があった。身長192センチ、体重105キロという恵まれたアスリート体型。かつて美形レスラーとして名を馳せた端正な顔立ちを彩るのは、過去の敗北の屈辱を忘れないためにあえて残しているという独特の「金太郎カット」である。彼こそが、サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウその人であった。キンタロウのすぐ隣には、太平プロレスの社長令嬢、松平美樹が寄り添うように立っていた。彼女自身も日々のトレーニングを欠かさず、時にはイベントなどでレスラーとしてリングに上がることもあるほどプロレスを愛しており、行方不明のモモタロウに恋心を抱き、団体のフロント業務に携わりながら、その帰還を待ち続けている一途な女学生でもある。
キンタロウの口から語られた壮大な計画の全貌を聞き、宮川三郎太は目を丸くして声を上げた。
「アース・クェイク・トーナメント……ですか!?」
三郎太の驚きに満ちた声が道場に響き渡る。キンタロウは落ち着いた、しかしどこか芝居がかった気障な仕草で小さく頷き、言葉を紡いだ。
「そうだ、三郎太クン。アース・クラッシュ・トーナメントの実施形態については、いまだ協会内で色々と揉めて協議が重ねられている状態なんだが……その兄弟イベントと言えるこの『アース・クェイク・トーナメント』を実施すると言う点については、めどがついた」
キンタロウは周囲を取り囲む若いレスラーたちと一人一人目をあわせるかのように、視線を巡らせた。
「かつてのECT開催では、なにもかもが無差別すぎて、体格や経験に絶望的な差がある格差試合が頻発していたことが、運営上の大きな課題の一つとして挙げられていたからね。そこで今回のEQTは、参加資格を『デビュー五年以内の若手』あるいは『一定以下の軽量級のみ』に限定するという思い切った措置をとった。すなわち、『未来の世界一を目指す若者を選び出す』というコンセプトの大会となるわけだ。無論、女子選手の参加も可能だよ。そして……このEQTの記念すべき開催地が、ここ日本に決まったというわけさ」
その言葉がもたらした衝撃は大きかった。美樹が、希望に満ちた瞳を輝かせて両手を胸の前で組む。
「新たな世界大会が……この日本で……!」
美樹の感嘆の声に重なるように、三郎太の後輩であり、ファン達からは「メスガキの化身」とも評される若手女子レスラーのデンジャー・サチが、興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「マジ!? 女子も出れるんだ!?」
サチの歓声に対し、キンタロウは大人びた微笑を浮かべて優雅に答える。
「ああ、機会は男女平等であるべきという、時代の要求に応えているのさ。ベテランは一定以下の軽量級のみという制限を設けたのも、実際は過去の無差別なECTには関われなかった女子レスラーたちにも、世界へ羽ばたく機会を与えようという意味合いもあっての条件なんだ」
その説明に、道場の空気がさらに熱を帯びる。若手や女子選手たちにとって、これは千載一遇の大チャンスに他ならないからだ。すると、集まった面々の中から、ひときわ巨大な影が一歩前へと進み出た。身長195センチを誇る巨漢で、金髪にバンダナを巻き、団体トレーナーとジャージズボンを身につけた新人男子プロレスラー、ブライアン・ブルナイトである。彼は悪役志望であり、試合中は傲慢な悪党ムーブを見せるものの、リングを降りれば先輩に敬意を払う(少々頭は悪いが)礼儀正しい青年であった。
「アース・クラッシュといやぁ、確か三郎太先輩も以前の大会に出てましたよね?」
ブライアンの素朴な問いかけに、三郎太は少し照れくさそうに頭を掻き、苦笑いを浮かべた。
「ああ、出たには出たけど……僕は予選リーグであっさり敗退しちゃったからね。胸を張れるような結果じゃないよ」
謙遜する三郎太に、キンタロウはかつての戦いを懐かしむような穏やかな声でフォローを入れる。
「ハハ、あの頃の三郎太クンはまだデビューして間もなかったからな。しかし、世界という壁の高さを知るには十分すぎる経験だったはずだ」
和やかな空気が流れる中、美樹がふと意地悪な笑みを浮かべて、鋭い事実を突きつけた。
「っていうか、予選リーグで三郎太クンのいるブロックを突破して、彼を蹴落としたのって……他でもないキンタロウさんじゃないですか」
痛いところを突かれたキンタロウは、大げさに肩をすくめてみせた。
「いや、それは……済まないね、三郎太クン」
「そんな、謝る事じゃないですよ! キンタロウさん抜きでも、当時のボクは勝ちぬけてなかったんですから」
慌てて両手を振り、真摯な瞳で言葉を返す三郎太。太平プロレスの道場は、久々に帰還した偉大な先輩を囲み、温かくも活気のある空気に包まれていた。
しかし、その和やかな団欒の時間は、突如として道場の入り口から放たれた異様なプレッシャーによって無惨にも引き裂かれた。
「どきなさい!」
鋭く冷たい、しかしどこか高圧的な女性の声が響く。周囲を取り囲んでいた練習生たちが、その只ならぬ気迫に押されて慌てて道をあけた。そこに現れたのは、対照的でありながら、どちらも極めて危険な雰囲気を纏った二人の女子プロレスラーであった。一人は、アッシュブロンドのショートボブにグレイッシュブルーの瞳を持つ米国人レスラー、シロオニ・ベス。すらりとした長身を、黒と赤を基調とした金色の縁取りのビスチェトップと、豪華なアラベスク模様が施された黒のロングレギンスで包んでいる。彼女はかつて三郎太に敗れて以来、彼に執着し続けており、一見すると大人しい女学生のような姿と丁寧な言葉遣いとは裏腹に、不敵な笑みを浮かべて強い自信を漲らせていた。そしてもう一人は、黒髪のショートボブと紅色の瞳を持つ悪役女子レスラー、ガータ御子柴である。露出度の高い網目付きの赤いワンピースタイプのリングコスチュームに身を包んだ彼女は、色白の肌を怒りで粟立たせ、極めて不機嫌極まる表情で眉を吊り上げていた。彼女は三郎太のデビュー同期であり、密かに彼に慕情を抱きながらも、素直になれず嗜虐的な行動をとってしまう複雑な内面の持ち主である。
不敵な表情のベスと、怒りに震える御子柴。相性最悪であるはずの二人が、なぜか歩調を合わせて道場の中央へと進み出る。彼女たちは怯える練習生たちを乱暴にかきわけ、ただ一点、リングサイドで涼しい顔をしている男の首を狙うかのように、キンタロウの真正面へと立ち塞がった。
「貴方が……サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウですね?」
その響きには冷ややかな刃が隠されていた。名指しされたキンタロウは、不意の来訪者に対しても全く動じる様子を見せず、持ち前の気障な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「おや、随分と綺麗なお嬢さんだ。私に何かご用かな?」
余裕たっぷりに甘い言葉を投げかけるキンタロウの横で、ひりつく緊迫感を察知した宮川三郎太が慌てて割って入る。
「あ、あの! 彼女はベス……シロオニ・ベスです。モモタロウさんを探して、はるばるアメリカからここに……」
三郎太の必死の紹介を聞き、キンタロウはポンと手を打って大げさに納得したような表情を作った。
「ああ、なるほど! 君があの噂の! 太平プロレスに道場破りまがいの挑戦状を叩きつけ、あまつさえ迎撃に出た三郎太クンに惚れ込んで、初対面で求婚したとかいう……!」
ざっくりまとめると恥ずかしい経歴だ。普段はクールに振る舞うベスの色白の頬が、一気に朱に染まる。
「そ、その話は今はどうでもいいでしょう!?」
ベスは照れ隠しのように声を荒らげると、コホンと一つ咳払いをして気を取り直し、再び鋭い視線をキンタロウへと射抜いた。
「……貴方はかつて、私の兄であるアカオニ・トムとアオオニ・マイクのタッグを相手に、モモタロウと共に戦い、勝利を収めましたね?」
キンタロウの脳裏に懐かしい記憶が蘇る。確かにあの鬼の兄弟とは戦った覚えがある。
「ああ、そうだね。覚えている」
「その時の借り、妹である私が一応返しておこうと思いまして。単刀直入に言います……私と勝負なさい、キンタロウ!」
ベスは金色の編み上げロングブーツでドンッと床を強く踏み鳴らし、はっきりと挑戦状を叩きつけた。誇り高き白鬼としての意地と、兄たちへの思慕が彼女を突き動かしているのだろう。
「なんと。……可愛らしい顔をして、随分と好戦的なんだな」
キンタロウが感心したように息をついたその時であった。ベスの背後から、もう一つの爆発しそうな怒りが割り込んできたのである。
「ちょっと待つニャ、バカ鬼!」
御子柴が、怒りで肩を怒らせながらベスを乱暴に押し除けた。
「コイツにゃ、オレも直接つけなきゃなんねぇ落とし前があるんだニャ! おいコラ、キンタロウ! オレの挑戦、受けてもらうニャ!」
いきなり噛み付いてきた紅色の瞳を持つ無法者に対し、キンタロウは眉をひそめて首を傾げた。ベスについては噂で聞いていたが、この猫のコスプレをした凶暴な少女については、どうにも見覚えがなかったからだ。
「む……? すまない、君は……どこかで会ったかな?」
その言葉が、御子柴の導火線に決定的な火をつけてしまった。彼女の顔が怒りでさらに真っ赤に染まり、握りしめた拳がわなわなと震え出す。
「忘れてるよな……そうだよな、テメェはそういう奴だニャ! よく聞け、オレはガータ御子柴! テメェのそのすっとぼけた顔を、一度ギャフンと言わせてやらねぇと、どうにも腹の虫が治まらねぇんだよ!」
激昂する御子柴の姿に、とまどいながらも三郎太が声をかける。
「紅子ちゃん、オトギ興行への出向から帰ったんだね、おかえり。でも、どうしたんだ、そんないきなり……」
三郎太に対し目礼を返しつつも、御子柴は、冷たく突き放すような声を上げる。
「悪いが三郎太には一切関係ない事情だニャ! ほっといてくれ!」
冷たく言い放たれた三郎太が言葉を失う中、キンタロウはようやく記憶の糸をたぐり寄せ、目を見開く。
「あ。御子柴紅子……! たしか三郎太クンと同時期にデビューしたアイドルレスラーの子か! ……随分なイメチェンをしたんだな」
悪役へと変貌を遂げたかつての清純派に対し、キンタロウはどこか的外れな感心を寄せる。しかし、御子柴にとってその反応は、己の屈辱の過去を抉られるようなものでしかなかった。
「う、うっせー! とにかく勝負するニャ!」
アイドル? あの御子柴が? と囁き合う練習生たちの視線に居心地悪そうに頬を染めて御子柴が叫ぶ。
「ちょっとクソ猫! 私が先に話をしているのよ!?」
ベスがたまりかねて御子柴に抗議の声を上げる。互いに一歩も譲る気のない二人が、キンタロウを挟んで火花を散らす。その状況を前にして、当のキンタロウは全く悪びれることなく、むしろ心地よさそうに笑みをこぼした。
「ハハハ。いやはや、久々に日本に帰ってきて早々、こんなにも情熱的な美女二人に取り合いをされるとはね。なんだかモテモテで気分がいいな」
そのあまりにも神経を逆撫でする一言に、御子柴とベスの声が見事に重なった。
「あ?」
「は?」
二人の瞳から、文字通りの殺気が放たれる。これ以上煽っては本当に血の雨が降ると察した三郎太が、必死の形相で二人の間に割って入った。
「お、おちついて! 二人とも、ここは道場だよ! キンタロウさんも、これ以上彼女たちを煽らないでください!」
後輩の悲痛な叫びに、キンタロウはようやく悪ふざけを収め、真顔を作って肩をすくめた。
「煽るつもりなんて毛頭ないんだがね……。フッ……まぁいい。こんなにも熱く、そして綺麗な女性たちからのお誘いとあらば、男として断るわけにはいかないな。折角の機会だ、お受けしようじゃないか」
キンタロウの承諾に、道場に集まっていた練習生たちがどよめく。世界的に知られる実力派の男の技術を目の前で見られるチャンスだ。
「しかし、いきなり2対1のハンディキャップマッチというのも無粋だし、かといって連戦では後で不公平だと揉めそうだからな……。そうだ、形だけでもタッグマッチということにしよう。おい、そこの新人クン、少し私に付き合ってくれないか?」
キンタロウが指名したのは、練習生たちに交じって事の成り行きをハラハラしながら見守っていた、ブライアンであった。突然名指しされた彼は、金髪の頭を揺らして目を見開く。
「お、オレっすか!? マ、マジっすか!? キンタロウさんとタッグを組めるなんて……か、感激っス! 胸を借りるつもりで、全力でがんばります!」
パワー頼りで技術はまだまだ未熟なブライアンだが、素直な性格ゆえにやる気だけは人一倍だ。鼻息を荒くする巨漢に対し、キンタロウは余裕の笑みでなだめる。
「そんなに肩肘はらなくていい、私がフォローするから君は君で暴れてくれればいいよ」
御子柴が、ギリッと歯ぎしりをする。
「新人のお守りしながらでも、オレたち相手なら十分にお釣りが来るってか……。相変わらずスカした態度で、心底ナメた真似をしてくれるニャア……?」
「ええ、本当に。貴女のような下品なクソ猫とタッグを組むのは正直言って業腹ですが……キンタロウのあの態度には、ちょっと今、私もカチンときたわ。いいでしょう、二人まとめてリングに沈めてやります」
普段は相性最悪で、顔を合わせればいがみ合うベスと御子柴であったが、この瞬間だけは「キンタロウをぶちのめす」という一点において、強固な共闘関係が成立したのである。対戦カードが決まったことを確認すると、キンタロウはリングサイドでオロオロしている三郎太へと視線を向けた。
「そういうわけだ、三郎太クン。悪いが、レフェリーを頼めるかな? そして美樹ちゃん、急で申し訳ないが、道場のリングを使わせてもらうよ」
キンタロウの丁寧な申し出に、美樹は、少しだけ残念そうなため息をつきながらも快諾した。
「もちろんです、自由に使ってください。……でも、あーあ。こんな豪華なカード、できればきちんとした興行のメインイベントにしたかったなぁ」
興行主としての顔をのぞかせる美樹の隣で、三郎太は自分の役割に戸惑いを隠せずにいた。
「僕が……レフェリーを……?」
憧れの先達であるキンタロウ、執拗に迫ってくるベス、そして複雑な関係にある同期の御子柴。その試合をレフェリーとして自らの手で裁くというプレッシャーに、三郎太は胃が痛くなる思いであった。しかし、断る空気でもない。覚悟を決めた三郎太は、頷いて引き受けた。
キンタロウはじめ選手たちが準備を整えたのを確認すると、団体トレーナーとジャージズボン姿のまま、三郎太はリング上へ立った。そして、手持ち式の簡易ゴングを手に取り、大きく息を吸い込む。
カーン、という乾いた金属音が太平プロレスの道場に響き渡った。
三郎太が手持ち式の簡易ゴングを力一杯鳴らし、近くにいた練習生へと手渡す。その音は、これから始まる「因縁」と「誇り」が交錯するタッグマッチ──その幕開けを告げる合図であった。ゴングの残響が消えぬ間に、真っ先に動いたのはガータ御子柴だった。赤い網タイツの脚がマットを蹴る。彼女は猛烈な勢いでキンタロウへと突進した。長身のキンタロウに対してまともにぶつかると見せかけ、直前で身を屈めて低い姿勢をとる。キンタロウがその動きに目を奪われた瞬間、御子柴はバネのように跳ね上がった。ロープへと飛び込み、その反動を利用して空中で鮮やかに体を捻り、ハンドスプリングでの旋回蹴りを放つ。軽やかさと、彼女自身の怒りが凝縮された一撃が、キンタロウの端正な顔面を狙って放たれた。しかし、キンタロウは動じない。紙一重のところで首を後ろに傾け、その蹴撃を空中に逃がした。
「シッ!」
御子柴の呼気と、風を切る音がキンタロウの鼻先をかすめる。着地した御子柴の背中へ、キンタロウは余裕を崩さないまま声をかけた。
「おっと、なかなかいい動きじゃないか。メキシコでルチャを鍛えてきたというのは伊達ではないようだね」
着地の勢いを殺さぬまま、御子柴はすぐさま反転する。今度はキンタロウが体勢を立て直す隙を与えず、マットに身を投げ出すような低空ドロップキックを放った。
「だりゃあっ!」
ドスッ、という鈍い衝撃音が響き、キンタロウの右膝が正確に撃ち抜かれる。
「……っ、くっ!」
百戦錬磨のキンタロウといえど、膝への不意打ちは堪えたのか、わずかに顔をしかめてその場に片膝をついた。それを見下ろす御子柴の瞳には、プロレスの勝ち負け以上の、個人的な怨嗟の炎が揺らめいている。キンタロウは膝の痛みを逃がしながら、怪訝そうに彼女を見上げた。
「……しかし、君にそんなに恨まれるようなことをしたかな?」
その言葉が、御子柴の逆鱗に触れた。彼女は右腕を真っ直ぐに伸ばし、膝をつくキンタロウの鼻先を指差した。
「いいぜ、なら思い出させてやるニャ」
道場内の視線が御子柴に集中する。彼女は震える声で、隠し続けてきた「屈辱」を吐露し始めた。
「オレがメキシコに渡る前……まだこの太平プロレスで、デビュー直後の『御子柴紅子』として、ベビーフェイスのアイドルレスラーをやっていた時のことだニャ。思うように結果が出せなくて、一人で追い詰められていたオレに、テメェは優しく『相談に乗ろうか?』とナンパしてきたんだニャ!」
ひきつった笑みで御子柴が続ける。
「結構嬉しかったニャ、誰にも言えずに潰れかかってたからニャ……。だが、藁にもすがる思いで待ち合わせにむかったオレを……」
御子柴の告白に、道場の空気が凍りつく。三郎太も、レフェリーのポーズをとったまま固まっていた。かつての彼女がそんな苦境にあったと自分は知りもしなかった。
「テメェはデートのダブルブッキングで忘れてすっぽかしやがったニャ!」
その叫びと共に、御子柴は怒りのスピニングバックキックを繰り出した。膝をついたキンタロウの顔面を、鋭い後ろ回し蹴りが襲う。
「うっ……!」
キンタロウは咄嗟に両腕をクロスさせてガードしたが、その重い衝撃に後方へとマットを滑らされた。
静まり返る道場に、冷ややかな声が次々と漏れ出す。
「えぇ……」
ベスが心底軽蔑したような目でキンタロウを見た。
「うわぁ……」
美樹も引き気味に顔をそむける。そして、最も残酷な笑い声を上げたのはサチだった。
「サイテーじゃん! キンタロウさんマジ、サイテーじゃん! ギャハハ、超ウケるんだけど! ゲラゲラ!」
腹をかかえて笑い転げるサチの姿に練習生たちがそっと距離をとる。
「い、いや、さすがにそれはフォローできないっス……」
タッグパートナーであるはずのブライアンまでもが、困惑した表情でキンタロウから目を逸らした。
「……キンタロウさん? 本当なんですか、それ」
三郎太の悲しげな問いかけに、キンタロウはガードした腕を解き、冷や汗を拭いながら遠い目をした。
「え、いや……そんなことは……やりそうだなぁ、当時の私なら。……そうかぁ……」
最悪の肯定だった。
「礼をしないと気が済まないニャ! ボコボコにしたるから覚悟しろや!」
御子柴は憤怒の形相で再びキンタロウに肉薄した。彼の右腕を強引に掴み、手首を極めるようにして捻り上げる。
「そうそう、哀れんで手加減したら殺すニャ!」
「ふむ……身から出た錆、というやつか。いいだろう」
キンタロウの瞳から、それまでの不真面目な色が消えた。彼は腕を極められながらも、御子柴の重心の乱れを冷静に見極める。彼女が投げを打とうと踏み込んだ瞬間、キンタロウは逆に彼女の首筋へと左腕を回した。
「ならば、仕方ない。真摯にお相手しようじゃないか。私なりの、レスラーとしての誠実さでね!」
キンタロウは技術で強引に御子柴の体勢を崩すと、そのまま彼女の頭と腕を抱え込み、スナップメアでマットへと力強く叩きつけた。流れるような動き。御子柴は背中からマットに叩きつけられ、「カハッ」と息を吐き出す。キンタロウは敢えて追撃はせず、スッと立ち上がって彼女が起き上がるのを待った。
「紳士気取りか……? 反吐が出るニャ!」
マットを叩いて跳ね起きた御子柴は、低い姿勢からキンタロウの膝を狙って低空ミドルキックを放つ。しかし、一度頭を冷やしたキンタロウのガードを崩すのは容易ではない。彼はバックステップで軽快にそれをかわし、冷然と言い放った。
「甘い」
苛立った御子柴は、自らロープへと飛ぶ。反動を利用し、走り込みからの回転ソバットが放たれた。だが、その一撃すらも見切られていた。キンタロウは紙一重で蹴り足をかわすと、無防備になった彼女の背中を、突き放すようにポンと押した。
「おやおや。熱くなりすぎて、動きが乱れているぞ」
「っ……うるせぇ! 黙って……うわっ!?」
勢い余った御子柴は、キンタロウに押されたことでバランスを崩し、そのまま前回り受け身を取るようにして自陣のコーナーへと転がっていった。這いつくばったままセカンドロープを掴んでキンタロウを睨みつける御子柴の背後から、冷ややかな、しかし絶対的な意志を持った手が伸びた。乾いた音が、御子柴の手を叩く。
「どきなさい、クソ猫!」
ベスが御子柴に強引にタッチし、リング内へと踏み込んだのだ。
「貴女の痴話喧嘩を見に来たわけじゃないわ! ……私の相手をしなさい、キンタロウ!」
「あっ、テメ……勝手にタッチすんなバカ鬼! クソッ!」
叫びながらもレフェリーの三郎太にロープ外へと押し出される御子柴を、ベスは一瞥もせずに無視する。
「タ、タッチ成立です!」
ベスは悠然とした足取りでリング中央へと歩を進める。その瞳には、かつて兄たちを翻弄した敵手の一人、キンタロウへの静かな、しかし確かな闘志が宿っていた。対するキンタロウも、不敵な笑みを浮かべたまま動じない。二人はリング中央で対峙し間合いを測る。そして、三郎太が注視する中、両者はガッチリと腕を組み合った。ロックアップ、プロレスの基本とも言えるこの攻防で、道場の空気が一変した。キンタロウに対し、ベスは一回りも小さい。しかし、組んだ瞬間に表情を変えたのはキンタロウの方だった。ベスの細い腕から放たれるのは、到底人間の乙女のものとは思えない――文字通り「鬼」の剛力。ミシミシと骨が鳴るような圧力がキンタロウを襲う。
「力で女学生に押し負けるのは……屈辱でしょう?」
ベスが冷ややかに言い放ち、キンタロウの巨体をじりじりと押し込んでいく。キンタロウは顔を歪めながらも、その視線をベスの背後――レフェリーを務める三郎太へと向けた。
「フッ……流石はあのバカオニ三兄弟の妹だ。これほどのパワーを秘めているとはね。だが……」
キンタロウはわざとらしく吐息を漏らし、ベスの耳元で囁くように言葉を紡ぐ。
「妬けるね、三郎太クン。この綺麗な女性は、試合中だというのに君の方ばかり気にしているようだ。視線が、心なしか潤んでいるじゃないか」
「ななな、ななな何をう!?」
ベスの思考が真っ白に染まった。たしかに彼女にとって三郎太は「未来の旦那様(候補)」として意識せずにはいられない存在だ。しかも、今はその彼が至近距離で自分の戦いを見つめている。キンタロウの気障な指摘は、ベスの乙女心という名の急所を、正確に、そして無慈悲に貫いた。動揺のあまり、あれほど盤石だったベスの力が一瞬にして抜ける。
「し、試合中ですよ! 変なことを言わないでください!」
三郎太が赤面しながら叫ぶが、キンタロウはしてやったりとばかりに口角を上げた。