「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
太平プロレスの道場。そこは数多の熱戦が刻まれてきた伝統の聖域だ。しかし、今日の廊下に漂う空気は、いつもの練習後の清々しくもうだるような熱気とは異なり、どこか刺すような冷たさと、ねっとりとした違和感に満ちていた。翌日に団体興行を控えた緊密な空気の中、若手エースとして期待を背負う宮川三郎太は、いつものようにトレーニングを終え、汗を拭いながら歩いていた。隣には中堅レスラーのバッカス木桜が並び、明日のカードについて言葉を交わしている。
「三郎太よ、明日の相手だが……」
「はい。メキシコから帰国したばかりだとか。僕の同期ですが、長いこと連絡も取れていなかったので、楽しみなんです」
三郎太の言葉に、バッカスはわずかに眉をひそめた。メキシコのマット界から流れてくる噂は、決して穏やかなものではなかったからだ。かつて善玉としてデビュー直後の三郎太と切磋琢磨していたはずのその人物は、異国の地で「何か」に飲まれたという。その時、廊下の向こうから、カツン、カツンと乾いた、しかし挑発的な足音が響いてきた。二人の前に現れたのは、リングコスチュームの上に無造作にジャケットを羽織った一人の女だった。黒髪のショートボブに、吸い込まれるような紅色の瞳。かつての新人ベビーフェイス「御子柴紅子」の記憶の中の姿の面影はあるが、その雰囲気はあまりにも毒々しい。頭には黒いネコミミ、そして黒と赤を基調とした、網目状の露出度の高いワンピースタイプの衣装が、彼女の変貌を雄弁に物語っていた。
「変わってない……全然変わってないニャ、三郎太。ついでに木桜センパイもお久しぶり」
御子柴は、猫のような細い目で三郎太を舐めるように見た。その瞳の奥には、再会を喜ぶ色以上に、歪んだ嗜虐心が渦巻いている。
「ついでかい。ま、いいがな」
バッカスが呆れたように肩をすくめる傍らで、三郎太は言葉を失っていた。目の前の女が、かつての純朴な同期だとは信じがたかった。
「紅子ちゃん……なのか……!? そのリングコスチュームは……?」
困惑し、わずかに顔を赤らめる三郎太。そんな彼のウブな反応を、御子柴は喉の奥で笑った。
「恥ずかしい呼び方、やめろニャ、三郎太。今のオレはメキシコ遠征でヒールターンした『ガータ御子柴』だニャ」
「ヒールに? 一体向こうで何があったんだ? 詳しく……」
三郎太が歩み寄ろうとすると、御子柴は指ぬきグローブをはめた手でそれを制し、妖艶に微笑んだ。
「まぁまぁ、再開の挨拶代わりに試合を組んでもらったニャ。……お手柔らかに、なんて言わないぜ? オレをガンガン責めたてて欲しいニャ……♡」
吐息混じりの言葉を残し、御子柴は背を向けて去っていく。その腰つきは、かつての彼女にはなかった不遜さと色香を帯びていた。
「……随分な変貌ぶりだな、アイツ。メキシコマットが荒れているという噂は聞いたことがあるがよ」
バッカスが重々しく口を開く。三郎太はその背中を見つめたまま、拳を握りしめた。
「バッカスさん……」
「ガータ……あっちの言葉で雌猫だったか? ホント、何があったんだろうな。……嫌な予感がするぜ、気をつけろよ、三郎太?」
「あ、はい……ガータ……御子柴……か」
三郎太の胸中には、かつての「紅子ちゃん」という幻想と、目の前の「ガータ」という現実が激しく衝突していた。この精神的な揺らぎが、戦士としての彼に影を落としていることに、彼はまだ気づいていない。
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そして、試合当日。太平プロレスの興行会場は久々に満員に席を埋め、熱気に包まれていた。
『さあ、本日も太平プロレス興行のメインイベントが始まろうとしております。此度は長らくメキシコ遠征に出ていた御子柴紅子が、まさかのヒールターンして帰国! 「ガータ御子柴」となった彼女が若手エース、宮川三郎太に挑む一戦であります。そしてこの衝撃的な試合に今回は昨今話題のあのシロオニ・ベス嬢に解説に来ていただくことができました!』
解説席には、白い肌と凛とした佇まいが目を引くベスが座っていた。今日はリングコスチューム姿でもジャージ姿でもなく、学生服に身を包んでいる。その姿にそう言えば女学生だったと今更思い出したように観客たちはじろじろと視線を向けているが、彼女はそんな視線など気にした素振りも見せず、ただ複雑な表情でリングを見つめていた。
『どうも。シロオニ・ベスです。解説など初めてですので色々ご容赦くださいね』
『さて、ベスさんが旦那様候補と呼ぶ宮川三郎太の戦いですが、ベスさんの目から見てこの試合、いかがでしょうか?』
実況の問いかけに、ベスの声が一段と冷たくなった。
『そうですね、あの御子柴という方は良く存じませんが、帰国早々三郎太さんを試合に指名というのがいただけません。しかもなにやら昔からの知り合いだとか? なんか面白くありませんね』
プロレスラーとしての見解を期待して水を向けた実況はベスのコメントに鼻白んだ。
『あの……ベスさん……?』
何か訴えかけるような視線をなげかけながら、察して軌道修正をしてくれないかと声をかける実況者の想いも空しく、ベスはあまりに率直にすぎるコメントを続ける。
『まぁ、せいぜい私の旦那様候補を鍛え上げる砥石のひとつにでもなっていただければと思うんですけど? ええ、とっとと負けてひっこんでろと言いたいですね』
ふんすと鼻息をついて言い切ったベスのやり切った表情に、実況は色々と諦めた。
『あの……その辺で。と、とにかく! 本日の試合、海外で仕上がった御子柴の新境地は果たして国内で若手エースへと育った三郎太にどこまで通じるのか、期待して試合を目に焼き付けたいと思います!』
場内に鳴り響く重低音の入場曲。ガウンを脱ぎ捨て、凶悪な笑みを浮かべてリングインするガータ御子柴。対する三郎太は、迷いを断ち切るように、真っ赤なプロレスパンツを叩いて気合を入れる。しかし、視線が交差した瞬間、御子柴が舌先で唇をなぞるのを見て、三郎太の心臓が不規則に跳ねた。レフェリーが両者を中央に呼び寄せる。視線を外さない御子柴。困惑を隠せない三郎太。
運命のゴングが、今、鳴り響こうとしていた。
カーン! 乾いたゴングの音が、太平プロレスのリングに戦いの火蓋を切った。三郎太は低く身構え、かつて同期として競い合った相手の変貌を、その目に焼き付けようとしていた。対する御子柴は、挑発的な猫のようなポーズで舌を出し、余裕を崩さない。
「紅子ちゃん……君に何があったのかは分からない。でも、今の君をこの試合の中で確かめるよ!」
三郎太が吠える。迷いを断ち切るように踏み込んだ彼は、一気に距離を詰めると、御子柴の頭を左腕で固定し、空いた右腕でエルボーバットを叩き込む。
「らぁっ! せいっ! おおぉっ!」
重く、鋭い音が会場に響く。三郎太の真面目さを体現したような愚直な連打が、御子柴の胸元を赤く染めていく。しかし、御子柴はその衝撃に顔を歪めながらも、紅色の瞳に妖しい光を宿して笑っていた。
「あぁ……いい打撃ニャン♡ オレの知ってる男のあっついの……」
三郎太がとどめの一撃を振りかぶった、その刹那だった。
「変わってないね、三郎太クン……?」
「……!?」
昔のような表情と声に三郎太の動きが一瞬の躊躇で鈍る。そして、それを見逃さず、御子柴の体がバネのように跳ねた。
「ケケケ、躊躇うなよぉ、三郎太、オラァ!」
その場跳びとは思えない打点で放たれた、鮮やかなフライングニールキック。空中で回転した御子柴の脚が、三郎太の顔面を的確に捉えた。
「なっ……!? あぐっ……!?」
三郎太の体がマットに沈む。不意を突かれた衝撃に、彼は脳を揺らされ、一瞬視界が白く染まった。
「どうした? もうおしまいかニャ?」
御子柴は打たれた胸元をさすりながら不敵に笑うと、腰の後ろ、リングコスチュームの飾りと思われていた所から、鈍く光る鉄の塊を取り出した。隠し持っていたチェーンだ。彼女はそれを手際よく拳に巻きつけると、ダウンしている三郎太に馬乗りになって腹に突き立てる。
「ぐぁっ……!? ひ、卑怯だぞ……!」
「悪役レスラーが卑怯で何が悪い? そらそら、もっと声出せ!」
容赦のない凶器攻撃が始まった。鎖を鞭のようにしならせて三郎太の肌を打ち、さらに鎖を巻いた硬い拳で、彼の鳩尾を何度も何度も殴りつける。 呻き声を上げる三郎太。反則を指摘するレフェリーの声など、今の御子柴の耳には届いていない。三郎太は必死にガードでダメージを軽減しながら、御子柴の腰を掴んだ。そのまま火事場の馬鹿力で彼女を抱え上げ、無理やり立ち上がる。
「回れぇぇッ!」
エアプレーンスピンだ。鎖を手放し、振り回される御子柴を抱えたまま、三郎太は自らも目を回しながら必死に回転を続ける。そして十分に回転し、遠心力に耐えかねたであろう御子柴をマットへ投げ飛ばす。しかし、御子柴の身体能力は三郎太の予想を遥かに超えていた。投げられた勢いを利用してしなやかに受け身をとってマットを転がると、そのまま勢いを利用してコーナーへと低い姿勢で駆けて行く。
「おっ……あんっ♡ ふ、ふふ……いいニャ、この感じ。けど、まだまだだぁ……!」
「!? まだ僕は目が回っているのに、紅子ちゃんは効いてないのか……!?」
恐るべき三半規管だ。三郎太がふらつく視界で御子柴を追った時には、彼女はすでにコーナー最上段に飛び乗っていた。
「飛ぶニャン!」
天井照明の光を背負うようにして、御子柴が宙を舞う。美しい放物線を描いたムーンサルトアタックが、迎撃しようとした三郎太の胸板に突き刺さった。 二人の体がマットに叩きつけられ、三郎太は肺の中の空気をすべて吐き出された。このままでは完全にペースを握られる。三郎太は苦痛に耐えながら、立ち上がろうとする御子柴に抱き着くように正面から組み付いて行く。
「逃がさない……! これで決める!」
必殺のノーザンライトスープレックスを狙い、御子柴の脇の下に頭を差し込み、その腰をがっちりとクラッチする。渾身の力を込めて後ろへ反り投げようとしたその瞬間、御子柴は必死に脚を伸ばし、ロープにつま先を引っ掛けた。
「ニャアん♡ その技は怖いからロープだぜ。おい、レフェリー! 足がロープにかかってるニャ!」
「ロープブレイクだ、三郎太、離しなさい!」
レフェリーの指示に従い、悔しげに腕を解く三郎太。しかし、御子柴はこの隙を見逃さなかった。彼女は三郎太の腕を掴み、無理やりロープ際へと引きずり込んだ。
「お前のその綺麗な目、曇らせてやるニャ……♡」
御子柴は三郎太の後頭部を強引にロープへ押し付け、逃げ場を奪った。そして、自らの豊かな双丘を、三郎太の顔面へと深く押し当てたのだ。
「むぐっ……!? んんっ……!」
鼻腔を突き抜けたのは、かつての石鹸の香りではない。汗の熱に混じって立ち昇る、火照った肌の匂いと、挑発的な香水の鋭い香り――それは、三郎太の記憶にある「紅子ちゃん」の純真さを、無残に上書きする「未知の毒」だった。 顔面を埋める双丘の、しなやかで強靭な弾力。それは同期として切磋琢磨した頃には決して意識させなかった、生々しい「女」という凶器だ。三郎太の視界は、真っ黒なリングコスチュームと、御子柴の温かく柔らかい感触に完全に覆い尽くされた。パニックに陥る三郎太の手を取り、御子柴は指を一本だけ握り込み、逆方向に反らしながら、もう片方の手で彼の脇腹を拳でドスドスと殴りつける。
「オラ、どうした? こないだの試合で抱いてた雫とかいうガキより良いカラダだろ? ほぉーら、ギブギブぅ?」
指を握られ反らされる激痛、耳元で囁かれる、かつての同期とは思えない淫らな挑発。三郎太の心臓は、怒りと、生理的な動揺によって、爆発せんばかりに脈打つ。反則のオンパレードにさすがに見かねたレフェリーが怒声をあげるが御子柴は涼しい顔だ。三郎太の脳裏にかすかに残っていたデビュー当時の彼女の幻影が、肉体的な快楽と精神的な辱めによって、音を立てて崩れ去っていく。
(……これが、僕の知っている彼女なのか? こんな、心まで泥を塗られるような……!)
真面目さという強固な殻が、内側から激しく揺さぶられ、ひび割れていく。三郎太は、己の尊厳が、観客の嘲笑と哀れみの中で、削り取られていく感覚に、絶望的な眩暈を覚えた。
『ああーっと! 御子柴、反則! これは完全な反則です! ロープを使って拘束した三郎太選手の顔面を……その、自らの胸で押さえ込んだ! いえ、フロントバス……チェストヘッドロックとでも言いましょうか! ちょっ、ベスさん、落ち着いてください!?』
解説席では、ベスがギリギリと奥歯を鳴らしていた。彼女の手がかけられたテーブルのフチには、凄まじい力によってピキピキと亀裂が入っている。
『は? なんですか? ちょっと大きいからって調子に乗ってるんですか? それともあてつけ? 文字通りあててんのよとでもいいたいの? ……殺すか。あのクソ猫、乳房引きちぎってやろうか……ッ!』
絞り出すような地を這う声でベスが剣呑に過ぎる罵声を吐き出す。
『ベスさん! お言葉が過ぎます! 公共の電波(と会場スピーカー)でコードギリギリを攻めるのはおやめください! ああ、指示に耳を貸さない御子柴に、業を煮やしたレフェリーがようやくカウントを数え始めました! 三郎太選手、大丈夫か!? 社会的尊厳は残ってい……大丈夫です、まだ耐えているようです! 三郎太の膝は崩れていませんが、立ってもいません! これはセーフだ!?』
『は?』
『すいません、なんでもないです』
リング上では、レフェリーが御子柴の肩を激しく叩き、反則カウントを絶叫していた。
「ツー! スリー! ……フォーッ!」
反則負け寸前のカウント4。御子柴は不敵な笑みを浮かべたまま、ようやく三郎太を解放した。ロープから解き放たれた三郎太は、酸素を求めて陸にあがった魚のように激しく喘ぎ、顔を真っ赤に染めたままマットに膝を突いた。視界はまだチカチカと火花が散り、鼻腔には先ほどまで押し付けられていた御子柴の香りがこびりついて離れない。しかし、三郎太の胸を支配したのは甘美な誘惑ではなく、燃えるような憤りだった。
「ハァ、ハァ……ッ! ふざけるな……!」
三郎太は膝を叩いて強引に立ち上がると、ニヤつく御子柴の懐へ飛び込んだ。困惑と屈辱を力に変え、自身の右腕を渾身の力で振り抜く。
「紅子ちゃん! 僕は真面目に君と向き合おうとしているのにっ……!」
吠えながら放たれたファイナルエルボーが……僅かに輝きを帯びた肘が無防備だった御子柴の首元へ深く突き刺さった。肉と肉が激しく衝突する鈍い音が会場に響き渡る。
「あぁっ……♡ き、効いたニャン♡ ケケケ……そうかい、オレが向き合ってないって……そう思ってんのか……」
マットにもんどりうって倒れ込みながらも、御子柴は恍惚とした表情で笑い……ふとその表情に影が差す。その歪な情動の落差に三郎太が戦慄した瞬間、御子柴の動きが豹変する。倒れたままの姿勢で、彼女はマットに転がっていたチェーンを掴んで振るい、三郎太の足首に絡ませて引き倒した。体勢を崩した三郎太に飛びついて、その太い鎖を彼の首に幾重にも巻き付ける。
「あぐっ……が……はっ……!」
恐るべきチェーン捌きとコントロールだった。御子柴は逃れようとうつぶせになった三郎太の背中に乗り上げるようにして全体重をかけ、細い腕に筋肉が隆起するのが見えるほどに渾身の力でチェーンを絞り上げた。鉄の輪が三郎太の頸動脈を圧迫し、彼の顔は瞬く間に土気色へと変わっていく。
「やめろ! 反則だ! 離せ!」
レフェリーが必死に制止し、再び反則カウントを数え始める。しかし、御子柴の紅い瞳には三郎太しか映っていない。カウントが4を超え、レフェリーがついに御子柴の肩に手をかけ、強引に引き剥がそうとしたその時だった。
「邪魔だよ、すっこんでろ!」
御子柴は締め上げたまま、拳でレフェリーを殴り飛ばした。不意を突かれたレフェリー、マーサ茨木は顔面を直撃され、ロープの下をくぐってリングの外まで転げ落ち、そのまま目を回して動かなくなる。直後、本部の判断により試合終了を告げるゴングが乱打された。
カーン! カーン! カーン! カーン!
『裁定が下りました! 御子柴のレフェリー暴行、および執拗な反則攻撃により、勝者は宮川三郎太! ルール上、三郎太の勝利です! ですが御子柴、止まらない! レフェリーもゴングも無視して続行の構えだーっ!』
「反則負け? しらねーよ。カウントスリーが入るまで、たっぷりいたぶってやるニャ♡ 試合続行だ、コラァ!」
御子柴は口の端から泡を浮かせて力なくうなだれ、意識が混濁している三郎太を鎖から解放すると、その体を無理やり肩の上へ担ぎ上げた。そしてそのまま、御子柴は三郎太の体を垂直に反転させた。脳天からマットへ突き刺す非情の一撃。放送席に座る「白鬼」と呼ばれるレスラーの得意技を彷彿とさせる、あまりにも残酷なバーニングハンマーが炸裂した。
「ベスとかいう女の技なんて、こんなもんニャン? ほら見ろ、これでも三郎太はまだ意識があるニャ。新参の小娘をちやほやしすぎなんだよ、ケッ!」
バーニングハンマーの衝撃が三郎太の頸椎を駆け抜けた瞬間、彼の意識は真っ白な光の中に弾け飛んではいる。だがそれでも三郎太はいまだ呻いてその手でマットを掻いていた。だが、それが限界だ。まともに動けず、身を起こす事もままならない彼を見下ろし、御子柴は勝利を確信したように高笑いした。
『ああーっと! 白鬼金棒落としを彷彿とさせるバーニングハンマーが三郎太を直撃ィ! これは凄まじい! 完全に煽っている! 明らかにシロオニ・ベスに対する挑発だぁ! 解説のベスさん、これは……ってベスさん!? ちょっとベスさん、どこへ行くんですか!?』
カメラが放送席を捉えると、そこにはもはや「淑女」の面影をヘッドセットと共にかなぐり捨てたベスの姿があった。
「……試合は終わってるのよね? ちょっとリングまで行ってきます♪」
その丁寧な口調とは裏腹に、彼女の背後には立ち昇るような漆黒の怒気が渦巻いていた。ベスは椅子を蹴倒すと、学生服のスカートの裾を翻して放送席を離れ、鉄柵を飛び越える。
『ベスさん!? いけません! 当事者同士の了解の無い乱入は……ちょっと待ってください! 太平プロの人!? ベスさんを止めて下さい!』
慌てて駆け寄った若手練習生たちが、必死にベスの腰や腕にしがみつく。しかし、怒りに震える彼女の歩みを止めることはできない。
「こ、こら! 離しなさい! 邪魔をするなァ!」
ベスの叫びが会場に響き渡る。彼女を羽交い締めにし、必死に食い止める数人の練習生たちは、その華奢な体のどこから湧き出ているのか判らぬ怪力に翻弄され、リングサイドで引きずられていた。だが、その狂乱の視線の先――リング上では、さらなる残酷な光景が展開されようとしていた。
すでに反則負けを宣告されているガータ御子柴は、そんな場外の喧騒など意にも介さない。彼女の標的は、先ほどのバーニングハンマーで意識が飛びかけている宮川三郎太、ただ一人だった。
「……ぁ……あ……」
三郎太は焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。口の端からはだらしなく唾液と泡が垂れ、団体の若手エースとしての凛々しい表情は今や見る影もなく崩れている。御子柴は、なかば廃人のような姿に追い込まれてなお、マットでもがき闘志を失わない三郎太を、まるで最愛の恋人のように撫で、引き起こす。肩を貸すようにその腕と腰を掴み、引きずるようにしてコーナーへと連行していった。
「まだだ……まだ終わらせないニャ。三郎太、お前はここで、オレと一つになるんだニャ……♡」
御子柴は三郎太の体をコーナー最上段へと強引に担ぎ上げる。自身もその隣に登り、正面から三郎太の体を愛おしそうに、そして逃がさぬようがっちりと抱きしめた。朦朧とする意識の中、死に体の三郎太がわずかに首を動かし、自分を弄ぶ「かつての同期」を弱々しく睨みつける。その、死に際のような抵抗の視線に、御子柴の背筋をゾクゾクとした悦楽が駆け抜けた。
「あぁ……だよなァ、折れないよなァ? やっぱお前サイコーだよ、三郎太♡ いいぜ、これで終わりにしてやんよ……♡ トドメだ、アビスキャットドライバーぁ♡」
御子柴は三郎太を抱えたまま、空中で同体となって水平に回転、三郎太を下にしてマットへダイブした。御子柴が自らの最大の必殺技と位置付ける雪崩式の変形スパインバスター「アビスキャットドライバー」が、無防備な三郎太の背面をマットへと叩きつける。
ズゥゥゥン! と、地響きのような重い衝撃音が会場を支配した。叩きつけられた衝撃で、三郎太の体はボロ雑巾のように一度弾み、静止した。動けもしないのに受け身などとれようはずもない。重力に逆らえず、横たわった顔の横に広がる泡溜まり。完全なKO状態だ。今度こそ完全に意識を落とした三郎太の上に、御子柴はのしかかるようにして覆いかぶさった。レフェリーは場外で倒れたままだが、彼女はそんなことはお構いなしに、自らマットを叩き始める。
「わぁーん! つーぅ! …………スリー……♡」
自身で数え上げる無効なカウント。御子柴は恍惚とした表情を浮かべ、しばらくの間、三郎太の肉体の感触を味わうように動かなかった。彼女は自分という存在が「三郎太を完膚なきまでに辱め、壊してみせた」事実だけを、噛み締めていた。
やがて彼女はゆっくりと立ち上がると、観客の悲鳴と怒号が渦巻く中、凶器のチェーンを高く掲げてポーズを取った。観客席からは多数のブーイングと、僅かな興奮の声援がこだまする。リング上には慌ててドクターや練習生たちが駆け込み、三郎太の介抱を始める。その横を、御子柴は満足げな足取りで、一度も振り返ることなく去っていった。
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嵐が去った後のリングには、重苦しい沈黙と「哀れみ」の視線が満ちていた。期待のエースが、ここまで無残に、そしてこれ以上ない辱めを受けて敗北した。勝利の裁定こそ三郎太に下ったものの、会場に漂うのは敗北感以外の何物でもなかった。三郎太は依然として失神状態にありマットに大の字になったままピクリとも動かない。口端の汚れは無残に広がり、その姿はあまりにも痛々しい。
「先輩……! しっかりしてください、先輩!」
三郎太の後輩である若手女子レスラー、雫はリングへ駆け上がり、ドクターの傍らで必死に三郎太の顔をタオルで拭っていた。しかし、いくら汚れを拭い去っても、刻まれた屈辱感までは消えない。拭っても、拭っても、鼻を突く「あの女」の毒々しい香水の匂いが消えない。雫にとって三郎太は、常に正しく、強く、爽やかでなければならなかった。その彼が、衆人環視の中で泡を吹き、陵辱の気配さえ孕んだ技で徹底的に汚された。
(……こんな、ひどい……)
汚れを拭い去るたびに、雫の指先には三郎太の「体温」と、彼を蹂躙した「御子柴の痕跡」が混ざり合って伝わってくる。それは雫がこれまで一度も触れたことのない、三郎太のあまりに無防備で惨めな、生身の肉体の質感だった。その事実に、雫は激しい憤りと共に、自分でも整理のつかない、ぞっとするような昏い独占欲が芽生えるのを感じていた。
一方、リング下。ようやく練習生たちの拘束から解放されたベスは、立ち尽くしたままリングを見つめていた。
「……私の白鬼金棒落としを貶めたわね? それに……三郎太さんを愚弄して……。私、かなり頭に来ているわね……」
ベスの声は静かだった。しかし、その背後から立ち昇る怒りのオーラは、周囲の観客を震え上がらせるに十分だった。近くにいた観客たちが、本能的な恐怖からじりじりとパイプ椅子をずらし、彼女から距離を取る。
(……どうして、私はこれほどまでに腹が立っている……?)
ベスは、自分でも驚くほどの激しい憤りに戸惑っていた。単なる「白鬼」の技への侮辱に対する怒りではない。目の前で無様に汚された三郎太という男を、救い出せなかった自分への、そして彼を弄んだ女への、身の毛もよだつような憎悪。それが「旦那様候補」への執着なのか、それとも別の感情なのか、今の彼女には判別がつかなかった。
ベスは一歩、足を踏み出した。リングへ向かうのか。誰もがそう思った瞬間、彼女は反転し、退場すべく観客席の間の通路を歩き出した。その瞳には、もはやリング上の惨状は映っていない。ただ、去っていった「雌猫」の背中だけを追っているようだった。怒りに燃えるベスが歩む道。殺気にあてられた通路脇席の観客たちが通路から距離をとるように左右に分かれ、まるで「モーセの十戒」のように道が開いていく。立ち上がる勢いにパイプ椅子が「ガガガッ」と乾いた音を立てて弾き飛ばされる中、ベスは静かに、しかし確実な殺意を湛えて会場を後にする。観客はただ、その背後を通り抜ける凍てつくような風に、身を震わせるしかなかった。
リング上では、雫がタオルを握りしめ、去っていく御子柴の影が消えた通路を睨みつけていた。
「……あんなやりたい放題、絶対に許さない!」
雫の叫びは、虚空に消えた。いまだ三郎太の意識が戻ることはなく、ただ、拭いきれない屈辱の色だけが、太平プロレス興行会場のリングに深く染み付いていた。
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あの日の凄惨な結末から一夜が明け、太平プロレスの道場には、昨日とは質の異なる緊張感が漂っていた。興行を終えた翌日の午後。後片付けや反省会を終えた選手たちが三々五々に引き上げる中、私服に着替えた御子柴は、勝利の余韻を全身に纏わせるようにして悠然と廊下を歩いていた。昨夜、三郎太を蹂躙し尽くしたその瞳には、隠しきれない嗜虐的な悦びが今なお鈍く光っている。だが、その足取りを阻むように、二つの影が廊下の行く手を塞いだ。一人は、怒りに震える拳を握りしめた雫。そしてもう一人は、昨日、観客席を恐怖で支配したあの冷徹な殺気を今なお湛えているシロオニ・ベスだった。
「ガータ御子柴。昨夜の行為、許されるものではないわ」
ベスの声は低く、そして氷のように冷たかった。彼女の視線は、御子柴の不敵な笑みを射抜くように据えられている。
「あなたのその無法者としてのプライド、私が叩き潰してあげる。……私とシングルで試合(や)りなさい」
直球の宣戦布告。対する御子柴は、待ってましたと言わんばかりに、唇を吊り上げた。
「あら、ベスちゃんだっけ、怒っちゃったニャン? 『私の必殺技』が汚されたって? ふふ、オレそんなマジメな感情を向けられてもつまらないし、どうしよっかニャア?」
御子柴は小馬鹿にしたように小首を傾げる。その不遜な態度に、耐えかねた雫が声を荒らげた。
「卑怯です! 先輩のことを馬鹿にして、私のことも侮辱して……!」
雫の叫びは、プロとしての義憤以上に、一人の女としての悲鳴に近かった。昨日、リング上で見た御子柴の顔。あの恍惚とした、三郎太を「食い尽くそう」とするような飢えた瞳。それが、雫が三郎太に対して心の奥底で抱きながらも、清廉な後輩として押し殺してきた感情であることを、彼女は本能的に察していた。御子柴は、雫が「してはならない」と自律していたすべての禁忌を、三郎太の肉体と精神に叩きつけたのだ。
(奪われたんだ。先輩の、あんな表情……。私だって、見たことがなかったのに)
だからこそ、雫の怒りは収まらない。「卑怯」という言葉でコーティングしなければ、自分の中のドロドロとした感情が溢れ出してしまうからだ。
「あなたのあのやりたい放題、私が止めます! 私と試合してください!」
「おやおや、雫ちゃんもお出ましとは、オレってばモテモテじゃん」
御子柴はクスクスと喉を鳴らした。自分に向けられる怒りが深ければ深いほど、彼女にとっては最高の蜜となるのだ。彼女は二人を交互に見つめると、童話のチェシャ猫のような目で提案を持ちかけた。
「しょうがないニャア。条件を飲むなら特別にこのガータ御子柴様が相手してやってもいいニャン、聞く気はあるかい?」
「条件……ですか?」
雫が訝しげに問い返す。ベスは無言で、「言ってみなさい」と促すように御子柴を睨み据える。
「お前ら二人が組んで挑んでくるタッグ戦なら、試合を受けてやるニャ。それが嫌なら知らないね。団体フロントがそのうちカードを組むのを気長に待てばいいニャ、いつになるか知らんけど?」
「タッグ……ですって?」
ベスが眉をひそめる。昨日の三郎太との一騎打ちをあそこまで無茶苦茶にした挙句、次は数の不利を強いるような提案。御子柴の真意が掴めない。
「御子柴さんのタッグパートナーは何処にいるんですか!?」
雫の問いに、御子柴は人差し指を自身の唇に当て、妖艶に微笑んだ。
「ミステリアスパートナーっていいよね? あの漫画オレも大好きだニャン。パートナーの正体は、試合当日まで絶対に秘密。そういうギミックで興行を盛り上げるニャン。……それとも、誰だかわからない相手が混じるのは怖いか?」
挑発的な言葉。だが、今のベスと雫に退くという選択肢はなかった。三郎太の屈辱を晴らすため、そして「プロレス」を愚弄するこの女を止めるため、二人の答えは重なった。
「受けて立つわ!」
「バカにしないでください! 絶対負けませんから!」
「ケケ……いい返事だニャ。楽しみにしてるぜ、お二人さん。サービスだ、フロント(うえ)にはオレから言っといてやるニャ」
怒りを隠しもせずに背を向け、去っていく二人。御子柴はその背中を満足げに見送ると、周囲に誰もいないことを確認してからスマートフォンを取り出した。慣れた手つきで操作し、相手が出るのを待つ。数回のコールの後、相手が繋がった。
「さっきの話だけどさ、例のお願い、受けてやってもいいニャ」
御子柴の声は、先ほどまでの挑発的なものとは少し異なり、どこか交渉を楽しむような響きを帯びていた。
「対価は1試合だけ、オレのタッグパートナーをしっかり務める事。うん、うん。……わかってるニャ、ちゃんと反則控えめでガチってやるニャ。え? 控えめじゃなくて無しで? ……しょうがないニャア、今回だけだよ? うん、当日まで絶対に秘密厳守で」
窓の外を見つめながら、御子柴は楽しげに指先で手すりを叩く。
「じゃ、そういうことでよろしく。……頼りにしてるぜ、相棒♡」
通話を切り、御子柴は小さく吐息を漏らした。その瞳には、昨日の試合で見せた狂気とはまた別の、緻密な計算と期待が渦巻いている。
「ケケケ、楽しい楽しいタッグマッチのはじまりはじまり。当日が待ち遠しいなぁ……♡」
太平プロレスに訪れる、さらなる波乱の予感。ガータ御子柴が張り巡らせた罠は、誰にも悟られぬまま、獲物を捕らえる網を確かに広げていた。