「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
キンタロウはわざとらしく吐息を漏らし、ベスの耳元で囁くように言葉を紡ぐ。
「妬けるね、三郎太クン。この綺麗な女性は、試合中だというのに君の方ばかり気にしているようだ。視線が、心なしか潤んでいるじゃないか」
「ななな、ななな何をう!?」
ベスの思考が真っ白に染まった。たしかに彼女にとって三郎太は「未来の旦那様(候補)」として意識せずにはいられない存在だ。しかも、今はその彼が至近距離で自分の戦いを見つめている。キンタロウの気障な指摘は、ベスの乙女心という名の急所を、正確に、そして無慈悲に貫いた。動揺のあまり、あれほど盤石だったベスの力が一瞬にして抜ける。
「し、試合中ですよ! 変なことを言わないでください!」
三郎太が赤面しながら叫ぶが、キンタロウはしてやったりとばかりに口角を上げた。彼はハンドサインを送りながら、混乱するベスをあざ笑うように続ける。
「そう、試合中だ。口を開くのは良いが、集中を乱してはいけないよ」
「バカ鬼!? 敵陣も見るニャ!!」
エプロンサイドから御子柴の罵声が飛ぶ。しかし、時すでに遅し。キンタロウは硬直したベスの腕を鮮やかな手捌きで振りほどくと、その細い手首を掴んで力任せに自陣のコーナー方向へとハンマースローで放り投げた。
「彼女の言う通りだ……ッ!」
ベスは抵抗もできぬまま、勢いよく対角線のコーナーへと突き飛ばされる。
「えっ!?」
そこには、キンタロウの合図を受けてリングインしてきていた巨漢、ブライアン・ブルナイトがいた。自陣コーナーへ振られてきたベスに対し、その太い腕を横一文字に振り抜いて突進する。
「どりゃあああ!!」
無防備なベスの首筋に、ブライアンの全体重を乗せたラリアットの剛腕が食い込む。
「ぐぅッ!?」
衝撃でベスの体が宙を舞い、マットに叩きつけられる。キンタロウは即座にブライアンの隣に並び立ち、引き起こしたベスの頭を左右から抱え込んだ。
「タイミングを合わせるぞ、新人クン」
「ウッス! せーのぉっ!」
ツープラトン攻撃、ダブルDDT。二人の男たちの重量が、ベスの脳天を無慈悲にマットへと突き刺した。
「がっ……!?」
鈍い音が響き、ベスの意識が遠のく。キンタロウは手応えを確認すると、余裕たっぷりにブライアンの手を叩いて交代を促した。
「よし、タッチだ。」
「りょ、了解っス!」
正式に権利を得たブライアンは、喉を押さえて膝をつくベスの背後から、ワルっぽい笑みを浮かべてその巨体を潜り込ませた。彼はベスの腰を抱え上げると、自らの膝を高く突き出し、そこへ彼女の身体を垂直に落下させる。
「そりゃあ、いくぜえ!」
ガツン、とアトミックドロップでベスの尾てい骨にブライアンの硬い膝がめり込む。
「きゃん!?」
悲鳴が、道場内に響き渡った。あまりの痛みと、それ以上に耐え難い屈辱に、ベスの顔は耳の先まで真っ赤に染まる。
「さ、三郎太さんの見ている前で、なんたる屈辱……!」
尻を押さえてよろめくベス。その背後から、ブライアンは情け容赦のない追撃を放った。重戦車のような肉体を武器に、肩から体当たりを敢行する。
「どこ見てんだオラァ!」
ショルダータックルで背後から吹き飛ばされたベスは、そのまま自陣コーナーの硬い鉄柱へと正面から衝突した。衝撃と痛みの重奏に、ベスはついに力なく崩れ落ちる。
「すっこめバカ鬼! 新人相手に好き勝手させやがって……見てらんないニャ!」
あまりの不甲斐なさに激昂した御子柴が、倒れ込んできたベスの手をとってひっぱたくように強引にタッチした。
「あっ……まだ私は……!? ぐぬぬ……」
ベスは悔しさに唇を噛み締めながらも、エプロンサイドへと逃れるしかなかった。
「でやぁ!」
リングに飛び出した御子柴に対し、ブライアンは力任せの逆水平チョップを放つが、御子柴はそれを猫のような俊敏さで潜り抜けた。懐に飛び込んだ彼女の手が、ブライアンの顔面を捉える。
「見え見えだニャ、ケケケ!」
御子柴の鋭い爪が、ブライアンの目鼻を無慈悲に襲う。
「ぐあぁぁ!?」
反則スレスレの攻撃に悶絶するブライアン。彼は顔を腕で覆いながら、苦し紛れの前蹴りを放った。
「く、くそっ!」
しかし、その視界を奪われたがゆえの単調な蹴りを、御子柴は見逃さなかった。彼女は空中でその脚をガッチリと両腕でキャッチする。
「つかまえた♪」
御子柴の瞳に、残酷な光が宿った。彼女はブライアンの脚を抱えたまま、自らの身体を独楽のように回転させ、マットへと滑り込む。
「オラァ!」
ドラゴンスクリューによってブライアンの巨体が、その脚一本を支点に捻り倒される。
「ぎえっ!?」
マットに叩きつけられたブライアンが、膝の激痛に顔を歪めて呻き声を上げる。しかし、ガータ御子柴は獲物を追い詰める野良猫のような執念深さで、這いつくばるブライアンの背後に素早く回り込んだ。御子柴は自らの体重を浴びせながら、ブライアンの顔面をグラウンドフェイスロックで力任せに引き絞る。瞬発力だけでなく、グラウンドでの泥臭い攻防も彼女の武器だ。
「いででででっ! おっ、背中に柔らかい感触が……いや、いだだだだ!」
締め上げられる痛みと、密着した御子柴の体温に、ブライアンは混乱した叫び声を上げる。だが、御子柴の意識は目の前の新人にはなかった。彼女の鋭い視線は、エプロンサイドで優雅に佇む宿敵、キンタロウに向けられている。
「コラ、キンタロウ! こいつ仕留めたらお前、二人がかりでボコったるから覚悟するニャ」
その怒気を含んだ挑発に、キンタロウは肩をすくめて苦笑いを見せた。
「情熱的なお誘いだね。次と言わず、レディが望むなら今すぐにお相手しようじゃないか!」
キンタロウが救出カットに入るべく、ロープを跨いでリング内へと踏み込もうとする。その予期せぬ早い仕掛けに、御子柴は「今かよ!?」と動揺を隠せない。
「……っ、来いニャ! 返り討ちにしてやるニャ!」
御子柴は慌ててブライアンへの技を解き、立ち上がってキンタロウを迎え撃つ構えをとった。全身の筋肉を硬直させ、怨敵の襲来に備える。しかし――。
「……やっぱやーめたっ!」
リングに踏み出しかけた足を戻し、ひらひらと手を振って元の位置に退くキンタロウ。
「あ゛?」
御子柴はキレた。かつての待ち合わせをすっぽかされた記憶がフラッシュバックし、グラグラと煮えたぎる怒りが全身に満ちる。だが、怒っている人物はもう一人居た。
「無視すんなあああ!!」
技を解かれてほったらかされたブライアンが、寝た状態からのアリキックで鋭い蹴りを御子柴の右膝へと叩き込んだのである。
「いってぇ!?」
不意を突かれた御子柴の膝が打たれて崩れる。自陣コーナーでそれを見ていたベスが、呆れたように叫んだ。
「何やってんですか、クソ猫!」
「う、うるせぇニャ! このバカが、余計な真似を……っ!」
御子柴は痛みよりも屈辱に顔を赤くし、足元で息を荒くしているブライアンを氷のような冷徹な目で見下ろした。彼女の口元に、残虐な、あまりに邪悪な笑みが刻まれる。
「……なかなか付け上がってくれるニャア? いいぜ、そんならまずテメェからきっちり息の根を止めてやんよ……」
本物の「殺気」を感じ取ったブライアンが、思わず後退りする。
「ヒェッ!? い、いや、ちょっ……姐さん、目がマジっス! これ、練習試合っスよね!?」
だが、その背後から風を切るような足音が迫っていた。
「後輩いじめはいけないなっ!」
キンタロウだった。彼は三郎太が静止する間もなく、不正規リングインで一気に距離を詰める。驚いて振り向こうとする御子柴の目前で、キンタロウはマットに両手をつき、逆立ちの体勢をとった。カポエイラの動きを応用した、変幻自在の回転キック、キンタロウの得意技である「アシガラスピンキック」が唸る。長い脚が円を描き、その硬い踵が御子柴の側頭部を正確に捉えた。
「ぐあ……ッ!?」
脳を揺らす衝撃に、御子柴の意識が一瞬白濁し、もんどりうってダウンする。それを尻目にキンタロウは「代わろう、ブライアン君」と爽やかに告げながらブライアンとタッチを交わす。
「す、すいません、オレ……!」
「気にするな。君はここ一番、暴れる時に全力を出せるように備えておくんだ」
「は、はい!」
ブライアンがコーナーへと下がり、キンタロウが正式に権利を得てリング中央に立つ。彼はまだダメージから立ち上がれずにいる御子柴を見下ろし、その隙を逃さず背後へと回り込んだ。
「のんびりしすぎだぞ!」
「て、テメ……やっと、やる気に……!?」
御子柴が必死に声を絞り出すが、キンタロウの剛腕はすでに彼女の腰をガッチリとロックしていた。そのまま自らの身体を大きく反らせ、御子柴の身体を宙へと放り投げる。
「ぎゃうっ!?」
バックドロップでしたたかにマットに背中を叩きつけられ、御子柴の肺から空気が押し出される。だが、キンタロウの猛攻はここで終わらない。彼は投げた勢いを殺さぬまま素早く立ち上がると、倒れた御子柴の上を飛び越えるようにして着地した。
「フッ……!」
そのまま彼女の脇腹と足先を自らの両脚で押さえるようにして、後方へブリッジを組むようにしてジャパニーズ・レッグロールクラッチに固める。
「あぁ……っ!?」
完璧な形。御子柴は身動きが取れず、肩をマットに押し付けられる。レフェリーの三郎太が、二人の攻防に目を見開いた。
(あれ、僕も昔キンタロウさんにやられた技だ……。紅子ちゃんほどの技術があっても、一度ペースを握られるとこうも手玉にとられてしまうのか……!)
感傷を振り払い、三郎太はマットを激しく叩いた。
「ワン! ツー!」
三郎太の手が、三度目のマットを叩こうとしたその瞬間。
「終わらせるかぁ……ッ!」
自陣コーナーから白い影が弾丸のように飛び込んできていた。ベスである。彼女は三郎太がカウントを数える間隙を縫って不正規リングインを果たすと、駆け込んだ勢いそのままに空へと舞った。ベスの全体重を乗せたジャンピング・ボディアタックが、ブリッジで静止していたキンタロウの脇腹に炸裂する。
「ぐぅっ!?」
「ぐえ!?」
衝撃でキンタロウの固め技が強制的に解除され、御子柴もその余波でマットを転がった。三郎太は「あぁっ!」と声を上げるが、すでに事態は動いている。ベスはすぐさまコーナー近くのロープを掴んで御子柴の肩を強く叩いた。
「代わるわよ、クソ猫」
「……感謝なんか、しないニャ、バカ鬼……!」
御子柴は荒い呼吸を整えながら、恨めしそうにキンタロウを睨みつつエプロンサイドへと下がった。御子柴から強引に権利を奪い取ったベスが、怒りにその白い肌を紅潮させながらリング中央を駆け、敵陣コーナーのキンタロウへと向かう。
「これでもくらいなさい!」
荒々しくも豪快な一撃。丸太のような剛腕が、串刺しラリアットでキンタロウの首筋を刈り取ろうと横一文字に振るわれる。しかし、キンタロウは紙一重のところで上体を沈め、その一撃をヒラリとかいくぐった。
「っと、危ないな……。なるほど、流石はアカオニ・トムの妹だ」
キンタロウはベスの背後に回り込み、翻弄しようと余裕の笑みを浮かべる。しかし、ベスの真価はここからだった。空を切ったラリアットの勢い。普通ならば体勢を崩すはずのその重い慣性を、ベスは強靭な軸足一点で受け止め、自らの身体を独楽のように鋭く回転させた。
「想定済みよ!」
背後をとろうとしていたキンタロウの死角から、ベスのローリングエルボーが襲来する。キンタロウは回避もガードも間に合わず、その端正な頬を無慈悲に打ち抜かれた。
「……ぐあ……ッ!? ……バカな、ファイナルエルボーだと……!?」
衝撃でキンタロウの膝が折れる。レフェリーを務める三郎太は、その光景に目を見開いた。ベスが放った今のエルボー。それは、かつてモモタロウが得意とし、今や自分も好んで得意技として使用し続けている『ファイナルエルボー』を彷彿とさせる闘気の籠った一撃だった。体勢を崩し、ふらつくキンタロウ。ベスはその絶好の機会を見逃さない。彼女はキンタロウの腰をガッチリと抱え込み、自らの身体を大きく反らせた。
「やっと、つかまえた……くらいなさい!」
100キロを超えるキンタロウの巨体が、ベスの豪力によって宙を舞い、エクスプロイダーでマットへと垂直に近い角度で叩きつけられる。
「ぐおっ……!? ……はぁ、はぁ……女子の、技の威力じゃないな、これは」
キンタロウが苦悶の表情を浮かべながらも、身を捩って立ち上がろうとする。だが、ベスの猛攻は止まらない。彼女はダウンしたキンタロウを力任せに引き抜くと、その巨体を軽々と頭上に掲げ、肩の上で仰向けに担ぎ上げた。
「さぁ……『白鬼金棒落とし』でとどめをさしてあげるわ!」
ベスの両腕がアルゼンチンバックブリーカーに担いだキンタロウの背骨を弓なりに反らせ、極限まで締め上げる。勝利を確信したベスの瞳には、もはやキンタロウしか映っていない。だが、三郎太は、その光景を見て一瞬、苦渋の表情を浮かべていた。
(だめだ、ベスは一人で決めようと焦りすぎている……!)
三郎太には見えていた。ベスが必殺の体勢に入ったことで、彼女の視野が極端に狭窄していることを。タッグマッチにおいて最も警戒すべき『敵のパートナー』の存在を、彼女は完全に忘念している。御子柴もどこか様子がおかしく動きとテクニックこそいつも通りの一方で彼女特有の余裕と底知れなさを失って視野を狭めているように見えるが、それ以上にベスのタッグ経験の少なさが露呈してしまっている。そう三郎太には思えてならない。一方で、キンタロウは担がれながらも冷静だった。ベスの視界から外れた位置で、彼は自軍のコーナーに控えるブライアンへ向けて、静かにハンドサインを送っていた。三郎太は咄嗟に警告すべきか、それとも試合の一部として見守るべきか葛藤した。しかし、助言はレフェリーとしてすべきではない。彼はただ、固唾を呑んで状況を見守ることしかできなかった。
「うおおおおッ!!」
リング外から、巨大な影が飛び込んできた。ブライアン・ブルナイトだ。彼は救出カットのためにリングインし、キンタロウを担ぎ上げているベスの背後に猛然とダッシュした。走る勢いを乗せて両手を組み、ブライアンがハンマーのように振り下ろした渾身の鉄槌、ダブルアックスハンドル。それが無防備なベスの背中に炸裂する。
「ぐはっ!?」
凄まじい衝撃に、ベスの膝が砕ける。担ぎ上げていたキンタロウの身体が滑り落ち、彼女はマットに膝をついた。
「よくやった、助かったよ、ブライアン君!」
着地したキンタロウは、すぐさまブライアンの肩を叩き、タッチによる交代を成立させる。
「よし、君メインでツープラトンだ!」
「え、でも……いいんすか、オレなんかが!」
気後れする新人に、キンタロウは力強く、そして不敵に告げる。
「大丈夫だ、私が合わせる! 君のパワーを見せてやれ!」
ブライアンがベスの腰を抱えて一気に持ち上げ、キンタロウが彼女の両脚を掴んで固定し、落下を補助する。
「「どりゃあああ!!」」
ツープラトン攻撃、W(ダブル)パワーボム。ブライアンが叩きつけ、キンタロウがベスの脚を掴んで加速をかける。二人がかりの力が合わさり、ベスの身体は激しくマットに沈められた。
「……ッ!?」
肺の中の空気がすべて弾け飛ぶような衝撃。ベスが悶絶する中、ブライアンはキンタロウの期待に応えようと、さらに畳み掛ける。彼は倒れ込んだベスを抱え上げ、その腰に腕を回し、その身体を力任せにベアハッグで締め上げた。
「オレでもやれんじゃねえか……へへ、どうですかいベスの姐さん。ギブアップしちまいな!」
ブライアンは丸太のような腕に力を込め、ベスの華奢な肋骨を軋ませる。しかし、締め上げられるベスの瞳には、まだ闘志の火が消えていなかった。
「ぐぅぅぅ……な、舐めないでほしいものね……! この程度……!」
ベスの全身から、凄まじい「気」が立ち昇る。彼女は締め付けられているはずの両腕をブライアンの胸元に突き立てると、信じがたい力でその剛腕を押し広げ始めた。
「ゲェーッ!? バカな……オレのパワーが……こじ開けられていく……!?」
ブライアンの顔が驚愕に染まる。筋肉の塊のような彼の腕が、一回り以上に小さな乙女の力によって、じりじりと、しかし確実に、その捕縛を解かれようとしていた。その信じがたい光景を自陣のコーナーに戻りつつも横目で見守っていたキンタロウは、やれやれと肩をすくめると、退出を中止してブライアンの元へ舞い戻る。
キンタロウは背後からベスに近づき、彼女の黒と赤のレギンスに包まれた臀部を下からふわりと、しかし的確な位置へと優しく持ち上げた。
「ひゃあ!?」
突然の、しかも意中の相手である三郎太の目の前でのセクハラまがいの接触に、ベスの口から乙女の悲鳴が漏れる。だが、キンタロウの目的はいやがらせではなく、あくまで実戦的な「指導」であった。ベスの腰の位置が高くなったことで、ブライアンの体勢が自然と前傾し、重心が変化する。
「ちがうちがう、ブライアン君。ベアハッグはただ力任せに腕で絞めるのではなく、肩で鳩尾を押し込むようにして決めるんだ」
キンタロウの的確な助言に素直に従い、ブライアンが肩の骨をベスの腹部へ沈み込ませ、再び腕に力を込める。
「こ、こうっすか!?」
先程までとは比較にならない、呼吸すら封じ込めるような完璧な圧迫感がベスの華奢な胴体を襲った。
「かはっ……!?」
まるで鉤を鳩尾に掛けて吊るされるような苦痛。肺から空気が強制的に絞り出され、ベスの表情が真剣な窮地に歪む。
あまりに露骨な介入に対し、レフェリーである三郎太が慌ててキンタロウを指差した。
「キンタロウさん! 反則カウントとりますよ!?」
「ごめんごめん。今戻るよ」
三郎太の警告に対し、キンタロウは悪びれる様子もなくひらひらと手を振り、自陣のエプロンへと軽やかに退避した。その一部始終を自陣のエプロンサイドで見ていた御子柴は、トップロープをギリギリと力強く握りしめ、憎悪に満ちた声を漏らした。
「あの野郎……ッ!?」
私怨から冷静さを失いがちの御子柴であったが、目の前で一方的に蹂躙される相方の姿をそのままにはしておけず、レフェリーをしている三郎太の注意がキンタロウに向いている今が好機と、鋭い踏み込みでリングイン、スライディング気味に滑り込んだ。
「いつまで抱きしめてんだデカブツ!」
地を這うような水面蹴りが、ブライアンの膝裏を正確に、かつ容赦なく刈り取る。
「痛ッ!? ひでえ言い方ァ!?」
膝の関節を強打されたブライアンの体勢が崩れ、ベアハッグから解放されたベスがマットに転がり落ちる。その間隙を逃さず、御子柴はあろうことかベスを蹴り転がして自陣コーナーへ移動させ、その背中を力強く叩いて強引に権利を奪った。
「ちっと休め」
「ゼエ……ゼエ……ぐぬぬ」
状況と救出方法、その両方にたいしての屈辱に顔を歪めながらも、ベスはエプロンサイドへと後退する。同時にキンタロウもブライアンを自陣に呼び寄せタッチを交わしていた。
「代わるよ、ブライアン君!」
「面目ねえ!」
ブライアンが下がり、リング中央には再び、キンタロウと御子柴が対峙する。御子柴の紅色の瞳には、依然として消えることのない怨念が渦巻いていた。しかし、キンタロウが放つ空気は、先程までの余裕めいたものから、一撃必殺を狙う冷徹な格闘者のそれへと完全に変貌している。その圧倒的なプレッシャーに御子柴が一瞬たじろいだ、まさにその刹那である。
キンタロウが、予備動作すら見せない人間離れした跳躍力で、垂直へと跳ね上がった。御子柴が動きを追って視線を上へと向けた時には、すでにキンタロウの長い脚が淡い闘気をまとって天空から振り下ろされていた。ドスッ、という重く鈍い音が道場に響き渡る。キンタロウの硬い踵が、御子柴の脳天へと容赦なく叩き込まれたのだ。だが、この技の真の恐ろしさはその追撃にあった。キンタロウは脳天に踵を深く食い込ませた状態のまま、自らの落下エネルギーを利用し、踵をフックにした状態で彼女の頭部を前方のマットへと強引に薙ぎ倒したのである。キンタロウの得意技、エッフェルヒールキックだ。顔面からマットに激突し、不自然に跳ねる御子柴。鍛え抜かれた御子柴の受け身すら許さない、完璧にして無慈悲な一撃であった。
キンタロウは静かに立ち上がると、ピクリとも動かなくなった御子柴の右脚を片手で抱え、体重をかけて押さえ込んだ。片エビ固めによるフォールの体勢である。三郎太が慌ててマットに伏せ、カウントを叩きはじめる。
「ワン!」
エプロンにいたベスは、とっとと返せと罵声を浴びせようとした。しかし、直後、彼女は自分の目を疑う。
「クソ猫、さっさと起きな……って、脳震盪を起こしてる!? あの頑丈な女が、たった一撃で!? くっ……!」
ベスが慌てて救出のためにリングインした時には、キンタロウの鋭い目配せを受けたブライアンが、大きな壁となってベスの前に立ち塞がっていた。
「させねーっスよ!」
「邪魔だぁ、どけぇ!」
ベスは焦りのままにブライアンの腹部へ重い蹴りを叩き込む。
「邪魔しにきてんスよ……ぐはっ!?」
ブライアンは腹を抱えて崩れ落ちるが、彼が自らの身体を張って稼いだその僅かな時こそが、タッグマッチにおける決定的な「差」であった。個の力で劣る者が、身を挺してパートナーの勝利を盤石にする。ベスがブライアンを乗り越えて、キンタロウへと手を伸ばした時には、すでに三郎太の手が三度目のマットを叩き終えていた。
「ツー! ……スリー!」
カン、カン、カン
美樹が試合終了を告げる簡易ゴングを叩いて鳴り響かせる。サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウとブライアン・ブルナイト組の勝利であった。戦いの熱が徐々に引いていく道場で、大の字になって倒れているブライアンに向かって、サチがロープの外からからかうような声を投げた。
「なに一人で感動噛み締めてんの? キンタロウさんに完全におんぶにだっこで勝たせてもらっただけじゃんよ! ブライアン君のくせに生意気で草!」
「ひどくないスか!? いいじゃねえかよ、少しくらい感動したって!?」
言い返すブライアンの横で、美樹はリング上の惨状と、そこから得られた貴重な戦訓に満足げな笑みを浮かべていた。
「まぁまぁ、サチちゃん。彼にとっても、ベスさんたちにとっても、良い経験になったってことで。……それにしても、こんなに白熱した試合、本当に興行のメインカードにできなかったのが惜しいなぁ」
ニコニコと笑いながらも、どこか計算高い興行主としての鋭い瞳を光らせる美樹を見て、サチが露骨に顔を引きつらせる。
「うわ、美樹ちゃん、目がマジ。怖……」
「オレ、バカなんでフロントとかそういう難しいことは絶対無理っスわ……」
サチの言葉に同意するように、ブライアンもまたブルリと身を震わせた。
一方、リングの中央。ベスは、いまだ目を回して立ち上がれない御子柴の背中を支え、ゆっくりと抱え起こしていた。そして、キンタロウはそれを見つつ、隣で複雑な表情を浮かべている三郎太へと、静かに語りかけた。
「……すまない、三郎太クン。レフェリーの立場では助言もできない。私は君に、随分と酷な事を頼んでいたようだ」
三郎太はハッとして顔を上げた。この試合中、彼はレフェリーという立場に縛られ、ただ見守ることしかできなかった。己の無力さと、キンタロウの指導者としての老獪さに、三郎太はただ短く答えることしかできなかった。
「……いえ」
キンタロウは、御子柴を抱えたままこちらを鋭く睨みつけているベスへと視線を移し……ふっと微笑んだ。
「……君も、色々と大変だな」
モモタロウの弟分として、そして彼女たちの標的として。プロレスの技術だけでなく、複雑な感情の糸が絡み合う人間関係の中を生きる後輩へ向けられた、どこか同情めいた先達の言葉。三郎太は肩の力を抜き、深い実感を込めて苦笑いを浮かべながら首を振った。
「……いえ、いやまぁ……はい」
世界を知る男がもたらした熱風は、太平プロレスの若きレスラーたちの心に、決して消えることのない深い爪痕と、次なる高みへの強い渇望を刻み込んでいったのである。