「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
関東圏内に位置する中規模イベント会場。その外周観客席は、太平プロレスとオトギプロレスという異色かつ豪華な合同興行のメインイベントを目撃しようと集まったプロレスファンたちで埋め尽くされていた。頭上を交錯する色とりどりのレーザー照明がリングのキャンバスを鮮やかに染め上げ、スモークマシンから吐き出される白い煙が幻想的な空気を醸し出している。地鳴りのような歓声と手拍子が会場全体を揺るがす中、リング上では四人のレスラーが運命のゴングを待ちわびていた。
青コーナー側に立つのは、太平プロレスの若きエース・宮川三郎太と、今回そのタッグパートナーを務める事となったシロオニ・ベスだ。三郎太は集中する照明の熱気に短い黒髪の先から僅かに汗を滴らせながら、己の闘志を確かめるように拳を握り込んでいた。
(エディさんの強さはオトギプロ出向中に身をもって知っている。一人で勝てる相手じゃない。うまく力を合わせて挑むんだ)
赤を基調とした爽やかなショートタイツ姿は、鍛え上げられた若々しい肉体美を惜しげもなく披露している。その瞳は真っ直ぐに相手コーナーを見据えていたが、ふと隣に立つベスの不自然な様子に気がついた。アッシュブロンドの髪をショートボブに整え、黒と赤を基調にしたビスチェトップとロングレギンスという、機能的かつ優美な衣装を纏う彼女は、本来であれば誰よりも好戦的な闘志を漲らせているはずだった。しかし今の彼女は、どこかソワソワとした様子で、視線を不自然に彷徨わせている。よく見れば、ベスの視線はあからさまに三郎太の下半身──それもタイツの股間付近へとチラチラと向けられていた。彼女の脳裏には、先日の朝、偶然目撃してしまった三郎太の健康的な男としての「生理現象」の残像がフラッシュバックしていたのだ。顔を微かに紅潮させながら、見ちゃいけないと思いつつも視線が吸い寄せられてしまう。
「……」
無言のまま、しかし明らかに挙動不審なベスに対し、三郎太は顔を真っ赤にして小声でたしなめた。
「ど、どこ見てるの、ベス。試合に集中しよう」
図星を突かれたベスは、慌てて視線を明後日の方向へと逸らし、咳払いを一つしてなんとか平静を装おうとする。
「え、ええ……まぁ、はい」
しかし、その耳の裏までほんのりと赤く染まっていた。
一方、赤コーナー側──オトギプロレスリングの陣営は、対照的に異様な空気を放っていた。一人は、オトギプロの団体社長兼トップレスラーであるエディ・ダンテス。小柄で華奢な身体ながら長身男性顔負けのパワーを振るう超人的存在。その身に纏う黒基調のボディスーツは胸元と腹部が大胆にカットアウトされ、紫と金のアクセントが彼女の王者としての気品を際立たせている。
そして、その傍らに控えるのが、本日のメインイベント最大の謎である「ミステリアス・パートナー」だ。その人物は、まるで会場の眩い光そのものを拒絶するかのように、厚手の真っ白なフード付きローブを深くかぶり、全身をすっぽりと隠していた。布地は照明の光を不気味なほどに吸い込み、ただ輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。まるで古いプロレス漫画に登場する、正体を隠した強敵そのもののような古典的なギミックだが、その巨体から発せられるプレッシャーは本物だった。
そんな異様な出で立ちのミステリアス・パートナーであったが、青コーナーの三郎太とベスの初々しくもどこか的外れなやり取りを見て、ローブの奥からひどく陽気な、そしてどこか優しげな声を発した。
「いやー、若い二人が初々しいですなぁ!」
僅かに首を傾けて放たれる、緊張感の欠片もないその声色に、リングサイドの観客たちも思わずズコーッとずっこけそうになる。メインイベント直前の張り詰めた空気が、一瞬だけ控室の雑談レベルまで緩むほどの破壊力だった。隣に立つエディは、最初はその言葉に深く頷きかけた。
「そうだな……」
だが、すぐに言葉の裏にある意味に気づき、眉を吊り上げる。
「……いやまて、ここで同意すると、まるで私は若くないみたいじゃないか!?」
エディの鋭いツッコミに対し、ミステリアス・パートナーは慌てたように両手を振るジェスチャーを見せた。ローブの袖がぶんぶん揺れ、巨大な影がリング上に踊る。
「おっと、これは失礼! エディちゃんもピチピチですよ、すくなくとも気持ちは!」
「ええい、やかましい! 余計なことを言うな!」
フォローになっていないフォローに、エディは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。社長兼トップレスラーとしての威厳が、試合開始前から身内によってボロボロに崩れかけている。観客席からもクスクスと笑いが漏れ、赤コーナーの空気はもはや異様というよりカオスに近づきつつあった。
しかし、その滑稽なコントのようなやり取りを聞いていた三郎太は、微かな既視感──いや、既聴感に首を傾げる。
「……あれ、どこかで聞いた事ある声のような?」
記憶の底を刺激する、陽気で力強く、それでいて親しみと優しさを感じるあのトーン。胸の奥に引っかかる誰かの影が、ぼんやりと形になりかける。だが、その正体を掴もうとした思考は、隣から上がった鋭い声にあっさりと遮られた。痺れを切らしたベスが、ローブの怪人に向かって凛とした声で言い放ったのだ。
「もう試合開始直前、いい加減姿を見せてはいかが? 私たちは逃げも隠れもしませんよ?」
その堂々とした挑発を受け、エディはふっと不敵な笑みを浮かべ、相棒へと視線を向けた。ローブの奥の巨体が、わずかに肩を揺らす。
「そうだな……ウム、いいだろう」
エディの目線を受けて、ミステリアス・パートナーは勢いよく己の体を覆っていた白いローブを両手で掴み、大きく左右に引き裂くようにしてリング外へと投げ捨てた。バサァッ! という重たい布擦れの音が響き、眩い照明の下にその全貌が露わになる。
現れたのは、顔の上半分を青と漆黒で彩ったマスクで覆い、頭頂部にはちょんまげのような髷飾りをつけた、筋骨隆々の覆面レスラーだった。
はち切れんばかりの大胸筋と、丸太のように太い腕が、長年の過酷な鍛錬を物語っている。リング中央に立つその姿は、ただそこにいるだけで観客の視線を奪う圧があった。彼は胸を張り、会場全体に響き渡るような大音声で名乗りを上げた。
「……よろしく、日本一のモ……ブラック・モモタロウだ!」
一瞬、強引に名乗りを修正したような不自然な間があったが、その威風堂々たる立ち姿には迷いがない。むしろ、修正のぎこちなさすらキャラの味として押し通す気迫があった。
「え、えええええっ!?」
三郎太は目を見開き、素っ頓狂な声を上げて数歩後ずさった。
「ブラック・モモタロウ……何者!?」
ベスは初めて見るその黒い覆面レスラーの放つ威圧感に、油断なく構える。肩の力を抜きつつも、いつでも飛び込めるように重心を落とし、視線は相手の全身を鋭く捉えていた。
リング上の急展開に観客席がどよめく中、会場内に設置された実況席から、興奮冷めやらぬアナウンサーの絶叫がマイクを通して響き渡った。
『なんということでしょう! エディ・ダンテスの相棒を務めるミステリアス・パートナーの正体は、まさかの「ブラック・モモタロウ」!? 古くからの太平プロのファンの皆様はご存知でしょうが、一応説明させていただきましょう! ブラック・モモタロウと言えば、かつて「太平プロレス」に対抗戦を挑んできた団体「黒武術」を率いる大将として、そのマスクを賭けて「ザ・モモタロウ」と激戦を繰り広げた恐るべきレスラーであります!』
実況は一気にまくしたて、観客の記憶を呼び覚ましていく。会場のざわめきが波紋のように広がり、熱気がさらに膨れ上がった。
『しかし、勝負に敗れ、そのブラック・モモマスクは黒武術師範代の影幻春架によってザ・モモタロウに返還され、それ以降は表舞台に登場していないと聞いておりますが、いかがですか、解説のバッカス木桜さん!?』
実況から話を振られたのは、太平プロレスの中堅レスラーであり、かつて三郎太のデビュー戦の相手も務めた先輩、バッカス木桜だ。放送席に座るバッカスは、マイクの前に身を乗り出し、どこか呆れたような、しかし面白がるような声音で答えた。
『マスクの行方云々は良く知らんが、経緯はそれで合ってるな。リングにいる三郎太も、その対抗戦にゃ3人タッグの一人として途中に出てたんだぜ。……しかしよぉ』
バッカスはそこで言葉を区切り、リング上で胸を張るブラック・モモタロウの姿をじっと見つめた。モモタロウの試合用マスクは彼に恋する太平プロレスの社長令嬢、松平美樹が今もって大事に保管していたはず。だが、そう言えばブラック・モモタロウから変換されたはずの、もう一つのモモ・マスクの行方についてはバッカスも気にした事がなかった。
『あの声、あの仕草……そしてあの言い淀み方。ありゃブラック・モモタロウと言うより、まるで……』
視線の奥に、何かを確かめるような鋭さが宿る。もし、「彼」がそれをもっていて、今回にそれを被って現れたのだとしたら……。
『まるで、何でしょう!?』
核心に迫ろうとするバッカスの言葉に、実況が前のめりになって食いつく。会場のファンも固唾を飲み、解説席の声に耳を傾けた。リング上の空気が一瞬だけ静まり返る。しかし、バッカスはふっと酒臭い息をひとつ吐き出すと、意地悪くニヤリと笑った。
『……っと、いけねえ、野暮はよそうや。まぁ、いい肴になりそうだ。プロレスってのはリングの上の現実が全てだ。俺たちも小難しいことは抜きにして、試合を楽しもうじゃねェか』
中身の正体に気づいていることを匂わせつつも、あえてそれを口にしないプロレスラーとしての粋な計らい。その余裕と含みのある態度に、観客席からもざわりとした笑いが漏れる。だが、実況は感動するよりも先に、バッカスの手元にある信じられないものに気づいてしまった。
『仰ることは至極もっともですが……放送席にワンカップ並べるのやめてくれませんか、バッカスさん!? 仕事中ですよ!?』
糾弾に対し、両手で机の上のワンカップ群をかばうようにしながら、バッカスは実況アナに息を吹きかけた。
『いーやーだーねっ!』
アルコールの匂いがマイク越しに伝わってきそうな勢いだ。
『酒クサ!? ただの酔っ払いだこれ!?』
実況と解説のドタバタ劇が会場に爆笑を巻き起こし、リング上の異様な緊張感と見事なコントラストを描き出す。ざわめきと笑い、そして期待が入り混じる熱狂の空間の中、レフェリーが両手を大きく広げて両陣営の準備が整ったことを確認した。ブラック・モモタロウの参戦という規格外のサプライズを消化しきれないまま、三郎太とベスは臨戦態勢に入る。エディは不敵な笑みを崩さず、ブラック・モモタロウはリングを力強く踏みしめた。
レフェリーの右手が勢いよく振り下ろされる。
カーン!
四人の運命が交錯する、激闘の開始を告げるゴングが高らかに鳴り響いた。先発を買って出たのは、宮川三郎太と、謎の覆面レスラー、ブラック・モモタロウ。ゆっくりとリング中央へ歩み出た三郎太は、目の前にそびえ立つ巨躯を真っ直ぐに見据えた。
(以前、オトギプロレスのお祭り興行で、僕は『モモタロウF』として偽物を演じた……。あの経験のおかげで、僕はプロレスの楽しさと初心を思い出すことができたんだ)
胸の奥に浮かぶ記憶を確かめるように、三郎太は小さく息を吐き、拳を強く握り直した。手のひらにじんわりと汗が滲む。
(でも、今回は違う。相手が『偽物のモモタロウ』として僕の前に立っている。……いや、本当にただの偽物なのか?)
頭をもたげる疑問を、気合と共に振り払うように三郎太は足を一歩踏み込み、声を張り上げた。
「行きますッ!」
踏み込んだリングシューズがキャンバスを強く叩く。全身のバネを解放し、助走の勢いと自らの体重のすべてを右腕の肘に集中させた。狙うは強固な大胸筋。若手エースの意地と闘志を込めたエルボー・スマッシュが、ブラック・モモタロウの胸板を的確に捉え、鈍い破裂音をリングに響かせた。並のレスラーであれば後方へ吹き飛ぶか、少なくとも体勢を崩すであろう渾身の一撃。しかし、ブラック・モモタロウは一歩も引かなかった。それどころか、その分厚い胸板で三郎太の衝撃を真正面から受け止め、青と黒のマスクの奥で目を細める。まるで衝撃の質を吟味するかのように、微かに顎を引いた。
「……ッ! うん、いいエルボーだ……!」
まるで弟子の成長を喜ぶ師匠のような、余裕と温かみに満ちた笑みを浮かべていた。三郎太が手応えと裏腹の相手の余裕に戦慄した直後、ブラック・モモタロウの空気が一変した。筋肉の張りが一段階増し、リングの空気がわずかに震える。
「ならばお返ししないとねっ! いくぞ、三郎太! ファイナルエルボー!」
陽気な掛け声とは裏腹に、その動作には一切の無駄がなかった。滑らかな体重移動、インパクトの瞬間に全神経を集中させる絶妙なタイミング、そして破壊力を最大限に引き出す完璧な角度。三郎太が最もよく知る、あの男の得意技そのものだった。放たれた闘気で輝く肘の一撃が胸板を打ち抜き、三郎太はその衝撃に後方へと吹き飛ばされる。
「ぐっ!?」
たまらず片膝をつき、キャンバスに手をついて必死に意識を繋ぎ止める。
(こ、この威力!? ただの物真似じゃない……体重の乗せ方からフォロースルーまで、この感じはまるで本物のモモタロウさんの……!?)
三郎太の頭の中に、行方不明の兄貴分の姿が鮮明にフラッシュバックする。あの背中、あの声、あの技の重さが一瞬で蘇った。一方、完璧な一撃を決めてしまったブラック・モモタロウの内心は、大いに焦っていた。
(あ、やっべ! ついついいつものノリで手加減忘れて打っちゃった!? 三郎太相手だと、これじゃボクの正体が完全にバレちゃうかも!?)
恋心を寄せてくれる美樹に秘密でリングに上がっている以上、ここで正体が露見するのは絶対に避けなければならない。焦ったブラック・モモタロウは、ダメージを受けて膝をついた三郎太へ追撃を仕掛けることなく、誤魔化すように強引に踵を返して自陣コーナーへと向かった。観客席からは「追撃しないのか?」というざわめきが起こるが、本人はそれどころではない。
「よ、よーし、タッチだエディちゃん!」
自ら手を伸ばしてエディ・ダンテスに交代のタッチを交わすと、ブラック・モモタロウは青コーナーで待機するシロオニ・ベスと、這いつくばる三郎太へ向けて大仰なジェスチャーで挑発を投げかけた。わざとらしく肩をすくめ、観客に聞こえるように胸を張る。
「……おいおい、三郎太……クン! もうバテたのかい? 彼女にかっこいいとこ見せないと、フラれちゃうぞ~!」
その軽い口調に、コーナーでトップロープを掴んでいたベスが激昂し、肩が怒りで震えた。
「なっ……! 三郎太さんを愚弄するとは!」
ベスの怒気を横目に、赤コーナーからはオトギプロレスの英雄、エディ・ダンテスがリングインを果たしていた。銀髪のツインテールが揺れ、エディはため息交じりに肩をすくめる。
「やれやれ、相変わらず騒がしい奴だ。……さて、復調した若手エースのその後の成長と仕上がりを、とくと拝見させてもらおうか」
その冷ややかな言葉を合図に、エディの華奢な身体が弾けた。踏み込みと同時に空気が鋭く裂け、得意技のスノーストームキックにより、その脚から繰り出される蹴りの連打は、まさに吹雪のようだ。一発一発が空気を切り裂くような鋭さを持ち、三郎太の太もも、脇腹、そして顔面へと冷徹なまでに的確に叩き込まれていく。
「くっ……!」
三郎太は両腕でガードを固めるのが精一杯だった。エディの蹴りは単なる打撃ではなく、関節の隙間や急所を容赦なく抉ってくる。防戦一方に追い込まれた三郎太は、じりじりと自陣のコーナーへと後退させられていく。
(負けるもんか……! ここで引いたら、完全にエディさんにペースを持ってかれる!)
歯を食いしばり、三郎太は踏みとどまった。早くもガードしている腕の感覚が麻痺し始めていたが、彼はあえて防御を解く。エディの鋭い右の回し蹴りが、三郎太の左脇腹に深々と突き刺さる。激痛が走るが、三郎太はその痛みをあえて身体で受け止め、同時に両腕でエディの蹴り足をがっちりと抱え込んだ。
「なにっ?」
自らの動きを止められたエディが驚愕の声を上げる。肉を切らせて骨を断つ覚悟で、三郎太は全身の力を込め、ドラゴンスクリュー気味にエディの身体を強引に引き倒した。キャンバスが二人の体重を受けて大きく揺れ、観客席からどよめきが上がる。
「行くぞ、エディさん! ……アグラツイストだぁッ!!」
叫びと共に、三郎太は倒れ込んだエディの脚に自らの脚を複雑に絡みつかせた。まるで相手にあぐらをかかせるような奇妙な体勢。しかし、そのロックは鋼鉄の枷のように強固だ。下半身をインディアンデスロックの形に極めた三郎太は、さらに身体を大きく捻り、エディの上半身を抱え込んで強烈に絞め上げる。モモタロウの得意技、モモ・スペシャルその1たる変形コブラツイスト「アグラツイスト」だ。
「む、モモタロウの技か……!」
エディの端正な顔が苦痛に歪んだ。絞め上げられる背筋から悲鳴が上がり、脇腹の筋肉が限界まで引き伸ばされる。絡みついた脚の関節にも容赦ない激痛が走っていた。
「ぐぅっ……!? 抜けられん……! あの御子柴の奴より練り込まれているだと……!?」
エディがその美少女然とした姿に似合わぬ怪力でもがくが、三郎太のクラッチはびくともしない。以前、彼女が対戦したガータ御子柴も同じ技を使用したが、三郎太のそれは段違いの完成度だった。脱出を試みた時間の分だけ、エディのスタミナと気力が削られていく。三郎太の全身から噴き出す汗がエディの肌に落ち、関節と筋肉が軋む鈍い音がリングサイドの観客にまで届きそうだった。数秒が永遠のように感じられる苦悶の中、エディはパワーでは脱せないと認めて、這うようにして右手を伸ばし、僅かな距離にあるロープへと指先を引っ掛ける。
「……くっ!」
逃がすまいと、三郎太がさらに一段階強く絞め上げるが少し遅かった。
「ぐぎ……やってくれるな、この私にロープへ逃げさせるとは……!」
激痛に耐えながら、エディはどうにかロープを強く握りしめた。
「ブレイクだ!」
レフェリーの鋭い声が響き、三郎太は名残惜しそうに技を解いた。解放されたエディは荒い息を吐きながらキャンバスにうつ伏せになり、ダメージの深さを物語っている。三郎太もまた、エディの蹴りを受けた脇腹を押さえ、立ち上がるのがやっとだった。彼は自陣コーナーへと視線を向けた。そこではシロオニ・ベスが、トップロープから身を乗り出すようにして腕をいっぱいに伸ばしていた。アッシュブロンドの髪が照明に照らされ、揺れながら輝いている。
「三郎太さん、タッチです!」
三郎太は力強く頷き、ふらつく足取りでコーナーへと近づき、伸ばされたベスの小さな掌に自らの右手を重ねた。パチン、と乾いた音が会場に響き渡り、試合の権利がベスへと移る。シロオニ・ベスは弾かれたようにリング内へと躍り出た。アッシュブロンドのショートボブが激しく揺れ、その鋭い眼光は倒れ伏したままのエディ・ダンテスを捉えて離さない。三郎太のダメージを気遣う優しさは一瞬で消え失せ、今の彼女はリングネームの通り、冷徹な「白鬼」へと変貌していた。ベスは一気に加速し、セカンドロープを力強く蹴り付けた。
「……岩窟王だろうが、チャンプだろうが、このシロオニ・ベス、容赦しません!」
放たれた宣言と共に、ベスの長身が宙を舞う。狙うは、アグラツイストのダメージから身を起こそうとしていたエディだ。フライングボディアタックで重力と加速を味方につけたベスのビスチェトップに包まれた体が、斜め上からエディの小さな体を押し潰すように激突した。
「うわっ……!?」
エディの短い悲鳴は、マットに体が叩きつけられる鈍い衝撃音にかき消された。まるでダンプカーに撥ねられたかのような勢いで、エディの華奢な体はキャンバスの上を無様に転がり、自陣コーナー付近まで吹き飛ばされる。
「ちっ……!」
銀髪のツインテールを乱しながら、エディは吐き捨てた。荒い息に首のチョーカーが苦しげに喉に押されて揺れ、脇腹に残るアグラツイストの激痛が追い打ちをかける。這うようにして立ち上がろうとする彼女の前に、ブラック・モモタロウが手を差し出している。
「……いいだろう、ブラック、代われ!」
汗を拭う暇もなく、エディがその手を叩くようにタッチを交わす。
「あいよっ!」
待機していたブラック・モモタロウが、軽やかな身のこなしでトップロープを飛び越えリングインした。そびえ立つ巨木のような大柄なその覆面レスラーは、着地するなり身構えるベスに対し、あどけなさすら感じさせる陽気な仕草で手を挙げて見せた。
「お嬢ちゃんとは初めましてだね。大丈夫、優しくしてあげるからね~」
マスクの奥で目を細め、余裕たっぷりに笑いかけるその態度は、ベスにとって何よりも許しがたい挑発だった。胸の奥で怒りが一気に燃え上がる。
「……その侮辱、後悔させてあげましょう!」
ベスは地を這うような低い姿勢から突進した。黒のロングレギンスに包まれた長い脚が爆発的な推進力を生み出す。ブラック・モモタロウの懐へ飛び込む直前、ベスは右脚を鋭く振り上げた。顔面を狙ったフロントキック。だが、それはフェイントだった。ブラック・モモタロウが防御のために重心を上げた瞬間、ベスは振り上げた脚を強引に引き戻し、代わりに右腕を大きく振り抜いた。全体重を乗せた渾身のラリアット。剛腕がブラック・モモタロウの首元を刈り取ろうとした――その時。
「っと、意外! 熱くなってるのにフェイントとはね!」
ブラック・モモタロウは紙一重のところで首を逸らし、空を切ったベスの右腕を、まるで吸い付くような正確さでキャッチした。
「……こいつ!?」
闘い慣れたブラック・モモタロウの反応を実感し、ベスが驚愕に目を見開いた時には、すでにその術中に落ちていた。
「無理しちゃいけないよ。これでも食らって目を回すといい!」
ブラック・モモタロウは、捕らえたベスの腕を引き寄せると同時に、彼女の懐へ深く潜り込んだ。流れるような動作でベスの両脚を絡め取り、瞬時に「4の字」の形にロックする。
「セットアップが早ッ……きゃあああああっ!?」
ベスの絶叫が会場に突き刺さった。ブラック・モモタロウは自らの身体を軸にし、キャンバスの上で猛烈な勢いで回転を始めた。ロータリーデスロックでごろんごろんとマットを転がり回る二人の姿に、観客席からはどよめきが上がる。回転によって生じる強烈な遠心力が、すべてベスの膝関節へと集中していた。回れば回るほど、締め上げられる4の字の強度が上がり、関節が逆方向に軋んでいく。ベスは三郎太に助けを求める言葉すら紡げない。視界は激しく回転し、平衡感覚は失われ、ただ膝を引き裂かれるような激痛だけが全身を支配していた。
(三郎太さんが使っているのを見てはいたけど……回転に振り回されて、振りほどく力が定まらない!? これが、兄たちの仇敵であるモモタロウの技……モモ・スペシャルその4、「ロータリーデスロック」……! このままでは、膝が……!)
膝が壊れる、という直感的な恐怖がベスを襲う。かつて自分の自慢の兄たちをマットに沈めた伝説の一端の威力を、彼女は今、最悪な形で体感していた。
「不味い……カットに!」
三郎太はベスの苦悶に歪む顔を見ていられず、救出のためにリングへ踏み込もうとする。だが、その瞬間、ブラック・モモタロウが自ら回転を止め、技を解いた。
「……えっ、自ら解くのか!?」
三郎太は驚きで片脚をリングに入れたまま静止した。ブラック・モモタロウは、ベスの膝が本当に破壊される前にロックを外したのだ。荒い息を吐きながら立ち上がると、痛みに膝を抱えるベスを、三郎太の待つ青コーナーの方へと突き放そうと背中を押した。
「さて、これで懲りたかな? ほら、相棒のところに帰りな……って、おんや?」
ハンマースローで突き放そうとしたブラック・モモタロウの腕を、ベスの細い、しかし力強い指先が掴んで離さなかった。膝の激痛と屈辱に顔を真っ赤にしながらも、その目は死んでいない。ベスは這いつくばるような体勢のまま、強引にブラック・モモタロウの腕を引き寄せ、その巨躯に密着するようにしてしがみついた。
「……が、離し……ません……!」
執念。ただそれだけの力が、ベスを繋ぎ止めていた。
「戻ってベス……! ……ダメだ、熱くなってて!」
交代のために手を伸ばしていた三郎太だったが、完全に視野を狭めて敵に食らいつくベスの姿に、タッチのタイミングを完全に逸してしまった。
リング中央、巨大な影と、それに縋り付く白鬼。会場の熱気は、さらにその深度を増していく。
『おおーっと、ここでブラック・モモタロウ、自らロータリーデスロックを止め、ベスを解放しました! バッカスさん、これは一体どうしたことでしょうか!? 完全に極まっていたように見えましたが!』
実況の声が跳ね上がり、観客席がざわつく。放送席では、解説のバッカス木桜が手元のワンカップをぐいと煽り、赤い顔で鼻を鳴らした。
『ありゃ強力な技だがタッグ戦向けじゃねえからな。見ろ、三郎太が踏み込みかけてんだろ? あのままやっててもカットされてただろうよ』
バッカスの指摘に、実況が勢いよく頷く。リング上では、ベスがブラック・モモタロウに腕を取られて振られていた。
『なるほど、無防備に宮川三郎太からの攻撃を受ける前に自ら解放したということですか! さぁ、ここでハンマースローでシロオニ・ベスをコーナーへ……ああっ! シロオニ・ベス、手を離さない! ここで逆にブラック・モモタロウに食らいついていく! まさに不屈の闘志! ロータリーデスロックですらも鬼の怪力の前では通じていなかったのか!?』
実況が興奮で声を裏返す中、バッカスは呆れたように、空になったカップをテーブルに置いた。
『バカ言え』
短い一言が、逆に重く響いた。
『膝関節へのダメージが、気合や筋力でどうこうなるもんかよ。やせ我慢してるだけで、あの嬢ちゃんの膝はもうガクガクのボロボロだ。……あらぁ、後で祟るぞ? 呑み過ぎた日の翌日の二日酔いみてーにな』
バッカスの言葉に、実況席のスタッフが思わず顔を見合わせる。リング上では、ベスがブラック・モモタロウにしがみついて引き倒して張り付いていた。
『なるほど、パワーではなく気合の問題でしたか! さぁ、シロオニ・ベスがブラック・モモタロウをフェイスロックに強引に捕まえていく!』
実況が声を張り上げる中、バッカスは空のカップで机をドンドン叩き、まるで自分のコメントが正解だと言わんばかりに実況へ決め顔を向ける。
『呑み過ぎた日の翌日の、二日酔いみてーにな!』
『聞こえてますよ! その例えはもうスルーさせてくださいよ!?』
放送席のやり取りが白熱する一方、リング上では別の熱が渦巻いていた。悲鳴を上げる膝の激痛を、ベスは白鬼としてのプライドだけでねじ伏せていた。髪を振り乱し、瞳に狂気的な光を宿したまま、ブラック・モモタロウの背中に文字通りへばりついている。
「く……!」
ベスがブラック・モモタロウの首元を抱え込み、さらに締め上げる。膝の痛みを無視した強引な力だ。
「うわ、この娘、力強……ッ!?」
ブラック・モモタロウが体を揺すって外そうとするが、ベスは腕力だけでその抵抗を押し潰し、フェイスロックを深く決め続ける。覆面越しに、ブラックの目が驚愕に見開かれた。
(……この、デタラメな強さ……ただの偽物のはずがない……!)
ベスの狙いは、単なる絞め技によるギブアップではなかった。締め上げたまま、細く強い指先がブラック・モモタロウの黒と青のマスクの縁を探り当てる。
「……何者なのか、その面を剥いで暴いてやるわ……ッ!」