「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
「……何者なのか、その面を剥いで暴いてやるわ……ッ!」
ベスがグイと指先に力を込め、マスクを上へと引き剥がそうとする。ブラック・モモタロウの背筋に、冷たい戦慄が走った。
(モモちんがこっそり戻ってきて秘密で試合に出てるなんて美樹ちゃんに知られたらマズい!!)
行方不明のはずの本人が、預けたマスクとは別の覆面でリングに立っている――その事実が露見することは、彼にとってどんな大技よりも致命的だった。
「ちょ、待って!? お嬢ちゃん、マスクから手を離して! それだけはダメ、ゼッタイ! 恥ずかしいから! 僕はシャイなボーイなんだから!」
必死の懇願に、ベスの目がさらに鋭く光る。フェイスロックは緩むどころか、逆に締め上げられた。
「黙りなさい……ッ! ボーイで通る年齢かッ!」
「ヒドいッ!?」
リング中央で二人がもつれ合い、観客席からは悲鳴と笑いが入り混じったどよめきが広がった。この光景には、味方である三郎太も顔を真っ青にして叫ぶ。
「ベス!? さすがにフロントの許可のないマスク剥ぎは、マナー的に……! いけない、タッチだ、ベス!?」
相手陣地に視線を向け、リングサイドから必死に手を伸ばすが、ベスは完全に敵へ意識を向けており、三郎太の声は届かない。赤コーナーで静観していたエディ・ダンテスが、呆れたように銀髪のツインテールを揺らした。
「やれやれ……。そうだぞ、正体を暴くのはナシだ。仕方ないカットに入るぞ、ブラック・モモタロウ!」
小柄な身体が稲妻のように走り出す。エディはロープを蹴ってリング内へ乱入し、そのまま滑るような動作でコーナーポストの最上段へと駆け上がった。観客席が息を呑む中、エディは背中をリングに向けたまま、迷いなく宙へと身を投げ出す。
「でやーっ! D式ムーンサルトプレス……ッ!」
美しい放物線を描き、高速回転を加えながら落下していくエディ。その落下地点には、ベスだけでなく、ベスにしがみつかれたままのブラック・モモタロウもいた。鼓膜を震わせる重い衝撃音が響き渡る。エディの全身が、ブラック・モモタロウの背中にしがみついていたベスを押し潰し、さらにその下のブラック・モモタロウまでもを、まとめてキャンバスへと叩き伏せた。
「ぐ、うぅ……!」
背後からの予期せぬ衝撃と、エディの体重を乗せたプレスにより、ベスは肺の中の空気をすべて吐き出され、マスクを掴んでいた指が力なく離れた。崩れ落ちるようにマットへ沈む。一方で、完全に巻き添えを食ったブラック・モモタロウも、潰れたカエルのように手足をばたつかせながら無様な悲鳴を上げる。
「ギャー!? ちょっとエディちゃん!? モモちんまで巻き込まれたんですが!?」
エディは二人の上で上体を起こし、乱れたツインテールを指で払うと、まるで何事もなかったかのように言い放った。
「お前なら平気だろこのくらい。正体バレるよりはマシだったろう?」
あまりにも当然のように言うその態度に、三郎太は青コーナーで固まったまま動けない。
「……メチャクチャだ、この人……!」
リング上の混乱と、三者三様のリアクションが重なり、観客席はさらにざわめきを増していった。
エディ・ダンテスの強襲によって、リング上は三人が折り重なる混沌の極致と化していた。不正規な介入、それも味方ごとターゲットを圧殺するというエディの冷徹な一撃に、会場のボルテージは困惑を伴いながらも沸点に達しようとしている。
「……どき……なさいっ!」
呻き声が上がるマットの中央で、最初に動いたのはシロオニ・ベスだった。意識を刈り取られかねない衝撃を受けながらも、その白鬼としての闘志は潰えていない。朦朧とする視界を無理やり引き戻し、彼女は自分の上に乗り、さらにブラック・モモタロウの巨躯まで押さえ込んでいるエディの体を、怒りのままに突き飛ばした。不意を突かれたエディの小柄な体がコロリと転がり、ベスはその隙に膝の激痛に耐えながら四つん這いになって荒い息を吐く。
「あたた……腰が、腰が逝った気がするよ……」
一方、最下層でクッション代わりにされたブラック・モモタロウは、情けない声を漏らしながら身をよじった。ダメージそのものよりも、先ほどベスに剥ぎ取られかけたマスクの状態が気になって仕方がないらしい。ずれたマスクの隙間から素顔が露出しそうになるのを必死に手で押さえ、呻きながらも素早くベスから距離を取った。
「よくも……この私を押し潰しましたね……!」
ゆらりと立ち上がったベスの瞳は、怒りで青白く燃え上がっていた。膝のダメージを無視するように地を蹴り、まだ完全に体勢を立て直せていないエディへと迫る。その剛腕が、エディの襟首を容赦なく鷲掴みにした。
「なっ、もう動けるのか!? あのプレスを受けて……!」
エディが驚愕に目を見開く。しかしベスは答えず、体格差をそのまま力に変えてエディの小柄な体を胸元へ引き寄せ、脇下に抱え込んだ。
「お返しよ!」
ベスは自身の体を大きく捻り、後方へと反転する。エクスプロイダーの軌道に乗せられたエディの体が宙を舞い、美しい弧を描いたのち、背中からマットへ叩きつけられた。
「ぐぅっ!?」
苦悶の吐息がエディの口から漏れる。ベスは投げっぱなしの形でエディを放り出し、エディはその勢いのままマットを転がり、エプロンサイドへと逃れる。
「はぁ、はぁ……っ……!」
さすがに限界だった。ベスは膝をつき、肩で息をしながら、這うようにして自陣のコーナーへと手を伸ばした。指先が震え、マットに汗が落ちる。
「三郎太さん……お願いします!」
か細い声に、三郎太の表情が一瞬で引き締まる。
「任せてくれ、ベス!」
待機していた宮川三郎太が、ベスの掌を力強く叩いた。パチン、と乾いた音が会場に響き、バトンが正式に渡される。三郎太はロープを跨ぎ、勢いよくリング内へと躍り出た。対峙すべきブラック・モモタロウはといえば、未だに背を向けたまま、必死にマスクの紐を締め直していた。
「マスクが……あぶないあぶない、ズレるところだった……」
独り言を漏らしながら無防備に衣装を直すその姿は、プロレスラーとしてはあるまじき隙だらけの光景だった。だが、三郎太の足は一瞬止まる。
(……本物のモモタロウさんなら、こんな時どうする……?)
兄貴分とも師匠とも仰ぐ男の面影を、目の前の怪しい覆面レスラーに重ねてしまう。滑稽に見えるこの振る舞いすら、相手を油断させるための高度な心理戦ではないのか。あるいは、一瞬でカウンターに転じるための罠なのか――そんな考えが脳裏をよぎる。しかし、三郎太の迷いは一秒と持たなかった。
(いや、今は僕がどうするかだ! このチャンス、逃さない!)
三郎太は地を蹴り、一直線にブラック・モモタロウへ向かって疾走した。
「隙ありっ!」
「えっ!? ちょ、タンマ! まだ結び目が固結びに……!」
慌てふためくブラック・モモタロウは、背を向けたままマスクの紐をいじり続けている。その背後から、三郎太は一気に懐へと潜り込んだ。正面へ回り込みながら、ブラック・モモタロウの脇に頭を差し込み、その強靭な腰へ腕を回す。指先が分厚い筋肉に食い込み、確かな手応えが返ってきた。
「マスクは直ってるでしょう!? いくぞぉ!」
叫ぶと同時にクラッチを固め、百キロを超える巨漢の重心を脚力だけで強引に浮かせる。
「ノーザンライト……スープレックス!」
三郎太の身体が美しいブリッジを描き、後方へと反り返る。ブラック・モモタロウの巨体が宙で逆さまになり、垂直に近い角度でマットへ叩きつけられた。地響きのような衝撃がリング全体を震わせる。三郎太は投げ放さず、そのまま完璧なブリッジを維持してホールドを固めた。
「ワン!」
滑り込んできたレフェリーの掌がマットを叩く。三郎太は完璧なブリッジを維持したまま、視線だけで自陣コーナーへと合図を送った。――カットに入ろうとするエディを止めてほしい。そんな意図を込めた視線だった。しかし、返ってきた反応は予想外のものだった。コーナーポストに縋り付き、肩で息を切らしながらも、ベスは「ふんす」と鼻を鳴らさんばかりに胸を張り、力強い視線を返してきたのだ。それはまるで「大丈夫、私は見ていますよ! あなたの戦いぶりを!」とでも言いたげな表情。ベスのその満足げな視線に、三郎太は思わず、何とも言えない渋い顔になっていた。
「ツー!」
カウントが時を刻む。勝利まであと一歩。だが、その一歩は果てしなく遠い。
「調子に乗るなよ、まだ私は健在だ!」
凛とした声が響いた瞬間、青コーナーサイドから紫の閃光が走った。エディ・ダンテスがエクスプロイダーのダメージを感じさせない軽やかな動きで、トップロープを飛び越え、不正規にリング内へと乱入してきたのである。
「D式スカイドロップキック……ッ!」
宙で身体を鋭く翻し、エディの両足が、ブリッジで固まっている三郎太の腹部へと一直線に突き刺さった。
「ぐはっ!?」
必殺のカット攻撃。三郎太の美しいブリッジは無残に崩れ、ブラック・モモタロウへのホールドはカウント2で強制的に解除された。吹き飛ばされた三郎太はマットを転がり、エディは猫のようなしなやかさで軽やかに着地する。
「……おいブラック、生きているか」
エディは乱れた銀髪のツインテールを気にする素振りも見せず、足元に倒れ込んでいたパートナーを見下ろした。声は冷淡だが、どこか事務的な生存確認の響きがある。
「い、生きてるよぉ……いやー、今のスープレックス、キレ味鋭すぎない? 首が骨折したかと思ったよ。あいたたた……」
ブラック・モモタロウは、首を左右にコキコキと鳴らしながら、よろよろと立ち上がった。巨躯は普段の自信に満ちたオーラを欠き、足取りは明らかに重い。先ほどエディのムーンサルトのクッションにされ、さらに三郎太の渾身のスープレックスを立て続けに食らったのだ。そのダメージの蓄積は、再生能力と継戦能力に優れる桃色筋肉という超人的な肉体を持つ彼であっても、無視できるものではなかった。
「エディちゃん、タッチ~。ボクちょっと休む~」
ボヤきながらも、ブラック・モモタロウは足を引きずり、自陣のコーナーへと向かう。三郎太との攻防で削られた体力と精神力を回復させるため、エディへとタッチを要請した。
「やれやれ……世話の焼ける奴だ」
エディは溜息をつきながらも、ひきあげてロープを掴み、差し出されたブラック・モモタロウの掌を叩いた。これで権利は正式にエディへと移行する。彼女は改めてリング中央へと歩を進めた。そこには、大技を繰り出した直後にエディのカット攻撃を受け、未だにダメージから抜け出せずにいる三郎太がいた。彼は必死に酸素を求め、口を大きく開けて荒い呼吸を繰り返している。震える腕をマットにつき、なんとか立ち上がろうとするが、その動きは緩慢だった。エディは、そんな三郎太の様子を観察するように、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めていく。その歩みは死神のそれのように静かで、残酷だった。
ふらつきながらも正面を見据えようとする三郎太の腹部へ、エディの鋭い先尖のブーツが突き刺さった。
「がっ……!?」
容赦のないトーキックが、三郎太のわずかに残っていた体力を奪い去る。
「どうした? スープレックスに力を使い果たしてしまったか?」
エディの冷徹な挑発が三郎太の鼓膜を打つ。彼女は悶絶する三郎太の髪を乱暴に掴み、力任せにその身体を引き起こした。174センチある三郎太の身体は、149センチの小柄なエディに引きずられるようにして垂直に立たされる。体格差は歴然だが、リングを支配しているのは間違いなく、冷たい瞳で相手を射抜くエディの方だった。三郎太は朦朧とする意識の底で、至近距離にあるエディの瞳を見つめ返した。
(分かってたけど、やっぱり強いや、エディさん……。格も、経験も、何もかもが僕より上だ。……けど、今日は逃げるわけにはいかない!)
三郎太の瞳に、再び小さな灯火が宿る。それを見たエディは、わずかに口角を上げた。
「目は死んでないな。いい気迫だ」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、三郎太は最後の力を振り絞った。
「おおおおおっ!」
魂の叫びと共に、右腕を大きく振り抜く。標的はエディの顎。兄貴分から受け継いだ魂の形、ファイナルエルボーだ。しかし呼吸は乱れ、気の集中は不十分。繰り出された一撃は本来の輝きを伴わない。エディは上半身をわずかに逸らすだけで、その肘打ちを紙一重でかわした。
「遅い」
空振りの勢いで三郎太の体勢が崩れる。
「しまっ……!?」
その隙を、エディは見逃さない。電光石火の速さで三郎太の懐へ飛び込み、そのボディに頭を押し当て、腰を深く落とした。動きに迷いがなく、技の完成形までの道筋が一瞬で描かれる。
「!? この体勢は……!」
三郎太の驚愕をよそに、エディの小柄な身体から爆発的なパワーが解き放たれる。自分より二十五センチも背の高い三郎太の体を、彼女は軽々と垂直に持ち上げた。視界が反転し、三郎太の頭部がマットを向く。
「王者たる私の技、その身に刻み込め!」
エディはそのまま全体重を乗せて跳び上がった。D式パイルドライバーが炸裂し、三郎太の脳天が容赦なくマットへ突き刺さる。この日一番の重く激しい音がリングに響き渡った。三郎太の身体がマットで跳ね、そのまま力なく横たわる。目の焦点は合わず、指先が僅かに痙攣している。完全にグロッキー状態だった。
「三郎太さん!?」
エプロンサイドでベスが悲鳴のような声を上げる。エディは乱れた銀髪のツインテールを無造作に払うと、マットに大の字になった三郎太を見下ろした。そして勝利を確信したかのように、彼の胸の上に片足を乗せようとする。だが、レフェリーがカウントに備えて身を低くしたその時だった。
「……ふん」
エディはふと動きを止め、足を乗せるのをやめて戻した。何事か思案するように自軍のコーナーへと振り返る。
「これで終わりだ……と言いたいが、交代してやろう」
予想外の提案に、コーナーで一息ついていたブラック・モモタロウが目を丸くした。
「え? いいの? 格好の見せ場だったじゃない?」
エディは肩をすくめ、三郎太に背を向けて悠然と歩き出す。
実況の叫びが、耳をつんざくような歓声と混ざり合い、会場の空気を震わせた。
『決まったぁ! エディ・ダンテス、必殺のD式パイルドライバーが直撃してしまいました! 宮川三郎太、完全にマットに沈んで沈黙! これはもうさすがの若手エースでも……ああ~っと、なんとエディ・ダンテス、ここでフォールにいかない! ブラック・モモタロウに交代しようとしています!』
リング上では、勝利を目前にしたはずの王者が、三郎太の胸から足を退け、自軍のコーナーへと悠然と歩き出していた。観客席からは驚きとざわめきが広がる。その光景に、解説席のバッカス木桜が、空になったワンカップを置いて鼻を鳴らした。
『かぁ~、やだねぇ強者の余裕ってか。因縁のあるブラック・モモタロウにトドメは譲ってやるって言ってんだろうな。おう、三郎太! 舐められっぱなしで終わるんじゃねえぞ! 酒がまずくなる!』
実況が、怪訝そうに隣を振り返る。
『「因縁がある」んですか?』
己の失言に気付いたバッカス木桜は肩をすくめ、視線を泳がせた。
『あっ……。……い、いや、アレだよホラ……兄貴分の偽物なわけだろ? い、因縁ってのはそう、そういうことだよ!』
実況は半眼になりながらも、あえて深追いはしなかった。リング上では三郎太がわずかに身じろぎしている。
『さすがに私でもそろそろ絡繰りが見えてきてますが……まぁ、野暮はやめておきましょう。宮川三郎太、身じろいでいるがダメージが大きく動けないようです! 果たしてこのまま試合は決まってしまうのか!?』
三郎太は、キャンバスの冷たさを頬に感じながら、遠のく意識を繋ぎ止めるのに必死だった。視界は赤く染まり、観客の声は水底から聞こえるようなこもった響きとなって耳に届く。
『がんばれ三郎太! まだワンカップ4個くらい残ってんだ。終わるんじゃねえ!』
解説席から飛ぶ怒鳴り声が、遠くで反響するように揺らぐ。
『……なんか開始時より机の上のワンカップ増えてません!?』
空のカップと残りのカップの数を見ながら実況が呆れたように問いかけると、バッカス木桜は胸を張るようにして答えた。
『お客様からの差し入れで増えた』
『この団体のファンの皆様はさぁ……』
実況の嘆息がマイク越しに漏れ、観客席から笑いが漏れる。だが、そんな場外の喧騒とは裏腹に、リング上では非情な時間だけが淡々と進んでいく。エディは自陣のコーナーへ戻り、そこで待ち構えていたブラック・モモタロウの掌を力強く叩いた。
「ふん、譲ってやるさ。今回だけだぞ? ブラック、トドメを刺せ」
エディは皮肉っぽく口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる。その表情は勝者の余裕そのものだが、瞳の奥には長年の付き合いゆえの微かな気遣いが宿っていた。彼女は知っている。目の前の覆面男が、この三郎太という若手レスラーに対して抱いている、複雑で、そして温かい感情を。自分の納得いく形で決着をつけさせてやろうという、彼女なりの配慮だった。
「へいへい、仰せのままに、社長。……さて、それじゃあ引導を渡してあげようか、三郎太クン!」
ブラック・モモタロウが軽やかな跳躍でリングインする。マットが大きくしなり、その巨体が倒れている三郎太の上に影を落とした。三郎太の意識は、深い闇の淵を漂っていた。キャンバスの冷たさだけが現実につながる唯一の感覚で、脳裏には、自分がプロレスラーを志した日のこと、師と仰ぐ男の背中、このリングに至るまでの苦闘が走馬灯のように駆け巡る。
(負ける……のか……?)
指先一つ動かすことができない。パイルドライバーで首から背骨にかけて叩きつけられた衝撃が、運動機能を完全に奪っていた。肺は酸素を求めて喘いでいるが、吸い込むたびに肋骨が軋むような痛みが走る。遠くでゴングの音が鳴っているような錯覚がする。いや、違う。心臓の鼓動か、激しい耳鳴りだ。
「三郎太さん! ……三郎太さん!! 立ってください!!」
その時、闇を切り裂くようにして、透き通った叫びが三郎太の心に届いた。コーナーでロープを握りしめ、身を乗り出すようにして叫ぶシロオニ・ベスの声だった。
(ベス……)
その名を呼んだ瞬間、冷え切っていた身体の芯に、小さな火が灯るような感覚が生まれた。彼女は、遠く異国の地からたった一人でこの団体に殴り込んできた白鬼だ。孤独、文化の違い、周囲の冷ややかな視線。それらすべてを跳ね除けて戦っている彼女の目的を、試合で真っ向から阻んだのは、他ならぬ自分自身。ここで彼女の前で倒れたままでは、あの覚悟に顔向けができない。そして、今、目の前で自分を見下ろしている男――ブラック・モモタロウ。もしこの男の正体が、自分が信じている「あの人」であるならば、こんな不甲斐ないところで諦めるような弟分を、一人前と認めるはずがない。
「……まだ……だ……」
三郎太の右手の指が、痙攣するようにピクリと動いた。キャンバスを掴むようにして、爪がわずかに沈む。
「おっ? まだやる気かい?」
ブラック・モモタロウが、三郎太を仕留めるために踏み出そうとした足を止めた。マスクの奥の瞳が、驚きと、そして隠しきれない期待に細められる。三郎太は歯を食いしばり、奥歯が砕けるかと思うほどの力を込めた。震える腕に、逃げ出そうとする魂を呼び戻す。
(体力は限界だ……けど、僕の気力はまだ尽きていないっ!)
自らを奮い立たせる言葉が、心の中で燃え上がる。三郎太はふらつきながらも膝に力を入れ、ゆっくりと立ち上がった。その目は焦点こそ定まっていなくとも、決して死んではいなかった。
立ち上がった三郎太の瞳に宿る不屈の光を見て、ブラック・モモタロウはマスクの下で口角を吊り上げた。圧倒的な実力差、そしてエディの必殺技を食らってなお立ち上がるその精神性は、かつて共に汗を流した弟分の成長を雄弁に物語っていた。
「上等だ! その根性、見届けてやる!」
ブラック・モモタロウが吠える。巨体が爆発的な踏み込みを見せ、キャンバスを強く蹴った。突き出された右肘には淡く輝く気が収束していく。太平プロレスに伝わる魂の形、本家本元のファイナルエルボーだ。空気が裂ける。真正面から三郎太の顔面を捉えようと迫るその一撃が、彼の視界にはスローモーションのように映っていた。本来なら、今のダメージでまともに受ければ意識は確実に途絶える。だが、彼は逃げなかった。いや、逃げるという選択肢は最初から存在しなかった。
「うおおおおおおっ!!」
叫びは喉の奥から絞り出した血の混じった咆哮だった。三郎太は残された全ての気力を右腕に注ぎ込む。ただ打つのではない。彼はその場で駒のように鋭く体を反転させた。回転による遠心力を乗せ、さらに気力を上乗せしたカウンターの一撃――ローリング・ファイナルエルボーで迎え撃つ。
正面から激突する二つの光。肉体と肉体が衝突する音とは思えない、衝撃波を伴う爆鳴がリングに鳴り響いた。互いの肘が激しくぶつかり合い、気の奔流が火花のように散る。両者の腕に走る激痛。骨が軋み、肉が悲鳴を上げる。しかし、意地と意地のぶつかり合いは、一歩も譲ることを許さなかった。
「ぐ、ぅ……! やるじゃないか、三郎太……!」
ブラック・モモタロウが顔を歪めながらも、感嘆の声を漏らす。衝撃に耐えきれず、二人の身体は弾き飛ばされるようにして距離が開いた。ブラック・モモタロウは巨体を揺らし、わずかに膝をつく。一方の三郎太も後方へと大きく吹っ飛んだ。しかし、運命はまだ彼を見捨てていなかった。背中がリングロープに叩きつけられ、強烈な弾力が全身に跳ね返る。
(これだ……っ! この反動を使えば……!)
背中で受けたロープの力を、そのまま推進力へと変換する。バネのように前方へと飛び出す。狙うは、衝撃に膝をついているブラック・モモタロウの懐。三郎太の叫びが、血と気力を混ぜ合わせたような震えを帯びてリングに響いた。
「ま、まだだぁ……ッ!」
三郎太は、よろめくブラック・モモタロウに正面から食らいついた。その首を変形フロントネックロックの体勢でがっちりと捕らえ、脇に抱え込む。ブラック・モモタロウもただやられるばかりではない。フロントネックロックとショルダーロックの複合というセットアップを振りほどこうと、瞬時に掴みかかって対応していた。対応はしていた。だが――先ほどのエルボー同士の衝突のせいで、いまだ両者の利き腕の肘先から指先にかけては痛みと痺れが支配していた。肩と上腕、そして脇によってロックを極めている三郎太に対し、ブラック・モモタロウの左腕はショルダーロックに捕らわれ、三郎太のロックを外そうと掴みかかる右腕の指先には十分に力が入らない。「ヤバ」と思わずブラック・モモタロウから素の声が漏れた。
「今だ、今しかない! 相手がモモタロウさんでも、そうでなくても……これが今の僕が見せられる全身全霊だぁぁぁ!!」
三郎太は自身の全体重、そして最後の気力を爆発させ、後方へと反り投げた。ただのスープレックスではない。首と肩を極められた身では十分に踏ん張れず、ブラック・モモタロウは僅かな抵抗も空しく、投げられるに任せるしかなかった。急角度で持ち上げられた巨体は、空中で一瞬停止したかのような錯覚を与え、次の瞬間、稲妻のような速さでマットへと突き刺さる。これが三郎太の新必殺技、「サザンライト・スープレックス」だ。
「なんとぉぉ……がふっ!?」
激しい衝撃と共に、ブラック・モモタロウの巨体がマットでバウンドする。三郎太はそのままブリッジの体勢を維持し、渾身の力でホールドした。ブラック・モモタロウの口から押し出された空気が漏れる。完全なフォール体勢。会場中の観客が総立ちになり、レフェリーのそれにあわせて地鳴りのようなカウントの大合唱が始まった。
「ワン!」
レフェリーの掌がマットを叩く。三郎太はブリッジを維持したまま、エディからは見えない位置で指だけを動かし、ハンドサインを送る。ベスに「カットに来る相手を止めろ」という意味を込めて。しかし、コーナーで身を乗り出しているベスは、目の前の奇跡的な展開に興奮し、その微かな合図に気づくことができなかった。
「ツー!」
勝利まで、あと一秒。三郎太の指先に力がこもる。だが、その背後に「影」が迫っていた。自軍コーナーで様子を伺っていたエディ・ダンテスが、雷光のような速さで動いていた。彼女はリング外からロープの間を潜り抜けるようにリングインすると、そのままサードロープを蹴って加速し、三郎太の無防備な脇腹を狙い定めたスライディングキックを放つ。
「させない!」
非情な一撃。エディの硬いブーツの先が、ブリッジしている三郎太の脇腹に深く突き刺さった。
「……ッ!」
衝撃でホールドが解け、三郎太の身体がマットに転がる。レフェリーの手が三回目のマットを叩こうとする直前、カウント2.9。まさに絶妙と言わざるを得ない、冷酷なまでの救出劇だった。
「甘いぞ。タッグマッチだということを忘れたか?」
エディは立ち上がり、乱れた髪を払いながら冷たく言い放つ。彼女の瞳には、勝利を確信した隙など微塵もなかった。
「……ちっ!」
ベスもエディのリングインを見て即座に動き出してはいたが、一瞬遅れたのが災いし、既にカットは完了し、三郎太は苦悶の表情で横たわっている。
「先ほどから良い所で邪魔に……このヒーロー気取りがぁぁぁっ!!」
ベスの怒りが爆発した。彼女は着地するや否や、姿勢を低く保ったまま猛然とエディに向かって突進した。狙いは、エディの無防備な背中。シロオニ・ベスの渾身のショルダータックルが、エディを捉えた。衝撃のあまり、インパクトの瞬間にエディの背が不自然なほど反り返る。
「がはっ!?」
小柄なエディの身体は、質量差と慣性を受けてひとたまりもなく吹き飛ばされた。前方回転しながらマットを数度バウンドしてロープ際まで転がっていく。さしものベルトホルダーもすぐに立ち上がれないほどのダメージと強制的に肺から排除された空気のために激しくせき込み、四つん這いになって必死に呼吸を整えるしかない。
「三郎太さん! 後は私が!」
ベスは即座に三郎太の元へ駆け寄り、彼の肩を抱きかかえるようにして助け起こした。三郎太は自陣コーナー近くまで引きずられるように運ばれ、脇腹を押さえ、激しく咳き込みながらも、なんとかロープを掴むベスの掌に触れ、交代を成立させる。
「……ベス……っ、頼む……!」
そのまま崩れ落ちるようにして倒れ、エプロンサイドへごろりと脱する。それだけで精いっぱいだった。
「はい、任せてください!」
サードロープを掴んで場外への落下を防ぎながら、突っ伏した三郎太の視界は揺れ、呼吸は荒い。それでも、そのバトンは確かに相棒へと繋がれた。戦場に残されたのは、怒りに燃える『白鬼』ベスと、思わぬ一撃に吹き飛ばされて悶えるエディ、そしてベスを窺いながら息を整え、ダメージの回復を図るブラック・モモタロウ。三者の距離がわずかに開き、リング上の空気が張り詰める。試合は、さらに激しさを増す終盤戦へと突入しようとしていた。