「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
三郎太から試合の権利という重いバトンを託されたシロオニ・ベスは、荒れ狂う白鬼と化していた。本来であれば、今彼女が標的とすべきは試合権利を持つブラック・モモタロウだ。しかし、彼女の視界は、三郎太の決死のホールドを非情なスライディングキックで妨害し、いまだリング内に居座り続けている小柄な王者、エディ・ダンテスの姿だけで完全に埋め尽くされていた。リングの空気がわずかに沈む。白鬼の怒気が満ち、足元のキャンバスがほんの僅かに軋む。
「受けてみなさい! 『W.O.X.B』……ッ!!」
ベスは怒号と共にエディへと踏み込み、背に受けた強烈なショルダータックルのダメージにふらつきながら、いまだロープ際で身を起こそうとしている彼女に組み付いた。相手の腹部付近で両腕を交差させてガッチリとロックし、そのまま自らの肩の高さまで一気に抱え上げ、豪快なパワーボムで叩きつける必殺技、「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)」。決まればいかに王者といえども仕留められる可能性は十分にある破壊力だ。しかし、エディの華奢な身体を持ち上げようと力強くキャンバスを踏みしめた瞬間、ベスの片膝の奥で、激情とアドレナリンで無理やり封じ込めていたものがついに決壊し、信じがたい激痛が走った。
「……うぅッ!?」
ブラック・モモタロウの『ロータリーデスロック』によって極限まで絞め上げられ、軋みを上げていた膝関節は、ここ一番の踏ん張りを要する場面に耐えきれなかったのだ。力の抜けた膝からカクンと崩れ落ちるベス。ロックされていたエディも巻き込まれ、二人はもつれ合うようにしてキャンバスへと無様に倒れ込んだ。倒れた瞬間、ベスの膝がわずかに跳ね、痙攣のような震えが走る。痛みが膝下から太腿へ、そして腹の奥へと鈍く広がっていく。
「ぐぅっ……焦り過ぎだ、不器用者」
マットに背中を打ち付けたエディが、苦悶の表情を浮かべながらも冷ややかな嘲笑を投げかける。ベスは激痛に顔を歪め、己の不甲斐なさに唇を噛み締めた。呼吸が乱れ、膝の奥で脈打つ痛みが止まらない。
その時、二人が倒れ込んだリング中央に、巨大な影が覆い被さった。いつの間にか、試合権利を持つブラック・モモタロウが、疲労からよろよろとした足取りながらも、自陣のコーナーポストの最上段に直立していたのだ。揺れる足元とは裏腹に、全身から放たれる気迫だけは揺らいでいない。
「よっしゃあ、モモスペシャル、その1ぃ!」
ブラック・モモタロウの陽気な掛け声が会場に響き渡る。百キロを超える巨体が、コーナーの頂上から勢いよく宙を舞った。空中で身体を丸め、猛烈なスピードで前方回転を加える。狙うは、キャンバスでもつれ合って倒れているベス。しかし、そこには味方であるはずのエディも居る。躊躇は全くなかった。
「ダイビング・ピーチ・ボンバー!!」
回転による遠心力と落下の重力が加わった、強烈無比なヒップアタックに地響きのような衝撃音がリングを揺らした。キャンバスが沈み、ロープが震え、観客の息が一瞬止まる。
「が……ッ!?」
直撃を受けたベスの口から、肺の中の空気が全て絞り出されるような悲鳴が漏れる。さらに、巻き込まれる形となったエディにもその衝撃は容赦なく伝達された。キャンバスが沈み、二人の身体がわずかに跳ねる。
「あだっ!? モモ……ブラック、貴様ぁ!?」
激怒するエディに対し、ブラック・モモタロウはマスクの下でニカッと笑い、軽口を叩いてみせた。
「さっきの分これでチャラね!」
先ほどエディが三郎太のカットに入った際、自分ごとムーンサルトプレスで押し潰したことへの、彼なりの強烈な「意趣返し」であった。だが、その冗談めかした態度は一瞬で消え去る。呼吸を一つ整えた瞬間、彼の全身から漂う空気が変わった。勝負師の冷徹な気配が戻り、ふらつきながらも立ち上がろうとするベスの背後へと、音もなく滑り込んだ。
「ベスちゃん、頑張ったけど、ちょいと君はタッグ戦の勉強が足りないね……」
背後から囁かれたその声は、優しくも残酷な引導であった。ブラック・モモタロウはベスの背後からその腕を前後で複雑に巻き付けるようにして、己の太い腕でガッチリと掴み込んで正面組みに捕らえる。掴まれた瞬間、ベスの身体がわずかに強張り、逃げ場を失った筋肉が悲鳴を上げる。
「ぁ……く、くそぉ……!?」
完全に身動きを封じられたベスの瞳に、ついに絶望の色が浮かぶ。ブラック・モモタロウの腕の圧力がさらに強まり、胸郭が軋む。
「さぁ、これで最後だ!!」
ブラック・モモタロウが腰を深く落とし、その強靭な背筋力でベスの長身を真上へとぶっこ抜く。掴まれた腕が引き伸ばされ、ベスの足がキャンバスから離れる。重力が一瞬だけ消えたような浮遊感ののち、後方へと反り投げると同時に、巻き付けていたベスの腕を大きく広げた。腕を広げられたことでベスの身体は空中で強制的に半回転させられ、受身を取ることすら不可能な状態に陥る。空中で自由を失った身体が、ただ落下の軌跡だけを背負わされる。
「あああああっ!?」
シロオニ・ベスの身体は、両手を左右に引き広げられた状態で、為す術もなく脳天から真っ逆さまにマットへと突き刺さった。モモ・スペシャル、その3。「クロスライダー・スープレックス」。リングがひしゃげるかのような衝撃音と共に、ベスの身体は完全に活動を停止した。キャンバスが沈み、ロープが震え、観客の声が止まる。
「ワン!」
レフェリーがマットに伏せ、一回目のカウントを叩く。その絶望的な光景をエプロンサイドで見ていた三郎太は、痛む脇腹を押さえながら、狂ったようにリングへと駆け込んでいた。
「……ベスッ、今……っ!」
ふらつく足取りながらも、信頼するパートナーを救うため、彼は決死のダイブを見せようとする。しかし、その行く手を阻む影があった。先ほど巻き添えを食らってダウンしていたはずのエディ・ダンテスだ。彼女もまたふらつきながらなんとか立ち上がると、三郎太の腰に正面からしがみつき、その全身の力を使って進行を食い止めた。
「行かせないよ」
銀髪のツインテールを乱したエディの瞳には、タッグマッチという戦場を支配するベテランの矜持が宿っていた。三郎太は必死に振り払おうとするが、既に体力尽きた彼にエディの執念の拘束はすぐには解けない。腰に絡みつく腕が重く、足が前に出ない。ベスまでの距離が、絶望的に遠い。
「ツー! ……スリー!!」
三郎太の絶叫が虚しく響く中、レフェリーの掌が三度目のマットを叩き、試合終了を告げるゴングが高らかに鳴り響いた。
観客席が揺れ、踏み鳴らす足音が地鳴りのように響き渡る。それは結末への不満か、はたまた健闘を讃えての興奮か。
『入ったぁ、スリーカウント! 試合終了、勝利は「エディ・ダンテス&ブラック・モモタロウ」組の手に渡りました!』
会場の興奮が最高潮に達する中、実況アナウンサーがマイクに向かって絶叫する。
『最後はブラック・モモタロウのクロスライダー・スープレックスの前にシロオニ・ベスが撃沈! あの難しい技を当然のように繰り出す……いやもう完全に中身あの人ですよね、これ?』
実況の興奮冷めやらぬ問いかけに対し、解説席のバッカス木桜は、卓上に並んだいくつもの空のワンカップを眺めながら、深く息を吐き出した。
『ありゃあ、あのザ・グレート・ベンケーだって仕留めた荒業だ。今の嬢ちゃんじゃあ、食らって立ち上がれるわけがねえ。しょうがねえよ』
バッカスはそう言って首を振るが、その表情にはどこか腑に落ちないものが混じっていた。
『しかしよぉ……アイツだとすると、随分と動きが悪かったな。謎の生物もんがーに変身して客を沸かせることもねえし、得意のギャグも大人しいもんだ』
放送席の空気がわずかに揺れ、バッカスの言葉の奥に沈んだ違和感だけが残る。
『たしかに……当時、全身の腱を損傷したという噂もありましたし、三年というブランクに加え、怪我も完治はしていないのかもしれませんね……。それにしても、シロオニ・ベス、無念の敗北であります! 追い続けたモモタロウの影によって、あと一歩で伸ばした手は無情にも阻まれてしまいました。そして、最後の最後で救出が届かなかった宮川三郎太も、リング上で崩れ落ちて悔しそうです!』
リング上では、勝利の余韻に浸るブラック・モモタロウとエディをよそに、三郎太が意識を失ったベスに這い寄っていた。一方で放送席では、バッカスが不自然に周囲を見回している。
『……んー、妙だな?』
バッカスは背後やモニターを見まわし、会場の観客席の通路のところどころに立っている団体トレーナーとジャージズボン姿の太平プロの所属レスラーたちを目にとめた。ただ突っ立っている者、観客にまとわりつかれている者、赤子を抱かされて困っている者など様々だが一様に周囲を気にしている様子だ。
『どうかしましたか、バッカスさん?』
一転して軽い調子のバッカスの疑問の声に、今度は何を気にかけているのかと実況アナも興味を抱いて水を向ける。
『いや……乱入して来そうなのに心当たりがあったんだが……。来る様子がねえなって……』
バッカスは首を傾げたが、すぐに面倒くさそうに頭を掻いた。別に責任を感じるような事でもないと彼の中で話を終えてしまう。
『ん-、まぁいいや。ともあれおつかれさん。お勘定はツケといてー』
立ち上がり、千鳥足で去ろうとするバッカスに向かって、実況アナウンサーの鋭いツッコミが飛んだ。
『私は居酒屋の店員ではありませんが!?』
そもそもツケで飲もうとするなという話でもあった。
「……っ、クソ……!」
スリーカウントの余韻と、勝者を讃える割れんばかりの歓声が渦巻くリングの中央で、宮川三郎太は膝をついたまま、震える拳を力任せにマットに叩きつけた。鈍い音が、己の不甲斐なさを責め立てるように響く。あと一歩だった。最後の最後、エディ・ダンテスの執念のカットさえ振り切れていれば――あるいは彼女に組み付かれる前に自分がもっと早く動けていれば、ベスをあの絶望的なスープレックス・ホールドから救い出せていたかもしれない。激しい疲労とダメージで全身の筋肉が悲鳴を上げているというのに、胸の奥からせり上がってくる熱い悔しさだけが、今の三郎太を支配していた。視線を落とせば、そこにはブラック・モモタロウの必殺技であるクロスライダー・スープレックスをまともに浴び、キャンバスに大の字になって動けないシロオニ・ベスの姿がある。三郎太は疲労からくる虚脱と全身の激しい痛みを堪え、這うようにして彼女の傍へと擦り寄る。そして、ピクリとも動かない彼女の小さく白い手を、祈るようにそっと両手で包み込んだ。
「ベス……ベス! 大丈夫か?」
必死の呼びかけに応じるように、やがてベスの長い睫毛が、微かに震えた。瞳がゆっくりと見開かれるが、その焦点は定まっていない。脳天からマットに突き刺された衝撃が、いまだに彼女の脳を激しく揺らしているのだ。しかし、己を包み込む三郎太の無骨で温かい手の感触が、彼女の意識を深い闇の底から現実へと引き戻していく。
「……さぶ……ろうた、さん……?」
掠れた声で名を呼ぶベス。自分が倒れ、仰向けになっているという事実が、敗北という結果を如実に物語っていた。
「私が……スリーカウントを? ……信じられない……この力、やはりお兄様がたを退けたという、あのモモ……」
かつて、自慢の兄たちであるオニガシマ・ブラザーズを打ち破った、太平プロレスの──いや日本の伝説的なレスラー。その影を、今まさに自分を完膚なきまでに叩き潰した「黒い桃」の中に見出し、ベスは驚愕と戦慄に身を震わせた。彼女が海を渡ってまで追い求めた強敵たる標的、その途方もない実力の底知れなさを、身をもって味わわされたのだ。だが、三郎太は彼女のその震える言葉を遮るように、しかしどこまでも優しく首を振った。
「……モモタロウさんを追って日本に来た君にとっては大事な事だろうけど、ここは一旦収めてくれないか? それより……」
三郎太はぐっと言葉を詰まらせ、ベスの瞳を真っ直ぐに見つめ下ろした。その黒い瞳には、タッグパートナーとしての強い責任感と、一人の青年としての嘘偽りのない純粋な謝罪の色が、痛いほどに混ざり合っていた。
「ベス、最後で助けに届かなくてゴメン! 僕がもっとしっかりしていれば、君を敗北の当事者にさせずに済んだかもしれないのに……ッ!」
「……っ……!」
その瞬間、ベスの心臓が、試合中の極限状態のそれとは全く違う、ひどく甘やかなリズムで大きく跳ねた。三郎太の顔が、驚くほど近い。額から滴り落ちる汗、彼から放たれる熱気、そして自分を案じて歪められた誠実な眼差し。彼は、自らも限界を超えたダメージを負っているにもかかわらず、自分の敗北を自分のことのように悔やみ、自分を誰よりも深く案じてくれているのだ。先ほどまで感じていた「白鬼」としてのプライドが傷ついた痛みも、規格外の技で投げ飛ばされた肉体的な衝撃も、あるいは伝説のレスラーに対する畏怖すらも。三郎太から発せられたその不器用で真っ直ぐな言葉一つで、すべてがときめきの熱へと溶けていくのを感じた。
(ああ……そんなに真っ直ぐに、私を見つめて……。三郎太さんが謝る必要なんて、全くないのに。貴方は……貴方はなんて……)
胸の奥がキュンキュンと激しく疼き、視界が悔しさとは違う理由で潤んでいく。ベスは自分の顔が、まるで熟れた林檎のように真っ赤に染まっていくのをはっきりと自覚しながら、うっとりと熱い吐息を漏らした。
「……あ……う……」
もはや、気の利いた言葉など紡げるはずもなかった。彼女は、己を包み込んでいる三郎太の大きな手に、自分の細い指を絡めてぎゅっと握り返すと、完全に心を許した、蕩けるような笑みを浮かべた。
「……はい♡」
激闘の血の匂いと汗に塗れたリングの中央に、突如として春の陽だまりのような、甘く桃色に染まった空気が流れ始める。二人の間には、もはや何人たりとも立ち入れない「世界に二人きり」の空間が完成しかけていた。
だが、そんな美しいメロドラマのような空間を、物理的かつ無慈悲にぶち壊す不気味な影があった。
「……ボクのために収めてくれないか? それより、まとめてピーチボンバーしてくれてア・リ・ガ・ト・ウ」
すぐ脇で、ブラック・モモタロウの巨体を抱え起こしながら、エディ・ダンテスがわざとらしく呟いていた。彼女は、先ほどの三郎太の真剣そのものだった表情とセリフをこれでもかと皮肉っぽく模倣し、芝居がかったトーンでブラック・モモタロウの耳元へ囁きかけていたのだ。さらに、あろうことか当のブラック・モモタロウは、先ほどのベスの蕩けきった姿勢と表情を完全に真似してみせた。
「あ……う……、はい♡ ぽっ」
身長187センチ、体重100キロを超える筋骨隆々の覆面の大男が、裏返った気味の悪い高い声で返事をし、乙女のような仕草で両手を頬に当ててモジモジと巨体をくねらせている。控えめに言っても、地獄のような悪夢の光景であった。
自分たちの初々しいやり取りを、身長差も男女の構図も完全に逆転した状態で、これ以上なく滑稽に再現されてしまった三郎太とベス。二人の顔は、先ほどとはまた別の、沸騰するような恥ずかしさで真っ赤に染まり上がった。
「茶化さないで下さいッ!!」
三郎太は顔面から火が出るほど赤面し、痛む身体を無理やり起こして立ち上がると、たまらずそう叫んでいた。激闘の余韻は、悪意のない(しかしタチの悪い)からかいによって、見事に笑いへと昇華されていった。
一方、そんなリング上のコントのようなやり取りから少し離れた場所。熱狂に包まれた会場内で、リング周囲の通路を厳重に警戒する一団があった。団体トレーナーにジャージのズボン姿に身を包んだ、太平プロレスの所属レスラーたちである。彼らの中心に立つのは、太平プロレスの社長である松平林吾であった。
「…………」
彼は腕を組み、険しい表情で周囲に鋭い視線を巡らせている。観客の歓声の波に飲まれながらも、彼らの立つ一角だけは不自然な緊張感が滲んでいた。
「ボス、美樹さんの乱入防げってことで俺ら、こうして布陣してますけど……全然来ないっスね?」
若手レスラーのブライアンが、周囲の観客席を見渡しながら不思議そうに首を傾げた。彼らが警戒しているのは、他でもない。林吾の娘であり、行方不明のモモタロウを誰よりも一途に待ち続けている社長令嬢、松平美樹の動向であった。
「……うーん。美樹の事だから、試合内容をモニターで見たら、絶対に激怒してパイプ椅子片手に乱入してくるか、あるいはショックで泣きながら試合後にリングへ突入してくるかすると思ったんだが……?」
リングを挟んで反対側に布陣するタッグ屋の悪役レスラー、ザ・ヒネクレモンズの二人が頭の上で腕を交差し「いまだ来ず」の合図を送っているのを見て、林吾は顎を撫でながら、予想外の静けさに戸惑いを隠せない。そこへ、リングコスチュームの上にダサい団体トレーナーを羽織っただけの状態で女子レスラーのサチが、客席の通路奥から小走りで戻ってくると、息を切らせて報告を入れた。
「しゃちょー、美樹ちゃん、控室にも居ないよ。もしかして、怒って帰ったんじゃね?」
「それはないだろう。今まであの子が、特別な事情も無く興行の途中で帰った事など一度もないからな」
林吾は即座にサチの推測を否定した。プロレスを、そしてこの団体を愛する娘が、メインイベントを見届けずに去るはずがないのだ。その時、ふとリングの方を見ていたブライアンが声を上げた。
「しかし、オトギ方のエディさんもブラック・モモタロウも、いつの間にかもう引き上げちまいましたよ? リングには三郎太先輩とベスの姉御しかいません」
その言葉を聞いた瞬間、林吾の脳内に最悪のシナリオが閃いた。リングへの乱入を防ぐために、こうしてリングの周囲を固めていた。だが、もし美樹の目的が「リングでの邂逅」ではなく、「余人の邪魔の入らぬ場所での追及」であったとしたら。標的であるブラック・モモタロウが退場した今、彼女が向かうべき場所はただ一つしかない。
「……不味ったかな?」
林吾は、頭を掻きながらほんの一瞬だけ短く息を吐くと空を仰いだ。
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イベント会場内、オトギプロ側選手用控室前の廊下には、試合後の熱気がまだ薄く漂っていた。汗と消毒液の匂いが混じり、遠くでは機材を片づけ始めたらしい金属音が断続的に響く。撤収が動き出した時間帯特有のざわめきが、廊下の空気をわずかに揺らしていた。そのただ中に、松平美樹は静かに立っていた。リングコスチュームの上に団体トレーナーを着込み、表情は柔らかな笑顔。しかし、その背後に揺らめく空気は、黒い炎のように立ちのぼり、周囲の空気を震わせていた。怒気が形を持ったかのようなその気配は、視覚的な幻として周囲に滲み出しているようにすら見える。廊下の端にいたオトギプロの練習生は、その異様な気配を「見てしまった」かのように感じ取り、壁に張り付くようにして固まった。喉が鳴るのを恐れて息を潜め、視線すら動かせない。美樹の放つ怒気は、言葉よりもはっきりと、肌に刺さるように伝わってきた。美樹はそんな練習生の様子を気にすることもなく、控室のドアに向き直り、軽くノックした。
「すいません、松平美樹です。……ここにモモタロウいますよね?」
声は丁寧で穏やかだったが、背後の空気だけは怒りを隠しきれていない。笑顔と気配の落差が、かえって異様な静けさを生んでいた。中から軽い足音が近づき、ドアが開く。
「はいはい、今開けます~。あれ、美樹さん? どうしたんですか?」
オトギプロ所属レスラーの赤ずきんが顔を出した瞬間、笑顔の奥に潜む圧を感じ取ったのか、肩がビクリと跳ねた。
「ぼたんさん、どうも。モモタロウ出して貰えますか?」
美樹はあえて赤ずきんをリングネームではなく本名で呼び、丁寧な口調のまま、有無を言わせぬ語尾で告げた。柔らかな笑顔を浮かべているが、その目だけは一切笑っていない。むしろ、静かに研ぎ澄まされた刃のような光を宿していた。
「うわ笑顔怖ッ!? ちょ、ちょっと落ち着いてください! モモタロウって……ブラックさんのことですか?」
のんびりほんわかしたいつもの調子を崩され、赤ずきんは素の反応でうろたえた。あわてて要求の意図を確認するために質問に質問で返す赤ずきん──ぼたんだったが、その態度は美樹の中で燃え上がる紅蓮の炎に油を投下するも同然の所業であった。
「隠すんですか? 赤ずきんさんと一戦交えてもいいですよ?」
欠片もためらいのない声音だった。プロレスラーとしての実力で言えば、太平プロの社長令嬢であり、学生生活と両立しながらイベントやエキシビジョンに出場する美樹より、オトギプロの若手エース格である赤ずきんの方が上だ。しかし、この抜き身の刃のような闘志に満ちた今の美樹と試合でもないのにリング外でやりあうのは正直言ってまっぴらごめんであった。赤ずきんの顔色が一気に青ざめる。
「待って待って!? 社長とブラックさんは控室に戻らずフック船長の車で先帰るって聞いてます! だから撤収の指揮は私がやることになってて……ッ!」
交戦の意思は無いと即座に赤ずきんは講和のための譲歩に踏み切った。持っている情報を開示することで美樹の宣戦布告をどうにか止めなければならない。しかし、美樹の視線には疑いの色が濃く残っていた。言葉だけなら何とでも言える。ショウ・ザ・フラッグ、お前は私の敵か味方か? ──そう問いかけるような目だった。少なくとも赤ずきんの洞察力においてはそうだと本能が叫んでいた。赤ずきんは打開策を探し──誰が来たのか気になったのだろう、近づいてきている同僚の存在に目を付けた。
「う、嘘じゃないですッ! アサルちゃんもなんとか言ってあげてください!」
控室の奥からアサルが顔を出す。彼女の表情はいつも通りの真面目ちゃんであり、何を急に言われるのかという僅かな困惑こそあれど、素直に情報を追認する。
「社長たちとオディールさんはフック船長の車、私たちは軽トラ、七海君と練習生は現地解散直帰です。そう言われました」
美樹は眉根を寄せ、細く息を吸い込みながらアサルをじっと見つめた。
「くっ……アサルさんが棒読み台詞じゃないということは嘘じゃない!?」
アサルの棒読み実況やイベント口上は、もはや名物といっていいほど有名だ。もし何かを隠して台本通りに喋っているのなら、必ず棒読みになるはず。しかし今の彼女の声には不自然なところが一切なく、いつも通りのトーンと発音だった。遺憾ながら、情報は真実──そう判断せざるを得ない。
「……ふーん、そうかぁ。モモタロウ、私を避けてるんだ……へぇー」
結果、美樹から黒々とした、ねばつくような暗黒闘気が吹き上がった。自分が恋していると知っているはずだ。待ち焦がれていると知っているはずだ。それなのに、あの男は一言の相談もなく、接触すらせず、黙って帰る──そういう魂胆なのか。つまり、後ろ暗いところがあるということだ。美樹の中でロジックが組み上がっていくにつれ、立ち込めるオーラは不可視のはずなのに空気を揺らがせ、不自然な冷気を帯びていく。その変化を敏感に感じ取ったアサルの表情が強張り、背筋が跳ねた。
「ヒェッ!?」
赤ずきんは即座に判断した。これアカンやつだ、と。彼女の思考が高速回転し、脱出口を求めて解を探し、視線があたりを走査して必要な情報を集める。
「私、撤収の指揮とるんでアサルちゃん、美樹さんの相手お願いね。七海くーん、準備どーお?」
赤ずきんは、同僚であるアサルを必要な犠牲として計上した。
「えちょ、待って、赤ずきんさん! ひどいです!?」
真面目ちゃんの表情が崩れ、涙目になったアサルの声を、赤ずきんはまるで聞こえなかったかのようにスルーした。ドン引きしている七海と練習生の方へと移動しようとする赤ずきんの肩を掴もうとして、アサルの手は一瞬遅く、宙を空しく掻いた。
そして、美樹の中の冷たい論理の螺旋は、残酷な真実へと辿り着いていた。拳を握りしめた美樹は、うつむいたままぽつりと呟く。
「エディさんもおとーさんもグルなんだ……そっかー……」
リング周辺を父・松平林吾が部下を配して守護の陣を敷いていたことには気付いていた。だからこそ、こうして裏をかいて控室へ向かってきたのだ。だが、その控室にモモタロウは戻らず、エディの指示で別の車が用意されたという。エディも林吾も、美樹の気持ちを理解していた。そして、それを意図的に阻止するために動いていた。連携していないはずがなかった。美樹の声は震え、目元にはうっすら涙が浮かんでいた。
どうしてこうなった。控室のドアの前で美樹と二人きりで立たされているアサルは絶望した。
「な、涙とはッ!? だれかたすけて……!?」
しかし、廊下の空気は無情だった。赤ずきんはすでに軽トラの鍵を持って、積み込み所へ車を回すと言って逃亡済み。七海は衣装群やタオル、救急箱などを押し込んだ手押しカートを押しながら走り去り、練習生たちも美樹の怒気に怯えつつ、アサルから必死に目をそらして黙々と掃除や撤収作業の残りを続けている。マネージャーは気配を完全に断ち、いつの間にか影も形もなくなっていた。誰一人として、アサルのSOSに反応する者はいない。
アサルは震える声で最後の抵抗を試みた。
「あの……大変ですね。何も力になれなくてすいませんが、その……私もそろそろ……?」
踵を返そうとしたアサルの肩が掴まれる。美樹が、静かに、わずかに涙を浮かべた目を向けていた。逃亡失敗。重ねてアサルは絶望した。
「アサルさん……フック船長の車の行先、ご存知ですよね?」
「ご存知ないですよー」
その言葉は棒読みであった。
美樹は光明を見つけたと言わんばかりに口の端を釣り上げた。アサルはふるふると頭を振って許しを請うが、肩を掴む美樹の掌は、まるでフリッツ・フォン・エリックもかくやという力で握りしめられており、なんていうか描写を放棄して真面目にすごい痛い。練習生たちは分水嶺を超えたことを察し、脱兎のごとく残った物を抱えて積み込み所へ向かって廊下を走り去る。勘弁してほしかった。アサルの着替えの入ったカバンも、しっかり忘れず持っていかれてしまった。下手をすると、自分はリングコスチュームの上にあずき色のジャージを着たこの格好のまま帰る羽目になりかねないではないか。
「アサルさん……ちょっとお話しましょうか?」
美樹は笑顔だった。今日一番の、すがすがしい笑顔だった。もうダメだ。このまま地獄まで連れていかれるに違いない。そういえば自分のリングギミックはアラジンの魔人だった。でもこれじゃランプのジニーじゃなくてジン・ジャハナムだな。そんな現実逃避の意味もなく博識な知識が脳裏で浮かんでは消える。
アサルは泣きそうな顔で空を仰いだ。