「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第36試合(ノワール・ゲート、招待選手特別興行):シングルマッチ「ローラ・ザ・チャージVSジェニー・葛葉」前編

 創設からまだ二年にも満たない新興プロレス団体「ノワール・ゲート」の代表室は、湾岸沿いの近代的な複合商業施設に隣接するビルの最上階にあった。ガラス張りの壁一面に東京湾が広がり、沈みゆく夕陽が室内を血のような茜色に染めている。代表取締役・門脇は、上質なマホガニーのデスクに肘を突き、組んだ指の隙間から窓外を眺めていた。かつて経済界で名を馳せ、破産という地獄から謎の出資を受けて奇跡的な復活を遂げ、畑違いのプロレス業界へと乗り込んだ男。その背中には、冷徹な野心と、底の見えない何かが張り付いているようだった。デスクの向かいに立つ神宮寺は、張り詰めた空気を肌で感じながら、タブレット端末を握りしめている。

「EQT(アース・クェイク・トーナメント)の日本開催が決まった」

 門脇が静かに告げた。声は低いが、有無を言わせぬ重みがあった。その情報自体は神宮寺も把握していた。だが、門脇の口から発せられると、まるで避けられぬ運命の宣告のように響く。

「世界中の若手レスラーが集う祭典……それが日本で行われる。ならば、うちも相応の“目玉”を用意せねばならん。ノワール・ゲートの名を、一気に世界へ叩きつける好機だ」

 ゆっくりと振り返った門脇の眼光が、鋭く神宮寺を射抜いた。

「そこでだ、神宮寺。私は──英国マットの若き女王を興行に招くことに決めた」

 その名が落ちた瞬間、神宮寺の心臓が大きく跳ねた。握っていたタブレットが、わずかに軋む。

「……まさか、本当に呼ぶつもりですか?」

 声には、抑えきれない震えが混じっていた。英国のローラ。その名は、神宮寺のデータバンクの中でも最も危険なカテゴリーに分類されている。

「ローラ・ザ・チャージ。若手でありながら完成度は群を抜き、開催前からEQTの優勝候補になるだろうと目される存在だ。その彼女を、我々のリングに上げる。これ以上の話題性はあるまい」

 門脇は満足げに笑みを浮かべた。だが神宮寺には、その笑みが飢えた獣が獲物を前にした時のそれにしか見えなかった。

「……リスクが、高すぎるように思えますね」

 神宮寺は眉を顰め、意を決して言葉を絞り出した。

「確かに、彼女を呼べば、世界的な注目は集まるでしょう。しかし、相手はあのローラです。勝利、あるいは善戦敗北ならまだしも……万が一、完敗、惨敗という結果になれば、ノワール・ゲートのブランド……ジェニーのエースとしての価値に、根底から疑いをもたれる危険性があります」

 門脇は、神宮寺の言葉を遮るように、鼻で笑った。

「神宮寺、お前の情報収集能力は評価している。プレゼン能力もな。経済界出身の私から見て、そちらでも十分活躍できると保障する程にだ」

 門脇は立ち上がり、ゆっくりと神宮寺へ歩み寄った。その圧の強さに、神宮寺は思わず一歩、後ずさりしそうになる。

「だが……オーナーの為……いや、失礼。だが、この団体の代表取締役であり、最終的な決定権を持っているのは、この私だ」

 門脇の声から、温度が消えた。そこにあったのは、純粋な権力の行使だけだった。神宮寺は、以前から薄々感じていた。オーナーの話題が絡むと、この男の温度は明らかに変わる──何かを言われたのか、それとも期待に応えようと過剰に張り切っているのか。いずれにせよ、そこには神宮寺の集められる情報の範囲にない「別の力学」が働いている気配があった。

「再考を、検討願います」

 だが神宮寺は、それでも必死に食い下がった。

「僕が提出したローラのデータは、一年半前のものだ。彼女が本気で戦ったと思える試合は、ファフニール戦が最後。それ以降、彼女への挑戦者はすべて、ナンバー2となった邪竜が潰している。ローラ本人の上限値は、あくまでただの予想値でしかないんです。彼女が、この一年半で、どう化けたか、誰にも分からない」

 門脇は、神宮寺の必死の訴えを、冷ややかな視線で一蹴した。

「フン、女王が守りに入っているなら、ジェニーの勢いで食えるかもしれん、ということでもある。慎重なのは美徳だが、お前は先の御子柴戦で恥をかいてから、いささか萎縮しすぎているように思えるな」

「なっ……!?」

 御子柴戦──神宮寺にとって、それは苦い敗北の記憶だった。門脇は、その古傷を抉ることで、神宮寺の反論を封じ込めようとしている。

「とにかく、これは決定事項だ。既に英国側とは話がついている。太平プロレスの宮川三郎太に一勝一敗というだけでは、箔が足りん。世界を相手にするには、時にはチャレンジも必要なのだよ、神宮寺」

 門脇はデスクへ戻り、再び窓外へ視線を向けた。それは、会話の打ち切りを意味していた。

「……承知しました」

 神宮寺は、絞り出すような声でそう言うと、深く一礼し、代表室を後にした。背後で重厚なドアが閉まる音が、神宮寺の胸の奥に、鈍く響いた。

 

 施設の地下階にあるトレーニングルームは、代表室の洗練された雰囲気とは対照的に、鉄と汗の匂いが立ち込めていた。巨大な空間には最新鋭のトレーニングマシンが並び、数人の練習生が黙々と肉体を鍛えている。神宮寺はフィットネスバイクにまたがり、ペダルを漕ぎながら、ハンドルに固定したタブレット端末を見つめていた。液晶画面には、無数のデータが目まぐるしく流れている。

「……異常だ」

 神宮寺は独白を漏らした。ペダルを踏む足に力がこもり、額から落ちた汗がタブレットの画面に散った。

「たった一年半の間に、英国マットで引退したレスラーは、二十人を超える。ベテランから若手まで……あまりに不自然だ。……怪我か? それとも……心が折れたのか」

 神宮寺が分析していたのは、知人から送られてきた英国マットの動向だった。英国内部から見てもローラ・ザ・チャージが台頭し始めてから、不可解なデータが積み重なる一方なのがそこから伝わってくる。

「ジェニーに、何か言っても……無駄だろうな」

 神宮寺は、ノワール・ゲートの若手エースであるジェニーの顔を思い浮かべた。天真爛漫で、プロレスを「遊び」としてとらえる彼女に、データに基づいた警告など馬の耳に念仏だろう。せいぜい、楽しいゲームの強敵の攻略法程度に頭の片隅へ残れば御の字と言うところか。

「それでも一応、空中殺法を控えるようには言っておくか……」

 神宮寺はタブレットの画面をスワイプし、ローラの戦闘データを呼び出した。『フライング・キラー』の異名がいかにしてついたのか──概要こそ残っているが、映像は少なく、不特定多数の個人が所有しているデータにまで手を伸ばすには、あまりにも調査時間が足りない。

「こういう不確かな言葉は、使いたくないが」

 神宮寺はペダルを漕ぐ足を止め、深く息を吐いた。

「どうも、嫌な予感がしてならない」

 その予感は、データに基づくものというより、データが示す「空白」に対する本能的な恐怖だった。ローラ・ザ・チャージという存在の真の恐ろしさ──それは数字では決して推し量れない、精神的な蹂躙にあるのではないか。神宮寺は、そう感じていた。タブレットを閉じ、フィットネスバイクから降りる。フリーウエイトのエリアへ向かおうと、神宮寺は歩き出した。

 その背後──薄暗い廊下の奥に、雨宮月が立っていた。ボーイッシュな短髪、澄んだ瞳。だがその瞳には、感情の色が一切浮かんでいない。そして、いつもの明るい表情とは似ても似つかない、無機質な視線が神宮寺を射抜いていた。月は、神宮寺の独白を静かに聞き終えると、気取られる前に、音もなく身を翻す。

 神宮寺が振り返ることはなかった。月の姿は、すでに廊下の闇へと溶けていた。残されたのは、神宮寺と、トレーニングルームに漂う鉄の匂い──そして、拭い去れない不穏な予感だけだった。

 

────────────────────

 

 ノワール・ゲートの興行が行われる巨大なアリーナは、従来のプロレス興行が持つ熱狂や喧騒とは一線を画す、異質で冷ややかな熱気に包まれていた。会場を埋め尽くす観客たちの多くは、リングに向けて声を張り上げることはない。彼らの視線は、熱い戦いが繰り広げられる四角いジャングルと、手元で青白い光を放つスマートフォンやタブレット端末との間を、せわしなく往復している。ノワール・ゲートが推し進める「データ配信を前提とした興行」の象徴的な光景であった。観客はリアルタイムで更新される選手情報、技の威力数値、過去の対戦成績から導き出された勝率予測、そしてコメントなどを手元で確認しながら、目の前の肉弾戦を「分析」して楽しむのだ。会場全体が、静かなる興奮に満ちた巨大な実験室のような様相を呈している。すり鉢状の客席の頭上、アリーナの中央に吊り下げられた巨大な四面オーロラビジョンが、不意に光を放ち始めた。重低音の効いたBGMが会場を震わせ、データ分析に没頭していた観客たちの顔を一斉に上げさせる。

 ビジョンに映し出されたのは、ノワール・ゲートの象徴たる漆黒の門のCG映像。それが重々しい音を立てて開くと同時に、画面の右下に小さなワイプ窓が出現した。そこに映るのは、ノワール・ゲートの公式配信の専任実況者、ジム・コマンドロスの姿だ。暗闇の中で鋭く光る彼の双眸が、静かに会場の隅々までを見渡しているようだ。そのワイプ映像を背に、会場のスピーカーから、そして世界中へ配信されているネットワークの回線を通して、張りのある声が響き渡る。

『「ノワール・ゲート」へようこそ……野心が闇を歩く場所です』

 団体のキャッチコピーであるその言葉が、観客たちの背筋に心地よい緊張を走らせる。リングを取り囲む照明が落とされ、中央のキャンバスだけがスポットライトによって白く浮かび上がった。

『そして、国際配信をご覧の皆さま、今晩は。此度の試合からご覧になる方の為に改めてご紹介しましょう』

 実況アナウンサーの声は、興奮を隠しきれないように一段と熱を帯びた。

『本日は特別に、あの世界大会──ECT(アース・クラッシュ・トーナメント)での優勝経験もあり、プロレス、そしてアーチェリーの歴史に数々の輝かしい栄光を残し、今は後進の指導にあたるスイスの英雄たる元プロレスラーにして元アーチャー、アーチェリー・ウィリアムス氏をゲスト解説にお迎えしています。Mr.ウィリアムス、よろしくお願いします』

 オーロラビジョンの映像が切り替わり、解説席の様子が映し出された。そこには、上品なスーツに身を包み、銀縁眼鏡をかけた紳士が座っていた。かつてリングの上で、そしてアーチェリーの射撃で、世界中のファンを熱狂させたスイスの英雄、アーチェリー・ウィリアムスである。

『どうも、アーチェリー・ウィリアムスです』

 ウィリアムスの声は、穏やかで深みのあるものだった。彼は手元のモニター群と、客席で光る無数のタブレットの光を見渡し、静かに微笑んだ。

『日本マット界も時代と共に変遷を遂げているようだ。データ配信に、映像を介しての解説……。まさかこういう形で、再びこの国のプロレスに関わる事になろうとは、日本で開催されたECTのために来日したころには思いもしなかったよ』

 その言葉には、過ぎ去った激動の時代へのノスタルジーと、目の前で展開される新しいプロレスの形への純粋な驚きが入り交じっていた。

『世界最高の眼を持つと称された、Mr.ウィリアムスから語られる「リング上のビジョン」は、いかなるものか。それを世界中のファンと共有出来ると思うと、私自身、非常に感慨があります』

 実況が畏敬の念を込めて言うと、ウィリアムスは照れ隠しのように眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

『買いかぶり過ぎだよ。今の私は、弱視でこの眼鏡に頼る日々だ。私の言葉は、ほどほどに差っ引いて聞いてくれ』

 謙遜する英雄の言葉に、和やかな空気が流れる。だが、その直後、オーロラビジョンに映し出された事前収録のVTRが、会場の空気を一変させた。画面に大写しになったのは、本日のメインイベントに登場する二人のレスラー。英国マットの女王ローラ・ザ・チャージと、ノワール・ゲートの太陽たるジェニーだった。

『ジャップ相手じゃ、大した試合にはなりそうもないわね』

 インタビュアーのカメラに向かって、ローラは冷ややかな、そして見下すような視線を投げかけた。その端正な顔立ちには、一切の感情が読み取れない。ただ、己の圧倒的な実力への絶対的な自信と、対戦相手に対する無関心だけが張り付いている。血も凍るような女王の風格だった。対するジェニーは、ローラの挑発的な言葉を意に介する様子もなく、カメラの前で無邪気に跳ね回っていた。

『あは! ボク、プロレスが大好き』

 ジェニーの笑顔は、暗いアリーナに咲いた向日葵のように明るかった。彼女にとってリングは戦場ではなく、遊園地なのだ。

『勝つのも楽しいけど、試合が終わっちゃうのが一番もったいないって思うんだ。ねえ、英国の女王様。ボクと最高に楽しい遊びをしようよ!』

 ジェニーは屈託のない笑顔で、ローラに向けて指を突き出した。悪意の欠片もない、純粋なプロレスへの愛と闘争心。しかし、その言葉を聞いたローラの片眉が、ピクリと動いた。

『楽しい遊び……?』

 ローラの声のトーンが、さらに一段低くなった。薄い唇の端が、三日月のように歪む。

『フッ、遊び、ね……』

 その嘲笑には、底知れぬ残酷さが孕んでいた。彼女にとって、真剣勝負を「遊び」と称するジェニーの存在は、あるいは自身の絶対的な支配を汚す不快な異物として映ったのかもしれない。

『??』

 ローラから発せられた濃厚な敵意の意味を理解できず、ジェニーはきょとんと首を傾げた。噛み合わない二人の対峙。その不気味な温度差に、会場の観客たちも固唾を呑んでビジョンを見上げている。神宮寺が抱いていた「嫌な予感」が、映像という形をとって会場全体に伝染していくようだった。

 不穏な空気を断ち切るように、実況アナウンサーが声を張り上げた。

『さて、メインイベントの前に、ここまでの試合を簡単に振り返りましょう』

 オーロラビジョンの映像が切り替わり、第一試合のハイライトシーンが再生される。

『第一試合は女子同士のシングルマッチ。招待選手である「怪物で花嫁」エミリ・ディ・ヴァイスブラウドを、「ノワール・ゲート」のアイドルレスラー、羽衣玲が迎え撃ちました』

 画面には、ウェディングドレスや包帯を思わせる純白のコスチュームに身を包んだ小柄な少女、エミリの姿が映し出される。しかし、その可憐な容姿とは裏腹に、彼女の戦いぶりはまさに「怪物」であった。

『ご覧ください、この規格外のパワー。羽衣玲が、強烈なストマッククローに苦しめられます』

 映像の中で、エミリの小さな手が羽衣の腹部に深々と食い込んでいる。羽衣の顔が苦痛に歪み、悲鳴がマイクを通して会場に響く。容赦のない、そして荒削りな暴力。観客のタブレットには、羽衣の急激なスタミナ低下を示す赤いアラートが点滅していたはずだ。

『しかし、ノワール・ゲートの意地を見せ、羽衣玲が起死回生のフェニックス・スプラッシュ。彼女は見事に逆転勝利を収めました』

 悶絶しながらも一瞬の隙を突き、コーナーポスト最上段から夜空を舞う火の鳥のように美しい弧を描いて落下する羽衣玲の姿が大写しになり、スリーカウントを奪う瞬間でハイライト映像は終了した。

『いやはや、恐ろしい新人でした。Mr.ウィリアムス、いかがでしたか?』

 話を振られたウィリアムスは、手元のモニターでエミリの数値を再確認しながら、ゆっくりと頷いた。

『あのドクター・フランケンが育成者になるとは、私も意外だった』

 ウィリアムスは、かつてマット界を席巻したマッドサイエンティストの名を口にした。

『エミリ嬢はデビューしたばかりだそうで、試合の組み立ての拙さや視野の狭さには、確かに難があった。技の入り方も力任せで、洗練されているとは言い難い。だが……』

 ウィリアムスの眼鏡の奥の目が、鋭く光った。弱視であろうとも、本質を見抜く「世界最高の眼」は健在だった。

『あの小柄な体からは信じられないパワフルさと、土壇場で見せた底力には光るものがあった』

 ウィリアムスはマイクに顔を寄せ、静かな、しかし確信に満ちた声で締めくくった。

『フランケンが、彼女をいずれ最高傑作になる逸材と呼ぶのも分かる。肉体と技術が噛み合い、成長すれば……彼女は文字通りの怪物となるに違いない』

 その予言めいた言葉は、これからのノワール・ゲートのリングが、さらなる混沌と予測不能な事態に巻き込まれていくことを暗示しているかのようだった。

 エミリ・ディ・ヴァイスブラウドの圧倒的な力と羽衣玲の逆転劇の余韻が冷めやらぬ中、会場のオーロラビジョンは途切れることなく次の試合のハイライトを映し出した。

『そして、セミファイナルは「ノワール・ゲート」の男子レスラー同士のシングルマッチ。雨宮月に結城蓮が挑む戦いでした』

 実況アナウンサーの声が、再びアリーナに響き渡る。ビジョンには、あの雨宮月の姿があった。ボーイッシュな短髪、可愛らしい情動溢れる表情と澄んだ瞳、そして細身ながらも研ぎ澄まされた刃のような肉体。対する結城蓮は、必死の形相で食らいついているものの、雨宮の冷徹で的確な攻撃の前に防戦一方となっていた。

『終始、雨宮月が優位に立ちまわり、危なげなく勝利を収めましたが……会場内、そして配信の視聴者コメントとも、女性人気の爆発は尋常なものではありません。私も、この困惑と驚きに満ちた熱狂をどう評価すべきか、分からない一戦でした』

 実況の言う通り、試合当時のアリーナの空気は異様だった。データ分析に没頭していたはずの観客席、特に女性客の多くが、タブレットから目を離してリング上の二人に熱視線を送っていたのだ。配信画面の端を流れるコメント欄も、試合内容を賛美する言葉で埋め尽くされていた。

『少女が少年を一方的に叩きのめしたようにしか見えなかったが……あれで男性か……』

 ビデオ通話越しのアーチェリー・ウィリアムスは、呆れたような、しかしどこか感心したような声で呟いた。

『おっと、雨宮君の動きはなかなかのものだった。安定した体幹、無駄のない鋭いキック。なにか、裏打ちする武術の存在を感じる洗練された攻撃だったね。結城君の根性と、土壇場での踏ん張りも健闘と言っていいだろう。だが、どことなく彼の攻撃には躊躇と遠慮を感じた。……まぁ、対戦相手の見た目がアレでは、無理もない話か』

 ウィリアムスは苦笑しながら言葉を継ぐ。

『あの女性人気の過熱ぶりは、ぶっちゃけ貴腐人の……いや、失礼。何でもないよ。何でもないとも。ハハ』

 スイスの英雄が慌てて言葉を濁すという珍しい光景に、一瞬の静寂が落ちるが、百戦錬磨の実況アナウンサーはすぐに気を取り直し、声を張り上げた。

『そして、ファイナル。メインイベントでこの漆黒のリングに降り立つのは、招待選手にして英国マットの至宝、ローラ・ザ・チャージ。そして「ノワール・ゲート」の若きエース、ジェニー・葛葉です。Mr.ウィリアムス、この一戦をどうご覧になりますか?』

 オーロラビジョンには、既に入場済みであり、リング上で向かい合う二人の姿が大写しになった。ピンクとスカイブルーのフリル付きセパレート衣装に身を包み、まるでテーマパークに遊びに来たかのように無邪気な笑みを浮かべるジェニー。対照的に、赤、黄、白の鮮やかなグラデーションカラーのワンピース水着のようなコスチュームを纏い、氷のように冷酷な視線でジェニーを見下ろすローラ。

『ウム……。ローラ嬢の噂は私も聞いている。英国マットを焼け野原に変えた若き紅蓮の女王……』

 ウィリアムスの声が、一段と低く、真剣なものに変わった。

『ジェニー嬢もその天才性で日本マットでは飛びぬけた存在と聞くが、果たしてそれがかの蹂躙の突撃者を阻めるものかどうか、注目していきたいね』

『女王の猛威か、天才の遊戯か。リングの上の空気を支配するのは果たしてどちらなのでしょうか、さぁ、間もなくゴングの時間です』

 実況の言葉と同時に、アリーナ内の照明がすべてリングに集約された。張り詰めた静寂が会場を包み込む。神宮寺は、リングサイドの暗がりに立ち、複雑な表情でジェニーを見つめていた。彼の持つタブレットには、ローラの底知れぬ実力を警戒する物足りないデータ群が不安げに映し出されていた。

 

 カーン!

 

 ゴングの音が、会場内に響き渡った。試合開始の合図だ。

「まずは、ボクの挨拶代わりだよ!」

 ゴングが鳴り終わるや否や、ジェニーが弾かれたように飛び出した。その動きは、天真爛漫な彼女の言葉通り、まるで羽のように軽く、そして矢のように速かった。ピンクと水色のブーツがキャンバスを力強く蹴り、ローラの正面へと猛烈なスピードで走り込む。狙うはスピアーか。誰もがそう思った瞬間、ジェニーは急激にブレーキをかけ、前傾姿勢から一気に両手をマットについた。ハンドスプリングの要領で下半身を跳ね上げ、見事な逆立ちの体勢になる。その信じられないほどの身のこなしとスピードに、観客の目が釘付けになる。ジェニーの足裏が、ローラの脇を締めた構えのちょうど両肘の下にピタリと潜り込んだ。

「えいっ!」

 ジェニーは持ち前の全身のバネを爆発させ、両足裏でローラの腕を強烈に押し上げた。同時に空中で自身の体を鋭く捻り、テコの原理と遠心力を利用して、ローラの体をマット前方へとダブルレッグホイップで放り投げる。ジェニーの天才的な身体能力とプロレスセンスが見事に融合した、華麗なるオープニングアタックだった。ローラの華奢な体が、背中からキャンバスに叩きつけられる。鮮やかな先制攻撃に、会場からどよめきが上がった。しかし、神宮寺の目は戦慄に見開かれていた。投げ飛ばされたはずのローラは、キャンバスに倒れ伏すことなく、その反動を利用するかのように、くるりと後転して即座に立ち上がったのだ。その端正な顔立ちには、苦悶の表情はおろか、驚きの色すら微塵も浮かんでいない。彼女は、ジェニーの技を避けることも、抵抗することもしなかった。ただ、わざと自身の重心をジェニーの技に預け、その威力を、タイミングを、まるでワインのテイスティングでもするかのように、己の肉体をもって「品定め」したのだ。グラデーションのコスチュームについた僅かな埃を払うと、ローラは氷のような視線をジェニーに向けた。

「……ふん。この程度なの?」

 圧倒的な余裕。それは、日本のプロレスを、そしてジェニーの「遊び」を、完全に下に見ている証左である。観客席の空気が、わずかに冷えた。

「むっ!」

 ジェニーの薄紫色の瞳に、微かな苛立ちが走った。彼女にとってプロレスは最高の遊びであり、相手との楽しい対話であるはずだった。しかし、目の前の女は、その対話すら拒絶し、冷酷に値踏みをしている。

「なら今度はこうだっ!」

 ジェニーは再びステップを踏み、今度はタックル気味に低く鋭く踏み込んだ。相手の懐に潜り込み、そのまま肩に担ぎ上げる変形ファイヤーマンズキャリー、「狐火キャリー」。ジェニーの得意技であり、ここから一気にペースを掴むための重要な布石だ。ジェニーの両手が、ローラの腰に伸びる。その初速は、先ほどのダブルレッグホイップをも上回っていた。しかし。

「フッ」

 ローラは、微かに鼻で笑った。ジェニーの指先がローラのコスチュームに触れるか触れないかのその瞬間、ローラは自ら後方へ倒れ込むようにして、ジェニーの突進のベクトルを完全に外した。

「えっ……!?」

 空を切るジェニーの両手。前のめりになった彼女の足元に、絶望的なタイミングでローラの足が振り抜かれた。ローラのレッグスウィープにより、足の甲がジェニーの足首を的確に、そして無慈悲に刈り取る。ジェニーの体は完全に宙に浮き、顔面から無様にキャンバスへと突っ伏した。鈍い音が響き、ピンク色のフリル飾りが乱れる。先ほどの華麗な跳躍とは打って変わった、あまりにも一方的な転倒劇だった。

「……初速に対応された!?」

 リングサイドで、神宮寺が思わず声を漏らした。タブレットを握る手に、じっとりと冷や汗が滲む。

(……いや、偶然読みがあたっただけか? ジェニーのあのスピードと変則的な踏み込み。「データ上の予測範囲なら」翻弄できるはずだ。だが、これは……)

 神宮寺の頭脳が、目の前で起きた事象を疑う。ローラは、ジェニーの技を単に「避けた」のではない。ジェニーの動きのすべてを見切り、その力を利用して、最も屈辱的な形で「迎撃」したと見るべきか。キャンバスに倒れ伏すジェニーを見下ろすローラの瞳には、依然として何の感情も宿っていなかった。まるで、羽虫を払い落としたかのような、絶対的な無関心だけがそこにあった。

 痛々しくキャンバスに顔面を叩きつけられたジェニーは、その屈辱に浸る間もなく、持ち前のバネで即座に身体を反転させて距離を取った。相手の圧倒的なプレッシャーを前にしても、彼女の根底にある「遊び」の精神はまだ完全には折れていない。

「あは! すごいや、今のは見えなかった! だけど……まだまだぁっ!」

 ジェニーは立ち上がるや否や、意表を突くようにサードロープを蹴りつけた。その反動を利用し、キャンバスすれすれの低い軌道で矢のように横っ飛びする。狙うはローラの膝。強固な城壁を崩すには、まず土台から破壊するという直感的な判断だった。しかし、低空ドロップキックが完璧なタイミングで命中するかと思われた瞬間、ローラは慌てる素振りすら見せずにスッと自身の膝を持ち上げ、その軌道に翳した。ジェニーの全体重が乗った蹴りは、ローラの脛によって冷酷にガードされる。

「まるで曲芸ね」

 ローラは鼻で笑い飛ばした。

「片脚で完全に威力を殺しきっただと!? ……英国の若き女王はジェニーを『受けてから潰す』つもりか……ッ!」

 リングサイドから戦況を見つめる神宮寺が、戦慄の声を漏らした。タブレットを持つ手が微かに震えている。弾き返された勢いを殺され、その場に不時着したジェニーが体勢を立て直そうとした、まさにその刹那。ローラの腕が、獲物に巻き付く大蛇のようにジェニーの首元を捕らえた。そのまま強引に上から押さえ込み、恐るべき膂力でジェニーの呼吸を奪いにかかる。強烈なフロント・ネックロックだ。ローラの腕が万力のように首を締め上げ、頸動脈と気管を同時に圧迫する。ジェニーの顔から急速に血の気が引き、酸素を求めて口が金魚のようにパクパクと開閉した。彼女の細い指が、ローラの腕を必死に引き剥がそうと掻き毟るが、ローラの体幹は岩のように微動だにしない。ただ冷たく、退屈そうにジェニーが苦しむ様を見下ろしている。「遊び」などという甘い幻想を、純粋な痛みと暴力で削り取っていくような、執拗で重厚な絞め技の継続だった。

「ぐぅぅぅっ……まだ……っ!」

 意識が遠のきかける中、ジェニーの天才的なプロレスセンスが突破口を開いた。力任せの抵抗を諦め、フッと自身の体を沈み込ませて重心を逃がす。同時に、角度をつけて身体をひねり、ローラの強固な腕のロックの隙間、まるで針の穴を通すような抜け道を技術だけで作り出し、ズルリとすり抜けたのだ。

「よし、抜け……」

 マットに這いつくばるようにして腕の下を抜け、新鮮な空気を肺に吸い込もうとしたジェニー。しかし、彼女の安堵は、一瞬にして絶望へと変わった。

「『まだ』何かしら?」

 頭上から降ってきたのは、氷点下の声だった。抜け出したはずのジェニーの腰を、ローラの両手が既にガッチリと捕まえていたのだ。

「がっ……!?」

 ジェニーの体が、意思に反して空中に逆さまに抱え上げられる。ローラは、ジェニーが脱出することすらも計算に入れ、その「逃げ先」で待ち構えるように動いていたのだ。完全に自由を奪われた空中。そこから、ローラは自身の全体重と渾身の力を乗せ、ジェニーをキャンバスへと真っ逆さまに叩きつけた。激しい破裂音がアリーナに轟く。受身も取れない完璧なパワーボム。ジェニーの背中と後頭部がマットに激突し、ピンクと水色のフリルが大きく跳ねた。

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