「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
『フロントネックロックからの脱出、だが逃げおおせるのを許さぬ、あまりに重厚なパワーボム』
ジム・コマンドロスの冷静な語りが、静まり返る観客席に響き渡る。
『これは意思の固定……いいえ、もはや断罪の域です』
オーロラビジョンの端で、概念的な言葉を受け、アーチェリー・ウィリアムスが重々しく頷いた。
『大型モニターの拡大補正のおかげで今の私でも見えた。今のジェニー嬢の脱出は技術的には完璧だった。だがローラ嬢は、その逃げる先を前もって決めていた動きだ。一撃の重さ、落ち着いた対処、安定した重心、迷いのない熾烈。……ベテランレスラーでも、生半可な選手では彼女に叩き潰されるぞ』
『自分を前に「遊ぶ」余裕などない。否定の宣告で心を折る角度でした』
実況の言葉に、ウィリアムスも同意する。
『かつてのECTでもあるいは本戦に残れるかもしれん実力に思える。絶望的な上位者相手にどう立て直すか、ジェニー嬢には未知の苦闘となるだろう』
リング上では、凄まじい衝撃に肺の空気をすべて吐き出し、ジェニーがうつ伏せのまま身悶えしていた。
「う、あ……あ……」
焦点の定まらない目で虚空を見つめるジェニー。そんな彼女に対し、ローラは追撃を急ぐことなく、優雅な足取りで悠然と歩み寄った。そして、キャンバスに這いつくばるジェニーのブロンドの髪を無造作に掴み、強引に上半身を引き起こす。
「ハァーン♪ これで終わりじゃ客が悲しむでしょう? 立ちなさい、ジャップ・ガール」
それは、プロレスラーとしての尊厳を踏みにじるような、残酷な挑発だった。しかし、その屈辱的な痛みが、逆にジェニーの中の何かのスイッチを弾き飛ばした。朦朧としていた彼女の薄紫色の瞳――ライラック・アイに、突如として異様な光が宿る。過去の強敵との試合でも見せた、極度の集中状態、「トランス状態」への突入だった。ジェニーは、髪を引っ張り上げようとするローラの力を逆利用した。ゴムまりのように一気に跳ね起きると、掴まれていた手を強引に振りほどき、面食らったローラの眼前に、満面の、しかしどこか狂気を孕んだ笑顔を突きつける。
「……あは♪」
「!? ……ぐ、ぅ……ッ!?」
何が起きたのか理解する間もなく、ジェニーはローラに背を向けるように鋭く身体をひねり、その遠心力を乗せた足の甲を、ローラの首筋に正確に叩き込んだ。完璧な延髄斬りだった。予想外の反撃と脳を揺らす衝撃に、さしもの女王もたまらず膝をつく。
「コンボ開始だぁ!」
トランス状態に突入したジェニーは、自身の全身のダメージすら忘却したかのように、歓喜の声を上げて追撃に出た。膝をついているローラの立て膝を踏み台にして、一気に宙へ舞い上がる。そのままもう片方の膝を、ローラの美しい顔面へと容赦なく突き出した。シャイニング・ウィザードだ。
「……ちっ!?」
だが、ローラはただの案山子ではない。顔面を砕かれんとするその刹那、咄嗟に両手の手のひらを顔の前に差し込み、ジェニーの膝の直撃を防いだ。強烈な衝撃がローラの腕を伝い、ダメージを軽減したとはいえ、その威力にさすがのローラの体もキャンバスに転がった。だが、その瞳に宿る冷徹な光は、微塵も揺らいでいない。一方、膝を打ち込んだジェニーは、着地と同時に次なる動きへと移行している。その薄紫色の瞳――ライラック・アイは、トランス状態特有の異様な輝きを放ち、彼女の脳内ではリアルタイムで変化するリング上の情景が、無数の「遊びの選択肢」として処理されていた。全身を駆け巡る激痛。パワーボムで叩きつけられた背中の痺れ。それらすべてを、今のジェニーは精神の深層へと押し込み、純粋な闘争の快感だけを燃料にして動いている。
「あはは! まだまだ、これからだよぉっ!」
ジェニーは跳ねるようなステップで、迷うことなくコーナーポストへと駆け上がった。通常のレスラーであれば、ローラの反撃を警戒し、あるいは自身の呼吸を整える場面だ。しかし、今の彼女に躊躇という文字はない。最上段のターンバックルに飛び乗った瞬間、ジェニーの視界には、マットから立ち上がろうとするローラの姿が、巨大な標的として固定された。
「これで……ッ!」
ジェニーの体が、アリーナの眩い照明を背に受けて宙を舞った。ダイビング・ボディプレス。その小柄な全身を、重力に従ってローラへと浴びせかける。空気抵抗を最小限に抑え、一点に全エネルギーを集中させたその落下軌道は、まさに天才の名に相応しい美しさを持っていた。しかし、その「美しき軌道」こそが、ローラ・ザ・チャージという名の死神にとっては、最も御しやすい餌に過ぎなかった。立ち上がりかけのローラが、降下してくるジェニーを真っ向から見上げた。その唇に、残酷な弧が描かれる。彼女は逃げることも、縮こまることもしなかった。逆に、自らその落下地点へと踏み込み、無防備に開かれたジェニーの胴体を、鋼鉄のような両腕でガッチリと受け止めたのだ。
「撃ち落としてあげるわ」
ローラの呟きは、落下に伴う風切り音の中でも、ジェニーの耳にハッキリと届いた。ローラはジェニーの体重と落下の慣性、そのすべてを自身の肉体で受け止め、瞬時にそれを「投擲のエネルギー」へと変換した。自身のパワーをさらに上乗せし、ジェニーの体を抱え込んだまま、螺旋を描くように一気にマットへ叩きつける。この信じがたい技は英国で「対空砲火パワースラム」と呼ばれていた。
リングそのものが揺れるほどの衝撃。ジェニーの背中が、逃げ場のないキャンバスに激しく打ち付けられた。先ほどのパワーボムをも凌駕する重圧に、ジェニーの視界が白く染まり、ライラック・アイの輝きが激しく明滅する。
「……ッ!?」
声にならない悲鳴が、ジェニーの喉から漏れる。
「……軌道を完全に……ッ!? ……これが、データにあった『フライング・キラー』か……!」
リングサイドの神宮寺は戦慄に唇を噛んだ。軌道を読める者はいるだろう、受け止める者も、受けて返せる者もあるいはいるかもしれない。だが、威力にそのまま自らの腕力を加算して叩きつけるなどという瞬間を狙って引き出せる者が……それを当然のように行える者が居るのか?
『ジェニー・葛葉のライラック・アイが輝いている、過去の試合でも見せたトランス状態です。しかし、その上で放たれたダイビング・ボディプレスすら撃ち落としました』
ジム・コマンドロスの声が、興奮と困惑をないまぜにしてアリーナへ響く。観客席は息を呑んだまま、誰一人として声を発せない。
『これは単なる迎撃ではありません。空中という選択肢そのものを否定する……いわば「軌道の支配」です』
リング中央では、叩きつけられたジェニーが微動だにせず倒れ伏している。ローラはその横で、まるで何事もなかったかのように静かに呼吸を整えていた。
『私が見てきたどのヘビー級選手よりも重いパワースラムだった……』
アーチェリー・ウィリアムスが、マイク越しに息を呑む音を漏らす。彼の視線はローラの動きから一瞬たりとも離れない。
『迷い無き最大火力を、そのまま自滅のエネルギーへと変換し、さらに自己の力を加算したのだ。軌道を読む目、受け止める体幹、タイミングを完全にあわせるカン、そしてもちろんパワー……。すべてが極限まで揃っていないと出来ない芸当だ。悔しいが……全盛期の私でも、同じことはできないだろう』
ローラは倒れたジェニーを見下ろしながら、わずかに顎を上げた。その瞳には、勝利の確信でも高揚でもなく、ただ「当然」という静かな色だけが宿っている。
『世界最高の眼を持つMr.ウィリアムスをして、そこまで言わしめますか……。しかし、ご謙遜を。貴方ならば、射抜くように迎撃、もしくは避ければ済む話だ。ですが……』
ジム・コマンドロスは、リング上の光景を凝視したまま言葉を続ける。
『ですが、これは「飛ぶことそのものへの拒絶」という概念です。飛ぶものは堕ちる、その恐怖を語っています』
ジェニーは背中を痙攣させながら、かすかに指先を動かした。だが、立ち上がるには程遠い。
『ジェニー嬢は今、自分が遊んでいた場所がどれほど高い崖の上だったかを、叩きつけられてようやく理解したのだろう』
ウィリアムスの声には、同情と、そしてわずかな敬意が混じっていた。
『……天才肌の彼女にとって、この心的衝撃は致命的かもしれないな』
マットの上で、ジェニーは必死に意識を繋ぎ止めていた。酸素が足りない。思考がまとまらない。ついさっきまで「楽しい遊び」の延長にいたはずなのに、いまは体中が焼けつくように熱く、鉛のように重い。ローラが、朦朧とするジェニーの腕を乱暴に掴み、ずるりと引きずり上げる。その仕草は、壊れかけた玩具を片付けるような、情の欠片もない動きだった。
「う、うぅぅッ!」
本能だけが、ジェニーの身体を動かした。立ち上がらされる勢いを逆手に取り、残された力のすべてを一点に集中させる。ローラの鳩尾へ、頭突き――ヘッドバットが突き刺さった。ドスッ、と鈍い音が響く。
「くっ……往生際が悪いわね」
不意を突かれたローラが、わずかに顔を顰めてジェニーの腕を放す。しかし、その衝撃はローラにとって「痛み」と呼ぶにはあまりに軽い。ジェニーはよろめきながらロープへ手を伸ばした。視界は二重にも三重にも揺れ、立っているのが奇跡のような状態。それでも、彼女のトランス状態はまだ完全には解けていない。
(……まだ、まだ飛べる。ボクは、鳥みたいに、どこにだって……!)
ジェニーはセカンドロープに飛び乗り、そのままトップロープを蹴り上げた。スワンダイブ式の跳躍。空中で体を一直線に伸ばし、ライダーキックを彷彿とさせる鋭いミサイルキックを放つ。
「何度やっても無駄よ」
ローラの冷ややかな声が、ジェニーの耳元で囁かれたように感じた。ローラは、迫りくるミサイルキックに対し、最小限の動きで「スウェー」を行った。ジェニーの足先が、ローラの首筋の数ミリ横を虚しく通り抜ける。だがローラの動きはそれで終わらなかった。回避と同時にローラは、空中で体勢を崩したジェニーの脇腹目がけて、鋭い膝蹴りを叩き込んだのだ。
「かは……ッ!?」
急所を完璧に撃ち抜かれ、ジェニーの肺から最後の一欠片の空気が吐き出された。トランス状態というブーストが切れたかのように、彼女の目に宿っていた薄紫色の光が急速に失われていく。彼女の体は、翼を折られた小鳥のようにマットへと撃墜され、酸素を求めて痙攣した。
「そ、そんな……!?」
掠れた声で呟くジェニー。信じていた自分の世界が、粉々に砕け散った瞬間だった。
「軌道如何など関係ないとでも言いたげだな……」
神宮寺は既にタブレットを見ていなかった。データと現実の乖離は、彼が危惧した通りに……いやそれをはるかに超えて残酷だった。彼女は、ジェニー・葛葉という天才の「遊び」を、跡形もなく蹂躙しようとしていた。
マットに叩きつけられ、もがき苦しんで起き上がれないジェニー。その薄紫色の瞳から、先ほどまで宿っていた狂気じみた光――ライラック・アイの輝きは完全に消え失せていた。トランス状態によるブーストを失い、堰を切ったように全身の激痛と極度の疲労が彼女の肉体を襲う。
「……!」
それでもジェニーは、震える手でキャンバスを押し、這いつくばるようにしてロープへと向かった。いつもの無邪気な楽しさはどこにもなく、大粒の涙がその目に滲んでいる。
自分のプロレス――最高の「遊び」が、ただの一度も通用しなかったという現実。それをどうしても受け入れられなかった。よろめきながら、満身創痍の体でコーナーポスト脇のサードロープに足をかける。
「まだ、懲りないの?」
背後から、ローラの氷のように冷たい声が響いた。立ち上がり、コーナーへ登っていくジェニーの無防備な背中を、ローラは追撃しようともしない。ただ腕を組み、冷ややかな視線で見上げているだけだった。
「……いいわ、やってみなさい」
それは、死刑囚に最後の言葉を許すような、圧倒的上位者としての傲慢な宣告だった。
「よせ、ジェニー!? 固執するな!」
リングサイドから、神宮寺の悲痛な叫び声が飛ぶ。
「奴には空中殺法そのものがダメなんだ!」
だが、その制止は今のジェニーには届いていなかった。彼女はゆっくりと、まるで重い十字架を背負うように最上段へと登りきる。観客たちも、手元の端末から顔を上げ、困惑と悲観の入り混じった目でリングを見つめていた。
(……いつもと違う)
コーナーポストの上で、ジェニーはぼんやりと、自分の内側で渦巻く感情に向き合っていた。
(いつもは、負けてても楽しいのに……。打たれても、投げられても、次にどうやって驚かせようかって、ワクワクするのに。……今は、ただ痛くて、苦しくて……つらいだけ?)
ジェニーにとって、プロレスはいつだって最高の「遊び」だった。かつて二度戦った太平プロレスの宮川三郎太。恐ろしく強く、ジェニーと互角以上に渡り合い、そして一度は完膚なきまでに叩き潰し、もう一度は完膚なきまでに叩き潰された相手だ。けれど、負けたあの時の痛みには、確かな「熱」があった。三郎太はジェニーの仕掛ける「遊び」を真っ向から受け止め、それを力でねじ伏せることで、同じ土俵で、同じ熱量で対話してくれた。負けて悔しくても、その根底には「次はどうやって驚かせてやろう」という、灯火のような遊び心が残っていた。
しかし、ローラ・ザ・チャージという対戦相手から受ける感覚は、それとは決定的に異なっていた。ローラは、ジェニーの「遊び」に付き合うつもりなど毛頭ない。彼女の攻撃、彼女の動き、彼女の存在そのものを、ただ効率的に排除すべき「無駄」として冷徹に切り捨てている。そこに熱い感情のぶつかり合いはなく、あるのは精密機械のような合理性と、他者を拒絶する冷たい沈黙だけだ。自分をレスラーとして、対戦相手としてすら見ていない。ただの「お遊びの子供」として、無機質な作業のように処理されている――。その事実に気づいた瞬間、ジェニーの心に、これまで経験したことのない鋭い焦燥と、底知れない恐怖が込み上げた。自分を支えていた「プロレスは遊び」という唯一の価値観が、ローラの氷のような視線に晒され、音を立ててひび割れていく。
(遊びじゃ……ボクの遊びだけじゃ、だめなの? これが……真剣勝負? 三郎太は、これをどうやって楽しい真剣勝負だなんて言って……?)
視界が滲む。それが肉体的な苦痛によるものか、それともアイデンティティを砕かれた悲鳴なのか、今の彼女には分からなかった。現実を受け入れられず、ここで自身の最大最高の「遊び」であるシューティングスタープレスを繰り出せば、再び世界に色が戻るのではないか。そんな、子供が壊れた玩具を必死に直そうとするような悲壮な決意で、彼女は笑うことも涙を拭うことも忘れて、コーナーの上に登っていた。
「声が届いていない……!」
神宮寺は焦燥に駆られ、リングの鉄柱を強く叩いた。そして、ハッと息を呑む。
「……あのジェニーから……楽しそうな笑みが、消れている……?」
常に笑顔を絶やさなかったノワール・ゲートの太陽から、光が失われていた。そこにあるのは、未知の恐怖と絶望に怯える、一人の無力な少女の顔だった。ジェニーは、涙で滲む視界の先にいるローラを見下ろした。そして、祈るように、すがるように、最後の跳躍を見せる。
シューティングスタープレス。後方宙返りしながら自身の体を相手に浴びせる、彼女の代名詞とも言える最高難度の空中殺法。しかし、その跳躍には、かつてのような天を駆ける美しさも、躍動感もなかった。
「……キレもなければ、魂も乗ってない」
跳躍するジェニーを見上げ、ローラは心底退屈そうに呟いた。
「もう死に体ね。こんなの、受けて潰すまでもない。勝手に堕ちなさい」
ローラは、文字通り最小限の動き――半歩だけ横にズレるという動作だけで、ジェニーの決死の攻撃を回避した。迎撃すら値しないという、究極の侮辱。
「……が、は……ッ!?」
誰もいない硬いキャンバスに、ジェニーは自らの腹部から激しく激突した。鈍い破裂音が響き、肺の空気が完全に圧し出される。自爆の衝撃で彼女の体はエビのように反り返り、そして力なく崩れ落ちた。
「可哀想だし、終わらせてあげる」
息も絶え絶えのジェニーの首根っこを掴み、ローラは強引に引き起こした。もはや抵抗する力など微塵も残っていないジェニーの体を、ローラは背後からガッチリと抱え込む。
「ぁ……ぁぁ……」
うわ言のように漏れるジェニーの声を断ち切るように、ローラはジャーマン・スープレックスを放った。美しい弧を描いて後方へ投げ捨てられるジェニー。しかし、休む間もなくローラは再びジェニーを捕らえたまま立ち上がり、ドラゴン・スープレックスを容赦なく叩き込む。
そして、間髪入れずに三本目。完璧なブリッジと共にタイガー・スープレックスでジェニーの体をキャンバスに固定する――ローラの必殺技(フェイバリット)、トリコロール・スープレックス。三色の美しい放物線を描く、文字通りの残酷な芸術だった。
レフェリーが慌ててマットを叩く。しかし、完全に意識を失い、ピクリとも動かないジェニーに、肩を上げる力などあろうはずがない。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
『……スリーカウント。終わりました』
アリーナの空気を切り裂くように、実況のジム・コマンドロスの声が響いた。
『見事な三色のスープレックスの前に、「ノワール・ゲート」の天狐は沈む。彼女はついに女王に土をつけることは叶いませんでした。これは単なる勝敗ではありません。圧倒的な「価値の断絶」を見せつける終幕です』
ゴングが連打される中、ローラはゆっくりと立ち上がった。軽い運動をしたとでも言うかのような涼しい顔で、足元に転がるジェニーを見下ろす。
「お遊びにしては、まぁまぁだったわ。……お遊びの域は出ないけどね」
誰に聞かせるでもなくそう言い捨てると、女王は一切の未練を見せずに、悠然と背を向けてリングを降りていった。
「……前提情報がここまでかけ離れていては、計算もクソもない」
リングサイドで、神宮寺は握りしめていたタブレットを、怒りと無力感のままに足元のコンクリートへ叩きつけた。液晶画面が蜘蛛の巣状にひび割れる。
「これが……ローラ・ザ・チャージか……!」
『……実力差も確かにあった。しかし……』
オーロラビジョンの端で、アーチェリー・ウィリアムスが重い口を開いた。
『ジェニー嬢は最後、自分の足場も、自分の信じるプロレスすらも見失っていた。いや……ローラ嬢に、根こそぎ奪われたのだ。合理性という名の、身も蓋もない暴力によってね』
『お遊びの域は出ない、と言い放ちリングを去るその姿は、女王の哲学をまさに背中で語っています』
実況のジム・コマンドロスが、ローラの退場していく姿をカメラで追いながら言った。
『……Mr.ウィリアムス、彼女はここから、再び歩き出すことができるでしょうか?』
ウィリアムスは、担架に乗せられて運ばれていくジェニーの姿を、モニター越しに静かに見つめていた。
『……彼女の瞳から色が消えていた。敗北以上の痛みだろう。だが、もし地べたを這いずってでも立ち上がろうとするなら……』
ウィリアムスの声に、微かな熱が帯びる。
『それはもはや「遊び」ではない、真のレスラーとしての産声になる。後は彼女次第だ』
かつての英雄の言葉が、アリーナの静寂に深く染み渡っていく。
『……そして、来たるべきEQT(アース・クェイク・トーナメント)、ローラ嬢は大嵐の中心になるだろう。ジェニー嬢も、日本勢も、そして私の姪も、活躍を期待したいね』
ウィリアムスの言葉の最後で、不意に実況席の空気が緩んだ。
『……さりげなく宣伝ですか、Mr.ウィリアムス』
『失敬な。……純粋な、応援だよ』
スイスの英雄は、画面の向こうで眼鏡のブリッジを押し上げ、小さく笑った。
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ノワール・ゲートの地下トレーニングルームには、重い静寂と、規則的な息遣いだけが響いていた。最新鋭のマシンが並ぶエリアの奥、青いマットが敷かれたフリースペースで、一人の少女が黙々と汗を流している。ジェニー・葛葉だ。かつてリングの上を妖精のように跳ね回り、プロレスを最高の「遊び」と称してはばからなかった天才少女の姿は、今の彼女からは想像もつかなかった。現在の彼女が身に纏っているのは、ノワール・ゲートの団体マークが胸に大きくプリントされた、黒を基調とする無骨なラッシュガードとファイトショーツ。体に密着した漆黒の生地は、彼女が流す大量の汗を吸って、さらに深い闇の色へと沈んでいた。
ジェニーはマットの上に仰向けになり、首の力だけで全身を支えるブリッジの姿勢を維持していた。レスラーにとって最も基礎的であり、同時に最も過酷で地味な首のトレーニングだ。悲鳴を上げる筋肉の痛みに耐えかねて、彼女の口から苦悶の息が漏れる。額から滴り落ちた汗が、マットに小さな染みを作っていった。彼女の脳裏には、まだあの日の敗北の記憶が鮮明に焼き付いていた。英国マットの女王、ローラ・ザ・チャージ。冷徹な視線、一切の感情を排した合理的な暴力、そしてジェニーの「遊び」を真っ向から否定し、心をへし折ったあの冷たい宣告。自分の信じていた世界が音を立てて崩れ去る、あの絶望的な感覚。
同時に、ジェニーはもう一人の強敵の顔を思い出していた。太平プロレスの宮川三郎太。彼もまた、ジェニーを力でねじ伏せた存在だ。しかし、三郎太との戦いには、血が沸き立つような熱があった。彼はジェニーの遊びに付き合い、正面から受け止め、その上で凌駕してみせた。ローラの圧倒的な冷たさと、三郎太の火傷しそうなほどの熱。二つの敗北が、ジェニーの中で激しく交錯し、新たな感情を生み出していた。それは単なる悔しさではない。自分のまだ知らない、もっと深くて、もっと痛くて、もっと途方もなく「楽しい」世界が、あの底知れぬ深淵の先にあるのではないかという、純粋な探求心だった。
「……ふぅっ!」
限界まで首を痛めつけた後、ジェニーは大きく息を吐いてマットに背中をつけた。そのまま大の字になり、天井の無機質な蛍光灯を見つめる。
「君がジムで基礎練とは珍しい。天性と才覚頼りで、地道な努力と修練とは無縁かと思ったが」
不意に、マットの傍らから声が降ってきた。ゆっくりと首を巡らせると、そこには新調したばかりのタブレット端末を片手に持った神宮寺が立っていた。彼もまた、ジェニーと同じ黒基調のラッシュガードとファイトショーツ姿である。その整った顔立ちには、いつもの皮肉めいた笑みではなく、純粋な驚きと、観察者としての鋭い光が浮かんでいた。
神宮寺の言う通りだった。これまでのジェニーは、気の向くままにリングで飛び跳ね、天性のバネと直感だけであらゆる技を自分のものにしてきた。彼女にとって練習とは、新しい遊びを思いつくための思いつきの実験場に過ぎず、今日のように限界まで肉体を苛め抜くような地道な基礎トレーニングなど、暇つぶし程度の適当さでしかこなしてこなかった。
ジェニーはゆっくりと上体を起こし、乱れたブロンドのショートボブを無造作に掻き上げた。その薄紫色の瞳が、神宮寺を真っ直ぐに射抜く。かつての無邪気で浮世離れしただけの光とは違う、重く、強い意志の炎がそこには宿っていた。
「……ボクのまだ知らない楽しさには、こういうのも必要だと分かったから」
ジェニーの声は、ひどく落ち着いていた。強がりでも、諦めでもない。自らの現在地を正確に測り、果てしなく高い頂を見据える者の、静かな決意の言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、神宮寺は息を呑み、そして自身の内側で密かに安堵の息を漏らした。
(門脇は判断を誤ったかと放心していたが……あるいはこの判断、長期的にはプラスになるかもしれないな)
神宮寺は、内心でそう独白した。あの日、ローラ・ザ・チャージの圧倒的な蹂躙劇を目の当たりにした門脇代表取締役は、自らが招いた「目玉イベント」によって団体のエースが再起不能に陥るかもしれないという恐怖に、代表室で頭を抱えていた。下がった評価などは挽回の余地があるが、当の本人が折れてしまえばどうしようもない。神宮寺自身も、ジェニーの心が完全に折れてしまったのではないかと危惧していたのだ。
しかし、ジェニーは終わっていなかった。女王に完膚なきまでに叩き潰され、自身の「遊び」というアイデンティティを根底から否定されたことで、彼女は初めて狭い遊園地ではなく、その外の世界へと目を向けたのだ。
来たるべき世界大会、EQT(アース・クェイク・トーナメント)。デビュー五年以内の若手や軽量級に限定された、次世代の世界一を決めるその過酷な祭典には、間違いなくあのローラ・ザ・チャージが待ち受けている。そして、太平プロレスの宮川三郎太も。
彼らと再び相見え、その遥か高みにある世界に届くためには、これまでの「天性」という羽だけに頼るのではなく、「努力」という強靭な足腰を手に入れなければならない。ジェニーは本能でそれを悟り、自ら進んで地獄のような修練へと足を踏み入れたのだ。神宮寺は、頼もしさと同時に、どこか末恐ろしさすら感じていた。この底知れぬ才能を持つ少女が、泥臭い努力の術まで身につけたら、一体どんな怪物へと成長するのだろうか、と。
「あと、地味な関節技とか、教えてほしい」
ジェニーは、胡坐をかいたまま神宮寺を見上げ、とんでもない提案を口にした。
「代わりにおっぱい揉んでもいいよ?」
神宮寺の端正な顔が、信じられないものを見るように引きつる。ジェニーは、黒いラッシュガードの上からでも分かる自身の胸をポンと叩き、至って真面目な顔で神宮寺を見つめ返している。
「……僕をなんだと思ってるんだ、君は」
神宮寺は、何とも言えない表情でこの幼い精神性の天才へ胡乱な視線を向ける。
「性悪陰険ナンパ赤ちゃん」
だが、ジェニーは、一切の淀みなく言い放った。どうやら試合中の女子レスラーへのセクハラ染みた所作を、敢えて心理戦術として好んで多用するこの邪悪な知恵者の姿は、彼女には母性を求める赤子のように見えていたらしい。それは神宮寺にとって、変態と罵られるよりもよほど羞恥を誘う表現だった。まるで神宮寺の方がセクハラでも受けたかのように、頬を朱に染める。
「人にモノを頼む態度ではないな!」
侮辱に対する激昂か、はたまた照れ隠しか。神宮寺の怒号が、地下トレーニングルームの冷たいコンクリートの壁に虚しく反響した。
どれほど打ちのめされようと、どれほど高い壁に阻まれようと、彼女の根底にある明るさと、予測不可能な奔放さは失われていない。それさえあれば、ジェニー・葛葉は何度でも立ち上がれる。EQT開幕まで、刻一刻と時間は迫っている。天才少女の地道な特訓は、まだ始まったばかりだった。