「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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番外特別試合(オトギプロレスリング、非公式試合):無観客シングルマッチ「ブラックモモタロウVSエディ・ダンテス」前編

 東北南部を拠点とするローカルプロレス団体「オトギプロレスリング」の、遠征で無人のはずの道場兼事務所建屋。そのさらに奥にひっそりと佇む練習用リングホールは、深い夜の静寂に支配されていた。観客の熱狂も、実況の叫び声もない深夜のリングを満たしているのは、天井のLED照明の冷たい輝きと、踏み込むたびに軋むマットの無骨な音だけである。ここは、誰の記録にも残らない、そして誰の目にも触れてはならない無観客の特別試合の舞台であった。

 一方のコーナーに立つ男は、かつて「太平プロレス」の看板を背負い、日本マット界で話題の中心となった伝説の男であった。三年前に激突したヤマトタケルとの死闘の末、全身の腱損傷というレスラーとして致命的な傷を負い、表舞台から姿を消した失踪中の身である。しかし今、彼は正体を隠し、謎の覆面レスラー「ブラック・モモタロウ」として再び四角いジャングルに舞い戻っていた。黒髪を高い位置で結い上げた髷、額の中央に桃の紋章が描かれた鉢巻き、そして目元を鋭く覆う翼を広げたような形状の黒と青に塗られたマスクが、かつての陽気な素顔を隠している。身長187センチ、体重102キロという圧倒的な筋肉の鎧は、腰回りに鋭角なラインが走るグレーのタイツと、重厚な青のレガースに包まれていた。

 彼が無理を押してまでリングに上がった理由はただ一つ。自分を狙って襲来した白鬼ベスを迎撃したことで、不本意にも騒動の中心となってしまった弟分、三郎太の現状とレスラーとしての成長を密かに確かめるためであった。先日の試合で、オトギプロの王者であるエディの協力を得て、本物である自分自身が「偽物のブラック・モモタロウ」のフリをしてリングに上がるという奇策を用いたものの、その代償は彼の想像以上に重い。たった一戦を終えただけで、彼の肉体は内側から悲鳴を上げていたのである。失踪前の最後の大一番で負った全身の負傷は、数年の月日が流れた今でも決して完治してはいなかった。

 対する反対側のコーナーに立つのは、この「オトギプロレスリング」の頂点に君臨する団体社長兼トップレスラー、エディ・ダンテスである。身長149センチという非常に小柄で華奢な体躯でありながら、彼女の全身からは想像もつかないほどのすさまじい威圧感が放たれていた。彼女は、かつて母国でフランスマット界の権力者たちの都合に振り回され、彼らに唆されたダングラールによって選手生命の危機に追い込まれた過去を持ち、遠く日本の地でこの団体を設立し、追って来たダングラールを下して復讐を果たした凄絶な経歴の持ち主である。日本に渡ったばかりの頃、太平プロレスの松平馬七や松平林吾に世話になった恩義から、現在、太平プロレスとは友好団体としての関係にあり、それが今回の一幕の役に立っていた。黒を基調とした露出度の高いボディスーツには紫と金のアクセントがあしらわれ、胸元と腹部は大胆にカットアウトされていた。太もものガーターや紫と黒のレースアップブーツが、彼女の洗練された美しさと力強さを際立たせ、銀髪のロングツインテールは、闘気に呼応するようにふわりと揺れた。

「準備はいいか、モモタロウ。……いや、ブラック・モモタロウ。お前の実力、この私が直接確かめさせてもらうぞ!」

 エディの凛とした声が、無人のホールに鋭く反響する。その瞳には、ベルトホルダーとしての揺るぎない誇りと、目の前の伝説的な男に対する底知れぬ探求心が燃え盛っていた。

「骨折りの対価に個人的に試合を、か。エディちゃんもストイックだよねぇ」

 ブラック・モモタロウは、マスクの下でいつもの飄々とした笑みを浮かべながら軽く肩をすくめた。その声音の底抜けの明るさはかつてリング上でギャグと笑いに満ちた楽しい試合を繰り広げていた頃と変わりないように思える。

「茶化すな。ここまでついてきた以上、すっぽかす気はないんだろ?」

 エディは不満げに眉をひそめ、黒と紫のブーツでマットを強く踏みしめた。真面目でヒーロー気質な彼女にとって、リングの上での闘いこそが全てを証明する神聖な儀式であった。

「約束は約束ですしね。モモちん……じゃなかった、ブラック・モモタロウはいつでもどこでも戦うぞ!」

 ブラック・モモタロウは肘下までを覆う青と黒の籠手風リストバンドを胸の前で勢いよく交差させた。パン! と乾いた音が鳴り響き、彼自身の内に眠る闘志に自ら火を点ける。

「エディちゃん、お手柔らかにねっ!」

「強気なのか謙虚なのか……まぁいい、勝負だ!」

 銀髪のツインテールを跳ね上げ、エディが低い姿勢でファイティングポーズをとる。試合開始を告げるレフェリーはこの場にいない。リングの外へ向かって高く放り投げられた一枚のコインが、冷たいコンクリートの床に落下し、チリン、と甲高い音を立てた。それが、この誰にも知られることのない秘密の死闘のゴングであった。

「それではいきまっせーっ! どりゃあ!」

 瞬間、ブラック・モモタロウが巨大な弾丸となって突進した。分厚い筋肉の塊が、深く沈み込んだ前傾姿勢から放たれるショルダータックル。それはまさに重戦車のような破壊力を秘めており、周囲の空気を押し潰すほどの風圧を伴っていた。開始早々の奇襲とも言えるスピードに対し、エディは回避を選択せず、王者としての意地で正面からそれを受け止めようとした。しかし、歴然とした体重差と圧倒的な運動エネルギーが、彼女の小さな体を容赦なく襲う。

「あぐっ……! さすがのパワーだな」

 鈍い衝撃音と共に、エディの体が後方へ大きく弾き飛ばされた。胸元を強打され、ブーツの裏をキャンバスにこすりつけながら数メートル後退するが、彼女は決して倒れない。華奢な見た目に反して、その体幹は恐ろしいほどに鍛え上げられていた。

「お返しだっ!」

 エディは体勢を立て直すや否や、マットを蹴って瞬時に間合いを詰めた。小さな体から放たれるのは、一切の妥協がない強烈な袈裟斬りチョップである。真っ向から振り下ろされた鋭い手刀が空気を裂き、ブラック・モモタロウの首元へと叩き込まれた。パーンッ! と、肉と肉が激しくぶつかり合う乾いた音がリングに響き渡る。

「……っ!」

 その瞬間、ブラック・モモタロウの全身に電撃のような激痛が走った。エディの正確な手刀が捉えたのは、彼が失踪前から抱え、いまだ完治していない首の古傷の真上だったのだ。意図せぬ形での急所への一撃。傷の奥が悲鳴を上げ、脳髄を焦がすほどの苛烈な刺激が彼を襲う。苦痛に、彼の巨大な身体が一瞬だけ硬直した。

「あいたた……エディちゃんのチョップ、結構効くなあ!」

 ブラック・モモタロウは顔をしかめ、崩れそうになる膝を必死にこらえた。激痛に顔を歪めながらも、マスクの下で無理やり笑みを作り、明るいトーンで強がる。ここで崩れ落ちるわけにはいかない。彼は誰かが悲しむ闘いを嫌い、「明るく楽しいバトル」を信条とする太平プロレスの誇り高き看板レスラーだった男なのだから。

「つーわけで、こっちも効くヤツいくよ、エディちゃん! ファイナルエルボーだぁ!」

 首に走る鋭い痛みを強引にねじ伏せ、ブラック・モモタロウは右腕を高く振り上げた。彼の中に眠る強大な「気」が腕に集束し、肘の先端が淡い光を帯びて輝き始める。大きく踏み込むと同時に放たれた輝く肘打ち、ファイナルエルボーが、一直線にエディの胸元を打ち据えた。

「ぐぅっ!?」

 今度こそ凄まじい衝撃に耐えきれず、エディはくぐもった悲鳴を上げてマットへと吹き飛ばされた。ドスン、とリング全体が大きく揺れ、彼女の小柄な体がキャンバスに激突する。直後、ブラック・モモタロウは休むことなく次の攻撃へと移行した。「そしてすかさず追撃!」と、無人のホールに明るい声を響かせながら、彼は巨体を屈めてマットに伏すエディの体へと手を伸ばす。150センチに満たない非常に小さな体躯は、彼の太い腕の中ではまるで子供のように軽く持ち上げられる。しかし、華奢な体と侮るには彼女はあまりに危険な覇気と闘志を内に秘めていることを、彼は先ほどの打ち合いで十分に理解していた。高く抱え上げられたエディは空中で一瞬もがくが、ブラック・モモタロウに容赦はない。太い腕が空気を切り裂いて振り下ろされ、強烈なボディスラムがエディを襲った。

「きゃんっ!」

 マット中央に背中から激しく叩きつけられ、バーンッという爆発音のような衝撃音がリング全体に反響し、彼女は打ち付けられた痛みにマットの上で身悶えする。エディがすぐに起き上がれないと見て、ブラック・モモタロウは素早い身のこなしでコーナーポストへと駆け上がった。重量級とは思えない軽やかなステップでトップロープに両足をかける。

「どんどん行くよっ! モモ・スペシャルその1、ダイビング・ピーチ・ボンバーだ!」

 明るく豪快な宣言と共に、彼はコーナーの最上段から高々と跳躍した。空中で分厚い筋肉に覆われた巨体を丸め、前方へと猛烈な勢いで回転しながら落下していく。狙うは、背中のダメージを堪えてどうにか立ち上がろうとしていたエディの小さな背中だ。その体重と重力が生み出す莫大な運動エネルギーが、強烈なヒップアタックとなって彼女を完全に押しつぶした。ドスンッという重低音が響き渡り、エディの顔が再びキャンバスに沈み込む。

「あぐっ……おのれ、またしても乙女に尻を……許さん!」

 マットに顔を押し付けられたまま、エディが屈辱と怒りにまみれた声を絞り出した。彼女にとって、この不名誉な技を受けるのは先日のタッグマッチに続いて二度目のことだった。フランスから渡り、一つの団体を築き上げた王者としてのプライドが、その屈辱に激しく炎を上げる。怒りを爆発させたエディは、勢いよくキャンバスから跳ね起きた。美しい銀色のツインテールが乱れ、黒と紫のボディスーツに包まれた体が独楽のように鋭く旋回する。放たれたのは、彼女の得意技の一つであるスノーストームキックだった。遠心力を極限まで乗せたブーツの硬い先端が、起き上がったばかりのブラック・モモタロウの側頭部を無慈悲に狙いすます。凄まじい風切り音を耳元で感じ取ったブラック・モモタロウは、歴戦の勘で本能的に胸をそらして頭を後方へ下げて回避動作をとった。しかし、今回はそれが致命的な仇となった。長年のブランクのせいで、彼の想定通りの回避速度は出ない。側頭部を狙ったはずの旋回蹴りはわずかにずれ、彼女の蹴り足が彼の首筋──完治していない古傷の核心部分を浅く削り取るように抉ったのである。

「ぐ……はっ……!」

 その瞬間、ブラック・モモタロウの口から苦悶のうめき声が漏れた。単なる蹴打の痛みではない。首筋の古傷に焼け火箸を深々と突っ込まれたかのような激痛。長身のレスラーは耐えきれず、ガクンと崩れるように片膝をマットについた。呼吸が激しく乱れ、青いマスクの下で額に脂汗が浮かぶのを自覚する。膝をつき、必死に首の痛みを堪えようとするブラック・モモタロウの姿を見下ろしながら、エディは素早くバックステップを踏んで距離を取った。怒りに任せた一撃ではあったが、彼女の冷徹な観察眼は現在の敵の異常を正確に、そして残酷なまでに見抜いていた。先日の「宮川三郎太&シロオニ・ベス」組とのタッグマッチの記憶が蘇る。あの時、覆面を被ってリングで戦ったこの男の動きには、随所に不自然なぎこちなさと、一部身体をかばうような動きがあった。そして今の直接的な攻防。最初の袈裟斬りチョップでの過剰な痛がり方、そして今のスノーストームキックによる崩れ落ち方。すべてが一本の線で繋がり、彼の弱点を浮き彫りにする。

「首と……右上腕か? それと全身にガタがきているな。数年の失踪でも完治していないのか?」

 エディの声は非難ではなく、純粋な驚き、そしてほんの少しの同情を含んでいた。かつて日本マット界の頂点に立っていた太平プロレスの絶対的エースが、これほどまでに満身創痍の状態で、それでもなお強大な威圧感を放って目の前にいるという事実に、彼女は戦慄すら覚えていた。しかし、同情を抱いたからといって攻撃の手を緩めるような真似は、彼女の美学が許さない。彼女は小規模とは言え一つの団体、オトギプロレスリングの頂点に立つ身なのだ。

「だが手加減などしないよ……! コンディションがどうあれ、リングに上がったからには全力、それが王者としての私の在り方だ!」

 高らかに宣言すると同時、エディは膝立ちになって動けないブラック・モモタロウの懐へと矢のように飛び込んだ。小さな両腕で彼の太い首を素早く、そしてがっちりと下から捉える。そのまま自分の腰を深く落とし、反り投げるための強靭なバネを作った。華奢な小娘が長身の筋肉質の男を完全にコントロールする驚愕の瞬間だ。エディの鍛え抜かれた体幹が爆発的な力を生み出し、フロント・ネックチャンスリーによってブラック・モモタロウの巨体が見事に後方へと鮮やかに投げ飛ばされた。

「あぎゃっ!?」

 予想外のタイミングと完璧な角度で放たれた豪快な投げ技に、ブラック・モモタロウは不本意な悲鳴を上げながらマットへ背中から叩きつけられる。キャンバスに激突した衝撃で、肺の中の空気が一気に吐き出された。だが、エディの猛攻は続く。投げた勢いを一切殺さず、彼女はマットに転がるブラック・モモタロウの首元に再び獣のように食らいついた。流れるような動作で体勢を反転させ、自分の体をキャンバスに預けながら、両腕で彼の首と右肩を強固に抱え込む。背骨を反らせ、右肩を極め、気道を圧迫する戦慄の絞め技、ドラゴンスリーパーである。

「ふんっ……! このまま、沈んでもらう!」

 エディは歯を食いしばり、全身の力を両腕に込めて絞り上げた。黒と紫のボディスーツが筋肉の躍動に合わせて軋み、彼女の細い腕が鋼鉄の万力となって巨漢の首を容赦なく締め付ける。

「ぐぐぐ……」

 ブラック・モモタロウの喉から、くぐもった呻き声が漏れる。ただでさえ悲鳴を上げている首と右上腕の古傷が容赦なく引き伸ばされ、強烈な圧迫感によって視界の端が黒く明滅し始める。酸素が絶たれ、脳が危険信号を鳴らし続けていた。関節を極められ、スタミナがじわじわと、しかし確実に削り取られていく。静まり返った無人の道場に、二人の荒い息遣いと、マットが軋む音だけが不気味に響き渡る。エディは冷酷なまでに力を緩めない。王者として、この伝説の男からギブアップを奪うために。

 だが、ブラック・モモタロウもまた、数々の死線を潜り抜けてきた男である。完治せぬ傷跡から染み出す絶望的な苦痛を、彼は強靭な精神力と、規格外の力技で無理やり振り払った。薄れゆく意識の中で、彼は自分を拘束しているエディの体の配置を正確に把握する。左手を伸ばし、自分を締め上げているエディの脚元を探り当てた。そして、彼女の紫と黒のレースアップブーツに包まれた足首をがっちりと掴むと、そのまま強引に、かつ自身の体重を乗せて鋭くねじり上げた。

「ぐぎっ……足首を!?」

 想定外の箇所への強烈な関節攻撃に、エディがたまらず苦痛の声を上げ、首を絞める腕の力が一瞬だけ緩んだ。そのわずかな隙を、ブラック・モモタロウは決して見逃さない。首への拘束を力ずくで弾き飛ばし、ドラゴンスリーパーからの脱出を果たした。

「ご明察……。でもモモちん、これくらいの痛みなら現役時代からお友達なんだよねっ!」

 強がりでも何でもない。満身創痍の体で闘い続ける彼にとって、激痛とは常に共にある日常だった。乱れた呼吸を整える間もなく、ブラック・モモタロウは座り込んだ状態のまま、次の動作へと流れるように移行する。足首を押さえて体勢を崩したエディに対して、彼は自身の長い脚を蛇のように複雑に絡みつかせた。インディアン・デスロックでエディの体を無理やりあぐらをかかせるような異様な姿勢に固定し、さらに自分の上半身を使って彼女の上半身を深く絡めとる。それはコブラツイストを座った状態で極めるような、彼独自のオリジナル関節技であった。

「モモ・スペシャルその2、アグラツイスト!」

 黒と青で彩られたマスクの下でニヤリと笑う気配を感じさせながら、ブラック・モモタロウが高らかに技の名を叫ぶ。全身の関節が複雑にロックされ、エディの小さな体は完全に身動きが取れなくなった。背筋が嫌な音を立ててしなり、両腕も封じられ、呼吸すらままならない。

「あくっ……んぅ! く、悔しいが御子柴や三郎太のそれのようにいかん。剥がせん、脱出できん、ロープも遠いか……っ!」

 エディは歯を食いしばり、顔を歪めながら現在の絶望的な状況を分析する。オトギプロレスリングの若手たちが見せる未熟な関節技とは次元が違う。一切の隙が無い完璧なロック。歴然とした体重差と、経験に裏打ちされた技術の差が重なり合い、彼女の力ではいくら藻掻いても一筋の活路も見出せなかった。必死に視線を這わせても、逃げ道であるロープは遥か遠くにある。

「そんなに褒めるない、照れるぜ! さぁ、エディちゃんどうする? ギブか!?」

 ブラック・モモタロウは関節を極める力を一切緩めることなく、からかうような明るい調子で言葉を投げかけた。全身の激痛に耐えながらも、リングの上で強敵と語り合うこの熱い瞬間を、彼は心の底から楽しんでいた。

「……っ、ならこうだっ……!!」

 アグラツイストという、蛇が獲物を締め上げるような完璧な拘束。ブラック・モモタロウの巨体と技術がもたらす絶望的な圧力の中で、エディ・ダンテスは紅蓮の瞳を鋭く光らせた。全身の骨が軋み、肺が押し潰されそうな状況下で、彼女は脱出のための細い糸口を見出す。筋力や技術でこのロックを「解く」ことは不可能に近い。ならば、自分と相手、合わせて百五十キログラムを超えるこの肉体の「塊」ごと移動させるという、常軌を逸した手段に出たのだ。

 エディはわずかに生じた隙間に、残された全神経を右腕へと集中させる。そして、その小さな掌をキャンバスへと猛然と叩きつけた。

 

ダァァァンッ!

 

 無人の練習場に、肉体同士の衝突音とは異なる、地響きのような衝撃音が爆ぜた。凄まじい掌底の一撃。その反動は、絡み合った二人の体をマットから数センチ浮かせ、そのまま滑るようにロープ際へと押し流した。

「ロ、ロープだ……!」

 エディの指先がかろうじてロープに触れる。プロレスのルールにおいて、ロープに触れればあらゆる関節技・絞め技は解除されなければならない。非公式の、レフェリーもいない試合とはいえ、二人の間には厳格なプロレスの矜持が存在していた。

「うええっ、マジかよ!? なんつーバカ力!?」

 ブラック・モモタロウは、驚愕のあまり目を剥いた。自分一人の体重ですら百キロを超えている。それをリング中央で技を極められた状態から、掌底の反動だけでロープ際まで自分ごと動かしたのだ。信じがたい瞬発力と筋力。まさに超人の怪力と呼ぶにふさわしい。

「バカ力言うな! 女子力と言え!」

 エディは激しく喘ぎながらも、即座に言い返した。銀髪のツインテールが乱れ、ふくらはぎにはアグラツイストの鮮烈な圧迫痕が赤く浮き上がっている。しかし、その声には一切の衰えがない。

「女子こえー!?」

 技を解いたブラック・モモタロウは冗談めかして両手を上げ、転がって間合いを取って立ち上がる。マスクの下で、彼はエディというレスラーの底知れぬポテンシャルに改めて舌を巻いていた。エディはロープを支えに、震える膝を叩いてゆっくりと立ち上がった。全身に巡る血液が、解放された箇所へ一気に流れ込み、強烈な痺れと痛みをもたらす。それでも彼女の視線は、一瞬たりともブラック・モモタロウを離さない。

「はぁ、はぁ……。さすがは、元アースクラッシュトーナメントの……世界チャンプ……だ」

 掠れた声で、彼女は対戦相手の真実に敬意を表した。単なる長身のマスクマンではない。かつて世界を股にかけ、あらゆる強豪をなぎ倒してきた伝説の風格。それを身を以て体感したからこその言葉だった。

「だが、まだ終わっていない……ッ!」

 エディの全身から、先ほど以上の鋭い闘気が溢れ出す。彼女はロープを背に受けて大きくのけぞると、その弾力を利用して矢のような速さで跳び出した。狙いは、まだ立ち上がったばかりで瞬発行動の準備がとれていないブラック・モモタロウの顔面。

「D式スカイドロップキック!」

 空中で体が水平に。銀髪が流星のような尾を引き、彼女のブーツの裏がブラック・モモタロウの青と黒に彩られたマスクを正確に射抜いた。

「ぶっ!?」

 鈍い打撃音と共に、ブラック・モモタロウの頭部が大きく後ろに跳ねる。意識を刈り取ってもおかしくない鋭い一撃。ブラック・モモタロウの脳が揺れ、視界が歪む。エディはその隙を逃さない。着地と同時に、彼女はよろめく巨体を捕らえた。

「さぁ、受けてもらうよ! 巌窟王エディ・ダンテス最大の技を……!」

 エディはブラック・モモタロウの懐に深く潜り込み、彼の胴体をがっちりとクラッチした。そして、自分の身長より遥かに高い位置にある彼の腰を引き上げ、上下を逆転させる。100キロを超える巨漢を、150センチに満たない小柄な彼女が、重力に逆らって真っ逆さまに抱え上げた。

 深夜の静寂の中に、エディの気合の叫びが響く。彼女はマットを力強く蹴り上げ、そのまま宙へと舞った。空中で体を鋭く捻り、スピンを加える。落下速度に回転の遠心力が加わり、破壊力は倍加する。

「D式パイルドライバー……ッ!!」

「あ、やべっ……ぐわああっ!?」

 ドッ、という頭蓋を揺さぶるような重厚な衝撃音が響き渡った。ブラック・モモタロウの脳天が、スピンを伴ってキャンバスに突き立てられる。首の古傷に、これまでで最大の負荷がかかった。ブラック・モモタロウの巨体が衝撃でピクピクと痙攣し、そのまま大の字に横たわる。エディは荒い呼吸のまま、彼の体の上に覆いかぶさった。レフェリーがいないこの空間で、彼女は自らカウントを刻む。マットを叩く音が、無人のホールに虚しく、しかし重々しく響く。

「ワン! ツー! ……スッ!?」

 三回目の拍動がマットに伝わる直前。

「だぁっ!」

 ブラック・モモタロウの左肩が、弾かれたようにマットから浮き上がった。本能。それだけが、彼の体を動かした。三年前、あのヤマトタケルとの死闘を戦い抜いた男の魂が、ここで終わることを拒絶したのだ。

「2.9だな……!」

 エディは潔くキックアウトを認めつつも、信じられないものを見るような目で、自分を跳ね除けた男を見つめた。今のパイルドライバーは、彼女が持てる技術とパワーの全てを注ぎ込んだ、文字通りの必殺の一撃だったはずだ。

「しかし、コレでも、決まらないのか……!?」

 彼女の驚愕は当然だった。腱の損傷と古傷を抱え、満身創痍の状態でありながら、最強の必殺技を受けてなお立ち上がろうとする。その執念、あるいは生命力は、すでにプロレスラーの域を超え、怪物(モンスター)の領域に達していた。

「ヤバい効いた……っ! はらひれ~」

 ブラック・モモタロウは、焦点の定まらない目でうわ言のように呟いた。マスクの隙間から流れる汗がマットに滴り落ちる。首は完全に痺れ、指先一つ動かすのにも激痛が走る。意識は朦朧とし、天井のライトが何重にも重なって見えていた。

「仕留めきれないなら……何ッ!?」

 エディが追撃のために再度組み付こうとした、その瞬間だった。朦朧としていたはずのブラック・モモタロウの動きが、一変した。蛇のような速さでバックへ回り込むと、彼の逞しい腕がエディの腰に回される。

「日本一のモモタロウをなめたらあかんよっ!」

 それは、今さっき意識すら消えかかっていた男が放ったとは思えない、研ぎ澄まされた行動だった。彼は背後からエディの小さな体を抱え上げると、首の激痛を魂の咆哮で無理やりねじ伏せた。渾身の力を込め、ブラック・モモタロウは大きく反り返った。高角度バックドロップでエディの体は美しい放物線を描き、脳天からキャンバスへと急降下する。逃げ場のない投げ技。受け身を取る余裕すら与えない、無慈悲なまでの落差に衝撃音がホール内の空気を震わせた。

「ぬ……ぐ……!」

 王者の口から、短い、しかし重苦しい苦悶の声が漏れる。強烈な衝撃がエディの脳を揺さぶり、今度は彼女の意識を深い闇へと引きずり込もうとしていた。リングの上には、深いダメージを負い、共に限界を迎えようとしている二人のレスラーだけが残されていた。

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