「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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番外特別試合(オトギプロレスリング、非公式試合):無観客シングルマッチ「ブラックモモタロウVSエディ・ダンテス」後編

 バックドロップの衝撃が、エディの肺から残っていた酸素を強引に搾り出した。マットに叩きつけられた衝撃で視界がチカチカと火花を散らす。しかし、ブラック・モモタロウもまた無事ではなかった。朦朧とした意識の中で放った一撃は、自らの首の古傷に容赦ない負担を強いていた。膝をつき、肩で激しく息をしながら、彼は己の肉体が限界に達しつつあることを本能で悟る。ブラック・モモタロウは、マットを這うようにしてダウンしたエディに迫った。彼女の細い足を、分厚い手で力強く掴み取る。エディが苦痛に顔を歪めながらも抵抗しようとしたが、彼はそれを許さず、慣れた動きでエディの両脚を4の字に交差させた。

「モモ・スペシャルその4、ロータリーデスロックだい! 我慢しすぎると膝、危ない技だかんね!?」

 その叫びと共に、ブラック・モモタロウは自らの体を軸にして、リング上を激しく回転させ始めた。ローリングクレイドルのように、二人分の体重が遠心力となってエディの膝関節に集中する。回転が加速するたびに、絞め上げる角度が深まり、関節が軋む鈍い音がマット越しに伝わってくる。

「ぐぎぎ……!? あぐぅぅぅ!? 膝が壊れ……くそぉっ!!」

 エディの口から、今までにないほど悲痛な悲鳴が漏れた。ただの四の字固めではない。回転による遠心力が、逃げ場のない圧力を一点に叩き込んでいる。意識を失いそうなほどの激痛が脳を支配するが、彼女の闘志はまだ折れていなかった。エディは朦朧とする意識の底で、冷静な分析を捨てていなかった。自分を振り回すこの男の、最も脆弱な箇所を。

(そこだ……ッ!)

 回転の合間、ブラック・モモタロウの体が自分に密着する一瞬の隙。エディは残された全ての力を左腕に込め、至近距離から掌底を叩き込んだ。狙ったのは、先ほどの攻防で判明していた彼の古傷――右上腕の深部だ。

「あ゛だぁ…ッ!?」

 不意を突かれた、まさに「芯」を射抜く一撃。筋肉と筋肉の隙間、かつて腱が断裂寸前の被害を受けた場所を衝撃が突き抜け、ブラック・モモタロウの右腕から力が抜ける。鉄壁だったロックがわずかに緩んだ。エディはその隙を逃さず、強引に彼を突き飛ばしながら膝を引き抜き、地獄のような回転から這い出した。

 二人は同時にマットを転がり、距離を取る。ブラック・モモタロウは激痛の走る左上腕を抑えて悶絶し、エディは深刻なダメージを負った膝を引きずりながら身を起こし、震える手でトップロープを掴んだ。もはや、技術や戦術の段階は終わっていた。残っているのは、どちらの心が先に折れるかという、魂の削り合いだった。

「はぁ、はぁ……ッ!」

 エディは片膝をかばいながら、ロープを伝ってコーナーの最上段へと這い上がった。重力すら敵に回したかのような膝の重みを、彼女は王者のプライドでねじ伏せる。

「D(ダンテス)式ムーンサルトプレス!」

 銀髪が照明を反射し、真夜中のリングに一筋の月光が走ったかに見えた。エディの華奢な体が宙を舞い、美しい弧を描きながら、横たわるブラック・モモタロウの胸元へと一直線に降下していく。ドスンッ、という重い音が響き、エディの体がモモタロウの巨体の上に重なった。そのまま、彼女は全体重を預けてフォールに入る。だが、エディ自身がカウントを数える声を上げ始める前に、ブラック・モモタロウの「老獪な執念」が動いた。彼はエディの固めを受けながらも、左手の親指を、彼女の膝の横にある急所へと正確に突き立てた。先ほどロータリーデスロックで徹底的に痛めつけられ、悲鳴を上げている箇所だ。

「きゃうっ……!? あ、あづっ……!?」

 エディの脳が熱さと誤認するほどの、神経を直接逆なでする鋭い痛み。彼女の体が跳ねるように硬直した。完璧だったはずの固めが崩れ、ブラック・モモタロウはその隙に彼女の体を跳ね除けた。

 それぞれダメージに身を震わせながら、なおも立ち上がろうとする両者。しかし、先んじたのはブラック・モモタロウだった。彼はエディの片腕を掴むと、そのまま強引に彼女の体を背後から引き寄せ、腕を前後に彼女の身体を巻くようにしてロックする。

「女の子のクセに無理するからだっ! でもそこがまたカワイかったりして……なんつって!」

 冗談めかした口調。だが、その腕の力は冷酷なほどに強く、エディの動きを完全に封じ込めていた。

「カワっ!? ……って、しまったこの体勢は!?」

 エディの瞳が驚愕に染まる。両腕の自由を完全に奪われたこの状態。受身を取ることすら許されない、死の宣告。

「そう、モモ・スペシャルその3、『クロスライダー・スープレックス』だぁ!」

 ブラック・モモタロウは、残された全エネルギーを足腰に集約させた。首の痛みも、腕の激痛も、すべてを爆発的な瞬発力へと変換する。彼はエディの体を高々と抱え上げると、左右に掴んだ腕を引っ張りながら限界まで背中を反らせ、後方へと投げ放った。天井照明が視界を縦断するように通過する。両腕を広げられて回転し、完全に無防備な状態で、エディの脳天がマットへ向けて急降下していく。

 

 ただ重く、ただ鋭い。そんな衝撃音が、無人の道場に轟いた。

 

エディの体がマットに突き刺さり、そのまま力が抜けたように横たわる。ブラック・モモタロウは、投げた勢いのまま彼女の体をがっちりとホールドし、マットを叩く代わりに声をあげる。

「ワン!」

 エディの指先一つ動かない。

「ツー!」

 王者の瞳の闘志の光はその所在を失い、いまだ戻らない。

「……スリー、でいいかな? エディちゃん?」

 ブラック・モモタロウの声は、どこか優しかった。力を抜いた彼の下で、エディは天井の照明をぼんやりと見つめながら、小さく吐息を漏らした。

「…………。……ああ、私の負けだ」

 その言葉と共に、激闘の幕が下りた。

 

 モモタロウは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとエディから身を離した。全身の関節と筋肉が悲鳴を上げ、視界がぐにゃりと歪むのを必死に堪える。エディはマットに大の字になり、虚ろな目で天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。

「くっそぉ……立ち上がれない……。失踪前の負傷が完治してなくてこれか……」

 王者の口から漏れたのは、偽らざる敗北の弁だった。

「……かつてのお前と戦ってみたかったよ……」

 もし、目の前のこの男が万全の状態であったなら、自分はこれほどまでの接戦を演じることすらできなかったのではないか。その圧倒的な実力差への畏怖と、それを超えられなかった悔しさ、そして最盛期の強敵にこそ挑みたかったという無念が、彼女の胸を焦がしていた。

「いちち……。あの時は我ながら無理しちゃったからね。これじゃ日々試合に出るなんてとてもできやしない」

 今日の夕刻にタッグマッチで一度、そして今の練習試合で一度。計二回の試合で全身は限界を超えていると叫んでいた。おそらく数日はまともな運動すらままならない。現役復帰しようにも、年に2~3度しか試合できないような状態では期待には……。彼のうつむいたマスクに落ちる陰は、まるでその心理を反映しているかのようだった。

「でも三郎太も成長したみたいだし……」

 モモタロウは全身の神経が引きつれるような痛みと首の重みをこらえながら顔を上げ、どこか晴れやかな表情で言った。その顔には、かつての栄光に縋る男の影はなく、ただ愛する後輩の成長を確認して憂慮を晴らし、そして今、良きライバルと全力でぶつかり合った一人の男の満足感だけが漂っていた。

 敗北の余韻が漂う静寂の中、エディは大きく息を吐き出し、ぽつりとこぼした。

「……美樹が心配してるぞ」

 唐突なエディの言葉に、先ほどまで晴れやかな空気を纏っていたモモタロウの肩が、びくりと跳ねた。

「う゛っ……」

 思わず漏れたそのうめき声は、激戦で受けたダメージによるものではなかった。明らかに、バツの悪さと少々の恐怖が入り混じった、生々しい反応だった。エディは仰向けのまま、天井の照明を眩しそうに眼を細めて見上げながら続ける。

「フックの車でここまで引き上げる間に私のスマホに着信が何件来たと思う? ……六十二件だ」

「……バレたかな?」

 冷や汗を流すモモタロウの問いに、エディは確信を持って頷く。

「間違いなく、バレてる」

 その言葉に、モモタロウは天を仰いだ。オトギプロレスリングと太平プロの合同興行中、ミステリアス・パートナーの扮装から突如として姿を現した謎の覆面レスラー「ブラック・モモタロウ」。その正体が、かつての想い人であるモモタロウだと気付いた美樹の執念を、彼は甘く見ていたらしい。エディは「だから、誤魔化してはみるが多分無理だぞと言ったんだ」と苦笑いしながら、痛む体に鞭打って少しだけ体を起こした。その視線の先で、モモタロウは首の痛みを堪えながら正座のような体勢になり、自らの顔を覆う黒いマスクに手をかけた。

 素顔を隠すために慌てて用意したのだろう。黒と青の塗料で強引に染め上げられた予備マスクは、度重なる激しい打撃と自身の流した汗によって、早くも安物の塗料が剥げかかっていた。モモタロウはそれを、まるで憑き物を落とすかのように、ゆっくりと下から上へ引き抜いて脱ぎ、その手の上に乗せて見つめた。

 汗に濡れた前髪が落ち、現れたのは、かつて太平プロレスの看板を背負い、日本中を熱狂させた男のあまり知られていない素顔だった。豪快でありながらどこかおどけた愛嬌があり、しかしその奥に隠しきれない修羅の影を宿した、不屈のマスクマンの下にあったのは優しそうな男の顔。今は疲労と痛みで顔をしかめているが、エディの目には、その素顔こそが最も彼らしく、眩しく映った。

「……そいじゃまた旅に出るとしますかね」

 モモタロウは見つめていたマスクをそっと抱え、膝を叩いて立ち上がろうとした。その足取りは重く、古傷の痛みが全身を支配していることは火を見るより明らかだった。そんな状態でまた宛てのない放浪に戻るというのか。エディは呆れ半分、心配半分の複雑な溜息をついた。

「女泣かせの罪人め。……私の知り合いに偏屈だが腕のいい医者がいる。紹介状を書いてそこの机に置いてあるから……持って行って訪ねてみろ」

 エディは乱れた銀色のツインテールを整えながら、負けた悔しさを隠すように、背を向けてあえて皮肉混じりの優しさを口にした。これだけのポテンシャルを持ちながら、怪我のせいでまともに試合もできない状態を放置するなど、レスラーとして、そして何より一人のプロレスファンとして見ていられなかったのだ。

「エディちゃんは優しいなぁ、お兄ちゃん感動して涙が出らぁ!」

 モモタロウはわざとらしく両手で顔を覆い、すすり泣くような真似をしておどけてみせた。その相変わらずの調子の良さに、エディは毒気を抜かれたように笑みをこぼす。

「おじちゃんだろ」

「ヒドイ!?」

 深夜の無人のリングで、二人の笑い声が静かに重なり、空気を震わせた。激しく命を削り合ったからこそ生まれる、勝敗を超えた清々しい絆。それは、プロレスという過酷な世界に生きる者たちだけが共有できる、特別な時間だった。

 

 その後、モモタロウは机の上にファイトマネーが入った封筒と共に置かれていた紹介状を手に取り、汗と血の染みたリングコスチュームから、みすぼらしい私服へとゆっくり着替えた。そして両手をあわせてエディに「あんがとさん」と短く残し、夜の闇の中へ姿を消した。彼の背中は満身創痍であったが、その足取りは、ここへ来た時よりも少しだけ前を向いているように見えた。

 

────────────────────

 

 モモタロウが去り、一人残されたエディは、しばらくの間マットの上に座り込み、戦いの余韻を味わっていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、特にモモタロウの関節技によって破壊されかけた膝と、何度も強打した背中から後頭部にかけての痛みは深刻だった。それでも、胸の奥底には確かな満足感があった。最強の男と全力でぶつかり合い、自分の現在地を確かめることができたのだから。

(さて、そろそろシャワーを浴びて、体のケアをしないとな……)

 エディは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、コーナーポストを支えにして、ゆっくりと立ち上がった。足元がおぼつかないが、それでも歩けないほどではない。汗を流したら医務室へ向かい、テーピングとアイシングで応急処置をしよう。そう考えてリングを降りようとした、まさにその時だった。

 

バァァァァァンッ!!

 

 突如として、道場兼事務所建屋の奥にある練習用リングホールの重い扉が、蹴り破られるような凄まじい勢いで開け放たれた。深夜の静寂を切り裂く轟音に、エディは思わず身構える。扉の向こうに立っていたのは、見慣れたシルエット。太平プロレスの団体社長令嬢であり、つい数時間前の段階では試合会場にいたはずの、美樹だった。

「……ッ!」

 エディが言葉を発する間もなく、美樹は無言のまま真っ直ぐにリングへと向かって歩みを進めた。その足取りは一歩一歩が重く、周囲の空気を凍りつかせるような異様なプレッシャーを放っている。美樹はリングサイドに辿り着くと、躊躇うことなくエプロンサイドに手をかけ、素早い動作でトップロープをまたぎ、リングインを果たした。そして、彼女が着ていた太平プロレスのロゴ入り団体トレーナーを荒々しく脱ぎ捨て、エディの目の前に立つ。下から現れたのは、今日の試合から着たままと思しき、黒と赤を基調とした競泳水着にも似たリングコスチュームだった。いつでも試合ができる、臨戦態勢。

「美樹!? なんでここに!?」

 エディは驚愕のあまり、思わず素っ頓狂な声を上げた。関東圏で行われていた興行会場から、この東北南部のオトギプロの施設──遠征中として無人の道場まではかなりの距離があるはずだ。しかも、オトギプロの人間しか知らないはずの今晩のエディの移動先を、なぜ彼女が知って追って来れたのか。

「レンタカーで来ました」

 美樹の返答は、感情の起伏を一切感じさせない、不気味なほどに平坦なものだった。その瞳には、一切の迷いがない。完全に何らかの「覚悟」を完了した人間の目だった。エディが混乱していると、開け放たれた扉の向こうから、もう一つの人影が這うようにして現れた。あずき色のジャージを着た褐色肌の女性。オトギプロレスリングに所属する若手レスラー、アサル・ザ・ジニーだった。エジプト出身でありながら、生来の生真面目さゆえに「魔法のランプの魔人」という自身のギミックを全く演じきれず、演技中は常に片言の棒読みになってしまうという致命的な弱点を持つ彼女。そのアサルが今、開け放たれた戸の前で、見事なまでに丁寧で綺麗な、日本式の土下座を決めていた。

「アサル!? お前……そうか、行先を吐かされたな!?」

 エディの鋭い追及に、アサルは床に額を擦り付けたまま、涙声で答えた。

「社長、ゆるしてゆるして……」

 アサルのその哀れな姿が、これまでの経緯のすべてを物語っていた。エディがフック船長の車で興行会場を去った後、不審に思った美樹がオトギプロのレスラーたちを問い詰めたのだろう。そして、嘘が絶望的に下手なアサルが標的にされ、その生真面目さと棒読みのせいで演技と偽りの全てを看破され、この道場の場所を吐かされたのだ。おそらく残されたメンツのリーダー格である赤ずきんは、危機を察知して真っ先に逃げたに違いない。エディは顔を覆いたくなる衝動に駆られた。自分の部下の不甲斐なさを嘆くべきか、美樹の執念を恐れるべきか。

 そんなエディの葛藤などお構いなしに、美樹はゆっくりと、エディに向かって歩み寄り始めた。その目は、獲物を定めた捕食者のように冷酷で、静かな怒りに満ちている。エディは思わず数歩後ずさりそうになる。

「……その汗。疲労。ダメージ」

 美樹は、エディの全身をなめ回すように観察しながら、低い声で呟いた。エディの銀髪は汗で肌に張り付き、ふくらはぎや膝には関節技の強烈な圧迫痕が残り、呼吸はまだ完全に整っていない。誰がどう見ても、たった今、激しいプロレスの試合を終えたばかりの姿だった。

「……さてはモモタロウと試合しましたね? 夜のリングで。男女ふたりっきりで」

 夜の静寂に包まれていたはずの練習用リングホールは、今や別種の緊迫感に支配されていた。無言のままエディを射抜く美樹の瞳には、一切の光が宿っていない。普段の快活で真面目な女学生レスラーの面影は完全に消え失せ、そこにあるのは、情念という名の業火に身を焦がす一人の女の姿だった。その圧倒的なプレッシャーと、自身の肉体に蓄積された深刻なダメージが重なり、オトギプロレスリングの頂点に君臨する王者エディ・ダンテスをして、無意識のうちの後退を強いられていた。

 先ほどの死闘で、彼女のスタミナはすでに底を尽きている。アグラツイストで背骨を軋ませられ、クロスライダー・スープレックスで脳天からキャンバスに突き刺さった肉体は、一歩足を踏み出すだけでも悲鳴を上げた。ふらつく足取りでずるずると後ずさるエディ。普段であれば、美樹のようなキャリアの浅い若手レスラーの威圧に気圧されることなどあり得ない。しかし、今は状況が悪すぎた。理屈ではない、本能的な恐怖がエディの背筋を凍らせる。

 

トン、と。

 

 不意に背中に柔らかい感触が伝わり、エディはハッと息を呑んだ。コーナーポストのターンバックルだった。リングの対角線まで追い詰められ、これ以上は一歩も後ろへ下がれない。文字通り、逃げ場を失ったのだ。

「れ、練習試合しただけで、別にやましいこととか、いかがわしいことは一切していないぞ……」

 コーナーを背にして、エディは震える声で必死の弁明を試みた。モモタロウと深夜に密会し、二人きりで汗を流していたという事実は、恋い焦がれる美樹にとってどれほどの怒りをもたらすか、想像に難くない。しかし、エディからすれば、純粋にプロレスラーとしての矜持をぶつけ合っただけの、神聖な儀式であったはずなのだ。だが、美樹はピタリと歩みを止め、冷酷な声でその弁明を切り捨てた。

「私の連絡を無視した事はやましくないと?」

「うっ」

 言葉に詰まるエディ。フック船長の車で移動中、そして試合中、エディのスマートフォンには美樹からの着信が怒涛の如く入っていた。それを意図的に無視し続けたのは、他ならぬエディ自身である。その負い目がある以上、これ以上の言い訳は通用しない。

「しかも、モモタロウはもう居ない。そうですね?」

 美樹が、エディのパーソナルスペースへと一気に踏み込んだ。

「ぐぅっ、いや……その」

 その瞬間、腰が引けて無防備になっていたエディの首元へ、美樹の両腕が蛇のように巻き付いた。エディが反応する間もなく、美樹はがっちりとフェイスロックを極めた。エディの顎を下から跳ね上げ、もう片方の腕で頭部を抱え込むようにして後方へ反り上げる。149センチという小柄なエディに対し、164センチの美樹の体格差が残酷なまでに作用する。先ほどの試合で徹底的に痛めつけられていたエディの首の後ろが、無慈悲な角度にミシミシと軋んで悲鳴を上げた。

「私に会わずにまた旅に出たんでしょう?」

 美樹の声は、耳元で囁くように低く、そして恐ろしいほどに冷え切っていた。愛する人が、自分のすぐ近くまで来ていながら、顔も見せずに再び姿を消した。なのにこの女は戦友ヅラして夜間の逢瀬である。その絶望と嫉妬と悲しみが、美樹の腕力を限界以上に引き上げていた。フェイスロックの締め付けは、もはやプロレスの技の範疇を超え、純粋な暴力へと変貌しつつあった。

「美樹、ちょ……チョーク入ってる! 待て待……て!」

 エディは両手で美樹の腕を引き剥がそうともがくが、疲労困憊の小さな体には、狂気に駆られた美樹のロックを解く力など残っていなかった。顎を引いていたはずの美樹の腕が、徐々にエディの喉仏、気道へと食い込んでいく。頸動脈が圧迫され、酸素の供給が絶たれ始める。だが、美樹はエディの制止など全く意に介さなかった。むしろ、エディの抵抗を封じ込めるように、フェイスロックからさらに深く腕を回し、完全なチョーク・スリーパーへと移行した。エディの細い首が、美樹の二の腕と前腕の間に完全に挟み込まれる。そして、美樹は信じられない行動に出た。チョーク・スリーパーでエディを拘束したまま、自身の顔をエディの首元、汗に濡れた銀髪の隙間へと深く埋めたのだ。

 

 スゥゥゥゥッ……。

 

「……かすかにモモタロウの匂いがする……」

「はぁぁ……気色わる……ッ!? お、おちつけ美樹!?」

 深い絶望の底から響くような美樹の呟きに、エディは全身の毛穴が開くような悪寒を覚えた。酸素が欠乏していく苦痛よりも、狂気に満ちた執着心を見せつける美樹の振る舞いに対する恐怖が勝る。いくら激しい試合をして組み合ったとはいえ、匂いを嗅ぎ分けるなど常軌を逸している。

「い、いかん、落ちる……!? アサル! アサルちょっと来い!」

 視界の端が黒く明滅し始めたエディは、リングの外、開け放たれた扉の前で未だに土下座を続けている部下へと、掠れる声で必死の救難信号を送った。オトギプロレスリングの所属選手であるアサル・ザ・ジニー。本来であれば、社長であるエディの窮地を身を挺して救うべき立場である。しかし、あずき色のジャージを着たエジプト人の若手レスラーは、床に額を擦り付けたまま、おそろしく抑揚のない、棒読みの日本語で答えた。

「き、きこえませーんー……」

「アサル、貴様!?」

 エディは裏切りの絶望に目を見開いた。生来の生真面目さゆえに、演技というものが全くできないアサル。その不器用さが、この極限状態において最悪の形で発揮されてしまった。彼女は、明らかに聞こえているのに聞こえないフリをするという、大根役者以下の芝居で社長を見捨てたのだ。

「真面目な話、社長たちにも非があると思います」

「アサル!?」

 さらに追い討ちをかけるように、アサルは土下座の姿勢から顔をあげて、極めて冷静かつ生真面目なトーンで正論を突きつけてきた。いかに当のモモタロウの要望だったとはいえ、美樹への連絡を無視し、モモタロウとの逢瀬を隠匿したエディの行動は、道義的に許されるべきではない。アサルの生真面目な倫理観は、実の社長よりも、怒り狂う乱入者の側に正当性を見出していた。味方からの無慈悲な宣告に、エディの心がへし折れる音がした。

「詳しく……説明して下さい。今、私は冷静さを欠いています」

 美樹はエディの首元から顔を上げると、さらにチョーク・スリーパーの締め付けを一段階強くした。完全に極まった頸動脈絞め。脳への血流が遮断され、エディの意識が急速に遠のいていく。冷静さを欠いていると自称しながらも、その声は氷のように冷たく、残酷な理性を保っていた。

「知ってるけど!? ギブ! ギブアップ! 話すから! 落ちたら話せないから! だからとりあえず技をと……げ……みぎぃ……!」

 エディは残された僅かな力を振り絞り、自らの太ももを、そしてキャンバスをバシバシと激しく叩いた。プロレスにおける明確な降伏の意思表示、タップアウト。王者のプライドなど、とうの昔に彼方に消え去っていた。今はただ、この狂える乙女の腕から逃れ、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むことだけが最優先だった。しかし、激しくタップを繰り返しても、美樹の腕は一向に緩む気配を見せない。詳細な説明を聞くまでは、決して逃がさないという強烈な意思の表れだった。エディの喉の奥から、言葉にならないカエルのような悲鳴が漏れる。銀髪のツインテールが苦痛に乱れ、彼女の両腕が虚しく宙を掻いた。

 

 夜の静けさが戻るはずだった無人の道場は、美樹の冷たい怒声と、王者エディの情けない悲鳴によって再びざわめき始めていた。それは、先ほどの伝説の男との熱く激しい死闘とは全くベクトルが異なる、一方的で凄惨な拷問の風景であった。

 

 エディ・ダンテスは屈した。

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