「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第5試合(太平プロ通常興行):タッグマッチ「ガータ御子柴&ミステリアス・パートナーVSシロオニ・ベス&ライジング雫」

 今回の太平プロレスの興行はまもなくメインイベントを迎えようとする中、沸き立つ熱気の奥から、じわりと肌を刺すような静かな緊張が滲み出ていた。リングを照らすカクテル光線が、四人のレスラーの思惑を浮き彫りにするように激しく明滅する。リング中央、不敵な笑みでマイクを握るのは、メキシコ帰りの悪役レスラー、ガータ御子柴だ。黒と赤の網目付きワンピースから覗く白い肌を、場内の照明がなまめかしく照らす。彼女は頭に冠したネコミミを弄りながら、観客席のブーイングを心地よさそうに浴びていた。

「ニャハハ! 最高の舞台ニャンね! 今日は、二人の絶望を見るのが楽しみだニャン!」

 その視線の先には、対戦相手であるシロオニ・ベスとライジング雫が立っている。ベスはアッシュブロンドの髪を揺らし、グレイッシュブルーの瞳に明らかな嫌悪を宿していた。隣に立つ新人の雫も、眉を怒らせ、引き締まった表情を崩さない。

「そのパートナーは何者なのです!? もう誤魔化す必要もないでしょう!?」

 雫の鋭い追求に、御子柴はクォックォッと奇妙に頭を揺らして滑稽に笑った。その笑みには、何か決定的なカードを隠し持っている者の余裕がある。

「そうあわてるなって。紹介するニャン、今日のオレの相棒、ミステリアスパートナーの正体だニャ!」

  リングに立つそのレスラーは、まるで会場の光そのものを拒むように、白いフード付きの厚手のローブを深くかぶっていた。布地はわずかな照明を吸い込み、輪郭だけが淡く浮かび上がる。観客のざわめきが渦を巻く中でも、その姿だけは静止した影のように動かず、存在そのものが異質な沈黙をまとっている。御子柴が隣に立つその人物へ、ゆっくりと手を差し向けた。白いローブのフードは深く垂れ下がり、リングの光を拒むように影を落としている。観客席のざわめきが、まるで遠雷のように低く震えた。誰もが息を呑み、次の瞬間を待っている。覆面の人物が自らフードをつまんだ。ためらいはない。ひと息で、布が跳ね上がる。

 

 次の瞬間、場内が凍りついた。

 

 姿を現したのは、太平プロレスの若手エース、宮川三郎太だった。赤いプロレスパンツに身を包んだ、無駄のない筋肉質の身体。しかし、その表情にはかつての爽やかさは微塵もなく、ただ重く沈んだ「冷徹」だけが、完璧な仮面であるかのように張り付いている。観客席からどよめきが走る。先日の御子柴とのシングルマッチでは、反則裁定により記録上は三郎太の勝利となったものの、勝手に試合を続行した御子柴の暴走で一方的に叩きのめされ、無様なKOにまで追い込まれた彼が、なぜその御子柴と肩を並べているのか――その理不尽な光景に、ファンは困惑と驚きを隠せなかった。

「え……先輩……?」

 雫の声が震える。自分にプロレスを教え、導いてくれた憧れの人が、あろうことか最も忌むべきヒールの隣に立っている。その衝撃は、彼女の戦意を根底から揺さぶるものだ。ベスもまた、忌々しげに舌打ちし、ミステリアスパートナーの衣装をリング外に投げ捨てる三郎太を鋭く睨みつける。

「……よりにもよって!」

 三郎太は黙したまま険しい表情で二人の視線を正面から受け止めていた。そこにあるのは、感情を失った虚無ではない。「今日の自分は御子柴のパートナーである」という一点だけを貫くために、彼が自ら選び取った防壁のような沈黙だった。このリングで私情を挟むことは、相棒となった御子柴への不義であり、契約の破棄を意味する。だからこそ三郎太は、思考を徹底的に削ぎ落とし、「契約上の職務」だけに意識を固定していた。ひょっとしたら戦う理由に「三郎太のため」を含んでいるかもしれない二人を、ただ排除すべき“標的”として網膜に焼き付けるために。その痛々しいまでのストイックさは、雫とベスの目には、血の通わぬ戦闘マシーンへと変貌したかのように映り、理解不能の恐怖すら呼び起こしていた。

 先発しないのか、彼は無言のまま自陣のコーナーへ歩き、静かに控えた。

「ニャハハハ! 最高にいいカオするじゃんか! そうとも、今日のオレのパートナーは、この宮川三郎太だニャ!」

 御子柴が満足げに、まるで古くからの仲間であるかのように馴れ馴れしく三郎太の肩を叩く。だが三郎太は、その感触を拒むでも受け入れるでもなく、ただ前だけを見つめていた。微動だにしない横顔には、感情の揺らぎが一切ない。その姿は、誇りを捨てた敗北者のようでもあり、何かを貫こうとする殉教者のようにも見えた。

「……さぁ、最高のショウを始めようか」

 御子柴の声がリングに響き、視点は放送席へと移る。

『さあ、本日もメインイベントの時間を迎えました! 先日の興行ではあまりにも衝撃的な宮川三郎太の無残な姿という一幕がありましたが、その悪夢を振り払う間もなく、事態は風雲急を告げております! 急遽組まれたこのタッグマッチ、解説席には……えー、本日の前座で見事な負けっぷりを見せてくれました、デンジャー・サチさんにお越しいただいております!』

 実況の熱を帯びた声の横で、解説席のデンジャー・サチは、自分の試合のダメージなどどこ吹く風といった様子だ。ブカブカの太平プロ公式トレーナーの袖を雑にまくり上げ、今にもお菓子でも開けそうな勢いで身を乗り出している。

 『お疲れ様でーす、サチでーす! いやぁ、三郎太センパイの顔、最高でしたねぇ。今日はもっと近くで拝めると思って、解説引き受けちゃいました♡』

 その目は、リング上の異様な空気を前にしても、妙に楽しげに輝いていた。

 『……サチさん、一応メインイベントの解説ですからね? ゲームの実況動画とかじゃないですからね? ……さて、今回のカードです。御子柴が「最高の相棒」としてリング上に連れ出したのは、なんと先日彼女に屈辱を刻まれたはずの三郎太! この不可解なタッグ結成、サチさんはどう見ますか?』

 実況の困惑を余所に、サチは「ざーこ♡」と言わんばかりの含み笑いをマイクに乗せる。彼女にとって、この手の歪な人間関係は最高のエンターテインメントだ。

 『えー? 決まってるじゃん。センパイ、絶対「わからせ」られちゃったんですよ。ほら、最後の方はもう御子柴さんの為すがままだったし? ……あーあ、雫ちゃんもベスさんもかわいそー。信じてた人が、敵の狗になって戻ってきたなんて。これ、実質ネトラレ?』

 『言い方ァ! しかし、三郎太選手のあの険しい表情、そして御子柴選手の余裕の笑み……。果たしてこのタッグマッチ、我々は何を目撃するのでしょうか!? 運命のゴングが今、打ち鳴らされます!』

 

 カーン!

 

 試合開始のゴングが響き渡ると同時に、リング上の空気は一気に沸騰した。先発を買って出たのは雫だ。対するは、不敵な笑みを浮かべて猫のような身のこなしで進み出る御子柴。雫は対角線のコーナーに立つ三郎太の真剣な表情を視界の端に捉え、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。だが、その動揺を押し殺すように深く息を吸い、プロとしての矜持を奮い立たせる。

「卑怯な真似なんかさせないんだから……!」

 叫びと共に、雫の右足が鋭くしなる。空手仕込みのキレのある蹴りが、御子柴のガードの上から何度も叩き込まれる。シュッ、シュッと風を裂く音が響くたび、観客席からどよめきが上がった。ロー、ミドル、そして顔面を狙うハイキック。雫は御子柴の動きを冷静に見極め、流れるようなコンビネーションで攻め立てていく。一つ一つの蹴りに、かつて指導を受け、憧れ続けてきた三郎太を「こちら側」に連れ戻したいという、彼女なりの切実な願いが込められていた。

 だが、御子柴は薄笑いを浮かべたまま、その猛攻を紙一重でかわし、あるいは一歩踏み込み浅い打撃で受け続ける。まるで雫の焦りを誘っているかのように。

「ニャハハ! いい蹴りだニャ、でも……熱くなりすぎだニャン!」

 一瞬の隙だった。雫が放った渾身のミドルキックを、御子柴はあえて懐に呼び込むようにして、その細い脚をガッチリと脇に抱え込んだ。御子柴の瞳に、獲物を捕らえた肉食獣のような光が宿る。そのまま強引に重心を崩してマットへ引き倒すと、御子柴は雫の足首をアンクルホールドの形に捕らえた。しかし、それは正統派の関節技ではなかった。

「卑怯ってのは……こういうのの事かニャ?」

 御子柴は極めた足首を固定したまま、雫の脚の付け根へとブーツのつま先を執拗に押し当て、体勢を崩すように力を加えた。

「なっ……!? あっ、ちょっ!?」

 あまりにも非常識で、そして公衆の面前での屈辱を伴う体勢。雫の顔が羞恥と苦痛で真っ赤に染まり、悲鳴に近い声が漏れる。観客の視線を意識せざるを得ず、雫の戦意は一気に屈辱へと塗り替えられていった。必死に逃れようともがくが、御子柴は巧みに体勢を崩し続け、抜け出す隙を与えない。極められた足首にはじわじわと激痛が浸透し、雫の呼吸が乱れ始める。

 放送席では、実況のボルテージが最高潮に達していた。

『ああーっと! 御子柴、これはあまりにも破廉……いえ、あまりにも非道な攻撃だ! 雫選手、羞恥に悶えつつ必死に逃げようとするが逃がさない! レフェリーがチェックに入りますが、御子柴は巧妙に身体を左右にひねってレフェリーから見えない角度に調整している!』

『うわー、やべー! ンな恥ずかしいとこ映されちゃうとかマジ? ギリギリじゃん!』

『いや笑いごとじゃないんですよね、マジでね』

  解説のサチがリング上を指さしてゲラゲラと笑うのを、実況がこめかみに汗を浮かべて窘める。リング上では、見かねたベスがエプロンから身を乗り出し、必死に手を伸ばしていた。

「雫、こっちです! 早く、手を!」

 雫は涙目になりながらも、なりふり構わず這うようにして自陣へと手を伸ばし、ようやくベスの掌に触れた。タッチを受けてリングへ躍り込んだベスは、まさに憤怒の化身だった。アッシュブロンドの髪を激しく揺らし、グレイッシュブルーの瞳が冷たく燃える。

「この駄猫が……ッ!」

 挨拶代わりのビッグブーツが、雫を開放してニヤつきながら立ち上がった御子柴の腹部を正面から完璧に捉えた。内臓を揺らすような重い音が響き、御子柴の華奢な身体がくの字に折れ曲がる。ベスは追撃を緩めず、そのままロープへと走った。しなるロープの反動を全身に乗せ、空中へと高く舞い上がる。美しい軌道を描いたフライングボディアタックが、怯んでいた御子柴を容赦なく押し潰した。マットに叩きつけられた衝撃で、御子柴は「ぐふっ」と短い呼気を吐き出し、たまらず自陣のコーナーへと後ずさる。忌々しげに舌打ちすると、無言で立つ三郎太の掌をひっぱたくようにして交代を告げた。

 

 ついに、三郎太がリング中央へと進み出る。太平プロレスを背負うと期待されている男の肩は、どこか重苦しい。対峙するベスの瞳には、怒りと困惑、そしてプロとしての厳しい視線が混在していた。三郎太は相変わらず険しい表情のまま、何も言わず、ただ拳を固める。

「なぜ、あんな無法者と組むの! 何の取引をしたのです!?」

 ベスは容赦なく踏み込み、鋭いエルボーを三郎太の胸元、顎、こめかみへと叩き込んだ。ガンッ、ガンッ、と肉と骨がぶつかり合う鈍い音が連打される。それは奇しくも、三郎太自身が最も得意とする打撃戦のスタイルであり、彼への最大限の皮肉でもあった。エルボーを浴びせるたびに、ベスの叫びが会場に響く。誇り高き彼女にとって、三郎太のこの変節は、あの日の試合への裏切りにも等しかった。

 その怒涛の連打をガードし、受け流しながらも三郎太は一歩も引かなかった。ガードを抜いた打撃の衝撃に頭が揺れ、頬や胸元には赤い腫れが浮かぶ。奥歯を噛み締め、彼は掠れた声でようやく言葉を絞り出した。

「……リベンジマッチの約束だ!」

 その一言は、言い訳というにはあまりに重く、そして悲しい響きを帯びていた。精神的に御子柴に敗北し、奈落の底に突き落とされた彼が、再び立ち上がるために掴んだ唯一の道。泥を啜り、誇りを汚してでも、もう一度あのリングで御子柴に挑む機会を求めたのだ。だが、その私情をベスは無慈悲に切り捨てた。

「そういうことですか……! 理解はしましたが納得は別、容赦などしませんよ!」

 三郎太がエルボーの連打でわずかにふらついたその瞬間、ベスは彼の腰を深く、岩のように固い腕で抱え込んだ。三郎太の巨体を軽々と持ち上げ、ベスは自らの身体を大きく後ろへと反らせる。見事な弧を描いて放たれたエクスプロイダー。宙を舞った三郎太の身体は、重力に引かれるままマットに激しく叩きつけられた。だが、三郎太は、肺の中の空気をすべて吐き出しながらも、目の光を失ってはいない。その険しい表情は崩れない。崩すことは許されない。彼を縛る「契約」と、自ら課した「タッグパートナーを全うする」という役割が、なおも彼を突き動かしていた。ベスは冷徹な眼差しを崩さず、倒れ伏す三郎太の腕を掴み、なおも無慈悲に引き起こそうとする。完全に主導権を握ったと確信し、止めを刺すべく距離を詰めたその瞬間だった。三郎太の身体が、まるでバネのように跳ね上がった。無機質なほど険しい表情のまま、彼はベスの懐にさらに深く潜り込む。驚愕に目を見開くベスの腰を、両腕ががっちりとクラッチした。

「こっちのセリフだ。約束した以上、それは守る……!」

 振り絞るような三郎太の声が響くと同時に、彼の身体が美しい弧を描いて後方へと反転した。三郎太の必殺技、ノーザンライトスープレックス。エースとして多くのファンを魅了し続けてきた彼のもっとも得意とする投げ技が、皮肉にも今は悪女との約束を果たすための「職務」として放たれた。

「もうこの技を!? ……あぐっ!?」

 早々に放たれた大技に不意を突かれたベスは、受け身を取る余裕すらなく、脳天からマットに突き刺さった。場内に今日一番の重低音が鳴り響く。あまりの威力に、ベスの身体はマットの上で力なく痙攣した。にもかかわらず三郎太はフォールに行くことすらしない。ふらつく足取りのまま自陣へと戻り、コーナーでニヤニヤしながら手を差し出す御子柴に、力強く自分の掌を叩きつけた。

「ケケケ! 最高の仕事だニャ、三郎太!」

 再びリングへ躍り出た御子柴の瞳が、獲物を狙う猫のように細められる。三郎太は交代してなお、リングから出なかった。御子柴と視線を交わすことすらしていないにもかかわらず、二人の動きは恐ろしいほどに同期していた。ノーザンライトスープレックスの衝撃で意識が朦朧とし、それでもなんとか幽霊のようにふらふらと起き上がろうとするベス。その左右から、御子柴と三郎太が同時にロープへと走る。放たれたのは、完璧なタイミングのツープラトン・ドロップキック。二人の足の裏が、ベスの身体を挟み撃ちにするように前後から捉えた。

 ドォン! という乾いた衝撃音と共に、ベスの身体は車に撥ねられたスチールの飲料缶のように錐もみで吹き飛び、マットを激しく転がった。死に体となったベスが、屈辱に震える手で自陣へと這っていく。雫が必死に身を乗り出し、その指先を求めた。ようやく入れ替わった雫の瞳には、怒りを超えた覚悟が宿っていた。

「よくも私の前で先輩とそんな息の合った姿を……!」

 リングインした雫は、勝ち誇って近づいてきた御子柴の背後へ電光石火で回り込んだ。御子柴の腕を絡め取り、自らの足を絡ませ、コブラツイストで身体を極限まで反らせていく。古典的な技ながら、雫のそれには技術ではなく、覚悟が生み出す魂が乗っていた。

「あぁぁ♡ ……ぐぅ……コイツ、締め技だけならなかなかだニャ……!?」

「『だけ』は余計です!」

 御子柴が余裕を装いながらも顔を歪め、苦しげに声を漏らす。雫は全体重をかけ、御子柴の肋骨と背骨を容赦なく締め上げていく。場内からは「雫! 絞めろ!」と大声援が飛ぶ。だが、その熱狂を断ち切ったのは、またしてもあの男だった。三郎太がカットのためにリングへ踏み込む。最短距離で雫に接近すると、一切の容赦なく、その背中へドロップキックを叩き込んだのだ。

 鈍い音と共に、雫の身体が前方へ吹き飛ぶ。極まっていたコブラツイストが強制的に解かれ、御子柴がマットに崩れ落ちた。雫は背中を押さえながら、三郎太を睨みつける。

「先輩……どうして……!」

 三郎太は答えない。ただ、御子柴を救い出したという事実だけを残し、再びエプロンへと戻る。その背中には、かつてのヒーローの面影はもうどこにもなかった。立ち上がったものの、御子柴に再度挑みかかるでもなく、ただふらつきながら自陣コーナーへ後ずさる雫。その様子を見かねたベスが、強引に襟首を掴んでタッチを繋いだ。気持ちを整理させないと、このまま崩れ落ちると判断したのだ。かなりダメージの蓄積しているベスだったが、美しい連携にまんまとしてやられた怒りが、彼女を再び立ち上がらせていた。

「頭を冷やしなさい!」

 ベスは怒りに任せて御子柴へ突進する。放たれたのは必殺のラリアット。丸太のような腕が御子柴の首を刈り取ろうと迫る。しかし、御子柴の口角が吊り上がった。

「甘いニャ、鬼のお嬢ちゃん!」

 御子柴はラリアットの軌道を読んでいたかのように身を沈め、右手の中で隠し持っていた金属チェーンをジャラリと鳴らした。突っ込んできたベスの顔面めがけて、その重いチェーンを振り抜く。痛そうな鈍い衝撃音が響き、ベスの身体が大きくのけぞる。思わず顔を押さえてよろめくベスに対し、御子柴は容赦なくチェーンを首に巻き付け、背後から締め上げた。

「さぁ~て、鬼ッ娘の苦しむ顔はどんなんかニャ?」

 鎖での首への反則攻撃に、ベスの顔が歪んでいく。あまりにも惨い攻撃に、場内からは激しいブーイングが巻き起こった。コーナーでその光景を見ていた三郎太の眉がわずかに顰められる。固く握りしめた拳が微かに震え、何事かを叫ぼうと口が開きかける。だが、彼は自らの唇を噛み、その言葉を飲み込んだ。約束。リベンジ。その対価。彼は今試合、御子柴の頼れるタッグパートナーを全うする必要がある。自らの職務を完遂することを選んだのだ。

 レフェリーが反則カウントを取り始める中、見かねた雫が再びリングへと飛び込んだ。

「……離して!!」

 雫の鋭いソバットが御子柴の手首を正確に撃ち抜いた。ガシャンとチェーンがマットに落ち、ベスの首から拘束が解かれる。御子柴は「チッ」と舌打ちし、タッチなしにリングインした雫をレフェリーが窘めている隙に、三郎太とタッチを交わす。

 三郎太がリング中央、ベスの前に立った。ベスはまだチェーンによる窒息のダメージから回復しきっておらず、膝をついたまま激しく咳き込んでいる。三郎太はその無防備なベスに対し、右腕を大きく振りかぶった。先の「容赦はしないのは此方のセリフだ」という宣告通り、渾身のファイナルエルボーが放たれる。一切の慈悲のない、純粋な破壊の質量。その一撃が、ベスの頬を正確に捉えた。ベスの身体は木の葉のように舞い、リングのコーナーポストまでマットを転がりながら吹き飛ばされた。衝撃でリングが大きく揺れ、会場は一瞬、静まり返る。次いで観客席から悲鳴に近い怒号が上がった。三郎太は表情一つ変えず、倒れたベスを視界の端に収めながら、自らの拳を固く握りしめていた。吹き飛ばされたベスは、コーナーに背中を預けたままズルズルと崩れ落ちる。意識が混濁し、激しく咳き込む彼女の手を、雫が掴んでタッチを成立させた。気持ちの整理がどうとか言っていられる状況ではない。

「ベスさん! 私が行きます!」

 リング中央へ躍り出た雫の瞳には、先輩への遠慮はもはや微塵も残っていない。戦士に徹した三郎太という強敵相手に、そんな余裕は許されない。三郎太が力任せに組み付こうと腕を伸ばした瞬間、雫はその下を滑り抜けるようにして背後へ回り込んだ。雫は三郎太の逞しい背中に飛びつき、その細い腕を彼の太い首へと回し込む。

「これ以上、先輩に汚れてほしくない……! だから、ここで私が!」

 全身の力を込めて締め上げる、必死のスリーパーホールド。チョーク気味に決まった技に三郎太の顔面が苦悶に歪み、首筋の血管が浮き上がった。だが彼は咆哮を上げることもなく、ただ冷徹に最短の脱出経路を選ぶ。三郎太は雫の両腕を掴んで力ずくで引き剥がすと、そのまま彼女の身体を豪快な背負い投げで前方へ投げ飛ばした。マットに叩きつけられた雫の身体が弾む。

 その落下地点には、驚くべき光景が待ち構えていた。三郎太が雫を投げ捨てた瞬間、まるでその軌道が事前に打ち合わされていたかのように、御子柴がコーナー最上段に飛び乗っていたのだ。三郎太が雫をマットに沈めたコンマ数秒後、御子柴の身体が宙を舞う。美しい弧を描いたムーンサルトプレスが、倒れ伏す雫の腹部へ完璧なタイミングで投下された。重い音が響き、雫の口から空気が漏れる。三郎太の投げと、御子柴の飛び技。二人の意思は一言も交わされずとも、残酷なまでに噛み合っていた。

 着地した御子柴はすぐさま起き上がると、ロープを掴んで背後の三郎太に手を伸ばした。三郎太もまた、アイコンタクトだけで彼女の意図を汲み取り、流れるような動作でタッチを成立させる。そのまま御子柴は雫の脚を抱え込み、エビ固めの体勢でフォールに入った。

「ニャハハ! これで終わりだニャン!」

 レフェリーの手がマットを叩く。

「ワン! ツー!」

 

 しかし、そのカウントが「スリー」に届く直前、執念の影が滑り込んだ。

「フォールなどさせるかっ!!」

 ベスが満身創痍ながらリングへ滑り込み、御子柴の脇腹を撃ち抜くスライディングキックを放つ。衝撃でフォールが解け、御子柴の身体が転がった。ベスは肩で息をしながら、怒りに燃える瞳で御子柴を睨みつける。そのまま彼女を引き起こし、今度こそ引導を渡そうと腕を振りかざした。だが、その背後に「死神」が立っていた。三郎太はベスがタッチなしでカットに入るのとほぼ同時にリングインしていたのだ。彼は御子柴に向かおうとするベスの背後からすでに迫っており、ベスが反応するより先にその身体を強引に抱え上げる。ベスの体が宙に浮き、三郎太の肩にアルゼンチンバックブリーカーの形で担ぎ上げられた。

「なっ!? この技は……三郎太さん!?」

 ベスの声が驚愕に震えた。そしてその驚愕は、視界が逆さまに反転した瞬間、絶望へと変わる。三郎太の肩越しに見えるのは、自分自身の必殺技――その予備動作の光景。

 

「言い訳はしない!」

 三郎太は鉄の枷のような腕で、逃がす気など微塵もないという意思を告げていた。次の瞬間、彼の身体が重戦車のごとき勢いでマットへ沈み込む。シットダウン式、脳天を直撃する衝撃。ベスの意識は真っ白な閃光に包まれ、頚椎を駆け抜ける激痛の中で、彼女の脳裏に異常な回路が繋がる。完璧と言って良いフォームだった。見様見真似で繰り出した技ではない。

(なんだ……三郎太さん、私のこと……私の技のこと、こんなに研究して……練習して……)

 意識が遠のく寸前、ベスの唇が微かに、恍惚とした歪みを刻んだ。恐怖の極北で彼女が触れたのは、自分を完全に沈めた男への、抗いようのない「ときめき」だった。

 

 実況席では絶叫が止まらない。

『ああーっと!? 三郎太、カット成功してなおリングに居座るベスを捕まえた! まさか……ああっ! 掟破りの、白鬼金棒落としだぁーっ!!』

『うわ、えっぐ……。見てよあの動き、御子柴さんが雫ちゃんを固めた瞬間に、ベスさんがカットに動くと見て動き出してたよ。どんだけ相棒のこと分かってるっての? 相性良すぎでしょ、キモーい♡』

サチの不謹慎な笑い声が放送席に響く。

『サチさん、今はその……いや、確かに驚愕すべき場面です! この、一言も交わさない完璧な連携! 憎しみを超えた、かつての同期ゆえの絆とでも言うのか!?』

 三郎太は技を放った直後、膝をついて激しく息を乱していた。全力の、そして魂を削るような一撃。しかし、その背後に迫る殺気に、彼はまだ気づいていない。

「このぉ!」

 意識を失ったベスの横から、這い上がってきた雫が最後の力を振り絞って跳躍した。放たれたのは、三郎太の側頭部を狙った全力の延髄斬り。ガッ! という鋭い音が響き、三郎太の身体が大きくよろめく。意識が飛びかけるのを必死に堪えながら、彼は自陣のコーナーへともたれかかるように逃れ、そのまま力尽きたようにダウンした。リング上には、大ダメージを受けた四人のレスラーが、それぞれの執念を抱えたまま横たわっていた。決着の瞬間は、刻一刻と近づいている。

 

 三郎太が自陣コーナーのターンバックルにもたれかかるようにして崩れ落ちると、リング上には一瞬の静寂が訪れた。彼の放った「掟破りの白鬼金棒落とし」によって意識を刈り取られたベスは、マットの上で微動だにしない。その光景に戦慄しながらも、雫は震える膝に力を込めた。今の自分にできること――それは、これ以上の追撃を許さず、パートナーを守り抜くことだけだ。雫は這うようにしてベスの元へ辿り着くと、その重い身体を引きずり始めた。

「ベスさん!? 大丈夫ですか!?」

 雫は必死にベスの身体をロープの下からエプロンサイドへと押し出す。リング外へ逃しておかねば、あの御子柴が何をしでかすか分からない。ベスの美しい顔は苦悶に歪み、うっすらと開かれた瞳には焦点が定まっていなかった。

「あ……うぅ……」

「くっ!」

 ベスからの明確な応答はない。事実上の戦闘不能。雫は唇を噛み締め、孤独な戦場と化したリング中央へ視線を戻した。そこに立っていたのは、余裕の笑みを浮かべて髪をかき上げる御子柴だった。

 

 御子柴はすぐには攻めてこなかった。ゆっくりと歩を進め、自陣のコーナーで荒い息を吐いている三郎太の元へと近づく。そして、まるで労うかのように、その汗ばんだ肩をポンと叩いた。

「三郎太、ありがとうニャン。あとはオレが全部持っていくニャ♡」

 その言葉に、三郎太は顔を上げず、ただ無言で一度だけ頷いた。瞳には冷徹な光が宿ったままだが、どこか自身の役割を果たした安堵と、これから行われる残酷な処刑を黙認する諦観が入り混じっているようにも見えた。彼はもう動かない。動く必要がないのだ。御子柴の相棒として全力を尽くし、リングからベスを排除した今、残る獲物を狩るのは自分の役目ではない。この「意を通じ合っている」かのような光景が、雫の心に火をつけた。憧れている先輩が、あんな悪女の手駒として扱われている。そして、先輩自身がそれを受け入れている。その事実が、雫の胸を悲しみと怒りで引き裂いた。

「貴女が……! 貴女さえ居なければこんな……ッ!」

 雫は悲痛な叫びと共に、御子柴へと突進した。残された全てのスタミナ、全ての感情を乗せたタックルが、油断していた御子柴の胴を捉える。二人の身体がもつれ合いながらマットへ倒れ込む。雫はすぐさまポジションを取り、御子柴の脚を複雑にロックして首を捉えた。彼女のオリジナル技、ティアドロップボディロック。相手の片脚を自らの脚でフックし、同時に首を抱え込んで背中を反らせる変形のSTFだ。「涙のしずく」の名を冠しながらも、その実は相手の呼吸と退路を断つ冷酷な絞め技である。

「う、ぐぅ……ッ!?」

 御子柴が苦悶の声を漏らす。雫は涙を浮かべながら、万力のように腕を絞め上げた。ギブアップを奪えば勝てる。そうすれば、三郎太の目を覚まさせることもできるかもしれない。その一心だった。

 会場の空気も一変する。

「雫、行け!」「がんばれ、雫ちゃん!」

 健気で必死な雫への歓声が、若き挑戦者の背中を押す。しかし、御子柴は歴戦の悪役レスラーだ。雫のロックが、疲労と焦りによってわずかに浅いことを見逃さなかった。呼吸ができる隙間がある。首が動く余裕がある。御子柴は不敵な笑みを浮かべると、仰け反らせられていた首を勢いよく後方へと跳ね上げた。鈍く、硬い音が響く。御子柴の後頭部が、雫の顔面――鼻梁のあたりを強烈に打ち据えたのだ。あまりの衝撃と痛みに、雫の腕から力が抜ける。ロックが緩んだ瞬間、御子柴は身体を捻って脱出し、鼻を押さえてうずくまる雫の髪を鷲掴みにして無理やり引き起こした。

「お前もうヘロヘロすぎてロックが甘いニャ、オラァ!!」

 至近距離から、今度は正面からのヘッドバッドが炸裂した。ごんっ、という骨が軋む音。

「きゃっ!?」

 雫の身体が後ろへよろめく。視界が明滅し、足元がおぼつかない。今の彼女は、嵐の中の小舟のように脆かった。御子柴はその隙を見逃さない。ふらつく雫の腕を取り、強引にコーナーポストへと連行する。気を張ってなんとか食らいついていたが、本来このリング上で雫は最も弱い。ベスが斃れた以上はもう後がないと気力だけで動いていたが、とうに体力は限界を迎えていた。 抵抗する力など残っていない雫を、御子柴はトップロープの上へと座らせる。 逃げ場のない高所。御子柴もまたロープに足をかけ、雫の正面に立つ。彼女は雫の頭をいたわるように右腕で抱え込み、左腕でその太ももを高く抱え上げた。観客が息を呑む。

「終わりだニャ…♡ くらえ、アビスキャットドライバーぁ♡」

 宣告と共に、御子柴が宙を舞った。雫の身体が持ち上げられ水平に回転するように位置が入れ替わり、御子柴の体重と重力が加算された状態で、マットへ向かって急降下する。  アビスキャットドライバー、それは雪崩式の変形スパインバスターという必殺の荒業だ。

「あ……ぁ……」

 耐えられないだろう事を無意識に悟った雫の声にならない悲鳴がかき消され、ズドンッ!! という爆音がリングを揺るがした。マットに背を向けているが故に落着する瞬間が読み辛く、受け身をとるのは容易ではない。まして今の力尽き果てた雫ではもはやそのまま受け入れるしかない、完全なる破壊力。雫の身体はマットにめり込んだまま、指先一つ動かすことができない。御子柴はそのまま体勢を崩さず、雫の身体を上から押し潰すようにして、レフェリーにカウントを要請する視線を送った。

 その光景を、コーナーにもたれかかったままの三郎太が見ていた。 朦朧とする視界の中で、自ら指導、面倒をみてデビューしたレスラーである雫が、自分の「相棒」によって完膚なきまでに叩き潰される瞬間。彼は表情を変えず、目を逸らすこともなく、その結末を見届けた。雫が一人前のレスラーであると認めているからというのもあるが、なによりそれが、彼が選んだ「リベンジ」への道の対価だったからだ。

 

 レフェリーの手がマットを叩く。

「ワン! ツー! ……スリー!!」

 

 カン、カン、カン、カン!

 

 試合終了のゴングが鳴り響く。

『決まったぁーっ! 激闘のタッグマッチ、制したのは宮川三郎太、そしてガータ御子柴の異色タッグです! 最後は御子柴の必殺、アビスキャットドライバーが火を吹きました!』

『いやぁ、強烈ぅ。三郎太センパイがきっちりお膳立てして、御子柴さんが美味しくいただく。サチもあんなふうにタッグパートナーに面倒見て欲しい~!』

 実況とサチの声が響く中、御子柴はゆっくりと雫の身体から退き、両手を広げて観客のブーイングと歓声を全身で浴びた。三郎太はようやくロープを掴んで立ち上がり、無表情のままリング中央へと歩み出る。勝ち名乗りを受ける御子柴の隣に立つが、手を繋ぐことはない。ただ並んで立つその姿は、奇妙なほどに絵になっていた。

 エプロンサイドでは、なんとか意識を取り戻したベスが、ふらつく足取りでリングに上がり、倒れている雫を抱き起こしていた。屈辱にまみれた敗北。しかし、その瞳に宿る光は消えていない。ベスは雫の肩を貸してリングを降りる際、マイクを握ることもなく、地声で、しかしはっきりと聞こえる声量で言い放った。

「……御子柴、この屈辱……忘れないわ。三郎太さんも覚えておいてくださいね」

 その言葉は、単なる負け惜しみではなく、次なる戦いへの宣戦布告だった。三郎太はその視線を正面から受け止め、ただ沈黙で返した。

「…………」

 御子柴はわざとらしく肩をすくめてみせる。

「おお、怖い怖い」

 その軽薄な態度が、ベスの怒りに油を注ぐことなど百も承知だ。

 

 敗者たちが花道の奥へと消えていくのを見届けると、御子柴は満足げに振り返り、隣の三郎太を見上げた。

「いや~気持ちいい勝利だったニャン、ありがと三郎太♡」

 無邪気な猫のように笑いかける御子柴に対し、三郎太は重々しく口を開いた。

「……約束は約束だ。僕は全力を尽くした」

 彼の言葉には、勝利の喜びはない。あるのは、契約を履行したという事実のみ。だが、その瞳の奥には、これから訪れる自身の悲願への渇望が燃えていた。御子柴はニヤリと笑う。

「分かってるニャン。リベンジマッチは真面目に相手してやるぜ。日程は美樹ちゃんたちの判断次第だけどニャ」

「ならいい」

 三郎太はそれだけを言うと、御子柴に背を向け、一人でリングを降りていった。ファンへのアピールも、勝利の余韻に浸ることもない。ただ、己の目的のためだけに存在するマシーンのように。その孤高の背中を見送りながら、御子柴は懐から取り出した鎖を指先でチャラチャラと弄んだ。リング上に一人残った彼女は、去りゆく「相棒」に向けて、誰にも聞こえない声で独白する。

「……コレも今のオレの一部なんだけど、今はまだわかってもらえないか。……ま、いいさ」

 彼女は鎖を唇に押し当て、恍惚とした表情で三郎太の背中を見つめた。

「愛しい三郎太、オレも楽しみだよ。『まともな試合』で、どれだけオレを痛めつけてくれるやら……♡」

 

 歪んだ愛情と純粋な闘争本能。その二つを抱えた悪女の笑みが、熱気の冷めやらぬリングに妖しく咲き誇っていた。

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