「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第2話 プライドと覚悟! の巻【エキシビジョンマッチ「ウラシマまりんVSマスクド・ダングラール」】

 巨大な東京ドームの空間は、開幕の興奮と観客たちの熱気によって、まるで巨大な生き物のようにうねっていた。エキシビジョンマッチとはいえ、世界中から強豪が集うEQT(アース・クェイク・トーナメント)のリングである。万国旗が飾られ、眩い照明が照らし出すその神聖な闘技場の傍ら、赤コーナーのリングサイドには、海底王国ムー帝国の王子であり、浦島太郎から数えて五十代目の子孫であるウラシマまりんの姿があった。身長190センチ、体重108キロという筋骨隆々たる巨体。青と紺を基調とした全身タイツタイプのリングコスチュームに身を包み、腰には特徴的な腰蓑風の飾りが揺れている。足元は機動性を損なわないレガースシューズで固められていた。金髪で垂れ目、誰もが認めるハンサムな顔立ちの頭部は、頭頂部から後頭部だけを覆う半メット型のヘッドギアで守られており、額から下は露出しているため表情がよく見える。今はその端正な顔を不満げに歪ませ、口をとがらせていた。

「おい、キンの字! どういうことじゃん!?」

 ウラシマは、大会アドバイザーとしてリングサイドにやってきたサカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウに向かって声を荒らげた。キンタロウは大会委員会のアドバイザーとして多忙な身であり、衆人環視の場では敬意を示すのが本来筋ではあるが、数年来の戦友であるウラシマにとってはそんな事情など知ったことではない気安さだ。

「エキシビジョンっつーからオレはてっきりお前かベンケーあたりとやるのかと思ってたってのに、相手が女だなんて聞いてねえじゃん!?」

 わがままで坊ちゃん気質、そして極めてプライドが高いウラシマにとって、女性を相手に本気でプロレスをするというのは全くの想定外であった。彼はかつて嫁探しのために来日し、紆余曲折を経てザ・モモタロウのよき好敵手の一人となった実力者である。かつてのECT(アース・クラッシュ・トーナメント)本選でも強豪と渡り合い、モモタロウ失踪後は自国の王になるための勉強や引継ぎのために日本を離れていた。EQT参加希望の自国の選手の手続きのためにキンタロウに声をかけた結果、エキシビジョンに参加することになったのだが、当日になって相手が女子と知ってはさすがに文句の一つも言いたくなる。しかし、対するキンタロウは、開会式での父親の暴走の疲労もあってか、やれやれといった様子で冷静に肩をすくめた。

「いや……そう言えば言ってなかったな。しかし、『相手がだれでもカンケーないじゃん』と言ったのはお前じゃないか」

「そらそーだが、通達漏れはまた別の話じゃん!?」

 ウラシマは食い下がる。正論を突きつけられても退かないのは、彼のわがままな性格ゆえである。

「まぁ、確かに。……仕方ない。この後会議もあるから色々面倒だが……私が代わるか」

 キンタロウはわざとらしく溜息をつき、スーツの上着の前のボタンに手をかけながら、ふと視線を青コーナーのさらに奥、通路の方へと向けた。

「まぁ、マスクド・ダングラールはイイ女だ。これも良い機会だと思うことに……」

 その言葉を聞いた瞬間、ウラシマの垂れ目がピクリと反応した。さっきまでの不満げな表情が、別の意味での警戒心へと切り替わる。一目惚れした女性を拉致しようとした過去を持つほど、女性に対しては並々ならぬ執着を持つ彼である。

「ちょっと待つじゃん」

「うん?」

 先ほどまでの抗議の勢いはどこへやら、ウラシマのトーンが露骨に下がった。

「本当?」

 声の奥に、期待と不安が入り混じった妙な熱が宿る。

「ああ、見てご覧。 あそこの……赤いリングコスチュームのダイナマイトボディの彼女がマスクド・ダングラールだ」

 ウラシマはおもむろに双眼鏡を取り出し、青コーナーへ向かって初老のフランス人マネージャーと話しながら歩いてきている人物を覗き込んだ。レンズの先には、艶のある黒のロングヘアを揺らす女性レスラーの姿。左右には細い三つ編みが編み込まれ、頭部の左側にはエメラルドグリーンの大きなリボンが飾られている。目元は赤いドミノマスクで覆われ、高慢さと勝気さを思わせる強い眼差しが覗いていた。何よりウラシマの視線を釘付けにしたのは、キンタロウの言う通りの見事なダイナマイトバディであった。即座にウラシマの脳波に反応したヘッドギアのAIが解析し、バイザーに「B=80、W=55、H=63」というデータが表示される。赤を基調とし、金色の縁取りと紫のアクセントが入ったハイレグ・レオタード風のリングコスチュームによってボディラインが蠱惑的に強調され、胸元は大きく開き、白いフリルのジャボが優雅さを添える。腰の両脇からは裏地が青い燕尾状の腰布が垂れ下がり、赤のセパレート袖に青いフリル付きのリストバンド、そして脚には金色の装飾が施された黒のオーバーニーソックスとショートブーツという出で立ち。それはまさに、リングに咲く一輪の毒華。派手さと気品が同居した、舞台映えする存在だった。

「……フッ、ここはムー帝国の次期国王として器のでけー所を見せておいてやるじゃん。キンタロウ、恩に着ていいじゃん」

 双眼鏡を下ろしたウラシマは、先ほどの不満など最初から存在しなかったかのように、キリッとした表情で言い放った。

「え? ……ああ、出てくれるのか。よかった。じゃあよろしく頼むよ」

「オレとお前の仲じゃん。これも友情って奴じゃん」

 ウラシマは爽やかにサムズアップをして見せる。その仕草は妙にキマっているのに、どこか軽薄さが滲んでいた。しかし、その後方で控えていた従者たちの反応は氷のように冷ややかなものだ。

「うわぁ……」

 ヒラメ子が、心底軽蔑したような声を漏らす。

「サイテーですね、王子……」

 イカ子もまた、ジト目で主君を睨みつけた。痛い所を突かれたウラシマは慌てて振り返り、必死に弁明の言葉を並べ立てた。

「そ、そんなことないじゃん! イヤじゃん、イヤじゃん! 下心にきまってるなんて前提で偏見をもたれるのはイヤじゃん!」

 どたどたと地団太を踏むようにウラシマはわがままステップを刻むが、従者たちは「偏見じゃなくて事実でしょ、おーじ!」と取り合わない。

 

 そんなリング下の喜劇的なやり取りを打ち切って、いざウラシマがリングインを果たすと、空気が一変した。大歓声がドームを揺るがす中、オトギプロレスリングの人気悪役女子プロレスラー、マスクド・ダングラールが不敵な笑みを浮かべて相対する。フランス人である彼女は、大親友でありライバルでもあるエディとの関係性を胸に秘め、フランスマット界の要請で若手育成のために日本からフランスへ一時帰国したはずだった。しかし今は、EQTに参加するフランスマット界の若手の引率という名目で──実際はオフの休暇を利用してエディの元へ向かうために──再来日しているという経緯がある。彼女にとって、この試合への協力はそのための関係者へ根回しの一環であり、また強者との交戦機会と言う自らの武威と矜持を示す絶好の舞台でもあった。

 ウラシマまりん、そしてマスクド・ダングラール。どちらもキャリア5年以上であり、EQTの参加は叶わないベテランだ。その二人が闘うことで、参加選手たちに「いずれ己たちも到達する領域」を直感させる。 そしてこのエキシビジョンマッチには試合を通じて今回大会のルールを伝えるという重大な役目が課されていた。

 

 カンッ!

 

 試合開始を告げるゴングが、高らかに鳴り響いた。ウラシマの表情から軽薄さが消え失せる。相手が女性であろうと、やると決めたからには一流のムー帝国の戦士としての本能が目を覚ます。両者はリング中央へと歩み寄り、低い姿勢から躊躇なく組み合った。ロックアップの攻防である。

 ウラシマはその巨体と、長年の修行で培われた圧倒的なパワーで、ダングラールを一気に押し込もうとする。並の選手であれば、その圧力だけでロープ際まで吹き飛ばされ、そのままペースを握られてしまうだろう。しかし、ダングラールは違った。彼女は後退を余儀なくされながらも、絶妙な足運びと重心の移動、そして関節のロックによってウラシマの暴力を的確にいなしていた。ダングラールの身長は163センチ。ウラシマとは30センチ近い身長差がある。体格的に劣勢は避け得ない。それでも彼女の身体は、積み重ねた経験と矜持に裏打ちされた「折れない芯」を宿していた。

 ギリギリと骨が軋み、筋肉が限界を訴える音が至近距離で響く。ウラシマの瞳に、明確な驚愕の色が浮かんだ。彼の腕力と技術をもってしても、彼女の芯を崩すことができない。

「あらゆる格闘技のトレーニングの英才教育を受けたこのオレとまがりなりにも渡り合うとはなかなか大した女じゃん!」

 ウラシマは、腕に強烈なテンションをかけながらも、心からの称賛を口にせずにはいられなかった。数多の死闘を潜り抜けてきた自負があるからこそ、目の前の女性レスラーの実力が本物であることがはっきりと理解できたのだ。ダングラールはドミノマスクの奥で鋭く目を細め、不敵な笑みと共にその言葉を吐き捨てるように一蹴する。

「ほざけ……!」

 その一言には、妥協を許さないプロレスラーとしてのプライドと、強者に対する燃え盛るような闘争心が凝縮されていた。二人の荒々しい息遣いが交錯し、ロックアップの拮抗が熱を帯びていく。

 だが、ウラシマがいよいよ力任せに完全な制圧を試みようとさらに重心を前にかけたその瞬間だった。ダングラールの体が、まるで水のように滑らかに沈み込んだのである。押しつぶされそうになった彼女は、ウラシマの巨大な股の間を潜り抜けるようにして、背後へと鮮やかに反転してみせた。

「およ!?」

 完全に虚を突かれたウラシマは、間抜けな声を漏らしながら慌てて振り返ろうとする。しかし、その視界が追いつくよりも早く、背後から凄まじい風切り音が迫っていた。

「上から目線が気に入らない!」

 ダングラールは立ち上がりざまの勢いを乗せ、丸太のようなウラシマの首筋に向かって、渾身のラリアットを容赦なく叩き込んだ。体重差を補って余りある、完璧なタイミングと遠心力を伴った一撃。首を鋭く刈り取られたウラシマは、たまらずマットへと豪快に叩きつけられ、大きなどよめきがドームを揺らした。 倒れ伏したウラシマを見下ろすダングラールの赤いドミノマスクの奥には、高慢な笑みが浮かんでいた。しかし、ダウンを奪われた側のウラシマも、ただやられっぱなしでいるような男ではない。追撃を狙ってダングラールが歩み寄ってくるのを視界の端で捉えたウラシマは、あえて立ち上がろうとはしなかった。

「なら上目づかいで参るじゃん!」

 顔の前で両腕をクロスさせ、強固なガードを作ったウラシマは、マットすれすれを這うような極端に低い姿勢から、まるで魚雷のように一直線に突進した。彼の得意技、サブマリンロケッタである。

「おふっ……!?」

 予測不能な軌道で下からカチ上げるように放たれた強烈なヘッドバットが、無防備なダングラールの腹部へと深々と突き刺さった。硬質な半メットタイプのヘッドギアに包まれたウラシマの頭部の一撃はまるで鉄球を腹に受けたかのようだ。彼女の細身の体が、腹に受けたその破壊的な衝撃によってふわりと宙に浮き上がり、そのまま後方へと激しく吹き飛ばされた。コーナーパッドに背中から激突し、ダングラールは、ずるずるとマットの上へと崩れ落ちる。

 

 大歓声が巻き起こる中、ウラシマは得意げに立ち上がり、胸を張った。だが、コーナーの下でうずくまっていたダングラールがゆっくりと立ち上がるその手には、およそ神聖なリングには似つかわしくない、禍々しい物体が握られていた。リング下のマネージャーから密かに手渡されたそれは、無数の釘が打ち込まれた恐るべき凶器、釘バットであった。

「えい♡」

 ダングラールは、愛らしい声を上げながら、躊躇なく釘バットを振り下ろした。狙うはウラシマの頭部である。

「ぴぎー!?」

 鈍い衝撃音が響き、ウラシマは悲鳴を上げた。幸いにも彼の頭部は、頑丈なヘッドギアで守られている。しかし、突き抜ける轟音と頭蓋骨を揺らされる衝撃は本物だ。

「……って、何当たり前みてーに釘バットでぶんなぐってるじゃん!? 凶器は反則じゃねーのか!? なんでレフェリーは笑ってみてるじゃん!?」

 ウラシマは、眩暈と混乱から頭を左右から手で押さえながらレフェリーに向かって猛然と抗議の声を上げた。しかし、裁くべきレフェリーは、明らかに口元をヒクつかせ、肩を震わせていた。

「わ、笑ってないぞ。ぷふ……笑ってない」

「ぜってー笑ってるじゃん!?」

 レフェリーのあまりにも不真面目な態度に、ウラシマは目を白黒させる。そんな彼を見下ろしながら、ダングラールは肩をすくめて優雅に笑った。

「言い忘れてたけど、私は悪役だ。そうそう、抗議すれば反則カウント取り始めると思うわよ」

「えっ」

 ウラシマは絶句した。EQTの特殊ルール、「抗議があって初めて反則の判定が下される」という狂った規約を、彼女は悪びれもせずに利用していたのである。

「……まりん、抗議するか?」

 ようやく笑いを収めたレフェリーが、真顔を作って尋ねてくる。

「まりんって呼ぶんじゃねーっ!? それはそれとしてよくわからんが、じゃあ抗議するじゃん」

「よーし、反則カウント、わーん」

 レフェリーが指を一本突き上げ、間延びした声でカウントを開始した。だが、カウントが始まったからといって、悪役が攻撃を止める義務はない。

「えいえい♡」

 ダングラールは再び、無慈悲に釘バットを振り下ろした。カンッ、ガンッという金属と硬質素材がぶつかり合う凄まじい音が、連続して東京ドームに響き渡る。すべてヘッドギアの上からとはいえ、執拗に頭部を狙った殴打である。

「ヘッドギアだからって遠慮がないじゃん、ガンガンうっせー!? つーか、まさかの殴打続行!?」

「カウント4までは反則はセーフだもの。……オラァ、フルスイング!」

 先ほどまでの愛らしい声色から一転、ドスを効かせた声と共に、ダングラールは腰の入った強烈な一撃を見舞った。

「ぐはぁっ」

 バキッという音と共に、ウラシマの頭部を守っていたヘッドギアが側面からの衝撃に外れ、リングの彼方へとふっとんでいった。無防備になった頭部を抱え、ウラシマは膝をつく。その瞬間、観客席からは悲鳴と歓声が入り混じったどよめきが巻き起こった。

「ふぉー!」

 レフェリーの反則カウントが4に到達する。

「よーし、ここまでだな。はい、凶器提出」

 ダングラールは何事もなかったかのように傍らのレフェリーへと釘バットを差し出した。

「うむ、たしかに。凶器没収ヨシ!」

「『ヨシ!』じゃないが!?」

 涙目になりながらも、ウラシマは必死のツッコミを入れずにはいられなかった。おちゃらけたノリにムー帝国の王子としての威厳はズタズタだが、彼のタフネスは決して削り切られてはいなかった。場内の空気が、コミカルなものから再び熱を帯びた闘気へと変わる。体勢を立て直したウラシマは、改めてダングラールと正面から組み合った。今度は様子見ではない。今度こそ、ここからが本当の勝負だった。

「じゃあ、そろそろ全力で胸を借りるとしよう!」

 しっかりと彼女の動きを封じようとしたその時、ダングラールのしなやかな脚が跳ね上がった。

「ほう? 面白いじゃん、オレの……ごふっ、腹ァ!?」

 彼女は組み合いの死角を突き、ウラシマの鳩尾を正確に射抜くように、キッチンシンクで鋭い膝蹴りを胸ではなく腹へと突き刺した。余裕の笑みを浮かべて受け止めようとしたウラシマだったが、みぞおちを抉るような鋭い一撃に、たまらずくの字に体を折り曲げた。

「誤差誤差♡」

 苦悶するウラシマに対し、ダングラールは悪戯っぽく微笑んでみせた。しかし、その瞳の奥には、冷徹な闘志の光が宿っていた。ダングラールは、前屈みになったウラシマの首筋を捉え、自らの肩へと深く合わせた。そのまま逆さに担ぎ上げようという試みは体格差を思えば、あまりにも無謀とも思える。だが、鍛え上げられた彼女の肉体は、その不可能を可能にしてみせた。彼女はウラシマの太い両脚をがっちりと掴み、全身の筋肉をバネのように収縮させた。そして、マットを強く蹴り上げ、強引にウラシマの巨体を逆さに担ぎ上げたまま、高く跳びあがったのである。

「さぁ、リングに華を咲かせるか、貴様の血でな!」

 その場跳躍式のマテマティカ、もしくは有名漫画で言う所のキン肉バスター。彼女の必殺技である『バーニングダングラールバスター』の完成形が、眩い照明の下で描き出された。空中でウラシマの重みがダングラールの肩と首、何よりその背骨と腰にのしかかるが、彼女は歯を食いしばってそれに耐え抜く。彼女は自らの尻からマットへと激しく落着した。その衝撃は彼女の背骨を伝い、肩に乗せられたウラシマの首と背中へと、逃げ場のない破壊力となって直撃した。

「がぁ……ッ!?」

 ウラシマの喉から、苦痛に満ちた絶叫が絞り出された。巨体がマットに叩きつけられる凄まじい地響きが、狂乱の渦にある会場の歓声を一瞬にして掻き消した。その静寂は、技の威力を誰より雄弁に物語っていた。

 破壊的な衝撃音がリング周囲の空間に木霊し、熱狂していた観客席が一瞬の静寂に包まれた。赤を基調としたハイレグ・レオタード風のリングコスチュームに身を包んだダングラールの渾身の必殺技、バーニングダングラールバスターが完璧な形で決まったのである。ウラシマの巨体がマットに沈み、片エビ固めでダングラールが丸め込む。レフェリーがすかさずマットを叩き始めた。

「ワン!」

 ダングラールは荒い息を吐きながらも、鋭い眼差しを赤いドミノマスクの奥で光らせていた。

「ツー!」

 エキシビジョンマッチとはいえ、強者との戦いに全力を尽くす矜持が彼女にはある。だが、音に聞こえたECT(アース・クラッシュ・トーナメント)ベストエイトに残った猛者がこのままスリーカウントで終わるはずがないとも感じていた。

 そして、レフェリーの手が三度目のマットを叩こうとした、カウント2.5の瞬間。ウラシマの分厚い肩は、やはり力強く跳ね上がった。

「耐えるか!」

 信じられないものを見るかのように、そして期待したものを見たかのようにダングラールが目を剥く。首と背骨に致命的なダメージを受けたはずのウラシマは、痛みに顔を歪めながらも、その垂れ目に不敵な闘志を宿してニヤリと笑った。

「悪いが……このくらいでムーの次期国王が倒れるわけにゃいかないじゃん!」

 彼は王族の証である太陽の紋章を発動していない状態であっても、その肉体のタフネスとスタミナは、常人の理解を遥かに超える。驚愕からの歓喜に一瞬だけ動きが遅れたダングラールは、それでも立ち上がり追撃へと踏み込んだ。だが、ウラシマは立ち上がりながら、彼女の動きを冷静に見切っていた。改めて突進してくるダングラールの腕を的確に捉えると、その力を利用して円を描くようにいなし、一瞬にして彼女の背後へと回り込む。

「今度はオレが本気ってヤツを見せてやる番じゃん! 食らえ!」

 ウラシマの両腕が、振り返るダングラールの頭部を押し下げ、脇の下から深く差し込まれ、彼女の背でがっちりとクラッチされた。リバースフルネルソンの体勢である。そのままウラシマは自らの強靭な足腰でダングラールを振り回し、その場で旋回を始める。そして、遠心力に振られてダングラールの足先がマットを離れた瞬間に、ウラシマは力強くマットを蹴って跳躍、ダングラールの体ごと宙へと跳びあがる。まるでヘリコプターのローターのように激しく回転しながら落下して叩きつけるウラシマの必殺技(フェイバリット)「ウラシマ渦潮落とし」の始動である。凄まじい遠心力が働き、ダングラールの黒い超ロングヘアが宙で激しく渦を巻いた。

「ぐっ……抜けられない……!? このままでは……それなら!」

 両腕を完全にロックされ、空中という逃げ場のない状況下で、ダングラールは絶体絶命の危機に立たされていた。このまま脳天から、あるいは背中から全力でマットに叩きつけられれば、いかに不屈の精神を持つ彼女であっても立ち上がることはできないだろう。だが、彼女は諦めなかった。背後で拘束されている腕の、ごく僅かな可動域と指先の感覚だけを頼りに、彼女は決死の反撃に出た。

 伸ばされたダングラールの指先が、旋回する遠心力に抗いながら、ウラシマの両耳を鷲掴みにしたのである。

「あだっ!? テメェ、耳を!?」

 予想外の激痛に、ウラシマが悲鳴を上げる。

「……引きちぎれる覚悟はあるか?」

 ダングラールの声には、緊張が含まれていた。このままフルパワーでマットに叩きつければ、ダングラールはKO必至、だが、その代わりにその落下の勢いと自重、そしてダングラールの執念のグリップによって、ウラシマの耳は根元から完全に千切れるだろう。ウラシマの脳裏に、その残酷な結末が本能的な恐怖としてよぎり、彼から一瞬の冴えを奪ったのだ。迷ったわけではない、だが無意識のうちに、ウラシマは叩きつける速度と角度を緩めてしまった。

 

 ズドォォォンッ!

 

 マットに叩きつけられる轟音。しかし、耳を庇ったことによって、必殺技の威力は致命傷を与えるには至らないレベルにまで落ちていた。

「ワン! ツー!」

 レフェリーのカウントが再び響く。しかし、カウントがスリーに到達する直前、二・九のタイミングで、ダングラールはしなやかな首ブリッジを描いてフォールを脱した。

「あ、あぶない……所だった……!」

 ダングラールは荒い呼吸を繰り返し、冷や汗を流しながらも、勝利への執念を燃やし続けていた。ウラシマは両耳の付け根からツツーと血を流し、痛みで顔を歪めながらも、目の前の超人じみた女戦士に対して心からの驚嘆を覚えていた。

「こいつ……とんでもねー女じゃん……!」

 無意識に威力をセーブしてしまったとはいえ、あれほどの技を食らってなお立ち上がろうとする精神力。どんな相手、どんな戦況からでも勝利を諦めない彼女の闘志は、決して虚勢などではない。しかし、限界が近いのは明らかだった。ダングラールは立ち上がったものの、足元が定まらずフラフラとリング上を彷徨う状態になっていた。ウラシマはその隙を見逃さない。彼の垂れ目に灯る炎に、闘志だけでなく敬意が加わった。

 彼は深く沈み込むと、バネのように跳躍した。空中で見事なえび反りの姿勢をとり、両手で自らの足を引き絞る。まるで弓にギリギリまで張られた弦のような、極限のテンション。そして、解き放たれる。

「ロブスターキックじゃん!」

 鞭のようにしなったウラシマの蹴りが、ふらつき無防備なダングラールの顎を正確に、そして冷酷に蹴り抜いた。

「かはっ!?」

 脳髄を直接揺らされるような強烈な衝撃。ダングラールの視界が白く飛び、意識が闇へと落ちかける。完全にグロッキー状態となり、その場に崩れ落ちそうになる彼女を、ウラシマは素早く捕獲した。もはや彼女に抵抗する力は残されていなかった。ウラシマはダングラールの腕を取り、自らの体に絡みつけるようにして複雑なロックを完成させていく。それは従来の卍固めの形をとりながら、さらに相手の脚を股裂き(レッグ・スプレッド)のように極める、ウラシマ独自の恐るべき複合関節技であった。

 彼の得意技、「スーパー・オクトパス・ホールド」である。

「どうだァ! 大した女だが、これで終わりじゃん!」

 ウラシマは勝利を確信し、高らかに叫んだ。彼の腕と脚が、ダングラールの首、肩、脇腹、そして股関節を同時に、そして無慈悲に締め上げていく。ギリギリと、ダングラールの全身の骨格が悲鳴を上げ、筋肉が千切れるほどの苦痛が彼女を襲う。この技の恐ろしいところは、技を掛けているウラシマ自身が、片足一本で立っているという点にある。一見すると不安定で、簡単に逃げられそうに見えるのだ。

「あ……あぁ……!? ぐっ……揺すっても暴れても、こゆるぎもしないとは……!?」

 激痛に耐えながら、ダングラールは必死に体をよじり、脱出を試みる。しかし、彼女がもがけばもがくほど、ロックはさらに深く食い込んでいく。ウラシマの強靭な足腰と、幼少から体に叩き込まれた修練が為さしめる絶妙なバランス感覚が、この技を鉄壁の牢獄へと昇華させていた。

「オレの体幹とバランス感覚、舐めんじゃないじゃん! さぁ、ギブアップするじゃん!」

 ウラシマがさらに力を込めると、ダングラールの口から声にならない呻きが漏れた。

「ぐあぁぁ……くっ……」

 視界が明滅し、呼吸すらままならない。燃える闘魂だけが彼女の意識を繋ぎ止めていたが、肉体はすでに限界を突破していた。

「……ギ……」

 もはやこれまでか。彼女の唇が、敗北を認める言葉を紡ごうと震える。その震えは、まるで最後の火が消えかける蝋燭のように弱々しかった。

 

 まさにその瞬間だった。

 

 カンッ! カンッ! カンッ! カンッ! カンッ!

 

 15分間しかないエキシビジョンマッチの試合時間、そのフルタイムドロー、時間切れを告げるゴングが、両者の闘いを終わらせる合図として、東京ドームに高く鳴り響いたのである。地鳴りのようなスタンディングオベーションと、両者の健闘を讃える割れんばかりの大歓声が天井から降り注ぐ。場内各所に設けられた放送局や配信会社によるいくつかの特設放送席では、それぞれの実況アナウンサーと解説者が興奮冷めやらぬ面持ちでカメラに向かい、今しがた繰り広げられた男女の枠を超えた凄絶な死闘を熱っぽく振り返っていた。だが、眩い照明に照らされたリング上の二人にとって、その喧騒は分厚いガラス越しに聞くような、遠い世界の出来事にすぎなかった。

 青と紺を基調とした全身タイツ風のリングコスチュームを幾重もの汗で黒く変色させたウラシマは、重い足取りでロープ際まで後退すると、太い両腕をトップロープに預けてうなだれた。肩で激しく息をする彼の両耳の付け根からは、ダングラールに渾身の力で鷲掴みにされた時の傷跡から赤い血が流れ落ち、顎のラインを汚している。

(くっ……。ムー帝国の誇る高度な医療技術をもってすれば、耳の一つや二つが千切れたくらいは、後からいくらでも簡単に再生治療が可能じゃん。肉体的な損失など、本来であれば恐れるに足らない些事。……なのに、あそこでオレは全力を出し切ることができなかったじゃん。ウラシマ渦潮落としの落着の瞬間、痛覚への本能的な恐怖がオレから戦士としての冷徹さを奪ってしまったのだ。これはひとえに、オレ自身の精神的な未熟さ故じゃん……!)

 自らの心の弱さを噛み締めるように、ウラシマはギリッと奥歯を鳴らした。一方、対角線上のコーナー付近では、ダングラールがセカンドロープに背中を預け、ずるずると座り込んでいた。赤を基調とし、金色の縁取りと紫のアクセントが入ったハイレグ・レオタード風のコスチュームは激闘の証として乱れ、艶のある黒の超ロングヘアが汗で白い肌に張り付いている。彼女の胸元もまた、酸素を求めて激しく上下を繰り返していた。

(ゴングに救われたな……。時間切れを告げるゴングの音がなければ、私はギブアップを口にしていた……)

 ダングラールは、スーパー・オクトパス・ホールドによって限界まで締め上げられた全身の関節の軋みを感じながら、ぼんやりと対角線上に立つ巨漢を見つめた。

(あの男、悔しいが底知れない強さを持っている……。あれを真正面から受け止めてなお立つ者が、どれほどいる……? あの巨体から生み出される規格外のパワーと、精密なテクニックが融合した戦いぶり。ひょっとしたら、エディよりも……!)

 ややあって、ウラシマが顔を上げ、垂れ目を細めてダングラールを見据えた。

「仕留めきれなかったとは……。お前、ほんとに面白れー女じゃん」

 その言葉には、悔しさよりも、強敵と出会えた喜びと素直な称賛が入り交じっていた。ダングラールはドミノマスクごしに彼を見返し、不敵な笑みを口元に浮かべる。

「ふん……。あのままやっていたら、私が負けていたと素直に認めよう。お前は大した戦士だ」

 互いの全力をぶつけ合った者同士にしか分からない、確かな敬意がそこにはあった。

 

 しかし、その清々しい余韻は、ウラシマという男の生来の気質によって唐突に塗り替えられることとなる。ダングラールの言葉と、激闘を経てもなお失われない彼女の気高く妖艶な美しさに、ウラシマの胸が高鳴り始めたのだ。かつて来日した際に美樹に一目惚れした時と同じ、惚れっぽい坊ちゃん気質がここで顔を出した。ウラシマは、先ほどの猛々しい戦士の顔から一転、少しモジモジとした様子でダングラールへと歩み寄った。

「あ、あの……よかったら、オレと結婚を前提に交際を……あ、いや、最初は軽い気持ちでのおつきあいでも全然構わないじゃん?」

 190センチの大男が頬を染めながら放った唐突すぎる純朴で空気を読まない申し出に、ダングラールは目を丸くした。

「は?」

 彼女は数秒の沈黙の後、呆れたように小さく息を吐き出した。

「ああ、そういうこと……ナンパか。悪いな。私はエディ一筋なんだ。私の心はすでに決まっている。他をあたってくれ」

 一切の迷いなく、彼女はウラシマの申請を切り捨てた。しかし、ダングラールの口から出た「エディ」という名前に、ウラシマのプライドと独占欲が首をもたげた。

「エディ? だれじゃん、その男は?」

 ウラシマは勝手に「エディ」という名前の筋骨隆々とした男を想像し、ギリッと拳を握りしめた。己より強いのか、いや、そんなはずはない。胸の奥がざわつくこの感覚は、戦士としての闘志とはまるで別物だった。

「オ……オレはなんなら、力づくでもその男から……!」

 勝手に定めた恋敵への闘争心を燃やすウラシマの背後──リング下から、切羽詰まった声が飛んできた。

「王子! おーじ!」

 声の主は、ムー帝国から彼に付き従ってきた側近のヒラメ子だった。彼女はエプロンサイドに身を乗り出し、見慣れないタイプのスマートフォンを握りしめながら必死にウラシマを呼んでいる。その隣では、もう一人の側近であるイカ子が、心底呆れ果てた顔で頭を抱えていた。

「何じゃん、ヒラメ子! オレは今、この美しい女戦士と大事な話をしてる所で……」

「エディさんっていうのは、オトギプロレスリングって団体の社長兼レスラーで……」

 ヒラメ子はウラシマの言葉を遮り、画面に表示された情報を早口で読み上げる。情報提供と知ったウラシマは現金にも瞬時に聞く体勢にうつってヒラメ子の前にすべりこみ、正座で耳をそばだてた。

「ほうほう、オトギプロレスリング……そこへ行けば会えるってわけじゃん。よーし、そのエディとかいう野郎をオレが完膚なきまでに叩きのめして……」

「女性です」

 ヒラメ子が、無慈悲な事実を突きつけた。

 振り上げようとしていたウラシマの右腕が、空中でピタリと止まる。

「ん? ……ごめん、ちょっと今、耳の調子が悪くて聞き間違えたかな? 今、女って聞こえたような?」

 ウラシマが引きつった笑顔で聞き返すと、イカ子が深くため息をつきながら念を押した。

「ヒラメ子は女性って言いました。エディ・ダンテスは女性ですよ、王子」

「え、ええーーーっ!?」

 ウラシマの素っ頓狂な叫び声が、熱気の残るドームに間抜けに響き渡った。

 

 ダングラールは、そんなウラシマと側近たちのコントのようなやり取りを見て、ふふっと小さく笑いを漏らした。高慢な悪役の仮面の下に隠された、素顔の寂しがり屋な一面が少しだけ覗いた瞬間だった。彼女はゆっくりと立ち上がり、乱れた燕尾状の腰布を整えると、呆然と立ち尽くすウラシマの前に進み出た。

「放心してるとこ悪いが、先にあがらせてもらうぞ、ウラシマ・まりん」

「あ、おい……待つじゃん!」

 ウラシマが慌てて手を伸ばそうとしたその瞬間、ダングラールはその手をとってふわりとウラシマを引き起こし、彼との距離をゼロにまで詰めた。

「……誘いを断って悪かったな。それと、楽しい試合だった。ありがとう」

 彼女は優雅な所作でチークキスを、ウラシマの頬に軽く落とした。チュッ、という小さな音がウラシマの耳元で鳴る。ダングラールはそのまま颯爽と背を向けると、艶やかな黒髪を揺らしながら、観客に向かって軽く手を振ってリングを降りていった。強豪レスラーの一人としての矜持と、大人の女性としての美学を完璧に保ったままの、見事な退場劇であった。

 リングに取り残されたウラシマは、完全に硬直していた。彼は、ダングラールの柔らかい唇が触れた頬を指先でそっと触れる。顔は瞬く間に茹でダコのように真っ赤に染まり、大きく見開かれた垂れ目は、花道を去っていく彼女の後ろ姿をただぼうっと見つめ続けていた。その姿は、さっきまで死闘を繰り広げていた戦士とは思えないほど無防備だった。

 

「…………」

 言葉すら発することができない。強靭な肉体と精神を持つムー帝国の次期国王は、たった一回のキスの前になす術なく骨抜きにされていた。

「王子、我々も退場しましょうよ」

 ヒラメ子がリングサイドから声をかける。

「めっちゃ注目されてて恥ずかしいんですけど? ……王子?」

 ウラシマはピクリとも反応しない。魂が抜けたように立ち尽くしている。その体たらくに、ついにイカ子の堪忍袋の緒が切れた。彼女はどこからともなく取り出した、己の体ほどもある巨大なイワシを両手で振り被ると、リングに飛び上がった。

「王子のばかーーーーー!!」

 ぐわしっ! という鈍い音と共に、銀色に光る巨大イワシの一撃が、無防備なウラシマの後頭部にクリーンヒットした。

「でいッ!?」

 不意打ちを食らったウラシマは前のめりに倒れ込み、情けない悲鳴を上げる。

「な、なんで殴るじゃん!? イカ子!?」

 後頭部を押さえながら涙目で抗議するウラシマに対し、ヒラメ子が氷のように冷ややかな視線を向けて言い放った。

「自分の胸に聞いてみたらどーです?」

 

 観客席からは、先ほどの死闘の緊張感を吹き飛ばすような、温かい笑い声と万雷の拍手が巻き起こっていた。こうして、EQT(アース・クェイク・トーナメント)の波乱を予感させるエキシビジョンマッチは、大歓声の中で幕を閉じたのである。しかし、この熱狂もまた、これから始まる物語の序章にすぎなかった。

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