「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
──やはり、野戦病院のようになったな。
研修医や医大生たちが、続々と落ち着かない足取りで医務室へ入ってくる。緊張がそのまま顔に出ている者もいれば、場の空気に呑まれまいと無理に平静を装っている者もいる。
プロレスファンだろうか? 中には緊張の気配も無く壁のモニターの会場風景に気を取られている猛者もいるようだ。私は彼らの表情を一瞥し、胸の奥に小さなため息を押し込んだ。
予選リーグが執り行われる大会二日目。総勢96名からなる予選16ブロックの同時進行という、正気を疑うような競技形式に合わせて、大学病院から応援の若手が派遣されてくるのは聞いていた。だが、実際にこうして目の前に並ぶと、彼らの頼りなさよりも、この大会の規模の異常さのほうが先に胸に迫ってくる。
「各ブロックは4つずつを班で担当してくれ。半分は西の第二医務室が処理してくれる。午後に交代が来るはずだ。遊撃班は二つ、交代で動いて手が足りない班を補助する。判断に迷った患者は……私に回してくれ」
言いながら、永久寸(とわすん)は自分の声が思った以上に落ち着いていることに気づく。落ち着いているのは、慣れているからではない。ただ、戸惑ったところで事態は解決しないと諦めているからだ。
研修医の一人が、おずおずと手を挙げた。
「主任……判断に迷う、というのは……?」
「トリアージチェックで迷うケースは軽度も重度も全部だ。機材はともかく手が足りん以上、時間が最大の敵だからね」
簡潔に答えると、彼は息を呑んで頷いた。彼らの不安は理解できる。私だって、この大会の話を聞いたときは同じように息を呑んだのだから。
医務室の壁一面に並んだモニターにはEQT大会委員会が契約した公式配信向けに渡される各ブロック用のカメラがとらえた映像が素のまま映し出されている。必要に応じて現場を見れるようにという配慮なのだろうが、その潤沢な資金源はいっそ羨ましさすら感じる。東京ドームのアリーナ内に16のリングが整然と並び、まだ開始前にも関わらず観客席のざわめきが画面越しにも圧となって押し寄せてくる。
わかっていたはずなのに、実際に目にするとため息が漏れた。本当に、16試合同時にやるのだな。
そこへ、搬送スタッフが医務室の扉を叩いた。
「永久寸先生、動線の最終確認をお願いします」
私はモニターから意識を引き剥がし、現実の仕事へ戻る。混沌の予選リーグが始まる前に、確認すべきことはいくらでもあった。胸の底で澱のように残る、この規模でイレギュラーが起こらないはずがないという嫌な予感を押し殺しながら、私は搬送スタッフの代表者と挨拶を交わした。
────────────────────
──そして、会場では全ブロックの初戦開幕を告げるべくゴングが打ち鳴らされる時を待っていた。
EQT(アース・クェイク・トーナメント)の開催会場である東京ドーム。そのアリーナ内に設置された16基のリングを眩い照明が照らし出す。世界中の若手・軽量級レスラーが本戦出場を賭けて争う予選リーグは、16ブロック同時進行という異様な形式のせいもあって、熱気とざわめきが複雑に渦を巻いていた。そのリング群の内の一つ──Gブロック予選の特設リング。世界中が注目するこの舞台の一角で、太平プロレスに所属するデビュー二年目の若手選手「デンジャー・サチ」は、かつてないほどの高揚感に包まれていた。
「いえ~い、サチだよ~! 今日ははりきっちゃうから応援してね~!」
リボンで纏めた茶髪のサイドテールを揺らし、トリコロールカラーのハイレグワンピースという可愛さと色気を併せ持つリングコスチュームに身を包んだサチは、対戦相手であるイタリア代表選手の一人、「ゾーザ・ラ・ヴィペラ」を指差し、不敵な笑みを浮かべる。
太平プロレス単独では用意できない程の大きな会場(ハコ)に詰めかける満席の観衆の視線、熱気、そして巨大空間特有のざわめきが反響する音圧までもが、サチの自尊心をくすぐっていた。その雄姿に大舞台への気負いや緊張という物が一切感じられないのは、彼女の図々しさというか、図太さというか……とりあえず肝が据わっているのは間違いなかった。
対するゾーザは、銀髪のボブに緑のメッシュを覗かせ、微かな笑みを張り付けたまま、冷徹な若草色の瞳でじっとサチを見据えている。その立ち姿は微動だにせず、観衆の喧騒すら届いていないかのような静謐さをまとっていた。左頬に刻まれた蔦のようなペイントが、照明に照らされるたびに陰影を変え、不気味な威圧感を放っている。
リングサイドのセコンドエリアでは、ジャージ姿の練習生が二人、背筋を伸ばしてリングを見つめていた。眩い照明の熱、観客のざわめき、世界大会特有の張り詰めた空気――そのすべてが、いまだデビューも遠い基礎鍛錬中の彼女には胸を圧迫するほどの重さとなってのしかかってくる。黒髪をショートに切り揃えた方の女子練習生が堂々たるサチを目を輝かせて見上げる。大観衆を前にしても笑って手を振り、まるでこの舞台が自分のために用意されたかのように振る舞っている。その背中は、眩しくて、誇らしくて、そして少しだけ怖かった。
対角のゾーザを見て、思わず練習生の喉がひゅっと鳴った。あの冷たい若草色の瞳は、まるで獲物を値踏みする爬虫類のようだ。サチは強い。でも、相手は世界の強豪。胸の奥に小さな不安が芽を出す。
(大丈夫。サチ先輩なら勝てる)
そう言い聞かせるように、黒髪の練習生は拳を握りしめ、声を張った。
「サチ先輩……いけます! 私、全力で応援してます!」
声は震えていたが、サチは振り返ってニッと笑い、親指を立てて応えてくれた。その一瞬の笑顔が、練習生の胸を熱くする。――絶対に勝ってほしい。先輩の力を信じたい。
カーン!
ゴングの音が響くと同時に、サチが弾かれたように飛び出した。
「えいっ!」
小気味よい掛け声とともに、サチの両足がゾーザの胸元を正確に捉える。鮮やかなドロップキックだ。まともに食らい、もんどり打って背中からマットに倒れ込んだゾーザを見下ろし、サチは腰に手を当てて言い放った。
「ふふん、ソッコーで無様に転がされてどんな気持ち? あはっ、ざーこ♡」
挑発的な言葉とは裏腹に、サチの動きは冴えていた。周囲の特設SSS席から、小さな歓声がいくつも弾ける。16面同時進行の大会予選リーグ中ゆえにその歓声は散漫で場内一斉のどよめきとはいかないが、それでもサチの鮮やかな攻めに反応した観客が、思わず身を乗り出しているのがわかる。
「おっ」「今の速いな」「サチちゃんにザコ煽りされたい人生だった」
そんな断片的な声が、リングの周囲で小さく渦を巻いた。だが、挑発を受けたにもかかわらず、ゾーザは反応もせず、表情ひとつ変えないまま無言で立ち上がろうとする。その動きには焦りも苛立ちもなく、ただ何かを測っているかのような不気味さがあった。その右足に飛びつき、サチは逃さず両腕で抱え込んだ。
「その足いただき!」
身体を鋭く回転させ、「ドラゴンスクリュー」を炸裂させる。ゾーザの膝が嫌な角度にねじれ、マットに吸い込まれるように鈍い衝撃が走った。彼女は文字通り出足をくじかれて再びマットに転倒し、わずかに眉をひそめたが、声は漏らさない。
サチは攻撃の手を緩めない。膝を抱えて身悶えるゾーザに向け、その豊かな肉体を生かした追撃を見舞う。
「ほらほら、潰されちゃえ!」
勢いよく宙に舞い、倒れたゾーザの腹部目掛けてヒップドロップを投下する。衝撃がマットに響き、周囲の観客の視線が一斉にリングへ吸い寄せられ、付近の観客席から小さな歓声と息を呑む気配が混じって漏れた。
サチはそのまま、ゾーザの身体の上に生意気な笑顔を浮かべて座り込んだ。腰をぐりぐりと押しつけ、上下関係をマウントで示して挑発するように上体を揺らす。ゾーザの腹筋がわずかに震え、僅かに口の端が歪んだ。
サチの快進撃は止まらない。ゾーザをマットに這わせたまま、うつぶせに転がすと、その背後から力強く抱え込んだ。グラウンド・ベアハッグだ。小柄な体格ながら、的確に肩を当てる背のポイントを調整し、無駄なく力が伝わる角度でしかけられた技によって、サチの両腕がぐいぐいと食い込むようにゾーザの胴を締め上げる。ゾーザの身体がもがくように身じろぎ、硬い呼気のまじった呻きが漏れた。
「オラぁ! このままキメちゃうぞーっ!」
初めて耳にしたゾーザの苦悶の声に「効いている」手応えが走り、肩を当てた背骨がきしむような感触が身体越しに伝わる。サチはその確かな反応に勝利への道筋を見た。
雑誌などの前評判では、海外勢には実力で劣るだろうなどと失礼なことを言われていたが、今の自分は絶好調だ。決して若手のエース級相手だって引けを取らないに違いない――そんな確信が根拠もなく胸の奥で熱を帯びていた。
「いけるぞ!」「締まってる!」「間に挟まりたい!」
観客席のあちこちからも、散発的に声が飛ぶ。それがまたサチを調子づかせていた。このまま締め続けてスタミナを奪い、華麗にフィニッシュを決めて海外選手を圧倒しての勝利、世界に「デンジャー・サチ」の名を轟かせる
――はずだった。
サチの腕から、突然すとんと力が抜けた。
「……あれ?」
締め上げていたはずの感触が、砂利を握った手から零れ落ちるみたいに消えていく。逃がしたわけじゃない。自分の意志がどこにも届かない。腕も、背中も、脚も、順番にスイッチを切られていくように弛緩していく。ゾーザは、サチの困惑など存在しないかのように、スルリと拘束を抜けた。その動きには重さがなく、影が形を変えるみたいに自然だった。そのまま、音もなく立ち上がる。まるで最初から倒れていなかったみたいに。
「……っ、逃がさないんだから……!」
追撃に移ろうとした瞬間、今度は視界がぐにゃりと傾いた。白い光が網膜にべったり貼りつくようだ。上下の感覚が消える。リングのロープが波打って見え、足裏がどこにあるのかも曖昧になる。
「な、なに……これ……」
膝が笑う。足元が綿菓子みたいに頼りなく、踏みしめたはずの床がふわりと沈む。呼吸のリズムが勝手に乱れ、胸の奥がざわつく。
観客席の空気が、わずかに揺れた。サチの急激な失速に気づいた観客が首を傾げる。ぽつぽつとあがる不審げな声、戸惑いの吐息。それらが静かなざわめきとなって、リングの周囲に薄く広がっていった。
サチは自分の脚が自分の物ではないような感覚に陥り、無様にリングへ膝をついた。激しい動悸と、喉の奥からせり上がる不快な痺れ。何が起きているのか理解できないサチの耳元で、冷たく、低く、湿り気を帯びた声が響いた。
「おやおやどうしたんだい? 調子でも悪いのカナ?」
先ほどまでの無機質な表情とは打って変わり、ゾーザの顔には嗜虐的な冷笑が浮かんでいた。彼女は跪くサチの背後に回ると、その細い身体を蛇が獲物を締め上げるように絡め取った。
「ぐ、あ……っ!?」
強烈な関節技「コブラツイスト」がサチを襲う。先ほどまで自分が攻めていたはずのリング上という輝かしい舞台が、一転して地獄の底へと姿を変えた。ゾーザの腕が、足が、サチの急所を的確に圧迫し、逃げ道を塞ぐ。締め上げられるたび、背骨の周囲が熱を帯び、視界の端がじわりと暗くなる。
「ボクの毒、少しは回ってきたかな?」
ゾーザはサチが苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返すのを愉しむように、じっくりと時間をかけて締め上げ続ける。
「ど……く? 何を……言って……あぅぅ!?」
サチが悶えるたびに、ゾーザの腕の力が増していく。毒による脱力感と、脊髄を突き抜けるような激痛がサチの意識を混濁させた。
サチが苦痛に身をよじるのが見えた瞬間、セコンド席の黒髪の練習生は息を呑んだ。
(やっぱり……おかしい)
今はもう技を極められているから苦しんでいるのはわかる。だが、胸の奥に引っかかるものがあった。そうだ――さっきの転倒だ。サチは足運びが軽い。多少のフェイントや接触では崩れない。それなのに、あのときはまるで脚から力が急に抜けたみたいに膝をついた。ただバランスを崩したにしては、あまりにも不自然だった。今の動きも同じだ。ゾーザに締め上げられているとはいえ、サチの身体は力が入っていない。腕も脚も、抵抗しようとしているように見えないのだ。
(サチ先輩……どうしたんですか……?)
胸がざわつく。セコンドの練習生はリングに釘付けになったまま、拳を握りしめた。サチの呼吸は荒く、焦点の合わない目が宙を泳いでいる。その姿は、技を受けているレスラーというより、何かに体を奪われているホラー映画の被害者のようだった。
(まさか、本当に……体調が……?)
不安が喉元までせり上がる。いや、しかし試合前にそんな兆候はなかった。少なくとも彼女には感じ取れなかった。だが、今は何かが起きている。それだけは確かだった。だがその「何か」が見えない。リング下から見えるのは、ただ「異常」という事実だけだった。
サチの身体がぐったりと力を失い、マットに崩れ落ちようとしても、ゾーザは容赦しなかった。
「おいおい、もうちょっとがんばれよ」
ゾーザはそのまま、サチのサイドテールを乱暴に掴み上げた。髪の毛の根元から引き抜かれるような衝撃がサチを襲う。ゾーザは抵抗する力を失ったサチの髪を掴んだまま、リング内を引きずり回すヘアー・ホイップを繰り出した。マットと摩擦する皮膚の痛み、そして何より、髪を掴まれて引きずられるというレスラーとしての屈辱がサチを打ちのめす。
一度では済まない、ゾーザはリングの中央で何度もサチを引き回し、振り回した。サチの細い身体は、まるで意思を持たない人形のようにマットの上を跳ね、滑る。首にかかる負担は限界に近く、視界はさらに暗く、歪んでいった。ゾーザはサチの苦悶に満ちた表情を間近で観察しながら、蛇が獲物をなぶるように、ゆっくりと、逃げ場を与えず、サチの戦意と肉体を確実に削り取っていった。
ゾーザは邪悪な笑みを浮かべ、膝をついて喘ぐサチの喉元へ、硬い肘を叩き込んだ。エルボー・バットの衝撃が、毒によって感覚が過敏になったサチの気管を直撃する。一撃ごとにキャンバスに倒れ伏したサチの小さな体が跳ね、酸素を求める口からは掠れた音すら漏れない。乱打されるエルボーの鈍い音がざわつく周囲の観客席まで響き渡り、ついにサチの瞳からは絶望の涙が溢れ出した。
ゾーザは抵抗する力を失ったサチの背後に回り込み、その細い首筋と腕を絡め取るようにして、変型三角絞め「スネークバイト」を極めた。逃げ場を失ったサチの頸動脈が強く圧迫され、ただでさえ霞んでいた視界が急速に暗転していく。呼吸の通り道が細くなり、胸の奥で心臓の鼓動だけが異様に大きく響く。
「苦しい? 辛い? ギブアップしちゃいたいよな? ひひ、でも喋れないでしょ?」
ゾーザはサチが落ちてしまわないように絞めをほんのわずかに緩めて調整しながら、サチの耳を甘噛みするように顔を近づけて、耳元で残酷に囁く。サチは朦朧とする意識の中で、せめてタップしてこの地獄を終わらせようと、震える右手をマットへと伸ばした。しかし、その指先がマットを叩く寸前、ゾーザの白いリストバンドの先のしなやかな手指が、サチの手首を捕まえた。ゾーザはサチの指先を一本ずつ自分の指で絡め取り、恋人と手を繋ぐような形で気味悪く固定する。その握り方は優しさの形だけを真似た、逃げ場を奪うための拘束だった。
物理的にタップすることを封じられたサチは、声も出せず、降参の意思表示すら奪われたまま、絞め技の苦痛の中に放置される他ない。
「ボクの毒、神経を冒すんで……キミはギブアップできないよ? ボクが満足するまでいたぶってあげる」
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場面変わって、予選リーグKブロックのリング。そこで行われていたのは、若手男子レスラー同士の、息の詰まるような神経戦であった。
「ぐ、あああぁぁっ……!」
マットに突っ伏すように押さえつけられて顔を震わせ、苦悶の声をあげているのはドイツ代表のユングライヒだ。その右腕は、試合序盤から徹底して日本代表選手の一人、ボーティス神宮寺の執拗な関節技攻撃によって狙われ続けていた。今も神宮寺により美しくも冷酷な「脇固め」が極まり、完全に動きを封じられている。
新興団体「ノワール・ゲート」に所属するインテリジェンスファイターを自認する男による一方的な攻勢。観客席がどよめく中、神宮寺は極めた腕の角度をミリ単位で調節しながら、うつ伏せのユングライヒの耳元へ顔を近づけた。場内の騒音に紛れ、レフェリーや配信の集音マイクにも絶対に拾われない二人だけが認識できる小声。
「……君はバランスのとれた良い選手だが、どうやら一月前の試合で受けた脱臼の処置が、あまり良くなかったようだね」
ユングライヒの身体が、驚愕でびくりと跳ね上がった。
「な、何を……!」
「隠しても無駄さ。亜脱臼気味で、ずいぶんと外れやすくなっている。このまま少し角度を工夫して、僕が体重を乗せると……おそらく、ね」
神宮寺の瞳が、爬虫類のような冷たさで光る。敢えてテーピングを巻かないことでウィークポイントを隠蔽していたつもりだった。それを、この男は事前の徹底的な情報収集によって見抜いていたのだ。
「だが、僕は話の通じる男でね。ここで選ばせてあげよう」
神宮寺は悪魔の誘いのように、淡々と選択肢を突きつける。
「今すぐギブアップして初戦一敗をつけ、万全の状態で残りのリーグ戦全勝を狙うか。それとも意地を張って肩を完全に破壊され、絶望的な状態で残りの四戦を迎えるか。……どうする?」
ユングライヒの脳裏に、最悪の結末がよぎる。リーグ戦はまだ始まったばかりだ。ここで壊されれば、彼のEQTは完全に終わる。神宮寺の指先に、じわりと力がこもった。外れる寸前の肩関節が悲鳴をあげる。
「……っ、クソ……! あ、ああっ……!」
屈辱に歯を食いしばりながら、ユングライヒは自由な左手でバチバチとマットを叩いた。
カン、カン、カン、カン!
「ギブアップ! 勝者、ボーティス神宮寺!」
試合時間、5分22秒。涼しい顔で立ち上がり、レフェリーによって勝ち名乗りを受ける神宮寺を、ユングライヒは右肩を抱えながら呪わしげに見上げるしかなかった。肉体を破壊せず、精神をへし折って勝ち点を毟り取る。それもまた、この過酷な世界大会の一つの現実であった。
神宮寺は、リング下にちらりと視線をやる。つられて目を向ければ、彼のセコンド係を務める団体練習生がユングライヒのセコンド係にメモを手渡していた。
「……多少の無理が利くようになる、良いテーピングの処方箋(レシピ)さ。気に入ったら役立ててくれ。良い取引だったよ、ユングライヒ」
「あ、ああ……」
背を向けたまま、観客の声援に手を振って応えながらリングを降りていく神宮寺。ユングライヒは彼のリングネームの意味を心から理解し、戦慄していた。
──ボーティス、それはソロモン72柱において過去と未来を見通し、敵味方の境界を揺さぶるとされる悪魔の名。
しかし、知略によって「選択の余地」を与えられたユングライヒは、まだマシな方だったのかもしれない。同時刻、Gブロックには選択の自由すら奪われ、ただ純粋な悪意によって貪られるだけの、一匹の生贄が転がされていたのだから――。
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ゾーザはしばし「スネークバイト」で断続的に窒息の恐怖を味わわせると、サチが完全に意識を失う寸前で技を解いた。だがそれは慈悲ではない。すぐさま、さらに激痛を伴う執拗な関節技「アナコンダバイス」へと移行した。サチの肩関節が限界まで引き絞られ、ミシミシという嫌な音が彼女の脳内に直接響く 。通常なら耐えきれるはずの強度の技であっても、今の鋭敏に尖らせられたサチの神経には恐るべき苦痛に感じられる。サチは激しい痙攣を起こし、青いリングシューズを履いた足をバタつかせるが、ゾーザは冷徹な若草色の瞳でその様を観察し、数分間にも及ぶ──サチにとっては永劫とも思える──責め苦を与え続けていた。関節が悲鳴を上げるたび、視界の端が白く弾け、呼吸のリズムが勝手に乱れる。その上、ゾーザは、レフェリーが止めない程度に力を抜いては締め直し、苦痛だけを長引かせるのだ。
「さんざ調子に乗る姿はまぁ……可愛かったよ? ちょっとムカついたけどね」
ようやく技を解いたゾーザは、虫の息となったサチの腹部に、自身の鋭い膝を突き刺すキッチンシンクを見舞った。
「ぐ……あ……っ!」
サチの胃の腑を抉るような衝撃。内臓がひっくり返る感覚に、サチは胃液を吐き戻しながらマットを転がる 。その絶望の底で、彼女はゾーザの低い独り言を聞いた。
「もしかして悪くなったドリンクとか飲んだ? 控室にある蓋の空いたボトルの飲み物なんか不用心に飲んじゃアブナイぜ? ひひひ」
その言葉に、サチの思考は停止した。
──心当たりは……あった。
試合前から自分の敗北は約束されていたのだ。卑怯な手段で、自分の輝かしい舞台を汚された屈辱。胸の奥で何かが崩れ落ち、怒りも悔しさも声にならず、ただ熱だけが喉に詰まる。
「とは言え、崩れ落ちるまで開始から4分ちょい? ……やっぱ次からは『すぐ効くヤツ』を試合中にプレゼントした方がいいかな、用心深いヤツも多いだろうし」
しかし、悔しさを叫ぶ力すら、もうサチには残されていない 。
「サチちゃんと違って、な? ひひ」
ゾーザは己の唇を舐めて──哂った。
タオルを握る手が震えていた。汗で湿った布が指に貼りつき、握り直すたびに重さが増していくように感じる。投げれば終わる。投げなければ、もっと悪いことが起きるかもしれない。そのどちらも怖かった。リングの上で、サチは倒れたまま動かない。いや、動けないのだ。それでも、まだ戦えるのかもしれない――そんな淡い期待が、判断を鈍らせる。
横で、もう一人の女子練習生が泣きそうな顔でこちらを見ている。
「どうしよう」「止めるべき?」声にならない声が、唇の震えだけで伝わってくる。その視線が、胸に刺さる。自分が決めなければいけない。でも、自分が決めていいのか。サチの世界大会での戦績を、練習生の自分が左右してしまう。そんな重責を背負う覚悟なんて、自分にはまだできていなかったのだと、今はじめて思い知らされた。セコンドというのはこういう仕事なのか。
あるいはこの場にセコンドとしてついているのが、サチの指導担当であるベテラン中堅レスラーのバッカスであれば的確に判断できたのだろう。しかし、EQTの大会規定により、助言・偵察・介入の抑制を理由に、各選手のセコンドに現役選手がつくのは禁止されている。
(決められるのは自分しかいない)
黒髪の練習生の心は今にも砕けそうだった。
ゾーザは、もはや自力で上半身を起こすことすらできず、死に体の人魚のように横たわって喘ぐサチの茶髪を再び掴み、カメラの前にその涎塗れの無様な顔を晒した。その動きが視界の端に入った瞬間、練習生の心臓が跳ねた。
(――やばい――早く……)
腕が動かない。タオルが重い。ただの布切れなのに、どうしてこんなに重いんだ。
「ふぅ、お人形遊びもそろそろ飽きたし、終わろっか。ボクの技でゆっくりお休みよ……『ざーこ♡』」
ゾーザの声が聞こえる。でも、頭が真っ白で意味が入ってこない。ゾーザは意識が完全に朦朧としているサチの背後から、その片腕を首に巻きつけ、もう片方の腕を脇の下から通してクラッチした。
――「コブラクラッチ・スープレックス」の構えだ。
理解した瞬間、喉がひゅっと鳴った。
「待って……」
黒髪の練習生の口から小さな声が漏れた。だが、そんなか細い声などリング上に届かない。届いたところで意味もない。止めるならタオルを投げるしかない。練習生の手がタオルを握りしめる。
だが、その震える腕が振るわれる前に、その視線の先、ゾーザの腕の中で人形のようにダラリと脱力したサチの体が宙に浮き、綺麗な弧を描いてマットへと叩きつけられていた。鈍い衝撃音が、セコンドの練習生の心臓を直接殴ったように響く。その瞬間、彼女の中で何かが「折れた」。
タオルを投げるべきだった。でも、投げられなかった。その結果が、今、目の前にある。ゾーザがサチの体を抑え込み、冷笑を浮かべたままレフェリーのカウントを聞く。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
レフェリーがマットを叩く乾いた音が三つ、そして、試合終了を告げるゴングの音がリングに響き渡る。観客席で、誰かの小さなどよめきが散発的に上がったが、16面同時進行の会場では、それすらすぐに別の試合の歓声にかき消された。
太平プロレスの「デンジャー・サチ」は、その名を世界に知らしめることも叶わず、毒に侵された果ての無惨な敗北を喫した。勝ち名乗りを受けるゾーザは、倒れ伏すサチを冷たく見下ろし、勝利の味を噛み締めるように唇を歪めた。
セコンドの練習生は、タオルを握ったまま、ただ立ち尽くすしかなかった。