「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第4話 美樹ちゃんの決意! の巻【予選Cブロック第1試合「シロオニ・ベスVSジェームス美樹」】

 世界プロレストーナメント、EQT(アース・クェイク・トーナメント)。その開催会場である東京ドームではこの日、予選リーグが行われていた。EQTの源流であり、「世界一の男を決める大会」というキャッチコピーで一世を風靡したかつての伝説的な大会、ECT(アース・クラッシュ・トーナメント)を彷彿とさせるこの舞台で、観客が固唾を飲んで見守るのは、世界中から集ったデビュー5年以内の若手レスラーたちと一部の軽量級ベテランレスラーたちの戦いだ。

 彼らが本戦進出を賭けて戦う、全16ブロックの予選は総当たり戦で執り行われる。その形式ゆえに、この予選は単なる組み合わせの運だけでは突破できない。他参加者を実力で制し、予選ブロック内で己こそが最優であることを勝ち点合計という形で明確に示す必要があるのだ。

 巨大なドームの天井から降り注ぐ照明の光が、グラウンド上に設置された16基のリングをそれぞれ別世界のように浮かび上がらせている。そしてその16の世界の最初の試合が、今まさに始まろうとしていた。

 

 予選Cブロックのリングの初戦は、一見すればあまりに実力差の明白なシングルマッチであった。日本の老舗団体「太平プロレス」の次期経営者候補にして、団体社長令嬢のジェームス美樹。そして、モモタロウという伝説を追って、米国から太平プロレスへ襲来し──しかし、立ちふさがった宮川三郎太に阻まれ、彼に固執して居着いた結果、今は居候のような形で太平プロの興行のリングで活躍する「白鬼」シロオニ・ベス。女子選手同士による戦いだ。

 ライトアップされたリングの上で、美樹は赤地に黒いラインの縁取りデザインが入った、どこか競泳水着にも似たワンピースタイプのリングコスチュームに身を包み、わずかに緊張を表情に滲ませながらも正面の対戦相手を見据えていた。対するベスは、アッシュブロンドの髪を揺らし、「白鬼」の異名にふさわしい透き通るような肌を、黒と金を基調としたトップと、豪華なアラベスク模様が施された同色のレギンスで覆い、コーナー前に仁王立ちしている。その佇まいには、目の前の美樹を「敵」とすら見なしていないような、乾いた無関心さが漂っていた。冷徹なグレイッシュブルーの瞳が、実力的に格下である美樹を無機質に射抜いている。

 美樹は、胸の奥に押し込めてきた何かを燃やすように、ひとつ深呼吸をして熱のこもった眼差しを浮かべる。

 

 ゴングが打ち鳴らされ、16の金属音が重なり合い、巨大なドームの空気を震わせる。

 開始早々、試合は残酷なまでの実力差を見せつける展開となった。美樹が構えから牽制の攻撃に出るよりも早く、ベスの長い脚がマットを爆発的に蹴っていた。

「フッ……!」

 空気を裂くような踏み込みとともに、白鬼の突進が一瞬で間合いを潰す。その疾風怒濤のベスの動きに、リング周囲を取り巻くように設置されているSSS席で見守る熱心な観客たちから小さなどよめきが漏れた。可憐な見た目と裏腹な暴力的な瞬発に目を奪われていたのだ。肉薄したベスが、美樹が咄嗟に振り下ろすチョップなどものともせず、真っ向からショルダー・タックルを突き刺す。

「きゃっ……!?」

 腹にベスの肩から齎される慣性の乗った衝撃を受け、文字通りはねられるようにして美樹が吹き飛ぶ。衝突音どころか、破砕音を疑うような鈍く激しい音。174センチの筋肉質の長身から放たれた衝撃の前に、160そこそこの美樹の肉体は、まるで風に吹かれた木の葉のように頼りない。もんどりうって為す術も無く背中からマットに叩きつけられてしまった。美樹の肺は痛みに震え、その喉は酸素を求めて激しく喘ぐ。

 たった一発だ。たった一発にも関わらず、視界が世界を回し、見上げる天井照明が白く明滅して感じられる。耳鳴りが鼓膜を揺らしているせいか、観客たちのどよめきもどこか遠く感じられた。彼女はパワー自慢。それも太平プロの若手エースである三郎太と拮抗、いや、ベスが圧す程だとは知っていた。知っているつもりだった。だが、そのパワーが生み出すタックルの威力がこれほどとは。実際に受けるのが初めての美樹は、こんなものを受けてなお彼女に勝利した三郎太の成長を間接的に思い知らされる。

「……あら、もう終わりかしら?」

 ベスの声色は、勝敗を争う対戦相手に向ける質のものではなかった。まるでスパーリングで挑んできた練習生に呆れるかのような、興味の薄さが滲んでいる。ベスは倒れた美樹を冷ややかに見下ろす。身悶えしながらよろよろ身を起こす美樹に、待ちきれないとばかりに髪を無造作に掴んで引きずり起こしにかかる。その手つきには乱暴さすらなく、ただ「作業」として行っているだけの無機質さがあった。美樹の足がもつれ、リング上に影が揺れる。観客席からあがった悲鳴は美樹への同情か、はたまたベスの仕草への行き過ぎた興奮か。

 ダメージからいまだ立ち直れず、抗せぬまま引き起こされた美樹の身体を、ベスは軽々と肩に担ぎ上げる。キャンバスの中央へ向かって、一切の躊躇なく、そして慈悲もなく、美樹を背中からマットへ叩きつけるボディスラムが炸裂した。

「あぁ……ッ!?」

 美樹の細い肢体がマットの上に落ち、跳ねる。背中に走った衝撃と激しい痛みに、美樹は反射的に身を反らし、次いで背を丸めてマットを転がる。ベスは立ち上がろうともがく美樹へ、困惑するように言葉を投げかけた。

「……悪いですけど、今の貴女では私の相手は無理よ。太平プロレスの次期経営者なのでしょう? だったら、無理をしてまで私に挑む必要はないわ。さっさと経営のフロント業務にでも戻った方がいいのでは?」

 ベスは別に美樹が憎いわけではない。むしろ、どちらかと言えば好意寄りの印象を持っていると言って良いだろう。なにせ、太平プロレスにおいて自分の滞在場所を用意し、留学の手続きのために兄、アカオニ・トムとの渡りまでつけてくれたのだ。そこに感謝こそすれど、憎むような理由は無い。だからこそ、彼女を実力差でいたぶるのが忍びなく、こんな言葉を口にするに至ったのである。しかし、その「善意の忠告」こそが、美樹のプライドの最も脆い部分を容赦なく抉っていた。

「……っ、ふざけないで……!」

 屈辱に頬を赤く染め、美樹は胸の奥で煮え立つものを押し殺すように歯を食い縛った。次期経営者? 社長令嬢? そんな肩書きで自分を定義されることが、いいや、それを言い訳にして自分の現状を「仕方ない」と心のどこかで「妥協している自分自身」が、今の彼女には何よりも腹立たしく、我慢ならなかった。

 自分には肩書がある。だからこそ出来ることもある。だからこそやらねばならないこともある。それは理解している。

 

 だが――リングに立つこの瞬間だけは違う。

 

 ここに立つ自分は、誰の娘でも、誰の後継者でもない。ただの一人のレスラーであるはずなのだ。皆が口をそろえて言う「基礎はしっかりしている」「フロント業務とも学業とも兼ねているのだから、レスラー一本で打ち込んでいる選手に及ばないのは必然だ」という言葉に、そして、それに甘えて妥協する弱い自分が、ただ憎らしかった。

 ふらつく足取りで立ち上がる美樹。怒りを露わにした彼女の様子を見て、これ以上の言葉は無用とばかりにベスが歩み寄ってくる。美樹はその油断の隙を逃さなかった。自身の身体をバネのようにしならせ、跳躍した。狙いはベスの胸元ではない。あの圧倒的なフィジカルを支える土台――膝だ。

 鋭い低空ドロップキックが、ベスの右膝を正確に射抜いた。

「……ッ!?」

 甘く見ていた相手の予期せぬ反撃に、さしものベスもバランスを崩し、膝をつく。その瞬間、美樹の目にレスラーとしての、そして必死に生きる女としての「闘志」が宿った。痛みも、肩書きも、立場も、すべてが一瞬で背景に溶け落ちる。残ったのは純粋な戦意だけ。彼女はリングのロープ際まで駆け寄ると、エプロン付近で待機していたセコンド係の練習生を見下ろす。緊張した面持ちでエプロンサイドへパイプ椅子を掲げ上げる練習生から、美樹は手慣れた様子で硬質なパイプ椅子を受け取った。

 パイプ椅子を凶器にした反則攻撃への予感にどよめく観客たちの反応をよそに、美樹はパイプ椅子を手にベスに迫る。次期経営者とか、社長令嬢とか、そういう余計なことなど、とうの昔に考えから捨て去っていた。リングに立つ自分は、守られる側でも、飾られる側でもない。牙を剥く側だ。膝へのダメージをこらえて立ち上がったベスは、予想だにしない美樹の凶行に一瞬だけ驚き、動きを止める。その戸惑いめがけて、美樹は躊躇なく鉄の塊を頭上に振りかざした。

 

 ──実の所、自ら喧伝するような事でもないし、申告したわけでもないが、ジェームス美樹というレスラーの本質は、決して「お行儀のよい善玉(ベビーフェイス)」などではないのだ。

 

 金属が肉を打ち据える鈍く痛々しい音がリング上に響き渡る。美樹はベスの肩や胸元、そして頭部を庇ってガードする腕に向かって、全力でパイプ椅子を振り下ろしていく。二度、三度。金属が肉を打つ生々しい衝撃が、美樹の腕に伝わる。さすがのベスもこれには苦悶の表情を浮かべて再びマットに膝をつくが、美樹の猛攻は止まらない。

 マットの上に椅子を平らに畳んで置くと、ベスの首に腕を回した美樹は自身の体重のすべてを乗せ、力任せにベスを首投げで投げ落とす。その着弾箇所は、先ほど設置した冷たい鉄板──キャンバスの弾力を殺し、叩きつけられた肉体へ容赦なく衝撃をはね返す、歪んだパイプ椅子の真上だった。

 ベスの背中が激突し、激しい音と共にパイプ椅子がさらに歪む。

「がぁぁ……ッ!?」

 堪らず絶叫に近い悲鳴を上げたベスに対し、美樹は覆いかぶさるようにしてその胸倉を掴み、叫んだ。

「……あの日、モモタロウのマスクを預かったのは、あたしなのに……! 貴女が来た時、あたしは何もできなかった……三郎太クンに、全部押し付けて……!」

 叫びは、美樹の喉を裂くような悲痛な告白だった。憧れのヒーローのような存在、今やレジェンドとして語られる覆面プロレスラー「ザ・モモタロウ」が姿を消し、失われた看板の代わりとなるべく戦い続ける三郎太。そこへ襲来したシロオニ・ベスは「モモタロウを出せ、さもなくばモモマスクを奪っていく」と傲慢に言い放ち、当然のように、そうはさせじと三郎太が立ち塞がった。

 美樹はそこで受けて立てなかった。自分では勝ち目がないから。三郎太が闘ってくれるから。ただ、その背中に頼り、重荷を背負わせているだけの自分――その事実が胸の奥で絶えず軋みをあげ、腹の底に押し込めていたはずの悔恨がマグマのように煮え立ち、いつしか彼女をここまで突き動かしていたのだ。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ベスの瞳に動揺の色が浮かんだ。彼女もまた、三郎太という男に敗れ、固執し、いつしか恋するようになり、その背中を追う一人のレスラーだ。目の前で泣き出しそうな顔をして自分を打つこの女が、どれほどの痛みの中で、モモタロウという男から託された「モモマスク」を守り続けてきたのか。その叫びに宿る痛みが、ベスの胸の奥に直接触れた。もし立場が逆だったなら、勝てないと他人に戦いをおしつけておいて、撃退してもらったからと当の襲来者に滞在場所を用意するなどという余裕を、自分は見せられるか? 絶対に無理だ。

(私はそれだけの屈辱を、気付かぬままに他者に強いていた……!)

 かつてベスの兄、アオオニ・マイクは言った。ベスの太平プロへの殴り込みの意志を聞いて「そんな危ない事を」と。

 これまでベスはそれを、立ちふさがる太平プロのレスラーとの戦いの事だけを指していると思っていた。だが、ひょっとしたら違ったのかもしれない。己の我を通すと言う事が時として思わぬ影響を生み、それが自分に返ってくる。オニガシマブラザーズのブレーンを自認自称し──長兄アカオニ・トムがそれを許している──次男には、彼にだけ見えている「何か」があったのかもしれない。

 ベスは胸倉をつかまれたまま、美樹を引きずるように立ち上がった。だが、反撃の為ではない。 彼女は、美樹の「痛み」を理解し、けじめをつけるべく、その場に仁王立ちになった。

「来なさい……あなたの本気で」

 ベスの落ち着いた態度と低く通る声に苛立ったのか、はたまた呼応したのか。美樹は咆哮を上げた。

「うわあぁぁぁぁ……ッ!!」

彼女の両拳が固く握られ、溜め込んだ感情が拳に宿る。ベスの胸元を、頬を、顎先を狙ってエルボーを叩き込む。一度、二度、三度。喉元を打たれ、頬を打ち抜かれ、顎が跳ね上がるたびに、ベスの身体がダメージに振られる。

 

 だが、甘んじて受けてなお、ベスは一歩も引かない。

 

 さらに美樹は、残された全力を絞り出し、再び宙を舞った。今度はベスの顔面を正面から捉えるドロップキック。ベスの顔が大きくのけぞり、溢れ出した鼻血の飛沫がマットに散ったが、それでも彼女の眼光は死んでいなかった。

「何よ!? ……三郎太クンの事、本当に理解しようとしてるの!? 彼がどれだけの想いで、この団体を、モモタロウの返ってくるべき場所を守ってるか……貴女は考えた事がある!?」

 美樹は崩れ落ちかけたベスの背後に回り込み、その首筋に右腕を巻き付けるようにして「パーム・トゥ・パーム・スリーパー」で固く締め上げていく。ベスの左肩に甲をつけた右手を左手で掴んで肘から引き絞る。右腕の上腕が頸動脈を圧迫し、前腕が喉を押し込む。

 逃がさない。このまま、自分の想いごとベスの意識を刈り取るつもりだった。美樹の目からは、とめどなく涙が溢れていた。ベスの顔が苦痛に歪み、視界がチカチカと点滅を始める。だが、ベスは美樹の右腕を掴んで力づくで隙間を広げ、その締め付けを耐え忍びながら、背中越しに伝わる美樹の鼓動を、その震える腕から伝わる覚悟を、全身で受け止めていた。

(……そうね、美樹。あなたはただの令嬢じゃない。……あなたは、彼と同じ重荷を背負おうとする……一人の戦士だわ)

 ベスは心の中でそう呟くと、遠のく意識を繋ぎ止め、次に自分がすべき動きを静かに見定めていた。試合は、まだ終わらない。美樹の執念が、今まさにベスの持つ「強者の壁」を、根底から揺さぶろうとしていた。

 

 絞め上げられるベスの首筋に、美樹の右腕が深く食い込んでいく。滴り落ちる涙でベスの白い肌を濡らし、美樹の喉からは、悲鳴とも咆哮ともつかぬ叫びが漏れ続けていた。だが、ベスの肉体は鋼のように強靭だった。意識が混濁しかけながらも、静かに美樹の腕にかけた手でじりじりと拘束を緩めていく。

「……貴女の気持ちは受けましょう……。……ですが、私にも退けないものがある。いつまでも黙っているわけでは……ないわよ……っ!」

 美樹は悟った。自身の絞め技では、この「鬼」を沈めることはできない。彼女は意を決して腕のロックを解くと、膝をついて咽返るベスの頭部を正面から押し下げ、右肩を押し当てて抱きつく。美樹の小柄な身体が、自分より頭一つ分以上も大きいベスの体を包み込むように抱え上げようとする。狙うは、父・松平林吾から受け継いだ魂の必殺技。

 美樹はベスの背後へ回した手で、ベスの両腕をその股下で強引にクラッチした。犬がお座りをしているような、無防備で、かつ逃げ場のない姿勢。10キロ以上の体重差が美樹の腰に重くのしかかり、背骨が悲鳴を上げる。だが、美樹は歯が砕けんばかりに食いしばり、血管が浮き出るほどに執念を込めて彼女を宙へと浮かせ、己が肩に担ぎ上げた。

「あああああ! ビッグアップル……ドライバーッ!!」

 渾身の力を込めた旋回と共に、美樹はベスの後頭部から背にかけてを硬いキャンバスめがけて叩きつけた。腹に響くような重低音がリングを震わせる。そのままベスの身体を離さず、美樹は死に物狂いでフォールに抑え込んだ。

「ワン! ツー!」

 レフェリーの手がマットを叩く。リング付近の観客は総立ちになり、まさかの格上喰いが成立してしまうのかと手に汗を握った。しかし、三度目の手が振り下ろされる前――カウント2.5で、静かにベスの右肩がマットを離れる。

「……嘘……」

 レフェリーのカウントストップを目にして、美樹は虚脱したようにベスの身体から転げ落ち、マットに大の字になった。必殺の一撃を耐え抜かれた衝撃が、彼女の心を一瞬だけ空白にする。しかし、それ以上に美樹を驚かせたのは、ゆっくりと身を起こしたベスの眼差しだった。そこには、先ほどまでの冷たく見下ろすような無関心さや憐みの色は微塵もなかった。鼻血を拭い、乱れたアッシュブロンドの髪をかき上げたベスは、痛みに顔を歪めながらも、まっすぐに美樹を一人の「対戦相手」として見つめる。

 その目は静かで、しかし揺るぎない光を宿していた。

「……全部、響いたわ。美樹」

 ベスの声が、静まり返ったリングに低く、だが確かな重みを持って響く。彼女は痛む首を一度回すと、ふらつきながら立ち上がる美樹に歩み寄った。

「だから、私も全力で応える。……かつてモモマスクを脅かし、今なお三郎太さんに挑み続ける──『私』の、貴女への礼儀として」

 ベスの言葉が終わるよりも早く、彼女の長い腕が美樹の身体を捉えた。投げの為の組み付きの体勢。美樹が抵抗する間もなく、ベスは反り投げの要領で美樹の身体を高く抱え上げ、そのまま落差をつけて急降下させた。

「かは……ッ!?」

 エクスプロイダーで背中からマットに叩きつけられた美樹の視界が火花を散らす。主導権は完全にベスの手に戻っていた。ベスは虚脱状態にある美樹の髪を掴んで強引に引きずり起こすと、そのままアルゼンチンバックブリーカーの体勢で肩に担ぎ上げる。

「……加減しないわよ」

そのまま、垂直に叩き落すようにして、ベスはシットダウン式に美樹の頭部をマットへ突き刺した。彼女の必殺技(フェイバリット)の一つ、変形バーニングハンマーである「白鬼金棒落とし」だ。脳天を揺さぶる衝撃が、美樹の意識を一気に暗転へと傾ける。レフェリーのカウントが再び数えられ始めた。

「ワン! ツー! ……スッ!?」

 レフェリーの手が止まる。美樹の意識の灯火は、まだ消えずに残っていた。

「あたしは……まだ、終われない……!」

 カウント2.9。美樹は首ブリッジでベスを押し上げ、3カウントを拒絶していた。

 

 ベスの瞳に純粋な驚きが満ちる。美樹は白鬼金棒落としによって投げ落とされる瞬間に頭上へ両腕をあげて前腕、肘、肩、後頭部と段階的に衝撃を散らせることで、頭部へのダメージ一点集中を回避していたのだ。そんな五点着地もかくやというトンチキな受け方が実現可能だということを、技の使い手であるベスすら今知ったというレベルの対処法だった。美樹は、三郎太と同じく、彼女を仮想敵としてシミュレートし、これまでにベスの技を徹底的に研究し続けていたに違いない。

 リング周囲の観客席からは、敗色濃厚な弱者への判官贔屓のような、同時にさらなる熱戦を期待するような歓声が上がっていた。だが、美樹の視界は霞み、四肢の感覚は麻痺している。受けて見せた、決まらなかった。だが、効かなかったわけではないのだ。

 それでもなお、膝を突きながら彼女は身を起こし、ベスの身体に無心にしがみついた。朦朧とする意識の中で、美樹の脳裏には二人の男の背中が浮かんでいた。自分たちを信じてマスクを託したかつての英雄にして、美樹の想い人「モモタロウ」。そして、その後の重責を一身に背負い、ボロボロになりながらも新たな太平プロの若手エースの看板を背負い、リングを守り続ける「三郎太」。

「貴女が強いから……強いのに……ッ!!」

 美樹は最後の力を振り絞り、ベスの身体にすがるようにしてなんとか立ち上がった。その動きそのものが、自らの限界を突破するための祈りだった。彼女は全身のバネを使い、残った闘気を一点集中すると、淡いピンクの光を纏う渾身のエルボーをベスの喉元に叩き込んだ。言わば美樹ちゃんファイナルエルボー(ジェームス美樹式ファイナルエルボー)だ。

 それは技というより、彼女の想いそのものをぶつけるような、魂の叫びに近い一撃だった。ベスを捉えた衝撃に、美樹は確かに手応えを感じた。だが、ベスはその一撃を正面から胸元へ受け止めてなお、倒れない。逆に、美樹の打ち抜いた腕を、ベスは冷徹に、かつ確実に掴み取った。

「見事だったわ。……でも、ここまでよ」

 口の端に血を滲ませながら、ベスは美樹を前屈させ、覆いかぶさろうようにして彼女の腕を自身の腹の前でクロスさせクラッチ、逃げ道を完全に塞ぐ。そのまま美樹の身体を自分との身長差を利用して逆さまに担ぎ上げると、一切の慈悲を排した速度で変形の「ダブルアーム・パワーボム」でマットへと沈めた。

「……W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)!!」

 爆発的な衝撃がリングを駆け抜け、美樹の身体から力が抜け落ちた。

「う……ぁ……」

 もう肩を上げる力は残っていなかった。

 

 ──三度、レフェリーの手がマットを叩く。

 

 美樹の激闘は、ここに幕を閉じた。試合終了のゴングが鳴り響く中、ベスはしばらくの間、マットに沈んだまま動かない美樹を見下ろしていた。観客席からは、敗れた美樹に対しても惜しみない拍手が送られている。ベスは何も語らず、ただ一度だけ、倒れた美樹の肩にそっと手を置いた。

 

 誇り高い白鬼は、そのまま振り返ることなくリングを去っていった。

 

────────────────────

 

 EQTの試合会場である東京ドームの東西にある大会用大医務室、その一方で主任医師である女医が、リモコン片手に壁面モニターに映し出される公式配信による各予選ブロックの映像を呼び出していた。口にココアシガレットを咥えた彼女によってピックアップされたのはIブロックのリング。そこでは日本人、オトギプロ所属の若手エース格である女子レスラー「赤ずきん」とデンマークのアスガルドプロ所属の新人男子レスラー「リトル・フェンリル」の試合が行われていた。

 リトル・フェンリル──ルーカスは大の字に倒れ、荒い息を吐いていた。その腹部は試合中、通して執拗に行われてきた赤ずきんの腹狙い攻撃によってダメージが集中・蓄積。真っ赤に腫れていて痛々しい。ストンピングの衝撃を受けた痕跡が、くっきりと熱を帯びて浮き出ている。鳩尾を押さえる余力すら残っていないのか、腕はだらりと左右に広がったままだ。

 赤ずきんはコーナーロープの二段目に脚をかけて観客に向かって手を振りながら、ふわりと笑ってアピールする。

「それじゃ……そろそろ決めちゃいますよ~! さぁ、狼さん退治の時間です♪」

 グラウンド上に設置された16のリングの一つ、Iブロックのリングを取り囲むSSS席の観客席から、いや、それだけではないドームの外周の観客たちからもどよめきが起こる。赤ずきんはトップロープに登り、軽く手を振ってから、ゆっくりと身体を沈め――飛んだ。

 鋭い軌道を描いたダイビング・エルボードロップの肘が、朦朧として逃げる事もかなわなかった満身創痍のルーカスの鳩尾へ突き刺さる。

「ギャンッ!? か……はぁ……!?」

 フェンリルを志す幼く若きレスラーのまだ筋肉のつき方が物足りないその身体が跳ね上がり、そのまま力なくマットに沈んだ。赤ずきんは迷いなくその右足をとって丸め込み、エビ固めでフォールに入る。レフェリーが滑り込んでマットを叩き始めた。

「ワン! ツー! ……スリー!!」

 そのまま返されることもなく、決着のゴングが鳴り響いた。配信の中で賑やかに実況解説の声があがる。

『決まったぁ! スリーカウントにより赤ずきんのピンフォール勝ちです! ルーカスも噛みつき攻撃で怯ませてのサンセットバックブリーカーで赤ずきんを一時は追い込みましたが、やはり、あの執拗な腹責めの蓄積が効きましたね』

『キャリア差がありますし、彼は偉大な父フェンリルマスクの影響か、周囲の期待がいささか大き過ぎましたね。個人的な感想ですが、もう少し体ができあがってからデビューした方がよかったかもしれません』

 自身の試合に配信でどんな実況解説が挿入されているのかなど、当事者たちは知る由もない。赤ずきんはゆっくりと身を起こし、倒れたままのルーカスを見下ろして、少しだけ良心の呵責を感じ、苦笑いで頬をかいた。

「あらら……やりすぎちゃいましたかねぇ……」

 ルーカスは涙をぼろぼろこぼしながら、呼吸を整えることすらままならず、胸が上下するたびに痛みに身体が震えている。

「うっ……えぐ……ひぐっ……!」

『最後はダイビング・エルボードロップが鳩尾に突き刺さり決着。リトル・フェンリル、涙の敗北となりました!』

 程なくして嗚咽は号泣に変わった。

「ええぇぇぇぇぇん!」

「げっ!?」

 罪悪感に赤ずきんが後じさる。

『……いや、涙どころではありません。ルーカス、完全にギャン泣きです! 赤ずきんも、さすがにバツが悪そうだ!』

『童話的には「赤ずきんと狼」は相性最悪ですからねぇ。とはいえルーカス君もまだ若い。くじけず将来は立派なフェンリルに成長してほしいところですな』

 赤ずきんは誤魔化すようにルーカスに、次いで観客に手を振りながらいそいそと退場していく。リング中央には、泣きじゃくるルーカスと、彼を介抱するセコンドの練習生とマネージャーの姿だけが残っていた。ルーカスの肩を支える二人の手が、彼の震えを抑えきれずに揺れている。

 

 そんなモニター映像をのんびり眺めやりつつ、たまに指揮下の研修医や医大生の処置を横目でチェックしたり、報告やカルテを受け取って目を落としたりしながら、咥えたココアシガレットを動かしている主任医師の女医の下で、美樹は練習生たちに肩を借り、Cブロックを担当する研修医の診察を受けていた。全身痣だらけで、特に首と背中のダメージは軽くない。しかし、後に残るような負傷ではないと結論付けられて、処置の後は安静にするように言われるだけで済んでいた。

 氷嚢で首の後ろを冷やされ、医務室の椅子に座った彼女の顔は、不思議と晴れやかだった。その瞳からは、かつての焦りや自責の念が消え、一点の曇りもない決意が宿っていた。

「……美樹さん、大丈夫ですか? 控え室に戻って次の試合までできるだけ休みましょう」

 心配そうに声をかける美樹付のセコンド係である練習生たちを制し、美樹はゆっくりと立ち上がって首を振る。戸惑う練習生たちを置いて、彼女は女医の元へと向かった。女医は察してモニターの音声をミュートし、ココアシガレットを噛み砕いて口の中へ消滅させると、胡乱げな視線で美樹に向き直る。

 美樹ははっきりと口を開いた。

「……本部に医務室からも申し添えて下さい。ジェームス美樹は、ここで棄権します。正式な届け出はこの後、提出しますので」

 その言葉に、周囲の練習生たちは息を呑んだ。

「棄権って……美樹さん、あんなに頑張ったのに!」

 予選はまだ始まったばかりだ。ダメージはあるにせよ、まだ次があるはずだ。練習生たちの瞳はそう語っていた。

「……今のあたしじゃ、この先、観客に恥じない試合ができないわ。身体も、心も……今はこれが限界」

 美樹はモニターの先、予選各ブロック全ての試合が終わり、休憩時間に入る会場の喧騒を静かに見つめた。

「負けて心が折れたわけじゃないの。でもね、中途半端なコンディションでリングに上がることは、戦ってくれたベスにも、そして何より、お金を払って見に来てくれる観客にも失礼よ。それは、プロレスラーとして……そして、太平プロレスの次期経営者として……絶対に許されないことだから」

 それは、彼女が「令嬢」という立場を捨て、真に団体の価値を守ろうとする「経営者」としての視点に目覚めた瞬間だった。自らを切り捨てることで、大会の質を守る。その決断は、どんな必殺技よりも重く、気高いものだった。

「それは残念だね、私は君の試合ももっと見たかったのに……。まぁ、止める権限はないな。確かに承った」

 主任医師の一人である女医は鼻筋に指を添えて眼鏡を軽く押し上げると肩をすくめる。美樹は痛む身体を抱えながら、満足そうに微笑んだ。その心には、もう迷いはない。モモタロウの帰るべき場所を守るために、彼女は今、新しい一歩を踏み出そうとしていた。

 

 ──しかし。

 

 何処かと連絡を取っていた女医がスマホを顔から離して口にした言葉は、そんな美樹を一瞬で驚愕に叩き落した。

「……君はたしか太平プロの社長令嬢だったな? 君の所のレスラーがドクターストップになったようだぞ」

 

 太平プロレス所属の若手レスラーの一人、デンジャー・サチが原因不明の全身不随状態でもう一方の大医務室に運び込まれたと言うのである。

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