「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
世界中から選りすぐられた未来へ羽ばたく若き才能と、機会に恵まれなかった一握りの軽量級ベテランたちが集うプロレス世界大会「EQT(アース・クェイク・トーナメント)」。その熱狂の渦中にある予選Eブロック、初戦のリングには、開始前とは思えぬ異様な緊張感が漂っていた。
黒鳥を思わせる黒い羽根飾りのファーを両の上腕と手首に纏い、深い紫が混じる露出度の高いレオタードに身を包んだ「オディール久我」が、網タイツに包まれた脚をゆっくりと進める。かつて「ライジング雫」として日本で最も有名な老舗団体「太平プロレス」のマットで戦っていた頃の清廉な善玉(ベビーフェイス)の面影はもうない。三郎太への届かぬ想いと、敗北の深淵から這い上がり、太平プロの友好団体である「オトギプロレスリング」でヒールターンを果たした今の彼女の瞳には、冷徹な紫の炎が宿っていた。
対角線上に立つのは、インドの団体からEQTに参戦した代表選手の男子レスラー、ラム・シン。虎皮模様のロングタイツに身を包み、褐色に引き締まった筋肉に包まれつつも、プロレスラーとしては痩せぎすな肉体を持つ彼は、胸の前で無造作に組んだ腕の奥から、対戦相手であるオディール久我を静かに値踏みするように見つめていた。
カーン!
ゴングの音が鳴り響くと同時に、久我が鋭く踏み込んだ。
「……わたしの羽で、暗闇へと導きましょう」
呪詛のような呟きと共に放たれたのは、牽制のミドルキックだ。鋭い風切り音を立ててラムの脇腹を狙うが、彼は全く避ける素振りを見せない。微動だにせず、ラムはただ合掌のポーズを取る。そのわき腹を久我のミドルキックが穿つが、その手ごたえは奇妙なものだった。
「……ッ!?」
悪役としての余裕の笑みこそ崩さないが、蹴り足から伝わるその感触に久我の内心が揺れる。まるで緊張を感じられない弛緩した肉を打った感触。そこには食い込んだ蹴り足の衝撃が拡散してしまうような気味の悪さがあった。しかし、戸惑っている暇はない。蹴られた直後、ラムの体が独楽のように回転する。放たれた反撃のローリングソバットは、久我が身を離すよりもわずかに早く、その腹部へ正確に突き刺さった。
「くっ……!」
内臓を揺らす衝撃に久我の笑みが歪む。蹴りは体重が乗っていて十分に重いものだったが、彼女はふらつきつつも踏みとどまり、すぐに体勢を立て直した。負けず嫌いな性格が、即座の反撃を命じている。グラウンドに拘っていたかつてならいざ知らず、今の自分は打撃戦でも自信をもって戦える。足元を狙うかのようなフェイントを入れつつ、久我は高く跳躍した。その柔軟な肢体を生かして、意表をつかれたラムの脳天へ向けて鋭いかかと落としを振り下ろした。巧く決まれば一撃で脳震盪を引き起こして意識を刈り取ることもあるのがかかと落としという技だ。これならば先のような奇妙な防御で多少威力が散らされた所でただでは済むまい。しかし、またもラムは回避の素振りを見せず、あえて半身ずらして踏み込んで自らの肩を差し出すようにしてその一撃を受け止める。
その瞬間、久我が得たのはやはり硬質な打撃感触ではなく、泥を叩いたような、あるいは粘土を押し潰したような気味の悪い手応えだった。衝撃がラムの肉体に吸い込まれ、文字通り霧散していくかのようだ。
「……何、今の……?」
心中を過る不自然な予感にさすがに笑みが強張る。焦燥に駆られた久我は、着地と同時に体を捻り、追撃のソバットでラムの背面を狙う。だが、ラムは背中を丸め、腕を畳むようにして、ヨガのポーズを思わせる独特の構えでそれを受けた。突き出した足の先から伝わるのは、やはり弾力のある奇妙な抵抗感のみ。
理屈は分からない。だが、どうやら打撃のダメージが極限まで軽減されているらしいことを、久我の右足は、そして彼女のカンは直感的に悟っていた。
「……無駄です。進化したヨガの粋を極めしこの肉体、その気の流れと柔軟性の前には、あなたの打撃など無力に等しい。敢えて言いましょう、これぞ『ヨガシールド』です!」
自信満々に言い放つ清々しくも野心的なラムのドヤ顔に久我は気圧され、同時にムカついた。
「ヨガ……シールド……ッ!?」
なにがムカついたってちょっとだけカッコいいと感じた自分に腹が立ったのである。オディールの意匠と芝居がかった言動。認めるのは大変癪ではあるが、かつて三郎太に切って捨てられた件とて決して、まったくの的外れというわけでもなかった。久我雫はいまだ現役の中二病患者なのだ。
「今度はこちらから参りましょう! プラーナフリッカー!」
力強く告げた結果、久我から期待する反応を得られたと感じたラムはどこか嬉しそうに、その腕を鞭のようにしならせる。予測不能な軌道を描いて放たれた拳が、咄嗟に翳した久我の両腕のガードをすり抜け、ボディ──ボクシングで言うレバーのあたりへ、容赦なく突き刺さった。
「あ、が……ッ……!」
急所を的確に撃ち抜かれた激痛に、よろめいて久我の膝が折れかかる。だが、彼女は執念で踏みとどまった。肉体の痛みなど、かつて味わった心の痛みに比べれば一時のものに過ぎない。耐えられる範疇だと、自分に言い聞かせる。
「……効かないわ。そんな、大道芸のような攻撃……!」
ひきつりつつも笑みを改めて浮かべて、強がりを口にしながら、久我はラムの拳打の腕を掴み、そのままグラウンドへと引きずり込んだ。得意の関節技へ移行する。相手の膝を極め、顎をロックして全身を絞り上げる変形STF、ティアドロップボディロックだ。久我は全身の力を込め、ラムの背骨と膝、そして頭部を引き絞る。極限まで反り返った背筋の軋む音が聞こえるはずだった。
しかし、次の瞬間、久我の腕の中から手応えが消えた。
「なっ……!?」
ラムの股関節と腰が、まるでありえない角度に折れ曲がったかと思うと、彼は液体のようにヌルリと、久我の完璧なロックから抜け出したのだ。関節を外し、筋肉を極限まで弛緩させる……「軟体エスケープ」とでも言おうか。信じがたい光景にリングをとりまくSSS席から見上げる観衆たちもどよめきに包まれる。
だが、せっかくグラウンドに引き込んだのに逃がしてなるものか。久我は必死に食らいついた。
(……なら、これはどう!?)
久我はマットに手をついて立ち上がろうとしているラムに背後から取りついて、両腕をチキンウィングに捕らえた。そのまま背に跨るようにのしかかり、脚で相手の腿をロックし、前へ押し込むように体重をかける。彼女のヒール転向と同時に新たな最大最強の必殺技(フェイバリット)として身につけた複合間接技、「ブラックアウト・フェザードロップ」だ。逃げ場のない状態で全身を絞り上げられ、膝から崩れたら最後、顔面をマットに押し付けられて、自重と絞め上げで完全沈黙に追い込まれるという暗黒の羽の包み込み。マットを叩いてのギブすらできず、自ら屈服を口にする他ないという絶望の技だ。
だが、ラムの体は再び異常な変化を見せた。捕らえていたはずの腕が、まるで骨がないかのように柔らかく、しなやかに久我の拘束をすり抜けていく。渾身の力を込めて絞め上げようとした瞬間、久我は自分の体が宙に浮く感覚に襲われた。極限の柔軟性で腕を引き抜いたラムの背中を滑り落ちるようにして、自身の上体が泳ぐ。またも軟体エスケープによって技を無効化されたのだ。
「……嘘、でしょ……?」
自信をもっていた新必殺技すら通用しないのか。残酷な現実を前に、久我の顔が強張る。これまで積み上げてきた努力、そしてヒールとして振る舞うための「中二病」の仮面が、内側から剥がれ落ちそうになる。その絶望という名の陰は、気付かないうちにじわじわと彼女の心への侵食を始めていた。
呆然と立ち尽くす久我の右腕を、ラムの褐色の手が蛇のような動きで捕らえた。そのまま流れるように脇を潜り抜け、久我の腕を不気味な角度でしならせる。脇固めだ。
「あ、ぐ……っ!?」
関節を極められた衝撃が走り、久我の顔が苦痛に歪む。しかし、グラウンドと関節技は久我の得意分野だ、すぐさま正しい脱出法で身を捻り、角度を変えてラムの前に回り込むようにして脱出にかかる。
だが、それをこそ待ち受けられていた。
ラムはさらに体勢を入れ替え、荒い息で前に転がり込んで抜けようとした久我の四肢を捕らえ、両脚をロックして後ろに倒れ込み、悶える久我を正面から掲げ上げていく。完全にリバース・ロメロスペシャルに捕らわれ、宙に浮いた久我の肩関節と背筋が自重で激痛と共に軋みをあげる。
「ぐ……ぁ……ッ!?」
至近距離でラムの冷徹な瞳と視線がぶつかり合った。
「……あなたは強い言葉で飾って隠しているが、その本質は空っぽだ。継ぎ接ぎの黒い羽根など……。フッ、いっそ脱いでしまってはいかがか?」
ラムの声が、静かに、しかし残酷にリング上に響く。たった一言で本質に切り込まれた。その言葉は、久我が必死に演じてきた「黒鳥オディール」という虚飾の皮を、容赦なく剥ぎ取ろうとする残酷な刃であった。
だがその刃が突き立った場所は久我の逆鱗でもあった。三郎太への届かぬ想い、敗北の屈辱、そして自分を変えたいという切実な願い。それらすべてを「空っぽ」と断じられた瞬間、彼女の中で何かが弾けた。
「……ふざけないで」
憤怒の睨めつけではなく、邪悪な笑みが久我の表情を彩った。絞り出すような声と共に、久我はロックされた片手を無理やり外した。その手は、優雅な黒鳥の翼などではなく、獲物を引き裂く猛禽の鉤爪となってラムの喉元を荒々しく鷲掴みにする。
「げ、はっ……!?」
喉仏を力任せに圧迫され、ラムの顔が驚愕に染まる。ヨガの鍛錬で得た軟体も、打撃を散らす気のコントロールと筋肉のしなやかさも、呼吸を司る気管への直接的な暴力の前には無力だった。物理的なチョーク攻撃による気道圧迫に呼吸を乱したラムは、堪らず技を解いて久我をマットへと放り出して逃れる。荒い息を吐きながら立ち上がった久我は、乱れた黒髪の間からラムを射抜くようにじっと見つめる。その口は上弦の三日月のように不気味に裂け、その瞳には、もはや演技ではない本物の殺気が宿っていた。
「……なんだ、呼吸はするのね」
ラムはその異様な姿に一歩後じさり、そうしてから自らが気圧されて後退した事に気付いたのか、頬を羞恥に染める。
「なら、この手で締め落としてあげればいいだけのこと」
久我は低い姿勢から鋭い水面蹴りを放った。
「む、無駄なことを……何ッ!?」
ラムは反射的にヨガシールドによるふくらはぎの筋肉弛緩で、衝撃を浸透拡散して威力を殺そうとするが、久我の狙いはダメージを与えることではなく、その足元を掬うことにあった。ダメージを捌くことに気を取られ、僅かに腰が引けていたラムは崩したバランスを立て直せず、無様にリングへと転倒する。
しかし、ラムもまた並のレスラーではない。立ち上がろうとするラムに組み付いてくる久我の力を利用し、彼は自らの体を丸めて背後に倒れ込んだ。得意の軟体ゆえの強引な巻き込みからの巴投げで、久我の体を軽々と放り投げ、彼女の背中を無慈悲にコーナーマットへと叩きつけた。
「が……ッ!」
衝突のダメージで息が詰まり、マットにダウンする久我を見下ろし、ラムはコーナーの最上段へとするりとよじ登る。
「ハァ……ハァ……! ヨガの真髄、その身に刻みなさい、『空中座禅プレス』!」
座禅を組んだ姿勢のままラムは宙を落下し、その全質量を久我の腹部へと叩きつけた。
「かはっ……!?」
肺に残っていたわずかな空気が吐き出され、久我の視界が白く明滅する。間髪入れず、ラムは久我を無理やり引き起こす。そして自らの手足で彼女の四肢を絡め取った。必殺の変形オクトパスホールド、「梵字固め」だ。久我の体は、ラムのしなやかな肉体によって文字通り「梱包」されるように完全に捕獲されていた。全身を、四肢を絞め上げられ、襲い来る激痛の前に彼女の意識が少しずつ遠のいていく。
(……強い……ただのイロモノじゃない! 負ける? また、あんな風に……無様に……?)
脳裏に過るのは、かつて「太平プロレス」と「ノワール・ゲート」との団体対抗戦の中で味わった悔やむべき敗北の記憶。そして、自分を心配そうに見つめる三郎太の顔。観客たちの、痛々しいものを見る──
──哀れみの視線。
「……そんな目で、見るなァ……!」
久我の指先が、ラムのロックの隙間から、彼が唯一ヨガの守りを固めていない場所へと伸びた。空いている手で、彼女はラムの股間を力任せに鷲掴みにする。観客たちの一部は顔面を蒼白にして、リング上から視線を一斉にそらした。
「ぎ、ああああああああっ!!!」
静寂を切り裂くような絶叫が上がった。人体の急所。いかに精神を研ぎ澄まし、肉体を柔軟に保とうとも、そこにあるのは剥き出しの神経と激痛のみだ。ラムの顔面は一瞬で蒼白になり、あまりの悶絶に、完璧だったはずの梵字固めのロックが弾け飛び、もだえ苦しむラムはマットを七転八倒する。
「はぁ……はぁ……ッ! ……さぁ、遅くなったけど、今度こそ暗闇へご招待するわ」
荒い息を整えつつの久我の低い声が死神の宣告のように響いた。悶絶し、うずくまるラムの背後を彼女は見逃さない。背後からその細い腕をラムの首に回し、頸動脈と気道を完全にロックする。反則上等とでも言わんばかりの堂々たる胴締めチョークスリーパーホールド。
ラムは反射的に必死に関節を外して逃れようとするが、締まっているのは首と胴だ。いかに関節が柔軟でも、いかに打撃の衝撃を拡散減殺できるとしても、この瞬間は意味がない。その上、チョークで脳への血流を止められ、酸素を奪われたパニック状態では、精密なヨガの技術など発揮しようもなかった。
視界が狭まり、死の恐怖がラムの心を支配する。
「ひ、ひぃ……苦し……離せ、離して……ッ!」
先ほどまでの余裕は微塵もなかった。ラムの脳裏にEQTへの出場を決めたと報告した際の老師たちの反応が蘇る。
「売名、野心、隠せておらぬぞ」「身体の仕上がりと比してなんと未熟な精神か」「そなたは心の修練が足りておらぬ、それを思い知ることとなろう」
口々に罵る老師たちを制して送り出してくれた長老は、自分を評価してくれているのだと思っていた。
「よいよい、皆もそう言うな。何事も経験。まずはやってみると良い。どういう結果であろうともそれはそなたを成長させるであろう」
だが、あの温かい視線はもしかするとラムの未来を見通してのものだったのではないか。
久我の締め上げは、彼女がこれまで味わってきた孤独と執着をすべて乗せたかのように、重く、深く、冷酷に食い込んでいく。ダメだ、もう意識が落ちる。
「……ギブ! ギブアップです!!」
ラムは激しくマットを叩いた。レフェリーが久我を引き剥がし、試合終了を告げる。
カンカンカーン!
ゴングが鳴り響いた。
「勝者、オディール久我!」
荒い呼吸を繰り返しながら、久我は勝ち名乗りを上げるレフェリーの腕を振り払い、リングに沈むラムを見下ろした。酷薄な笑みを浮かべつつも、その瞳には勝利の喜びはなく、ただ深い闇だけが澱んでいた。ラムはマットに視線を落とし、うなだれるままだ。
「ふふふ……アハハハハ!」
久我の衣装の上腕についていた黒鳥の羽根が一枚、抜け外れて静かにマットへと舞い落ちる。彼女はまた一歩、三郎太の知らない深淵へと足を踏み入れたのだった。
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EQT大会メイン医務室。簡易手術すら可能な設備が整ったこの場所は、初戦終了前後の現時点ですでに戦場の様相を呈し始めていた。軽く流血している選手も居ないわけではないが、大半は打撲や炎症程度の軽微な処置であり、まだ、応援で来ている研修医や医大生でカバーできる範囲だ。
その一角、緊急に分類され最寄りのここへ担ぎ込まれたデンジャー・サチの処置にあたっていた研修医が、険しい表情で永久寸に報告する。
「四肢の弛緩、試合終了後から動けないままのようです。眼球の反応から意識はあるようですが……触覚は機能しているようで」
研修医はこめかみに汗を浮かべ、困惑の表情を隠せない。彼の常識の範囲外の事態を前に完全にお手上げ状態のようだ。
「……なんだと?」
彼の報告を耳にして、永久寸は思わず眉をひそめた。意識はある。触覚もある。だが四肢が動かない。外見的な頭部挫傷や脊髄損傷の兆候はない。呼吸も安定している。脳のダメージは迂闊に即断できないとは言え、少しばかり「医学的に説明しづらい」症状だった。
すぐさまCTスキャンが行われる。だが、モニターに映し出された画像を見て、永久寸はさらに困惑を深めた。
「……後頭部の打撲は軽度。コブラクラッチ・スープレックス……で合っているか? とにかく受けた投げ技の衝撃も、軽い脳震盪レベル。関節技の痕も……アイシングと湿布で十分な範囲だ」
つまり、深刻な肉体的損傷はない。だがサチの身体は、まるで眠っているかのように動かない。彼女の目は此方を見ているにも関わらず、だ。その瞳は、助けを求めるように永久寸を追っていた。何かを訴えているようであり、不安と恐怖に泣きそうになっているようでもあった。
永久寸は血液検査の指示を出しながら、胸の奥に嫌な予感を覚えていた。
(……まさかとは思うが……毒か?)
大学時代、生化学を研究していた頃の知識が脳裏をよぎる。筋弛緩剤、神経毒、電解質異常、代謝性疾患……可能性を一つずつ潰していく。カンから言うと神経系が怪しくはある。しかし、返ってくる結果はどれも同じだった。
「……陰性、陰性……これも陰性……ッ!」
研修医を始め、周囲の医療スタッフたちが不安げに視線を向ける。
「先生、既知の毒物反応はすべて……」
「分かっている。だが、これでは説明がつかん」
永久寸は額に手を当て、深く息を吐いた。
(筋弛緩剤の反応はない。血中電解質は正常。CK値はむしろ低い。神経伝達阻害の気配はあるが、原因物質が一切検知できないのは何故だ!)
異常はあるのに原因だけが無い。まるで、何者かが原因物質そのものを「別の物質に偽装して」隠しているかのような、不自然な沈黙が検査結果に横たわっていた。
(……これは、何だ? 何かが決定的におかしいが、その何かが見えない)
その時、ポケットのスマホが震えた。画面に表示されている連絡元は、もう一人の主任医師である女医。永久寸は苛立ちと不安を胸に無理やり押し込めて蓋をして電話に出る。
「Cブロックのジェームス美樹が初戦終了時点で棄権だってさ。太平プロの社長令嬢ね。本人がこれから本部に届け出に行くそうだ。主任サマ、情報共有よろしくね」
あいかわらずの軽い調子。どんな困難な時でもマイペースなこの女医の態度は頼もしくはあるが、今だけは永久寸もその軽さに乗って軽口を返す気になれなかった。
「君も主任だろうが……。わかった。……いや、待ってくれ!」
永久寸はサチの無反応な四肢を見下ろし、言葉を続けた。
「今、太平プロの選手が一人、原因不明の全身不随で運ばれてきている。Gブロックのデンジャー・サチだ。説明した方がいいだろう。美樹さんをそのままこちらへ」
「ほー……。はいはい了解。そのように伝えましょう」
女医の淡々とした返答が返ってくる。その冷静さが、逆に永久寸の胸に重くのしかかった。
(……説明できない。だが、説明しなければならない)
医者としての矜持と、主任医師としての責務。その狭間で、永久寸は静かに苦悩を深めていった。
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Hブロックのリングでは大絶叫が上がっていた。
「ギ……ギブアップぅ!!」
フランスの地方団体の経営者であり、今回のEQTに送り込まれた若手選手団の監督役を務めている初老のマネージャーは、東京ドームの外周観客席で唸り声を漏らす。彼はタブレットを片手に、ワイヤレスイヤホンでHブロックの試合を生中継している公式契約の配信映像の音声を助けに遠目からリングの状況を把握している。その試合は彼にとって事前にいくつか想像した悪い未来のビジョンの具現化そのものだった。
フランスの男子レスラー「グラン・プーセ」がその350ポンド(およそ157キロ)もの巨体をうつぶせに組み敷かれ、波乗りクラッチに膝を極められたまま、その自重故に脱出がままならず、脂汗を流してついにギブアップを口にしたのである。
巨体が軋むたび、悲鳴にも似た呼気がマイクに拾われ、観客席のざわめきが波のように広がった。その脂肪と筋肉にあふれた体躯の上に乗って、グラン・プーセの尻をリングシューズのソールで踏みにじって見下ろすのは身長わずか145センチしかない小柄な女子レスラーだ。
「アハハ! これでフランスのナンバーツーとは笑わせるな!」
それが英国の若手女王に挑むものをことごとく阻む狂気の邪竜と恐れられる「エルザ・ファフニール」であった。
『あ~っと、ここでギブアップ宣言! 190センチの巨躯を誇るフランスのグラン・プーセ、得意技の「7リーグ・キック」をドラゴンスクリューで捩じり倒されてからというもの、膝の痛みに終始苦しめられる展開のまま無念の敗北だぁ!』
『ファフニールのフェイバリットである「ライトニング・プレス」を受けてなお沈まぬタフネスは素晴らしいですが、体格差をもってしても劣勢は歴然。格の違いを見せつけられましたね……』
配信の音声が、遠慮のない実況解説を初老のマネージャーの耳奥へと送り込む。彼は眉間を押さえ、深く息を吐いた。
「同じく国の若手ナンバー2というポジション同士でこれほどの差が……やはり、上層部のかつて犯した愚行のツケはあまりに大きい……」
フランスマット界の現状は厳しい。数年前の「巌窟王事件」によってエディ・ダンテスとマスクド・ダングラールというトップレスラーたちを国外へ追いやり、業界を震撼させた騒動の影響は若手育成環境の崩壊と未来ある人材の流出を招き、その災禍は総合格闘技ブームのあおりを受けて、今なお影を落としている。若手の芽は摘まれ、残った者たちは荒野に放り出されたも同然だった。なんとかそんな環境下でも生き残った数少ない若手レスラーたちの一人がグラン・プーセであった。
初老のマネージャーが旧知を頼って日本の太平プロレスの代表、松平林吾を仲介にテーブルに頭を擦り付けて取り付けた打開策。後進育成のためのダングラールの一時帰国も、為されてまだ1ヶ月、効果が出るにはまだ早い。この世界大会のタイミングは彼から見て最悪と言ってもよかった。しかし、フランスマット界上層部はメンツを理由に参加の辞退など認められない。隣国である英国のレスラーが優勝候補と聞いてはなおさらだ。
「……すまない、ジュール。これでは君たち若手に我々年寄りのツケを押し付けているようなものだ」
フランスの「巨人の親指」は、波を蹴立てる英国の「邪竜(ファフニール)」の前に沈んだ。あの邪竜が居るのならこのHブロックを突破するのは彼女で決まりだろう。初老のマネージャーはグラン・プーセの本名を口にして心から詫びる。せめてあの膝のダメージが予選リーグの彼の残りの試合に大きな影響とならないでほしいと祈りながら。
今回フランス選手団としてEQTに参戦したレスラーはわずか二名。残る希望は「祝福されし聖女」ジャンヌ・ル・ブランだけだ。しかし、彼の脳裏には太平プロレス訪問時にMr.三郎太に挑みかかり返り討ちになって歯噛みする彼女の姿が、そしてダングラールに「お前は本当に人の言う事を聞かんな」と呆れられている道場での練習風景がよぎっていた。
「……神は我らに罰を与えたもうたか」
セコンドの練習生の助けを借りてリングからとぼとぼと降りるグラン・プーセから目を離し、彼は耳からワイヤレスイヤホンを引き抜いて天を仰いだ。
抽選によってジャンヌが配されたのは、本部判断待ちとしてただひとつ初戦の開始が遅れているJブロック。そのメンバーは以下の通り。
「ジャンヌ・ル・ブラン」「デミル・ザ・ビーストスレイヤー」「羽衣玲」「結城蓮」「ブライアン・ブルナイト」
……そして「ローラ・ザ・チャージ」
そこには今大会の優勝候補、英国の若き女王の名があった。フランスに残された「最後の希望」は、よりにもよって最悪の怪物と同じブロックに放り込まれていたのである。