「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第6話 赤い靴の闘舞! の巻【予選Gブロック第2試合「宮川三郎太VSカレン・ミロンガ」】

 世界中から若き精鋭が集うEQT(アース・クェイク・トーナメント)。その予選第2試合が始まろうとしていた。Pブロックのリング上。ポーランド代表選手「フロド・ザ・スケアクロウ」はコーナーポストに寄りかかり、両腕をトップロープに預けたまま深く息を吐き出した。エプロンサイドからセコンドのマネージャーが身を乗り出し、彼の肩を叩いて最後のアドバイスを送る。

「気を抜くなよ、フロド。相手は日本の新興団体「ノワール・ゲート」のナンバー2だ。団体興行は格闘技専門の配信サービスで確認したがキャリアも実績も互角以上だと思って挑むべき、それが私の結論だ。見た目に惑わされるな」

 フロドは思わず眉をひそめ、耳を疑った。対角線のコーナーで試合開始を待っているのは、深い紺色のショートヘアに三日月の髪飾りをつけ、金色の瞳を輝かせている小柄な存在だ。機能美と気品を兼ね備えた青と黒のバイカラー・コスチューム。タイトなベストからは引き締まった細い腹部が覗き、腰元で輝く三日月のバックルがリングの照明を冷たく反射している。指先をカットした白いグローブをはめ、膝上まで伸びた純白のニーハイブーツを穿くその姿は――

「しかし……どう見ても華奢で可愛い女の子ですよ? あれが団体の『ナンバー2』ですって……女子プロレスの団体の話ですか?」

 フロドの呆れたような問いに、マネージャーは険しい顔で首を振る。

「私を信じろ、フロド。私が配信で見た試合で奴と対戦した日本の大男は、その蹴りで薙ぎ倒されていたんだぞ」

 マネージャーの目には確信めいたものがある。一体どんな映像を見たと言うのか。フロドはいまいち納得しきれないながらも、「蹴りには注意すべき」という点だけは頭の片隅に置くことにした。

 リング中央で歩み寄り、向かい合った瞬間。どう見ても少女にしか見えない対戦相手──雨宮月(あまみや・るな)は、ふっと唇を引き締めながらも、どこか柔らかい仕草で軽く会釈をした。その凛とした、それでいて礼儀正しい振る舞いが、どうにもフロドの闘争心を鈍らせる。釣られるように会釈を返したフロドは、自分より頭二つ分は小さい相手に戸惑いを隠せないまま構えをとった。

 開始のゴングが鳴り響いた瞬間、月が鋭く一歩を踏み込んだ。重心が僅かに沈んだのを見て、フロドは咄嗟にミドルキックでの迎撃を試みる。空中で、二人の脚が激突した。フロドの蹴り足に、重く硬い衝撃が走る。蹴り抜けない。弾き返されるように両者が間合いを取る中、フロドは正直舌を巻いていた。

(なんて重さですか……!)

 華奢な見た目からは到底想像もつかない、芯を撃ち抜くような威力の蹴りだった。圧倒的な体格差があるにも関わらず、下手をすれば威力の面でフロドのミドルキックを上回っていたかもしれない。客席からは「可愛いー!」という呑気な黄色い声援が飛んでいる。フロドは心の中で叫んだ。

(蹴りはちっとも可愛くないですよコイツ……!)

 マネージャーが危惧するだけの事はある。打ち合った脚にわずかな痺れを感じたフロドは、思わず距離を取り、慎重に様子を見ようとする。しかし、月は下がらず逆に間合いを詰めてきた。やむを得ず腰を落とし、ロックアップに応じたフロドをさらなる驚愕が襲った。

(なんだ、この力は……!?)

 月の体幹と組みの力が異常に強いのだ。今大会の参加選手の中でも長身の部類に入るフロドが、小柄な月にジリジリと押し返されていく。

「まさか、こんな可愛らしい女子を押し切れないとは……!」

 思わずフロドの口をついて出たその言葉。それを聞いた瞬間、月の顔が明らかに不機嫌そうにムスッとむくれた。フロドが体勢を立て直そうとした、まさにその一瞬。

「むっ……! 女だなんて一言も名乗ってません。ボクは男ですよ」

「えっ?」

 常識外れの告白に、フロドの思考が一瞬だけ完全に停止する。その空白は、リングの上ではあまりにも致命的なツケとなった。月の体がふっと視界から沈み込んだかと思うと、フロドの足首に何かが触れる感触──

(しまっ――)

 気付けば体勢を崩されていた。見事な蟹挟みで脚を取られ、背中からマットに叩きつけられる。すかさず、月の細くしなやかな両腕が、フロドの足首を無慈悲なヒールホールドに捕らえていた。

(迂闊、得意のサブミッションで先手を取られるとは……!)

 極められた足首から、限界を告げる激痛が迸る。喉の奥で悲鳴が震え、フロドは脂汗を浮かべながらマットの上で必死にもがいた。

「……フロドめ。言わんこっちゃない……」

 リング下のマネージャーは頭を抱えていた。同時に彼は激しく後悔していた。百聞は一見に如かず。言葉ではなく実際の試合映像で見せておかなかった自分のミスだ。

 

────────────────────

 

 場面は変わり、Gブロックのリング。そこでは太平プロレスの若きエース・宮川三郎太と、アルゼンチンからやってきた「情熱のステップ」の体現者、カレン・ミロンガの試合が火花を散らしていた。

 三郎太はいつになく険しい表情を崩さない。先の予選リーグ戦の各ブロックの第1試合、控室のモニター越しに目の当たりにした海外勢の底知れなさが、彼の警戒心を限界まで引き上げていた。サチ相手に不可解な逆転勝利を掴んだイタリアのゾーザという女子レスラーの不気味さの事だけではない。スペインの闘牛士じみた装いの男子レスラーの華麗な体捌きとそこから繰り出されるカウンターアタック、そしてロシアの戦闘マシンのような女子レスラーの精緻な関節技と、それに力強いスープレックスで対抗するアメリカのレスキュー隊員からプロレスへ転向したという男子レスラーの激突。どちらも自分と同等以上の猛者の動きに見えた。

 今対峙している、小麦色の肌に真紅のリングコスチュームが眩しいカレンとて、油断は許されない。体格こそ三郎太が勝るが、彼女の纏う空気は危険な棘を有する薔薇のようだった。

「よーし、行くぞっ!」

 自分自身に言い聞かせるような咆哮。三郎太は低く身を沈めると、弾丸のような初速で踏み込んだ。だが、先手を取って流れを掴もうという、その猪突猛進な突撃に対し、カレンは嘲笑うかのように軽やかなステップでいなしてみせた。

「私のリズムについてこられるかしら? ……さあ、踊りましょう」

 囁きが三郎太の耳元を掠めた瞬間、彼女の姿が消えた。否、消えたのではない。カレンは独楽のように鋭く回転し、三郎太の突進の「外側」へと鮮やかに身を滑らせたのだ。回転の勢いを殺さぬまま──いや、むしろ掠めた三郎太の突進で加速するかのようにして、彼女はマットを蹴って身を浮かせ、その右足が跳ね上がる。三郎太の勢いを利用した、カウンターのローリングソバットによって、その特徴的な装飾の施された鮮やかに赤いリングシューズの底が、三郎太の腹筋を無慈悲に抉った。激痛と共に、三郎太の体が流され、突進の軌道がずらされてロープ際へ突っ込んでしまう。

「ぐっ……!」

 三郎太は喉の奥にせり上がる苦悶を飲み込み、目の前のロープを掴んで、すぐさま立ち上がった。休む暇などない。再び距離を詰めようと、獲物を追う獣のような執念で手を伸ばす。

 しかし、カレンの動きはプロレスのセオリーからあまりにも逸脱していた。タンゴの歩法を格闘技に応用した、「ミロンガ・ステップ」と彼女が名付けた独自の歩法。それは歩くというより、流れるかのような重心移動だった。三郎太が掴もうとする手、抑えようとする肩。そのすべてが、カレンは柳のようにしなやかに、幻のようにすり抜けて組みつくことができない。

(くっ、何なんだ……!?)

 捕まえたと思った指先は常に空を切り、まるで見えない残像を掴まされているような錯覚に陥る。間合いの移ろい、動きの緩急に戸惑い、三郎太の足が止まる。無意識に攻めから受けに切り替わった隙をカレンは見逃さない。その瞳に、狩人の輝きが灯る。

「アタシのステップは、止まらないわ!」

 強靭なバネを秘めた右脚が、円を描くようにしなった。空気を切り裂く風切り音。直後、三郎太の喉元に強烈なレッグラリアートが炸裂した。衝撃が頸椎を揺らし、視界がチカチカと火花を散らす。三郎太の膝が、自重に耐えかねてガクリと折れた。

「げふ……ぐぅ!? まだ……だっ!」

 それでも三郎太は執念で踏みとどまった。泥臭く、不格好な執念。追撃に踏み込もうとしたカレンの細い身体を、今度こそ逃さじと強引に肩を掴んで懐へと引き込む。ようやく、この実体のない妖精を捕まえたのだ。三郎太はありったけの力を込め、至近距離から渾身のエルボーを叩きつけていく。肉を打つ鈍い音が響く。しかし、確かな手応えがあったはずの衝撃を、カレンは最小限に抑えてみせた。打撃が当たる瞬間に自らの体を捻り、回転と共に衝撃を後方に逃したのだ。三郎太の腕の中で回り、仰け反るダンサー。彼女にとって、被弾すらもダンスの振り付け、次のポーズへの繋ぎに過ぎないのか。

 カレンは倒れんばかりに仰け反りながら、三郎太の膝裏を絡め取った。そのまま自らを軸にして、その体をマットへ引き倒す。

「……ッ!?」

 さらにカレンは、三郎太のもう一方の脚に両脚を艶めかしく絡みつかせた。股を開かせるように固定し、そのままマットを転がり始める。

「さあ、回るわよ! ミロンガ・クレイドル!」

 超高速で回転し続ける変形ローリングクレイドル。通常、これほどの回転を加えれば、仕掛けている側も目を回し、平衡感覚を失うはずだ。だがカレンは、驚異的なバランス感覚と重心制御によって平然としていた。対照的に、三郎太は天地が逆転し続ける加速の中で、三半規管を無慈悲に揺さぶられてしまう。

「う、うわあああっ!」

 回転の中で何度も背中をマットに叩きつけられ、スタミナと気力が削られていく。左脚をかき抱く彼女の肢体の柔らかさを意識する余裕など、今の三郎太には微塵もなかった。その回転が解けた瞬間、カレンは満足げにふわりと跳ね起きた。一方の三郎太は、激しい眩暈に襲われ、マットの上で身悶える。

「なるほど……これが世界レベルって奴か……ぐぅ」

 だが、おねんねしたまま追撃を受けるわけにはいかない。三郎太は、泥酔したようにふらつく足取りでなんとか立ち上がる。

「……でもっ!」

 吐き気を根性でねじ伏せ、三郎太は咆哮した。突進の勢いにまかせてカレンの腰を強引に、力任せに抱え上げる。そのまま後方へ放り投げようと、渾身の力を込めてフロント・スープレックスの体勢に入った。高く、高く、三郎太の腕の先で彼女の体が宙を舞う。決まった。誰もがそう確信した。

 だが、カレンの柔軟性は三郎太の想像を絶していた。クラッチが不十分だったのをいいことに、叩きつけられる寸前、彼女は空中で猫のように身を翻したのだ。投げのエネルギーを回転力に変換し、まるで重力など存在しないかのような軽やかさで、片手をマットにつきつつも、両足からピタリと着地してみせ、妖艶な笑みを浮かべた。投げれたのではない、彼女は投げられるのに備えて構えていたのだ。

「そんな……投げも通用しないのか……!?」

 三郎太の顔が、驚愕に凍りつく。自分の持てるすべて――力、スピード、執念。そのすべてがカレンの「踊り」によって反らせ殺され備えられて、無力化されていく。こめかみから顎へ汗が伝う。

 三郎太は完全に攻めあぐねていた。

 

────────────────────

 

 その頃、EQT大会メイン医務室は、試合が行われているリングとはまた別の緊迫感に包まれていた。初戦に出ていた選手たちの処置も大方が終わり、研修医や看護士を務める医大生たちも一息ついた中で、大会主任医師の一人である永久寸(とわすん)は苦い表情を隠せぬまま、知らせを受けてかけつけた美樹を迎えていた。

 ベッドの上には、太平プロレスに所属し、予選Gブロックの初戦のリングに上がっていたはずのデンジャー・サチが横たわっている。彼女は苦しげに美樹に視線だけを向け、浅い呼吸を繰り返していた。顔色は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。四肢は力なく投げ出され、指一本動かない。

「……サチちゃん……!」

 美樹は思わず駆け寄り、サチの手を取った。だが、サチの指は完全に脱力し、美樹の手を握り返してこない。しかし、サチの瞳がその手と美樹の顔を行き来しているのは見て取れた。その目の端からわずかに涙が零れる様は、まるで助けを求めているかのように見える。

「松平さん」

 永久寸が静かに声をかける。美樹は振り返り、必死に平静を保とうとした。

「……状況を教えてください」

 永久寸はタブレットを操作し、壁面の各リングの試合風景を映しているモニターを一部切り替えて、検査結果を示しながら説明を始めた。

「外傷は軽度と言っていいだろう。後頭部の打撲も、脳震盪レベル。呼吸は浅いし脈拍も早いが……安定はしている。そして、触覚はどうやらあるようだ。彼女は触れられた部分を認識している、いや、むしろ過敏に感じているかもしれん。しかし……一方で四肢をはじめその全身が不随状態。神経伝達の異常が疑われるが、原因物質は一切検出されていない」

 明らかにおかしい状態だった。痛みや触れている感覚が鈍麻せず伝わっているのに、ただ動かす事だけができないなど異常が過ぎる。だが、元凶の影も形も見当たらない。

「……原因不明、ということですか」

「医学的には……そう言うしかないね」

 永久寸の声には、医師としての苦悩が滲んでいた。偉そうなことを言っているが、要するにわかりませんと白状しているに等しいこの状況は医療に携わる研究者としては屈辱の極みと言えた。

 その時、近くで処置を手伝っていた研修医が、おずおずと手を挙げた。

「主任……あの、こんなこと言うべきじゃないのは分かってるんですが」

 関係者に説明している時に割り込んでくる非常識に苛立ちつつも、それを承知での発言ならば黙殺することもできない。

「なんだ」

「イタリアのマット界で……ゾーザ選手に、ちょっと妙な噂があって……」

 永久寸は即座に遮った。

「噂話で診断はできんよ」

 だが、研修医の真剣な表情が、永久寸の胸に小さな棘のように残った。彼はたしか最初に医務室に来た時に選手セレモニーに目を輝かせていた人物ではないか。プロレス業界に疎い永久寸とは違う情報を持っているのかもしれない。松平美樹の視線を気にしつつ永久寸は渋々と促す。

「根拠のない話を広めるな……と言うべき所だが、内容だけは聞こう。ただし、今だけだ。他言はするなよ」

 研修医は神妙に頷いて小声で続けた。

「イタリアでの彼女の試合で、対戦相手が試合前や試合中に『急に動けなくなる』ことが何度かあった、と……。あまりに彼女に都合がいいケースばかりなので、証拠は特に出たことはないそうなんですが、ファンの間では彼女は魔女の家系で……その……毒使いなのでは……等と……」

 永久寸は表情を変えなかったが、その沈黙は重かった。毒の可能性は彼も内心で真っ先に疑っていたからだ。

 美樹は永久寸と研修医の顔を交互に見つめ、低く呟く。

「……神経系の毒、という可能性は?」

 やはり、指摘されてしまった。永久寸は苦い息を吐いた。

「否定は……できないね。しかし、原因物質は未検出だ。白状するが、実は既に考えられる範囲で検査は行っているんだ。結果はすべて陰性(ネガティブ)。……医師として『毒』とは言えない。その根拠がない」

 目を伏せて呟く永久寸の厳しい現実を示す言葉に、美樹は唇を噛みしめた。サチの瞳は、今も恐怖と悔しさで揺れている。

「現時点でのこれ以上の試合は現実的に不可能だ。本日の全試合、ドクターストップとして本部に上申する」

 永久寸はカルテに記入しながら告げた。

(……勝ち点ゼロ。実質リタイア……)

 美樹は内心でサチの世界大会の残酷な末路を理解した。しかし、今はそれどころではない。まだ、美樹には切れる札が残っていた。自分にしかできない、自分がすべきこと。対価は必要だが……。

「……病院への搬送は、少しだけ待ってください。すこし連絡したい所がありますので」

 美樹はサチの縋るような色を示す瞳を見つめ、決断した。永久寸は家族のことだと思っているのだろう、素直に頷く。

「受け入れ先の確認にも時間がかかるし、関係者への連絡が必要なのも分かる。ここの設備なら下手な病院より安全だろう。上には報告せざるを得ないが……しばらく経過観察するので、その間に連絡を済ませてきてくれ」

(……これは事故じゃない。誰かがサチを陥れたんだ)

 美樹は静かに立ち上がり、医務室を出ると、廊下でスマホを取り出した。落ち着いた指さばきで連絡先を呼び出す。最後に連絡したのは……3年前だったろうか。

「……お久しぶりです。松平美樹です。商談があります」

 繋がった事に軽く安堵しつつ、連絡相手にいきなり本題から切り出すと、一呼吸置いて天井を見上げる。

「……今、この会場のどこかにいらっしゃいますよね」

 その声には、確信の色があった。

 

────────────────────

 

 場面は再びリングへ。試合はすでにゴングから15分が経過していた。

「はぁ……はぁ……っ!」

 両者の肉体からは大量の汗が噴き出し、マットの上には点々と水溜まりができている。蒸せ返るような熱気の中、四角い湿ったジャングルで獣同士が対峙していた。

「ふっ……ふぅ……っ!」

 カレンの美しいプラチナブロンドは汗で肌に張り付き、三郎太の全身にも疲労が鉛のようにへばりつき、荒い息を納める暇もない。カレンのステップには、序盤のようなキレがなくなってきている。だが、疲弊は三郎太も同じことだった。総合力的には三郎太の方が上のようだが、カレンの防御技術と変幻自在なリズムが、試合を泥沼の消耗戦へと引きずり込んでいた。予選リーグの試合は20分1本勝負。残り5分弱、時間切れ引き分けという結末がじわじわと現実味を帯び始めていた。

 三郎太は朦朧とする意識の中で、重い一歩を踏み出す。

「渾身の……力を……!」

 彼は疲労の中で気力を振り絞り、跳躍する。狙うはカレンの胸元。

「ドロップキック……!!」

 この期に及んでカレンの身のこなし相手に大ぶりな攻撃など格好のカウンターのチャンスだ。三郎太の判断力も低下したのであろうか。カレンは笑みを深めて唇を舐め、試合開始直後の攻防を再現することで痛打を与えんと、放たれた一撃に対し、細かいステップを踏んで重心移動し、直撃から身をかわそうとした。

 しかし、試合開始時と今では違うものがひとつあった。それが彼女の計算を──そして彼女の美しいリズムを狂わせる。マットに滴り溜まった汗──そこは先のミロンガクレイドルの軌道上だ──それが彼女の足元で靴底を滑らせたのだ。

「……ッ!?」

 完璧だった彼女のダンスが乱れる。わずかに回避が遅れたカレンの脇腹に、三郎太の蹴り足がクリーンヒットした。

「ごふっ……!」

 カレンの体がくの字に折れて、もんどりうつように後方へ転がり、マットに沈む。ついに、三郎太が決定的な一撃を叩き込んだのだ。

 

 三郎太はダウンしたカレンを確実に仕留めるべく、ドロップキックの着地の衝撃を受け身で散らし、ふらつく体で立ちあがると覆いかぶさるように彼女を捕らえようとする。だが、不意の一撃を受けてしまったとはいえ、カレン・ミロンガはまだ「踊り」の立て直しを諦めてはいなかった。仰向けに倒れたまま、彼女は三郎太の顔面を見据え、妖しく微笑む。

「……まだよ。アタシのパシオン(情熱)は……ここからよ!」

 三郎太の手が伸びるのと、カレンが脚を跳ね上げるのは同時だった。その手が届くよりも早く、カレンは蛇のようなしなやかさでマットに逆立ちのように両手をついて身体を持ち上げる。ブレイクダンスを彷彿とさせる動きで両脚を振り回し、彼女は倒れた姿勢から次の動作へと情熱的に身を躍らせた。三郎太の差し出した手は、猛烈な勢いで回転する彼女の脚に弾かれ、空を切り、そのまま三郎太の頭部にカレンの両脚が絡みつく。彼女は自らの股間を三郎太の顔面にぶつけるようにして飛び込んできた。強烈な密着感とともに、獲物を逃さぬ腰の捻りと躍動する全身が、捕らえた三郎太の頭部をマットへねじ落とし、叩きつける。

「プラチナムロック……これが、アタシのパシオン(愛)よ。離さないわ……!」

 カレンは転がした三郎太の首を自らの膝裏で深くロックしてもう一方の脚で固定、さらに自分の足先を手で掴んで強烈に引き絞った。膝を基点とした変形三角締め――「プラチナムロック」だ。

「ぐっ……あ、あああああ……!」

 三郎太の視界が火花を散らす。頸動脈を圧迫され、酸素が脳へ届かなくなる恐怖が彼を襲った。カレンのしなやかで肉感的な脚は、強靭な力で彼を絞め上げる。逃げようともがくほどに、カレンはその身を揺らすようにして重心を制御し、その締め付けをさらに強固なものへと変えていく。

「……こ、この位……! ま、まだまだ……っ!」

 三郎太は薄れゆく意識を歯を食いしばって繋ぎ止めた。かつて黒木麗羅の「楔締め」に苦しめられたトラウマから修練した締め付けのポイントずらしの技術を駆使して角度を調節しながら、技からの脱出の道を探す。しかし、あまり猶予はない。今この時も試合時間は刻々と経過しているのだ。

 三郎太は決断した。無理に頭を引き抜くのではなく、体を限界まで海老反らせる。首を基点に大きく円を描いた右足が、カレンの死角からその頭上へと振り下ろされた。狙うはカレンの後頭部。三郎太は渾身の力を込め、「踵」による一撃を叩きつけた。

「っ!? ……あぐ……っ!」

 脳を揺さぶる衝撃に、カレンの完璧なロックにわずかな「遊び」が生じる。三郎太はその一瞬の隙を見逃さず、強引に首を引き抜き、転がるようにして距離を取った。互いの身体から汗がマットに滴り落ちる。

 

「はぁ……はぁ……死ぬかと、思った……!」

 三郎太は荒い呼吸を整える間もなく、無理に反った事で引き攣れる脇腹を擦りながら、再びカレンに向き直る。対するカレンも、後頭部を押さえながらふらふらと立ち上がった。

試合時間はすでに18分を優に超え、残る時間は1分少々、マットは両者の汗で鏡のように光っている。カレンは再びミロンガ・ステップで撹乱しようと試みるが、先ほどのようなスリップを起こさないか気にしたその足取りには、今までと違う明らかな乱れがあった。

三郎太は確信した。彼女の強みである「重心制御」は、今やこの汗まみれのキャンバスによって、彼女自身へ牙を剥いているのだと。だが、もう時間がない。フロントスープレックスやエルボーの時の事を思えば、投げや打撃で決めきれる保証がない。

「捕まえるしかないっ!」

 三郎太が突っ込む。カレンは華麗なターンでいなそうとしたが、またしても足元が汗で滑り、大きく重心を崩した。

「……チッ!?」

 ずっと彼女の表情を彩り続けていた笑みが、舌打ちと共に崩れる。その瞬間を、三郎太は見逃さなかった。彼はカレンの足元にスライディングキックを放って、膝をつかせると、その背後に回り込み、あぐらをかいたような複雑な形で彼女の脚を自らの脚でロックする。そして上半身を極限まで捻り上げ、逃げ道を完全に塞いだ。

「アグラツイスト……!!」

 インディアンデスロックとコブラツイストの複合技、モモ・スペシャルその2「アグラツイスト」──兄貴分モモタロウのそれに劣らぬ精度に達しつつあるその魂の技が、カレンの全身を縛り上げる。カレンは必死に逃れようと体をくねらせるが、三郎太のパワーと重厚なロックが自慢のリズムを完全に殺し、膝と腰への責めに柔軟性すら封じ込められた。

「あ、あぁ……っ!? 重心が揺らがない……!? 逃げられない……、この私が……コントロール、されてる……っ!?」

 カレンの悲鳴がリングに響く。彼女にとって、主導権(リード)を奪われることは、敗北以上の屈辱であり、同時に経験したことのない未知の快感でもあった。三郎太の真面目で実直な力が、彼女の「情熱」を上書きしていく。

「どうだ、ギブアップか!?」

 三郎太がさらに力を込める。カレンの体から力が抜け、その瞳に諦めと、清々しいほどの敗北感が宿った。

「っ、んんんっ♡ はぁ、はぁ……っ、ギ、ギブアップ……! 認め、るわ……今の、あなたの『リード』は、最高よ……!」

 三郎太の背を激しくタップする音。レフェリーが試合終了を告げるゴングを要請し、三郎太の勝利が確定した。

 

 ──19分28秒……試合時間、残りわずか32秒のギリギリの勝利だった。

 

 リング上で大の字になる三郎太の胸には、このEQT(アース・クェイク・トーナメント)──世界大会という舞台において、ようやく手にした最初の勝利の重みが刻まれていた。

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