「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第7話 地平線の輝星! の巻【予選Aブロック予選第3試合「ジェニー・葛葉VSホライズン」】

 EQT(アース・クェイク・トーナメント)予選リーグ。各ブロックで第3試合が始まり、東西の医務室で医療スタッフによって先の試合に出た選手たちへの処置も落ち着き始めた頃。東側の医務室の奥で、大会主任医師の一人、永久寸(とわすん)が信じがたい場面に立ち会おうとしていた。

 消毒液の匂い、機材の電子音、モニターの淡い光。その一角にしつらえたベッドの上で、今も太平プロレス所属選手の一人、デンジャー・サチは浅い呼吸を繰り返し、わずかに震える瞳だけで世界を見つめている。

 美樹は作業の邪魔にならぬよう、わずかに離れた壁際で両手の指を固く組んで、推移を見守っていた。その表情は凛々しく、気丈に見えるが、手元はかすかに震えている。

(……大丈夫。絶対に助けてみせる)

 彼女がこの場に呼んだ人間への信頼か、はたまた美樹自身の決意か。強い想いが彼女を内側から支えていた。

 美樹のすぐ傍らに、濃紺のスーツ姿の女性が腕を組み、壁に寄りかかって立っている。癖っ毛の長い金髪を整髪料で無理やりオールバックになでつけた彼女は一見すると退屈そうに、医務室の様子を眺めているように見える。だが、視線の端で美樹の姿を捉え、わずかに口角が上がっていた。

(……あの子、強くなったじゃない。昔の「お嬢様」の顔じゃないね)

 そんな感心を胸に秘めつつ、その女性──黒木麗羅は静かに佇む。その位置取りは無造作に見えるが、その実、影幻の死角を自然にカバーしていた。

 

 永久寸はサチのバイタルを確認しながら、隣の机に置かれた血液サンプルへと視線を移した。半信半疑──いや、これは医師として当然の疑問だ。美樹が連れてきた「黒武術なる格闘技団体の総帥」とやらが、医学的に何をできるというのか。本来なら医務室から追い出すべき存在だが、永久寸の中の未知への好奇心と、対処できなかった悔しさが美樹の「文句は再検査の後でお願いします」という言葉を許してしまっていた。

だが、そんな永久寸の複雑な心境など関係ないと言わんばかりに、その男──影幻春架は、落ち着いた様子で、静かに検査サンプルを手に取った。銀髪が揺れ、左頬の古い裂傷痕が光を受けて浮かび上がる。黒いスーツの袖口から覗く指先は力強く、その所作には驚くほど無駄がない。

「嘔吐無し、触覚あり、痛覚過敏、全身不随、検査陰性。……成程、瞳孔収縮がないなら大方アレ系統か」

 影幻は持参した手持ちカバンを探ると、指先大の陶器製の小瓶をひとつ取り出した。永久寸が反射的に声を上げる。

「待ちなさい。勝手に試薬を──」

「まぁ、見てみろ」

 低く、しかし絶対的な圧を帯びた声。永久寸は言葉を飲み込んだ。医師としての矜持が反発するのに、身体が勝手に従ってしまうような迫力だった。だが気圧されただけでないことも自覚していた。それでどうなるというのか、永久寸は見てみたかったのだ。

影幻は小瓶から取り出した透き通った結晶粉末をわずかな水に溶き、その一滴を再検査中の血液サンプルへ落とした。そしてそのまま検査機材へ戻す。

 

 ──瞬間。

 

 検査機材のモニターが映し出す内容に劇的な変化が現れた。血小板の内のいくつかの表面が不自然に剥がれたのだ。即座に触媒が反応を始め、検査結果がネガティブからポジティブに変わる。

「……っ!? これは……偽陽性(ぎようせい)や検体エラーではなく、確定的な陽性反応(ポジティブ)を示している……!? だが、何だこれは……!?」

 永久寸が目を見開く。まるで迷彩柄の布を剥がして特殊部隊が出現したかのような異常な光景だった。影幻は小さく「いい機材置いてんなー」と零しつつ、淡々と告げる。

「血小板表面のコーティングに偽装して免疫系を騙しているんだ。結果として検査にもひっかからない。茸類か……? 血なまぐさい業界では古くから有名で警戒されていたが……成程、イタリア系だったとはな」

 サチがイタリア代表選手の一人であるゾーザと対戦中に異変を起こしたという事実、そしてそのゾーザの背後に囁かれる「魔女の家系」の噂。話を聞いて影幻は長年の謎が解けたと得心したように頷く。

「真菌毒素(キノコ毒)による中毒症状……!? だが、偽装されていたというのか!? ……そんな……医学的にこんな事例報告は……!」

「事例が残って、表ざたになると都合が悪い者がいるのだろう。だが、お前の見ている現実は事実だ。医学医学と言うが……長く世代継承された経験知の蓄積を舐めるなよ」

 医学者としての常識が崩れ、永久寸は言葉を失った。しかし「目の前で実際に確認されている現象」は否定できない。医学の進歩よりも政治的都合を優先する者が居る事も……遺憾ながら否定できない。大学病院の派閥事情に関わる永久寸はそう言う話をいくつも聞いた事があったからだ。

 

「フン、こんな毒、どうとでもしてやる。……場所を借りるぞ。解毒剤を用意しよう」

 影幻はサンプルを置き、医務室の作業台を指さした。

「ま、待ちなさい。あなたは医師免許を持っていない。調薬は──」

 さすがの永久寸も我に返った。検査に偶発的事象で第三者の手が加わり、希少な毒性原因物質が新発見された……この程度はなんとでも言い訳できる。だが、薬事法も医師法もあるのだ。未承認薬、それも成分不明の物質を人体へ投与するなど、軽いノリで許されるものではない。

「これは調薬ではない。準備だ。……そして、選ぶべきは結果だ。そこの身動きできない人物を救うか、救わないか。さらに言えば、患者が増えない保証も無いのではないか?」

 永久寸の胸が強く揺れた。医師としての職業倫理が叫ぶ。だが、サチの震える瞳が、助けを求めている。そして、次の患者は彼女のように中毒症状の中で容態が安定しているとは限らないのだ。

(……まだ、まだ医療行為ではない。人体へ直接ではなく、サンプルに対して効果があるか試すだけなら……)

 永久寸は自分に言い聞かせるように、静かに頷いた。

「……分かった。サンプルに対する反応を見るまでは……判断は保留しよう」

 影幻は短く「フン」と鼻を鳴らし、器具を並べ始めた。影幻の視線を受けて麗羅が静かに壁際から離れると、無言で手伝い始める。

 

 リングとは別の戦いが始まった医務室で、セコンドたる美樹は寄り添ってサチの手を握りしめ、戦いの推移をただ見守っていた。

 

────────────────────

 

 熱気と歓声、そして汗の匂いがむせ返るように渦巻く世界プロレス大会EQTの会場。その予選リーグ、Aブロック第3戦のリング上で、あまりにも対照的な二人のレスラーが対峙していた。新興団体「ノワール・ゲート」の若手エースであり、今大会における日本代表選手の一人、ジェニー・葛葉。ブロンドのショートボブを揺らし、ピンクとスカイブルーの鮮やかなセパレート衣装に身を包んだ彼女は、いつものように天真爛漫な笑みを浮かべている。対するは、オーストラリア代表の覆面レスラー、ホライズン。地平の星を象った意匠と青と銀に彩られたフルフェイスタイプのマスクの奥から、鋭い眼光がジェニーを見下ろす。100キロもの重量感ある筋肉に包まれた鋼の肉体は、ただそこに立つだけで周囲の空気を圧迫していた。厚い胸板に横一文字に走る古傷が、若手でありながら彼がくぐり抜けてきた死線の数を物語っている。

 キュッ、とリングシューズを鳴らし、ジェニーは澄んだ薄紫色の瞳を輝かせて軽快にステップを踏む。しかし、今日の彼女の笑みは、どこか強張っていた。かつての彼女にとってプロレスは、勝敗以上に「リングでみんなと楽しく遊ぶこと」が至上の目的だった。しかし今の彼女は違う。「遊び」のさらに先にあるという領域の「未知の楽しさ」を求め、そして探る探求者なのだ。あの日、英国の若き女王ローラ・ザ・チャージに圧倒され、恐怖と絶望の中で無様にマットに這いつくばってからジェニーは今まで通りではたどり着けない領域がある事を痛感した。戦うのだ、そこへ辿り着き、彼女なりの答えを見つけて「納得」を得るために。

 

 カーン!

 

 試合開始のゴングが鳴り響くや否や、ジェニーは獲物を狙う獣のように鋭く踏み込んだ。放つのは、地を這うような低空ドロップキック。標的はホライズンの丸太のような足元だ。体格で上回る相手と戦うならばまずはその支えを崩す。正攻法と言えよう。彼女はかつて自分を討ち破った三郎太に言われた「楽しい真剣勝負」というワードが気になって仕方がない。その言葉の意味を身体で確かめるように、かつてのように遊び心の様子見ではなく最初から真剣に攻め立てて行く。

 狙い違わずジェニーのドロップキックは全体重を乗せて確かな威力で蹴り込んだ。しかし、固いレガース越しに伝わってきたのは、分厚い岩壁を蹴り飛ばしたかのような絶望的な反発力。蹴りを受けてなお、ホライズンの重心は、大樹が地に根を張ったように微塵も揺らがない。

「むん!」

 気合の声ひとつあげ、腰を落として隆起した筋肉の障壁を頼りにドロップキックを耐え抜いたホライズン。その微塵も怯まぬ鋼の肉体に対し、ジェニーは間髪入れず身を起こし、その太い首へとしがみつくようにしてヘッドロックに捕らえていく。熱を帯びた肉体と肉体が激しく擦れ合う生々しい感触。相手を絶対に逃がすまいと、彼女は細い腕の筋肉を総動員して、渾身の力でその頭蓋を絞め上げる。

「強いんだね……! この感じ、最高にワクワクするよ!」

 ヘッドロックに捕らえたホライズンのスタミナを奪うべく、左右に体重をかけて振り回すようにしながら、至近距離で弾むような声を上げるジェニー。しかし、責め立てられているとも思えぬホライズンの落ち着いた重厚な声が、地鳴りのように彼女の鼓膜を震わせた。

「……少女よ、君こそ素晴らしい動きだ。だが、その『興味に振り回される遊び』の心では、吾輩のスープレックスには耐えられんぞ!」

 その言葉にジェニーの鼓動が強く脈打つ。まただ、また「遊び」を指摘された。所詮はお遊び、ローラの言葉が脳内に蘇る。そうやってつい思考に意識を向けてしまった直後、ホライズンの巨体が唸りを上げた。ヘッドロックに捕らえられたまま、彼は逞しい筋肉を纏った腕でジェニーの腰を強引に抱え上げる。

「えっ」

 浮遊感は一瞬。ホライズンの重機の如き馬力が絶対的な重力となって、強烈なサイドスープレックスでジェニーの身体を容赦なくマットへと叩きつけた。ちょうどヘッドロックに抱え込む動きをブリッジの軌道に巻き込まれた形だ。嵐のようにマットに叩きつけられ、その衝撃に悶えるジェニーに対し、ホライズンは容赦なく追い打ちをかける。ダウンしたジェニーに対し、自ら倒れ込むようにして放った体重を乗せたチョップが、彼女の鎖骨を割り出さんばかりの勢いで炸裂する。

「ぐっ……、あは……っ!?」

 身体の芯まで響く痛みに顔を歪めながら、ジェニーはマットを這い、両手をついてどうにか身を起こす。

「あぁ、痛いなぁ……くそぉ……」

 視線を上げれば、ホライズンはすでに立ち上がり、腕を組んで悠然と彼女を見下ろしていた。先ほどの『遊びの心では耐えられない』という宣告が、冷たい棘となって胸の奥に刺さっていた。二度目の自身の「遊び」の否定、あの日から時を経て再起したつもりだが、いまだ自分は踏み出せていないと言うのか。苛立ちと、過日のローラ襲来で味わい、いまだ消えないあの抗いがたい力への恐怖が混ざり合う。

「遊ぶのが……楽しむのがそんなにダメな事だっての……?」

 膝を叩いて気合を入れ直し、ロープを掴んで立ち上がるジェニーをホライズンが見据える。

「……そうではない。吾輩が言っているのは魂の姿勢の話だ」

 ホライズンは組んでいた腕を開き、右拳を左の手のひらにパンッと打ち合わせると、ドカッと腰を落として構えを取った。どこからでもかかって来い、という揺るぎない英雄のような佇まい。自分には分からない「絶対的な何か」を、この男は知っていると言うのか。その落ち着き払った態度が、ジェニーの癇に障った。

 結果として、彼女はまんまと挑発に乗ってしまった。ムキになり、あろうことかホライズンの土俵である「投げ技」での反撃を選択してしまう。

「ボクの投げだって……通用するんだから!」

 ジェニーはホライズンの懐に飛び込み、首の裏を捕らえてフライングメイヤーを仕掛けた。空中で円を描き、巨体をマットへ転がそうとする。だが、投げのスペシャリストを自認するオーストラリアマットのヒーロー、ホライズンの重心は、彼女にとってあまりにも重厚過ぎた。押しても、引いても、ひねっても、びくともしない。

 彼女のパワーでは完全に投げきれず、技が中途半端にすっぽ抜ける。バランスを崩し、無防備な体勢を晒してしまった己の力不足に、ジェニーは悔しさで唇を噛んだ。その一瞬の致命的な隙を、この猛者が見逃すはずがない。

「……なにか悩みがあると見た。だが、君が『真剣勝負』を望むならば、相手のことだけを考えろ!」

 背後へ瞬時に回り込んだホライズンの両腕が、鋼鉄のクラッチとなってジェニーの両太腿をガッチリと拘束する。ジェニーの表情が引きつる。

(まずっ……!?)

 防ぐ間もなかった。彼はジェニーの背後を瞬時に取り、がっちりとした強固なクラッチで彼女の両の太腿をダブルレッグ・スープレックスに捉え、圧倒的な圧力によって、彼女の体を再びマットへと沈める。衝撃が全身を駆け抜ける。

「ぐぅ……ッ!?」

 視界がフラッシュを焚かれたように白く明滅し、ダメージを吸収しきれなかったジェニーの身体が、力なくマットをバウンドして転がった。

(ああ……この感じ、知ってる……)

 三半規管が狂い、意識が泥水のように混濁していく中で、ジェニーの脳裏に忌まわしい記憶がフラッシュバックする。かつてローラに手も足も出ず完敗を喫した際、その試合の最後で絶望とともに叩きつけられた彼女の必殺技(フェイバリット)、「トリコロール・スープレックス」の記憶。あの時味わった、心が圧し潰されるような恐怖と痛みが、今、目の前で山のように聳え立つホライズンの巨影と重なり合っていた。

 

 リングに大の字に倒れたまま、ジェニーの指先が小刻みに震える。

「……ボクの投げじゃ、通用しないのかな……」

 ただ「遊ぶ」だけでは決して届かない領域がある。その冷酷な現実を、ホライズンのあまりにも重い投げが、心身にこびりついて離れない深いダメージとして彼女に教え込んでいた。

 ホライズンは追撃しない。地鳴りのような観客の声援に片手を上げて軽く応えながら、ただ静かに、目の前でうずくまる少女が再び立ち上がるのか否かを見据えている。その光景を目にして困惑と怒声の混じった声でざわめく観客たちがいる一方で、オーストラリアから応援に駆け付けた観客たちは、固唾を飲んでその背中を見守り、彼の姿勢を是としていた。

 オーストラリアマットで「地平線の守護者」を名乗る覆面ヒーローたる彼は、決して倒れた相手をいたぶるような真似はしない。彼らはホライズンの高潔な在り方を知っているのだ。

 

 ──バンッ! と、鋭い音が響いた。

 

 ジェニーが力強く、怒りを込めて手のひらでマットを叩いた音だった。

「……納得できないね」

 彼女の心の奥底で、ふつふつと湧き上がる反骨の炎。そもそもジェニー・葛葉は生粋の負けず嫌いである。ゲームだって、納得のいくクリアを迎えるまで何度でもコンティニュー画面を叩き続けるタチだ。かつてローラに完膚なきまでに踏みつぶされ、本来なら好みではない地道な筋力トレーニングすら甘受して這い上がってきた彼女が、たかだか一度投げ負けた位で諦めるはずがない。

 いいや、違う。まだ、試合中だ──投げ負けたかどうか決まっていないではないか。おねんねしている場合ではない。自分のプライドを取り戻すために。そして、あの日の無力な敗北を塗り替えるために。

 ジェニーは震える両手をマットに突き、軋む身体を鞭打って、ゆっくりと、だが確実に起き上がる。完全に立ち上がったその瞬間、彼女の唇に浮かぶ笑みの質が、明確に変わった。

「……ボクだってハンパに遊んでるわけじゃない。ボクの『真剣』ぜんぶ、ぶつけてやる……ッ!」

 マスクの下でホライズンの目が細められた。

「面白い、君が敢えて吾輩の得意とする地平線で魂をぶつけあうのを望むというのなら……受けずに逃げてはヒーローが廃る」

 防ぎ、捌くために強固に構えられていた彼の両腕が、ゆっくりと下ろされる。

「……来い!」

 魂の底から振り絞るような叫びと共に、ジェニーは弾かれたように突進し、ホライズンの太い腰に組み付いた。狙うは変形ファイヤーマンズキャリ──狐火キャリーだ。それは、重厚な体幹を持つ相手をスピードや飛び技で翻弄する、クレバーな勝ち筋への道ではない。あえて空へ逃げず、自身の力のみで100キロの巨体を担ぎ上げるという暴挙。投げ技のスペシャリストである相手の土俵に敢えて踏み込み、そして勝つという、彼女の不退転の決意の表明だった。

「おおおおおっ! 『狐火キャリー・ドロップ』だぁ!」

 細い足腰に纏われたしなやかな筋肉が限界を告げる悲鳴を上げる。だがジェニーの瞳がゆらりと光を放ち始める。彼女は歯を食いしばり、気合でホライズンの巨体を担ぎ上げると、彼の身体を狐の尾のように空中で大きく揺らめかせ、自らの体重を上乗せしてキャンバスへと叩きつけた。

「むぅっ……!?」

 地の底から響くような着弾音が会場を揺らし、叩きつけられたホライズンの口から、苦鳴とも感嘆ともつかぬ太い息が漏れた。

 

 そこからのリング上の空気は、熱気というよりもはや、呼吸すら苦しくなるような粘り気のある重圧へと変わっていった。観客の絶叫は地鳴りとなって床を揺らし、カクテル光線は飛び散る二人の汗を反射して無数の火花を散らしている。

「君の『楽しさ』は独りよがりだと言うのだ!」

「がふっ!?」

 ホライズンのダブルアーム・スープレックスが、非情な軌道でジェニーを打ち据える。マットを転がり悶絶するジェニー。だがホライズンは追撃せず、両膝に手をついて荒い息を整えながら、彼女が自力で起き上がるのを待った。よろめきながらも立ち上がったジェニーは、痛みに顔を歪めながらもホライズンに食らいつき、今度はキャプチュードでその巨体を強引に反り投げた。

「楽しませるとこまで面倒見る義理ないじゃん!?」

「ぐおっ!?」

 背中から叩きつけられたホライズン。今度はジェニーが、肩で息をしながら彼が立ち上がってくるのを待つ番だ。ジェニー・葛葉とホライズン。二人はもはや、テクニックや駆け引きといったプロレスのセオリーを完全に捨て去っていた。そこにあるのは、交互に大技で投げ合い、どちらの意志が先にへし折れるかという、原始的で不合理で荒々しい、剥き出しの命の削り合いである。身長こそ4センチ差、しかし、二人にはウェイト差による圧倒的な質量と筋力の差がある。こんな戦い方をしてはホライズンに分があるのは誰の目にも明らかだ。だが、圧倒的不利など承知の上でジェニーが挑んだ意地の投げ合いである。受けて立ったホライズンも、絶対に彼の側から退くことはできない。もはや、互いの魂が納得行くまで投げ合うしか道は残されていなかった。

「面倒を見ろなどと言っておらん! 敵を知り己を知る覚悟の欠如がヌルいと言っているのだ!」

「おごっ!?」

 ホライズンの凄まじいドラゴン・スープレックスが炸裂し、ジェニーの身体が宙を舞って、バウンド。のたうち回る。両者はすでに満身創痍だった。ジェニーのブロンドのショートボブは汗で額にべったりと張り付いている。だが、その澄んだ薄紫色の瞳――ライラック・アイは、自らの肉体を限界を超えてブーストさせる「トランスモード」へと突入し、妖しくも鮮烈な輝きを放っていた。対するホライズンも、巨体から噴き出す汗は滝のように流れ、熱気が青いマスクを重く湿らせている。分厚い胸板に刻まれた一文字の古傷が、激動する筋肉と荒れ狂う呼吸に合わせて生々しく脈打っていた。

「知る覚悟あるもん! ……技だって!」

「ならば技だけが君のすべてか!?」

 対話の度に投げ技がリング上を震わせている。二人は攻撃を避けることも、受身の態勢を整える余裕すらも拒絶し、ただひたすらに相手の肉体を抱え上げ、真っ逆さまに叩きつける「投げ合い」の狂熱に没頭していく。ホライズンの100キロの質量がジェニーを襲い、彼女の意識をマットの深淵へと引きずり込もうとする。だがジェニーも、その致命的な衝撃を全身で受け止め、肺に溜まった苦悶を獣のような咆哮に変えて吐き出しながら、すぐさまその巨体に食らいつき、トランスモードでブーストされた筋力任せに投げ返した。絶対的な重力と、限界を超えた肉体が激しく交錯する。

 血反吐を吐くような意地と意地のぶつかり合いにキャンバスが悲鳴を上げるたび、会場のボルテージは臨界点を突破し、無限に膨れ上がっていった。

 

 ホライズンは、投げのスペシャリストとしての矜持をその広い背中に背負いながら、マスクの下で口角を上げていた。ボロボロになり、呼吸を乱しながらも、決して視線を逸らさず立ち向かってくるジェニー。その姿に、彼は真のレスラーだけが放つ、魂の燐光を見ていた。応じて良かった。その気になれば彼は卓越した技量で相手を絡めとり、締め上げ、関節技と締め技で屈服させることもできる。だが、この試合彼はそれを一切行使していない。だが、それでいい。そうでなければならない闘いもまた存在するのだ。

 ホライズンと真っ向、投げ合っている彼女の瞳に宿るのは、もはや享楽的な「遊び」ではない。それを超えつつある切っ先のような覚悟だ。それを真正面から受け止め、全力でねじ伏せることこそが、好敵手への最大級の敬意。彼はそう確信していた。

 対するジェニーもまた、笑っていた。このパワーマッチョな、外見に似合わず小難しい言葉を吐くヒーローとの投げ合いが、楽しくて仕方がなかった。ただ圧倒的な暴力で切り捨てていったローラとは違う。この男は、ジェニーの繰り出す全てを、その肉体と魂で受け止めて応えてくれている。得意の空中殺法を使えば、もっと優位に試合を運ぶこともできたかもしれない。だが、後悔は微塵もなかった。絶対にこの剛体の賢者に投げ勝ってやる。その衝動だけが、彼女の四肢を突き動かしていた。

 

 正気の沙汰とは思えない投げ合いの末、残る試合時間も少なくなってきた頃、自らが投げる番となったホライズンが地を蹴った。電光石火の速さでジェニーの背後へ回り込み、その細い腰を鋼鉄の万力のごとき腕で締め上げる。全身の筋肉が爆発的なエネルギーを貯え、彼は渾身の力で弧を描いた。放たれたのは、重厚かつ鮮烈なジャーマン・スープレックス。ジェニーの背と後頭部がマットを叩き、視界が白く爆ぜた。脳を直接シェイクされるような衝撃。だが、ホライズンはクラッチを解かない。そのままの勢いで、ぐったりとしたジェニーを強引に引き起こし、その背後から左腕をチキンウイングに、右腕をハーフネルソンにガッチリと固定した。腰を深く落とし、必殺のホライズン・スープレックスへと繋げようという、逃れようのない死の抱擁。

(──連続スープレックス!?)

 そのシチュエーションが、ジェニーの脳内に眠っていたローラの『トリコロール・スープレックス』の恐怖を呼び起こし、一気に彼女の内に噴き上がる。

「……っ!」

 わずかに身を固くした彼女を気遣うように、あるいは引導を渡す儀式として、ホライズンが吼えた。

「覚悟はいいか。吾輩の必殺技(フェイバリット)は南半球の重力そのものだ。ひとたび放たれれば逃れることはできんぞ!」

 マスクの内側で反響する重低音が、ジェニーの鼓膜を震わせる。重力に捕らわれ、その身体が宙へ投げ出されようとした、その時だった。ジェニーの肉体が、理性を超越した「反射」を見せた。

 彼女の奥底に眠る力がトランスモードの瞳の輝きをさらに一段階強く燃え上がらせ、全身の神経を焦がす。地道な修練で培われた強靭な足腰が、まるでマットに根を張ったかのように粘り、ホライズンの持ち上げを拒絶したのだ。自身より軽量な彼女の身体が意のままに持ちあがらず、わずかでも堪えられたことにホライズンの目が驚きに見開かれる。そして、彼女は最後の力を振り絞り、自身の頭部を後方へと叩きつけた。鈍い衝撃音がリングに響く。ジェニーの後頭部での頭突きが、ホライズンの顎を正確に、そして痛烈に射抜いた。

「……ぬぅっ!?」

 脳を揺さぶる一撃に、鉄の結束を誇ったホライズンの腕が、一瞬だけ緩む。「ホライズン・スープレックス」の始動体勢が崩れる。その刹那を、ジェニーは逃さなかった。彼女は流れるような動きでホライズンの腕を振り払い、電光石火の速さで反転。逆にホライズンに正面から組み付きその頭部を胸の下に押さえ込んでリバースフルネルソンにクラッチする。

「『遊び』じゃ……ない! これがボクの……『真剣勝負』の全力だぁーーーッ!」

 ジェニーの魂の叫びが、会場の喧騒を一瞬で支配した。

 

 ──彼女がリバースフルネルソンに捕らえたホライズンをマットから引き抜いた瞬間、世界が加速した。

 

 それは、今までの彼女が見せていたフェイバリット、「スターダスト・スープレックス」とは、全く異質の何かだった。空中で描かれる華麗な放物線も、浮世離れした滞空時間もそこにはない。次の瞬間。すでにホライズンの巨体はマットに突き刺さり、キャンバスが強烈な反動で跳ね上がっていた。目にも留まらぬ、あまりにも爆発的な速度。ジェニーは極限まで絞り出された膂力で、一点の揺らぎもない完璧なブリッジのアーチを描いていた。

「吾輩が……投げられたのか? いつの間に……!?」

 投げの達人であるホライズンですら、自分が投げられた瞬間を認識できないほどの速度。彼は、ジェニーの体固めで為す術なくマットに固定され、呆然としたように、ただ圧倒されるしかなかった。

「ワン! ツー! ……スリー!!」

 レフェリーの手が3度、力強くマットを叩いた。試合終了のゴングが乱打される。ジェニー・葛葉による激戦を制しての完全なピンフォール勝ち。

 

 一瞬の静寂。そして、それを塗り替えるような爆発的な歓喜と称賛が、会場の天井を突き破らんばかりに響き渡った。

 

 マットに横たわったまま、ホライズンは荒い息を吐きながら、マスクの下で満足げに、そして清々しく笑った。

「……見事だ。吾輩は君のブリッジに、そこに賭けた君の瞳に……星の輝きを確かに見た。……君の勝ちだ、ジェニー・葛葉!」

 その言葉は、勝敗を超えたレスラーとしての賞賛だった。ホライズンはゆっくりと身を起こし、ジェニーに歩み寄る。そして、彼女の武運を祈り、誇らしげにその手を高く掲げた。

 ジェニーは、いつも見せていた天真爛漫な「遊び」の表情ではなく、一人の戦士としての凛とした、それでいて清々しい笑顔でそれに応える。

「輝く星……シャインスターか。あは! ……うん、決めた。今のボクの必殺技は、『シャインスター・スープレックス』だ!」

 自らの手で掴み取った重みのある勝利。咄嗟に放った超高速スターダスト・スープレックスは新技「シャインスター・スープレックス」として名を刻み、彼女は自らの掌をじっと見つめた。そこには、激戦の代償としての痛みが刻まれ、僅かに震えていたが、それ以上に、今まで感じたことのない熱い何かが宿っていた。

「……どうやら、迷いは晴れたようだな、少女よ……いや、ジェニー・葛葉よ」

 ホライズンのマスクの下の優しい瞳に、ジェニーは嬉しそうに満面の笑みで返した。

「えへへ……、うん!」

 ジェニーは顔をあげた。リング上の戦いを讃える観客たちの声が聞こえる、拍手が、振り上げる拳が目に映る。そして、このリングなど見ていない観客たちと、他の15のリング群も……。

 ライラック・アイが、いまだ試合の始まらないJブロックのリングを見つめて鋭く光る。

(これなら……今なら届くかもしれない……)

 

 かつて敗北を喫したローラの背中。そして、このトーナメントに集う強豪たちの頂。遊びのその先を求めて辿り着いた、真剣勝負の荒野。ジェニー・葛葉は、自らの魂を刻んだ確かな一歩を、今ここに踏み出したのである。

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