「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
世界プロレス大会「EQT(アース・クェイク・トーナメント)」の開催会場である東京ドーム。そのグラウンドに並んで設置された16基の特設リングのうちのひとつで、予選リーグPブロックの第3試合が始まろうとしていた。なぜか試合が行われず空のまま放置されているJブロックを除き、各リングではすでに2試合が消化されている。同時多発的に繰り広げられる多種多様な激闘に、観客のボルテージは予選にも関わらず──いや、予選だからこそと言うべきだろうか──すでに最高潮へと達していた。すり鉢状のスタンド席とマウンド上の各リングを取り巻くSSS席からは脈打つ地鳴りのように歓声が上がっていた。
その喧騒の中、リング上のコーナー前で、黒と深緑を基調とした、タイトなノースリーブのチャイナドレス風リングコスチュームを纏う少女が居た。彼女は右拳を左掌で包む構えをとって細く息を吐き、静かに闘気と呼吸を練り上げている。深く腰を落とした安定感のある姿勢からは、スカートのスリット越しに太腿を覆うスパッツが覗く。
華国代表選手の一人、シャオ・ロンメイ。いわゆる「メカクレ」の長い前髪の奥で、隙間から覗く瞳が放つ鋭い光が対峙する日本代表選手の一人、試合の対戦相手であるガータ御子柴を射抜いていた。
「……お前、悪役(ヒール)ですね」
おもむろに発せられたシャオの声は低く、そして冷徹だった。しかし、対角線のコーナーによりかかって立つ御子柴は、意に介した様子もない。黒地を赤で彩り、胸元や脇腹を網目越しに覗かせる煽情的な衣装に身を纏い、斜に構えてネコミミのヘッドセットを僅かに揺らし、笑みを浮かべる。
「だったらどうだって言うニャ?」
シャオは二歩前に出て、自然体で立った。口にする言葉も、ごく当然とばかりの響きを帯びている。
「ワタシの前で、凶器など使える思わないことです」
「へぇ?」
御子柴もまた、コーナーから背を離して歩み出る。実のところ、最初から凶器で暴れ回る試合にするつもりはなかったが、頭ごなしの宣言に黙っていられる彼女ではない。挑発として受け取り、当然のように受けて立つ。御子柴は今、自身がいくつ凶器を隠し持っているか、セコンド係として自身につけられ、リング下で待機する練習生に何を持たせていたかを素早く脳内で確認しながら唇を舐めた。
リング中央で対峙する二人。身長差はゆうに15センチ以上。だが、見下ろされる形のシャオに怯んだ様子は微塵もない。ややあって、ゴングが鳴り響いた。
カーン!
試合開始を告げる金属音が鳴るや否や、シャオの身体が弾かれたように動く。鋭い踏み込みから放たれた水平チョップが、御子柴の胸元で乾いた音を立てた。カンフーの型で繰り出される、スピードの乗った打撃が一発、二発。まるで見えない刃で刻むような、迷いのなさと精緻さを兼ね備えた衝撃。御子柴は呻き声を上げながらも、その赤い瞳に被虐的な色を浮かべて後ずさり、コーナーへと追い詰められていく。
「あは♡ 威勢がいいニャア。可愛い女の子がそんなにムキになっちゃって……」
背中がコーナーマットに触れ、後退の余地をなくした御子柴。しかし、その表情は余裕に満ちていた。
「いいぜ、ならオレ様がたっぷり可愛がってやんよ!」
彼女はいつもコスチュームの隙間に隠し持っている細身のスチール製のチェーンを滑り出させた。ギラリと光る金属の鈍い光。御子柴はそれを指に絡め、ジャラリと音を立てると凶悪な笑みを浮かべて挑発する。
「コイツで縛って、その綺麗な顔を苦悶に……あれ?」
御子柴がチェーンを振り上げようとした瞬間、手の中から獲物が消えていた。電光石火。その瞬間のシャオの動きはプロレスのそれではなく、文字通り「命を奪い合う場」で培われた身のこなしだった。御子柴の親指を引っ掛けると同時に、手の甲を弾き、宙に浮いたチェーンを奪い取る。そのまま一切の躊躇なく、シャオは手首のスナップだけでチェーンを場外へと投げ捨てた。かつての試合で見せた、手先だけで足首や首筋にその先端を巻き付けさせる御子柴のチェーン捌きもかなりの腕前だが、彼女の手管は次元が違う領域にあった。
「……清浄なるリングに、凶器無用です」
反撃を避けるため数歩下がって間合いをとり、シャオは涼しい顔で言い放つ。リング下に落ちたチェーンは、シャオのセコンドについていた強面の練習生がすかさず回収してニヤリと笑った。下手をするとシャオ以上に鍛え上げられていそうな、練習生らしからぬ筋肉がしっかりついた体つきに、出遅れた御子柴のセコンドの女子練習生の顔が引きつる。
残念だが、奪い返すのは彼女には無理だろう。
「な、なるほど……。なかなかイイ手癖してるニャ。けど、凶器が一つと思ったら……」
多少面喰った御子柴だったが、今度は片方のネコミミの脇から栓抜きを取り出して構える。だが、最後までセリフを口にすることも叶わず、その栓抜きはシャオの蹴りによって手からすっぽ抜け、続く手刀で一打されてリング下へと落ちていった。
「マジか」
呆然とその軌道を目で追いながら、さすがの御子柴も素の声を漏らす。
「……無駄です。ワタシは偉大なる師にかつて暗殺組織から救い出され、この清浄な修練の道に身を置く者。暗器の扱いも、その対策も、骨の髄まで叩き込まれてるです」
シャオの言葉には、血を吐くような実体験に裏打ちされた重みがあった。かつて彼女がいた場所は、勝敗ではなく生存こそがすべてであり、卑怯な手段こそが日常だった。だからこそ彼女は試合においての「凶器に頼った反則」という甘えを許さない。
「清廉な修行『プロレス』に凶器は無用! わかったらお前もまっとうに戦うです」
御子柴の不敵な笑顔が強張り、口の端が引きつった。その宣言は、ガータ御子柴としての「悪役としての流儀」を根底から否定するものだった。
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予選リーグ第3試合の中でも早期決着の試合から選手たちが医務室へ姿を現し始める。再び処置のために騒がしさに包まれ始めたEQT大会メイン医務室で、頼もしくレスラー達への処置対応を引き受けた研修医たちに急場を任せ、永久寸医師の監督下で謎の毒への対応が続いていた。解毒剤の投与されたサチの全身の不随は大量の発汗と共にようやく抜けていき、今やその呼吸も落ち着いたものへと安定している。しかし、黙ってられぬともたらされた彼女の証言は、別の緊張を呼び起こしていた。
「間違いないよ! あの時、確かにあいつは……ゾーザは、『控室の蓋の空いたドリンクなんか飲んだら危ない』ってサチをあざ笑ったもん!」
握りこぶしを振るわせて悔しさを滲ませ、サチが叫ぶ。
「ま、間違いないです。私も聞こえました!」
サチの怒りの告発を、彼女のセコンドとしてついていながら、最後までタオルを投げられなかったあの黒髪の練習生が保証する。サチが見ていたはずだと言い、美樹が確認のためにこの場に呼び出したのだ。
永久寸は深く息をついた。
──やってしまった。
血液サンプルの原因物質を解毒剤が見事不活性化し、溶血も異常反応も一切ないのを見てしまった以上、目の前で苦しむ患者を救うため、彼はその立場から考えれば許されざる罪深い黙認をしてしまったのだ。美樹にタオルで拭われながらもギャンギャンと元気にがなるデンジャー・サチは先ほどまでの全身不随が嘘のようだ。これで良かったのかどうか彼の中の医師としての倫理がネチネチと自分を責めるが、もうやってしまった以上は何を言い訳しても仕方がない。
主任医師という肩書きは、大学病院の派閥争いの末に押し付けられたものだが、今この場では「絶対的な権限」として重くのしかかっている。それが彼を責めるのと同時に、彼にその行為を許しているのも事実だ。うすうす察しているのだろうか、研修医たちは見なかったフリをしてくれている。単に関わり合いになりたくない者も多いだろうが。
その横で、影幻春架が静かに調合のための器具を並べていた。彼のつきそいの麗羅は今は手伝いから離れて入り口側の壁に寄り、来訪者を警戒している。
「正直に言って驚いた……これほどの毒を即座に不活化する解毒剤とは。君の技術には感服せざるを得ない」
永久寸は影幻の手際に感嘆を漏らしたが、すぐに表情を引き締めた。
「だが……中毒の事実は認められても、それがゾーザの仕業だと立証する『物理的証拠』がなければ上は処分を下せないだろう。容器、残留物、使用された被害者……どれも今は残っていない」
永久寸の言葉を追認するように、影幻は短く鼻を鳴らした。
「フン。控室のドリンクとやらはとっくに処分されているだろうな」
いまや被害者たるサチは解毒されてしまった。だから証言できるのだが。血液サンプルは残っているが……ゾーザとつなげる証拠にはならない。
「そんな……! あいつ、このまま次の試合に出続けるってこと!? むかーっ! そんなの許せないよ!」
サチが苛立たしげに掌で自らの膝を叩く。一方、美樹はその傍らでスマホ画面に呼び出した予選リーグの試合進行予定表を見つめ、顔を青ざめさせていた。
「なんてこと……ゾーザのこの後の試合は第5試合と第7試合。……第7試合の対戦相手はよりによって三郎太クンよ……!」
三郎太の誠実なファイトスタイルは、毒という卑劣な手段に対してあまりにも無防備だ。控室の警備を厳重にするのは当然だが、サチによると彼女は試合中の即効性のある毒使用も仄めかすような言葉を口にしていたと言う。試合中のリングの上で使われたら防ぎようがない。
その時、影幻が調合機材を整理する手を止め、静かに言った。
「……手はある」
その声に、その場の全員の視線が集まる。
「犯人以外に証拠が二つ必要だ。一つは『中毒したままの患者』。もう一つは『毒の残留反応』だ」
永久寸が頷く。
「Gブロック第5試合──デンマーク代表選手の一人、『マイルズ・リード』相手にゾーザが毒を使用した場合、中毒して運び込まれた彼をそのまま『被害者として』確保する」
麗羅は無言で医務室の入り口に陣取って出入りを封鎖していた。この会話は漏らすわけにはいかない。
「そして──」
影幻は腕を組み、真剣な表情で美樹を見つめながら続けた。
「第7試合。三郎太とゾーザの試合でケリをつける」
意味を察した美樹の声が僅かに震える。
「……それはつまり、マイルズさんを見捨てた上で、三郎太クンを……囮にするということ……」
だが、そうでもしなければゾーザの犯行を明るみに晒すことはできない。運用挙動こそわりと無思慮で雑に見える割に、彼女のその毒そのものの厄介さは尋常ではないのだ。
「囮ではない、奴は決め札だ。三郎太は毒を受けても、解毒剤が届けば勝てる。ゾーザの最初の試合、そして三郎太の先日のブラックモモタロウ戦の動きは見た。あれなら毒の影響さえなければ三郎太は負けんだろう」
影幻は断言した。
「……マイルズもゾーザ確保後に必ず解毒する。だが『証拠として十分な状態』で運び込まれる必要がある。即効性の毒が使われる可能性もあるし、そのサンプルは必須だ」
たしかにゾーザの犯行さえ、上に認めさせて確保できればどうとでもなるのは確かだ。
「だが……それは医療行為としては認められない。未承認薬を、試合中にセコンドの素人が投与するなど……」
永久寸の声は苦悩に満ちていた。主任医師としての責任と、医師としての倫理が激しくぶつかり合っている。影幻が解毒剤を投与するのさえあれだけ葛藤したのに三郎太のリングに近づけるセコンドは太平プロレスの練習生──医療技術的には素人だと言うのだ。
だが、影幻は永久寸の中で結論が出ている事を察しているのだろう、横目に視線をやると苦笑して見せた。
「既に今更だろう?」
影幻とて医師免許も調剤免許も持っていない。痛い所を突かれた永久寸は目を閉じ、深く息を吸った。そして、主任医師としての権限を静かに行使する。
「……分かった。私は『見なかった』ことにする。だが、たったひとつだけ条件がある」
麗羅が顎を引く。美樹をはじめ、サチの、練習生の、プロレスファンで噂の情報をもたらし、そして永久寸の代わりに先ほどまで現場を仕切っていたあの研修医の視線が永久寸に集中する。
「──患者を必ず救うことだ」
拳を握りしめて言った永久寸に、影幻は短く頷いた。
「当然だ」
美樹は三郎太のセコンド担当の練習生を呼ぶよう黒髪の練習生を走らせる。万が一を考えて通話記録には残したくない。一方、サチは影幻の準備した調合器具を興味深げに覗き込んでいた。
「サチとか言ったな。お前は追加の解毒剤が完成次第、観客席からゾーザを挑発しろ。お前の健常な姿を見れば、確実にゾーザの注意は三郎太から逸れる。解毒薬のセコンドの動きを気取らせるな」
影幻は言いながら調合作業を開始した。なかば諦め顔ながら、永久寸はその手際と成分に興味津々だ。
「任せて! 絶対にやり返すんだから! さぁ、解毒剤はよ! はよ!」
ふんす、と鼻息荒くサチが胸を叩く。しかし、今始めたばかりの調剤がそんなにすぐにおわるはずがない。
「急かすな。マイルズに使われる毒の確認が要るし、作戦決行は第7試合だと言っているだろ」
影幻の言葉にも落ち着かないサチの様子をみて医務室の入り口から麗羅が声をかける。
「つーかさ、お嬢ちゃん。とりあえず着替えたらどうだい? 汗びっしょりのリンコス姿でいつまでもいられちゃ医大生のオトコにゃ目に毒だよ」
呆れたように指摘する麗羅。気まずげにそっと目を反らす手伝いの医大生たち。しかし、サチはさして気にした様子も無く、慌てて美樹からうけとったジャージに着替えようとして、永久寸に「ここで脱ぐな」と怒鳴られていた。
「……三郎太クンを信じるしかないのね……」
カーテンの向こうに転がり込むサチから目をそらしながら、美樹は天井を睨みつけ、静かに呟いた。
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舞台は変わって、再び予選リーグPブロックのリング。そのリング下では、シャオのセコンドについていた華国の二人の練習生が、揃って途方に暮れたような困惑の表情を浮かべていた。髪をお団子にまとめた糸目の女子練習生の腕の中には、今にもはち切れんばかりに膨らんだエコバッグが抱えられている。布越しにごつごつとしたシルエットを浮かび上がらせるその中身は、リング下で強面のマッチョ男子練習生がせっせと回収した数々の「凶器」たちだ。
スチール製のチェーン2本に始まり、栓抜き、フォーク、メリケンサック。さらには踏みつけると地獄の痛みを伴うレゴブロックのパーツがいくつか、果てはジジジジと未だに小刻みな振動とうなり声を上げているハンドサイズの電動マッサージ機まで。
それらはすべて、御子柴が文字通り手品のように次々とどこからか取り出し、そしてそのすべてをシャオによって無慈悲に場外へポイ捨てされたものたちであった。
……なお、凶器と呼んでいいものかどうか判断に困る生活家電や玩具が混じっている気もするが、凶器認定を下したのはシャオ本人であるため、ここではその是非については論じないものとする。
これまでいくつもの試合でシャオの「凶器排除」に付き合ってきた練習生たちも、さすがにこれだけの物量が一人のレスラーから引っ張り出されたのを目撃した経験はなく、呆れを通り越して戦慄すら覚えていた。
「ぐぬぬ……」
一方、リング上の御子柴は、もはや猫を被って愛嬌を示す余裕すら失っていた。事実、中身の凶器を抜かれた彼女のネコミミヘッドセットはふにゃりと潰れてしまっており、既にネコミミの体裁を為していない。自慢の隠し持った凶器群をすべて封じられ、残されたのは己の肉体のみ。激しい攻防の末、彼女の肩は荒い息で大きく上下している。対するシャオもまた、御子柴の執拗なラフプレーへの警戒と、飛び出す凶器を即座に奪い取るための極限の集中を強いられたことで、その消耗は決して軽くはなかった。
「お前、どんだけ凶器持ちこんでんですか……。昔のワタシ並です」
シャオのメカクレの前髪の隙間から、深い呆れを含んだ視線が僅かに覗く。
「……チッ。どこまでも、オレの楽しみを邪魔しやがって。こうなったら、正々堂々とお前をぶっ壊してやんよ!」
半ばヤケクソ気味に叫んだ御子柴が動いた。猛然と突進するフェイントから一転、キャンバスに両手をつき、前方倒立回転(ハンドスプリング)の勢いを利用した奇襲の低空ドロップキックを放つ。ばねのように弾けた長い両脚が空中で鋭く一直線に伸び、突如ルチャの流麗な動きを見せた御子柴に面喰って迎撃態勢に入るのが遅れたシャオの細い向う脛をピンポイントで打ち据えた。
「……ッ!」
下肢を弾き飛ばさんばかりの衝撃と弁慶の泣き所を打たれた痛みに、シャオが顔をしかめて膝をつく。御子柴は流れるように追撃する。崩れたシャオに対し、蛇のような滑らかさで即座にその背後を取り、シャオの脚を強引にとって転がし、自身の脚で複雑に雁字搦めに固定する。そしてそのまま、背後からのけ反らせるように上半身を捻り上げた。
「そらそら♡ 良い声で鳴けよ! ほぉーら、ギブギブぅ?」
脚部への破壊的な負荷と、背筋への拷問を同時に強いるインディアンデスロックとコブラツイストを掛け合わせた複合関節技――「アグラツイスト」だ。
「……ぐ、ぅ……!」
ギリギリと、シャオの身体が関節の限界を超えて軋む音を立てる。御子柴の腕にさらに力がこもり、シャオの意識ごと刈り取ろうと情け容赦なく締め上げる。サディスティックな嗜虐の喜びが、御子柴の端正な顔立ちを邪悪に歪ませていた。だが、シャオの精神は折れていなかった。暗殺組織で受けた、文字通り肉体が千切れるような過酷な修練に比べれば、この痛みすらも対戦相手との「生」を実感させる健全な対話に過ぎない。シャオは苦悶の表情を浮かべながらも必死にもがいて位置をずらしながら腕を伸ばし、ついにその指先がサードロープを強く掴み取った。観客の歓声が一気に爆発し、シャオの執念がリング全体を震わせる。
「ロープ! ブレイクだ、離せ!」
すかさずレフェリーが割って入り御子柴の肩を叩くが、彼女は獲物を痛めつける恍惚とした表情のまま、最後のひと絞りと言わんばかりに強烈に締め上げてから、漸くシャオを解放する。
「ふぅ……ふぅ……効いただろ? けどまだまだだ、オラァ!」
ダメージの残るシャオを逃がすまいと、なおも攻勢に出ようと大きく踏み込む御子柴だったが、そこにはシャオの「カウンター」が待ち受けていた。シャオは鋭い呼気と共に深く腰を落とし、独特の歩法で地を踏みしめる。大地の力を脚から腰、そして背中へと螺旋のように伝え、全身のバネとエネルギーをたった一点に凝縮させた。
「ヤッ!」
華国に伝わる武の絶技のひとつ、鉄山靠(てつざんこう)。御子柴の突進の勢いをそのまま殺傷力へと変換し、シャオの硬く小さな肩が、御子柴の無防備な胸板へと深々とめり込んだ。
「ごふっ!?」
鈍い音と共に、衝撃が御子柴の胸から背中へと一直線に突き抜けた。強制的に呼気を絞り出された彼女の身体は堪らず後方へと弾き飛ばされ、宙を舞ってキャンバスに大きくもんどりうってダウンした。
間髪入れず、シャオは宙を舞う。立ち上がろうとする御子柴の意識を断ち切るべく、鋭く旋回する脚が側頭部を正確に捉えた。渾身のレッグラリアート。独楽のように回転しながら吹き飛んだ御子柴の身体が、強靭なロープに衝突する。その反動で力なく跳ね返り、千鳥足で彷徨う彼女の瞳は、すでに焦点が合っていないように見えた。
「これで……終焉です。コーナーに散るがいいです! ──我が心技は、闇を払う灯火!」
シャオが地を蹴り、高く跳躍する。空中で御子柴の首を両脚でがっちりと捕らえた。彼女の必殺技(フェイバリット)である「宝蓮灯火柱(ほうれんとうかちゅう)」の構えだ。揺らめく灯火のごとき変幻自在の予備動作から、一気に旋回してマットへ叩きつける、シャオの勝利を確約するはずの奥義。その技を、叩きつける先をあえてコーナーに定めて、その衝撃を倍加させることで完全なKOを狙う。
「……コーナーに?」
だが、その瞬間、御子柴の瞳が不気味に輝いた。回避することも、受け身の準備をすることもできたはずだ。だが、御子柴はあえて抵抗を放棄し、その破壊的な回転エネルギーをすべて「自らの意志」で受け入れた。激しい回転と共に、二人の身体がコーナーへと肉薄する。激突の瞬間、御子柴の指先がコーナーマットの裏側に潜り込み、その鋭い爪を固定紐へと触れさせる。
ドゴォッ! と重い衝撃音が響く。しかし叩きつけられながらも、御子柴はシャオの回転の勢いを逆利用し、固定紐を切り裂き、厚手の緩衝材マットを力任せに引き剥がしていた。ブチン、という嫌な音がして、マットが宙を舞う。そこに出現したのは、リングの支柱とロープを繋ぎ止める、冷たく硬質な鉄の金具──ターンバックルが剥き出しになった光景。
シャオが着地し、今の衝撃で沈んだはずの御子柴を確認しようとした瞬間、どろりとした黒い影が彼女の視界を覆った。
「あ……あは♡ ッ痛ぅ……、さすがに効いたニャン……。でもいくらお前でも、『リング自体の一部』は排除できないよなぁ……!」
御子柴の声は、苦痛と悦楽が混ざり合った異様な震えを帯びていた。必殺技の直撃をその身に刻み、内臓をかき回されるようなダメージを負いながらも、彼女は瞬時にシャオの頭部をヘッドロックで捕らえていたのだ。
「食らうニャ、コラァ!」
御子柴は渾身の力を込め、無防備なシャオの額を、剥き出しの鉄金具へと叩きつけた。
「──っ!?」
金属が肉ごしに骨に当たる鈍い音が脳髄まで響く。シャオの視界が真っ白に爆ぜた。脳を直接揺さぶるような暴力的な衝撃。硬いターンバックルの金具に打ち付けられた彼女の額からは鮮血が噴き出し、白磁のような肌をどろりと赤く染めていく。流血、しかし命の取り合いが日常の世界にいたことのあるシャオにしてみればそれ自体は大したことではない。出血こそ派手だが致命傷とは程遠い。
彼女を打ちのめしたのは、目の前の光景に対する根源的な「理解不能」という戦慄だった。
「……!? お前バカですか!? 正気とは思えねーです!?」
シャオは思わず叫んでいた。効率的で合理的な殺人の技を叩き込まれた彼女にとって、今の御子柴の行動は愚かな自殺行為に等しい。流血こそ引き起こしたが、たった一度の「金具への叩きつけ」という攻撃を成立させるためだけに、回避できたかもしれない必殺技のダメージをあえて受け入れる。そんな非合理な、そして自傷的な執念がこの世に存在するのか。シャオの精神的支柱が、音を立てて崩れていく。
彼女の通り名「ヒールキラー」は、悪役が持ち込む凶器をすべて見抜き、排除することで──それを成し遂げるという自負で成り立っていた。リングという清浄な場に持ち込まれる凶器という「汚濁」を取り除けば、そこにはまっとうな技術の応酬だけが残るはずだった。だが、御子柴が提示したのは、リングそのものを凶器に変えるという、排除不可能な現実。守るべき象徴たるリングそのものが自分を傷つける凶器となった事実。そして、自らの看板である「凶器排除」の矜持を根底から踏みにじるプロレスラーの狂気。
混乱、理解不能、どうして? 何故? とめどない問いかけが脳裏をループし、シャオの膝から力が抜ける。その一瞬の空白を、ガータ御子柴という捕食者は見逃さなかった。
「……トドメだ、アビスキャットドライバーぁ♡」
自らも軽くないダメージにふらつきながら、御子柴が朦朧としながら混乱するシャオをコーナー上へ強引に引きずり上げる。二人はコーナーの最上段、剥き出しの金具のすぐ上へと登る。シャオの身体は、先ほどの精神的ショックと金具への強打で、もはや満足な抵抗ができない。雪崩式の態勢。御子柴はシャオの身体を掻き抱くように両手で支え、自身の体重をすべて乗せて、真っ逆さまにマットへと落下。変形スパインバスターで叩きつけた。
二人分の重力と遠心力が加わった凄まじい衝撃。リングが波打つような激震。受け身をしくじったシャオの身体は無慈悲にマットへ沈み込み、ピクリとも動かない。狂気の捕食者は力なく横たわる獲物を覆い隠すように覆いかぶさった。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
レフェリーが非情にマットを打つ音が三度、リング上に鳴り響いた。
「勝者、ガータ御子柴!」
レフェリーが御子柴の手を掲げるが、彼女はそのままシャオの上で肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返している。シャオの必殺技をもろに食らって御子柴は体力ギリギリだったのだ。憎まれ口をたたく余裕すらなく、痛む肺で必死に酸素を取り込もうと喘ぐ彼女を呆然と見上げるシャオ。
(負け……た……? 何に? この女に? リングに? ……守るべき修練の場がワタシを拒んだですか……?)
いまだその心はループする混乱に囚われたままであった。組み合って落下した際に飛び散った血の飛沫が対照的な二人の少女を赤く彩っている。
しばらくして、シャオは担架に乗せられることも拒み、ふらつく足取りでリングを降りると、独り花道を下がっていった。慌てて心配そうにセコンド係の練習生たちが後を追う。彼女の瞳には、かつてない深い戸惑いと、言語化できない感情が渦巻いていた。
(……意味がわかんねーです。ワタシが学んできたことは、すべて効率的に相手を無力化するための技術。なのに、あいつは……あいつは自分を壊してまで、ワタシではなくワタシの看板を壊しに来た……)
シャオの胸に去来するのは、単なる負けへの悔しさではなかった。自らの合理性が通用しない世界。痛みを悦びとし、狂気を戦略に変える「プロレス」という怪物の片鱗に触れたことへの、本能的な恐怖。
「……こんな悔しさ、ワタシはじめてです。ガータ御子柴……だったですね。おぼえてやがれ……です……」
消え入るような声で呟いた独白は、熱狂する観衆の声にかき消されていった。
暗殺術という、「生命をやりとりするための合理」を極めた少女は、今日、その対極にある「プロレスの非合理」という洗礼を、その身に刻み込まれたのだった。
一方その頃、Nブロックのリングでは、トナカイの角のように逆立てた長髪と、黒革と鋲で固めたヘヴィメタルバンドさながらの巨躯の男が、敗者とは思えぬ堂々たる足取りでマイクを握りしめて観客たちに語りかけていた。
「フィンランドから来た友よ! そして日本のプロレスと音楽を愛する友よ!」
フィンランド代表選手、ヘヴィメタル・レインディアの突然のマイクパフォーマンスに観客たちが目を丸くしている。対する勝者のジャック・ザ・クールビーンズは、緑の蔦模様が走るリングコスチュームに身を包んだ長身の美男子だった。つい先ほどまで勝利アピールに夢中だった彼の顔が、今は「面白そうなことを見つけた」という子供じみた輝きで満たされている。
レフェリーは彼の経歴を知っているのだろう。何が起こるか察しているようで極めて渋い顔で見守っている。
「試合には負けたが、我が歌声に敗北はない! 我が歌を聞けぇ~~!」
音源の用意はおろか、楽器の演奏すらない完全なアカペラ。それにもかかわらず、レインディアは腹の底から響くような、熱く震えるデスボイスで自身の持ち歌を絶唱し始めた。
これには日本の観客たちも困惑するしかなかったが、客席の一角を占めるフィンランドから駆けつけた熱狂的なファン達の反応は違った。彼らは待ってましたとばかりに拳を突き上げ、完璧な合いの手を入れ、共に大声で歌い出し、リング上のお祭りに大喜びし始めたのだ。
突如として始まったこの予想外の事態。だが、リング上にいるもう一人の選手、ジャックの目立ちたがり屋の血が、この状況を黙って見過ごすはずがなかった。
「おっとぉ? 負けたトナカイちゃんが歌うって? ――最高じゃん、これ絶対バズる奴!」
死ぬほど軽いノリで、ジャックがレインディアの目の前へとスライディングで滑り込んできた。
彼はコスチュームに忍ばせていた自慢の「凶器(スマホ)」を高く掲げると、絶唱するレインディアをバックに、インカメラでバシャバシャと自撮りを開始する。
「イェーーーイ! みんな見てる〜? ヘヴィメタル・レインディアの生歌ステージ、特等席だぜ! ピース!」
SNSに即座に動画付きで投稿を始めるジャックの顔は、これ以上ないほどの極上の笑顔だった。あまりのフリーダムっぷりに、レフェリーがおずおずと二人に声をかける。
「試合終わったんだからリングを降りろ、二人とも……」
当然、その真っ当な抗議は完全に無視された。それどころか、レインディアは歌の合間に、隣で満面の笑みを浮かべるジャックへと視線を向けた。
「君も歌うか、ジャック?」
「え、いいの!? まさかの合唱ライブ!? ヒャッハー、ノリノリだぜぇ!」
意気揚々とレインディアのぶ厚い肩を組み、一緒になって声を張り上げ始めるジャック。地鳴りのような北欧のデスボイスに、オーストラリア仕込みのチャラいハイトーンが重なるという、耳がゲシュタルト崩壊しそうなデュエットに、オーストラリアからウケとバズり重視のどこまでも軽い彼を追いかけてきたファン達も、この姿を見てついにタガが外れた。フィンランドとオーストラリアの熱狂が融合し、その異様な熱気は、お祭り騒ぎに流されやすい日本の観客たちにも瞬く間に伝染していく。
「撮影OKだって!?」
「ジャック、こっち向いてー!」
客席の女性ファンを中心に、一斉にスマホのフラッシュが焚かれ始める。公式戦のリングの上は、完全にプロレスの枠を超えた「カオスな合同撮影会&ゲリラライブ会場」へと変貌を遂げていた。
「……マジかよ。もう誰もこっち見てないニャ。……ま、モニターで三郎太のヤツは見てくれてるだろ。控室に帰るか」
Pブロックのリングで呆然とそれを眺めていた御子柴は毒気を抜かれてしまっていた。苦笑交じりに小さな拍手を送ってくれる僅かな自分のファンに向けて、いつになく優しい笑顔で手を振った。そして、大合唱の声を背に、可愛いパンダがプリントされたエコバックごと凶器を返却され、それを片手に吊るすセコンド係の練習生を引き連れて、花道をとぼとぼと退場していくのだった。
その後も、周囲の別ブロックで絶賛試合中の選手たちから、「うるせえぞ!」「こっちはガチでやってんだよ!」と激しい罵声と抗議を浴びまくった二人だったが、彼らの耳にその声が届くことはなかった。
結局、彼らはレフェリーの絶望をよそに、残された公式試合時間――きっちり9分間を全力で歌い、踊り、撮られ続け、EQTにおける悪しき伝説となったと言う。