「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
Gブロックのリング。そこでは予選第5戦、イタリア代表選手の一人、ゾーザ・ラ・ヴィペラとデンマーク代表選手の一人、団体「アスガルドプロ」に所属する若手男子レスラー、マイルズ・リードの試合が行われていた。
「ひひ、『一本足』とか呼ばれて喜ぶほど蹴りに自信があるのはいいけどさ。さんざ調子にのって蹴ってくれちゃって……」
不気味な笑い声を口の端から零すようにして、マイルズを締め上げながらゾーザが呟く。自慢の蹴りを叩き込むことに意識を裂かれていたマイルズは、その一瞬の隙を突かれ、あっさりと腕を取られた。そのまま強引にグラウンドへと引き倒されれば、もはやその機動力は機能しない。左足の脛を喉元に当て、右足で自らの左足をフックして固定する。さらに空いた両手で相手の頭部を強引に引き寄せる――逃げ場のない絞め技「スネークバイト」が、がっちりと極まっていた。酸素を求めてもがくマイルズだったが、その抵抗は急速に、そして不自然なほど急激に萎えていく。
「お、効いた? ボクの得意のヤツ、即効性がスゴいだろ? ねぇ、動けない? 苦しい? 悔しい? ひひひ!」
マイルズの頭を押さえつけるゾーザの指の間で、細く短い針が鈍く光った。即効性の神経毒を仕込んだ毒針。技の仕掛けに合わせ、レフェリーの死角から首筋へと音もなく打ち込まれた一撃だ。マイルズの肉体から瞬く間に自由が奪われていく。指一本満足に動かせず、叫ぶことすら叶わない。そのくせ、肺が焼け付くような窒息の苦痛と、首筋を圧迫するゾーザの冷たい脛の感触と痛みだけが、神経を逆撫でするように過敏に伝わってくる。その地獄のような感覚の乖離に、マイルズは混乱の極みにあった。彷徨わせる視線の先には歪んだ笑みを浮かべるゾーザ。その瞳には、対戦相手への敬意など微塵もない。ゾーザはそんなマイルズを一顧だにせず、会場内の大型オーロラビジョンに映し出される、Jブロックの光景を横目で眺め、喉の奥でクスクスと笑った。
「派手にやってるねぇ……。ま、ボクとしちゃ目立ちにくくて大変有難い」
やはり控室のドリンクに仕込むような不確実な手口より、自らの手で直接注ぎ込む方が確実で、何より悦楽に満ちている。ゾーザはそう独りごちると、意識の混濁し始めたマイルズへの締め上げを一段と強めた。
「喜んでいいよぉ、マイルズ君。こんな冴えないおっさん顔、甚振っても楽しくも何ともないし、君はさっさと終わらせてあげる」
力が入らず、声も出ず、抵抗の術を奪われたマイルズの頸動脈が、非情な力で圧迫される。彼の視界は急速に色彩を失い、限りない絶望と恐怖の色に塗り潰されていく。
「おやすみ、ひひ……!」
それが、EQT(アース・クェイク・トーナメント)の予選リーグでマイルズが聞いた最後の言葉になった。
後に、彼が解毒され意識を取り戻すころにはすべてが終わっていたのだ。
────────────────────
その頃、予選サバイバルデスマッチが行われているJブロックのリングでは、圧倒的な強者を前に、このリング上で戦歴としては最も浅く、最弱の二人が――まさかの絶体絶命の窮地へと、女王を追い込んでいた。そのあまりにも象徴的な敗北の予感に、リングの周囲の観客は総立ち状態だ。
結城は戦慄していた。極限まで酷使された腕の筋力が、限界に近づきつつある。ローラの両腕を引き絞り切るどころか、強固に抵抗し続ける彼女の凄まじいパワーに対し、結城の筋肉には乳酸が爆発的な勢いで蓄積し、痛みとも痺れともつかない不快な感覚が両腕を苛み始めていた。支点として彼女の背に押し当てている自身の脚すらも、僅かに震えている。
「ギブアップですか……!?」
「の……ノォー! まだまだ……!」
3分近くも関節と呼吸を同時に責め立てられ、全身を汗に濡らして苦痛に顔をゆがめながらも、ローラはいまだ屈する気配を見せなかった。それどころか、暴れるように身をよじり、拘束された腕を強引に引き戻そうとしながら、ギブアップを拒絶するその声は楽しげですらあるように思える。結城だけではない。正面でベアハッグに力を込め続けているブライアンの呼吸も荒くなり、顔には明らかな疲労の色が浮かんでいた。完全に不利な体勢でありながら、強引に形勢をひっくり返そうと内側から力を込め続けているこの女は――気力も、体力も、タフネスも、スタミナも。そのすべてが、自分たちとは全くの別次元なのだと、二人は肌感覚で痛感させられていた。呼吸を乱しつつあるブライアンの内心を弱気が襲い、本当にこのままでいいのか、と彼が結城へ視線を向けた、まさにその時だった。
「フ……こ、こんなイイ女から余所見?」
ドスッ、という鈍い音が響いた。ブライアンの脇腹に横方向から衝撃が走る。拘束された状態のローラが、僅かな隙間を縫って膝蹴りを叩き込んだのだ。それは言ってしまえば、不完全な一撃だった。体勢は密着しており、蹴るにしても十分な遠心力など乗せられるはずもない。膝の切っ先ではなく、半ば腿の筋肉による押し込むような打撃。ブライアンは驚きに短く息を呑んだが、持ち前の肉の鎧でその打撃になんとか耐えきった。ベアハッグの拘束は崩れていない。――だが、その瞬間、結城が足先を押し当てているローラの背筋から、波打つような特異な躍動が伝わってきた。直感的に嫌な予感が全身を駆け巡る。結城が脚に力を入れ直そうとした瞬間、彼女の身体が先ほどの蹴りの反動を利用するかのように、強烈に逆方向へ振れた。
「っ……!」
結城の視界が大きく揺れ、強固だったはずのバランスが崩れる。次の瞬間、結城の足首の内側に鋭い衝撃が走った。何が起きたのか、頭で理解するより先に結果が具象化する。視界の外で踵で打たれたことなど結城は理解できず、蹴られたのか、払われたのか分からない。ただ、膝が勝手にガクンと折れ、背中に押し当てていた脚の圧が完全に抜けた。脚という強固な支点を失えば、両腕の引きを保つことなど不可能だ。合わせて強烈に捻られたローラの片腕の手首が、結城の汗ばんだ手の中からぬらりと滑り抜けていく。クラッチが切れる。慌てて掴み直そうと指を伸ばすが、彼女の身体はすでに外側へ捻れ、解放された腕はしなやかな鞭のように頭上へと振り上げられていた。結城の指は、空しく空を掴む。
「……ヤバい、ブライアンさん!」
危ない、と続けることでブライアンへ警告を発しようとしたが、果たせなかった。それよりも早く、振り上げられたローラのエルボーが、正面に立つブライアンの顔面に容赦なく叩き込まれていたのだ。
「ぐわっ!?」
鈍い音。打ち込まれた痛烈な顔面への一撃にたまらずブライアンの腕がほどけ、彼のベアハッグが完全に崩壊する。ローラの身体が、すべり落ちるように前方へ脱出した。視界の端で、オーロラビジョンを見つめていた観客たちが一斉に立ち上がるのが見えた。まだ掴んでいたはずのローラのもう片方の手が、今度は逆に結城の腕を強烈に引き寄せてくる。視界が高速で回転する。何が起きたのか理解できないまま、結城はローラのファイヤーマンズキャリー・スロー(日本式に言えば一本背負い)によって宙を舞い、背中からマットへ激しく叩きつけられていた。
背中の痛みに呻く結城を尻目に、ローラは顔面を押さえて苦しんでいるブライアンを見下ろした。彼女は体格差など存在しないかのように力づくでブライアンの髪を掴み、無理やりその巨体を引き起こすと、そのまま背後から密着した。
「熱烈な抱擁ありがとう、お礼に抱き返してあげるわ」
「お、柔らか……いぎぃぃぃぃ!?」
背中に押し付けられた感触にブライアンの鼻の下が伸びたのは、ほんの一瞬の出来事だった。たちまちブライアンの弛んだ声が、悲鳴へと変わる。ローラは背後から、ブライアンの分厚い広背筋に自身の細い腕を大蛇のように絡ませ、片脚をロックしてアブドミラル・ストレッチの体勢に入り、強烈に上体を捩じり上げたのだ。日本ではコブラツイストと呼ばれるその技で、彼女は圧倒的な体格差を恐るべき技術で無効化していく。本場英国の「女王」による、一切の容赦がない冷酷な締め上げ。ローラの華奢な肢体が、ブライアンの巨体をギリギリと音を立てて絞り上げていく。
「は、離せこの……ぐわあああっ!?」
脇腹から腰にかけて強烈な負荷がかかり、ブライアンの肋骨がミシミシと悲鳴を上げた。彼の顔色がみるみる内に悪くなり、開かれた口端から泡まじりのよだれが垂れる。
「ヘイ! どうしたの? 誇れるのは威勢だけ? ガタイを活かしてこの程度振りほどかなくてどうするの?」
挑発するローラの声。悲しいかな、正しい対処法やエスケープの技術が身についていないブライアンのただ力任せなだけの抵抗では、完璧に極まったローラのアブドミラル・ストレッチに抗する事などできず、十数秒も経たずに彼は限界を迎えた。
「が……ぁ……! ギ……!」
巨漢が屈辱にまみれ、たまらず「ギブアップ」の言葉を吐き出そうとした、まさにその瞬間だった。地面を這っていた結城が吠えた。
「ぐ……まだ……終わらせない!」
ダメージの抜けない身体を無理やり押して、結城が助走をつけて弾丸のようにマットすれすれを飛んだ。狙い澄ました低空のドロップキックが、ローラの軸足を正確に撃ち抜く。痛みに顔をしかめたローラの膝が衝撃を受けてガクンと折れ、ブライアンを拘束していた腕が解かれた。解放されたブライアンがマットに手をつき、肺が破れんばかりの荒い息をつきながら救出への感謝を叫ぶ。
「た、助かったぜ……心の友よ……!」
結城は低く鋭い踏み込みで、膝立ちになったローラへ追撃を仕掛けるべく、その懐へと一気に滑り込んだ。狙うは心臓の直上、もっとも打撃の響く胸元。結城は気合の叫びとともに、渾身のエルボーバットを彼女へと叩き込んだ。筋肉の薄い、少年らしさが抜けきっていない若さ特有のしなやかな腕が放った鋭い打撃。しかし、命中した瞬間に結城の脳内を駆け巡ったのは、手ごたえではなく、強烈な戸惑いだった。ワンピース越しに伝わる、女子レスラー特有の柔らかく、それでいて豊かな弾力に満ちた乳房の感触。ローラはあろうことか、腰を落とした姿勢のまま胸を張り、結城のエルボーによる打撃を、発達した大胸筋と豊かな乳房のクッションで真正面から受け止めたのだ。
「……ッ!?」
予想外の感触に思わず顔を赤らめ、結城の動きに致命的な一瞬の停滞が生じる。新人らしい純真さが、この極限状態において最悪の隙を生んでしまった。
「……なに赤面してるのよ、ジャップのボウヤ。とは言え、ザコにしては悪くないわね。オーケイ、ここから少しだけ本気で相手してあげる」
冷ややかな声が耳朶を打つ。ローラは結城の青臭い動揺を見逃さず、意趣返しとばかりに同じエルボーバットを結城の胸元へ打ち返した。その威力の差は、絶望的なまでに歴然としていた。力強い踏み込みと、しっかりとマットから腕まで力を伝える精緻な角度。鋭く打ち上げるような重い肘打ちを食らい、結城の身体は衝撃に打ち上げられ、ロープ際までボールのように吹っ飛ばされた。トップロープにもたれるようにしてかろうじてダウンだけは避けたものの、肺の空気をすべて吐き出して激しく咳き込む。本当に同じ技かと疑う一撃。たった一発のエルボーバットで結城の視線は焦点が定まらず宙をさまよっていた。
「この……クソ女ぁ!」
結城が立ち直るための隙を作ろうと、ブライアンが怒りのタックルで突進する。だが、その巨体による肉弾攻撃は、いともたやすくローラの正面で抱き留められてしまう。衝突の瞬間、わずかにマットを滑るようにローラを後方へ数センチ押し込んだものの、それっきり、巨人のようにぴくりとも動かせない。信じがたい現実に、ブライアンは足元とローラの涼しげな顔の間を何度も視線で往復させ、混乱を露わにした。
「終わりよ」
ローラは突っ込んできたブライアンを抱き留めたまま、その顎下へ向けて鋭い掌底を突き上げた。
「ぐっ……!?」
巨体が一瞬、のけぞる。その隙を突き、ローラの身体が滑るように回り込み、背後からブライアンの両腕をクロスに交差させて強固にクラッチした。顎を揺らされてフラつきながらもブライアンが力任せに暴れようとするが、腕を縛られた瞬間、まるで全身の力が抜けたようにピタリと動きが止まってしまう。次の瞬間、ローラの細い身体が弓のように大きくしなった。
「う、うおおおおおっ!?」
ローラが反り投げたブライアンの巨体が、軽々と宙を舞う。後方へ美しい弧を描き、「クロスアーム・スープレックス」によって脳天からキャンバスへと叩きつけられた。マットが爆ぜるような轟音。すかさず滑り込んだレフェリーの手が、無慈悲にマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー! ブライアン・ブルナイト、脱落!」
朦朧とした結城がようやく我に返った時には――すでにレフェリーによってスリーカウントが叩かれ、ブライアンはピンフォール負け判定を受けて無念の脱落を遂げていた。
ついにリングに残されたのは、満身創痍の結城と、汗に塗れつつも既に呼吸の乱れも落ち着きを取り戻したように見えるローラの二人だけとなってしまった。頼るようにもたれていたロープからふらふらと離れ、絶望と恐怖に満ちた表情で睨みつけてくる結城を、ローラはまるで路傍の石を眺めるかのような冷徹な瞳にほんの一滴ばかりの喜色を浮かべて見つめている。結城は最早声すら発せず、ただ無我夢中でローラへ駆け寄り、その腰元へ低く組み付いた。正面からの打撃も関節技も通じないなら、隙を突いて丸め込むしかない。何をするつもりなのか、ローラは最初は余裕めいた笑みでそれを受け入れようとしていたが――結城が背後に回り込み、股下から腕を差し込もうとした瞬間に、その意図に気付いて冷たく鼻を鳴らした。
「……スクールボーイ? くだらない、受けてあげる価値が無いわ」
一発逆転を狙った渾身のフォール技。しかし、ローラがただ深く腰を落とし、キャンバスに根を張ったかのように重心を安定させただけで、結城の全力の丸め込みは、巨大な岩を動かそうとするかのようにピクリともしなくなった。己のしようとしている最終手段を的確に看破され、力で完全に封じ込められたことに、結城の顔を決定的な絶望が覆う。全力で組み付いているにも関わらず、無慈悲な腕力が結城の頭を強引に押さえつける。いとも簡単に体勢をコントロールされた結城の背後に回り込むと、ローラはその華奢な体に長い腕を蛇のように絡ませた。
ローラは結城を――先ほどブライアン相手に披露し、途中で中断させられた――本日二度目の、そして最後となる女王のアブドミラル・ストレッチ(コブラツイスト)に捕らえていた。
「いい加減、現実を知りなさい、日本のボウヤ」
ジャップとは呼ばなかった。ローラのその心中でどのような区別があるのか窺い知る事はできないが、開始前の侮蔑しきった態度とは違う温度がその声に含まれているように感じられる。だが、その声と裏腹に彼女の技は苛烈一色だった。先程のブライアンへの見せしめのような絞めとは、根本的な強度が違った。ローラは容赦なく己の全体重を預け、結城の細い肋骨が内側から破裂しそうなほどに強烈に捩じり上げる。
「あ……あぁ……っ! あぁぁぁ!」
逃げ場の一切ない密着状態。女王の甘い吐息と、しなやかな肢体から伝わる高い体温。その距離感の錯覚を微塵に打ち砕くように、結城の背骨と腰の関節が限界点を超えてメキメキと反らされていく。
「いい声ね。もっと、もっと泣き叫びなさい!」
サディスティックな歓喜に満ちたローラの声が、結城の脳髄を直接揺らす。彼女の圧倒的なフィジカルと強固な技術の前に、デビュー1年未満の未熟な肉体と経験値など、あまりにも無力だった。痛みに意識が白濁し、視界が滲む涙でぐしゃぐしゃに歪んでいく。
――もう無理だ。
心が、完全に折れた。結城の震える手が、自身の体を締め上げるローラの滑らかな腕を、泣きじゃくりながらパンパンと情けなく叩いた。もはやプロレスラーとして抗う気力すら、絶望的な激痛によって根こそぎ刈り取られていた。焦点の合わない虚ろな目からはボロボロと涙が溢れ、口の端からは無様な泡と涎がこぼれ落ちている。
「あぁ……もうダメぇ……ギ、ギブ……!」
結城の悲痛なタップアウトとギブアップの声をレフェリーが確認し、両腕を大きく交差させる。最後の砦、結城蓮の脱落により、このリング上の「ラストスタンド」がローラ・ザ・チャージに確定した瞬間だった。
太平プロレスの控室は、凍りついたような静寂に包まれていた。三郎太は、膝の上に置いた拳を無意識に握りしめたまま、公式配信の映像を見つめ続けている。隣に座るベスもまた、不敵な笑みすら消え失せた真剣な眼差しで、力なくマットに沈んだ結城と、その背後に立つ「怪物」を射抜くように凝視していた。
「ただいま三郎太~……って、アレ? 何ニャ、この空気?」
そこへ、試合を終えたばかりのガータ御子柴が、汗に濡れたリングコスチュームの上にタオルを羽織り、セコンドの練習生二人を従えて入ってきた。明るい声を上げた彼女だったが、ピクリとも反応しない三郎太とベスの異様な様子に、困惑を通り越して次第に苛立ちの表情を見せ始める。空気を察し、紫の長髪の練習生が咄嗟に口を開いた。
「優勝候補のローラって人が、サバイバルマッチになったJブロックを一人で全滅させちゃったんです……! ブライアンさんも、その中にいて……」
「……マジか」
御子柴の苛立ちは一瞬で霧散した。常識で考えて、1対5で勝てるわけがない。
「ソイツ、本当に人間ニャ?」
「……自信、ないです」
御子柴の半ば引きつったような軽口に、練習生が力なく首を振って答える。
三郎太とベスの口からは、ついに言葉は出なかった。これが今回のEQTの「優勝候補」と呼ばれる人物の実力。圧倒的な現実を前にして、彼らにできることは、ただその光景を脳裏に深く焼き付けることだけだった。
カン、カン、カン、カン!
Jブロックの惨劇の終わりを告げる乾いたゴングが、ドーム内に鳴り響いた。英国の若き女王、ローラ・ザ・チャージは、事前の傲慢な宣言通り、5人の代表レスラーをたった一人で、文字通り全滅させてみせたのである。こうしてJブロックの予選通過者が決まった。試合時間は、わずか19分50秒。VIPルームでの緊急会議でキンタロウが「40分1本勝負が妥当」と想定した試合時間は、彼女の理不尽なまでの猛威の前に、その半分すら必要とされなかったのである。
どよめきと熱狂が入り混じる観客たちの割れんばかりの拍手が鳴り響く中、レフェリーがローラの右腕を高く掲げる。しかし、当のローラに満足げな様子は微塵もなかった。彼女は足元に累々と転がるピクリとも動かない5人の敗者たちを幻視するかのようにざっと周囲を一瞥し、最後にマット上に残り、今も苦し気に呻いてセコンドの処置を受けている結城にわずかに視線を留めた後、顔を上げて目を閉じ、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「終わりか。ハァ……。軽く汗を流せはしたけど……それ以上ではなかったわね」
退屈そうにそう吐き捨てると、彼女はリングを降りた。それっきり一度としてリング内を振り返ることはない。ただ、SSS席から降り注ぐ熱狂的な声援に対してだけは、英国マットの若き女王としての優雅で不敵な笑みを浮かべて手を振り、応えながら、彼女は悠然と控室へ続く花道を去って行った。
──ローラ・ザ・チャージ。EQT予選リーグJブロックを突破、本選進出決定。