「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第11話 毒蛇を討て! の巻【予選Gブロック第7試合「宮川三郎太VSゾーザ・ラ・ヴィペラ」】

「……済まない。大口を叩いておいて、結局ギリギリの綱渡りになったな」

 薬品のアルコール臭と、電子機器の無機質な駆動音が微かに響くEQT大会メイン大医務室。影幻春架は、額に滲んだ濃い疲労の汗を拭うこともせず、完成したばかりの解毒剤を充填した小型インジェクター(自動注射器)を差し出した。

 それを受け取った美樹の表情は、氷のように冷徹でありながら、内側に静かな炎を燃やしているようだった。

「気にしないで下さい。間に合わせてくれただけで十分です」

 ゾーザがマイルズ・リードを仕留める際に用いた即効性の神経毒は、先だってデンジャー・サチを襲ったものとベースこそ同じものの、即効性を出すために別種の毒物が添加されていたのだ。先のサチ用の解毒薬をそのまま流用することはできず、影幻は急遽、成分の再分析と解毒剤の微調整という神業をこの短時間で強いられることになったのである。だが、歴史の裏舞台での暗闘をくぐり抜けてきた「黒流」の知識を受け継ぐ現代の黒武術リーダーたるこの男は、執念でそれに間に合わせてみせた。

 美樹は手の中にあるそれを、傍らで緊張している三郎太のセコンド係の一人――紫髪の練習生へと手渡した。

「……いいわね。打ち合わせの通りに動くのよ。今、三郎太クンの命綱は貴女が握っているわ」

「は、はい……っ!」

 練習生は震える両手でインジェクターを包み込むようにして大事に抱えた。プレッシャーに押し潰されそうな彼女の肩を、美樹が力強く、しかし優しく叩く。

「くれぐれもレフェリーや、何よりゾーザ本人には気取られないように気を付けて」

「わ、分かってます! 行ってきます!」

 美樹の薫陶を受け、決死の覚悟を決めた面持ちで練習生が駆け出す。彼女が弾かれたように扉を開け放ち、医務室を飛び出していく足音が遠ざかるのを、室内の大人たちは無言で見送った。

「宮川三郎太だったか……。今まさにリングで戦っている当の本人には、この作戦のことは伝えてあるのかね?」

 静かに閉まったドアを見つめながら、白衣姿の永久寸医師がハンカチで頬に流れる汗を拭いながら尋ねた。彼は「黙認し知らないフリをする」と宣言していたにも関わらず、一分一秒を争う影幻の焦りを見て見ぬ振りができず、結局はその良心に従って自ら調合の手伝いを務めてしまっていた。

 その永久寸の問いに対し、美樹はリングの方角へ視線を向けたまま、静かに首を振る。

「いいえ。何も伝えていません」

 永久寸は目を見開く。

「なんだと? 毒を使われると知らずに戦わせようと言うのかね!?」

「ええ。彼に余計な警戒心を持たせれば、あの毒蛇(ゾーザ)に感づかれるかもしれません。三郎太クンは演技とか器用にできるタイプではありませんし……」

 美樹の瞳には、この作戦の責任者としての冷徹な計算と、それ以上に強固な、三郎太への信頼が宿っていた。

「彼は、『毒を盛られた』程度の絶望では折れません。解毒剤が届くまで耐えてくれます」

 その確信に満ちた言葉に、永久寸は戸惑いと感嘆の入り混じったため息を漏らした。そんな彼を横目に見つつ、影幻は自身の信頼するパートナーである黒木麗羅から無言で差し出されたタオルを受け取り、顔の汗を乱暴に拭った。休む間もなく、彼は残る解毒剤の成分を、今度は──医務室のベッドで全身不随状態のままの──長身のマイルズの体格に合わせた分量へと再調整する作業に移る。

「先に行ったあのやかましい娘が観客席で陽動をする。三郎太が折れなければ負ける博打にはなるまい。……それより、問題は試合後だ。証拠を押さえた後の『捕縛』の手配は済んでいるのか?」

 影幻の言葉に、永久寸が険しい顔を上げる。

「そうだ。昨日から幾度かやりとりして感じたが、運営委員会の連中は頭の固い事勿れ主義の者が多い。証拠を得てから上申する方が確実なのは確かだが、間に合うかは分からないぞ」

 小声で「あんたも言うねぇ」と呆れたように呟く麗羅に、扱き下ろした永久寸も自覚があるのか、苦々しい表情を返す。しかし、美樹は落ち着いた声で答えた。

「それも……間に合ったわ。ね、キンタロウさん?」

 その言葉と同時に医務室のドアが押し開けられた。

「ああ、ソレは私の仕事だな。……久しぶりだな、影幻!」

 分厚い胸板を包む特注のスーツ越しでも分かるほどの圧倒的な存在感と、頭頂部を反り上げたカッパのような独特のヘアスタイル。EQT大会委員会公式アドバイザー、サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウが、不敵な笑みを浮かべてそこに立っていた。

 

────────────────────

 

 時間は少し遡り、EQT(アース・クェイク・トーナメント)予選Gブロックのリング上。そこでは第7戦のゴングが、今まさに打ち鳴らされていた。

(彼女がサチちゃんを甚振ってKOに追い込んだ、ゾーザ・ラ・ヴィペラ……。いや、今は邪念を捨てる。僕はこの試合に全力で挑むだけだ)

 対角線上のコーナーで相対する宮川三郎太は、ゴングの余韻を切り裂くような気合と共に一気に地を蹴った。

「さぁ、行くぞっ!」

 開始直後の電光石火の速攻。少しずつ太平プロレスの若手エースとしての貫禄が出始めた彼の自信が、その両足に爆発的な推進力を与える。三郎太の身体が宙を舞い、高い打点から放たれたドロップキックが、イタリア代表の美しき毒蛇、ゾーザの胸元を正確に射抜いた。

「くふっ……!」

 銀髪を揺らし、後方のコーナーマットまで派手に吹き飛ぶゾーザ。だが、追撃に向かおうとした三郎太は、微かな違和感に眉をひそめた。開始早々に先制を受け、重い一撃を食らったはずの彼女の口元に、どこか余裕を感じさせる、ねっとりとした薄笑いが浮かんでいたからだ。不気味さを感じつつも、三郎太はコーナーに釘付けにしたゾーザの胸板へ、鍛え上げられた分厚い掌底で逆水平チョップを容赦なく叩き込んだ。

「はあっ! たぁっ!」

 乾いた破裂音が、静まり返っていた会場に連続して響く。三郎太の真面目さが滲み出るような、愚直で力強いチョップが撃ち込まれるたびに、衝撃とコーナーマットの間で挟まれ、ゾーザの肢体が躍動し、その胸元に赤みがさしていく。しかし――その激しい攻勢の最中、不可視の罠はすでに発動していた。乱れ打たれるチョップを受けながら、ゾーザの細くしなやかな指先が、三郎太の太い腕に一瞬だけ、まるですがりつくように、組み付こうとして失敗したかのように触れた。観客席の誰の目にも止まらず、至近距離で対峙している三郎太自身の意識にも留まらぬ意識の間隙で、ゾーザの手の中に巧妙に隠された極小の毒針が、三郎太の汗ばんだ皮膚をわずかに掠めたのだ。

(……? 今、何かチクりと……)

 三郎太の脳裏を、筋肉が引き攣れるような小さな痛みがよぎる。しかし、アドレナリンが働く試合の真っ只中だ。彼はそれを「チョップを打ち込んだ際の摩擦か何かだろう」と無意識のうちに処理し、ひるむことなくゾーザの腰を深く抱え込んだ。

「うらあッ!」

 鮮やかな弧を描くフロントスープレックス。強引に三郎太の後方へ投げ捨てられたゾーザの細い身体が、大きな音を立ててマットに叩きつけられる。三郎太は素早く立ち上がると、一気に試合の主導権を握るべく、自慢の右腕を天高く振りかぶった。

「反撃してこないのか? けど、遠慮は無礼なだけ……容赦はしないぞ! ファイナルエルボーッ!!」

 魂を込めた必殺の肘が闘気のオーラをまとって淡く青い輝きを帯びる。それが立ち上がりかけのゾーザの顔面へと振り下ろされた瞬間──三郎太を「それ」が襲った。突然、目の前の景色がぐにゃりと歪む。

「あ、れ……?」

 視界が急激に霞み、あんなに熱を帯びていた筋肉から、まるで栓を抜かれたかのように力が抜け落ちていく。

「うっ、ぐ……」

 声が出ない。喉の奥が焼け付くように熱い。己の肉体が自身の命令を完全に拒絶している。全霊を込めて放たれたはずのエルボーは、軌道を外れて力なくゾーザの肩口を掠めるに留まり、三郎太はその場にべちゃりと無様に倒れ込んでしまった。足がもつれ、腕で自分の身体を持ち上げることすらもどかしい。三郎太は、自分の身に起きているのが単なる疲労やダメージではなく、より致命的で重篤な「異常事態」であることを自覚し、戦慄した。

「ひひ……どうしたの? 急に体が動かなくなっちゃった?」

 胸元を擦りながらゾーザがゆっくりと立ち上がる。彼女は、ふらつきながらマットに膝立ち状態で両手をつき、困惑の中で指先を震わせて立ち上がれずにいる三郎太を、獲物の弱り具合を見定める獣のような冷たい瞳で見下ろしている。ゾーザは三郎太が顔もまともに上げられないのを見て取り、口の端を歪めて笑いながら一歩、鋭く踏み込んだ。

「ほら、ペイバック・タイムだよ」

 放たれたのは、電光石火のシャイニングウィザード。緩慢な動きすらままならなくなりつつあり、防御すら叶わない三郎太にとって、それは回避不可能な死神の鎌だった。三郎太の立て膝を踏み台にした彼女の硬い膝が、三郎太の顔面を真っ向から無慈悲に打ち抜く。

「ぁ……ッ!?」

 直撃だ。鈍い衝撃音と共に三郎太の脳は激しく揺らされ、後方へ吹っ飛ばされたその体は仰向けになって大の字になってマットに沈んだ。

「まだ終わらせないよ。せっかくいい男なんだからさ~、もっとボクを楽しませてくれないと」

 ゾーザは意識が朦朧とし、ピクピクと痙攣する三郎太に馬乗りになると、マウントポジションを完全に奪った。そして、自由の利かない彼の胸元や腹部へ、体重を乗せたエルボースタンプを執拗に、何度も打ち下ろしていく。

「ぐっ……ッ!? ぉ……!?」

「あははっ! いい声! 毒が回って、痛みもいつもより、ずっと確かに感じられるだろ?」

 ドスッ、ドスッという鈍い音が響く。ゾーザの攻撃は、もはやプロレスの技術というよりは、抵抗できない獲物を嬲り殺しにする肉食獣の遊戯だった。彼女は狂気を帯びた笑みを浮かべながら肘を、拳を、そしてチョップを振り下ろし続け、三郎太の苦悶に満ちた表情をなかば法悦の表情すら浮かべて堪能している。ひとしきり打撃を浴びせた後、彼女は三郎太の上体を引き起こして背後に回り、今度はその顎を背後から強引に引き上げた。進みゆく毒の影響で首の筋肉に全く力が入らなくなり、神経が過敏になってしまった三郎太にとって、チンロックで頭部を無理やり後方へ反らされるのは、頸椎をへし折られるかのような言葉にできないほどの激痛を伴っていた。

「ぁ……あぁ……っ……」

 言葉にならない悲鳴が三郎太の唇から漏れる。暗闇に沈みかける意識。だが、その絶望的な底なし沼の中で、三郎太の「純情」と「真面目さ」が、理屈を超えた奇跡を呼ぶ。

 兄貴分、モモタロウがかつて繰り広げた死闘をリングサイドから見上げた思い出。そして、控え室で自分の勝利を信じて待っている仲間たちの顔。それらが、混濁する泥のような意識の中で、鋭い閃光のように弾けた。

(毒……? なんだか……わけがわからないけど……っ。こんなところで、一方的に負けるなんて……できる、もんか……ッ!)

 猛烈な脱力感と、毒によって倍化したゾーザの攻撃で与えられる苦痛を、三郎太は一瞬だけ、剥き出しの気迫のみで凌駕した。

 

 ガシィッ!

 

 動かないはずの三郎太の右手が、自分を跨いで優位に立っていたゾーザの足首を、万力のような凄まじい力で掴み取ったのだ。

「……!? うぇ……ッ!? なんで!?」

 ゾーザの口から、心底からの驚愕の叫びが漏れる。もう完全に回り切ってもいい頃、必要十分と見定めたとっときの毒を注入したはずの肉体が動くなど、彼女の常識ではあり得ないことだった。三郎太はそのまま、這いつくばるような泥臭い姿勢で、強引にアンクルホールドを極めにいく。渾身の力で足首を捻り上げると、ゾーザの口から「ひぎぃっ……あぁっ!?」という、これまでに見せたことのない艶めかしく生々しい悲鳴が上がった。イタリアの「毒蛇」と呼ばれ、常に安全圏から他者を嘲笑ってきた彼女の顔に、初めて明確な「焦燥」と「恐怖」の色が走る。

 しかし、その奇跡は数秒と持たなかった。再び全身を冒した毒が自らの仕事を思い出したかのように、三郎太の筋肉への信号を無慈悲に、そして完全に遮断していく。指先から急速に力が抜け、限界まで捻り上げていたはずのゾーザの足首が、ずるりと手から滑り落ちた。

「ふぅ……ふぅ……ッ! ……生意気、だよ。大人しくボクの人形になって、可愛がられていればいいものを……!」

 ゾーザの表情から先ほどの余裕は最早完全に消え失せ、冷酷でどす黒い苛立ちが取って代わった。彼女は立ち上がると、今度こそ倒れ伏してピクリとも動けなくなった三郎太の広い背中へ、ストンピングで怒りに任せた容赦のない踏みつけを叩き込んだ。肉を打つ鈍い音が響く。衝撃に三郎太の身体がマットの上で跳ねる。

「あ~、びっくりした。やだなぁ~……ヒヤリとさせてくれちゃってさ……。ほら、もっと苦しめ!」

 一度、二度、三度。執拗なまでの背中への踏みつけるような蹴り。憂さ晴らしのように繰り返される残虐な暴行に、会場からは困惑と悲鳴とブーイングが入り混じったどよめきが沸き起こる。

 ゾーザは荒い息を吐きながら満足げに鼻を鳴らすと、うつぶせで呻く三郎太の腰のの上に馬乗りに跨り、覆いかぶさるようにその顎を取って、キャメルクラッチを仕掛けた。

「ねえ、苦しい? ギブ? ギブしちゃいたい?」

 彼女は三郎太の顎を思い切り反らせて身体を海老反りにさせながら、その耳元に吐息がかかるほど顔を寄せた。そして、観客とカメラに見せつけるように、彼の耳たぶを犬のように甘噛みし、空いた片手の指先で三郎太の汗ばんだ厚い胸板を、卑猥に、ねっとりとなでまわす。

 何もできない屈辱と、嬲られる羞恥。三郎太は激痛と屈辱に顔を歪め、それでもロープを求めて腕を伸ばそうとするが、まるで鉛を流し込まれたかのように指一本動かすことができない。視界は黒く塗りつぶされ、鼓膜を打つ観客の喧騒すら、遠い水底から聞いているようにくぐもっていた。

 

 数分ほどもそうやって甚振っていたゾーザは、飽きたのか技を解いて立ち上がると、脱力した三郎太を引きずり、エプロンサイド近くへと移動させる。そこでさらに、絡みつくようなグラウンドコブラツイストをかけなおした。三郎太の目の前には、命綱であるロープがあった。腕を上げて手を伸ばせば、ロープブレイクを掴める。だが、完全に毒に冒されたその腕は、ただピクピクと痙攣し、わずかにマットから浮いただけで、力が抜けずるりとエプロンからリング下へ垂れさがってしまう。

「あはは! かなしーよねー? 目の前にあるのに届かないって、どんな気持ち? ねえ、どんな気持ち?」

 ゾーザは三郎太の自由の利かない身体を人形のように弄び、勝利を確信した残酷な笑みを深めた。絶望に染まったリングに、彼女の嘲笑が冷たく響き渡る。三郎太の意識が、ついに深い闇に沈もうとした──その時だった。

 

 ――リングの上からは死角になるように低い姿勢でエプロン下に駆け込み、滑り込んできた影があった。

 

「……はぁ、はぁ! ま、間に合った……! 三郎太先輩、今助けます!」

 選手以外でリングに近づける数少ない存在の一人、三郎太の二名居るセコンド係の片方である練習生が紫色のロングヘアを振り乱して現れたのだ。彼女の手には、影幻が調合したばかりの解毒剤が握られている。ただ窮地に声援を投げかけ続け、状況を見守るしかなかったもう一人の男子練習生の顔が、ようやく駆け付けた逆転のチャンスにぱっと喜色に染まる。

 そしてもう一人──SSSの観客席の通路に、苛立ちながらずっとしゃがんで潜んでいたジャージ姿の茶髪のサイドテールの少女が痺れを切らせて立ち上がった。

「よっしゃあ! コケにされたまま、終われるもんか!」

 デンジャー・サチだ。ゾーザによって毒を受け、無念の敗北に沈んだはずの少女が、そこに仁王立ちしていた。

 

 ゾーザが観客へ向かって、三郎太の無様な姿を誇示するように両手を広げたその一瞬だった。サチはゾーザの視界に飛び込むようにぴょんぴょんと派手に跳ね上がり、大声を張り上げた。観客たちが何事かと視線を向ける。

「やっほー! 毒蛇女、こっちだよ!」

 ゾーザの動きが止まる。若草色の瞳が驚愕に見開かれた。

「お前は……!? ドクターストップでリタイアしたはずなのに、なんでもう動き回れてるんだ……!?」

 毒が抜けるまで丸3日はかかるはずだ。自分が仕込んだ毒の威力を誰よりも知っているゾーザにとって、それはあり得ない光景だった。その一瞬、ゾーザの視線が完全にサチへと釘付けになる。その隙を逃さず、紫髪の練習生は、エプロンから場外へ垂れ下がっていた三郎太の右腕を素早く、しかしレフェリーに気づかれぬよう慎重に手繰り寄せた。

「サチ先輩が時間をつくってくれます! 三郎太先輩、蘇ってください!」

 祈るような声とともに、解毒剤のインジェクターが三郎太の腕に押し当てられる。プシュッ──小さな作動音が、リング下にかすかに響いた。

「……っ、このガキ! 何を企んでる!?」

 観客席で跳ねる目障りな存在に苛立ち、ゾーザが怒声を上げるが、サチはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、思い切り舌を出す。

「バーカ♡ ざーこ♡」

 サチは周囲の観客が眉を顰めるのも構わずに挑発を続ける。ゾーザの注意を一秒でも長く引きつけるために。三郎太の体内で、解毒剤が毒を不活化する時間を稼ぐために。

「だれがバカだッ!? ザコはお前だろーがっ!?」

「やーい、サチのこと仕留めきれなかった無能! ヤ~ブ♡」

 リング上と観客席、ジャージ姿でおどけるサチとゾーザの間で子供のようないい争いが起き、レフェリーと観客は混乱しつつも二人から目が離せない。

「なんだとぉ……!?」

 言うに事欠いてヤブ呼ばわり。ゾーザの眉間に青筋が浮かぶ。だが、彼女は持ち前の狡猾さで、苛立ちを無理やり抑え込んだ。

(チッ……あいつのことは後だ。まずはこの男にとどめを刺して、さっさと試合を終わらせる……!)

 サチが動けている以上、対処した誰かがいるのだ。ならば、自分が毒を使ったという証拠を処分しなければならない。ゾーザは冷徹に判断し、獲物である三郎太へと再び向き直った。しかし、彼女が目にしたのは、先ほどまで泥人形のように転がっていた男の、信じがたい再起だった。

 三郎太の全身から、滝のような汗が噴き出している。解毒剤が毒の原因物質を急速に不活化し、その影響を排除するために、彼の代謝を極限まで引き上げていたのだ。震える腕でマットを押し、呼吸を荒げながらも、三郎太は大地を噛み締めるように立ち上がりつつあった。

「はぁっ……はぁっ……! 僕は……負けない……っ!」

 その眼光には、先ほどまでの虚ろさは微塵もない。

「な……ぜ……!? ボクの毒を、克服したとでもいうの……!?」

 ゾーザの心に、激しい動揺が走る。単なる「驚愕」や「困惑」ではない。自分が伝承され、ずっと研ぎ澄ませてきた技術が生み出した毒を、ただの気迫と未知の力でねじ伏せ、泥の中から這い上がってきたこの男。その真っ直ぐで力強い立ち姿に、ゾーザの胸の奥で、経験したことのない奇妙な熱が疼いた。

(なんだ、この感覚……。恐ろしいのに……もっと、この男を知りたい……触れたい……!?)

 憧憬と、歪んだ情念が混ざり合い、彼女の動きに致命的な遅れを生じさせる。その隙を、三郎太は見逃さなかった。

「これでも……くらえぇっ!」

 三郎太は、十分に動けない今のコンディションでは自分の得意技も必殺技も有効に機能させられないと察していた。必要なのは極めて締める、そのふたつに全力を回せる技、自ら立つ力すら攻撃に回せる──そんな技だ。そして、咄嗟に一つのイメージを脳裏に描いた。それは三郎太の後輩、雫が必殺技としていた技。地味でいてどこか執念が滲むグラウンドでの捕獲技。三郎太は引き倒したゾーザの背後に瞬時に回り込むと、彼女の脚をロックして、顎先と頭頂部を両腕でガッチリと抱え込み、自身の体重を預けて強引に引き倒し、変形STFに極めていく。

「ティアドロップ……ボディロックッ!!」

 本来は雫の技であるが、三郎太のそれは、より荒々しく、豪快に力がこもっていた。体重に腹部を強烈に圧迫され、背筋が反らされ脊髄が軋む。ロックされ激痛に苛まれる膝、汗まみれの腕に力強く捕らわれた頭部。ゾーザは逃れようと暴れるが、回復した三郎太の筋力は、体格差もあいまってもはや彼女の細い腕で振りほどけるものではなかった。

「あ……あぐぅっ!? この、力……っ!」

 間違いない、どうやったかは知らないが自分の毒は消されている。そして今、この男は──毒に屈するどころか、自分を圧倒する「何か」を宿している。肉体を破壊するような激痛。それと同時に、自分を力任せに抱きしめる三郎太の体温と、男臭い汗の匂いがゾーザの理性を溶かしていく。

「……ギブぅ♡ ギブだから……アッアッ♡ ギブアップーっ!!! あああああっ!!!」

痛みによる絶叫か、あるいは未知の快感による歓喜か。ゾーザは激しくマットを叩き、降参の意思を示した。

 

 タップアウトを確認したレフェリーが試合終了を告げ、三郎太の勝利が宣言される。劇的な逆転勝利の熱狂に、歓声と足踏みがリングを包んだ。

 右腕を高々と掲げられた三郎太は、肩で激しく息をしながらも、その逞しい両足で血と汗に塗れたマットをしっかりと踏みしめていた。彼の筋肉は尋常ではない量の汗に濡れて滑りを帯び、甚振られた際のアザや擦過傷があちこちに赤黒く刻まれている。それでも、前を見据える眼光は野生の獣のように力強く、勝者としての揺るぎない気迫を放っていた。

 だが、その後、事態は急転直下で動き出した。リングサイドで厳しい表情を浮かべ、しきりにインカムで連絡を取り合っていた運営サイドのスタッフたちが、突如としてリング内へとなだれ込んできたのである。彼らは一直線に三郎太へ駆け寄ると、レフェリーが掲げていた彼の腕を強引に下ろさせ、その二の腕の裏側付近を執拗に確認し始めた。

「……確認しました。おい、ゾーザを押さえろ!」

 チーフらしきスーツ姿にサングラスの男が、血相を変えて鋭く指示を飛ばす。三郎太の腕には、通常の打撃や関節技の攻防では決して生じるはずのない、わずかな腫れと、その中心にポツリと開いた微細な刺し傷が残されていた。それは、試合中にゾーザが用いた毒針の痕跡だった。

「待ちたまえ」

 しかし、黒服の男たちがゾーザを取り押さえに向かおうとした所で、トップロープを飛び越えて入って来た人物が居た。スーツ姿に身を包んでなお分かる筋肉質の肉体、頭頂部を反り上げたカッパのような独特のヘアスタイル。EQT大会委員会の公式アドバイザーである、サカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウ、その人である。彼は戸惑う黒服の男たちを制止すると──おそらくこの場に来る際に連れてきたのだろう──数名の女性警備員にリング上にあがるよう指示する。

「Mr.キンタロウ! これは重大な違反であり、彼女は今も凶器を……!」

 サングラスをかけたチーフらしき男がキンタロウに文句を言おうとするが、彼はそれに手のひらを向けて遮る。

「分かっている。だからこそ、手順を守るべきだ。……君たち(女性スタッフ)がやりなさい。男性スタッフは包囲したまま待機」

 キンタロウの鋭い眼光に射貫かれ、鼻息荒く詰め寄っていた男性スタッフたちがたじろぐ。彼は混乱する現場に瞬時に「秩序」を持ち込んだ。呆気に取られている三郎太をゾーザからかばうような位置に立ったキンタロウは三郎太にウインクをひとつしてみせる。

「美樹ちゃんと影幻から話は聞いた。頑張ったな、三郎太クン。後は任せろ」

 詳しい話を聞いていない三郎太からしてみればよくわからない事態によくわからない展開が加わっただけだが、それだけにキンタロウの笑顔は彼に安堵をもたらした。

「キンタロウさん……!」

 キンタロウの指示を受け、3名の女性警備員たちが、マットに倒れたまま身動き一つしない敗者、ゾーザ・ラ・ヴィペラを取り押さえ、強制的にボディチェックを始める。

「アームガードとリングシューズは念入りに確認しろ。隠しやすいのはそのあたりだろう」

 果たして、彼女のコスチュームのアームガードの装飾の裏側に巧妙に隠されていた、極細の針が、動かぬ証拠として押収されたのである。ご丁寧にもリングシューズには未使用の予備の毒針まで隠されていた。

 事態の異常さを察した観客たちがどよめく中、キンタロウが頷くのを見て、サングラスの黒服男がインカムで上役へ報告を送る。敗者となったゾーザは、もはや逃げようとも言い訳をしようともしなかった。彼女の視線は、ただ一点、三郎太の背中にのみ注がれている。

 そして、あまりに悪質な逸脱行為に対し、さしもの運営も非情かつ迅速な決断を下した。大会運営委員会からの裁定として会場内にアナウンスがかかり、会場の空気を凍りつかせるような冷徹な声で宣告した。

『大会運営委員会からの裁定を下す。ゾーザ・ラ・ヴィペラ。悪質な毒物の使用、および重大な大会規定違反により、失格とする! さらに、本大会における全試合の勝ち点をゼロとし、追放処分とする!』

 決定的なペナルティの宣告だった。戸惑い交じりのブーイングと、正義が執行されたことへの歓声が入り混じり、異様な空気が会場全体を渦巻いた。一方、隠されていた毒針を押収され、宣告がアナウンスされてなお、ゾーザは抵抗一つせず、ただ夢心地のような吐息を漏らしている。キンタロウはその様子を、苦々しくもどこか哀れみを含んだ目で見下ろしていた。

「……対戦相手に毒を盛ると言う事がどういうことか。どうやら、本人もよく分かっているらしいな」

 しかし、その厳格な裁定が下された一方で、被害者たちへの裁定が覆ることはなかった。

『なお、「デンジャー・サチ」ならびに「マイルズ・リード」については、既に下されたドクターストップによるリタイア裁定の判断を覆すことはない。以降試合への復帰は認められないものとする』

 無情なアナウンスが響く。それは、敗北が犯行による不可抗力であったと運営が認めたも同然だった。しかし、運営側としては、一度全世界に向けて公表した「大会委員会の裁定」を撤回することは、組織としての権威とメンツに関わるという、極めて政治的で身勝手な理由から避けられた。

「マジかー……」

 Gブロックの予選リングを取り囲むSSS席の通路でアナウンスを聞いていたサチは、ガックリと肩を落とした。反則行為によって理不尽に奪われた勝利。そして、真相が明らかになってもなお、システムによって救済されないという冷たい現実。

「……あいつを道連れにしてやったと、そう思うしかないかー……」

 地面に拳を叩きつけたい衝動を必死に堪え、サチは力なく自嘲気味に呟いた。状況をようやく理解した周囲の観客たちから事件の被害者であり、犯人確保の立役者でもあるサチへ慰め交じりの温かい声がかけられる。しかし、現実は非情だ。彼女の世界大会と言う大舞台は、あまりにも唐突に、そしてひどく後味の悪い形で幕を下ろしてしまったのだ。

 

 一方、歓声と怒号が交錯する喧騒の中心――スポットライトに照らされたリング上では、底冷えのするような異様な光景が繰り広げられていた。敗者となったゾーザは、リングのマットにうつ伏せで倒れ込んだ確保された姿勢のまま、ピクリとも動こうとしなかった。彼女の周囲には運営スタッフが幾重にも立ち塞がり、両腕はすでに後ろ手にされ、簡易的な捕縛帯で拘束されている。

 いまだ彼女の視線はただ一点、勝ち名乗りを受けた後もリングに留まり、観客の惜しみない声援に応えながらも疲労のあまりロープにもたれている三郎太の姿にのみ注がれ続けていた。這いつくばるような姿勢からゾーザが見上げる彼の姿は、強烈なトップライトの光を背に浴びて、暴力的なまでに神々しかった。荒い息をつきながら、正義を貫き、自らの力で勝利をもぎ取った若きレスラーの横顔。額から滴り落ちる汗すらもが、光の粒子のように輝いて見えた。

 マットに沈んだ「イタリアの毒蛇」 ──彼女はこれまで、相手を巧妙に欺き、毒牙にかけ、絶望と苦痛に歪む顔を安全圏から嘲笑うことで己の強さと存在価値を証明してきた。だが今、彼女が三郎太に向けているのは、計画を狂わされた憎悪でも、敗北の屈辱でもない。それは、ゾーザと同じ名を持つ、古き残酷な童話集「ペンタメロン」に語られた王女のごとき、粘液のようにまとわりつく情動の籠った視線だった。

 彼女は夢想するように思い返していた。自らの必殺の毒のひとしずくを確実に注入したというのに、この男は再び立ち上がった。己の肉体を害し、侵食するはずのあらゆる毒、汚悪な策略、その全てを、彼は高潔な意志と眩いばかりの圧倒的な生命力で、文字通り内側から焼き尽くしてみせたのだ。そして、抗うことすら許されないほどの圧倒的な力で、ゾーザの細い体をねじ伏せ、マットに沈めた。

 ゾーザの若草色の瞳の奥底には、敗北の悔恨など微塵もない。代わりにそれを真っ黒に塗りつぶすほどの、底知れぬ昏い感情がドロドロと音を立てて渦巻いていた。その胸の奥から、熱を帯びた呼気が漏れる。

「はぁ……はぁ……。ボクを……あんなに強く、抱きしめて……」

 彼女の脳裏に、先ほどのフィニッシュホールドの記憶が鮮明にフラッシュバックする。骨が悲鳴を上げるほどの逞しき力。押し付けられた汗ばんだ胸板の熱さ。自身の呼吸すら完全に支配された、あの絶対的な拘束。それは彼女にとって単なるプロレス技ではなく、魂ごと屈服させる原始的な儀式のように感じられていた。

 ゾーザの青白い頬が、戦いによる疲労や紅潮とは全く異なる、重い熱病に冒されたような濃い朱色に染まっていく。そこに浮かんでいたのは、魔法の呪いから解き放たれた童話の王女のような純真な喜びではない。それは、自分の猛毒すらも飲み込み、己を完全に支配し、生涯侍らせるに足る「真の王」を見出したという、狂信的な忠誠――いや、盲目的な信仰に近いものだった。

 毒使用という不名誉を理由に全試合失格の烙印を押され、この後でイタリアマット界から永久追放されるとしても、彼女にとってそんなことはもはや些末な問題に過ぎなかった。彼女にとってこのリングは、単なる大会の予選の場などではない。自身の魂を捧げるべき伴侶を見つけるための、血塗られた舞踏会だったに違いない。根拠はないけどきっとそう。

 強烈な余韻に全身の細胞を浸しながら、ゾーザは恍惚とした表情で身悶えする。妙な動きをしないか、キンタロウに監視され、女性警備員たちに背後に回された腕を捕縛されているという事実すら、今の彼女にとっては、彼に支配されていることの延長線上にある極上のご褒美のように感じられていた。

「……見つけたぞ……ボクの……運命の、王子様……!」

 誰にも聞こえないほどの吐息に混じった小さな囁き。彼女の抱いた歪んだ恋慕はどこまでも深く、暗く、執念と毒と呪いをたっぷりと孕んだ、より不穏で毒烈な執着の物語の幕開けそのものだった。

 

 彼女の持つ毒は消え去ったのではない。対象を明確に変え、より純度の高い「狂愛」という名の猛毒へと精製され直したのだ。

 

 一方、歓声に応えながらようやくリングから降りた三郎太は、突如として背筋をぞくりと走った得体の知れない悪寒に、ピタリと足を止めてわずかに身震いした。冷たい汗が一筋、背中を伝い落ちる。大量発汗の直後だからか、それとも風邪でも引いたか。彼は訝しげに眉をひそめ、無意識のうちに自身の腕を擦った。慌てて紫髪の練習生が差し出したタオルを受け取って控室に向かいながら汗をぬぐう。

 

 熱狂と歓声に包まれる東京ドームの片隅。その喧騒の裏で、新たな狂気の火種が静かに燃え上がったことに、彼はまだ気づいていなかった。

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