「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
グレート・イカサマの太い指が、ライジング雫の右腕を容赦なくねじり上げた。マットに顔を押しつけられた雫は、焦げたゴムと汗の混じる匂いを頬で吸い込みながら、乱れた呼吸をどうにか整えようとする。だが、脇固めの角度はあまりにも苛烈だった。肩の関節は限界まで引き絞られ、神経を逆なでする痛みが脳髄を焼く。
「どうした雫クン。試合に集中したまえ。それともワタシ程度の相手など眼中にはないかね?」
道化のペイントを施した顔で、イカサマが耳元で囁く。その声には、嘲笑と、どこか試すような響きが混じっていた。
『さぁ、本日の第2試合、開始から早くも8分経過! ここまでは完全にベテラン、グレート・イカサマのペースです! 雫、脇固めに捕まって身動きがとれない!』
実況の絶叫が会場に響き渡る。太平プロレスのリングを包む熱気は、雫にとって今はただの重圧でしかなかった。解説席に座る新人のブライアンは、不機嫌そうに鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
『ハッ、見てらんねぇな。あんな地味な技にいつまで捕まってんだよ。雫センパイも、次代の若手エース候補なんておだてられてる割に大したことねーぜ。やっぱ力こそパワー! 地味な関節技より派手なパワー技だぜ!』
ブライアンは、デビューして半年ほどの、力任せなファイトを信条とする若手だ。悪役を志望している彼は、雫のような「優等生」の苦戦を心底楽しんでいるようだった。実況が慌ててフォローを入れる。
『新人レスラーながら自信満々ですね、解説のブライアンさん! しかしイカサマは巧みに体重を預け、雫の脱出路を潰しています。雫、かつてないほどに苦しい立ち上がりだーっ!』
痛みの中で、雫の意識は数日前の社長室へと引き戻されていた。
「……実力査定、ですか?」
太平プロレスの社長、松平林吾の言葉に、雫は思わず聞き返した。かつて日本を代表するエースとして君臨した林吾の眼光は、腰痛に悩まされる今の体躯にあっても、射抜くような鋭さを失っていない。
「うむ。私もあまりこういうのは好きじゃないんだが……、他団体と交流の興行をするには必要な事でね。好調なら三郎太クンやシロオニ・ベスとも互角にやりあえる君のポテンシャルは認めている。次の試合のグレート・イカサマ戦は君の安定度を測る試金石になる」
林吾は机の上で指を組み、静かに続けた。
「中堅どころのベテラン悪役選手が相手でも安定して戦い抜き、勝利できるのか、それを見させてもらう」
雫の胸に、ちくりとした痛みが走った。直近の試合――土壇場で感情を制御できずに崩れた自分の脆さを、正面から突きつけられた気がした。
「前回の試合の最後の脆さのこと……ですか?」
「……違うとは言わないが、それだけでもない。君が無理しているだけなのか、それとも土台あっての実力か。まぁ、そういうことだな。興行的都合での勝利の約束はない。自分の実力だけで結果を出してくれ」
「……はい」
絞り出すような返事だった。自分は優等生でなければならない。三郎太に認められ、団体に、ファンに、正当に評価される存在でなければならない。その強迫観念が、今の彼女の動きを硬くさせていることに、雫自身はまだ気づいていなかった。
現実に引き戻された雫は、激痛に耐えながら右腕を力任せに引き抜こうとするが、イカサマの「技術」がそれを許さない。筋肉の裏打ちされた重厚な体格で、彼は一点の曇りもなく関節を制圧していた。
「くっ……あ、ああ……っ!」
雫は必死に身体を捻り、支点となっているイカサマの脇の下へ腕を滑り込ませるようにして回転した。プロレスの教科書通り――だが、鮮やかな脱出だった。その勢いのままイカサマの背後へ回り込み、首を腕で抱え込む。グラウンドでのヘッドロックだ。
(逃がさない……今度は私の番……!)
渾身の力で締め上げる。イカサマの顔が歪み、苦悶の色が浮かんだ。決着を急ぐ雫の胸に、わずかな焦りが混じる。
「ロープだ、足先が届いたぞ、技を解きたまえ雫クン」
イカサマが掠れた声で告げた。雫の視界からは、彼の足元は正確には見えない。しかし、彼がそう言うのであれば――。審判が介入する前に自ら技を解くのが「正しいレスラー」の振る舞いだと、雫の規律正しい精神が判断を下した。
「くっ……」
雫は躊躇いながらも腕の力を緩め、イカサマを解放した。仕切り直して立ち上がろうとした――その瞬間。
「届いたのはロープの影だがね、解いてくれて有難う!」
豹変した声とともに、イカサマの身体が独楽のように回転した。低空から放たれた水面蹴りが、無防備な雫の軸足を正確に捉える。
「痛っ!?」
キャンバスに激しく叩きつけられる雫。何が起きたのか理解できず、大きく見開かれた紫の瞳が揺れた。
『あーっと、ライジング雫! 何を考えているんだ!? グラウンドヘッドロックを自ら解除してしまったーっ!』
『ハハハ! バッカじゃねーの!? 今の、イカサマの旦那が『ロープだ』って言ったのを真に受けたんだろ? んなもん、届いてねーに決まってんじゃん! 雫先輩、マジでチョロすぎんだろ!』
放送席でブライアンが腹を抱えて笑っている。実況の声も、雫の判断を不可解なものとして伝えていた。
『……確かに今のは、レフェリーもチェックに行く前でした。ブライアンさん、これは雫の「お人好し」が出ましたか?』
『お人好しっつーか、言っちゃ悪ぃがバカだろ。レフェリーに離せって言われるまで攻め続けりゃよかったんだよ。ほら見ろ、逆に捕まっちまった』
ブライアンの嘲笑は正しい。リングの上では、レフェリーの宣言こそが法だ。選手の自己申告など、勝利への執念の前では何の価値もない。
イカサマは倒れ込む雫の腕を再び強引に掴み取った。先ほど脇固めで痛めつけた、まさにその右腕だ。無慈悲な手つきで肘をロックし、そのまま背後から腕をねじり上げる。チキンウイングアームロック。
「ぐ、ああああああっ!」
雫の悲鳴がリングにこだまする。黒髪のショートボブが乱れ、苦悶に顔を歪める彼女の姿は、イカサマの言う「年季の入った悪役」に弄ばれる哀れな獲物そのものだった。胡散臭い貴族風のタイツを揺らしながら、イカサマはさらに深く、雫の腕を絞り上げていった。
「痛い、痛い、痛い……っ!」
右肩から指先まで、焼けつくような鈍痛が奔る。イカサマのチキンウイング・アームロックは、先ほど痛めつけた雫の華奢な肩関節を、今まさに破壊しにかかっていた。マットに押しつけられた顔の横で、不気味な道化のペイントを施したイカサマの顔が、歪んだ笑みを湛えているのが見える。雫は必死に自由な左手を伸ばし、指先に触れるキャンバスのざらつきを頼りに這った。一寸、また一寸と、震える指が最下段のロープへと近づいていく。ついに、指先がロープを掴んだ。
「ブレイク! ブレイクだ!」
レフェリーの鋭い声が響く。イカサマは慇懃無礼に両手を上げ、まるで紳士を気取るように身を引いた。だが、雫の右腕には痺れが残り、感覚は半分ほど失われている。ロープを支えに、彼女はふらつきながら立ち上がった。
(負けられない……ここで、止まってはいられないのに!)
正面に立つイカサマが、ニヤリと口角を上げる。その笑みが、雫の胸の奥に残っていた怒りへ火をつけた。痛みを怒りへと転換させ、残った左足の踏み込みに全神経を集中させる。
「この嘘つき……ッ!」
叫びと同時に、雫の身体が独楽のように回転した。放たれたのは、電光石火の延髄斬り。しなやかな右足の甲が、イカサマの分厚い首筋を完璧に捉える。
「ぐおっ!?」
鈍い衝撃音とともに、大柄なイカサマの巨体がマットに沈んだ。雫は着地の衝撃を左腕で庇いながらも、すぐさま追撃に動く。今、この瞬間――相手が倒れている今こそが、必殺の好機だ。
「もう許しません、これで決めます!」
雫は倒れたイカサマの背後に回り込み、その右脚を抱え上げるようにして自らの脚でロックした。さらに相手の首へ左腕を回し、体重を預けて強烈に絞り上げる。必殺のティアドロップ・ボディロック。変形STFの形で極まったその技は、逃げ場のない絶望を相手に与えるはずだった。
「ぐわああっ! 雫クン、いかん! やめたまえ、おっぱいを押し付けるのは反則だ! これは嘘ではないぞ!」
突如、イカサマが必死の形相で喚き散らした。雫の身体が、一瞬だけ硬直する。
「なっ……!?」
「団体内掲示を見ていないのかね!? このところ君は沈んでいたからな、先日の御子柴の行動が問題になって急きょ決まったルールだよ。君も三郎太クンが御子柴のおっぱいに顔をうずめられていた攻撃を見て、よくないと思っただろう?」
イカサマの声は、妙に説得力を帯びていた。三郎太と御子柴――その名前を出された瞬間、雫の胸にチリリとした不快な嫉妬が再燃する。優等生として、規律を守る者として、「反則で勝つ」ことは彼女のプライドが許さなかった。
「成程……っ」
雫は反射的に、完成しかけていた技を解いてしまった。彼女の心の奥深くに根付いた「正しくあらねばならない」という呪縛が、イカサマのデタラメを真実として受け入れさせてしまったのだ。
『な、なんとーっ!? イカサマ、とんでもないことを言い出した! 胸部を押し付けるのは新ルールで反則だと、大真面目に主張しています!』
実況の絶叫が、会場に虚しく響く。
『オイオイ……!? マジかよ!?』
放送席では椅子を蹴立ててブライアンが立ち上がり、自身の頭を抱えていた。
『ですよねぇ、そんなバレバレの嘘になんか……。なんと!? ライジング雫、またしても自ら技を解いてしまうようです!? どう思われますか、解説のブライアンさん!?』
『……やべぇ、団体掲示なんか俺見てなかった、パワーボムとか大丈夫かな……!?』
『えっ』
『えっ』
実況とブライアンの会話が噛み合わないまま、リング上では冷酷な現実が雫を襲った。技を解いた雫が、困惑してレフェリーの顔を見た瞬間だった。レフェリーは「何故、解いたのだろう」という不可解な表情を浮かべている。
(……しまった!?)
雫は自身の失策に気付いた。しかし、その一瞬の隙をイカサマが見逃すはずがない。
「遺憾ながら嘘なのだがね」
低い声が聞こえた。雫の頭部を強引に抱え込み、その顎を己の肩に固定する。イカサマが力強くマットへ腰を落とした瞬間、雫の顎に強烈な衝撃が突き抜けた。スタナーだ。
「……っ、がはっ!?」
脳を揺らされ、視界が白く明滅する。しかし、イカサマの追撃は止まらない。立ち上がろうとする雫の腰を、背後から抱え上げた。
「食らいたまえ、年季が生んだ至高のバックドロップを!」
「……受け身をとれば……まだ……!」
雫は宙に浮きながら、必死に背中を丸めようとした。落下の衝撃に備える。しかし、イカサマの身体はバックドロップの軌道を描かなかった。
「やっぱりアトミックドロップにしよう」
空中で無慈悲に軌道を変えられ、雫は垂直に叩き落とされた。狙われたのは尾てい骨。硬い膝の上に腰から落とされるアトミックドロップの衝撃は、脊椎から股関節にかけて鋭い痛みを走らせ、言葉にならない苦悶を強いた。
「きゃんっ……!?」
悲鳴にも似た声が漏れ、雫はマットの上で身体を丸める。腰椎から股関節にかけて突き抜ける激痛。イカサマは悶える彼女の片脚を、まるで獲物を品定めするように掴み取った。
「さぁ、逃がさないぞ」
ぐい、と脚を引き寄せ、腰を落として反り上げる。シングルボストンクラブ。一点に集中する重圧が、雫の腰をミシリと軋ませた。
「あ……あぁ……ッ!?」
「雫クン……嘘つきのワタシが言うのも何だがね。君はいささか偽りに流され易すぎる」
イカサマが、技をかけながら冷静に語りかけてくる。その声には、先ほどまでのふざけた調子は微塵もなく、どこか突き放すような冷徹さが宿っていた。
「わ……私が流されている?」
「私のではないぞ。君が君を縛っている偽りの方だ」
「……!?」
腰への激痛の中で、雫は言葉を失った。
「心乱される恩ある先輩をなんとかしようという義憤、自分勝手な外敵への義憤、極悪非道への義憤……成程、立派な理由に見える。しかし、君はその裏に隠しているだろう?」
イカサマはさらに深く腰を落とす。雫の身体が弓なりに反り、限界を告げる。
「私は何も隠してなんか……!」
「嫉妬していないと? 恋慕していないと? ぶっちゃけ独占できなくなったのがムカつくのではないのかね?」
「それ……はっ……!?」
心臓を直接掴まれたような衝撃が、肉体の痛みを上書きした。見透かされている。優等生として振る舞い、大義名分を盾にして隠し続けてきた、ドロドロとした醜い独占欲。三郎太を誰にも渡したくないという、およそ「正しくない」感情。
「ははは、構わんよ。嘘つき同士仲良くしようじゃないか。エースなど目指さず、万年中堅どまりのベテランで留まるのもそう悪くはないぞ」
イカサマの言葉は、ある種の救いのようでもあり、底なしの沼への誘いのようでもあった。自分への嘘を認め、戦うことを放棄してしまえば、この痛みからは解放される。
(わたし……わたしは……)
脳裏に、査定試合を告げる松平林吾の姿がよぎった。厳しい目で見守る社長。そして、どこかにいるはずの三郎太の視線を想像する。彼らに「綺麗な自分」を見せたいという欲求が、どれほど今の自分を脆くさせていたか。
「わ、私は……っ!」
雫の指先が、再びマットを掻いた。爪が剥がれんばかりの勢いでキャンバスを掴み、一センチ、また一センチと身体を引きずる。誰かのために戦うのではない。三郎太に認められるためでも、社長に評価されるためでもない。今、この脚を捩じり上げ、腰を砕こうとする目の前の男に屈辱を返してやりたい。その一念だけが、彼女を動かしていた。
「……あ、諦めませんッ!」
指先が、冷たいロープを掴んだ。渾身の力を込めて、その感触を握りしめる。
「エスケープ! ブレイクだ!」
レフェリーが割って入る。雫はロープを離さなかった。いや、離せなかった。白くなった指関節には、これまでの彼女からは想像もつかないほどの殺気がこもっていた。
「……」
イカサマは、その様子をじっと見つめていた。先ほどまで翻弄されていた少女の瞳に、優等生の仮面を脱ぎ捨てた、剥き出しの「獣」の光が宿るのを、彼は道化の顔の裏で静かに確信していた。右腕の感覚はすでに麻痺し、腰には鋭い痛みが走っている。ロープを掴む指だけが、白く変色するほどに命綱を握りしめていた。 レフェリーがイカサマを引き剥がす。その一瞬の隙間、イカサマは離れ際に口元のペイントを歪ませ、最後の揺さぶりを仕掛ける。
「おいおい、そんな無様な姿でいいのかね? ほら、あそこの花道奥を見てみたまえ。憧れの三郎太クンが心配そうに見ているぞ」
イカサマが顎でしゃくった先は、入場ゲートの暗がりだった。いつもの雫なら、その名前が出ただけで条件反射のように視線を巡らせ、先輩の評価を気にして表情を取り繕っていただろう。「みっともないところを見られたくない」「綺麗に勝たなければならない」。そんな雑音が、常に彼女の脳内を支配していたからだ。だが、今の雫は違った。彼女の紫色の瞳は、目の前の対戦相手であるグレート・イカサマだけを射貫いている。リング外の風景など、今の彼女にとってはただの背景に過ぎなかった。
「……見ているにきまってます! 確認の必要なんかない!」
雫の声がリングに響き渡った。それは悲鳴でも懇願でもなく、確固たる宣言だった。彼女はキャンバスを深く踏み込む。視線を切らず、真正面からイカサマの懐へと飛び込んだ。雫はイカサマの太い胴に両腕を回し、そのまま躊躇なく自身の身体を後方へと反らせる。
「なっ……雫クンがスープレックスだと……ッ!?」
イカサマが虚を突かれたように目を見開いた。関節技やキックを中心としたテクニカルなファイトスタイルの雫が、自分よりはるかに体重のある相手に、真正面から投げ技を仕掛けてくるなど想定外だったのだ。技術で投げるのではない。魂で投げるのだ。 右腕の痛みなど意識の外へと追いやった。全身のバネと、沸き立つような勝利への渇望だけを動力源として、彼女は綺麗なブリッジを描く。
「うおおおおおっ!」
裂帛の気合いと共に、イカサマの身体が浮き上がり、脚がマットから離れる。普段の彼女のような、教科書通りの丁寧な技ではない。怒りと激情をそのまま物理的なエネルギーに変換したような、荒々しく、そして鋭い軌道を描くノーザンライトスープレックスだった。衝撃と共にリング全体が大きく波打ち、イカサマの背中がマットに叩きつけられる重低音が会場を震わせた。
『投げたーっ! ライジング雫、ここで意地のノーザンライトスープレックスだーっ! 体格差をものともしない、魂の一撃!』
実況が叫ぶ中、雫はホールドしてのフォールには行かなかった。それでは終わらないことを、彼女の本能が理解していたからだ。そして何より、今の彼女はただ勝つだけでは満足できなかった。相手を完全に屈服させ、逃げ場のない敗北を与えることだけを求めていた。叩きつけられた衝撃で息を詰まらせるイカサマ。その身体がまだマットの上でバウンドしているうちに、雫は獣のような俊敏さで体勢を入れ替えた。
「まだです……!」
うつ伏せになりかけたイカサマの背後に回り込み、その太い右脚を自らの脚でロックする。逃げようとする動きを完全に封じ込み、同時に上半身へと覆いかぶさった。先ほどイカサマの言葉に惑わされて解いてしまった技。今度は迷わない。雫はイカサマの首に腕を回し、躊躇なく自らの身体を密着させた。
「ぐわぁ! チョークだ、息が出来ない! レフェリー、反則カウントを取りたま……もが!?」
イカサマが再び反則を主張しようと声を荒らげる。しかし、雫はその抗議すら計算に入れていた。首に巻き付けた腕をさらに深く食い込ませるのではなく、自らの胸部をイカサマの背中、そして後頭部へと強引に押し付け、挟み込むように回した腕で相手の下顎ごと口元をロックする。
「喉じゃなく、口をロックしてあげます」
雫はイカサマの耳元で、冷徹な熱を帯びた声で囁いた。かつては指摘されれば恥じらってしまっていた肉体の接触。それを彼女は今、相手を破壊するための「武器」として行使していた。女性としての羞恥心も、優等生としてのプライドも、すべてはこの瞬間の勝利のために薪としてくべた。
「よかったですね、グレートさん。おっぱいも押し付けてあげますよ。さぁ、ギブしないと背骨がイカレちゃいますよ……?」
ギリギリと締め上げられる変形STF――ティアドロップボディロック。脚のフックで下半身を固定され、上半身は強烈なフェイスロックで反り上げられる。イカサマの身体が不自然な角度で弓なりになった。
「……ッ!?」
イカサマは目を見開いたまま、声にならない呻きを漏らす。口を塞がれ、声が出ない。いや、呼吸すらままならない。何より、背後から伝わってくる雫の気迫が、これまでの比ではなかった。ただの真面目な新人ではない。殻を破り、エゴを剥き出しにした一人のレスラーが、そこにいた。
「ギブアップか!?」
レフェリーがイカサマの顔を覗き込み、意思を確認する。イカサマの視界が霞む。背骨が限界を訴え、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。たまらず、分厚い掌でマットを三度叩いた。ギブアップ宣言であるタップアウトをレフェリーが確認し、ゴングを要請する。
『決まったーっ! ティアドロップボディロック! ライジング雫、羞恥心すら投げ捨てて全力で締め上げる! イカサマ、口を塞がれて言葉を発することができず、たまらずタップアウト! ライジング雫が勝利をつかみ取りました!』
ゴングの音が鳴り響く中、雫はすぐには技を解かなかった。レフェリーに肩を叩かれ、勝利を告げられて初めて、ゆっくりと腕を緩めた。荒い息を吐きながら立ち上がった雫の髪は汗で頬に張り付き、その瞳はまだ戦いの熱を帯びてギラギラと輝いていた。放送席では、実況が興奮冷めやらぬ様子で叫び続けている。
『これぞプロレス! これぞ執念! 迷いを断ち切った雫の強さが爆発しました!』
立ち上がる観客の波が、リングを包み込むように揺れていた。雫はまだ肩で息をしていた。勝利の実感が胸に落ちるより先に、身体の奥で燃え残った熱だけが脈打っている。叫び続ける実況の横で、解説のブライアンが呆気にとられたように口を開けていた。
『雫センパイ……反則覚悟で絞め勝つなんて、見直したぜ。さすがと言いたい所だが……さすがだぜ!』
イカサマはまだマットに片膝をついたまま、荒い呼吸を整えようとしている。
『……ええと、ブライアンさん。失礼ですが、バカでいらっしゃるんで?』
実況が冷静なトーンでツッコミを入れる。
『……なんでだよ!?』
ブライアンの抗議の声は、会場の大歓声と爆笑にかき消されていった。リング上、レフェリーに右手を勝ち名乗りとして挙げられた雫は、かつてのように客席へ愛想よく手を振ることはしなかった。ただ、自分の拳を握りしめ、その感触を確かめるように胸元へ引き寄せる。
(団体や誰かに何を言われても、もう流されない。自分の決めた意地で戦おう……!)
自分の足で立ち、自分の意志で戦うという決意が、そこにあった。一方、敗れたイカサマは腰を押さえながら、大げさな動作で練習生に肩を借りて立ち上がっていた。
「ちくしょう! 負けた負けた、君を惑わすために適当な事言っただけだとも! うまくいかなくて悔しい限りだ! まったく、最近の若手は可愛げがない!」
悪態をつきながらリングを降り、花道を引き上げていくイカサマの背中を見送りながら、雫は誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「……ありがとうございます、グレートさん」
雫の表情には、憑き物が落ちたような清々しさと、次なる戦いを見据える鋭い光が宿っていた。
彼女はもう、誰かのための優等生ではない。