「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
EQT(アース・クェイク・トーナメント)予選リーグも終盤、開催会場の東京ドームの外は日も暮れて街灯が光を放ち始め、リングでは第13戦が始まろうとしている頃。バッカス木桜は日本代表選手の内、太平プロ所属レスラーたちのための控室に居た。ちょうどこのタイミングは皆試合が無く、唯一直前の12戦に出場していた御子柴が医務室で軽い処置を受けて不在という状況だ。ちなみに美樹は影幻となにやら話があるようで、観客席へと移っていた。内容に興味が無くもなかったが、こないだのモモタロウの事でとだけ聞いて三郎太はそれ以上の追及を控える事にしている。
待たされた女の恋心を変につついて藪蛇になるのは怖い。
「もー、おっそーい!」
「す、すまねぇ……TVの収録があって福島に居てよ。昼休憩でSNS見て慌てて取って返してきたんだが……」
腰に手を当ててプンスカ怒っているのはジャージ姿のデンジャー・サチ。頭に手を当ててたじろいでいるバッカス木桜は彼にしては珍しく団体トレーナーとジャージの上下ではなく、カジュアルな私服に身を包んでいる。今も赤ら顔は抜けてはいないが、普段からスキットルで酒を呷っている彼にしては珍しい立ち振る舞いだ。指導担当として面倒を見ている後輩の絶体絶命の窮地に居合わせる事が出来なかった不甲斐なさが彼を恐縮させていた。
「謝る事でもないのでは? サチさんだって一人前の大人。太平プロの指導担当とやらがどの程度の関係性なのかは存じませんが、いつまでも面倒みてもらってばかりでもないでしょう?」
腕を組んだまま冷ややかな視線を送って言うのはシロオニ・ベス。太平プロの中で一目置いている数少ないレスラーが理不尽に責められているように感じたのか。彼女にしては珍しくフォローの言葉を口にする。だが、その常識的な観点からの言葉は非常識な個人的主義から切って捨てられた。
「サチはいつまでも面倒見てほしいし、お世話されたいから、いーの! つーか、『さん』付けとかやめてよ。暴力鬼娘に丁寧に対応されるとさぶいぼでるし」
「は?」
サチのあまりにもサチなセリフにベスがキレかかる。「毒で倒れたと聞いて優しくしていればつけあがって!」とか「ギャー! たすけておじさん!?」とかギャンギャン暴れ回る二人からは敢えて目を反らす事にして、三郎太はバッカスに尋ねる。
「でも、バッカスさん、大丈夫なんですか? TV番組の収録すっぽかしてこっちに来ちゃって後で問題になったりとか……」
「いや……まぁ、怒られるだろうな。後で謝るしかねえよ。ただ、今日の収録はなんとかなってるはずだ。代わりを頼んであるんでな」
ベスに両側からほっぺたをひっぱられてギブアップを連呼しているサチと、止めるに止められずにおろおろしているばかりのブライアンを横目で眺めつつ、バッカスが答える。言っては何だが冴えないベテラン中堅レスラーというカテゴリに入るバッカス木桜に来た、せっかくのTV番組の出演オファーを台無しにしたのだから、それなりに後に響きはするだろう。それでもバッカスは教え子の危機に黙って居られるほど男気を捨ててはいなかったのだ。
だが、結果的にはこれは杞憂となった。彼には今後もTV番組のオファーが来続ける事になる。その理由は番組の内容が酒飲みのための観光地の隠れた名居酒屋紹介というものだったこと。そしてもう一つはこの日の放送の視聴率がいつもの3倍以上を記録した事である。なぜそうなったのかと言うと──
その日の収録にバッカスの代わりに現れた太平プロレスのレスラーが司会進行役のタレントと共に番組冒頭で挨拶をしたシーンのことである。
「今日のゲストはプロレスラーさんですわ。太平プロから来ていただきました、どうぞ」
「どうも、貴方の心の大衆居酒屋、バッカス木桜です」
角刈りにカイゼル髭、おまけに道化じみたフェイスペイントというあまりに奇妙な風貌をカジュアルなスーツに包み、自称バッカス木桜は胡散臭く微笑んだ。
「いや、ないわ!? どう見ても別人やろがい!?」
芸人畑のタレントは容赦なく平手でバッカス木桜を名乗る怪人、グレート・イカサマをひっぱたいた。
なお、その日のイカサマの日本酒や料理へのコメントは的確で詩的表現に優れ、興味本位で眺めていた視聴者から思わぬ高い評価を受けたと言う。……嘘も多かったが。
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長時間の熱気と喧騒の積層により東京ドームの空気は、どこか重く沈んでいるかのように感じられる。グラウンドに並ぶ16基のリングは、一部の例外あれど、既に12の試合を消化し、間もなく始まるEQT予選リーグ第13戦の試合開始を待ち、観客たちを疲労と期待の入り混じる奇妙な静寂が包んでいた。長かった大会二日目も残り3試合。続々と本選進出が決まりゆく終盤戦は、長丁場につきあってきた熱心なファンたちにとって最後の興奮の焦点であった。
そんな中、Aブロックのリング上で二人の女子レスラーが対峙している。一方は日本代表選手の一人、団体「ノワール・ゲート」の若きエース。ピンクとスカイブルーの鮮やかなリングコスチュームに身を包んだジェニー・葛葉は、ブロンドのショートボブを揺らしてコーナー前で待ちきれないとでも言うかのように、軽く足を弾ませていた。第3戦でホライズンとの熱きスープレックス合戦を制し、ここまで4戦を全勝で潜り抜け、彼女の澄んだライラック・アイは過日のローラ戦での惨敗の影響も抜け、確かな自信を取り戻していた。
「……いいね、この空気。ボク、好きだなぁ。さぁ、いつでもいいよ、ゴングはまだ?」
呑気な発言をしつつ、彼女はただ、楽しそうに微笑んでいる。
もう一方はロープ際に立ったまま微動だにしないイギリス代表選手の一角、「邪竜」エルザ・ファフニール。彼女は145センチという極めて小柄な体躯を、白と紺の幾何学的なギザギザ模様が刻まれたハイレグ・モノキニに包んでいる。黒髪に青のメッシュが走るツインテールが、顔を上げた彼女の動きに反応して、激しい気性を象徴するように跳ねた。エルザは冷徹な瞳で、目の前の天真爛漫なキツネ娘を射抜く。放たれる殺気が、鋭利な刃物となってジェニーの肌を刺すかのようだ。彼女は第1戦でグラン・プーセを蹂躙してから快進撃を続けつつも、オーストラリアの熱きヒーロー、ホライズンを試合時間20分の間に仕留めきれず、時間切れにより、3勝1引き分けで現在に至る。自分が仕留めきれなかったマスクマンからジェニーがピンを奪って勝利している事が気に食わないのだろう。その視線にはどこか苛立ちが滲んでいるようにも見えた。
勝ち点にして8点と7点、この勝負を制した方がAブロック代表として予選を突破し、本選に進出することになる。西洋の島国のナンバー2たる邪竜か、はたまた東洋の島国の無邪気な天狐か。この試合への観客たちの注目度は高い。やがて、レフェリーが二人の間に立ち、腕を広げる。同時進行であるが故に、同じ動作が、15カ所のリングで同時に行われていた。
──そして、試合開始のゴングが鳴る。
鐘の音を合図に、東京ドームのグラウンドにしつらえられた予選リーグ用のリングを取り巻くSSS席と、外周観客席に詰める人々の魂が同時に震え、戦いの幕が上がる。
両者ともに弾かれたように駆け出した。リング中央へまっすぐ進み出たエルザに対し、ジェニーはロープ際を迂回するように駆け出したため、エルザは靴底でマットを擦ってブレーキをかけるようにして、方向転換する。それに対し、ジェニーは加速を殺さないままロープを使って反動を得ると、一気に邪竜の懐に飛び込んだ。狙うのは膝蹴りで腹を打ち抜くキッチンシンク──しかし、苦痛の声を上げたのはジェニーの方だった。
「がっ!? ……くっ、読まれたかーっ!?」
「甘いんだよ」
手のひらで膝蹴りを捌きつつ、ローリング気味のエルボーをジェニーの喉元に叩き込んだエルザが不敵に笑う。喉を押さえながら、苦し紛れに回し蹴りを放つジェニーだが、エルザはバックステップで軽々と躱してしまう。
「ハッ……無駄無駄ァ。ジェニーとか言ったな。知ってるよ、アンタのこと!」
回し蹴りの引き戻しにあわせて再度踏み込んだエルザはジェニーの胴へ掌底を叩き込み、くの字に折れた彼女の髪を掴んで動きを封じる。そのままヘッドロックに捕らえるとギリギリと頭蓋を引き絞った。
「ローラを招待しといて、試合じゃ手も足も出ずに惨敗したんだって? そんなお前が、ローラの一歩手前に居る英国ナンバー2のアタシに勝てるはずがないだろ。さっさと諦めな!」
ヘッドロックに捕らえたまま、ジェニーの身体を左右に振り回して対処を封じながらスタミナを削る。体格では身長166センチのジェニーの方が有利のはずだが、それを感じさせない怪力と、それだけではない確かな技量が彼女が「邪竜」と呼ばれるに足る存在である事を確かに示していた。普段からジェニーを応援している「ノワール・ゲート」のファンたちが目の前の光景に唸る。彼女はこれまで日本の若手ではトップクラスと目される宮川三郎太に勝るとも劣らない強さを示してきた。試合結果こそ一勝一敗であり三郎太の爆発力こそ侮れないが、試合運びや天性の技術センスは彼を凌ぎ、総合力では上とも見られてきた彼女がヘッドロックひとつを脱せず、振り回されて苦しめられている。
「り、理由になってなくない?」
「なんだと?」
苦悶しながらもエルザの腰にしがみつき、脱出の機会をうかがっているジェニーがつぶやいた言葉に興味を惹かれたか、エルザは彼女の表情を覗き込む。いや、違う。彼女は確認せずにいられなかったのだ。
「負けたから……頑張って強くなって挑むんだよね? 貴女は……エルザは諦めたの、勝つのを?」
「……ッ!?」
ジェニーはいともたやすく、無造作に邪竜の逆鱗に触れた。エルザの奥歯がギリリと噛み締められ、ヘッドロックに捕らえたジェニーを力任せに振って重心を乱し、そのまま駆けてマットを蹴って跳躍する。落下の勢いを利用してジェニーの顔面をプロレス技「ブルドッグ」の体勢で叩きつける。それは、かつてローラとベルトを争い、徐々に開いていく実力差から目を逸らすために、後から来る者を叩き潰すことで「ローラに次ぐ存在」という椅子を死守しようとする、彼女の歪んだプライドの現れだった。
「ふぎゃっ!?」
堪らず顔面を押さえてマットを転がるジェニー。もはや苛立ちを隠そうともせず、エルザは舌打ちして立ち上がり、その無様な身悶えを怒りのまなざしで見下ろし、直後、ジェニーの背中をストンピングでしたたかに踏みつけた。
「舐めたクチ利いてくれるじゃないのさ。そんな理想、邪竜ファフニールの名のもとに踏みつぶしてやる」
体重をかけてぐりぐりと踏みにじるエルザ。しかし、ジェニーの心は折れていなかった。踏みつけられる苦痛の中で、彼女は泥臭くマットを這い、エルザの軸脚の足首を掴む。バランスを崩して踏みつけていた足を下げてたたらを踏んだ彼女の隙を逃さず、ジェニーは弾けるように立ち上がり、アッパー気味に掌底を放つ。顎を打ち抜かれてエルザの青いツインテールが汗と共に舞った。
「ボクだって……踏まれて諦めるような、つまんない『遊び』はしてないんだよッ!」
エルザがのけ反ったところへ、ジェニーはその場跳びからドロップキックを放った。正面から腹部を蹴り抜かれ、衝撃を浴びたエルザが、その小柄さ故に軽々と吹き飛び、コーナーマットに背を打ち付ける。
「ぐ……ぬっ……!」
ジェニーはリング中央から助走をつけ、弾丸のように背を向けて跳んだ。狙いは強烈なヒップアタック。
「ローラさんに負けて、ボクは気づいたんだ。遊びだって、諦めないのだって、全部本気でやらなきゃ意味がないんだって!」
だが、コーナーの邪竜は逆に前進を選んだ。コーナーポストを蹴って初速を確保、ヒップアタックに威力が乗り切る最後の跳躍の寸前に背後から抱き着くようにして受け止めたのだ。
「うぇっ!?」
「口だけは達者だね! その程度の覚悟で、アタシを越えられると思ってんのかッ!」
囚われた無防備な腰を背後からエルザの細い腕ががっちりとクラッチし、絞り上げるようにギリギリと締め上げていく。エルザの得意技、パーム・トゥ・パームの手の甲をみぞおちに食い込ませるように背後から抱えて絞め上げるリバース・ベアハッグ、「トレジャー・ハッグ」ががっちりと決まっていた。苦鳴をあげて両腕を振り、バックエルボーで反撃しようとするジェニーだったが、背の低いエルザに低い重心で捕まっている為、うまく肘を当てる事ができない。その上、エルザは巧みに腰を使って捕らえた獲物の動きをコントロールしており、脱出のための動きの始まりを体重移動で妨害されてしまっていた。
「あぁっ……ぐぅぅぅ!?」
「無駄だって言ってんだろ。ローラへの道はアタシが塞いでいる。お前はたどり着けずにここで終わるのさ!」
背後から締め上げられて悶えるジェニーの姿に、観客たちから動揺の声が上がる。ねじ伏せようとする邪竜と、諦めない天狐。その姿勢の違いが、少しずつ観客の応援をジェニー贔屓へと傾け始めていた。
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熱気と喧騒が渦巻くドーム内にあって、そこだけは外界から隔絶されたように冷たく静まり返っていた。豪奢なVIP観客席の一室。EQT大会委員の一人であり、イタリアのプロレス団体のトップたちで構成される協会「F.I.L.P.(フィルプ、Federazione Italiana Lotta Professionistica)」の代表を務める老女、レジーナ・アルティエリが優雅に紅茶を嗜んでいた。夜会巻きのように高く結い上げられた豪奢な銀髪。御年70歳を迎えるその顔に刻まれた皺すらも、彼女が長年君臨してきた権威と絶対的な自信を象徴する装飾品であるかのように、堂々たる威厳を放っている。かつて、欧州マット界において「最も美しく、最も強い」と一世を風靡した伝説の美女レスラー。その面影は、冷酷な野心家としてフロントの頂点に立つ今もなお、凄みとなって彼女の全身から発せられていた。
レジーナは、日本で買い求めたというお気に入りの黒い和柄扇子を弄びながら、手元に置かれた大会の予選状況を示す資料へ視線を落とした。
「毒蛇にはあまり期待はしていませんでしたが、思ったよりあっさりと見破られたものですね」
「は。どうも初戦で敗北後に棄権していた太平プロの社長令嬢、松平美樹がなんらかのプロを手配していたようで。その後の動きは捕縛の為に最善と言っていい対処をしておりました」
口元に紅茶のカップを運びつつ、レジーナは視線を公式配信の映るモニターから外さない。
「貴方にしては絶賛するわね。まぁ、いいでしょう。我らと繋がっていた証拠はない。毒を用いる悪辣極まるゾーザ・ラ・ヴィペラの行動には我々イタリアマット界も驚かされている。彼女の追放処分に全面的に賛成する。それで終わり」
「はい、事なかれ主義の大会委員長、マッハ男爵はそれ以上追及しないでしょう。波風立てずにイベントを終える事を優先するはずです」
かつて前代表を「勇退」させ、自身の現在の地位を盤石にするために利用してきた手駒であっても、用済みとなれば一顧だにせず切り捨てる。その冷酷な判断にも、従者は微塵も動じない。それが当然の世界で生きていると言う事だ。
「しかし……イタリア勢から本選進出者が1人は欲しいですね」
「ビアンカ嬢のブロックは少々難しいかと。かのECT(アース・クェイク・トーナメント)で優勝経験のあるスイスの英雄アーチェリー・ウィリアムズの愛弟子と、スコットランドの荒ぶる猛者アダム・ベルウッド。この二名、共に排除するとなるとさすがに目立ちます。ここはビラ―ル選手に本戦に出ていただくのがよろしいのでは?」
淡々と語る従者の懐の中には、密かに一本の毒針が隠されていた。それはゾーザが残した毒が仕込まれた一品。それも、一時的な行動不能や全身不随といった生易しいものではない。正真正銘、標的をこの世界から「退場」させるための本物だ。
イタリア団体に所属するエジプト人男子レスラー。ビラールの居るNブロックは現在、「ワン・ナイト・シンデレラ」なる正体不明のオーストリア代表の覆面レスラーが全勝街道を驀進中であり、その後を追う形でビラールとアサルが成績を争っていた。
「生粋のイタリア人でないのは残念ですが、妥協もやむをえないか。そのシンデレラが最終戦でアサルに勝利した後、排除なさい。それでビラールが繰り上がりで本選進出です」
「御意」
レジーナの声には一切の躊躇が無かった。人の命など、己の権力と目的を飾るための石ころ程度にしか思っていない。その絶対的な傲慢さは、女だてらにマフィアも絡むイタリアマット界の修羅場を越え、頂点に立ってきた血塗られた経験が形作っていた。部屋を退出する従者に目もくれず、レジーナは手元の資料の、ある一葉を愛おしげにそっと撫でた。
「ビアンカ……愛しい私の白雪姫。貴女は次回大会で真の女王になればいい。今回は、そのための経験(ごあいさつ)だけで良しとしましょう」
資料に写るのは、自身の愛弟子である「白雪姫」ビアンカ。彼女は、レジーナが引きずり下ろした前代表の実の孫娘である。だが同時に、鏡のように対戦相手の技を模倣する天才的なセンスを持ち、彼女を指導したレジーナ自身の全盛期の技をも完璧に受け継いでいた。レジーナにとってビアンカの戦う姿は、かつて世界で最も美しく強かった「過去の自分」を鮮明に映し出してくれる、何でも答えてくれる『魔法の鏡』そのものであった。だからこそ、彼女なりに執着し、歪んだ愛情を注いでいるのだ。
広げた和柄扇子で口元を隠し、老魔女は一人、VIPルームの奥で優雅に毒を含んだ笑声を漏らした。
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「ハァ……ハァ……」
「そろそろ諦めたか? そらそら、どうした。ギブアップか?」
たっぷり1分強ほども絞め上げられ、ジェニーが全身を汗で濡らし、荒い息をつきながら、今まさに膝から崩れるかと思われたその時、ジェニーは動いた。マットを強く打つ音が響くと同時にエルザの身体が上へ、後ろへと引っ張られる。
「な、正気か!?」
ジェニーはマットを蹴って自ら跳んだのだ。当然エルザの腰のクラッチはそのまま、跳んだところでリバースベアハッグがバックドロップへ変わるだけだ。それは自殺に等しい判断だった──かに見えた。やむなく潰されぬようバックドロップに切り替えるエルザ。完璧なクラッチが仇となった。離さぬという執念が、ジェニーの決死の跳躍に自身を同調させてしまったのだ。
だが、そうしてブリッジしようとしたエルザの目の前でジェニーの身体が空中で僅かな間、だが強固に停止する。驚きに邪竜の目が大きく見開かれた。自ら宙を舞ったジェニーの揃えた足先──つま先がコーナーロープをひっかけていた。正確に自身とロープ、そしてコーナーの位置を把握していたのか。信じられない曲芸にエルザのクラッチが切れ、ジェニーの身体が自由を取り戻す。両のつま先をひっかけたコーナーロープを支えに、ジェニーは膝を曲げて自らの体勢を制御すると、一人マットに突っ込んでしまったエルザに向かって落下を再開する。
「ごふっ!?」
ジェニーのダブルニードロップが、無防備に晒されたエルザの腹部へ突き刺さる。
「まだまだ……! ボクは、止まらないんだから!」
マットで腹を押さえて悶絶するエルザを尻目に、ジェニーはコーナーを駆け上がる。その執念に、ジェニーの背後でエルザの眉がピクリと動く。
「……いっくぞー!」
コーナー上からジェニーが舞った。月光を背負うような美しい軌道、シューティングスタープレス。空中で一回転し、重力に従ってエルザの体へと降り注ぐ。しかし、エルザは脂汗を浮かべて腹を押さえて呻きつつも冷徹な判断力を失っていなかった。着弾の直前、回避は間に合わぬと見たエルザはマットにあおむけのまま、両膝を鋭く突き立てたのだ。
「ぎああぁっ!?」
ジェニーの腹部に、硬い膝の「剣山」が突き刺さった。月光を裂くような飛翔が、一瞬で自らを貫く矢へと変わる。自重と旋回スピードを乗せた落下エネルギーは、エルザの膝を通してジェニーの横隔膜を、内臓を、容赦なく衝撃となって突き抜けた。ジェニーは悶絶し、マットの上をのたうち回る。しかし、迎撃したエルザもすぐには起き上がれない。ダブルニードロップのダメージは強烈であり、また膝を立てて迎撃したとはいえ、ジェニーの落下の衝撃を集中して受け止めた脚もノーダメージとはいかない。彼女もまた苦悶に表情を歪めて膝を抱えた。
両者ともダウンしたままの状況に、レフェリーが僅かに戸惑いつつもダウンカウントを取り始める。
結論から言えば、ダウンカウントは6で終わった。エルザ、ジェニーの両者ともがふらつきながらもいまだ折れぬ戦意を芯にして立ち上がったのである。改めての対峙、真っ向から二人の気迫に満ちた視線が交差する。
「まだ……終わらない。もっと、もっと先へ行くんだ……『遊び』じゃなく『真剣勝負』の楽しさを知るために!」
よろめきながらも放たれたのは、技術も何もない、ただの基礎たるローキックだった。エルザの脛を穿つ泥臭い一撃。だが、その一撃に込められた「折れない意志」に、エルザは一瞬、忌々しげに視線に怒りを充満させる。
「……目障りなんだよ、その目は!」
エルザはしつこく続けて放たれるジェニーの蹴り足を強引に掴み取ると、自らの体を軸にして捩じり倒すように回転させた。必殺のドラゴンスクリュー。ジェニーの膝関節が異音を立てて捻られ、彼女は再びマットに叩きつけられた。
「がああぁぁ……ッ!?」
左膝を抱えてダウンして絶叫をあげるジェニー。
「いい加減諦めな! 届かない王者にいくら手を伸ばしたって……何もつかめやしないんだ!」
膝を庇い、腹を擦りながら、それでもエルザはコーナーポストを駆け上がった。その動きは、ジェニーのそれよりも遥かに鋭く、そして危険な香りを纏っていた。最上段で一瞬の静止。エルザのツインテールがたなびく。
「終わりにしてやる……ライトニング・プレス!!」
稲妻の名を冠し、エルザが必殺技として掲げる切札。コーナー上から宙返りで放たれるニープレスが、重力加速度を伴って、咄嗟に受け止めようとしたジェニーの両の手のひらの防壁などものともせず、その腹筋へと一直線に突き刺さった。文字通り落雷のような衝撃に。ジェニーの視界は一瞬で真っ白に染まる。
さしものジェニーも完全に脱力し、マットに沈んで動かなくった。空気を強制的に排出された苦しみからヒューヒューと苦し気な呼気が漏れる。エルザはそのまま腰の上に跨るようにしてマウントし、両手でジェニーの肩をマットに深く押しつけた。
「……アタシの宝物は奪わせない。絶対に」
滑り込んだレフェリーの掌がマットを叩く。
「ワン! ツー!」
エルザのみならず、リング上を見守る観客の誰もが終焉を確信した。だが、レフェリーのカウントが止まる。エルザは怪訝そうにレフェリーを睨みつけるが、彼はエルザの背後を指さしていた。
ジェニーの右脚が伸ばされ、サードロープに乗せられていた。
「……っ!? なぜ……なぜ返せるんだ!?」
エルザが戦慄に目を見開く。必殺の一撃を完璧に食らい、もはや意識すら混濁しているはずのジェニーの瞳には、未だ闘志の火が消えずに残っていた。その輝きは、かつてローラとの実力差に直面し、挑むことをやめてしまったエルザが、最も見たくなかった「不屈」の象徴。
エルザは苛立ちと焦燥を隠そうともせず、膝の痛みに一瞬崩れかけながらも、すぐさま立ち上がると、倒れたままのジェニーの腰を強引に引き寄せる。
「そんなに壊されたいのかい! なら、アタシがその折れない心が憎しみで歪むようなトラウマを刻みつけてやる!」
エルザが引き起こしたジェニーの背後を取り、その細い胴体を両腕で羽交い絞めにロックする。ドラゴンスープレックスの体勢だ。小柄なエルザの全身のバネを活かした投げっぱなしの荒技が、ジェニーの体を無慈悲に宙へ舞わせ、後頭部からマットへと突き刺した。
「が……ぁ……ッ!?」
ジェニーの体が力なく跳ねる。エルザは息を乱しながら、今度こそ終わったと確信し、ふらつく足取りでフォールするために近づく。だが、ジェニーは死んでいなかった。首の骨が軋むような衝撃に耐え、彼女はうつ伏せのまま、震える指先でマットを掴んで身を起こす。思わずエルザの脚が止まった。
「……あは、は……。すごい、な……。でも、ボクは……まだ、終わってないんだ……! 痛くて苦しいけど……こんなところで終わっちゃうのが、一番もったいないじゃないか!」
ジェニーは執念で立ち上がった。焦点の定まらないライラックアイにトランス状態の輝きを光らせてエルザを見据え、ふらふらと前へ歩み出す。
「こいつ、アンデッドか何かか……ッ!?」
その異様な姿に嫌悪感すら滲ませながら、追撃を狙って踏み込んできたエルザに対し、ジェニーは自身の残ったすべての反射神経を動員した。
「いっけぇぇぇ!!」
ジェニーの体が独楽のように回転し、しなるような延髄斬りがエルザの側頭部を完璧に捉えた。
「……がっ……!?」
意識を飛ばしかけたエルザの体が大きく揺らぐ。ジェニーはその隙を見逃さず、エルザの腰を深く抱え込んだ。嫌がる神宮寺をつきあわせ、フォームが完全になるまで見て貰いながら泥臭く繰り返した数々の基礎練習が、体力の限界を超えた彼女の動きを支え、思考を介さず肉体を動かしていた。
「これなら……逃げられないよ!」
息つく暇も与えず、ジェニーは正面組みからエルザの頭を押し下げ、リバースフルネルソンに固めて叫んだ。
「スターダスト……じゃなかったシャインスター・スープレックスだ!」
直後、エルザはマットに叩きつけられていた。衝撃が腰から全身に広がり、キャンバスを跳ねるようにしてマットに沈む自分の視界の変化にエルザは混乱する。
(なんだ、何が起きた? 痛い? 天井照明が見える? ……ひょっとして投げられたのか? いつの間に?)
オーストラリアの勇者、ホライズンをして「そのブリッジに星の輝きを見た」と言わしめた、ジェニーの超高速スターダスト・スープレックス。彼の言葉を元に彼女が「シャインスター・スープレックス」と名付けた瞬撃の投げ技、星屑を散りばめたような華麗な放り投げにエルザは混乱の極みに陥っていた。
ジェニーはそんなエルザの髪を掴んで、無理やり彼女を引き起こす。エルザの瞳にはもはや先ほどの冷徹さはない。あるのは、自分が捨て去ったはずの「挑む強さ」を突きつけられたことへの焦燥と、激しい動揺だった。引き起こされた彼女はジェニーのスープレックスを極度に警戒し、重心を極限まで低くして踏ん張った。いつ投げられたかすらわからないような投げへの恐怖。そしてアレをもう一度受けたら、肉体的・精神的に耐えられないかもしれない。その防御姿勢は、まさに「ローラに次ぐ」という立場を守り続けてきた彼女の精神性そのものだった。
対するジェニーは、投げれそうもないと見て、即座に判断を切り替える。天真爛漫な若きエースの姿などかなぐり捨て、地を這うように泥臭くエルザの足元へ自ら潜り込んだ。
「これ、は……っ!?」
エルザの両足が絡めとられ、マットに突っ伏すように引き倒される。ジェニーはエルザの脚を自身の脚で固めるように踏みつけると、その両腕を掴んで完璧なバランスで腰を落として反転した。吊り上げられたエルザの体が宙で反り上がり、膝と肩関節そして腰にじわじわと激痛が走り始める。神宮寺に我儘を言って必要な技術を徹底的に叩き込まれて習得に至った成果であり、泥臭く地味なものも多い関節技の中にあってその姿に言い知れぬ華のある複合間接技の一つ――ロメロ・スペシャルだ。
「あ、ぐ、ぅぅ……あぁぁぁっ!!」
文字通り、逃げ場のない激痛がエルザを襲う。だが、それ以上に彼女の心を打ち砕いたのは、自分を吊り上げているジェニーの足の震えだった。必死に、不格好に、それでも「勝つために挑み続ける」者の体温が、技を通じてエルザに流れ込んでくる。邪竜を掲げ上げたジェニーの逆転攻勢に観客たちが歓声を上げ、徐々に声援は「ジェニー」の名を連呼するコールへと変わっていく。
(……アタシは、いつからこうなった。ローラに勝てない理由を並べて、負けるのが怖くて……いつの間にか、「2位」に閉じこもって……)
脳裏に浮かぶジェニーの瞳。そこに宿る、絶望してもなお前を向く強さ。それが、停滞していたエルザの歪んだプライドを容赦なく暴いていく。必死に目を背けていた現実を、彼女は宙に吊られながら自覚した。
「……諦めてたのは……アタシの方か……」
もはや、ジェニーの「挑む」意志を跳ね返す言葉を、エルザは持っていなかった。
「……ア、アグ……っ、ギブアップだ……!」
目を閉じて、力なくエルザが負けを認める言葉を口にする。レフェリーが頷いてゴングを要請した。
カンカンカンカン!
ゴングの音が響き渡り、会場はどよめきと大歓声に包まれた。ジェニーはゆっくりと技を解き、力尽きたようにマットへ倒れ込んだ。ライラックアイを輝かせたトランスモードによるブーストも限界ギリギリだった。全身の節々が悲鳴を上げ、視界はまだチカチカと点滅している。だが、大の字になって見上げる会場の天井は、これまでのどの「遊び」よりも高く、そして輝いて見えた。
「あは……楽しか……った? ……そっか、これが楽しい真剣勝負の領域……なのかな……?」
疲労困憊の顔に、充足感に満ちた笑みが広がる。
それは「遊び」を突き詰め、真剣勝負の果てに本物の「勝利」を掴み取り、新たな領域に確かに一歩踏み込んだ、若きエースの笑顔だった。