「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
アース・クェイク・トーナメント、通称EQTの開催会場である東京ドームは、若き才能たちのぶつかり合いが織りなす戦意と熱気、そしてそれすら凌駕する数万の観客たちの感情の発露たる大歓声に包まれていた。たった1日で16ブロックの予選リーグを並行して進行するという、狂気じみた過密スケジュールも既に第14戦目。残すところわずか2試合で本選進出のベスト16が全て決定するという最終局面にあって、ドーム内のボルテージは最高潮に達している。自然と観客たちの視線は、当落線上の激しい星の潰し合いを行っているリングへと集中していた。
そんな中、熱狂の渦から切り離されたように、奇妙な空気に包まれている舞台がひとつあった。Nブロックのリング。そこで困惑をわずかに滲ませ、コーナーロープに軽く腕を預けて立っているのは、褐色肌のエジプト人女子レスラー、アサル・ザ・ジニーである。白と青を基調とし、金色の意匠がアラビアンな魅力を引き立てるセパレートタイプのリングコスチュームが、ドームの強いカクテルライトを受けて映える。休憩を挟んでいるとはいえ、日に何戦も激闘を繰り広げてきた疲労からか、彼女の滑らかな褐色の肌にはしっとりと汗が浮かんでいた。エジプト人でありながら、所属団体の都合で日本代表選手の一人としてEQTに出場している彼女は、地方団体「オトギプロレスリング」の看板を背負ってこのリングの上に立っている。現在の予選リーグの戦績は2勝1敗1引き分け。同ブロック内には既に4勝を上げ、本選進出をほぼ手中に収めている絶対的な存在がいるため、なかば消化試合に近い状況ではあったが、それでもアサルにとって相手の全勝を阻止し、意地と爪痕を残せるかどうかという重要な局面──のはずだった。
だが、対戦相手が姿を見せない。
リング上のレフェリーも困惑の色を隠せず、入場ゲートの奥に続く花道とアサルとを交互に見やりながら、盛んに耳元のインカムに手を当ててスタッフと何事か通信を繰り返している。現れるべき相手は、全勝でNブロックを蹂躙し突き進む謎の覆面レスラー「ワン・ナイト・シンデレラ」。正体不明、プロフィール非公開。三カ月ほど前に稲妻の如くオーストリアの弱小団体に現れるや否や、瞬く間に国内の話題を独り占めにして、唯一のオーストリア代表選手としてEQTへ殴り込んできたというセンセーショナルなキャラクターは、マスコミやファンの注目の的であった。それが、ここまでの予選リーグでも負けなしの確かな実力を示し続けているとなれば、なおさらだ。その正体不明の強者を前に、アサルは胸の奥で静かに、だが熱く闘志を燃やしていたはずだった。しかし、既に他のブロックでは激しい打撃音と歓声が上がり始めているというのに、シンデレラを呼び込む入場曲すら鳴る気配がない。
待つべきか、不戦勝とするか。その異常なまでの話題性故に、大会委員も即座の判断を下せず、何万もの観客を置き去りにした中途半端な空白の時間が引き起こされていた。
その頃、喧騒から隔絶されたオーストリア代表選手用控室前の静かな廊下では、EQT大会委員会付公式アドバイザーであるサカタ・ザ・ゴージャス・キンタロウが、壁によりかかって深々と溜息をついていた。
「……どうだい?」
彼が声をかけると、控室の中から大会スタッフの女性が、立ち合いの警備員を伴って首を傾げながら出て来る。
「ダメですね、もぬけの空。選手だけでなくセコンド係だった団体社長やマネージャーの姿もありません。……そしてテーブルにこれが」
スタッフから震える手で差し出された便箋を受け取り、中身に目を通したキンタロウは、そのあまりに予想外な文面に思わず乾いた苦笑を漏らした。
「これはまた……」
そこにはあまりにもショッキングな内容が記されていた。
『「これ以上の注目を浴びるのが怖くなった」との選手の希望もあり、団体として判断いたしました。一身上の都合により、本大会を棄権させていただきます。正式なご挨拶もなく、手続きを無視して帰国する不義理を心よりお詫び申し上げます』
ご丁寧に、団体社長と選手のものらしき直筆のサインまで添えられている。キンタロウは警備員に室内に争った跡や拉致されたような不審な形跡がないことを念入りに確認させると、自身の端末で外部の協力者と連絡を取った。
「……航空機の搭乗者確認がとれた。どうも連中、本当に帰国したらしい。上に伝えてくれ。オーストリア代表選手は不戦敗だ」
目を丸くしながらもインカムを通して大会委員会に報告し、大慌てで事後処理の指示を飛ばし始めるスタッフ。その横で、キンタロウは視線をふと廊下の曲がり角へと向けた。そこには、物陰から密かにこちらの様子をうかがっている不審な人影があった。キンタロウは一切の警戒を顔に出さず、ごく自然な、それでいて逃げ道を塞ぐような絶妙な立ち位置へと歩み寄りながら声をかけた。
「それで、そちらのお嬢さんはどちらさまかな? ここは関係者以外立ち入り禁止のセキュリティ区画のはずだが?」
「す、すいません……っ! その、どうしても応援の花束を届けたくて……。あの、なにかあったんですか?」
ビクッと肩を揺らし、慌てて物陰から出てきたのは、美しいラッピングが施された花束を抱えた若い女性だった。ペコペコと頭を下げる、いかにも熱心なファンらしき姿。だが、キンタロウの表情は、営業用のクールな微笑みを崩さないまま、その奥の眼光を鋭く細めた。
「生憎だね。オーストリア代表選手とそのスタッフは、急用で既に帰国済みだ。応援の挨拶や差し入れは、またの機会を待つしかないな。無論、今度は『正規の方法』で頼むよ」
「ご、ごめんなさい! あの、すぐ出ていきますので……!」
花束を抱え直し、逃げるように小走りで去っていく女性の背中を、キンタロウは静かに見送った。
「……ふーん、『素人の脚運びじゃないファン』ね」
ただの迷い込んだファンではない。花束も本当に花だけが束ねられているものなのか怪しい所だ。キンタロウの歴戦の勘は、彼女から発せられる素人と違う異質な空気を正確に嗅ぎ取っていた。だが、現時点で彼女はまだ何もしていない。立ち入り禁止区画に入っただけの人間を取り押さえるわけにはいかないのだ。だが、泳がせておくにしても、目はつけておくべきだ。スタッフや警備員と共に引き上げながら、キンタロウは素早くスマートフォンを取り出し、影幻へ不審人物の特徴と「花束」についての短い警戒メッセージを送信した。
こうして、Nブロックを席巻していた「ワン・ナイト・シンデレラ」は不戦敗で勝ち点8となると同時に大会を棄権。繰り上がりで不戦勝の2点を得て勝ち点7となった「アサル・ザ・ジニー」が、勝ち点6で足踏みしたビラールらを抜き去り、大逆転で本選進出を決めたのであった。
この信じられない幕切れの報を聞いた時、ドーム内のVIPルームにいたEQT大会委員の一人、イタリアマット界を牛耳る老女傑レジーナは、優雅な笑みを顔に貼り付けたまま、手元のお気に入りの和柄扇子を「バキリ」と真っ二つにへし折ったと言う。
しかし、意外にもこの事件は後に彼女の国許であるオーストリアのファン達には好意的に受け止められた。曰く──
「日本の舞踏会に出たシンデレラに、時差ボケの零時の鐘が鳴ってしまった」と。
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予選Cブロック、第14戦のリングで対峙する二人の姿は、あまりにも対照的だった。一方は、太平プロレスに半居候状態で興行に参加しながら目を付けた三郎太に日々つきまとう「シロオニ・ベス」こと、エリザベス・オニデスキー。アッシュブロンドのショートボブを揺らし、グレイッシュブルーの瞳に冷徹なまでの自信を宿した彼女は、黒と赤を基調とした豪華なアラベスク模様のレギンスに身を包んでいる。彼女は世界大会という大舞台に立ちながらも、その立ち姿に欠片の緊張も感じられない。凛とした表情で、堂々とリング上に佇んでいた。
対するは、カナダ代表選手の一人としてEQTに襲来した「夜の回転刃(ナイトサーキュラー)」、リック。乱れた金髪に無精髭、せり出した腹を汚れたカナダ国旗デザインのタイツに押し込んだその姿は、到底二十台の若手レスラーの姿には見えない。だが、彼は日中は陽気で優しいピザ屋の店員としてピザ生地をソースで彩る一方、興行でリングにあがれば、狂気的なシリアルキラーを演じてキャンバスを流血試合で彩る、観客を沸かせるプロの悪役(ヒール)だ。
両者ともここまで全勝の勝ち点8、いずれか勝利した方がこのCブロックを制し、本戦進出を決める事になる。
「まずはご挨拶を。私はシロオニ・ベス。どうぞ……よろしくッ!」
ゴングが鳴ると同時に、ベスが電光石火の速さで地を蹴った。挨拶を兼ねたその一撃は鋭く、重い。助走を乗せ、しなやかな脚から繰り出されたフロントキックが、リックの分厚い腹肉を真っ向から撃ち抜いた。
ズムッ! という、脂肪の壁に衝撃が吸い込まれる鈍い音が響き渡った。身長ではわずかにベスが上回るとは言え、圧倒的なウェイト差がある。にもかかわらず、想像以上の衝撃を受け、巨漢のリックが踏みとどまれず、蹴りに押されてたたらを踏んでロープ際近くまで後退してしまい、驚きに彼の目が見開かれた。この女子レスラーのパワーはあるいは自分を上回るかもしれない。文化の違いで「鬼」というものを今一つ正確に理解していないリックだったが、そのパワーがモンスター級だと言う事は認める他ない。
ベスは攻撃の手を緩めない。今度は自らロープへ飛び、反動を利用して加速。そのまま弾丸のようなショルダータックルをリックへと叩き込んだ。
「はぁっ!」
174センチの長身から放たれる全体重を乗せたぶちかまし。しかし、先の一撃で認識を改めていたリックは、今度は山のように動じない。それどころか、彼は歪んだ笑みを浮かべ、ベスの突進を真正面からその重厚な肉体で受け止めていた。今度はベスが驚く番だ。彼女の実兄であるアカオニ・トムですら一歩二歩程度は押し込めるタックルを、その場に踏ん張って押さえ込んだ事実。それはリックがただデカいだけのレスラーではなく、パワーではなく技術でこの突進を抑え込む巧者である事を示していた。
「ヒャハッ! ご丁寧にセンキューなぁ、お嬢ちゃん!!」
リックの野太い声が響く。彼はベスが離脱するより速く、その丸太のような腕を振って力強く、ボディ・スラップでベスの引き締まった脇腹を打った。
「……っ、く……!?」
平手打ちとは思えない芯まで抜ける重い衝撃の浸透に、一瞬表情が強張ったベスの動きが止まる。その隙を見逃すほど、リックは甘くない。続けてもう一発ボディ・スラップを放ち、痛みにベスの腰が引けたその瞬間、破城槌のようなパーム・ストライクで掌を鳩尾付近へと打ち込んだ。
「おごっ……!?」
かつて岩のようなとまで揶揄されたことのある、ベスの鍛え上げられた腹筋の防御をやすやすと突き抜けて、内臓が踊らされるような連撃に堪らず後退するベスを、リックは逃さない。彼は突き出た自らの腹を武器に変え、勢いよく後を追って走り込んだ。
「生地打ちで慣れた掌打さ、遅れて名乗るもおこがましいが、俺様こそが『リック・ザ・ナイトサーキュラー』だ! よろしく頼むぜ、ブラッディ・ミートプレェス!」
技名の通り、まさに肉の壁だ。リックの体当たりがベスを正面から押し潰し、その反動で彼女の体はロープ際まで吹き飛ばされた。コーナーマットに背中を強く打ちつけ、苦悶に表情を歪める。
「ヒハハッ! どーした? 押されっぱなしか? 『ホワイト・オーガ』の二つ名が泣いてるぜぇ!」
コーナーにもたれたベスめがけて、リックが巨躯を揺らしながらさらなる追撃の為に突進する。しかし、繰り出されようとしていた串刺しニーアタックは、白鬼の両手によってがっちりと受け止められていた。全体重を乗せた膝の推進力が、ベスの手のひらを通してコーナーマットの裏の金具を軋ませる。
「……心配は無用よ。舐めるなァッ!」
リックの膝を強引に振り払い、今度はベスが仕掛ける。巨漢ゆえに咄嗟の回避が遅れるリックに対し、彼の首後ろを片手で押さえるようにして、連続で胸元へエルボーを叩き込んでいく。鍛え抜かれた前腕が肉厚な胸板を叩くたびに鈍い音が響き、会場の照明を反射して汗が細かく散った。
間近に見える彼女の目に燃える闘志の炎を見て、そして彼女が不敵に笑みを浮かべているのを見て、リックも口の端を持ち上げる。大丈夫だ、細っこい女学生レスラーだとしても、この相手は「ちゃんと」盛り上げに付き合えるだけのタマだ。彼は繰り返し打ち込まれるエルボーの苦痛に耐えながら、タイツの隙間から「それ」を取り出した。彼が「ナイトサーキュラー」と呼ぶ、刃を潰したピザカッター。流血演出のための小道具だ。
「ぐおおっ!? いい根性してんじゃねーか! ……いいぜェ! なら俺の『夜の回転刃(ナイトサーキュラー)』で、その肌を真っ赤な絶望に染めてやるッ!」
リックは自身の首を捕らえているベスの髪を掴み返し、面食らった彼女を強引に引き寄せる。そして計算し尽くされた手つきで、ベスの額、髪の生え際あたりにカッターを走らせた。刃は潰れている。しかし、プロの技術で適切な角度で加えられた摩擦と圧力は、確実に皮膚を裂いた。顔面にあってもっとも浅い傷でも出血が派手になりやすい場所、そこから鮮烈な赤が、ベスの透き通るような額へ溢れ出す。
「……ああ……っ!」
アッシュブロンドの美しい髪が、額が、そして顔面が瞬く間に鮮やかな赤に染まっていく。視界を遮る温かい液体の感触に、ベスは本能的な恐怖を感じた。死闘を恐れるわけではない。結果的に流血したことだってある。ただ、彼女のプロレスの経験において、まだ意図して積極的に流血を狙う「デスマッチの論理」を携えた敵との戦いは記録されていなかった。それゆえの動揺と、目に入る血液の刺激が彼女に恐れを生んだのだ。
(大丈夫かい? 見た目ほど深い傷じゃない。試合後すぐ処置すれば痕も残らないだろうから、気を確かにね)
リックは内心で、目の前のアメリカ人少女を案じていた。だが、リングの上の彼はあくまで「シリアルキラーの怪人」だ。観客を戦慄させ、被害者を絶望させ、ヒーローを最大限に輝かせるための「悪」を演じ続けなければならない。
「いい鳴き声だァ、お嬢さん! オーガの悲鳴ってのは最高のBGMだなァッ!」
追い打ちをかけるように、リックはカッターの柄の先を、ベスの脇腹にある痛点のツボへと押し当てた。彼が「スクリーム・ピック」と呼ぶ凶器攻撃技だ。一点に集中した鋭い激痛が神経を刺激し、ベスの口から、それまで押し殺していた悲鳴が漏れる。
「あ……ぎぃぃぃぃ……ッ!?」
痛みと流血、そして視界の封鎖。絶望的な状況下で、ベスの意識は混乱しきっていた。しかし、その苦痛の奥底で、何かが弾けた。かつて太平プロレスの道場を襲撃し、宮川三郎太に敗北したあの日。酒霧と羞恥に沈む中、自身の無思慮と傲慢を突きつけられたあの日。必殺技を解体されてプライドをへし折られ、泥を啜ってでも勝とうと誓ったあの日。彼女の中で段階的に覚醒を続けていた「鬼」が、此度また、血の匂いに誘われて目を覚まし始めていたのだ。
(……踏み台。……「恋」と「敵」。……そうだ、私は、こんなところで、終わるわけにはいかない……!)
リックの腕が、彼女の顔を観客に晒そうと伸びてきた瞬間だった。ベスは獣のような俊敏さで、その腕に「文字通り」食らいついた。
「なっ……!?」
リックが驚愕の声を上げる。ベスは剥き出しの歯でリックの腕に深く噛みつき、執念だけでその動きを封じたのだ。グレイッシュブルーの瞳は、いまや血に染まって真っ赤に充血し、狂気的な光を放っている。
ベスはそのまま、怯んだリックの手から凶器たるピザカッターを力任せに奪い取った。
「……鬼に無様な声を上げさせてそのまま済むと思うなっ!」
震える声、だがそこには明確な殺気が宿っていた。ベスは奪ったカッターを逆手に握り、リックの額へと振り下ろした。
「ナイトサーキュラー……返してあげる!」
「うぎゃあああっ!?」
皮肉にも、リック自身が得意とする凶器攻撃が、彼自身の額を割った。プロの「演出」として血を流させていた男が、今度は「執念」によって血を流す側へと回ったのだ。リックは嬉々として無様に顔を押えて悲鳴をあげる。噛みついてくるとは思わなかったが、ちゃんとこの娘は演出に応えてくれた。ならば怪物として有効打に正しく怯んでその勇気を讃えなければならない。
今や神聖なリング上は凄惨な死闘の場へと一変していた。両者ともに顔面から鮮血を滴らせ、マットには不気味な赤の斑点が広がっていく。ベスはピザカッターをマットに打ち捨てると、顔を押えて悶えるリックに組み付き、その体を、脇の下から強引に抱え上げる。
「エクスプロイダーで……くッ!?」
渾身の力でリックの体を後方へと投げ飛ばす。本来なら必殺の威力を持つ投げ技だが、マットが滴った血で濡れていたことが災いした。投げの瞬間に足元で摩擦が失われ、リックの体は完全な弧を描ききれずになかば同体でマットへ落ちてしまう。
「……カハッ、滑ったか。甘いぜェ、お嬢ちゃん!」
ダメージを最小限に抑えたリックが、驚異的な反応で跳ね起きた。ホラーの怪物は撃退したかに見せても蘇り襲い来る、それがお約束だ。彼は立ち上がりざま、中途半端に投げの途中で崩れてリックの体重を浴びてしまったダメージから立ち直っていないベスを捕らえると、そのまま強引に抱え上げてマットに叩きつけた。パワースラムによって背中から広がる衝撃で、ベスの肺から空気が漏れる。追い討ちをかけるように、リックは彼女の腕をとって無理やり引き起こして捕らえた。
「ヒャッハー! さぁ、メインディッシュの時間だァ! メイプルリーフ・バックブリーカー!」
リックの必殺技が炸裂した。それはベスの顎を両手で固定し、自身の頭頂部を支点にして彼女の背骨を極限まで反らせる変形カナディアンバックブリーカーであった。
「ああああああっ!!」
会場にベスの絶叫が響き渡る。背骨がきしみ、神経が悲鳴を上げる。リックの容赦ない絞め上げに、ベスの意識は遠のきそうになる。血の雨が降るリングで、白い鬼は最大の窮地に立たされていた。
「……あ、あ、あああぁぁぁ……っ!!」
額を割られた傷から溢れ出す鮮血が、反り返った彼女が揺すられるたびにマットに小さな飛沫の模様を描く。
(さぁ、正念場だよ。シロオニ・ベス。君は恐怖の怪人に追われて悲劇に沈む「被害者」かい? それとも勇気と知恵で怪人を撃退する「ヒーロー」なのか? 観客の熱狂に相応しい選択は、どちらだい?)
リックは内心、苛烈な関節技の前にその細い背中が折れてしまわないかと冷や冷やしていたが、リング上の「夜の回転刃」としての顔は、狂気的な悦びに歪んでいた。
「ヒハハッ! もっと鳴け、もっと絶望しろ! それともギブアップしちまうのかぁッ!?」
リックは情け容赦なく腰を落とし、さらに反りの角度を深くする。ベスの意識は遠のき、視界は真っ赤な霧に包まれていた。だが、その朦朧とした意識の中で、彼女はかつて味わった屈辱と、それを乗り越えてきた自負を必死に手繰り寄せていた。
(私は……シロオニ……。こんな、こんな偽物の殺人鬼に……屈するわけに……いくか……!)
ベスの指先が、リックの太い腕に触れる。力が入らないはずの指が、執念だけでリックの肌に爪を立てた。その刹那、ベスの全身に「鬼」の力が再燃する。彼女は極限まで反らされた反動を利用し、全体重をかけて身をよじった。
「……離せぇッ!」
驚異的な粘りでバックブリーカーを強引に脱出するベス。着地と同時に背筋に走る痛みの余韻にマットに手をついて頭を振るが、その瞳にはリックを戦慄させるほどの冷徹な闘志が宿っていた。リックは内心でその折れぬ魂を絶賛しつつも、即座に体勢を立て直し、大きく跳躍した。まだ正念場は終わっていない、脱しただけでは怪人は退けられないのだ。
「休んでる暇はねェぜ、お嬢ちゃん!!」
顔面血塗れの怪人が、エルボードロップで空中からベスの体を目掛けて降り注ぐ。直撃すれば、もはや立ち上がれるか分からない。しかし、ベスは紙一重のところで横に転がった。
激しい衝撃と共にマットが大きく波打つ。自爆したリックの右肘に、激痛が走る。その僅かな隙を、白鬼は見逃さなかった。
「……空を舞うには、貴方の身体は少々不向きだわね…! お手本よ、見なさい!」
フラフラとした足取りながら、ベスはコーナーを駆け上がった。額からの流血は止まっていない。激しい呼吸をするたびに、血の雫が落ちる。それは、不謹慎なほどに美しい「死の舞」の予兆だった。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
ベスはトップロープから迷わず身を投げた。フライング・ボディアタックだ。空中で血の飛沫を散らしながら舞うベスがリックの巨体へと衝突する。
「ぐわぁぁぁぁ!?」
自爆のダメージで起き上がれずにいたリックは、その重厚な肉弾戦を真っ向から受け止め、マットに沈んだ。だが、ベスの攻撃はこれで終わりではない。彼女は自らをも苛む衝撃の余韻を噛み殺し、マットを叩いて跳ね起きながら、リックの髪を掴んで無理やり引き起こしてその背後をとった。
「まだ……まだよ! 貴方を完璧に叩き潰す……!」
ベスは仰向けのリックを肩の上に担ぎ上げる。アルゼンチン・バックブリーカーの体勢。本来なら女学生の細腕で持ち上げられるはずのない重量級のリックだが、自他ともに鬼と呼ぶベスのパワーは普通の女子レスラーとは違う。
「な、何ィ!?」
彼女はマットを力強く踏みしめ、堂々たる姿勢でその巨体を宙へと浮かせた。
「白鬼……金棒落としッ!!」
アルゼンチン・バックブリーカーの姿勢からそのまま垂直に、シットダウン式でリックの頭頂部をマットへと突き刺す変形のバーニングハンマー。脳天を直撃する衝撃に、リックの意識は一瞬で白濁した。首が折れかねないほどの威力に、観客席からは悲鳴に似た歓声が沸き起こる。
「……カハッ! こ、これが……本物のオーガ……」
意識が混濁する中、リックは自らの流血を拭いながら、なおも笑った。自分の演出した惨劇を、この少女は自らの執念で本物の地獄へと塗り替えた。その覚悟に、プロレスラーとしての敬意が溢れ出す。観客の視線に敏感な彼はドームのグラウンドに並んだ16基のリングでも、一二を争う勢いで現在このリングに観客の注目が集まっている事を察していた。
(観客の選択はなされたようだね。本戦のリングを盛り上げるのも興味はあったけど……いいよ、シロオニ・ベス。君を怪人を打ち倒す「ヒーロー」として認めよう)
リックは最後の力を振り絞り、ふらつきながらも立ち上がった。
「血を見て……火がついたってか……? ヒハハッ……!」
恐怖の怪人は一度倒したかに見えても立ち上がってくる、そういうものだ。だが、そこに待ち構えていたのは、ベスが辿り着いた「解」だった。ベスもまた眩暈と全身のダメージによろめきながらもリックに正面から掴みかかる。
「これで、とどめよ。貴方は……不愉快ですけど面白い『敵』でした」
リックの腹の前で自らの両腕を交差させ、がっちりとロックしたクロスアームの体勢。リックは逃れようとするが、血と汗で滑るはずのベスの腕は、不思議と万力のように固定されていた。
「視界もきかねえのに……迷いのないロックじゃねえか……! いいぜ、来い」
リックの言葉を待って、ベスはその108キロを真っ直ぐに抱え上げた。脳裏をよぎるのは、幾多の強敵との死闘。兄に認められた一撃。好敵手への想い。そこへこの怪人も加わるのだ。プライドを捨て、勝利への執念に目覚めた「白鬼」の真骨頂が、今ここに結実する。
「W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)ッ!!」
高く掲げられた恐怖の怪人が、爆発的な加速と共にマットへ叩きつけられた。
リング全体が悲鳴を上げるような轟音が響き渡る。
リックの巨体はマットで大きく跳ね、その後、ぴくりとも動かなくなった。ベスはそのまま、崩れ落ちるようにリックの体の上に倒れ込み、フォールの体勢に固める。
「ワン! ツー! ……スリーッ!!」
レフェリーの手がマットを三回叩いた。直後、終了を告げるゴングの音が、血の匂いが漂う会場に鳴り響く。
試合が終わったあとも、場内はしばらく静まり返っていた。真っ赤に染まったアッシュブロンド、ズタズタになったレギンス、そして何より、血の惨劇を呼ぶ恐怖の怪人を沈めた少女の姿に、観客は言葉を失っていたのだ。
やがて、わずかに意識を取り戻したリックが、力なく天井を見上げながら呟いた。
「……ハッ、完敗だ。最高の……レッド・オーガだったぜ……」
危うくヒーローと言いかけ、言葉を選ぶリック。彼は敗北の味を噛み締めながら、最大級の敬意を込めて、滲む視界に映る目の前の赤いシルエットにその名を贈った。血の海の中で立ち上がる彼女は、誰の目にも真っ赤な鬼に見えたからだ。ようやく観客たちから拍手が上がり始め、それはやがて熱狂の大声援へと変化していく。鮮血の戦場を潜り抜け、怪人を打ち倒した鬼の姫を、ヒーローと認めた感動の絶叫。リックは客に提供した商品が満足の一品に仕上がった事に満足の笑みを浮かべる。
しかし、当のヒーローは満足どころか不満を満面に浮かべていた。ベスの眉間に青筋が浮かび、苛立ちすら見て取れる。彼女は乱れた呼吸を整え、額の血を乱暴に拭い去ると、リックを見下ろして声を荒らげた。
「……誰がレッド・オーガですか! 私は『シロオニ(白鬼)』・ベスなんですけど!?」
勝利の余韻も、鬼の冷徹さもどこへやら。そこには、自分のアイデンティティを汚されたことに憤慨する、一人の自信家な少女の姿があった。観客の声が一瞬の戸惑いを経て、大爆笑へと変わっていく。「笑うところではありません……ッ!」とリング外を指さして叫ぶベスを目にして、リックもたまらず吹き出してしまった。
ベスは腰に手を当て、不満を露わにしながら、セコンドの太平プロレスの練習生から受け取ったタオルで顔を拭い、額を押さえる。倒れ伏したままフランクに手を振るリックをジト目で睨み、そして、僅かに微笑んだ。
フラフラとした足取りでリングを後にしたベスの背中は、確かに以前よりも一回り大きく、そしてたくましく見えた。