「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
EQT(アース・クェイク・トーナメント)、予選リーグの最終戦となる第15戦。1試合20分一本勝負とは言え16ブロックの総当たり戦をたった1日で消化するという狂気のスケジュールにも関わらず、会場内の観客たちはいまだその多くが席を離れずに、最後まで目に焼き付けようとリングを見守っていた。その中にあって東京ドームのグラウンドに設営されたリングの内の一つ、日本代表選手同士の試合が行われようとしているPブロックのリングをとりまくSSS席では開始前から異様なテンションの熱が渦を巻いていた。
「Cute!」「Oh, Angel!」「カワイイ!」
観客たちが黄色い声を向けているのはリング上のコーナーに佇む一人のレスラーだ。団体「ノワール・ゲート」に所属する雨宮月は青髪のボブカットを揺らし、三日月をあしらった可憐な衣装を纏って緊張した面持ちを浮かべつつもリング外へ笑顔で手を振って声援に応えていた。その姿は、どこからどう見ても無垢な美少女そのものであり、現に今も何が琴線に触れたのか、海外客からちぎれんばかりの歓声とフラッシュが浴びせられている。
だが、その甘やかな喧騒は、相手選手の奇襲により切り裂かれるように色合いを変えた。
「ニャハハ! 油断大敵だニャン!」
まだ試合開始のゴング前にも関わらず、月の華奢な背後に、黒い影が張り付いていた。黒髪のショートボブに猫耳飾りを乗せ、そして煽情的に肌を晒す網目のワンピース。悪役(ヒール)女子レスラーの記号をこれでもかと詰め込んだ女、太平プロレスのカオスの化身こと、ガータ御子柴である。
ジャラッ! という無機質な金属音と共に、御子柴の手に握られた細いスチール製の鎖が、不意打ちで月の首に巻き付けられる。
「えっ、まだ……うわぁ!?」
抗議の声は遮られ、悲鳴すらまともに上げさせず、御子柴はチェーンで首を締め上げたまま、月をロープ際沿いに荒々しく引きずり回す。片手の指をかろうじて鎖と首の間に挟むことで頸動脈の圧迫から逃れつつも、気道をふさがれて苦しみ喘ぐ月。リングマットに衣装が擦れ、苦悶の表情がスポットライトに晒されていた。四つん這いの月が御子柴に引き回されるその姿はまるで犬の散歩のようであり、それを黒の女性ヒールと可憐な青い美少女が構成しているように見えると言う事実は、どこか背徳的な情景を脳裏に連想させる。観客席は困惑と歓喜と怒りと興奮がないまぜになったどよめきに包まれていた。
慌てたレフェリーがしきりに時計を気にしながらもゴングを要請し、やむを得ないと判断したか、他のリングに先駆けてPブロックリングのみ、前倒して試合開始のゴングが打ち鳴らされた。
カーン!
遅ればせながら涼やかな鐘の音色が、無残な公開処刑の開幕を告げるかのように鳴り響く。それと同時に御子柴は首のチェーンを解き放つが、それは慈悲ではない。咳き込む月の美しい青髪を無造作に鷲掴みにすると、そのままロープの下から転がし押し出すようにして、月を場外の硬い床へと放り捨てたのだ。
「うあぁ……ッ!?」
リング下の薄いマットに落ちて身悶えする月を追って、御子柴がリング下に降りて来る。ゴング前の奇襲からの試合開始早々の場外乱闘という、まさかの展開の連続にリング周囲の観客たちから緊張と共に注目が集まる。
「そうそう、可愛い顔して中身は……男なんだったよな、お前? ニャハハ!」
邪悪な笑みを満面に浮かべて御子柴は月を見下ろす。そのドスを効かせた御子柴の嘲笑の言葉の意味に耳を疑ってか、海外客の多い観客席がざわめき始める。御子柴は月を引き起こしてハンマースローで鉄柵に振った。
「ケケケ、初見で勘違いしたお客さんがさぁ? 実は男のコだと知って絶望するとこ見たいニャア♡」
配信映像ではAIが同時通訳をかけているため、公式配信をイヤホンで聞きながら試合を見守っていた観客たち、そして日本語を理解できる客たちはその台詞から意図を察して一斉に顔色を変える。だが、御子柴の凶行は止まらない。リングサイドの鉄柵にもたれかかるように崩れ落ちた月に迫ると、その黒いリングシューズを正確に振り下ろした。
「ぅあッ!?」
鋭いストンピングが、月の下腹部を無慈悲に捉える。月は身を丸めて声にならない痛みに耐えるが、御子柴は足を離さない。それどころか、じわりと体重をかけ、底意地の悪い笑みを浮かべて靴裏で踏みにじり始めた。
「痛いかニャ? それとも……イイのかニャ?」
苦痛と羞恥で月は頬を染め、表情を歪ませる。御子柴はさらにサディスティックな笑みを深めると、ゆっくりと屈み込み、カギヅメのように手を開いて月へと伸ばした。それはクロー技だった。本来は顔面や腹などを掴んで握力で相手の体力や気力を削るパフォーマンス寄りの技であり、アイアンクローやストマッククローと呼ばれる。だが、これはいわゆるグレープフルーツクロー、彼女の指先は、月の下腹部のさらに下を掴んでいた。
「あ、あぁ……や、やめて……っ」
目を潤ませて拒絶の言葉を口にする月に対して、御子柴は花が咲くような笑顔で応えた。
「えへ♡」
観客たちは絶望した。彼女の言葉が嘘ではない事を、これから自分たちは見せつけられるのだと理解してしまったが故に。
────────────────────
東京ドーム内、VIP用に設けられた特別観客席の一室でEQT大会委員の一人、レジーナ・アルティエリは各ブロックのリングの試合模様を見るとはなしに眺めつつ、溜息をついていた。その原因は今も彼女の背後で食い下がる従者である。
「まだアサルを排除すれば、ビラールの本戦進出は可能です。ほんの一突きで済むこと……」
焦りを滲ませる従者の提案に、レジーナは手にした扇子でピシリと自分の膝を叩いた。
「見事シンデレラに一本取られたのは事実。これ以上あがくような真似は見苦しいだけです」
先の暗殺指令は空振りに終わった。全勝した「ワン・ナイト・シンデレラ」を仕留めるはずが、最終戦のアサルの前に現れず、不戦敗から棄権でそのまま逃げ去るように団体社長ともども姿を消してしまったからだ。その結果、勝ち点2がアサルに加算されビラ―ルを追い抜いてしまい、計算は大いに狂ってしまった。失敗の報告と経緯を耳にした時はレジーナも怒りのあまり、お気に入りの和柄扇子を一本へしおってしまったものだが、今は既に済んだことと落ち着きを取り戻している。
別にシンデレラとてレジーナたちの企てを知って逃げたわけではない。大舞台と集まる注目に恐れをなしての帰国だ。彼女は見下すだけの女ではない。レジーナ個人としてはその実力と裏腹の心根、そして正体不明さに、好意寄りの興味すら抱いていた。帰国したら調べてみて招待してみるのも興行的に面白いかもしれないとまでぼんやり考える程に。
「潮時よ、此度は潔くここまでにします」
経験上、つまらないケチがつく時は粘ってもいい事はない。レジーナはそう結論づけていた。EQT予選という舞台は秘蔵の愛弟子の経験値にはなったのだ、本命は次回大会で結構。今回無理に本戦出場者を出して国の顔を立てても、それに見合うリターンが見込めないなら意味はない。
だが、従者は退かない。退けないらしい。
「し、しかし……!」
「……暗部のメンツ、ですか?」
レジーナは心底から退屈そうにため息をつくと、冷めた紅茶をサイドテーブルへ置いた。
「……どうしてもと言うなら好きになさい。けれど私は関知しない。報酬にもならない無駄な仕事になるわよ?」
「ご配慮、感謝いたします」
恭しく一礼し、指示のために退出する従者の背中を、レジーナは冷ややかな目で見送った。
「これだからマフィア上がりは」
一人になった室内でレジーナは吐き捨てる。彼女は若い頃国内最強の……いや、欧州最強の女子レスラーであった。しかし、そこから政治的に成り上がるためには腕っぷしだけではどうにもならないことばかりであり、その過程で後ろ暗い連中とも関わって来た。そんな協力者に彼女は十分なリターンをもたらし、良好な関係を築き続けているが、そこから彼女専属になった暗部の人間はどうやら古巣の習性が抜けきらないらしい。
「……まぁ、それも人の業という事かしらね」
一方で彼女は自分も他人の事を言えた義理ではないな、とも思っていた。つい先ほどシンデレラの強さに興味を惹かれていたのは、かつてレスラーとしてリング上で強者を求めた己の業ゆえのことなのかもしれない。ならば、見方を変えれば同じことか、と──
「三つ子の魂、百まで」とかいう格言が、博識な彼女の脳裏をかすめた。
────────────────────
先程までの「Cute!」という熱狂は嘘のように消え失せ、Pブロックのリング周辺にはお通夜のような異様な空気が漂っている。
「Oh, my god……Trap……(なんてことだ……罠だ……)」「Beautiful boy……(美しい少年じゃないか……)」「Actually, a boy is fine too.(もう、男の娘でもいいんじゃないか……?)」
頭を抱えて天を仰ぐ者、十字を切る者、あまりの衝撃に言葉を失う者、そして新たな扉に手をかけてしまう者。海外客たちが様々な葛藤に苛まれる中、御子柴だけが満足げな笑い声を響かせていた。
「ニャハハハ! 思った通り、皆イイ顔してるニャ!」
恥ずかしい姿を大観衆の前に晒され、月は顔を真っ赤に染めて涙目になりながら蹲る。御子柴はその首根っこを乱暴に掴み上げると、まるでボロ布でも扱うかのように、エプロンからリング上へと押し戻した。
「さあ、お遊びはここまでだニャ!」
場外での蹂躙を終え、御子柴がセカンドロープを跨いでロープ間を潜り抜けるようにリングインする。辱めを受け、心身共に削られた月もまた、乱れたコスチュームを整えながら、震える足でどうにか立ち上がろうとした。だが――。
「まぁ、逃げんなよ。たっぷり可愛がってやるニャ!」
背後から、御子柴が蛇のように月の身体を絡めとった。繰り出されたのは、かつての伝説、ザ・モモタロウが得意とした「モモ・スペシャル、その2」であり、それを使うようになった三郎太への対抗意識から、最近では御子柴にとっても得意技の一つとなりつつある複合関節技「アグラツイスト」だ。背後から月の両脚をインディアン・デスロックに捕らえることで胡坐をかくような姿勢に固定し、そのまま上半身をコブラツイストの要領で締め上げる。全身のバネと体重を乗せた、凶悪極まる極め技である。
「あっ……ぅああッ!?」
細い月の体が限界まで反らされ、みしみしと骨が悲鳴を上げる。御子柴は苦悶する月の耳元で、ねっとりと囁いた。
「ほら、痛いニャ? どうする男の娘~? 辱められたまま、ギブアップしちまうのかニャ?」
精神的にも肉体的にも月を追い詰める残虐な問いかけ。だが、月にもプロレスラーとしての意地とプライドがある。そんな言われ方をしておめおめギブアップ宣言などどうしてできようか。脚を砕くような激痛と、引き攣れる脇腹の痛みに歯を食いしばり、月は必死に腕を伸ばす。リング下で蹂躙され、晒し者にされた屈辱。だが、その瞳の奥には決して消えない反逆の火が灯っていた。あと数センチ。血の滲むような思いで伸ばした指先が、ようやくロープを掴む。
「……ブレイク! ロープブレイクだ!」
レフェリーが慌てて割って入り、御子柴を月からはぎ取る。解放された月は、痛みに身を震わせながらロープにすがりつくようにしてもたれかかった。
チッ、と舌打ちした御子柴は、再び獲物をいたぶろうと、月がロープから離れるのを待ち構える。しかし――ゆっくりと振り返った月の纏う空気は、先ほどまでとは完全に一変していた。前髪の隙間から覗く瞳は、ひどく冷たく、そして鋭い。
「……ボク、怒っちゃいましたよ?」
ゾッとするほど低い、だが透き通った声。
「『そういう試合』がお好みだっていうなら、ボクも望み通りにしてあげます」
その言葉が終わるか終わらないかの刹那。月は電光石火の踏み込みで間合いを詰め、御子柴の頬を強烈に張り飛ばした。
――パァァァンッ!!
乾いた破裂音が、どよめく会場を強引に静まり返らせる。
「ふぁっ!?」
脳髄を揺らすようなビンタに一瞬呆けた御子柴だったが、すぐに事態を理解して頭に血を昇らせた。
「この……ッ!」
張り返そうと右腕を大きく振りかぶる御子柴。だが、その反撃の腕は、空気を裂くような鋭い蹴りによって弾き返された。
「ニャッ!?」
的確に右腕を打ち据える、恐ろしくキレのあるハイキック。想定外の痛みに、御子柴の顔が驚愕に歪む。ここから、可憐な「男の娘」による、残酷なまでの反撃が始まろうとしていた。
月の得意とするコンビネーションキックが、御子柴の白い肌へ次々と叩き込まれる。右、左、そして鋭い回し蹴り。
「あっ! くぅ……ッ!? ひィンっ♡」
それはまるで、女王が奴隷を鞭打つかのような、正確で冷徹な打撃だった。いつものように咄嗟に艶めいた悲鳴を上げ、余裕をアピールして隙を窺おうとする御子柴。だが、月の表情にはまったく動揺の色が見られない。むしろ、受けた辱めで頬を紅潮させたまま、氷のように冷たい笑みを浮かべて見下ろしている。その異様な眼差しに、御子柴の奥底で、演技ではないゾクリとした興奮がうごめいた。
「もっと鳴いてよ。プロの悪役レスラーなんでしょ? 劣勢でもお客さんに喜んでもらわなきゃ」
冷徹な宣告とともに放たれたソバットが、御子柴の鳩尾を深々とえぐる。
「おうっ……♡」
肺から空気が強制的に押し出され、御子柴の身体がくの字に折れ曲がる。だが、苦悶に歪むその顔の裏で、彼女の瞳には異様な熱が宿り始めていた。御子柴は自らのプロフィールに「サディストでマゾヒスト」と記載している。それは悪役の毒々しさを際立たせるためのギミックであり、劣勢時に相手を油断させるブラフでもある。だが――完全に嘘というわけでもなかった。本来、その被虐嗜好は密かに愛する三郎太に対してのみ向けられるものだ。しかし今、月が放つ絶対的な支配者の視線に、かつてリベンジマッチで三郎太から向けられた眼差しを、御子柴は一瞬重ね合わせてしまったのだ。
月は容赦しない。前のめりに崩れ落ち、背を丸めて震える御子柴の横っ腹へ、無慈悲なサッカーボールキックを蹴り込んだ。
「ああン……ッ♡」
肉と骨がぶつかり合う鈍い音が響き、生々しい悲鳴を上げた御子柴の身体がマットの上をごろりと転がる。
「だんだんいい声になって来たね……?」
月の声は、先ほどまでの可憐な少年のものとは到底思えないほどに冷え切っていた。それはもはや、辱めを受けたことへの単純な復讐ではない。相手の底にある本性を力ずくで引きずり出そうとする、支配者の声だ。うつぶせに倒れ伏す御子柴の両脚を反らして両脇で挟み込むと、月はその両手首を取って宙吊りにした。
カンパーナ――。背骨が逆方向に大きくしなり、極限まで引き絞られる。
「あ、が……あぁぁっ……!」
御子柴の口から漏れるのは、単なる痛みの悲鳴ではなかった。宙吊りにされて振り子のように揺られるという屈辱的な体勢に晒されながら、その顔は苦痛に歪むと同時に熱く赤らみ、陶酔しきった恍惚の色が混じり合っている。彼女の内に潜むマゾヒズムが、月の冷徹な責めによって強制的に開花しつつあったのだ。月による鮮やかな逆転攻勢。観客たちも沸き返ってはいるが、その歓声には明らかな戸惑いの色が混じっていた。
悪逆非道なヒールの暴虐から一転、善玉の逆襲により悪が追い詰められている。構図としてはそれで間違いない。そのはずなのだが──。
一分近く責め立てても決して心を折らない御子柴に業を煮やし、月は技を解いた。そして引き起こした御子柴の腰を、背後からガッチリと抱え込む。熱い吐息を漏らし、ふらつきながら逃れようとする御子柴の抵抗を許さず、一気に後方へと反り投げた。高角度のバックドロップが炸裂し、御子柴の後頭部がキャンバスに叩きつけられる。
「ぎゃう……ッ!」
だが、月の追撃は止まらない。脳震盪を起こして視線を彷徨わせる御子柴を力ずくで再度引き起こすと、正面から彼女の脇の下へ頭を突っ込み、その腕ごと腰を両手でクラッチした。ノーザンライト・スープレックスの始動体勢。投げる直前、月は御子柴にそっと囁いた。
「宮川さんに貴女が負けた時も、この技だったんだってね? ……さぁ、よく思い出して」
「あ……♡」
その言葉は、御子柴にとって最大のトラウマを抉る凶器であり、同時に抗いがたい悦楽の引き金でもあった。投げ飛ばされた瞬間、御子柴は絶叫した。敗北への恐怖と、かつて自分を屈服させた男――三郎太への屈折した情愛が入り混じった、狂気的な叫びだった。
「あ……あああああああぁぁぁ……ッ♡」
御子柴の身体が宙を舞う。月の美しいブリッジがリング上に虹をかけ、御子柴は真っ逆さまに落下してマットへ突き刺さった。観客が息を呑み、滑り込んだレフェリーの手元にすべての視線が集中する。
「ワン! ツー!」
完全に決まったかに見えた。だが、レフェリーの手が三度目のカウントのためにマットを叩こうとしたその刹那。御子柴の身体が、痙攣するように跳ね上がった。カウント2.9でのキックアウト。
フォールを強引に跳ね除けた御子柴は、なりふり構わず、そのままの勢いで至近距離から月の股間へと裏拳を叩き込んだ。
「ぐ、あぁっ……!?」
想定外の、そしてあまりに非道で的確な急所への反撃。月の表情が驚愕と激痛に染まり、悶絶してマットを転げまわる。その隙に、御子柴は被虐の悦びに震える脚を叱咤し、ふらつきながらもコーナーポストへと這い上がっていた。その瞳は完全にトランス状態にあり、焦点など定まっていない。
「ニャ、ニャハ……イイぜ……最高だニャ、お前ぇ……! もっと、もっとだニャン!」
狂気を孕んだ笑い声とともに、御子柴はコーナーの頂上から大きく跳躍した。全体重を乗せたダイビング・フットスタンプが、月の薄い胸板を無慈悲に撃ち抜く。
「がはっ!?」
肺から残りの空気が完全に絞り出され、月は身をよじらせて激しく身悶える。呼吸を奪われ、涙をこぼして金魚のように口を開閉する月。だが、御子柴の蹂躙はまだ終わらない。彼女はまるで獲物を樹上へ引き上げるネコ科の猛獣のような滑らかさで、月を強引にコーナーの最上段へと連行した。自らも雪崩式の体勢に入り、荒い息をつく月の脚と肩をロックして、その身体を高く担ぎ上げる。
「一緒にイこうぜ……。 アビスキャットドライバーぁ!!」
叫びとともにコーナーを蹴り出し、御子柴は抱えた月の身体を空中で水平に転回。雪崩式変形スパインバスターの体勢で宙を舞う。もはや抵抗する術はない。月は御子柴に組み伏せられ、下敷きになったまま垂直に落下してマットに沈んだ。轟音とともに、月の視界から色が消え、背骨を伝って脳を突き抜ける衝撃。肺の空気が完全に外へ叩き出され、心臓が一度止まったかのような錯覚に陥る。月はピクリとも動けず、ただ焦点の定まらない瞳でドームの天井照明を仰ぐしかなかった。
轟音の余韻を飲み込むように、静寂がリング周辺を支配した。
「ワン! ツー! ……スリー!」
非情なるスリーカウントがマットを叩き、試合終了を告げるゴングが打ち鳴らされる。勝者はガータ御子柴。
だが、場内に歓声は起こらない。あるのは、常軌を逸した死闘を目の当たりにし、完全に理解を置き去りにされた観客たちの戸惑いと沈黙だけだ。リング上で汗まみれになりながら横たわる二人。御子柴は荒い息を吐きながら、朦朧としている月の耳元で小さく笑いかけた。
「見ろよ、外周の観客席の連中、他の予選ブロックのリングそっちのけで俺らを見てやがるニャ。意外と受けてるんじゃないかニャ? ……そのうちまたやろうか?」
月は全身の痛みに顔を歪めながらも、プロとしての矜持を保ち、わずかに口角を上げた。
「……プロですねー。理解はできますけど、個人的にはどちらかと言うとまっぴらです」
かつて対抗戦でベスを相手に、再戦を誓う握手で試合を終えた月だったが、御子柴の歪んだ世界観にはどうやらついていけないらしかった。
「ケケケ」
すげなく拒絶されてなお、御子柴は無邪気な……いや、邪悪極まる笑顔を浮かべる。試合中、互いの羞恥心をあそこまで抉り合ったことなど無かったかのような屈託のなさ。それは、観客には決して届かない、互いの特異な実力を認め合った者同士のドライな対話だった。
やがて、客席のそこかしこからパラパラと拍手が起こり始めた。それは清々しいスポーツマンシップへの称賛などではない。あまりに濃密で異常な「何か」を見せつけられた者たちが、その熱量に当てられ、認めざるを得なくなった末の……どこか共犯者になってしまったかのような、毒された拍手だった。
「JAPANのhentai恐るべし……」
この世界大会で行われた日本人選手同士の闘いを、客席で目に焼き付けた外国人観客から漏れたこの一言が、この異常な試合のすべてを物語っていた。観客席で見守っていた黒武術の女闘士、スーツ姿の黒木麗羅は、救いようのないものを見るような目で深い溜息をつく。その隣では御子柴の所属する太平プロの社長令嬢である松平美樹が、耳まで真っ赤にして膝の上の拳をワナワナと震わせていた。
この勝利により、御子柴は4勝1敗の勝ち点8となり、勝ち点5の月とシャオを引き離して、予選Pブロック勝ち点トップで本戦進出が決定した。なお、彼女の1敗が例によって「反則負け」裁定によるものであることは、最早言うまでもないことであろう。
────────────────────
その技は「ダークネス・アロー」と言った。
「ファンとして『花束』の使いまわしはレスラーに失礼だろう?」
アサルが居るはずのオトギプロ所属選手の控室に続く通路。その陰から現れた影幻が静かに歩み寄ったかに見えた、次の瞬間。女の手から花束が蹴散らされ、膝裏を正確に打たれ、顎先を掠められて脳を激しく揺らされていた。先刻、シンデレラのファンを装ってキンタロウをやり過ごしたはずの工作員の女は、驚愕に目を見開いたままその場に崩れ落ちる。「ルーポ・ディ・ジェッソ」のコードネームを持ち、マフィアの暗部で幾多の屍を越えてきたはずの彼女の網膜が、影幻の動きをまったく捉えきれなかったのだ。どうやら蹴りを放たれたようだが、それも一撃や二撃ではない。
擬態は最初から見破られており、何より白兵戦闘能力の差が歴然すぎた。
「……残念だが、ここまでだ」
神速の制圧を受け、ぐらつく視界の中で彼女は悟る。もはや逃げ場はない。
「……確かに、ここまでのようね。ただ、その追及も──ですが」
女は不敵に微笑むと、指先のわずかな動きだけで袖口から一本の毒針を滑り出させた。それは「毒蛇」ゾーザ・ラ・ヴィペラが残した一品にして、必殺の牙。あくまで花束は目を引き付けるための囮。目の前の男には敵いそうもないが、彼女にもイタリアのマフィアの間で恐れられた使い手としてのプライドがある。
「チッ、こいつ……自分に毒針を!」
証拠隠滅、そして組織への殉職。鋭い針が躊躇なく彼女自身の首筋を貫き、影幻が手を伸ばすよりも早く、その体は糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちた。
そして。
「……すやすや。……すぴー」
彼女は健やかな眠りに落ちていた。
「…………おい。どうなっている。致死毒と言う話じゃなかったのか?」
黒武術の総帥をして真面目に困惑せざるを得ないほどの、あまりにも無防備で幸せそうな寝息。壮絶な自決を遂げたはずの女は、床に転がるや否や、まるで春の陽だまりに微睡むような安らかな顔で弛緩しきっていた。
『はー? 動けない相手なら好きにできるだろ。ヤるなら自分でやれよってハナシ。毒だけよこせとか言って、責任押し付けられても困るよねー。ひひ』
『――などと供述しており』
影幻のポケットの中でスピーカーモードにしたまま収まっていたスマートフォンから聞こえる、捕縛拘留中の「毒蛇」のふざけた言い分と、監視役であるキンタロウの呆れたような報告。それを聞きながら、影幻はやれやれと頭を掻いた。
そのチョークを齧った狼は、静かに寝息を立て続けていた。