「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
遅い昼食を終えた太平プロの居間には、湯気の立つ急須と湯呑みがいくつも並び、どこか微睡むような空気が漂っていた。台所では松平林吾の妻が食器を洗っており、手持ち無沙汰で居心地の悪さを気にしたオトギプロのマネージャーがそれを手伝っている。
その場には太平プロとオトギプロのベテランレスラーたちが集っていた。EQT(アース・クェイク・トーナメント)は若手と軽量級限定の世界大会であり、出る事の叶わぬ彼らは、今参戦している後進たちの活躍をここから見守っていたのである。関係者用のチケットで会場へ足を運ばないのは、用意される席がドーム外周であり、そこからではリングが遠くてよく見えないという事情に由来する。要するに、TV中継で見た方がマシだと言う事だ。居間の奥では、湯呑を置く小さな音や、台所の水音が静かに響いていた。
テレビではそんなEQT予選の試合が中継され、放送局が付与した実況と解説を添えて流されていた。
太平プロレスの団体社長兼半引退レスラーである林吾は座布団に正座し、湯呑みを手にしながら静かに画面を見つめていた。胡坐でないのは、彼が腰痛を気にしているからだ。そして、同じく太平プロのベテラン、疾風仮面やラスカル石井も林吾の隣で座布団に正座している。こちらはなんとなく合わせているだけなので、慣れぬ正座に後で脚を痺れさせる事だろう。
一方、オトギプロからは団体社長兼レスラーで現ベルトホルダーであるエディ・ダンテスとベテランのキャプテン・フック、そしてデビューして半月のためEQTへの出場は見送ったシンドバッド七海、ついでにエディに引っ張られてきたオトギプロ・メインレフェリーの人間(ひとま)が並んで座卓についている。実のところ、エディはベテランながら軽量級枠でならルール上は参加も可能だったが、さすがに世界女子チャンピオンの現役ベルトホルダーが乗り込んで荒らすのは違うだろうと参加を自粛していた。
七海は緊張した面持ちで画面を見つめ、人間はエディの隣の座布団にちょこんと座って茶を飲んでいる。
「予選、思ったより荒れてるなぁ……」
CM明けの各ブロック勝敗動向のアナウンスを眺めつつ、林吾がぼそりと呟く。
「ええ、どのブロックも激戦ですな」
フックが頷く。実は林吾とは長い付き合いなのだが、さしもの彼も場が場なので言葉遣いに気を付けている。
「やっぱり、サバイバルマッチでブロックを一度に掃除しちゃった英国のローラって人が優勝候補ですよね?」
「まぁ、そうだな。動きを見る限り、私とでもやりあえるかもしれない。やっぱり出てもよかったかなぁ?」
おずおずとした七海の発言にエディが大人げない言葉を返す。
「やめときましょう、済んだ話ですし」
「人間さんがそう言うなら……」
窘める人間に素直に返して、そっとお茶を口につけるエディの姿を見て、疾風仮面が信じられないものを見たとばかりにまじまじと目を見開き、エディに睨まれてそっと目を反らした。
「たしか……Jブロックのブライアン君とGブロックのサチちゃんは予選敗退決定なんでしょう? 可哀想ですし、なにか好物でも今晩出してあげようかしら?」
「どっちも気にするタイプじゃないと思うがね」
オトギプロのマネージャーの隣で妻が上げたおっとりした声に林吾が苦笑で返す。
そんな穏やかな空気を切り裂くように、居間の入り口の引き戸がガラリと勢いよく開いた。
「ここにエディが来ていると聞いたぞォォォォ!!」
そこに居たのは仁王立ちのマスクド・ダングラールであった。いや、ドミノマスクはつけておらず私服姿であるからここはただのダングラールと呼ぶべきか。ぶしつけな大音声に全員が振り返る。
「ダングラールさん!? 一時帰国したとは聞いてましたけど、昨日のエキシビジョンマッチのせいで、今日オフじゃなかったんですか」
「オフだから来たのだ! エディ、会いたかったぞ!」
七海の驚く声など気にもせず、ダングラールはズカズカと居間に踏み込み、エディの隣の座布団に座っていた人間を笑顔で見下ろし、レスラー特有の闘気を放って威圧する。退け、怪我をしたくないならな。彼女のオーラはそう告げていた。
「うっ……!? し、失礼、譲ります……!」
気に当てられた人間はあわてて座布団から立ち上がり、座卓の反対側、ラスカルの隣へ移動した。可哀想なものを見る目でラスカルが彼を労わり、その湯呑みに茶を注いでやる。しかし、ダングラールが空いた座布団に座る前に、当のエディが自然な動作で人間の座っていた座布団へ横移動して座り、自分がそれまで使っていた空いた座布団をダングラールへ差し出した。
「おかえり、ダングラール。ここに座ると良い」
エディはにこやかだが、実は人間の「ぬくもり」が残っている座布団に座りたかっただけである。ダングラールはその光景を見て、怒りとも哀しみとも喜びともつかぬ複雑な表情で百面相を晒した。
「な、なぜ……! なぜそっちに移動する……!? 私のためでは……ないのか……!?」
エディは首をかしげる。
「ん? なにか問題でもあるのか?」
「ぐぬぬぬぬぬぬ……!!」
ダングラールはエディの隣にドッカと腰かけると、涙すら浮かべて向かいの人間を睨みつけた。林吾はお茶をすすりながら、視線を反らしてぼそりと釘を刺す。
「……言っとくが、騒ぐなら道場でやれよ」
そんな混沌とした空気の中、テレビでは赤ずきんが対戦相手のアメリカ代表選手の一人であるサミュエル相手に戦っていた。ちょうど、サミュエルがさんざん凶器として振るっていた分厚い装丁のルールブックを奪い取り、フルスイングでブン殴り返して、まさにその頬にめり込ませているところだった。
『あーっと、ここで赤ずきんが反撃! サミュエル・ザ・パニッシャーの「スポーツマンシップ・ラッシュ」のお株を奪う、ルールブックでの乱打だぁ!』
『サミュエル選手のスポーツマンシップとルールブックへの冒涜に対する因果応報ですな』
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舞台は変わって京都のとある山奥にあるクラマ道場。森の木々に囲まれた道場周辺は、昨日の雨で僅かに残る湿気が午後の日の光に払われ、杉の香りと湿った土の匂いが混ざり合っていた。
静寂を破るのは、道場内で二人の武芸者がぶつかり合う轟音だ。木造の梁がミシリと鳴り、道場全体が二人の衝突に呼応するように震えた。
――ドンッ!
僅かにたたらを踏んで巨体のザ・グレート・ベンケーが後方へよろめく。その背中に、胴衣ごしにしなやかな肢体がぴたりと張り付いていた。
「ほれ、捕まえたぞベンケー!」
「ぬうっ……!? キイ様、また背中に……!」
様付けでベンケーが名を呼んだその女性は、その名――『テング』が表す通りに軽やかに跳びつき、信じられない剛力でベンケーの巨体を担ぎ上げていく。彼女はキイ・ホーガン・テングテング。ベンケーや牛馬鹿丸の師であるクラマ流格闘術師範、クラマ・キッド・テングテングの妹である。かつては長年のライバルである松平馬七への対抗心から太平プロレスの庭に勝手に道場を建てて居つき、弟子のベンケーや牛バカをけしかけて太平プロのモモタロウらと幾度も戦い、騒ぎを起こし、ギャグをぶちかましてきたクラマだったが、当の馬七が鬼籍に入ってしまった事で一気に意気消沈してしまった。結局、東京を引き払って京都の山奥の本来の道場へと戻り、そのまますっかり老け込んでしまったのだ。それ以降は寝たきりに近い状況に陥っており、そんな兄の姿に呆れた妹のキイが代わってベンケーや牛バカに稽古をつけ、面倒を見ているというわけである。
そんなキイ──身長180センチの女が、203センチ148キロの巨漢を軽々と持ち上げている。常識ではなかなか考えにくい光景だが、キイの筋力は「古代テングリアン民族の血」に由来する怪異じみたものだからしょうがないと、説明を放棄したくなるほどに規格外だった。
「征くぞ……!」
アルゼンチンバックブリーカーの体勢でキイは背筋をしならせ、ベンケーの身体を弓のように折り曲げる。
「ぐぬぅぅ……っ!」
ベンケーの背骨が悲鳴を上げるもキイは止まらない。
「そぉら、二段天狗式背骨折り!」
跳ね上げたベンケーの身体を、今度は前方の膝へ叩き落とす――シュミット式バックブリーカーへ繋げる。道場に設置されたプロレスのマットが震えた。
「ぐおっ!?」
さしものベンケーもたまらず、キャンバスに大の字に倒れ込む。
「……なんじゃ、終わりか?」
キイがストンピングを落とそうと足を振り上げた、その瞬間。
ガシッ。
倒れていたはずのベンケーが、キイの足首を掴んだ。
「なんの……まだまだ……!」
「フッ……耐えたか!」
ベンケーはゆっくりと、しかし確実に立ち上がる。その腕力は山をも動かすかのようだ。
「今度は……それがしの番だ!」
巨体がキイを担ぎ上げる。今度はベンケーがアルゼンチンバックブリーカーを極めた。
「おぉ……っ!?」
キイの身体が弓なりに反る。さらにベンケーは、キイの身体を頭上へ跳ね上げた。
「仕返しの……トリプル・ベンケー・ブリーカーか……!?」
「否!」
ベンケーは二段目で止めた。そのままキイを担いだ状態で回転を始める。
――ゴォォォッ!
空気を切り裂く音。道場の景色が渦を巻く。
「弁慶風車……!」
キイの身体が壁へと投げつけられようとした――その瞬間。キイの背中から、ふわりと「翼」が広がった。山伏装束の袖と真っ赤なマフラーが風をはらみ、彼女の身体を柔らかく包む。
「しまった……翼が!」
キイは壁に触れる寸前でふわりと浮き、そのまま道場内を滑空した。
「You!」
人差し指をベンケーにつきつけてキイがアピールする。彼女はTVで見たかつてのハルク・ホーガンの大ファンであった。
「頭からぶつければ止まれなかったろうに、拙を背中からぶつけよーとするからじゃ。詰めが甘いな、ベンケー」
キイが軽やかに着地し、再び仕掛けようとしたその時――
ドタドタドタドタッ!
廊下から、落ち着きのない足音が近づいてきた。
「たいへんだモーーーン!!」
戸を蹴破る勢いで飛び込んできたのは牛馬鹿丸、通称「牛バカ」であった。髷が揺れ、狩衣がはだけ、息は荒い。腕をブンブン振り回し、なにやらモノ申したい事があるらしい。キイはため息をつき、手をひらりと振った。
「……ひとまず、稽古はここまでにするか。ベンケー」
「異存ありませぬ。若、いかがなさいました?」
キイとベンケーを引き連れて道場から居間に移動した牛バカはようやくブラウン管から更新されたばかりの二年モノのTVの画面を指さしてがなり立てる。
「見るモン、ベンケー! 三郎太が出てるモン! 『あーす・くえーく・とーなめんと』とかいう世界大会がいつのまにか開催されてるんだモン!」
「おお、誠ですな。ほう……なかなか三郎太も鍛え上げたようだ」
口元を覆う樫で出来た面頬を撫でながら、三郎太の仕上がった筋肉と僅かに伸びたように見える身長を見て、ベンケーが感嘆の声を上げる。
「褒めてる場合ではないモン! こうしちゃおれないモン! オレ達も今からビッグエッグに乗り込み、天下を取りに行かねばならぬモン!」
「し、しかし……」
「しかしもカカシもないモン! タコは哺乳類だモン!」
カカシ姿で編み笠を被ったタコに変身しながら牛バカがベンケーの手を引っ張る。そのボケを眺めつつ、キイは手ぬぐいで汗を拭きながら、冷静に言った。
「……で、そのなんちゃら言う世界大会は、途中エントリーできるようなモノなのか?」
「はッ!?」
キイのツッコミに、言われて初めて気が付いたとばかりに牛バカが硬直する。
「そうです、若。開催前に申し込みせねばこの手の大会は出られぬが必定。今から行っても応援くらいしか出来ませぬ」
とりあえず落ち着くようにとちゃぶ台の上に湯呑を並べて電気ポットから急須にお湯を注ぐベンケーに、荒々しくちゃぶ台前に座り込んで牛バカが嘆く。
「ぐぬぬ……! やはり山の中に居ちゃ話にならねえモン! そもそもこんな僻地じゃ出番の貰いようがないモン!」
「……ちょうど、テレビが買い替え中だったのが痛かったですな」
慰めるように言うベンケー。しかし、キイの視線は冷たいものだ。
「だから、大検とるまで山を出て天下取りに行くのはダメだと言うとるじゃろ。高校中退の総理大臣なぞ、聞いた事が無いわ。大人しく勉強せんか、このタワケが」
牛バカは満面の笑顔でキイに返した。
「……若作りクソババア!」
「アックスボンバァー!」
「ギャース!?」
居間のちゃぶ台前だと言うのに一切の躊躇も容赦もなく、キイの豪腕が上段から喉元へ叩き込まれた。「イチバーン!」と雄たけびを上げるキイに、文字通り畳へと叩き伏せられた牛バカが、その勢いのまま床を激しく転げ回る。その横で、急須を庇って守ったベンケーは平然と湯呑みを拾い集めていく。そんなクラマ道場のいつもの日常風景をよそにTVの画面ではEQT大会予選の三郎太の試合のクライマックスが映し出されていた。
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赤い光が揺れた。リング中央に立つのは、赤い鱗柄のビスチェとハイレグボトムを纏った覆面レスラー──レッドブリム・マーメイド。頭には赤いメイドブリム、目元だけを覆う赤いドミノマスク。黒髪ロングは肩甲骨まで流れ、軽いカールが光を受けて波のように揺れる。ピンクのタイツの上から履いた鱗柄のアームガードとロングシューズにはヒレ飾りが揺れ、まるで海中の舞姫がリングに迷い込んだかのような幻想的な姿だった。
その姿は可憐でありながら、リングに立つ者特有の緊張感をまとっていた。呼吸を整えるたび、胸元の鱗柄がわずかに上下し、ライトの反射で赤い光が瞬く。その姿とは裏腹に、彼女の動きは鋭く、迷いがない。ふらつく三郎太の肩に飛び乗り、両脚で首をロックする。
「行きます、マーメイド・スプラッシュ……!」
後方へ倒れ込みながら腕を極め、ふくらはぎと尻で三郎太の頭部を挟み込み、さらに片足首を抱えてサソリ固め状に極める。複合関節技――完全に捕らえた。レッドブリムの身体がしなり、技の形が完成した瞬間、観客席からどよめきが起きる。その体勢は、見た目通りに逃げ場がない。
「なっ……ぐあぁぁぁ!?」
レフェリーが叫ぶ。
「ギブアップ!? 三郎太、ギブか!?」
レッドブリムの筋力はそこまで強大ではない。だが、二人分の体重が一点にかかるこの体勢では、三郎太はうまく身を起こせない。額に汗が滲み、歯を食いしばる音が聞こえそうなほどの苦悶の表情。だが、その目だけはまだ折れていなかった。
三郎太の身体はほとんど動かない。だが――唯一、片手だけが動いた。ならばと三郎太はその親指を立て、勢いをつけてレッドブリムの脇腹へ突き立てた。
「ひゃっ……!?」
痛かったのか、はたまたくすぐったかったのか。思わずレッドブリムのロックが緩み、その瞬間、三郎太は全身の力を爆発させた。
「うおおおおおっ!!」
ロックを振り切り、強引に脱出する。レッドブリムの身体がわずかに跳ね、技がほどけた瞬間、三郎太の背筋が弾けるように伸び、リングマットが軋む。
『脱出したぁぁぁ! なんということだ! マイルズ・リード、カレン・ミロンガと立て続けに仕留めてきたレッドブリム・マーメイド最大の必殺技を宮川三郎太、パワーで振り払いました!』
『親指での脇腹突きで強引に隙を作りましたね。三郎太選手、このあたりは場数を踏んだ経験の差という所でしょうか』
自信を持っていたフェイバリットを打ち破られた事でレッドブリムは動揺し、尻もちをついた状態のまま後ずさろうとする。動揺で呼吸が乱れ、赤いドミノマスクの縁がわずかに震える。リングの中央で、二人の距離が一瞬だけ止まった。
「えっ……!? ちょ、ちょっと待っ――」
三郎太は立ち上がる暇ももどかしいと、迷わず膝立ちの状態から踏み込んだ。三郎太の膝が、マットに深く沈みタメを作る。
「待たない! いくぞ、ファイナルエルボー!!」
胸元へ叩き込まれた肘が、レッドブリムの身体を大きく揺らす。
「ああっ……!?」
三郎太はそのまま背後へ回って彼女を引き起こし、両手を腰に回してしっかりとクラッチする。放たれたのはバックドロップ。着弾と同時にリングマットが「ドンッ」と低く鳴り、観客席の空気が一瞬止まった。
さらに流れるように体をひねり、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールドへ移行し、レッドブリム・マーメイドを丸め込む。技が決まる瞬間、レッドブリムのヒレ飾りがふわりと舞い、三郎太の腕の中で小柄な身体がきれいに回転した。
「……ッ!?」
レフェリーの手がマットを叩く。
「ワン! ツー! ……スリー!!」
『決着。決まりました! 宮川三郎太の安定したジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールドの前に、レッドブリム・マーメイドも暴れるが返しきれない! 無慈悲なスリーカウントが叩かれてしまったぁ!』
『これは3年前のECT(アース・クラッシュ・トーナメント)の予選リーグで三郎太選手がキンタロウ選手に決められて敗北した技ですね。三郎太選手、自分の敗北からしっかりと学んで血肉にしているようだ、好感が持てますね』
肩で息をしながら、マットにうずくまったまま、敗北を噛み締めているレッドブリムに歩み寄った三郎太が手を差し伸べた。
「……もし間違ってたら失礼なんで、謝りますけど」
三郎太の声に、ばっと驚いたようにレッドブリム・マーメイドが顔を上げる。覆面の奥で目を丸くしているのがよく分かった。
「もしかして……タイ子さん?」
レッドブリムの身体がびくりと震えた。覆面越しでもわかるほど、頬が真っ赤に染まっていく。
「~~~~っ!!?」
『あ~っと!? なにやらリング上で動きがあるようです。レッドブリム・マーメイドに宮川三郎太がなにやら話しかけているようですが……二人は知り合いなんでしょうか? レッドブリム・マーメイドはムー帝国代表選手でしたよね?』
『あー、あの赤面ぶりからは恋の波動を感じますね。三郎太選手、自分の罪深さをまったく学んでいないようだ、好感が持てませんね』
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「三郎太のヤロウ……」
画面をジト目で見つつ唸り声をあげる牛バカを横目に、ベンケーが慌てておぼつかない指さばきでテレビのリモコンを操作してデータ画面を呼び出す。そこには各ブロックの現在の星取り表が表示されていた。
「若、そんなことより……!」
ベンケーが呼び出したのはGブロックの星取表だ。その一角には、彼の見知った名前があった。
「許嫁たるお方が出ております! しかしこれは……ドクターストップで棄権!? 若、ただごとではありませんぞ!」
「イイナ漬け?」
たくあんに変身した牛バカがぽかんとした顔をして聞き返し、ベンケーは盛大にずっこけた。
「漬物ではありませぬ……! 許嫁! 河越殿のことですぞ!」
ばんばんとちゃぶ台を叩いて、湯呑みを躍らせながら必死に牛バカを諭そうとするベンケー。しかし、牛バカはたくあん姿のまま、黄色い身体をゆらゆら揺らしながら額に梅干しの描かれた鉢巻きを巻いて真顔で言い放つ。
「一夜漬けするようなテストは控えてないモン!」
「ですから、そーではなくっ!」
あくまでボケを重ねていく牛バカにベンケーは額に青筋を浮かべながらも、なんとか主君の態度を正そうと食い下がる。
「こんなのが許嫁とは、河越サチ殿も不憫よのう……」
日常と化したマヌケなやりとりをどこか他人事のように言いつつも、キイは遠くこの場に居ない、道場立地の地権者の家の娘へ向けて、同情の溜息をついた。
放置されたテレビの画面は、予選リーグの終了によって決まったベスト16、本選進出者の紹介へと切り替わっていた。騒がしい居間の片隅で、スピーカーから流れる実況の声が、明日行われる本選トーナメントの冷酷な組み合わせを告げる。
第一試合
ジェニー・葛葉(日本代表) [Aブロック:全勝、勝ち点10]
── VS ──
クロエ・スネグーラチカ(ロシア代表) [Bブロック:全勝、勝ち点10]
第二試合
シロオニ・ベス(日本代表) [Cブロック:全勝、勝ち点10]
── VS ──
フェルナンド・デ・レオン(スペイン代表) [Dブロック:全勝、勝ち点10]
第三試合
オディール久我(日本代表) [Eブロック:3勝1敗1引き分け、勝ち点7]
── VS ──
リカルド(メキシコ代表) [Fブロック:3勝2敗、勝ち点6]
第四試合
宮川三郎太(日本代表) [Gブロック:全勝、勝ち点10]
── VS ──
ポモナ・ウィリアムス(スイス代表) [Hブロック:4勝1敗、勝ち点8]
第五試合
赤ずきん(日本代表) [Iブロック:4勝1引き分け、勝ち点9]
── VS ──
ローラ・ザ・チャージ(英国代表) [Jブロック:特例サバイバルマッチ、ラストスタンド]
第六試合
ボーティス神宮寺(日本代表) [Kブロック:3勝2引き分け、勝ち点8]
── VS ──
アーデルハイド・フォン・シュタール(ドイツ代表) [Lブロック:全勝、勝ち点10]
第七試合
エル・アオルカド(メキシコ代表) [Mブロック:4勝1引き分け、勝ち点9]
── VS ──
アサル・ザ・ジニー(日本代表) [Nブロック:3勝1敗1引き分け、勝ち点7]
第八試合
ディアナ・ライアル(ブラジル代表) [Oブロック:全勝、勝ち点10]
── VS ──
ガータ御子柴(日本代表) [Pブロック:4勝1敗、勝ち点8]
大型モニターに映し出された番組スタジオでは、女子アナウンサーが緊張した面持ちで本選のトーナメント表を指し示していた。
『日本勢が活躍していますね。全体の半数を占めております』
日の丸のマークが点在する名前の横が気になったのだろう、彼女はまずそこに触れた。
『開催国ゆえという奴でしょうか。それより私としては三大プロレス大国の内のアメリカが予選で壊滅したのが意外でしたね』
ふんぞり返るようにシートに体重を預けたのは、総合格闘技の評論で有名な恰幅のいい解説者だ。彼はデータ至上主義的な視線で手元の資料をめくり、大国アメリカの予選敗退という「異常事態」に渋い顔だ。
『しかし、日本代表の中にはアメリカのフリーランスであるシロオニ・ベス選手やエジプト人のアサル選手も混じっていますからね。単に日本人が張り切ったというだけでもないでしょう』
褐色肌に眼鏡をのせたラテン系の女性コメンテーターが鷹揚にフォローを入れる。
『かつてのECT(アース・クラッシュ・トーナメント)東京大会を思い出しますな。あれもベスト8中3人が日本人でした』
静かな、だが重みのある声が割って入った。画面のネームプレートには「解説:海野幸男」の文字。サングラスで目元を隠した老解説者がどこか懐かしむように言った。往年のプロレスファンなら誰もが色めき立つ過去の伝説的な大戦を引き合いに出す。スタジオの主導権をじわじわと己の経験則で引き戻す、ベテランならではの格付け(マウンティング)だった。
『いずれにせよ勝ち抜くのは優勝候補筆頭、英国のローラ・ザ・チャージで決まりでしょうな』
そして海野は、一切の迷いなく断言した。画面にポップアップしたローラの顔写真を、彼はまるで見えない怪物の正体を見据えるかのような、奇妙に張り詰めた眼光で見つめている。
『女王推しの海野さんらしい意見ですね、しかし勝負はデカい男が勝つもの。ここはエル・アオルカドとフェルナンド・デ・レオンが優勝で決まりですよ』
恰幅のいい解説者が、海野の言葉を鼻で笑った。骨格、筋肉量、そして何より体重。無差別級格闘技において「男が強くて当たり前」という、人間界における絶対に覆らないスポーツ科学の正論を盾にして、彼はローラという存在を「単なる過大評価の女子選手」と切って捨てる。
『は? 予選で2メートル近いトルコのデミル・ザ・ビーストスレイヤーがローラに瞬殺されたのを見ていないのですか!?』
海野の顔から笑みが消え、スタジオの空気が一気にピキリと凍りついた。海野は手元の資料をペンで激しく叩き、声を荒らげる。体重差を無に帰した、あのローラの「生態系を破壊しているレベルの暴威」を目の当たりにしながら、なお凡俗な体重論に固執する目の前の大男への、明確な苛立ちと侮蔑がその語気に混ざっていた。
『あぁまぁ、僕はシロオニ・ベス選手やクロエ・スネグーラチカ選手も十分優勝の目があると見ていますよ』
一触即発の険悪な空気を察した褐色肌の女性コメンテーターが、引きつった笑みを浮かべながら慌てて間に割って入った。画面には、予選リーグを圧倒的な暴力で蹂躙してきた二人の怪物の写真が並ぶ。世間一般の認識において、この「ベス」と「クロエ」の二人は、底の知れない怪物枠として同格にラインナップされていた。
『そのシロオニ・ベス選手は宮川三郎太選手に一度敗れていますが、彼はどうでしょうか?』
司会役ながら完全に気圧されている女子アナウンサーが、日本の老舗団体、太平プロのファンが最も気になっているであろう名前を投げかける。スタジオに、一瞬の冷ややかな沈黙が流れた。
『いやー、熱意は認めますがね。彼には厳しいでしょう。善戦していい試合はみせてくれると思いますがね。HAHAHA!』
恰幅のいい解説者が、大声をあげて笑い飛ばした。気持ちとしては応援したいのだろう、複雑な表情をうかべつつも海野もまたその意見に頷いている。
『い、一応日本の若手エース筆頭……のはずですよね、あの人?』
局の意向か、彼女が内心推しているのか、引きつつも食い下がる女子アナウンサーだったが、それも褐色肌の女性コメンテーターに、ベスの敗北は「何かの手違いかコンディションの事故」に過ぎないと切り捨てられてしまった。
総じて、三郎太が本選の魔境で勝ち上がることなど、100%あり得ないという空気。スタジオに響く乾いた笑い声は、三郎太を完全なる「噛ませ犬」として品評する、冷酷な下馬評そのものだった。
コメンテーターたちが好き勝手に語り合う声がモニターから流れ出すのを横目でみつつ、キイは茶をすする。牛バカとベンケーの騒ぐ光景から目を反らしたかっただけとも言うが。
こうして、EQT大会予選リーグの裏で開催二日目のドーム外の日常は過ぎ去っていった。