「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
五日間にわたるEQT(アース・クェイク・トーナメント)は三日目を迎え、東京ドームを満たす熱気は明確にその質を変えていた。予選という名の過酷な「篩(ふるい)」にかけられ、生き残ったのは十六名の精鋭のみ。会場内には本戦進出者専用の個人控室が用意され、そこは外部の喧騒を遮断した、レスラーにとっての「出撃前の聖域」となっていた。
だが、日本代表選手の一人であり、新興団体「ノワール・ゲート」に所属するボーティス神宮寺の控室だけは、他と比べてその趣を異にしていた。そこはプロレスラーの待機場所というより、さながら臨時の電算室のごとき有様と化していたのである。長机に数台のノートPCとタブレット端末を並べ、せわしなく視線を動かしながらマウスを操作し、時にキーを叩く部屋の主は、およそリングに上がる人間には見えない。付き従う男子練習生二名も、セコンドというより完全に秘書の顔つきで、神宮寺の指示に従って予選試合の配信映像を血眼でチェックしている。
「……来たのか、雨宮君や羽衣君のように、休んでもよかったろうに」
試合時とは違い眼鏡をかけた神宮寺が、モニターの青白い光に照らされながら、画面から目を離すことなく声をかけた。前日の予選リーグで敗退した羽衣玲は「自分が出るわけでもないのに馬鹿馬鹿しい」と言い、おなじく本戦進出を逃した雨宮月は「御子柴さんとの試合が恥ずかしいのでふて寝します」と今日は引っ込んでいる。もっとも、神宮寺の見立てが正しければ、雨宮の方はそんな殊勝なタマではなく、なにか他の理由があって休みにしたかっただけではないかとも考えられるが。
「こんな大規模な大会初めてですから、少しでも空気を感じたくて。ルールでセコンドにはつけませんけど、控室に居させてもらうくらいは良いですよね?」
控室に現れたのは、ノワール・ゲートの新鋭、結城蓮だ。昨日の予選で英国代表選手、ローラ・ザ・チャージによる無慈悲な「サバイバルマッチ」の犠牲となり敗退した彼は、悔しさを押し殺し、ジャージ姿で立っていた。
「構ってはやれないが……まぁ、好きにするといい」
内心その熱心さに感心しつつも、皮肉屋の神宮寺は褒めるような言葉は口にしない。邪険にしないことで「経験を糧にするのは良い事だ」と暗に示して見せるだけだ。
「またデータ纏めてるんですか? そういえば昨日のあの子、なんだったんです? 終わり際に『悔しさ、忘れません! 絶対また挑みますから!』とか言ってた純朴そうな……」
結城の問いに、神宮寺は指を止め、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。すぐに出てこない、という事は優先順位の低い情報だ。そうして思索をめぐらし、神宮寺は漸く思い至ったように小さく息を吐いた。
「ん……ああ、アレか。警戒すべき相手に勝利して予選突破が見えたんで、ちょっと実験をしてね」
指先で眼鏡を押し上げて微かに笑みを浮かべる神宮寺。予選リーグの最中に実験とはどういうことか、結城は怪訝な顔を向ける。
「最弱二人にわざと引き分けて『勝ち点1』を与えたら、他の選手にどう心理的影響が出るかなと試したんだ。……予想以上に動揺したらしく、自滅する者が続出して実に興味深かった。その時に勝ち点1を進呈した最弱の子だよ」
あまりの発言に、思わず結城は一歩後ずさった。心なしかセコンド係の練習生二人も、神宮寺の背中へジト目を向けている気がする。
「……うわぁ。ドン引きですね」
「失礼だな」
率直に過ぎる感想に端的な返答を返し、神宮寺はモニターに視線を戻す。とはいえ、言葉ほど怒っているわけではない。その証拠に先の実験結果を思い起こしているのか、神宮寺の口元は微かに笑ったままだ。結城は呆れたように頭を掻いた。
「あー、すいません。それであの捨て台詞ですか……。ウチの興行に殴り込んできたりしませんか?」
呈された懸念に対し、神宮寺はモニターから視線を外さないまま、淡々と口を開く。
「弱くて盛り上がらんだろ。門脇取締役がどう思うかは知らないがね。……案外、そうなったら君とマッチメークされるかもしれんぞ」
名前はぱっと思い出せないが、結城の記憶が正しければ、あの娘はたしか北海道あたりの地方団体の所属だったはずだ。まぁ、さすがに交流戦の可能性は低いか──そう自分を納得させかけた結城は、一拍遅れてその言葉の裏の意味に気が付いた。
「ん? それ僕が弱いって言ってますよね……!?」
沈黙をもって答えと為した神宮寺に詰めかかろうとした結城の目に、モニターで大写しになってコマ送りされている映像が飛び込んできた。
「あ、それ昨日僕がローラさんに泡吹かされた時のシーンじゃないですか!? ちょ、コマ送りで繰り返し見るのやめてくださいよ、恥ずかしい!」
結城の悲鳴を柳に風と受け流し、神宮寺は冷徹な眼差しで画面を見つめている。
「いや、卑下する事はない。君はよくやった。実際、貴重なデータだよ、これは。君が思っている以上にね」
神宮寺にしては絶賛と言っていい反応だが、晒し者にされている現状を思えば、まったく慰めにはならない。顔をしかめつつ、結城は室内の壁掛け時計に目をやった。
「うえぇ……。あ、そろそろジェニーさんの試合始まりますよ。こんなとこでデータ処理に没頭して……、神宮寺さんちゃんと助言したんですか?」
結城の真っ当な指摘にも、神宮寺は端末から意識を離さない。
「……しても無駄だ。相性が悪すぎる」
キーボードを叩く音がふっと止み、室内に静かな緊張が走る。
「えっ!? ジェニーさん、勝てないんですか!?」
結城は驚愕した。女子の身でありながら天性の才能と強烈な精神性でリングを飛び回る光属性の怪物。あの三郎太と一勝一敗の互角の戦績を誇るノワール・ゲートのエース、ジェニー・葛葉は、結城の目から見ても最強の天狐だ。英国のローラに惨敗を喫しはしたが、その後、嫌っていた地道な訓練にも真面目に取り組むようになった彼女ならば、リベンジも不可能ではない。そう思っていたのに、神宮寺はまるで諦めたかのような言い草ではないか。
「そうは言ってない。データが正しければだが、どうにも噛み合わないんだ。相手のクロエは『冷徹な復讐のマシーン』。対するジェニーは『楽しい遊びの申し子』。かき回すべき感情が見えない。後は土壇場で彼女自身が実力を出し切れるか……。一応、『話しかけるのを諦めるな』とは言っておいたが」
「……どういう助言ですか?」
胡乱な目を向ける結城に、ひとつ息をついてみせ、神宮寺は作業を再開する。
「だから助言したとは言わなかっただろう」
彼の中でも有効な助言のレベルには達していなかったということなのだろう。神宮寺の不安な言葉を受けて、今頃はリングに居るだろう団体のエースに対し、結城は祈るような声で言った。
「ジェニーさん、頑張ってください……!」
何とも言えない空気の控室をよそに、本戦第一試合の開始の時は迫っていた。
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アース・クェイク・トーナメント本戦。五万の観衆が見守る東京ドームの中央、眩い照明に照らし出されたリング上で、第一試合の火蓋が切られようとしていた。対峙するのは、ノワール・ゲートの若きエース、ジェニー・葛葉と、ロシア代表選手、クロエ・スネグーラチカ。ブロンドのショートボブを揺らし、大舞台を楽しんでいるかのような天真爛漫な笑みを浮かべるジェニーに対し、クロエは透き通るような銀髪を背に流し、氷のように鋭く冷静な青銀色の瞳で対戦相手を射抜いていた。
『昨日の怒涛のような予選リーグを潜り抜けた16名の猛者たちが王座を巡ってぶつかり合う、世界を震撼させるトーナメントの本戦がいよいよ始まろうとしております! その幕開けとなる第一戦は、日本の黒き門から出ずる「空駆ける天狐」ジェニー・葛葉と、ロシアから来た「復讐のマシーン」クロエ・スネグーラチカによる対決! 既に両者リングインを済ませ、静かに対峙して試合開始の時を待っております。そして今回、解説には全米マット五指に入る強豪にして、かつてのECT(アース・クラッシュ・トーナメント)ベスト8、アカオニ・トム氏にお越し頂きました!』
実況アナウンサーの熱を帯びた声が響き渡る。隣へ視線を向けられた解説席のトムは、140キロの巨体でパイプ椅子をきしませながら深く沈み込み、髭面の口元に不敵な笑みを浮かべてマイクを握り直した。
『おう。どーも、ヨロシク』
『さて、クロエ・スネグーラチカ選手はかつてイワン・シュテンドルフに敗れて再起不能になったロシアのレスラー「ブラック・サンタ」の教え子であり、「シュテンドルフさえも凌駕する完璧な格闘知能」を叩き込まれた戦闘マシーンとの事ですが、トムさんから見て彼女はいかがですか?』
トムは被っていたバイザーを少し押し上げた。その鋭い眼光は、リング上に立つ銀髪の少女を捉えて離さない。
『寝言は寝て言えっつーの。あんな細っちい娘っ子が社長に勝てるわきゃねーだろ、いや、男女とか関係ねえな。それこそモモタロウでもなけりゃ社長に対抗なんざできやしねえよ。……とは言え、社長と同郷のお嬢ちゃんを扱き下ろすのもなんだかなー……。それにまぁ、狙った敵が居なくなっちまうって寂しさは俺も知ってる。せめてこの大会のトロフィー掴んで納得を得たいっつーのは理解はできらぁな』
歴戦の猛者であるトムの言葉に圧倒されたように、実況アナウンサーが一度唾を飲み込む。手元の資料から顔を上げ、ドーム全体に渦巻く熱気を再確認するように深く頷いた。
『成程、いわば敵の影を追い求めて暴走する戦闘マシーンということですね。対するジェニー・葛葉選手は今大会の優勝候補、英国のローラ・ザ・チャージに敗れた屈辱をバネに、再起を誓ってこのリングに立っているとのこと! どちらも一歩も譲れぬ一大決戦と言えましょう! さぁ、まもなくゴングです!』
巨大な東京ドームの天井照明が、対峙する二人の影を純白のマットに長く落としている。予選の喧騒とは明らかに違う、ヒリつくように張り詰めた、それでいてどこか「伝説」の幕開けを予感させる異様な静寂が、数万の観客を飲み込んでいた。
カーン! と、試合開始を告げるゴングが空気を切り裂く。
「――っ!」
同時に二つの影が交差した。指と指が絡み合い、掌同士が激しく押し付けられる。プロレスの基本にして至高の力比べ「手四つ(ロックアップ)」での立ち上がりだ。ジェニーは持ち前の天性のセンスで力の流れと互いの呼吸のリズムを読み取り、強靭な背筋力で上から圧し潰そうと一気に体重を乗せる。しかし、クロエは表情一つ変えない。微動だにせず、ただ最短の重心移動だけで、ジェニーの暴風のような力をするりとマットへ逃がしていく。
予選で多く見られたような、荒削りな勢いでのぶつかり合いではない。そこにあるのは、ミリ単位の精度で相手のスタミナとバランスを削り取ろうとする、本戦仕様の純粋な技術の衝突だった。ギリギリと骨が軋み、目に見えない火花が散るような極限の攻防がリング上の空気を支配する。
「あはっ! やっぱり本戦は違うね! 最初からこんなに力がこもってるなんて……最高にワクワクしてきたッ!」
ジェニーが弾むような声を上げ、ニカッと歯を見せて笑う。均衡を破ったのもまた、そのジェニーだった。組み手が離れた刹那、彼女は全身のバネを解放し、渾身のエルボー・スマッシュを叩き込む。ゴツッ! と肉と骨が激突する鈍い音が会場に響き渡った。下手に顎を打たれれば、それ一発で意識を刈り取られかねない凶悪な一撃だ。
だが、回避するどころか敢えて踏み込み、喉元の鎖骨の間あたりで分厚く受け止めたクロエの表情はピクリとも動かなかった。彼女はジェニーのエルボーを被弾しながらも、最短にして最速、まったく無駄のない軌道を描くカウンターのナックルパートを、ジェニーの顎先へと正確に射抜いていたのだ。ガァン、と脳を揺らされ、たまらずジェニーが仰け反る。
「……無駄です。感情を乗せた打撃など、計算の邪魔にしかなりません」
氷のように冷徹な声で切って捨てる。そして、顎を打ち抜かれ、たまらず体勢を崩したジェニーの左膝を、クロエの腕が蛇のように素早く絡め取った。「フリーズポイント・レッグブリーカー」と名付けられた彼女の脚関節技が、淀みない所作でジェニーの膝を非情な角度へと捻り上げる。さらにクロエは、ロックした脚へ自らの体重を預けるように深く腰を落とし、逃げ場のない負荷を与えていく。
「うぎぃぃぃッ……!? 痛ったぁぁ……!!」
ジェニーの悲鳴がリング上に響く。そこは前日の予選試合で「邪竜」エルザ・ファフニールのドラゴンスクリューで捩じられた箇所。一晩休んでようやく引いて来た痛みが一気に蘇り、さらに上書きされていく。クロエは序盤の僅かな足取りの乱れから、そのウィークポイントを完璧に看破していたのだ。
(やり難いなぁ……! でも、ここで止まったら、やられる……!)
ジェニーは痛みを闘志で塗り潰し、強引に脚を引き抜くと、マットを転がって距離を取った。立ち上がった左足は、子鹿のように微かに震えている。それでも、彼女の瞳の光は死んでいなかった。ジェニーは痛む足でマットを強く踏み込み、高く跳躍する。狙い澄ました鋭いジャンピング・ニーバットが、クロエの顔面へと真っ直ぐに襲い掛かった。しかし、クロエは逃げない。自らの肘を硬い槍のように突き出し、飛来する膝に真っ向からぶつける「相打ち」を選択したのだ。回避による隙を生むくらいなら、より効率の良いダメージ交換を――。
エルボーと膝が正面衝突し、両者の神経を焼き切るような衝撃が走る。だが、運命は非情だった。右脚で力強く踏み切ったがゆえに、クロエの肘の射線に突き出されてしまったのは、よりによって負傷している「左膝」だったのだ。ジェニーはたまらず左膝を抱え込み、マットでのたうち悶絶する。一方のクロエも、相打ちによって肘に軽くないダメージを受けていたはずだ。だが彼女は、痛みという概念そのものを切り捨てたかのように、一切の表情を変えずに冷酷な追撃に移る。
倒れ伏すジェニーの左脚を掴み上げると、クロエはそれを自身の首筋へと強引に巻き付け、マフラーホールドの体勢で容赦なく締め上げた。自らの首と背筋を強靭な支点としたその技は、ジェニーの左脚を完全に幽閉する「監獄」と化す。
「あ、が、あぁぁぁッ……!!」
ロックされた膝関節にテコの原理で負荷が集中し、ミシリ、と。膝の靭帯が悲鳴を上げる不吉な音がマイクに拾われる。それは単なる痛みを与えるための技ではない。相手の選手生命すら省みない、ただ勝利という結果の為だけの、機械的で無機質な破壊工作だった。
「ボク……ッ、負けないよ……! まだまだぁッ!!」
無言で責め立て続けるクロエに対し、ジェニーは歯を食いしばり、必死に腕を伸ばす。指先がどうにかサードロープに触れた。エスケープ。レフェリーの制止が入ると、クロエは特に不満も感慨も見せず、スッと体から力を抜いて技を解く。ロープにすがり、ボロ雑巾のように立ち上がるジェニーを、彼女はただ再起動を待つ機械のように静かに待ち構えていた。
ジェニーはロープを離れ、痛む足を引きずりながらも猛然とクロエの懐へ飛び込み、その細い体を強引に肩へ担ぎ上げる。
「よいしょおっ!」
変形ファイヤーマンズキャリー「狐火キャリー」の体勢からクロエの背中をマットへ豪快に叩きつける。そしてそのまま、昨日邪竜を討って予選突破の決定打となった大技「ロメロ・スペシャル」へと、淀みない動作で移行していく。仰向けになったクロエの両脚に自らの脚を絡めるようにロックし、背後から両腕を掴む。そして、自らは後方へと倒れ込みながら腰を浮かせ、その反動で相手の身体を宙へと掲げ上げて四肢を極めきった。地道な努力と汗の結晶として新たなフェイバリット・ホールドに加わったこの技で、一気に試合を決めんと、ジェニーの全身から、燃え盛る気迫が立ち昇る。
しかし。
無防備に吊り上げられ、苦悶の声を上げてもおかしくないクロエの薄い唇から漏れたのは、ジェニーの気迫を凍り付かせるような、絶望的なまでに冷ややかな一言だった。
「……甘いですね」
宙吊りになったクロエの身体が、不自然な角度に捻り上げられる。しかし、ロメロ・スペシャルは彼女自身も使い慣れた技の系統だ。当然、その脱出法も熟知している。狙うのはただ一点――すでに悲鳴を上げているジェニーの「左膝」。クロエが自らの脚力を使い、ジェニーの痛む膝のロックを強引に捩じり込む。ジェニーの顔が苦痛に歪み、たまらずクラッチが緩んだ。
甘くなったロックを振り払って片脚を自由にすると、もう一方の脚の固定を容赦なく蹴り崩し、そのまま技から抜け出す。あっさりと脱出され、呆然と体勢を崩したジェニーの喉元めがけ、クロエは冷酷なレッグドロップを叩き込んだ。そして、激しく咳き込む彼女の髪を掴み、強引に引き起こす。
「……貴女のヌルさ、ここで断ち切ります」
クロエはリバース・フルネルソンでジェニーの両腕をロックし、そのまま強引に宙へと持ち上げる。そして自らの腰を深く落とすと同時に、無慈悲な垂直落下で脳天からマットへと突き刺した。彼女の得意技「アイシクル・パイルドライバー」だ。マットに重く鈍い衝撃が走り、ジェニーの身体が力なく跳ねる。しかし、クロエの氷の刃はまだ止まらない。意識が飛びかけるジェニーを引き起こすと、淀みない動作で自らの必殺技――変形ロメロ・スペシャル「エンドレス・ウィンター」へと引きずり込んだ。
両脚のロックはそのままに、上半身をチキンウイング・フェイスロックに捕らえる複合関節技。先ほどのロメロ・スペシャルへの意趣返しでありながら、より洗練された高難易度の絶望だ。ジェニーの身体は複雑に捩じられながら極限まで弓なりに反り上がり、その顔が激しい苦痛に染まる。
放送席では、解説のトムが感嘆の唸り声をあげていた。
『ぬぅ……難易度の高ぇ技をちょいちょいと当たり前みてーに決めやがんな。社長どうこうは論外だが、あの嬢ちゃん、なかなかやるじゃねえか……。キンの字を思い出すぜ』
これまではジェニーの動きのキレやクロエの非情さを、若手にしては悪くないと鷹揚に眺めていたトムだった。しかし、複雑なセットアップを流れるように仕掛け、相手に一切の抵抗を許さないその熟練度は、彼をして素直に認めざるを得ないものだった。
『キンの字と言うと……サカタ・ゴージャス・キンタロウ選手ですか? 世界的にもテクニシャンとして知られる彼を引き合いに出す程とは、すさまじいですね! がっちりと決まったエンドレス・ウィンターの前にジェニー・葛葉選手、苦悶の表情です!』
興奮する実況をよそに、トムは口元に手をやってリング上を睨みつける。
『こりゃあ、下手するとこのまま決まって終わりかもな……』
クロエは技を締め上げたまま、静かに、しかし冷たく重い怨念を孕んだ声で語り始めた。
「コーチは、復讐の機会さえ得られなかった……。あのシュテンドルフが、勝手に死んだせいで……ッ」
ギリ、ギリと。技を絞り上げる腕に、行き場のない怨念がこもっていく。鬼の頭領、イワン・シュテンドルフ。クロエを施設から拾い上げたコーチ、ブラックサンタを再起不能にした憎き男。しかし彼はその後、モモタロウを庇って命を落とし、すでに故人となっていた。さらに、彼を打ち破ったモモタロウさえも公式戦から姿を消し、すでに三年以上の時が経っている。
「モモタロウは消え、師が恨んだシュテンドルフも逝った。……残された私は、あの方の止まった時間を動かすためだけのネジに過ぎません。楽しむプロレスなど、このリングには不要なのです」
完璧な捕獲。これ以上抗えば、ジェニーの身体は本当に壊れる。クロエがそう確信して技を限界まで絞り上げた、次の瞬間。腕の中で、ジェニーは信じられない反応を見せた。
「あはは……あははは……ッ!」
激痛の最中にあるはずのジェニーの口から、漏れ出るような笑い声が上がったのだ。彼女は苦痛に顔を歪めながらも、満面の笑みを浮かべ、逆さまの視界でクロエを見つめていた。
「……何がおかしいのですか」
クロエの冷徹な声に、僅かな苛立ちが混じる。それに気づいているのかいないのか、ジェニーは苦痛に顔を歪めながらも、瞳をキラキラと輝かせて答えた。
「あはは……痛い、けどッ。さっきの脱出、すごく綺麗だった! それにこの技……クロエ、本当は少し、今この技術の比べ合い、楽しんでいるんでしょ? 君、ちょっとだけ……口の端が笑ってたよ!」
その言葉は、クロエにとって物理的な打撃よりも重く、予期せぬ衝撃だった。無意識に彼女の眉がぴくりと反応する。
「なっ……!? 黙れ……! 自分は、マシーンなんだ……!」
絞り出すようなその声には、隠しきれない感情がこもる。無機質な氷の内側からにじみ出る熱がクロエの口調を荒くさせているのだ。
「そうかな? 君の声、めっちゃ震えてるけど?」
ジェニーの無邪気な、しかし的確な言葉の刃が追撃する。彼女のライラック・アイがトランス状態によるブーストを始めたことを示すように輝き始めていた。
「……ははーん? 君、本当はボクと同じで――プロレスが大好きな女の子なんだろ?」
そしていともたやすく無遠慮にその秘めた領域に触れた。
「だ、黙れ──ッ!!」
完璧だったクロエの呼吸が乱れる。マシーンの演算を、ジェニーに煽られた熱が完全にオーバーライドし、論理回路を焼き切っていた。クロエは自ら勝利寸前だった「エンドレス・ウィンター」を荒々しく解くと、キャンバスに倒れ込んだジェニーに馬乗りになり、拳を振り下ろした。それはミリ単位の正確さを誇ったこれまでの打撃ではない。軌道は荒く、フォームは不格好。だが、誰よりも人間臭い――暴かれた激情が宿った鉄拳だった。
『……おいおい、あの嬢ちゃんキレちまったぞ!?』
トムが思わず実況席を叩いて身を乗り出す。激しい衝撃音を拾ったマイクが、ドームのスピーカーをビリビリと震わせた。
『ああっ、なんとクロエ! 完璧に極まっていたエンドレス・ウィンターを自ら解除! マウントポジションから拳を叩きつけていく! 合理性を捨てた、剥き出しの感情による暴行だーっ!』
リング上の異常事態に場内が大きくどよめく中、トムは身を乗り出した姿勢のまま、巨体を揺らして頭を掻いた。
『あちゃー……折角の優位を自分で捨てちまうたぁ、戦闘マシーンの名が泣くな。だが……そんだけ腹に据えかねる囀りだったってェ事でもあるってこった』
トムはバイザー越しに、ジェニーに掴みかかるクロエの形相を凝視し、どこか嬉しそうに口角を上げた。
『へっ……誰かの復讐のためでも、マシーンのプログラムでもねえ。目の前の相手がムカつくから殴る! シンプルでいいじゃねーか!』
凄惨な光景を目にしているにも拘わらず、ガハハと豪快に笑い飛ばす解説者に対し、実況アナウンサーは手元の資料をめくりながら冷静にツッコミを入れる。
『まぁ、拳での殴打を繰り返すのは反則ですけどね』
だが、正論をぶつけられても、トムは悪びれる様子もなく指でリングを指し示す。
『EQTじゃ相手が抗議するまではセーフ! なんだろ? 抗議する余裕を与えず殴り倒すってのは、ぶっちゃけいいアイデアなんじゃねーか?』
まさかの暴論に実況アナウンサーは目を白黒させるが、すぐさまマイクを握り直して必死に試合を追いかける。
『なんという極論!? トムさんの指摘通りなのかどうかは分かりませんが、クロエ・スネグーラチカ選手、ナックルパートのマウントラッシュをやめる気配はありません! 殴る! 殴る! ジェニー・葛葉選手、このままノックアウトされてしまうのかーッ!?』
リング上に響く不規則な鈍い音と時折マットに落ちる赤い飛沫に観客たちは言葉を失っていた。
激昂したクロエの拳が、ジェニーの顔面を捉え続ける。もはや技術もプログラムも忘れていた。そこにあるのは、ただ感情を爆発させた一人の少女の、救いようのない激情だけだ。無神経に人の奥底へ土足で踏み込むこの不愉快極まる能天気女を一刻も早く黙らせたい、それだけだった。
「マシーン……? 嘘だよッ!」
ジェニーが顔を背けて猛攻に耐えながら、血の混じった声を張り上げる。
「こんなに熱い拳を打つ子が、マシーンなわけないじゃない! そもそも、ただのネジだったら……大好きな人の時間を動かしたいなんて願ったりしない!!」
その声は、クロエの胸の奥で空回りしていた歯車に深く、鋭く突き刺さった。――「願い」。それこそが、彼女を完全なマシーンにさせない致命的な欠陥(エラー)であり、同時に彼女が「人間」である何よりの証明だった。だがそれは彼女の逆鱗でもあった。クロエは目を見開いて大きく振りかぶって渾身の一撃を振り下ろす。
ジェニーは待っていた。怒りに任せた打撃の重心が、わずかに前傾するその瞬間を。マシーンとしての精緻さを失ったクロエの拳が僅かに傾けて突き出されたジェニーの額を滑り、マットを叩いた刹那。ジェニーは痛む左脚を跳ね上げ、浮き上がったクロエの腹部を全力で蹴り飛ばした。
「ぐっ……!?」
「今だァッ……!!」
突き放され、腹を抱えてクロエが転がった隙を見逃さない。ジェニーは顔と膝の激痛を気合でねじ伏せ、素早く身を起こすとコーナーポストへと駆け上がる。そこにあるのは、これまでの「遊び」の延長ではない。純度百パーセントの、勝利への執念。
「迷ってるね、クロエ! でも、リングの上では迷ったら負けなんだよ!!」
コーナー最上段。ジェニーは殺意の籠った視線が後を追っているのを感じながらも、自らの言葉通り、一切の躊躇なく跳躍した。放たれたのは、弾丸の如きミサイルキック。予選での死闘を経てさらに鋭さを増した一撃が、立ち上がりかけたクロエの胸元を正確に撃ち抜く。
「ぐぅぅ……ッ!」
たまらずクロエの身体がマットを滑り、コーナー付近まで大きく吹き飛ばされた。勝機。ジェニーは追撃の牙を緩めない。自身も着地の衝撃を前転で殺すと、すぐさま駆け寄り、倒れたクロエを強引に引き起こす。そして正面からガッチリと組み付き、間髪入れずに相手の両腕を深くカンヌキ状に固め上げた。
「いくよ……これがボクの、新しい輝き――ッ!!」
予選で強敵・ホライズンとの投げ合いの末に開眼した、超高速のスープレックス。自らの腰を基点とし、リバースフルネルソンに固めたクロエの身体を、驚異的な速度で後方へと反り投げる。
「シャインスター・スープレックス!」
トランス状態による身体能力ブーストが乗った全力の投げに、凄まじい衝撃がリングを揺らし、会場から割れんばかりの歓声が爆発する。背中を強打されたクロエは完全に呼吸を阻害され、涙で歪んだ視界を揺らしながら、酸素を求めてマットで身じろいだ。だが、彼女を突き動かすのは、コーチへの妄執か、それとも底知れぬ意地か。クロエは激しく咳き込みながらも、マットに手をつき、なおも身を起こそうとする。
「あはっ……やっぱり強いや。……じゃあ、これで決めるね!」
ジェニーは再びコーナーへ向かう。狙うは彼女の代名詞、「シューティングスタープレス」だ。しかし、勝利を目前にしてトップロープへ足を掛けたその時。酷使され続けた左膝が、ここに来て致命的な悲鳴を上げた。
「っ――あぐッ!?」
体重がかかった瞬間、焼きごてを押し当てられたような激痛が膝でスパークする。一瞬だけ、踏み切りのタイミングが遅れた。コンマ数秒の遅滞。宙を舞うジェニーの影に気付き、我に返ったクロエが、必死にマットを転がって回避する。
――ドォォン!!
ジェニーの身体が、無人のマットに激突した。痛恨の自爆。迷い無き全力の跳躍だったからこそ、その威力がそっくりそのまま自身へと跳ね返る。ジェニーはたまらず悶絶した。一方でクロエもなんとか転がって回避したものの、シャインスター・スープレックスを受けたダメージは軽くない。四つん這いの状態で痛む背中を震わせ、目の端から涙をこぼしながら、必死に酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返していた。
両者、もはや体力は底を突き、立っていることさえ奇跡のような状態だった。それでも二人は、何かに取り憑かれたように同時に立ち上がろうとする。どちらが先に仕掛けるか。震える足で互いに歩み寄り、最後のリミットを振り絞って組み合おうとした、その瞬間。再び、ジェニーの膝がカクンと崩れ落ちた。
「あ……」
偶然か、必然か。崩れ落ちたジェニーの懐に、組み付き押し込もうと力を入れていたクロエがつんのめるように後を追って入り込む形になる。
「……捕まえ、た……ッ!」
仰向けのまま、ジェニーの腕と脚がクロエに絡みつく。対面した状態でクロエの両足を自身の両脚でロックし、残された全筋力を爆発させてクロエの両肩を掴んで押し上げ、天へと高々と掲げ上げた。かつて同団体の仲間である神宮寺の技をひとり道場で真似て練習し、サンドバックを抱え上げようとして押しつぶされていたのを見られ、呆れ果てた彼から助言された技。「リバース・ロメロ・スペシャル」が互いに顔を突き合わせた状態でクロエを高く掲げ、その四肢関節と脊髄に強烈な負荷をかける。
「ぐ、ぁぁぁあッ!!」
逃げ場のない至近距離。手を伸ばせば届くほどの距離で、二人の視線が真っ向から衝突する。クロエは地獄のような苦痛の中で、強制的にジェニーの瞳を直視させられた。そこにあったのは、勝ち誇る傲慢さでも、相手を見下す冷酷さでもない。ただ純粋に、心の底からプロレスを愛し、今この瞬間の真剣勝負を最高に楽しんでいる少女の、太陽のような輝き。
(ああ――)
それは、コーチにプロレスを教えられ、学ぶこと、身に着けること、実践すること、なにもかもが楽しくて仕方が無かった頃の、自分自身の姿と同じだった。
「…………」
その瞳の光に射抜かれた瞬間。クロエの心を縛り付けていた最後の氷のネジが、音を立てて罅割れ、弾け飛んだ。師の無念。歪んだ復讐心。自分こそがという強迫観念。それらがすべて、ジェニーの放つ圧倒的な熱量によって、春の雪のように溶かされていく。
クロエの脳裏に、一つの記憶が蘇る。かつて施設の庭で一人、雪の中で孤独だった自分を、コーチが拾ってくれた時のこと。あの時感じた、手の温もり。復讐のためだったのかもしれない、計算もあったろう。それでも、ただ一人の人間として受け入れられた記憶。今、両肩を力強く掴み、押し当てられているジェニーの手。苦痛の向こう側から伝わってくるその不器用な熱は、あの日コーチによって両肩に置かれて語り掛けられた時の……救われた時の温度と、驚くほど似通っているように感じられた。
(……暖かい手。まるで、あの日の、コーチのようだ……)
脚のロックは先ほどのようには崩せそうもない。肩を抑えられ、腕も可動域が制限され、ジェニーに届かない。重力によってかかる負荷が痛みだけでなく呼吸すらも妨げ、先の荒い呼吸が収まらないクロエの意識は徐々に朦朧とし始めていた。
──ザンゾンタイリョクと、コンディションから見て、ダッシュツフノウ。
壊れかけの論理回路がそれでもクロエのために分析結果を伝えて来る。クロエの瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。それはマシーンとしての機能停止ではない。一人の少女として、心が通い合った瞬間の、美しき証明だった。
「──ギブアップ」
『決まったあああッ! ここでギブアップ宣言! 「復讐のマシーン」クロエ・スネグーラチカ選手、掲げ上げられたまま涙の屈服! 勝者はジェニー・葛葉選手だぁーーッ!!』
カンカンカンカンッ! と、試合終了を告げる甲高いゴングの音が、沸騰する会場の空気を切り裂くように連続で鳴り響く。ドーム全体を揺るがすような地鳴りのごとき大歓声の中、トムは深く椅子に背を預け、感嘆の溜息をついた。
『……へっ、計算ずくの氷山も、あの馬鹿正直な太陽に溶かされちまったみてーだな。やっぱ社長に挑みてーなんざ無謀の極みだったわけだ、まーだ、強者のエキスになる資格はなさそーだな』
『凄まじい逆転劇でした! 一度は絶体絶命の窮地に陥りながらも最後は同じくロメロ・スペシャル系統の技を仕掛け返して勝利を掴みましたね!』
興奮冷めやらぬ早口でまくしたてる実況に対し、トムはリング上で倒れ伏す二人を眩しそうに見つめた。
『戦闘マシーンを貫けなかったのが敗因なのか、それとも戦闘マシーンを気取ったのが敗因だったのか、これもうどっちかわかんねえなぁ。いずれにせよ伸びしろはありそうだが、今は狐っ子の方が一枚上手だったってこったな』
腫れ上がった顔で笑うジェニーと、呆然と天井を仰ぐクロエ。その対照的な様子に、トムは面白そうに鼻を鳴らす。
『敗れたクロエ選手、呆然としております! 噛み締めた敗北は新たな機構の礎になるのか!? はたまたマシーンを脱して魂を得た戦士へ覚醒するのか!? ともあれ、ジェニー・葛葉選手の一回戦突破が決まりました!』
『……教育ってのは難しいなぁ』
同じく教え子を持つ存在であるブラック・サンタを思ってか、トムはマイクから少し口を離し、誰に聞かせるでもなくボソリと呟いた。その横顔には、歴戦のプロレスラーとしての微かな哀愁が漂っている。彼らの視線の先には、勝者となったにも関わらず、膝の痛みに立ち上がれず、マットに伏したまま高々と握り拳だけを掲げて観客の声援に応えているジェニーと、仰向けで顔を両手で覆っているクロエの姿が映っていた。
技を解かれ、マットに沈んだクロエは、荒い呼吸の中で自分の内側を見つめていた。全身の筋肉が断末魔の悲鳴を上げ、敗北という事実が重くのしかかっているはずなのに、不思議と心は澄み渡っている。ジェニーがくれた熱は心地よい。氷の装甲を剥ぎ取られ、剥き出しの素肌で外の空気に触れたような、痛々しくも鮮烈な解放感。けれど、それが自分を弱くしたとは思わない。
(……この熱に、私は負けた。認めよう、私はただのネジにはなれない。だが……ならば、次は……この熱さえも貫き、凍らせるほどの。私の激情から生じた、もっと鋭い氷を……)
穏やかな表情の奥底で、激情はさらなる冷たい氷となって深化を始めていた。他人に作られたプログラムでも、脆い論理回路でもない。ジェニーの熱によって一度ドロドロに溶かされた感情が、敗北の屈辱と師への執着を核として、不純物の一切ない「絶対零度の刃」へと再結晶化していく。目指すべきはコーチの時計を動かすちっぽけなネジなどではなかった。己自身を、コーチを乗せて氷河を割り砕く巨大な衝角と為すのだ。
──お前は私に新たな理由をくれたのだ。今や私は己の為にお前をこの手で倒したい──
顔を覆う両手の下でクロエは三日月のような凄絶な笑みを浮かべていた。倒すべき敵の居ない空しさとはもうお別れだ。「お前が私の敵だ」とそう魂が歓喜していた。
機械の仮面を捨てた氷雪の怪異の中で、人間の心を動力源とした底知れぬ衝動が、静かに、しかし確実に牙を研いでいた。