「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

66 / 67
第18話 華麗なる闘牛士! の巻【本戦1回戦第2試合「シロオニ・ベスVSフェルナンド・デ・レオン」】

 控室の空気は、試合前特有の張り詰めた静けさに包まれていた。ここはEQT(アース・クェイク・トーナメント)において日本代表選手として本選進出を果たした米国人レスラー、シロオニ・ベスの控室である。会場では本戦一回戦第一試合が終わり、控室に設置されたモニターから聞こえる歓声とアナウンスが音量を絞ってあるにもかかわらず客席の盛り上がりを伝えて来る。

その中で、ベスは椅子に腰掛け、来訪者を迎えていた。

 訪れていたのは松平美樹。太平プロの社長令嬢であり、昨日の予選リーグの試合でベスとぶつかりあった相手でもある。

「わざわざ激励ですか? 太平プロの社長令嬢なのだから三郎太さんの所へ行けばいいでしょうに」

 わずかに眉を上げたベスの声音には、警戒と困惑が混じっていた。だが美樹は、そんな空気を軽く吹き飛ばすように明るく笑う。

「大丈夫、あっちにはおとーさんが行ってるから」

 手をぱたぱたと振って笑う美樹に、昨日の試合中、涙目で歯を食いしばってベスに向かってきた面影はまったく感じられない。拍子抜けしたようにベスは肩をすくめる。

「予選でブチのめされたお礼参りに来たのかと思いました」

「もー、すぐそう言う事言って」

 美樹は苦笑しながら、ベスのセコンド係の練習生からパイプ椅子を受け取って彼女の正面に置くと、向かい合うように腰を下ろした。その表情はどこか晴れやかですらあり、ベスはそれに気圧されそうになる。だが、美樹が無造作にパイプ椅子を受け取った瞬間、ベスの脳裏に昨日の光景――怒りに燃える美樹からパイプ椅子で滅多打ちにされた記憶――がフラッシュバックし、思わず身を固くしてしまった。そんな自身の反射的な強張りに気づいたベスは、自分自身に僅かに苦笑した。

「……私ね、あの試合で言いたい事みんな吐き出せたから、今はすっきりしてるの。ベスが全部受け止めてくれたの分かってる。ありがとう」

 膝に両手を置いて頭を下げる美樹に、ベスは動揺する。お礼参りには違いないが、まさか素直なお礼を言われるなど、完全に予想の範疇外だった。

「や、やめなさい。私はただ、因果応報と思って筋を通しただけよ。『モモタロウを出せ、さもなくばモモ・マスクは貰っていく』と襲撃したのは事実。今もってそこに後悔も後ろめたさもない私はいわば外敵も同然。感謝される謂れはないわ」

「ううん、勝てなくても最初からぶつかるべきだったんだ。三郎太クンにおしつけて、ウジウジ抱え込んでた私が悪いのよ」

 美樹はふっと柔らかく笑い、ベスの目をまっすぐ見た。

「だからね、改めてベスとは友達になりたいなって」

「友達……ですか?」

 ベスの声がわずかに揺れた。自他ともに「白鬼」と呼び、時に恐れられる彼女をして、顔にほんの少しだけ戸惑いが浮かぶ。

「大学生同士トシも近いしね。嫌?」

「そんなことは……」

 ベスは照れ隠しのように視線を落とし、指先で自分のアッシュブロンドを軽く整えた。その仕草は、普段の冷徹な雰囲気とは違い、年相応の少女らしさを帯びていた。

「それなら一つ私も聞きたい事があるわ。貴女は三郎太さんとは……?」

 美樹は一瞬だけ目を伏せ、誤魔化すことなく正直に答えた。

「あー……そこかぁ。──友達よ」

 天井を見上げ、懐かしい思い出を辿るように続ける。

「うぬぼれじゃなければ……確かに昔、三郎太クンは私に好意を持ってた時期があったと思う。でも、私はモモタロウの事が好きになっちゃったから……。三郎太クンもそれを口に出した事はないし、今はもう普通に友達のつもりで居てくれてるんだと思う。ベスが心配するような関係じゃないわ」

「そう……ですか……」

 ベスの胸の奥で、無意識に抱えていた不安の塊のような何かが静かにほどけていく。その代わりに、別の熱がじわりと満ちていく。美樹は、ベスの表情の柔らかな変化を見逃さなかった。

「やっぱり、本気なんだね、三郎太クンの事」

「ええ」

 ベスは迷いなく答えた。その瞳には、リングに立つ時と同じ鋭い光が宿っていた。

「最初に旦那様候補に指名した時とは違います。今の私は真剣に彼に挑み、彼を倒し、彼をモノにしたい。他の誰でもなく、宮川三郎太という男を」

 恥じらいも無く堂々言い放つベスに、美樹は思わず吹き出した。

「分かった。団体フロントとしては迂闊なことは言えないけど、友達としては応援するわ、ベス」

「……ありがとう、美樹」

 美樹は立ち上がり、ベスの前に回り込む。

「ほら、頭出して。昨日の傷痕確認するから」

「……私は別にこんなもの」

 そう口では強がるものの、促されるままに素直に頭を下げる。額の生え際には、昨日の激闘で刻まれた傷がまだ赤く残っている。

「永久寸先生の診断じゃ、カナダのリックさんの凶器攻撃、かなり計算されてたみたいで生え際の傷はすぐ消えて痕も残らないだろうって。むしろ、ベスがやり返した時の傷の方が痕になりそうだって」

「それは……謝りはしないけど、少々やりすぎたかもね」

 ベスは昨日の試合を思い返し、半目で笑った。あの「リング上のシリアルキラー」を自称する怪人は、時折心配するような視線を向けながらも苛烈な攻撃を仕掛けてくる奇妙なヒールだった。勝敗よりも「別の美学」で戦っているような、独特の信念があったように思う。

「でも、さすがに昨日の今日だから傷が開くかもしれない。包帯は弱みに見えるから絶対嫌がると思ったのよね。これバンダナだけど柔らかい生地のヤツだから」

 美樹は赤いバンダナを取り出し、器用にベスの頭へ巻きつける。

「白鬼のわたしが赤いバンダナですか?」

「私も連れてくと思ってつけてって」

 美樹のリングコスチュームは赤地に黒で、必殺技(フェイバリット)は父譲りの「ビッグアップル・ドライバー」だった。確かに彼女のイメージカラーを取り出すならば赤になるか、とベスは静かに納得する。

「成程、それなら仕方ないわね」

 ベスは素直にバンダナを受け入れ、目を閉じて微笑んだ。

 

 その時、美樹のスマホが震えた。画面を見た彼女は、呆れたように息を吐く。

「あー、成程。ベスがスマホ持とうとしないから……。ったく、おとーさんもお節介ね」

 ベスは米国時代、携帯電話を使っていたが、スマホに移行できていない頭の固い……言い方を変えれば古風なタチだった。日本に来るにあたって通信規格などが異なりそのまま使えないとわかってから、現在彼女は携帯通話機を所持していない。兄のアカオニ・トムが連絡して来る時も、やむをえず太平プロに通話しているくらいだ。そこを突かれた気分になったベスはなんとなく及び腰で尋ねる。

「なんです?」

「三郎太くんがね、ベスに『準決勝で会おう』って伝えてくれって」

 ベスの背筋が伸びた。胸の奥で、熱が一気に燃え上がる。たった一言。だが、その一言だからこそ、強烈だった。三郎太はベスを心配していない。勝ち上がってくるに決まっていると、強敵として信頼しているのだ。惜しむらくは、その言葉を彼から直接受け取れなかったこと。ベスは現金にも「こんなことならスマホくらい持っておけばよかった」とあっさり掌を返した。

 そんなベスの挙動から、その心中を正確に把握したらしい美樹はニヤニヤしながら彼女の表情の変化を見つめていた。羞恥にベスの頬がわずかに赤く染まり、視線が泳ぐ。

「そろそろ時間ですね。……美樹、その、良かったら今度スマホを買いに……」

「ええ、いいの見繕って説明してあげるわ」

 美樹に見送られて、ベスは照れくさそうに手を挙げ、控室の扉を開ける。いざ、戦場たるリングへ向かい、東京ドームの通路廊下を歩き出すと、セコンドの練習生二人が慌てて後を追った。

「よかったですね、友達できて」

「これでベスさんボッチ説を鼻で笑えますよ!」

 遠慮の欠片もないセリフが練習生どもから飛び出す。その表情は素直に応援するレスラーの慶事を喜ぶようであり、下世話に恋愛模様の片鱗を見てにやつくようでもあった。

「はったおしますよ?」

 笑顔でベスが一言突っ込む。感謝はしている。こんな太平プロに所属もせずに居候しているだけの他国のレスラーに対し、仲間のように接してくれる彼女たちに。だが、揶揄っていいとも舐められて構わないとも思っていない。ひきつった笑いを浮かべたり、怯えた青い顔になった両名を鼻で笑って、ベスはそれ以上追及はせず、歩みを進める。

 

 「白鬼」は赤いバンダナも鮮やかに、花道を往く。

 

 目指すはEQT本戦一回戦第二試合のリング。そして、その戦いの先にある準決勝へ続く未来だ。

 

────────────────────

 

 ビッグエッグを埋め尽くす熱狂的な歓声が、地鳴りのようにリングへと押し寄せていた。リング上で対峙する二人のレスラーは、まさに静と動、男と女、そして技の闘士と力の怪異という対照的な空気を纏っていた。

 シロオニ・ベスは、アッシュブロンドのショートボブを揺らしながら、鋭いグレイッシュブルーの瞳で対戦相手を見据える。黒と赤の生地に金色の縁取りが施された豪華なビスチェトップに、脚を包む精巧なアラベスク模様のロングレギンス。そして、いつもと違い額に巻かれた赤いバンダナ。白く透き通るような肌には過酷な予選を勝ち抜いてきた戦士の証が刻まれつつも、なお気高く輝いている。

 対するスペイン代表、フェルナンド・デ・レオンは、その名の通り獅子のごとき自信を全身から放っていた。ダークブラウンのくせ毛と整えられた髭、無駄のない引き締まった筋肉。左腕のアームガードについた赤いフリル飾りが、まるで闘牛士が操るムレータのようにひらひらと揺れる。

「……シロオニ? 白い『ONI』?」

 フェルナンドは口元に冷笑を浮かべ、赤いフリルを優雅に、そして挑発的に振ってみせた。

「ハハ、白い雌牛の間違いでは? レディ、その角とやらを私の前にさらしてごらんなさい。退屈な試合にだけはしたくないのでね」

 その言葉に、ベスの丁寧な物腰の裏に隠された負けん気に火が付く。ベスは兄たちと違って角飾りをリングコスチュームに組み込んでいない。あくまでその実力と闘気で対戦相手にツノを幻視させる、「恐るべき角無き白鬼」こそがベスの理想であった。それを「角を晒せ雌牛」などと言われて黙って居られるはずがない。

「言うに事欠いて……無知は罪。あきれ果てるわね! 容赦はしませんよ、闘牛士さん」

 おそらく「鬼」そのものを良く知らないが故の挑発ではあろう。だが、知らないからと言って許される事はこの世に少ない。罪には罰を。ベスは鬼らしく自らの手をもって力づくで罰をその身に叩き込んでやると心に決めた。

 

 リング上の緊張感を切り裂くように、場内スピーカーから実況の声が響き渡った。観客のざわめきが一段と高まり、オーロラビジョンの映像が放送席へとスワイプして切り替わる。

『さあ、EQT本戦一回戦、第二試合が始まろうとしています! 対戦カードは、予選ブロックを全勝で突破した猛者同士──日本代表のシロオニ・ベス、そしてスペイン代表フェルナンド・デ・レオン!』

 実況アナの張りのある声に、会場のライトがリングだけでなく、放送席をもスポットで照らし出す。

『解説には、かつての全米ボクシングランカーであり、プロレス転向後はECT(アース・クラッシュ・トーナメント)ベスト8の実績を持つ、クロオニ・ジョニーさんにお越しいただいております! ……ジョニーさんはシロオニ・ベスの兄でもあるとか?』

 紹介されたジョニーは、タバコ片手に椅子から半ば立ち上がり、下品なハンドサインをリングに向けながら怒鳴った。

『ガッデ~~ム! オレの可愛い妹に「白い雌牛」だとォ~~!? ……後で覚えとけよスパニッシュ野郎!』

 放送席の実況アナが慌てて手を伸ばし、ジョニーのジャケットの裾を掴んで机に引っ張る。

『お、落ち着いてください、ジョニーさん! 解説! 今は解説がお仕事ですから!』

『オウ、ソーリー! そうだったな。建前上はフェアに喋らねーといけねえんだった、アイ・シー!』

 ジョニーは肩をすくめ、ずれたヘッドセットを直しながら座り直す。

『男女対決とは言え、身長はわずか2センチ差。シロオニ・ベスの鬼由来の怪力は女子レスラー離れしていることを思えば、条件的にはウェイト差を埋めて互角の戦いが期待できそうですが、そのあたりいかがですか、ジョニーさん?』

 リング上で闘志を燃やすベスを見て落ち着いたのか、ジョニーは腕を組み、実況アナの言葉に陽気に返す。

『ベスのパワーはご機嫌だぜ、トムほどじゃないが、オレを越えるかもしれん位にな。勝負はデカい方が優位が鉄則だが、この場合はあのスパニッシュ野郎がベスのパワーをいなしきれるかどうか、ベスがアイツをとっつかまえてねじ伏せるかどうか。そのあたりが肝だな』

 頷く実況アナから離れ、カメラが再びリングへと寄っていく。

『冷静な分析、ありがとうございます。それはそうとジョニーさん。放送席は禁煙なのでタバコは控えていただけると……』

 ジョニーは口にくわえていたタバコを慌てて外し、携帯灰皿を探してポケットをまさぐる。

『おっと、すまないジャパニーズ・マイクガイ! 今片付けるぜ! チョコとガムをやるからソーリー!』

『さらっと敗戦国ニッポンをバカにするのおやめください! さて、ジョニーさんが携帯灰皿でタバコを納めたところで、試合開始のゴングです!』

 ジョニーに渡されたチョコとガムを渋い顔で見つめて抗議しつつ、結局スーツのポケットに収めながら、時計を見てタイミングを図り、進行を切り上げる実況アナであった。

 

 試合開始のゴングが鳴り響く。ベスは迷うことなくマットを蹴った。一気に間合いを詰め、しなやかな脚を真っ向から振り抜くフロント・ハイキック。狙いは正確にフェルナンドの顎を捉えていた。しかし、フェルナンドは最小限の動きで頭をそらし、突風を頬に感じるほどの距離でその蹴りを回避する。

「おっと……」

 回避した勢いのまま、フェルナンドの指先がベスの喉元へ鋭く突き刺さった。地獄突きだ。

「ウグッ……!?」

 鍛え上げられた指が気道を圧迫し、ベスは思わず呻いて後退した。涙目で激しく咳き込み、肺に空気を送り込もうとする。フェルナンドは追撃せず、僅かに間合いをとって大仰に肩をすくめてみせる。その見事なカウンター技術と彼の余裕の態度に、観客席から歓声があがった。

 ならばと、ベスは屈辱を振り払うように、低く構えてショルダータックルを見舞った。174センチの身長と鬼のパワーを活かした重い突進。だが、フェルナンドは再び赤いフリルをひらつかせ、まるで本物の闘牛のような軽やかなステップでその進路を外す。

「オーレ!」

 突進の勢いを利用され、ベスの首が強引に捕らえられる。フェルナンドは自らの体を回転させるようにしてベスの膝を掴み上げ、その頭部をマットへ引き込んだ。カウンターの「カポーテ・ピルエット」――変則的なDDTが炸裂し、ベスの顔面が硬いマットを叩く。

「あぐっ……!?」

 さらにフェルナンドは、技を解いて立ち上がる際、倒れ伏したベスの尻を揶揄するように掌で叩いてみせた。パシィン! と景気よく響いた屈辱的な音に観衆からどよめきが上がる。

「おっと、危ない。ハハ、そんなに力んで突っ込んでは、自慢の白い肌がマットの埃に塗れて汚れてしまうよ?」

 嘲笑を浴びせながら、フェルナンドは非情な追撃を加える。ダウンから上体を起こしかけたベスの顔面を、重いケンカキックが捉えた。

「が……ッ!?」

 鼻腔の奥がツンとし、視界が火花を散らす。女学生プロレスラーとして名を馳せるベスにとって、これほどまで「格下」の獣のように扱われることは耐え難い侮辱だった。

(調子に乗ってくれる……!)

 ベスはふらつきながらも立ち上がり、強引に組み付こうとした。得意のエクスプロイダーで投げ飛ばし、リズムを変えようとしたのだ。しかし、フェルナンドの洞察力はそれを許さない。

「これは失礼、泥臭いのは元々だったか」

 フェルナンドは、組み付こうとするベスの脳天に、硬い肘打ちを落とした。

「ちっ……!」

 鈍い衝撃が脳を揺らし、ベスはその場に膝をついた。フェルナンドは逃さない。跪いたベスの顎先を狙い、下から突き上げるようなニーリフトを叩き込む。ベスの頭部が跳ね上がり、彼女は再びマットに転がった。

 執拗に顔面ばかりを狙うフェルナンドの戦い方に、会場からは次第にブーイングが沸き起こる。「レディにひどすぎるぞ!」「正々堂々と戦え!」といった野次が飛ぶ。しかし、その同情こそがベスの誇りを最も深く傷つけた。

(……憐れまれるなんて、一番の屈辱だわ)

 グレイッシュブルーの瞳に、冷徹なまでの闘志が宿る。ベスは揺れる意識を強引に繋ぎ止め、フェルナンドが次の言葉を紡ぐ前に立ち上がった。その動きには、これまでの丁寧な仕草とは一線を画す「狂暴な鬼」の気配が混じり始めている。

 

 駆け寄って逆水平チョップを放つべく腕を振り上げたベスに、カウンターを合わせようとフェルナンドが身構えた次の瞬間――ベスはチョップを中止し、マットを力強く靴裏で叩いてさらに飛び込んだ。一気に間合いを潰し、フェルナンドの腰を抱える。

「む……フェイントか!」

 狙うはアルゼンチンバックブリーカーの体勢。そこから頭部を垂直に落とす、彼女の得意技「白鬼金棒落とし」へと繋げるつもりだった。ベスの両腕には焦りではなく、勝負を決めにいく確固たる意志が宿っている。しかし、担ぎ上げられるその瞬間、フェルナンドの体が蛇のようにしなった。

「小細工しようが、所詮、獣の動きは単調だ。……さあ、膝をつけ! それが相応しい姿だ」

 宙に浮いたフェルナンドは、ベスの肩の上で身を翻し、逆に彼女の首を抱え込んで反転した。重力を味方につけたカウンターの裏投げ。ベスの体が豪快にマットに叩きつけられる。それだけでは終わらない。フェルナンドは投げた勢いをそのまま殺さず、膝を突き出し、ベスの腹部へと突き刺すように着地した。

「がはっ……!」

 必殺の「エストカ・デ・フエゴ」。裏投げからのニードロップを受け、肺の中の空気がすべて絞り出された。ベスの視界が白く染まり、鳩尾に激痛が走り、指先が痙攣する。

(不味い、この男……態度が伊達でない強さがある……!)

 危機感。ベスの視界がぐらぐらと揺れ、霞み始める。フェルナンドは冷ややかな笑みを浮かべたまま、ベスの肩を抑え込み、フォールの体勢に入る。

『あ~っと、シロオニ・ベスがフェルナンド・デ・レオンを抱え上げて「白鬼金棒落とし」へ行くかと思いきや、それを逆手にとっての「エストカ・デ・フエゴ」が文字通り火を吹いたァ! これは完璧に入ったぞ! シロオニ・ベス、そのままフォールで押さえ込まれたぁ!?』

『ハッ! 徹底的にカウンターに特化してやがる。こりゃベスにゃ、ちょいとやり辛ぇ相手だな』

 興奮する実況に対し、ジョニーは冷静だった。悪態をつきつつもタバコを吸えない苛立ちか、所在なく片手を彷徨わせている。

『これは決まってしまうのでしょうか!?』

『まぁ、黙って見な』

 結局ジョニーは腕組みをしてパイプ椅子の背もたれに寄りかかった。その口元は信頼に根差した笑みで、端を歪められていた。

 

 すべりこんだレフェリーの手がマットを叩く。

「ワン! ツー!」

 絶体絶命。観客の悲鳴が耳をかすめる中、ベスは驚異的な粘りを見せた。極限状態の集中力が、彼女の筋肉に命を吹き込む。肩を上げるのではなく、ブリッジで背中を浮かせることで、強引に3カウントを阻止したのだ。

「……ほう、まだ抗うか」

 フェルナンドがわずかに眉をひそめた。顔面への執拗な攻撃、得意技の阻止からの「エストカ・デ・フエゴ」での鳩尾への強烈な一撃。女子レスラーの心を折るには十分以上の攻撃のはずだったが、この娘の目はまだ確かな闘志を燃やしている。

 ベスは荒い呼吸を繰り返しながら、よろよろと立ち上がった。その白い肌には、マットとの摩擦や衝撃による赤みが滲んでいる。

「……無理をしているが、苦しいでしょう? その首も、私の技術(リード)からは逃げられない。大人しく眠った方が楽だぞ、白い雌牛」

 フェルナンドがとどめを刺すべく、踏み込んだ。ベスは逃げるのではなく、あくまで反撃に出るべく前へと踏み出した。だが、フェルナンドはその動きに反応し、迎撃のバックスピンキックを放った。

「……!?」

 しかし、空を切ったのはフェルナンドの脚だった。これもフェイントだったのだ。ベスは最小限の動きでバックスピンキックを回避し、体勢を崩したフェルナンドの無防備な懐へ飛び込んだ。

「ああああッ!」

 胸板を震わせる重厚な衝撃音が響き渡り、ベスの腕を支点にフェルナンドの身体が半回転した。

「ぐはっ……!?」

 彼女の放った渾身のラリアットは、優雅な闘牛士の体勢を無残に崩し、そのプライドを物理的にへし折ってマットに叩きつけた。それは彼女の兄、アカオニ・トムの「トムさんラリアット」を彷彿とさせるパワーに溢れた豪快で強烈な一撃だった。堪らずフェルナンドは激しく咳き込み、喉を抑えてマットを転げ回る。

「……はぁ、はぁ! さばく技術は見事ですけど、その技術を発揮する体力は、あまり長続きしないようね」

 ベスは乱れたアッシュブロンドの髪をかき上げ、冷徹なグレイッシュブルーの瞳で対戦相手を見下ろした。彼女の呼吸も決して楽ではないが、その言葉には強い確信が籠もっていた。 

「ぐおっ!?」

 ベスの容赦のないサッカーボールキックがフェルナンドの背を打ち据える。呼吸の乱れた彼への嫌がらせであり、序盤に顔ばかり狙われ挑発された意趣返しでもあった。

「カウンターしないのかしら? お目目も疲れてきた? 闘牛士さんご自慢の動体視力も、そろそろ限界のようね」

 その冷ややかな揶揄は、フェルナンドの冷静さを完全に奪い去った。貴族出身の彼は女性に見下ろされるのに慣れていない。これまでベスを「雌牛」と侮蔑し、余裕の笑みを浮かべていたスペインの獅子は、顔を真っ赤に染めて怒りに咆哮した。

「この……小娘がッ! 誰に口を利いている!」

 フェルナンドは激情に駆られるまま、がむしゃらにベスへと掴みかかった。だが、それは彼が最も嫌っていたはずの「野蛮な力任せの攻防」そのものだった。ベスはその短慮を逃さない。突き出された腕をいなすと同時に、瞬時にフェルナンドの背後へと回り込む。強靭な彼女の腕が回され、細い指先がフェルナンドの腰を強固にクラッチした。

「……リング上で、対戦相手に、よ」

 投げっぱなしジャーマンスープレックス。ベスのしなやかな腰のバネが爆発し、フェルナンドの体が美しい弧を描いて宙を舞った。パワーまかせの無造作な放り投げ。フェルナンドは後頭部からマットへ激突し、激しい衝撃で脳が揺れる。しかし、フェルナンドもまたスペインの若手エースとしての意地があった。意識が朦朧とする中で、追撃のために歩み寄るベスの気配を察知する。

(……まだだ! この俺が、女相手にこんな場所で終わるはずがない!)

 フェルナンドは倒れたままの体勢から、死に物狂いで脚を振り上げた。ハンドスプリングでの側頭部を狙ったカウンターキック。ベスのこめかみを捉えたその一撃は、本来であれば一発で試合を決めかねない破壊力を持っているはずだった。だが、極度の疲労とダメージは、フェルナンドの蹴りから鋭さを奪っていた。ずるりと回転した赤いバンダナが蹴りの打点を滑らせ、こめかみへの一点集中ではなく側頭部を削るような衝撃へと変えてしまう。

 それでもベスの表情は大きく歪み、彼女の身体がふらりと揺れる。十分に衝撃はあった。視界も一瞬暗転した。しかし、彼女の闘志と意識を断ち切る事は叶わなかった。ベスは倒れない。マットに膝をつきつつも自らの身体を支えるように踏みとどまると、眼前の体勢を崩したフェルナンドの頭部を両手で力強く掴み取った。

「逃がさない……!」

 引き寄せられるフェルナンド。その目前に迫るのは、ベスの硬い額だった。 ゴツリ、と凄まじい乾いた音がリングに響く。渾身のヘッドバット。脳天を直接叩きつけるような暴挙に近い一撃に、フェルナンドの意識は完全に飛びかけた。だが、その代償はベスにも現れた。あまりの衝撃に、額の生え際から鮮血が滲み出す。それは、前日のリックとの激闘で刻まれた傷跡が、今のヘッドバットによって再び開いたものだった。

 バンダナに吸われつつ、わずかに一筋、鮮やかな赤い血が、ベスの白い額から鼻の脇を伝い、顎へと滴り落ちる。透き通るような白い肌を紅が彩る。その姿は、可憐な少女の面影を消し去り、戦場に降臨した「白鬼」としての凄絶な美しさを完成させていた。バンダナはベスの視界を血液が阻害せぬよう、しっかりと守ってくれていた。

 フェルナンドは、血に濡れたベスの貌(かお)を見て、本能的な恐怖に戦慄した。

「くっ……!? ハァッ! ハァッ! こ、こんなバカな……!? 貴様、本当に女か……いや、本当に獣の類か……!?」

 ベスは血を拭うことさえせず、口元に凄艶な笑みを浮かべた。

「あら、もう息切れですか? スペインの誇り高い闘牛士さんが、女学生の私に負けるなど、恥ずかしいとは思いませんか?」

 彼女の声は、どこか楽しげですらあった。ベスはフェルナンドの髪を無造作に掴み、無理やり引きずり起こす。咄嗟にサミングを狙うフェルナンドの見苦しい悪あがきをスウェーで躱すと、舌なめずりしてボクシングのようなステップを踏んだ。

「顔を狙うのが本当に好きね。ならお望み通りこちらもそうしてあげるわ!」

 ベスは片足を半歩引き、肩をすぼめて顎を深く引いた。拳は頬の高さ。無駄な動きのない、研ぎ澄まされたボクサーの構えだ。そこからコンビネーションパンチが繰り出される。

「ゴー! トゥー!」

 右の拳がフェルナンドの左頬を打ち、左拳がフックとなって右頬を抉る。

「ぐっ! ……おごっ!?」

 解説席でジョニーが満面の笑みを浮かべる。それはベスの兄、クロオニ・ジョニーの必殺技(フェイバリット)であった。

「ヘヴン……ッ!」

 ワンツーパンチからの全力を込めたアッパーカットが顎をカチあげる。フェルナンドの脚がマットを離れ、その身が宙を舞って背中から大の字にキャンバスにダウンした。ベスが見せた事のないまさかのボクサー仕草に彼女を良く知るファンたちから狂喜の歓声が噴き上がる。

 

 実況アナが、思わず椅子から乗り出した。

『な、なんと!? まさかのボクシングスタイルで殴り飛ばした!? シロオニ・ベス選手、堂々と反則攻撃だ!?』

 手をひらひらさせながらジョニーがパイプ椅子の背に寄りかかって足を組む。

『まぁ、そう言うなよ、ジャパニーズ・マイクガイ♪ EQTじゃ反則は抗議されるまではオーケイなんだろ? いやぁ、ベスのヤツやってくれるぜ! 自分の技がこうして他人に披露されるってのは初の経験だが、なかなかどうして気恥ずかしいじゃねえの! オウヘェル、柄にもなくオレがブラーッシンしちまうぜ!』

 鼻の下を指先で擦るようにして照れ隠しするジョニーを実況アナがジト目で見つめる。確かにルール上は抗議されてからレフェリーの反則カウントは開始される以上、こうして殴り倒されてしまってから後追いで抗議したところで、せいぜい注意を受ける程度のことにしかならないだろう。

『シロオニ・ベスならまだしも、ジョニーさんに赤面されてもですね……』

 ライダージャケット風体のサングラスの大柄な男の赤面に価値などないと断じた実況アナだったが、どうやらそのツッコミはジョニーのツボにはまったらしい。

『HAHAHAHAA!』

『痛い!? 背中をバシバシ叩かないでください、ジョニーさん!?』

 涙目で抗議する放送席の茶番をよそに、試合は続く。

 

 ベスはすぐさま立ち上がり、獲物を仕留める最後の手順に入る。

「これで……終わりです」

 朦朧としながらも無意識に後ずさるフェルナンドの両腕を捕らえ、ベスはその腕をフェルナンドの腹側でクロスさせてロックし、逃げ場を完全に奪う。彼女の究極の必殺技を放つための「枷」がはまった。

「……W.O.X.B(ホワイト・オーガ・クロストゥーム・ボム)!」

 叫びと共に、ベスはフェルナンドの巨体を高々と担ぎ上げた。逆さまに吊るされたフェルナンドの視界を観客席と天井照明が通過する。

 

 ──轟音。

 

 完璧な角度でマットへと叩きつけられた変形パワーボム、「W.O.X.B」が炸裂した。剛力で絡みとられて技術を封じられ、ダメージに朦朧として体力も限界の闘牛士に、この衝撃を耐える術はなかった。

 ベスがフェルナンドの両脚を固く抱え込む渾身のフォール。

「ワン!」

 レフェリーの手がマットを叩く。

「ツー!」

 フェルナンドの瞳は虚空を見つめ、指先一つ動かない。あらゆる攻撃を捌き退けてきたその高い技術がゆえに、フェルナンドには泥臭い体力の削り合いの経験や、気力で体力を凌駕するような底力やタフネスは身に着ける機会がなかったのだ。

 だから、返せない、立ち上がれない。

「……スリー!」

 

 試合終了のゴングがアリーナに鳴り響いた。勝者、シロオニ・ベス。鳴り止まない喝采の中、ベスは額から流れる血を手の甲で無造作に拭おうとして、そっとバンダナに触れて微笑んだ。今日の自分はたった一人の孤高の戦士ではなかったと気づいたのだ。

 

 荒い息を吐きながら立ち上がり、静かな笑みと共に勝利の拳を突き上げるその姿は、もはや誰にも「雌牛」などとは呼ばせない、真の鬼の威厳に満ちていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告