「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」 作:八意あまつ
「このリングは、絶望の羽が舞い散る終焉の地……。さあ、漆黒の闇に呑まれる準備はできていて?」
会場に響き渡る低い声音。黒髪のショートボブを揺らし、紫の瞳に冷徹な光を宿してリング中央に立つのは、かつての正統派「ライジング雫」から変貌を遂げた悪役女子プロレスラー、オディール久我である。黒と深い紫を基調とした、金色の縁取りが鈍く光るワンピースタイプのリングコスチューム。その露出度の高さとは対照的に、手首を飾る黒いファーは獲物を絡め取る黒鳥の羽を彷彿とさせた。網タイツに包まれたしなやかな脚がキャンバスを踏みしめ、一歩ごとに獲物へのカウントダウンを刻む。その佇まいと笑みには優雅さと邪悪さの片鱗が感じられる。
リング上で彼女と対峙するのは、メキシコ代表の若手レスラー、リカルドだ。彼は褐色の肌に白のプロレスパンツを穿き、その下から覗く太腿を黒いタイツで覆い、足元を白のリングシューズで固めたルチャドールだ。ツンツンとした黒髪の下、八重歯の覗く無邪気な笑顔が眩しい、幼さをどこか残した少年であり、身長148センチと小柄ながら、その全身はバネのように引き締まっている。彼は不敵に微笑む久我を見上げ、屈託のない声を上げた。
「ワァー! おねーさん、その服カッコイイね! 似合ってるヨ!」
久我の眉がわずかにぴくりと動く。恐れられ、忌み嫌われてでも愛する人に己を焼きつけたいと願う黒鳥は、素直に「カッコイイ」と憧憬を向けられる事を想定していなかった。対応を思いつかず、内心ちょっと嬉しさもあった彼女は、ひとまずその称賛を無視することに決めた。気を取り直して芝居がかった動作を再開する。ビシッと指先をリカルドに向けると、再び不敵な笑みを浮かべてみせる。
「ふふ、巣から零れ落ち最期を待つ仔雛のようなその……」
「?? ごめんネ、簡単なニホンゴじゃないとボクわからないよ!」
リカルドは首を傾げ、大きな瞳をパチクリとさせた。必死に構築した「黒鳥」の世界観を、言語の壁というあまりにも身も蓋もない理由で遮断された久我の頬が、わずかに引き攣る。彼女は精神的な優位を保とうと努めていたが、リカルドの屈託のない瞳には「悪の威圧」など一欠片も届いていなかった。久我の胸の内で、張り巡らせた「闇の羽根」がぱさりと落ちる音がした気がした。
会場の大型ビジョンに両者の戦績が映し出される中、放送席では実況のアナウンサーが、もはや隠しきれない困惑をマイクに乗せていた。観客席には、緊張と困惑と笑いが入り混じったざわめきが広がっていた。トーナメント一回戦とは思えない空気が漂い始めている。
『さぁ、続いてはEQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦一回戦第三試合。対戦カードは3勝1敗1引き分けの勝ち点7でEブロックを突破した日本代表選手のオディール久我と3勝2敗の勝ち点6ながら大荒れのFブロックを辛くも制したメキシコ代表選手のリカルドの対決! 既にリング上では舌戦が繰り広げられているようです! 解説にはムー帝国の王子にしてECT(アース・クラッシュ・トーナメント)ではベスト4に勝ち残ったウラシマ・まりんさんにお越し頂きました!』
実況がなんとか困惑を押し切って熱量を上げ、会場を盛り上げようとするその矢先、隣に座る解説者――ムー帝国の王子、ウラシマ・まりんが、呆れたように鼻を鳴らした。
『どーもじゃん。つーか、舌戦? どう見てもカッコつけた嬢ちゃんがガキンチョにボケ殺しされてるコントにしか見えねーじゃん!』
ウラシマの容赦ない指摘に、実況は一瞬言葉を詰まらせ、慌てて咳払いをした。だが、実況もまた、リカルドの無垢な笑顔に毒気を抜かれ、ポーズを崩しかけている久我の様子を見て、思わず肩を落とすように溜め息を漏らした。
『言葉の違いによる意思疎通の齟齬……バベルの塔以来続く人類の呪いは強敵でしたね……』
『ンな大層な話かよ! 嫌じゃん! 嫌じゃん! 普段は読者がストレスなくお読みいただけるよーにとかテキトーぶっこいてる癖に、こういう時だけ言語の違いを持ち出すのははっきり言ってダブスタじゃん!』
放送席のテーブルを叩いて抗議するウラシマに、実況は冷や汗を拭いながら必死のフォローに回る。
『それ以上、いけません! リングの上では同時通訳アプリの恩恵も受けられないとか、なんかこうふわっとした理由でそこは流して差し上げてください!』
もはや実況はツッコミを越えて、ただの痴話喧嘩を仲裁するような形相だ。
『あー、もうグダグダじゃん! 誰じゃん、余計なこと言い出したのは!?』
『あんたですよ!? とにかく、ここで試合開始のゴングです!』
カーン、と乾いた音が会場に響き渡り、噛み合わない対峙は強制的に「戦闘」へと移行した。
「……いいわ。言葉が通じないのなら、その体に刻み込んであげるだけよ」
久我は苛立ちを乗せ、しなやかな右脚を高く振り上げた。惜しみなく披露された脚線美に思わず目を見開くリカルドへ、直後、空を切り裂くような鋭いかかと落としが襲い掛かる。だが、リカルドはそれを紙一重で、まるで遊んでいるかのような軽やかさで後方へ飛び退いてかわした。
「おっと! 危ないナ!」
回避直後、リカルドはバックステップから身を屈ませると、獲物を狙う豹のように体を弾ませる。狙いは久我の振り下ろして地に着いた直後の膝だ。弾丸のようなドロップキックが、久我の右足の膝のやや下あたりを削るように穿った。
「くっ……!」
痛みに姿勢を崩した久我の背後に、そのままリカルドは風のような速さで回り込む。小柄な体を密着させ、久我の脚に脚を絡めて、肩をロックして上体を捩じり上げる。コブラツイストに囚われた事に気付いた久我は脇腹の引き攣れるような痛みに吐息をつく。だが、久我も持ち技の一つにしているが故に、その滑らかなセットアップに少年のような見た目によらぬテクニックを認めて、技に耐えながらも彼女は笑みを深めた。
「……へぇ?」
だが、余裕を見せるための黒鳥オディールの不敵な笑みは長くは続かなかった。密着したリカルドは久我を締め上げながら無造作に、その上体をロックしていた左手を動かして久我の胸を掴んだのだ。そして弾んだ感動の声を上げる。
「オォ!? おねーさん、おっぱいすごいやわらかいね! びっくりしたよ!」
純粋な、あまりにも純粋な感嘆。しかしそれは久我にとって、リング上のどんな罵倒よりも破壊力のある言葉だった。
背中越しに伝わる少年の体温。それ以上に久我を動転させたのは、コスチューム越しにフワフワと胸を揉みしだく掌と指の感触だった。
「ひゃっ、あ……っ!? な、何を、どこを触って……!」
締め上げられる痛み以上に、逃げ場のない密着状態でいともたやすく行われるえげつない暴挙。久我の顔は瞬時に林檎のように赤く染まり、ヒールとしてのクールな仮面は無残に剥がれ落ちた。「雫」としての羞恥心が悲鳴を上げる中、彼女は悶絶しながらも、その屈辱を振り払うべく必死にリカルドの腕を掴んだ。
「離しなさい、この……不届き者が!」
渾身の力で前方へと投げ飛ばす腰投げ。柔道の大腰のフォームで綺麗に投げ飛ばされたリカルドがマットを転がる。だが、ようやく解放されたのも束の間、転がった先でリカルドはサードロープを蹴って体勢を立て直すと、低空飛行するツバメのごとく駆け込んでくる。
「……ッ!?」
「あはは、おねーさん顔真っ赤だ! 面白いね!」
リカルドは滑り込むようにして身体ごとぶつかり、久我の足元を刈った。たまらず体勢を崩す久我の右脚を両腕で、左脚を両脚で、それぞれ絡めとって、そのまま勢いよくゴロゴロと回転を始める。ローリング・クレイドルに視界が激しく回り、レッグスプリットに遠心力が負荷を加えながら、久我のコスチュームに包まれた尻が、そしてその網タイツに包まれた両脚が、観衆の目前で無防備に晒される。
「この技スキ! ボクもムラムラするし、お客さんも喜ぶんだ! サービスだヨ!」
「ちょ、やめ……っ、こら! なんて辱め……く、屈辱……ッ!?」
リカルドの「サービス」という言葉は、久我のプライドをハンマーでガンガンと打ち据えて来る。回る視界の中で、彼女は必死に悪役の余裕を保とうとするが、どうしても怒りと羞恥が彼女の表情を侵食してしまう。このまま振り回されれば、オディール久我という存在そのものが、ただの笑い者で終わってしまうのではないか。そんな危機感が彼女を焦らせた。
リング上で行われているのは、もはや技術の攻防ではなく、一方的な「純真という名の蹂躙」だった。放送席では、ウラシマが身を乗り出し、開いた口が塞がらないといった様子で固まっている。
『な、なんてガキじゃん……!』
その震える声を聞き、実況のアナウンサーは早合点した。リカルドの見せた、あのコブラツイストから足関節の移行へと繋げる卓越したレスリングセンス。それをムーの王子が戦慄をもって評価したのだと信じ、興奮気味にマイクへ叫ぶ。
『なんと! リカルドの技量はオディール久我にひけをとっていませんが……ウラシマさんをして戦慄させるほどですか!?』
実況の興奮を余所に、こめかみに一筋の汗を垂らしてウラシマはリングを凝視している。
『し、試合中に堂々と、おムネを揉むとか、あいつ……勇者じゃん!?』
驚愕のあまりふるふると震えるウラシマに実況がドドッ! と放送席でずっこけた。
『どこに感心してんですか、どこにッ!?』
ウラシマは興奮のあまり立ち上がり、両手を戦慄かせる。
『感心しないでかッ! 見るじゃん、今だって女の子の股を開かせながら大回転じゃん! その手が……そんな手があったじゃん!? ダングラールとエキシビジョンマッチした時のオレにあの発想があれば……!?』
遠い目で過去の対戦を振り返り、自らの「戦術的ミス」を悔やむウラシマ。その隣で、実況は顔を覆って力なく囁いた。
『……また、イカ子さんにデカいイワシでブン殴られますよ?』
その忠告すら耳に入っていないのか、ウラシマは回転する久我の惨状を、まるで聖画でも拝むような熱烈な眼差しで見つめ続けていた。もちろんウラシマが観客席のイカ子とヒラメ子に白い目で見られている事は言うまでもない。
「ふざけないで……!」
回転の合間、久我は強引に右腕を振り抜いた。遠心力を利用し、朧げに黒く輝く闘気を纏って、突き刺さるような一撃を放つ。どこか三郎太のファイナル・エルボーにも似た──しかし、どこか纏うオーラに邪悪さを感じるエルボー・スマッシュが、脚を捕らえるリカルドの両脚の交差点を打ち抜いた。
「痛っ!?」
衝撃でリカルドの回転が止まり、技が崩れる。久我は荒い息をつきながら、倒れたリカルドの首元に、復讐せんと自らの脚を絡ませた。
「……黙らせてあげるわ」
マットに背をつけた状態から、久我は強靭な柔軟性を活かしてリカルドの頭部を両脚で挟み込んだ。首四の字固め――発達した女子レスラーの太腿が、少年の細い頸部を容赦なく圧迫し、逃げ場を奪う。今の彼女に中二病的な台詞を吐く余裕はない。ただ無言で、怒りのままに締め上げていく。紫の瞳には、先ほどまでの羞恥を塗りつぶすような、黒い炎が宿っていた。
「ぐぇぇ……!?」
リカルドの顔が苦痛に歪む。彼はバタバタと足を動かし、必死にマットを掻いた。だが、久我の締め上げは容赦がない。ミチミチと軋むような音がリング上に響く。リカルドは白目を剥きかけながらも、本能的に近くのロープへと足を伸ばした。
「……あ、ぐ……っ!」
必死の思いで、リカルドのリングシューズのつま先が下側のロープの上に引っ掛かった。
「ブレイク! ロープ・ブレイクだ!」
レフェリーが割って入り、久我を引き剥がそうとする。久我は舌打ちしたい衝動を抑え、ゆっくりと脚を解いた。だが、離れ際に彼女は、立ち上がろうとするリカルドの胸板を、網タイツの足で一発、踏みつけて行く。
「フン!」
「ぎゃっ!?」
カエルが潰れたような声をあげるリカルドを見て、レフェリーがロープブレイク中の久我の攻撃に注意の声を上げた。
「こら、オディール!」
肩をすくめるような仕草でレフェリーをいなして間合いを離す久我。リカルドの抗議が無い為、レフェリーもそれ以上の追及はしない。そのリカルドは咳き込みながらもロープを掴んでよろよろと起き上がる所だった。
ロープにもたれ掛かるようにして息を整えると、彼は楽しそうな、そしてどこか陶酔したような笑みを浮かべる。
「ゲホッ……ハァ……。おねーさん、やっぱり強いね……。ボク、ますます気に入っちゃった」
少年は、咳き込みながらも、その瞳から輝きを失っていない。それどころか、死線を潜った高揚感が彼の小さな体から熱気となって立ち昇っている。
「……まだ、終わっていないわよ。雛鳥さん?」
無感情な声で答える久我の瞳は、再び「黒鳥オディール」の冷徹さを取り戻しつつあった。しかし、その一方でリカルドの少年特有の無邪気さと、底の知れない生命力に久我の苛立ちは密かに募っていた。
ロープから手を離したリカルドに久我がさらなる追撃を加えようと掴みに動いた、その瞬間、ふらついていたリカルドの動きが、獲物を狙う野獣のように鋭く変化する。
久我の視界からリカルドが消えた。
いや、彼は尻もちをつくようにしてマットに屈みこむと、自分を抑えつけようと迫る久我の足を、両腕でがっしりと抱え込んでいたのだ。
「つかまえた!」
リカルドは巧みに重心をコントロールして、久我を後方のロープ際へと力任せに転倒させる。不意を突かれた久我がマットを叩いて受け身を取る間に、リカルドは猫のような身軽さでトップロープを飛び越え、場外の側に体を投げ出した。しかし、その手は久我の脚を離さない。
「お姉サンのコト、ボク好きになっちゃったヨ! ボクの恋人にナラナイ?」
ロープを支点に、リカルドの四肢が蜘蛛のように逆さになった久我の両脚と首、脇の下に絡みつく。メキシコ伝統のロープを使った変形関節技、タランチュラ。リング外側にぶら下がるリカルドの体重がすべて久我の腰にのしかかり、ロープの食い込みが彼女の身体を苛む。
「お黙りなさい! 私を……誰だと思っているの……っ!」
久我は苦悶に顔を歪めながら叫んだ。愛の告白というにはあまりにも身勝手で、あまりにも軽い少年の誘い。黒鳥としての威厳を保とうとする彼女の矜持を、リカルドは物理的にも精神的にも締め上げていく。両脇の下を通ったリカルドの脚が久我の腕の可動部を制限しつつ喉をクラッチし、両脚は彼の腕にがっちりと捕まっている。逆さになった頭に血が上り、腰にはギシギシとロープのテンションがダメージを徐々に浸透させて来る。
(不味い……! この子、本当に巧い、これは脱出できない……!?)
久我自身が関節技や締め技を得意とするからこそ、正しく状況を把握できた。もしこの技をかけたのが自分なら絶対脱出不能だ。できればルールなど一顧だにしない悪役としての優雅な余裕を見せ続けたかったが、彼女は決断する。歯噛みするような想いで久我はレフェリーに声を上げた。
「レ、レフェリー! ロープを使った攻撃は反則……! 抗議します!」
「リカルド! 反則だ、放せ! ワン! ツー!」
レフェリーが慌てて反則のカウントを数え始め、五カウント寸前でリカルドは満足げにその身を解いた。解放された久我は、激しく咳き込みながらロープにすがりつく。屈辱だった、まさかルールに守ってもらう時が来るとは黒鳥オディールとなってから考えもしなかった。久我はこの少年を対等以上の強敵とはっきり認識する。純粋さやスケベさに惑っている場合ではない。ここで勝てば次の本戦二回戦で勝ち残った宮川三郎太と対戦できるのだ。
久我は自分の一番を再確認する。あの人に自分を焼きつけるために。そのために不要なものはみんな捨てる、そう、それが必須だと言うなら「黒鳥オディール」すら捨ててでも、願うただ一つの為に。乱れた呼吸を整える間もなく、彼女の紫の瞳に再び研ぎ澄まされた光が灯る。
だが、立ち止まっている暇はなかった。リカルドがエプロンサイドから、弾丸のような勢いでリング内へ戻ろうとトップロープを越えて跳躍する。久我は霞む視界を無理やり固定し、迎撃の体制を整えた。ロープを掴んでマットを蹴る。
「堕ちなさい……!」
スワンダイブ式にロープを踏もうとしていたリカルドを、自らトップロープを支点に舞い上がった久我が空中迎撃する。まさか跳びあがってくるとは思わなかったのだろう、反応が追い付かないリカルドの後頭部へ、久我の右足が閃光のように叩き込まれた。咄嗟に放った空中延髄斬り。ロープを掴んだ腕が、反動で弾き飛ばされそうになる身体を辛うじて繋ぎ止める。
「嘘デショ……ぐはぁ!?」
リカルドがリング内のマットへ撃墜されるのと同時に、久我はロープにしがみつくようにしてなんとか着地した。久我は肩で息をしながら、ようやくこの生意気な少年を黙らせたと確信した。しかし、リカルドの「天賦の才」は彼女の予測をさらに超えていた。
「あいたた……でも、まだまだ!」
マットに転げ落ち、延髄斬りで脳を揺らすような衝撃を受けたはずのリカルドが、ふらつきながらも立ち上がる。
「頑丈ね……!」
空中故に衝撃が逃げ、十分浸透しなかったか。そう理解して笑みを引きつらせた久我が追撃のエルボーを放とうと肘に闘気を込めて踏み込んだ瞬間、リカルドは背中を見せて鋭く回転した。風を切る音が響き、リカルドの踵が久我の脇腹を正確に捉える。
「Toma!(これでもくらえ、の意)」
強烈なスピンキックを受けて、激痛に闘気を散らしてしまい、堪らず久我が一時後退する。
「くぅぅ……ッ!」
その隙を、リカルドは見逃さない。リカルドは一気に距離を詰め、苦悶する久我をコーナーポストへと追い詰めた。彼は久我の首を力強く抱え込むと、コーナーのセカンドロープを蹴って力強く跳躍する。
「いくよ、お姉サン!」
空中で久我の体を反転させ、自らの背中をマットに叩きつける勢いで彼女の脳天を突き刺す。それは「不知火」と呼ばれる技だ。コーナーを利用し、重力と加速を味方につけた一撃が、久我の意識を一瞬だけ真っ白に塗りつぶした。マットに大の字になってダウンする久我。朦朧とした視界に天井照明が輝く。
(き……効いた……! 動け、止まるな。空中殺法使い相手にダウンしたままは……不味い……!)
しかし、リカルドの猛攻は止まらない。久我の危惧通り、彼は軽やかな足取りでコーナーの頂点、トップロープへと駆け上がった。
「ムーンサルト……プレスだヨ!」
月明かりの下で踊る精霊のように宙を舞い、完璧な弧を描いて着弾したリカルドの体が、久我の腹部を深く沈ませる。
「……かはぁ……ッ!?」
肺の空気を強制排除され、視界がチカチカと明滅する。リカルドの小柄な体躯からは想像もつかない、急降下爆撃のような衝撃。
(この子……本当に強い……ッ! 世界……大会か……! くそ、あの人とか言う前に、こいつに全身全霊向けないと……)
リカルドがそのまま覆い被さり、レフェリーの右手がマットを叩く。キャンバスを打つ乾いた音が、処刑のカウントダウンのように会場に響き渡る。
「ワン! ツー! ……スッ!?」
三つめが叩かれる寸前に黒鳥が吠えた。
「……う、あああああ!」
久我は肺に残ったわずかな空気を絞り出し、泥の中から這い上がるような執念で腕を上げて身を捻り、フォールを返した。弾き飛ばされたリカルドの体がマットを転がり、久我の全身から限界を超えた熱を帯びた汗が飛沫となって舞い散る。
「ワォ、まだ動けるんだね! さすがボクが好きになっちゃったお姉サン、強いなぁ」
フォールを解いたリカルドは勝ちを確信していたのか、驚きと共に無邪気な笑みを浮かべた。
放送席の実況は、椅子から身を乗り出して絶叫する。
『さぁ、オディール久我。絶体絶命のフォールをなんとかカウント2.9で返しました! リカルドが繰り出す変幻自在のルチャの前に、完全に翻弄されております!』
会場のボルテージが最高潮に達する中、それまで茶化すような態度を崩さなかったウラシマが、スッと細めた瞳をリングへ向けた。その表情から冗談の色が消え、格闘家としての鋭い感性が言葉に宿る。
『真面目なハナシ、あのガチンチョは結構動けてる方じゃん。小さくて軽いせいで今の一撃で決められなかっただけで、総合的なパラメータで言えばあのお嬢ちゃんを上回ってるじゃん』
ウラシマは淡々と、だが確かな敬意を込めて分析を続ける。ムー帝国の超科学によってつくられたバイザー越しに見えるデータがなくとも、リング上を見守る歴戦の彼には、リカルドの無邪気さの裏にある本物の「強さ」が見えていた。
『ただ、それだけで勝負が決まるわけじゃないのがプロレス。お嬢ちゃんの方も覚悟決めたみたいだし……こりゃ、まだ分からんじゃん』
ウラシマの言葉に呼応するように、実況もゴクリと唾を呑み込んだ。リング上では、髪を振り乱した久我が、マットに手をついて身を起こそうとしていた。
なんとかフォールを返したものの、四つん這いに蹲ったまま、荒い息をつくのが精いっぱいの久我へ、再びリカルドが迫る。引き起こすか絡みついて関節技に捕えるつもりだろう。だが、その瞬間こそが、自らのグラウンド技術に絶対の自信を持つ久我が待ち望んでいた唯一のチャンスだった。
久我はマットに這いつくばった状態から、獲物を狩る毒蛇のように腕でリカルドの足元を払った。バランスを崩した少年の足を瞬時に捕らえ、グラウンドの攻防へと引きずり込む。
「……いいわ、今この試合だけは貴方が黒鳥オディールの最大の敵よ!」
久我は自らの足をリカルドの脚部に掛けてロックし、同時にその腕を背後から脇の下を通して首に絡めると、力強く引き絞り上げた。ティアドロップボディロック。久我が磨き上げてきた、逃げ場のない変形STFだ。
「いだだだ!? 何、お姉サン!? 急に怖いナ!」
リカルドの小さな体が、反らされる。だが、彼はこの絶体絶命の状況下でさえ、野生の勘を働かせていた。リカルドは久我のクラッチの僅かな緩みを見逃さず、体を捻ってその腕をすり抜ける。逆に久我の背後へと回り込み、足を、捻るように掴んで折り畳み、顎に腕をかけて弓なりに反り上げる。空中を舞う華麗な翼が、地を這う無慈悲な牙へと姿を変える。メキシコの先達から受け継いだ関節地獄(ジャベ)の深淵が、久我の柔軟な肉体を逆に縛り上げていった。
「ボクだって、負けないもんね!」
リバース・バイパーホールドでやり返しながら、リカルドは久我の背中で勝ち誇ったように笑う。簡単に言っておいてなんだが、グラウンド巧者の久我相手にこれをできるというのは驚くべき技巧だ。少なくとも三郎太や御子柴にも不可能なことであり──パワー偏重のベスは論外だ──その事実がリカルドの若手としての天才性を証立てていた。
「……はぁ、はぁ。それはどうかしら?」
久我とて内心で驚いてはいる。ルチャという世界は御子柴を通してくらいしか知らないが、キャリアでそう差があるわけでもないのに、リカルドは空中殺法であれだけの技量をみせてなお、グラウンドもこの動きだ。はっきり言って僅かな嫉妬すら覚える。だが、グラウンドの技量一点に絞って言えば、まだ久我の方が上手だ。それをこの絡み合いの技術比べで悟ったからこそ久我は自信を芯に余裕をもつことができた。
「しつこい雛鳥には、お仕置きが必要なようね」
久我の意識は研ぎ澄まされていた。彼女は自らの背中にしがみつくリカルドが軽量なのを逆手に取り、腰を深く落として技を脱すると逆に抱き着き、一気に立ち上がる。そして、そのまま自らの体を後ろへと投げ出した。轟音と共に、リカルドの後頭部がマットに叩きつけられる。
「アウッ!?」
強引なバックドロップの衝撃でリカルドがバウンドし、二人の間に束の間の静寂が訪れる。リカルドが意識を朦朧とさせながら、膝をついてふらふらと立ち上がろうとした。その無防備な背中を、久我は見逃さない。彼女は音もなくリカルドの背後を奪い、その両腕を背中越しにチキンウィングで固定した。さらに自らの足をリカルドの腿に絡め、逃げ道をすべて封鎖する。
「生意気に尾を立てておいて、女の子の技で負けるのも悪くないでしょう? 良い気持ちにさせてあげる。やったことはやり返される──思い知りなさい!」
久我の必殺技、ブラックアウト・フェザードロップが決まった、体勢悪く踏ん張れず、即座にリカルドはマットに押しつぶされてしまう。うまいこと平易な言葉遣いでリカルドにも理解できるようにセリフを調整しつつ久我は、自重をすべて浴びせ、逃げ場のない状態でリカルドの顔面をマットへと押し付けていく。
「いたっ、イタタ……! あ……痛い腕にお姉サンのおっぱいの感触……? いだだだだ!? うぅ……でも、お姉サンの言う通りカモ。なんかボク気持ちいいヨ!? 新しい世界に目覚めそう……?」
必死に辱めの言葉をぶつけた久我だったが、返ってきたのは絶望ではなく、あろうことか恍惚とした少年の吐息だった。
「……なっ!?」
自らの必殺技が、あられもない悦楽として受け入れられた衝撃。なんという強敵。メキシコの少年レスラーリカルドはまごうことなき黒鳥オディール久我にとっての最大の敵であった。久我は羞恥と怒りで顔を真っ赤に染め、思考を放棄するように叫んだ。
「もうッ! 勝手に目覚めてなさいッ!!」
ヤケクソ気味に全霊の力を込め、黒い羽で包み込むようにリカルドの意識を闇へと引きずり込んでいった。久我の腕に、限界まで絞り上げられたリカルドの関節が悲鳴を上げる確かな感触が伝わる。
「いだっ!? 痛い痛い痛いっ……あっ……だ、だめェ……ボクもぉ……ッ!? ギ……ギブアップぅ!!」
ついにリカルドが我慢の限界を超え、ギブアップ宣言。意識が落ちて完全な沈黙に追い込まれる前に、少年の口から降参の叫びが漏れる。レフェリーが試合終了のゴングを要請し、久我の勝利が宣言された。
カンカンカーン!
会場に鳴り響く乾いたゴングの音。それは激闘の終焉を告げると同時に、ある種の「凄惨な、あるいは奇妙な儀式」の幕引きでもあった。ドームを埋め尽くした観客の地鳴りのような歓声が、爆発的に膨れ上がる。放送席の実況は、ネクタイを緩め、汗を拭いながらマイクに吼える。
『決まったぁぁ! ギブアップです! 荒れに荒れた一戦、最後は日本代表、オディール久我が執念の「ブラックアウト・フェザードロップ」で、メキシコの超新星リカルドを深い闇へと引きずり込みました! 凄まじい攻防、そして……凄まじい精神力の削り合いでした!』
実況がプロとしての意地で「激闘」としてまとめようとする傍らで、ウラシマ・まりんは引き攣った笑いを浮かべ、どこか遠い目をしてリングを見つめていた。
『精神力の削り合いか……物は言い様じゃん。しかし、あのガキンチョの「新しい世界」とやら、安易に否定もできぬじゃん。黒髪の麗しい日本人女性に抱きしめられるように密着されて痛めつけられながら「もうっ! 勝手に目覚めてなさいっ!」とか言われるのはちょっとこう……えも知れぬエロスを感じなくもないじゃん』
あろうことか、まりんは放送用マイクに向かって久我のセリフをわざとらしく裏声で再現してみせた。実況席に、冷え冷えとした沈黙が流れる。
『裏声でセリフ真似するのやめてください、ウラシマさん。鳥肌がたってしまいます』
『それな』
『それなではありません! せっかく綺麗にまとめようとしてるんだから、変な方向にもってかないでくださいよ』
放送中であることを忘れたかのように、実況がこめかみに青筋を立てて詰め寄る。だが、まりんはどこ吹く風で、ぶんぶんと両手を振り、立ち上がってじだんだステップで抗議した。
『嫌じゃん! 嫌じゃん! オレのせいみたいに言われるのは心外じゃん! そもそも悪いのはあのガキンチョであってオレではないじゃん!』
『あー、うるせー! 放送席でドタドタじだんだ踏まんでくださいッ!?』
ヘッドセットを投げ出さんばかりに頭を抱える実況。その放送席のドタバタ劇を遮るように、会場のカメラが、勝利したはずの「黒鳥」の、なんとも形容しがたい横顔を大写しにした。
勝利の余韻に浸る間もなく、久我は憑き物が落ちたようにリカルドを解放した。息を荒くし、乱れたリングコスチュームを整えながら、オーロラビジョンに映る自分の表情に気付き、彼女は再び冷徹なヒールの仮面を被り直そうとする。だが、目の前の光景がそれを許さなかった。
「あー、楽しかった! おねーさん強いね! またヤろうね!」
涙目になってタップした直後だというのに、リカルドは弾けるような笑顔で跳ね起きていた。腕をさすって痛がっていはいる。だが、敗北の悔しさも、屈辱も、彼の中には存在しないようだった。ただ、全力でぶつかり合った喜びと楽しい時間を満喫したという満足だけが、その紫がかった大きな瞳に輝いている。
リカルドは屈託のない笑顔で、久我に向かって小さな右手を差し出した。握手を求めているのだ。久我はその手を呆然と見つめた。自分は勝ち、リカルドは負けた。しかし、この清々しいまでの開放感は何だろう。三郎太に自分を認めさせなければならない、最高の悪役を演じ、邪悪な心底を見せつけ、無理やりに焼き付ける事が全て――そんな自分を縛り付けていた「気負い」が、少年の無邪気な笑顔に溶かされていくのを感じた。
「……本当、調子が狂うわね」
雫は小さく、自分にしか聞こえないような声でため息をついた。差し出された手を握り返すことはしなかったが、彼女の紫の瞳から鋭いトゲは消えていた。パチィン! と音をたててリカルドの手のひらを叩いて拒絶し、そっぽを向く。
「あー、ヒドイよ、お姉サン!?」
「知らないッ!」
涙目で抗議するリカルドに大人げなく返す雫。
闇に沈んで、黒い羽を纏って舞う少女の心に、ほんの少しだけ、穏やかな風が吹き抜けていた。