「THE SABUROUTA ~太平プロレス興行日誌~」   作:八意あまつ

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第20話 英雄の残照! の巻【本戦1回戦第4試合「宮川三郎太VSポモナ・ウィリアムス」】

 東京ドームを埋め尽くした観衆の熱気が、地鳴りのような歓声となってリングに降り注いでいた。世界プロレストーナメント、EQT(アース・クェイク・トーナメント)本戦一回戦。その第4試合を控えた花道の奥、薄暗い入場ゲートの影で、ポモナ・ウィリアムスは震える手で自らの腹部をさすっていた。

「うぅ……お腹痛いです……。あんなにたくさんのお客さん、みんな叔父様の再来を期待してる……!」

 ブロンドのサイドポニーテールが、彼女の小刻みな震えに合わせて揺れる。かつて世界最強の男を決めるプロレス大会「ECT(アースクラッシュトーナメント)」において一度は優勝し、そして東京大会ではベスト8に勝ち残り、頂点を争った英雄の一人、アーチェリー・ウィリアムス。その姪であるという事実は、スイスの誇りと期待を背負う新星であると同時に、小心な彼女にとっては胃を直接握り潰されるかのような重圧となっていた。

 眩しい天井照明の光が降り注ぐ遠いリングの上、これから歩む花道の先には、これから戦う相手である日本代表選手の宮川三郎太がすでにリング中央で待ち構えているのが見える。聞けば、彼もまた、失踪した偉大な兄貴分にして師「ザ・モモタロウ」の後継者と呼ばれる男だった。奇しくも、この試合はかつての世界大会ECTの本戦で争った二人のレスラーの闘いの「その先」を想起させるものであったのだ。

「うぅ…。 い、行くしか……ないんですよね……!」

 入場テーマ曲が鳴り響き、ポモナは背中を押されるようにして歩き出す。セコンドを務めるスイスの弱小プロレス団体の練習生とマネージャーに左右を固められ、彼女は熱狂する観客たちの威圧感におののきながら花道を進み、リングへ向かう。トップロープとセカンドロープの間を抜けてリングインし、四角いキャンバスの上でポモナは三郎太と対峙した。彼は黒髪短髪の精悍な顔立ちに真面目そうな瞳を宿し、赤いショートタイツにニーパッドとリングシューズのみというシンプルな衣装で、その引き締まった肉体から静かな闘志を放っていた。

 レフェリーが中央でルールを確認する間も、ポモナの眉は不安げに八の字に下がったままだ。三郎太もどこかいぶかしげな表情を見せつつも、伏し目がちのままの対戦相手の様子を気遣っているように見える。

 

 両者がリング上に立ったのを見て、放送席では実況アナがマイクを掴んで興奮気味にアナウンスを繰り広げていた。

『EQT本戦、一回戦前半の最後の試合、第四試合が間もなく始まります! 対戦カードは、予選Gブロックを全勝で突破した日本代表選手の宮川三郎太と、4勝1敗でHブロックを勝ち点トップで制したスイス代表、ポモナ・ウィリアムスの戦い! かつてのECTで「ザ・モモタロウ」は「アーチェリー・ウィリアムス」を1回戦で破って、最終的に優勝トロフィーにまで手を届かせましたが、その弟分と直弟子という後継者同士の対決ははたしてどういう結末を迎えるのか! 期待が高まります!』

 案の定、彼らの背景に触れて観客たちを煽る実況アナ。その声が耳に入ったポモナの顔がさらに赤くなり、覚悟を決めているはずの三郎太まで、その構図を意識させられてしまう。

『解説は、かつて地味なキャラクターが災いしてか、そのアーチェリー・ウィリアムスに敗れてECT予選リーグで敗退した経緯があり、「ザ・モモタロウ」とも因縁深いアオオニ・マイクさんです! 両雄の代理闘争のようなこの試合、いかがですかマイクさん!?』

 マイクは不機嫌さを隠さず机を叩いて抗議交じりに語り出した。

『紹介どーもッ! ってか、地味なキャラ云々は余計なお世話だよ! なんでボクだけこういう扱いなのかなっ!?』

『ま、まぁまぁ……何もそんなに青筋たてんでもええやねん』

 アニメ版キン肉マンの委員長の口癖を引用してなだめる実況アナに、マイクはジト目で応じながら、渋々解説コメントを始める。

『ったく。代理闘争は言い過ぎでしょ。三郎太は弟分つったって別にマスクを継いだとかそういうのでもないわけだし、あのお嬢さん──ポモナちゃんだっけ? 彼女はアーチェリー・ウィリアムスの実の姪だろ? 変なプレッシャーかけずに個人同士の試合として見届けてやるべきだと思うね』

『至極もっともなご指摘ですね。たしかに我々は関係性だけで舞い上がっているところがあります。どちらも先達から受け継いだ技だけでなくオリジナルのフェイバリットも披露している戦士。ここは襟を正して戦いを見守るべきかもしれません』

 マイクに窘められ、居住まいを改めて語る実況アナ。しかし、その隣で当のマイクは早くも鼻の下を伸ばしていた。

『しかし、ポモナちゃん、かわいいよねぇ。あの頭の薄いヒゲのオッサンの姪とは思えないよ』

『マイクさん!? 正論が台無しの感想はお控えください!? って、ゴングの時間!? あーもー!?』

 慌てる実況アナをよそに、無情にも定刻通り、リングでは試合開始のゴングが高らかに打ち鳴らされていた。

 

 カーン!

 

 先ほどまでのおどおどした様子から一変。試合開始のゴングが鼓膜を叩いた瞬間、ポモナの瞳の奥に宿る「射手」の血筋が目を覚ました。速攻、駆けだしたポモナは怖気を振り払うかのように力強く地を蹴った。しなやかな肢体から繰り出されたのは、一点の曇りもない鋭いドロップキックだ。空気の壁を切り裂くような一撃が、様子の激変に戸惑って出遅れた三郎太の胸板を的確に射抜く。

「くっ……なんの!」

 だが、三郎太とて甘くはない。後方に吹き飛びながらも、すぐさまマットに手をついて跳ね起きる。どうやら先ほどの様子を、これ以上気に掛ける必要はないらしいと判断し気持ちを切り替えたのだろう。着地したばかりのポモナが体勢を立て直す隙を与えず、正面から躊躇なく、豪快なエルボー・バットを叩き込む。肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響き、ポモナの細い体がのけ反った。

「こっちも行くぞっ!」

 三郎太は攻撃の手を緩めない。彼は基本を何よりも重んじる。ポモナの腰を深く抱え上げると、そのままマット中央へ叩きつけるボディスラムを見舞った。

「あうっ……!」

 背中を強打したポモナだったが、その天才的な動体視力と身体能力は、投げられた衝撃さえも武器に変えた。叩きつけられた勢いを利用してマットを転がり、跳ね返るような動作でハンドスプリングから三郎太の頭部を両脚で挟み込む。

「何ッ!?」

 そのまま鮮やかな弧を描いて投げ飛ばすヘッドシザース・ホイップに三郎太の巨体が宙を舞い、マットに転がった。

「……ッ!」

 好機と見たポモナは、素早くマットに手をついて身を起こそうとしている三郎太の背後に飛びつく。叔父譲りの「関節の隙間」を見抜くセンスが、三郎太の防御の甘い箇所を瞬時に捉えていた。

「そこです。重心が浮きましたね!」

四つん這いになった三郎太の脚を捉えてテキサスクローバーホールドに極め、両手で顎を捕らえて、まるでキャメルクラッチのごとく反り返らせる。叔父であるアーチェリー・ウィリアムスが得意とした「アーチェリー・バックブリーカー」──弓式背骨折りだ。

「……捕まえれば、逃がしません!」

 流れるようなセットアップから極められた精緻な関節技によって、三郎太の背骨が弓なりに反り、苦悶の表情が浮かぶ。

「ぐっ……!?」

 ポモナの丁寧な、それでいて一切の妥協がない絞め上げが三郎太のスタミナをじわじわと削っていく。

 

『さぁ、まずは立ち上がりの応酬から、早々にポモナ・ウィリアムスが三郎太を「アーチェリー・バックブリーカー」に捕らえました。ウィリアム・テルの伝承よろしく射手が弓を引き絞るかのような豪快な反りに宮川三郎太、苦悶の表情!』

 放送席の実況アナは、思わず声を張り上げてモニターに身を乗り出す。リング上の緊迫感に引きずられるように、観客席からもどよめきが広がった。

『綺麗なフォームだ、修練が窺えるね。仕掛けも無駄なくスムーズだ』

 隣のアオオニ・マイクは腕を組み、技の入り方を食い入るように観察している。技巧派らしい目線で、細かな体重移動や関節の角度にまで視線が走っていた。

 技巧派を自認するアオオニ・マイクをして、唸らせるポモナの技量に実況アナも放送席の机から身を乗り出して興奮する。

『そうそう、たしかマイクさんもこの技でアーチェリー・ウィリアムス相手に、試合開始から2分そこそこで敗北したんでしたね!』

『事実で刺すのはやめろォ!?』

 無邪気な実況アナの心無い言葉にマイクが胸を押さえてよろめいた。観客席からも笑いが漏れ、緊張と熱気の中に一瞬だけ和やかな空気が生まれた。

『宮川三郎太、力任せに暴れて振り切ろうとしているが、ポモナ・ウィリアムスはこれを逃がさない! ウェイトこそ宮川三郎太が上ですが、身長では逆に2センチ、彼を上回るポモナ・ウィリアムス。ここはじっくり責め立てていく!』

 その言葉に、今まさに気付いたとばかりにマイクは手元の資料をめくった。

『……え、マジ? Oh...... ベスよりデカいのか、あの娘……』

 マイクはリング上で三郎太を締め上げるポモナの長い四肢を改めて眺め、どこか遠い目をして独りごちた。

 

 観衆からはスイスの若き天才の見事な技術に感嘆の声が上がる。しかし、三郎太の心は折れていなかった。

「ま……まだ……! このくらいでっ!」

 ひとしきり暴れても脱出が不可能と見るや、三郎太は自由な腕を使い顎に掛けられたポモナの手を殴りつけ、引きはがそうと力をかける。だが、無理な体勢から振るわれる拳では十分な威力は見込めない。ポモナは痛みに顔をしかめつつも全身のバネを使って三郎太を引き絞ることで反撃を封じにかかる。

「がぁぁぁ……ッ!?」

 文字通り弓の如く反り返った三郎太から苦悶の悲鳴があがった。背骨に沿って走る筋肉が極限まで引き伸ばされて悲鳴を上げ、飛び散る汗が照明を反射して飛沫となって宙に散る。観客席からも思わず息を呑む音が漏れた。

「三郎太、ギブアップか!?」

「の……ノォー!!」

 レフェリーの問いかけに掠れ声で拒絶を伝えながら、三郎太は殴るのをやめ、顎に掛けられたポモナの右手首を両手で掴む。そして――胸元へと、全身の残った力を振り絞って強引に引き込んだ。

「っ……!」

 不意の引き込みに、ポモナは上体を支えきれず思わず腰を浮かせる。尻がマットから離れた、その一瞬。三郎太は手を離し、左側へと体を投げ出すように倒れ込んだ。

「あっ……!?」

 垂直方向への負荷に特化したバックブリーカーは、急激な「横の揺さぶり」に弱い。完全に極まった状態から横倒しになったことで、極まっていた反りが別方向へねじれ、ポモナの脚のロックがわずかに緩む。

「ぐっ……今だぁ!」

 極められたまま無理に横倒しになった事であちこちが痛みを訴えるが、三郎太は歯を食いしばって動きを止めない。まず片足を引き抜き、ポモナの太腿を蹴りつけて怯ませると、もう一本の脚も引き抜き、顎のロックを振り払って技から脱した。

 マットを這い、転がるようにして間合いをとって荒い息をついて立ち上がる三郎太の頬を伝った汗がマットに落ちる。ポモナも蹴られた太腿を抑えて目の端に涙を浮かべながら、ふらつきつつも立ち上がって、両者は再びリング上で睨みあった。

 

 放送席では、実況アナが興奮のあまりヘッドセットをずらし、身を乗り出してリングを見入っていた。一方、その隣でアオオニ・マイクは、何かに打たれたような顔で硬直している。

『凄まじい執念! 宮川三郎太、絶体絶命の危機を独自の機転で切り抜けました! まさに泥臭くも確実なエスケープ!』

 実況の絶叫が響く中、マイクはゆっくりと顎に手をやり、感心したように、あるいはどこか遠い目をして頷いた。

『あー……。成程、ああやって抜ければよかったのか』

 顎に手をやって感心したようにマイクは頷く。

『……マイクさん?』

 「数年が経過しているというのに自身の敗因の分析をほったらかしにしていたのでは?」という疑惑を抱いた実況アナの胡乱げな視線に、マイクは居心地悪そうに視線をそらした。

 

 仕切り直しの対峙から、今度は三郎太が仕掛けた。

「うおおっ!」

 駆け寄りざま、試合開始時のお返しとばかりに、彼はポモナの胸元へ向かって弾丸のようなドロップキックを放った。自らの体重すべてを乗せた両足が、ポモナの細い胸板を真正面から捉える。

「キャッ……!?」

 まともに食らったポモナの体が後方に飛び、衝撃を殺しきれぬままコーナーマットへと背中から激突する。衝撃で動きの止まった彼女に対し、三郎太は気合の咆哮と共に、闘気を込めて淡く輝く右肘を振り抜いた。

「遠慮しないよ……食らえ! ファイナルエルボーッ!!」

「くぅっ……!」

 心臓を貫くような衝撃がポモナを襲う。だが、三郎太の狙いはその先にある「師の面影」だった。ファイナルエルボーも師の代表的な技のひとつだが、本命はここからだ。ふらつくポモナの脚を捉えて引き倒し、手足を絡めて四の字固めの形にロックすると捩じるように回転をはじめる。モモタロウが得意としたモモ・スペシャル、その4、「ロータリーデスロック」だ。

「こ、この技は……ッ!?」

 三郎太はポモナを中心に、リング上をごろんごろんと回転し始めた。キャンバスを擦る連続音が会場に響き渡り、遠心力によってポモナは逃げ場を失い、集中した負荷が膝を破壊しにかかる。

「どうだ、ギブアップか!?」

 三郎太の声が回転の中で響く。だが、ポモナの瞳は冷静だった。彼女は叔父・アーチェリーがモモタロウと死闘を繰り広げた際、この技で敗北するのを、かつてモニター越しに見ていた。そして、どうやれば攻略できるのか、それを映像で繰り返し観察し、そして後に叔父の実感ある言葉を聞いて、自分の血肉に変えて対策として身に染みこませていたのである。

「……対策済みです。逃げる隙間は、ここです!」

 回転の遠心力に抗うのではなく、その流れに自らの体を委ね、三郎太のクラッチの「遊び」を僅かに作り出す。同時に伸ばした右手で三郎太の頬を平手打ちする事で注意を反らし、彼のロックから滑るようにポモナの脚が抜け、三郎太の回転が虚しく空を切った。自身も知らなかった脱出法で切り抜けられた驚愕に目を見開き、マットに放り出される三郎太。その背後へ、ポモナは滑り込むように回り込む。

「はぁっ!」

 ポモナの両腕が絡みつき、三郎太の首筋を完璧に捉えた。背後からのスリーパーホールドで頸動脈を圧迫され、三郎太の視界が急速に狭まっていく。

「ぐっ……うぅ……ッ!?」

 三郎太はもがき、自由な腕をポモナの脇腹へ何度も叩きつけるバックエルボーで対抗する。肉を打つ鈍い音が響く。痛みが脇腹を刺す。だが――ポモナの腕は、まだ緩まない。ほんの一瞬、迷いが胸をよぎったその時、彼女の脳裏に叔父の声が蘇った。

 

 アーチェリー・ウィリアムスはロープにもたれ、優しいがどこか厳しい眼差しで練習中の彼女を見守っていた。

「ポモナ。お前は『見えている』のに、撃たないね」

「……撃つ、のが怖いんです。外したら、反撃されたら……」

 ふにゃりと肩を落とす姪に、アーチェリーは苦笑した。

「外すことを恐れる射手は、的そのものを見失う」

 そう言って、彼はポモナの手を取る。その手は、かつて世界を射抜いた名手のものとは思えないほど温かかった。

「いいかね、ポモナ。隙を見つけたら迷わず射抜け。相手が強いほど、隙は……的は一瞬しか現れない」

「……でも、私……」

「怖いのはいい。戦士は皆怖い。私だってそうだ。だがね――」

 アーチェリーはポモナの額に軽く指を当てた。その仕草は、まるで「戦士の印」を刻むようだった。

「自信を持ちなさい。お前には、射抜く才がある。だが、才があるだけで勝てる程、勝負の世界は甘くない。ためらうな。ためらいは、戦士の弓の弦を緩ませる」

 叔父の視線は、いつもの優しさの奥に、王者としての鋭さを宿していた。

 

 ポモナは目を見開いた。

 

 過去の情景が現在と重なり、その瞳に「射手」の鋭さが戻る。

「叔父様の教えなんです。『隙を見つけたら迷わず射抜け』って!」

 三郎太が苦しさのあまり、わずかにつま先立ちになった。重心が浮いた――その刹那、ポモナは後方へと大きく反り返った。首を極めたまま反り投げる――頸動脈を締め上げた状態で落下させる、極めて危険な大技、スリーパー・スープレックスが彼女の手によって放たれる。三郎太の体は美しい放物線を描き、脳天からマットへと突き刺さった。

「が……はっ……!?」

 なかば投げっぱなしで三郎太を放置し、間髪入れず、ポモナはコーナーへと走る。純白のリングシューズがトップロープを蹴り、彼女の体は空中で独楽のように回転した。ドームの照明を反射しながら舞うその姿は、一瞬の美しさすら漂わせる。レッドアロー・シュート。スピンを加えたセントーンが、大の字になった三郎太の腹部へと正確に、そして冷酷に突き刺さった。客席から悲鳴にも似たどよめきが上がる。

「う、あぁぁぁぁ……!」

 三郎太の口から空気が漏れ、レフェリーがカウントを刻む。

「ワン! ツー!」

 だが、三郎太は執念で肩を上げた。

「……まだだ!」

 スリーパー・スープレックスへの移行を察したその瞬間、彼は自らマットをつま先で叩いてほんの僅かに投げを加速していたのだ。着弾とポモナのパワーのインパクトがほんの僅かにズレた事で、その威力を減じていた。だからこそ、続くセントーンも逃れることまではできないまでも十分覚悟して受ける事ができたのだ。

 

 立ち上がって即座に組み付いてくる三郎太の予想外の復帰速度にポモナは驚きを隠せない。大技を放った直後こそがもっとも危険なタイミングでもある。

「嘘……ッ!?」

 だが三郎太のダメージも決して軽くない。脳震盪を起こしかけて意識が朦朧とする中で、彼は夢の中で完成させた新必殺技の感覚を呼び起こしながら、彼女の首をフロントネックロックで脇に抱え込み、その左肩を右腕でショルダーロックに極める。

「……サザンライト・スープレックスだぁ!」

 変形のフロントネックチャンスリー&スープレックスとでも言おうか、三郎太のオリジナル技「サザンライト・スープレックス」は首が締まり肩を極められた状態で反り投げられるが故に踏ん張って抵抗すれば脱臼や頸椎への大ダメージに繋がりかねない、「投げられるしかない」技だ。稲妻のような速度で放たれたその技は、ポモナを背と腰から垂直にマットへ叩き落とした。

「がはっ!?」

 再び滑り込んだレフェリーがマットを叩く。

「ワン! ツー!」

 決まった、と観衆の誰もが確信した。しかし。

「……っ、……つ!」

 ポモナの肩が、カウント2.9でマットを離れた。死に物狂いのキックアウトに会場がどよめく。大技に全力を振り絞った反動で三郎太の全身は脱力し、膝をつく。新必殺技をもってしても、予選を勝ち抜き本戦へたどり着いた戦士を一撃で仕留めるには至らないのか。あの強敵ジェニーを仕留めた技であるが故に、三郎太はこの新技にかなりの自信を持っていた。それだけに衝撃は大きかった。まだ足りないという危機感に打ち震える。

 静寂と歓声が入り混じる中、ポモナは荒い呼吸を繰り返しながら、よろめきながらも起き上がる。

「き、効きました……! けど、耐えましたよ……!」

 目を見開いて膝をつく三郎太を正面から抱き着くようにして押さえつけ、正座の姿勢に押し込める。

「覚悟してください。これ、本当に……! 本当に恥ずかしいんですけど……っ!」

 ポモナの顔は、羞恥心で林檎のように真っ赤に染まっていた。彼女はマットに両ひざをついた三郎太の両手を交差させて自由を奪い、仰け反らせながら彼の顔面に跨るようにして、自らの腰を下ろしていく。

 ポモナ・ウィリアムス最大の、そして最も残酷な必殺技の体勢が整おうとしていた。

「……アップル・ミューテーション!」

 三郎太の顔面に、ポモナの股間が、そして柔らかな太腿が容赦なく押し付けられた。固唾をのんでリングを見守る会場の観客たちの静寂を切り裂くように、ズン……と、三郎太の後頭部がマットに押し付けられる鈍い音がそっと響く。

 ポモナが放った必殺の「アップル・ミューテーション」――。それは、卓越した技術と無慈悲なまでの身体的重圧が融合した、文字通り「変異」と呼ぶにふさわしい拷問技だった。

 

『う……ぁ……!?』

 あまりの技に何と表現していいか困った実況アナが絶句する。

『うっひょー!? なんつー大胆な!? あの嬢ちゃん、気弱そうな可愛い顔してとんでもない技をフェイバリットにしてやがんな!? ヒューヒュー! 羨ましいぞーッ! ボクも跨ってほしー!』

 隣でマイクが椅子をガタつかせながら身を乗り出す。興奮と呆れが入り混じった声はいっそ卑近ですらあった。

『な、何を言い出すんですか、マイクさん!? というかいいんですか、こんな技!?』

 実況アナは半ば立ち上がり、モニターとリングを交互に見ながら声を裏返らせる。

『あーん? しかし、真面目な分析すりゃ、技としちゃ理にかなってるよ? 正座状態で脚から脱出は厳しい、両腕をクロスで抑えられて振りほどく力が籠められない。さらに正座からあおむけにされて後頭部をマットに押し付けられちゃ逃げようもない。ついでに呼吸まで阻害と、極めて脱出困難な技と言える。おまけに抵抗をやめたら両肩ついてカウント入っちまうかもしれないから、暴れ続けなきゃならないので体力消耗も著しい……整理すると思った以上にヤバイね』

 マイクは腕を組み、真顔でモニターを覗き込む。先ほどまでの軽口とは打って変わって、分析の声は低い。

『た、たしかにその通りです! これは宮川三郎太、絶体絶命かーっ!?』

『絵ヅラは最悪だけどね』

 気を取り直して叫んだ実況アナが、マイクの身もふたもない一言に再び静止する。一瞬の沈黙が、放送席に流れた。

『……宮川三郎太、絶体絶命かーっ!?』

『あ、スルーした』

 

 三郎太の両腕を交差させ、その自由を完全に奪った上で、ポモナは自らの腰を深く沈める。彼女の緑色のショートパンツと白いタイツ越しに、柔らかくも強靭な太腿の筋肉が三郎太の側頭部を万力のように締め上げ、その股間が三郎太の鼻から口元を完全に封じていた。視界を完全に遮られ、肉の感触とタイツの繊維の匂い、そして逃げ場のない圧迫感だけが三郎太の顔面を覆う。

「お、お願いですから早くギブアップしてください! 私もこれ以上、こんな格好でいたくないんですぅーっ!」

 ポモナの叫びは悲鳴に近かった。サイドポニーテールを振り乱し、顔を真っ赤にして涙を浮かべるその姿は、まるで真っ赤な林檎のようで、およそ勝者のそれではない。だが、技の威力は本物だった。全身を封じられながらももがき続ける事を強要されながら、呼吸をも妨げられた三郎太の肺が、酸素を求めて激しく痙攣する。逃げ場はない。首を振ろうにも、ポモナの股関節がガッチリと固定しており、一ミリの隙間も許さない。両ひざをマットに付いた状態で仰向けに倒されて顔面を抑えられている以上、足からの脱出も難しい。アオオニ・マイクの解説が正しい事をひとつひとつ自ら確認していくことになり、三郎太の意識を絶望が徐々に侵食し始める。

 意識が遠のき、暗闇が迫る中、三郎太は混乱していた。その脳裏には試合前に聞いていた彼女のプロフィールと、自らの境遇が重なって見えている。失踪した師・モモタロウの幻影。周囲からの「二代目」的なポジションとしての期待。それは、目の前で羞恥に震えながら技をかけている、ポモナが背負う「アーチェリー・ウィリアムスの再来」という重圧と同じ色の鎖だった。

「……んぐっ、もがっ……!」

 三郎太の唇が、ポモナの太腿の肉を押し上げ、熱い吐息と共に言葉を紡ぐ。それは、命を繋ぐための懇願ではなく、魂の共鳴だった。

「……僕も、期待を背負うのが怖かった……君と同じだ! 周りが本当に『自分自身』を見ているのか不安に思った事もある!」

 その言葉は、肉体を介した肉声、くぐもった振動となってポモナの体に直接伝わった。ポモナの動きが、目に見えて止まる。だが、彼女の繊細すぎる感性は、三郎太の吐露を意外な方向へと変換してしまった。

「えっ!? ……そんな、いきなりいっしょに背負おうなんて……」

 ポモナの脳内で、三郎太の言葉が「共に人生を、未来のプレッシャーを分け合おう」という熱烈な愛の告白として再構築される。小心者で耳年増な彼女にとって、極限状態でのこの言葉は、どんな甘い囁きよりも破壊力があった。さらに追い打ちをかけるように、必死に言葉を紡ごうとする三郎太の口唇が、熱い吐息と共に彼女の股間の布地越しに激しく動く。

「でも、逃げたくなんかない! 君の技からだって、怖いけど逃げ出したくないっていう必死さが伝わってくるぞ!」

「逃げ出したくないって……。それって……っ! ひゃんっ、そこ……あたって……っ!」

 物理的な刺激と精神的なパニックが同時に頂点に達した。あまりの動揺に、ポモナの腰が、一瞬だけふわりと浮き上がってしまう。その一瞬、太腿の締め付けが緩む。三郎太は反射で頭を引き抜き、交差されていた両腕を無理やり解放する。体勢を崩したポモナの上体が後ろへ倒れ込むのを利用し、そのしなやかな体を自らの腕の中へと引き寄せた。

「逃げずに立ち向かうっ! そして、チャンスも逃すもんかっ!」

 流れるような動作でポモナの脚をインディアン・デスロックの形に極め、密着してコブラツイストのように上半身を捩じり上げる。モモタロウが得意としたモモ・スペシャル、その2――「アグラツイスト」だ。それは単なる力任せの絞め技ではない。相手の体温を感じるほどの間近で、その呼吸を読み、逃げ場を完全に奪う精神の檻だ。

「あ、あああああ……!? 」

 ポモナの口から、先ほどまでの威勢は消え失せていた。膝を極められながら、上体を捩じり反らされ、膝関節だけでなく脇腹から脇の下にかけても抉られるような激痛が走る。だが、不思議なことに、彼女の表情に苦痛の色は少なかった。背中に密着する三郎太の胸板と、抱きしめるように回された腕から伝わる温かさと、先ほどの「告白」への勘違いが混ざり合い、痛みさえもが心地よい痺れへと変わっていく。

「ふぁぁあぁ……ッ!? ダ、ダメですこんな……ァ……っ♡ ギ、ギブアップ……!!」

 羞恥と陶酔が入り混じった恍惚とした表情を浮かべ、ポモナの手が三郎太の背中を三度、力強く叩いた。ギブアップ宣言を確認したレフェリーがゴングを要請し、ドームの喧騒を切り裂いて試合終了のゴングが鳴り響く。

 

 カンカンカーン!

 

 熱狂の渦がドームを包む。三郎太はゆっくりと技を解き、肩で息をしながら、自分と同じように疲れ果てたポモナへと手を差し伸べた。

「だ、大丈夫……。立てるかい?」

 三郎太は、よろけるポモナの肩を支え、彼女の目を見据えた。そこには、先ほどまでの激しい闘志ではなく、同じ重圧に立ち向かう同志への深い敬意が宿っていた。

「……君の技、凄かったよ。ロータリーデスロックをあんな風に返されるなんて思わなかった。……僕たち、似たもの同士だな。次は、お互い『自分自身の技』をさらに磨いて『自分自身の意志』で、もっと熱い試合をしよう」

 ポモナはその手を取り、震える膝を必死に支えて立ち上がった。彼女の瞳からは、もう不安な影は消え、代わりに新しい光が宿っていた。周囲の観衆が向ける「期待」が、今は自分を押し潰す石ではなく、背中を押す風のように感じられる。三郎太の言葉を「未来を共にする約束」と信じて疑わない彼女にとって、この敗北は人生で最も輝かしい転換点となったのだ。

「は……はいっ。……あの、三郎太さん」

 花道を引き上げる際、ポモナは一度だけ足を止め、振り返った。その頬はまだ赤らんだままだが、その微笑みには明確な意思があった。

「あの、さっきの『約束』……。私、いつか、聞き直しに来てもいいですか?」

 三郎太は、彼女が何を指して「約束」と言っているのか分からず、ただ困惑したように首をかしげた。「もっと熱い試合をしよう」と言う話ならさっきではなく今したばかりだが。そう悩みつつ、彼女の晴れやかな顔を見て、ただの言葉の綾だろうと結論付け、笑顔で頷いた。

「ああ、いつでも待っているよ」

「……はいっ!」

 ポモナの弾むような返事がドームの天井に吸い込まれていく。一方の三郎太は「よっぽどリベンジしたいんだな」と、彼女の闘志をこれまた自分なりに解釈し、納得を得て頷いた。

 ドームを埋め尽くす歓声は、二人の若きレスラーが、偉大な先達の影を乗り越え、自分たちの物語を歩み始めたことを祝福しているようだった。

 

────────────────────

 

 ドームの喧騒を遠くに聞きながら、シロオニ・ベスは控え室の長椅子に腰を下ろしていた。彼女は医務室から戻って来たばかりである。黒と赤のビスチェトップに身を包み、豪華なアラベスク模様のレギンスが引き締まった脚を包んでいる。予選での大流血戦を制し、本戦でも闘牛士のようなフェルナンドを執念で沈めてきた彼女の体には、激闘の痕跡と隠しきれない疲労があったが、そのグレイッシュブルーの瞳は、室内のモニターに向けられたまま凍りついていた。

 画面には、試合を終えたばかりの三郎太とポモナの姿がアップで映し出されている。高感度の集音マイクは、二人の吐息さえも拾い上げ、会場のスピーカーを通じて、そしてこの控え室のスピーカーを通じても、残酷なほど鮮明な「音声」を届けていた。

『……はいっ。……あの、三郎太さん』

 花道を引き上げる際、ポモナが足を止め、振り返る。その頬は林檎のように赤らみ、潤んだ瞳には明確な、あまりにも明確な「女」の意思が宿っていた。

『あの、さっきの「約束」……。私、いつか、聞き直しに来てもいいですか?』

 ベスの眉間がピクリと跳ねた。 「……約束? さっきの……?」 脳内再生されるのは、試合中のあの光景。ポモナが三郎太に跨り、顔面を股間に押し付けていた、あの破廉恥極まる拷問技の最中だ。あそこで一体どんな密約が交わされたというのか。画面の中の三郎太は、何を指しているのか分からず困惑したように首をかしげている。だが、彼は持ち前の「お人よし」を発動させた。ポモナの晴れやかな笑顔を見て、深い意味などない言葉の綾だろうと自分勝手に納得し、あろうことか満面の爽やかな笑みで応えたのだ。

『ああ、いつでも待っているよ』

『……はいっ!』

 弾けるようなポモナの返事と共に、ドームを揺らす大歓声が沸き起こる。実況アナが『爽やかな光景です! 互いの健闘を称え合い、再会を誓いました!』と興奮気味に叫び、解説のアオオニ・マイクが『そうかなぁ……?』と首を傾げる中、控え室の温度だけが急速に氷点下へと叩き落とされていく。

 先ほどまで近くでモニターを見ていた美樹は構造を神速で理解してひきつった笑顔を浮かべ、忍び足で気配を全力で消して控室から逃げ出していた。友たるベスを見捨てたわけではない。血に染まったバンダナの代わりを取りに行くだけなので仕方がない。仕方ないのだ。ベスのセコンド係である練習生二人も危機感だけは伝わったか次々に廊下へと我先に脱出していく。

「……は?」

 ベスの口から、心底冷え切った声が漏れた。持っていたスポーツドリンクのペットボトルが、ぐしゃりと一瞬で歪み潰れ、中身が溢れて床を濡らす。

「爽やか……? どこがですか。あれは完全に『落ちた』女の顔です。そして三郎太さん、あなたという人は……。無自覚にそんな言葉を、あんな顔で……!」

 三郎太が寝言で知らない女の名を呼んだ時でさえ、アルミ盆で全力て叩き起こしたベスである。全世界に中継されている大舞台で、股間を押し付けてきた相手と「再会の約束」を交わすなど、万死に値する所業だった。

「フフ……フフフフ……。いい度胸ですね、スイスの英雄の後継さん。日本に来るというのなら歓迎しますよ。ただし、それは私という『白鬼』が待つ地獄への招待状です」

 ベスは立ち上がり、膝下まである金色の編み上げロングブーツを床に強く鳴らした。アッシュブロンドのショートボブを揺らし、画面の中の「無自覚な天然タラシ」をも、ついでに鋭い眼光で射抜く。

「いろいろな意味で、覚悟しておいてくださいね……」

 モニターの中では、何も知らない三郎太が観衆に手を振っている。その無垢な笑顔が、今のベスには火に油を注ぐ何よりも凶悪な挑発に見えていた。

「私をここまで本気にさせて……本戦で当たる時が楽しみです。ええ、本当に楽しみです♪」

 ベスは不敵な、それでいて底知れぬ嫉妬を孕んだ微笑を浮かべると、いつの間にか無人になっていた控え室に仁王立ちする。

 

 その背中からは、リング上での激闘をも凌駕する、苛烈な闘気のオーラが立ち昇っていた。

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